聖座直轄教会から届いた聴取要請は、驚くほど丁寧だった。
封蝋は正式なもので、紙質も、文面も、言葉の選び方も、非の打ちどころがない。王国への配慮、王国支部への敬意、そして私という聖女の功績への言及まで、きれいに整えられていた。
禁忌の島に関する証言確認のため、聖座は聖女リィナ・エルシアに聴取への協力を求める。
聴取は法国本土ではなく、王国内の聖座直轄教会にて行う。
本人の安全と名誉に配慮し、王国支部および王国側の立会いも認める。
王国との関係を損なう意図はなく、これは断罪ではなく、混乱を防ぐための確認である。
どこまでも丁寧だった。
丁寧であるからこそ、無下に拒みづらかった。
王国支部の執務室でその文面を読み終えた私は、しばらく何も言えなかった。
机の上には、いつものように書類が積まれている。地方教会の報告、施療院からの相談、学術院からの照会、王宮への返答。
だが今は、どれにも手が伸びなかった。
「……聴取、ですか」
声に出すと、胸の奥がひやりと冷えた。
王国支部の上級神官は、渋い顔で頷いた。
「文面上は、極めて穏当です。王国の主権にも、あなたが王国支部所属であることにも配慮している。法国本土へ呼び出す形ではないことも、表向きは譲歩と言えるでしょう」
「表向きは、ですね」
私が静かに言うと、上級神官は否定しなかった。
王国政府も、この聴取要請を強く警戒していた。王国支部も同じだった。私自身、そこに底知れぬ危険があることは痛いほど理解している。
だが、完全に拒否すればどうなるか。
聖座から逃げた。
王国が聖女を匿っている。
王国は禁忌の島の情報を独占し、主人との間に密約があるのではないか。
そう疑われる。
それは、王国にとっても、私にとっても、そしてライラ達にとっても、致命的な引き金になりかねない。
目を伏せると、ライラの顔が浮かんだ。
状況をよく飲み込めないまま、来客だと判断して調査団を迎え入れた少女。
世界征服や人類滅亡を問われ、本気で困惑していた少女。
初めての客人がすぐ帰ってしまったことを、ただ寂しそうにしていたあの子。
魔王などではない。
けれど、世界はライラを知らない。知らないまま、『禁忌の島の主人』という不気味な言葉だけを見ている。
「……応じます」
私は言った。
上級神官が顔を上げる。
「本気ですか」
「拒否すれば、余計に疑われます。聖座が何を知りたがっているのかも、この目で確認しなければなりません」
「危険です」
「分かっています」
分かっていた。
それでも、まだ私の中には、小さな希望が残っていた。
話せば、少しは分かってもらえるかもしれない、と。
すべては話せない。ライラの名前も、姿も、ファミリア達の詳細も、シルヴィアやカイザーのことも、戦力規模も話せない。
けれど、少なくとも言えることはある。
ライラに外界への敵意はなかったこと。
彼らはただの魔物の軍勢ではなく、そこには確かな生活と秩序があったこと。
恐怖だけで断じてはいけないこと。
その程度なら、きっと伝えられる。
そう思いたかった。
「条件を出します」
私は顔を上げた。
「聴取は王国内で行うこと。王国支部側の者が同席すること。王国側にも記録を残すこと。法国本土への移送は絶対に認めないこと。聴取の範囲は、禁忌の島に関する証言確認に限ること」
上級神官は深く息を吐き出した。
「聖座へ伝えます。こちらからも信頼できる同行者を出しましょう」
「お願いします」
静かに頭を下げる。
私の手は、膝の上で小さく震えていた。
怖くないわけがない。
ただ、怖いからといって黙っていれば、もっと最悪な形で話が進む。それを知っていたから、私は立つしかなかった。
その時はまだ、自分の言葉が、自分を縛る冷徹な鎖に変えられるのだとは知らなかった。
◆
聖座直轄教会は、王国内にあった。
だが、その空気は王国支部とはまったく違っていた。
王国支部には、人の温かい温度がある。
施療院へ向かう神官の足音。地方教会から届く、泥のついた報告書。神学校の生徒達のざわめき。
忙しく、騒がしく、少し雑然としていて、それでも誰かの生活に繋がっている場所。
対して、聖座直轄教会は白く、静かで、冷徹に整っていた。
廊下は鏡のように磨き上げられ、足音が無機質に響く。壁には精緻な聖印が掲げられ、窓から差し込む光は、計算されたように床へ落ちている。
祈りの場としては美しい。
だが、私には温度が低すぎた。
王国の中にあるのに、ここだけが聖都の出先機関のようだった。
「聖女リィナ・エルシア殿。ご足労いただき、感謝いたします」
出迎えた神官は、深く礼をした。
私も丁寧に礼を返す。
同行者は、王国支部の神官一名、王宮から派遣された文官一名、王国側の護衛二名。
ただし、聴取室へ入ることを許されたのは、私と王国支部の神官、王宮文官だけだった。護衛は外で待機となる。
それも、手続き上は不自然ではなかった。
不自然ではないことが、かえって怖かった。
聴取室は広すぎず、狭すぎもしない。長卓があり、向かい側には聖座側の高位神官と記録官が座っている。余計な装飾はない。
尋問室ではない。
少なくとも、最初はそう見えた。
「それでは、禁忌の島に関する証言確認を始めます」
高位神官は、落ち着いた声で言った。
「リィナ・エルシア殿。あなたのこれまでの功績を、聖座は重く受け止めています。本日の聴取は、あなたを罰するためのものではありません」
「承知しております」
背筋を伸ばして答えた。
最初の質問は、淡々としたものだった。
いつ遭難したのか。
どのように漂着したのか。
どの程度滞在したのか。
誰に救助されたのか。
その者は人間だったのか。
竜のような存在に乗って帰還したのは事実か。
調査団に同行したのは事実か。
島の主人に敵意はあるのか。
なぜ王国は詳細を伏せているのか。
ひとつひとつ、言葉を選びながら答えていく。
「私は海難に遭い、とある島へ漂着しました。そこで、島の主人と呼ぶべき人物に救助されました。その方は私に敵意を示さず、体調が戻るまで世話になり、帰還の手段を用意していただきました。王国への敵意は、少なくとも私が見た範囲では確認していません。また、島にいた存在達については、単なる魔物の群れと断定することはできません」
記録官の筆が走る。
私は続けた。
「生活がありました。役割があり、意思疎通があり、主人との確かな関係がありました。恐怖を覚える存在もいましたが、恐怖だけで判断すべきではありません」
高位神官は静かに頷く。
表情は変わらない。だが、記録官の筆先が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。
「その存在達を、あなたは何と呼ぶのですか」
「……ファミリア、と」
「それは、あなたが命名したものですか」
「私が、恐怖だけで分類しないために選んだ言葉です。魔物、軍勢、討伐対象。そうした言葉だけでは、私が見たものを正しく表せませんでしたから」
真っ直ぐに答えた。
高位神官は、また深く頷いた。
その頷きが理解なのか、判断材料の整理なのか、私には分からなかった。
聴取は数時間続いた。
私は嘘をつかなかった。
だが、すべてを話したわけでもなかった。
ライラの名前は出さない。年齢も姿も性格も詳しく語らない。シルヴィアの詳細も、カイザーも、海の子達の規模も、拠点の構造も、すべて伏せた。
ライラ達を守るためだ。
だが、聖座側の記録では、その沈黙は別の意味を持ち始めていた。
不自然な秘匿。
島側への情。
私はそれを、完全には分かっていなかった。
ただ、慎重に話せていると信じていた。
やがて、高位神官が書類を閉じた。
「ご協力、感謝いたします。本日の聴取は、ひとまず以上です」
ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
王国支部の神官も小さく息を吐き、王宮文官が静かに記録をまとめる。
終わった。
話し合いの余地はある。
そう思った、その時だった。
別の扉が、不気味な音を立てて開いた。
◆
入ってきた者達を見て、背筋が完全に凍りついた。
黒に近い法衣。
白い外套。
胸元に刻まれた、『聖座異端審問局』の印。
無駄のない足音の後ろには、武装した教会護衛が冷徹に控えている。
先頭に立つ男は、三十代ほどに見えた。整った顔立ちに、鋭い目。だが、威圧的な態度は取らない。
むしろ、不気味なほど礼儀正しく、静かだった。
「聖女リィナ・エルシア殿」
男は一礼した。
「サイラス・ノクト。聖座異端審問局所属の審問官です。引き続き、いくつか確認させていただきます」
立ち上がりかけていた私は、手を止めた。
王国支部の神官が、すぐに鋭い声を上げる。
「本日の聴取は終了したはずです!」
「はい。通常聴取は終了しました」
サイラスは穏やかに答えた。
「しかし、重大な疑義が生じました。本人保護のためにも、確認は必要です」
「本人保護だと?」
神官の声が硬くなる。
「異端審問局が入ることを、事前に通知されていません」
「通知の必要がない段階であると判断しました。これは正式な断罪ではありません。あくまで追加確認です」
言葉は丁寧だった。
だが、その丁寧さが、強固な壁になる。
王宮文官が表情を険しくしたが、すぐには動けない。ここは聖座直轄教会の中であり、私に乱暴はされていない。彼らは、手続きの外に出ていないように、完璧に見せかけている。
私は悟った。
これは聴取の続きではない。
審問だ。
サイラスが席に着いた。先ほどの高位神官と記録官は退室し、新しい記録官が筆を構える。
「では、確認を始めます」
静かな声だった。
「あなたは先ほど、島の主人について、敵意なしと評しましたね」
「現時点で、王国への敵意を確認していないと申し上げました」
「それは、その者が人類に害を及ぼさないと断言するものですか」
「いいえ。断言ではありません。私が観察した範囲の証言です」
「では、その者が人類に害を及ぼす可能性は否定できない」
「未知の存在について、可能性を完全に否定することはできません」
「なるほど」
サイラスは頷いた。
「あなたは、その者を『魔王』ではないと断言できますか」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
王国支部の神官が、強く息を呑む。
「魔王と断定する根拠は、私が見た限りありません」
「質問に答えてください。魔王ではないと断言できますか」
「私は、魔王という言葉を軽率に用いるべきではないと考えます」
「断言はできない、ということですね」
「違います。私は、断定の前提が成立していないと申し上げています」
サイラスの表情は、ピクリとも動かない。
「禁忌の島に棲む存在群を、魔物の軍勢ではないと証言するのですか」
「単なる魔物の軍勢と断定するには、観察された生活実態と矛盾します。食事、休息、役割分担、採集、整理、主人との意思疎通。そうしたものが見られました」
「それは、魔が人を欺くために作った、偽りの生活ではありませんか」
私の眉が、わずかに動いた。
まだ、声は冷静に保てていた。
「その可能性を論じるのであれば、まず観察事実を正確に記録すべきです。最初から偽りと断じれば、何も見えなくなります」
「あなたは、禁忌の島の存在達を庇っているのですか」
「正確に語ろうとしているだけです」
「あなたは、竜のような存在に名を与えていましたね」
喉がわずかに詰まる。
シルヴィア。
雷を帯びたような翼。高空を飛んだ背。怖くて、何度も乗ったあの温かい背。王国まで送ってくれた、ライラに怒られるとしょんぼりする竜。
「……名は、ありました」
「その竜は、あなたを王国まで運んだ」
「はい」
「聖女であるあなたが、禁忌の島の竜に背を預けた」
「帰還の手段として必要でした」
「その竜に、親しみを抱いていましたか」
「親しみと信仰の逸脱を混同しないでください。私は聖座を裏切っていません。禁忌の島の主人を信仰対象としたことも、竜を聖なるものとして崇めたこともありません」
「では、聖座よりも、その島の主人を信じているわけではない」
「聖座に属する者としての信仰と、私を助けてくださった方への感謝は、別のものです」
「魔王があなたを助けた場合でも、感謝するのですか」
胸の奥で、何かが軋んだ。
誘導だ。
分かっている。
冷静でいなければならない。
ここで感情を乱せば、すべてが歪んで記録される。
深く息を整える。
「前提が誤っています。その方を魔王と断定する根拠はありません」
「では、魔王ではないと?」
「軽率な断定を避けるべきだと申し上げています」
「あなたは先ほどから、禁忌の島の主人に対する断定を執拗に避け続けている。魔に情を移した者は、しばしばそう言います」
王国支部の神官が立ち上がりかけた。
「審問官殿、その言い方は――」
サイラスは、そちらを見向きもしなかった。
ただ、私だけを冷酷に見つめていた。
「魔王は、あなたに優しかったのですね」
静かな言葉だった。
怒鳴られていないからこそ、深く、毒のように刺さった。
「魔物の群れは、あなたの前では牙を隠していた。偽りの竜に背を預けた聖女が、今もそれを救いだと思っている」
「違います」
声が少し低くなった。
「あなたは、魔王の巣を生活と呼んだ」
「違います」
「恐るべきことです。魔は、かくも温かい顔で近づくのですね」
「違います」
「その主人は、人を欺くために少女の姿を取っていたのではありませんか」
その瞬間。
私の中で、何かが完全に弾けた。
ライラの姿が浮かぶ。
食事を出してくれた少女。シルヴィアに乗る練習を、怖かったらやめていいと言ってくれた少女。帰る場所があるなら帰った方がいいと、当たり前のように受け止めてくれた少女。
王国調査団を前にしても、敵ではなく客として迎えた少女。
初めての客人がすぐ帰ってしまって、寂しそうにしていたあの子を。
人を欺くための姿だと。
魔王の仮面だと。
そう、汚された。
「違います!!」
私の叫びが、部屋に激しく響いた。
王国支部の神官が息を呑み、サイラスの目がわずかに細くなる。
私はもう、止まれなかった。
「彼女は魔王ではありません! あの子達は、あなた方が言うような魔物の軍勢ではないのです! 私は見ました。あの島で、彼女達はただ穏やかに暮らしていました! 食べて、眠って、遊んで、採集して、帰る場所を持っていました! ライラさんは――」
そこまで言って、ハッと息を止めた。
名前を出してしまった。
けれど、その先を続ける前に、ぎりぎりで飲み込んだ。
それでも、もうすべてが遅かった。
部屋の隅にいた別の審問官が、突然、勝ち誇ったように大きな声を上げた。
「聖女様がご乱心になられた!!」
それは、私に向けた言葉ではなかった。
扉の外にいる者達へ聞かせるための、冷酷な合図の声だった。
「違う!」
王国支部の神官が叫んだ。
「乱心などしていない! あなた方が誘導したのです!」
だが、教会護衛が冷徹に動いた。
サイラスは静かに言った。
「記録を」
記録官の筆が走る。
冷たいものが、私の身体の芯へ沈んでいくのを感じた。
私の言葉が、別の都合のいい形に変えられていく。
聖女リィナ・エルシア殿は審問中、著しい感情の錯乱を示した。
禁忌の島の主人を魔王ではないと強く否定した。
島に棲む存在群を擁護し、聖座への情報提供に不自然な制限を加えた。
魔王疑惑に関わる存在を庇護する発言を連発した。
完全な嘘ではない。
確かに私は感情的になったし、ライラが魔王であることを否定し、情報を伏せている。
だが、意味が違う。
すべて、意味が違うのだ。
「……違います」
声が震えた。
「私は、正しく伝えようと……」
「聖女リィナ・エルシア殿」
サイラスは静かに告げた。
「あなたには、禁忌の島との接触による影響が疑われます。本人保護、および追加審問のため、一時的に身柄をお預かりします」
「本人保護だと?」
王国支部の神官が怒りを露わにした。
「これは拘束でしょう!」
「正式な断罪ではありません。聖座は真実を明らかにするだけです」
サイラスは、少しも揺らがなかった。
その言い方が、何より怖かった。
真実を明らかにする。
そう言いながら、彼らは最初から、自分たちの欲しい形の真実を作ろうとしている。
私は抵抗しなかった。
抵抗すれば、さらに事態が悪化すると分かっていたからだ。
立ち上がると、足元がわずかに揺れた。
話せば、少しは分かってもらえるかもしれない。
そう思っていた自分が愚かだった。
相手は最初から、分かるためではなく、私をはめるために来ていたのだ。
◆
発表は、早かった。
聖座本部側の文面は、どこまでも硬かった。
――聖女リィナ・エルシア殿について、禁忌の島に関する証言中、重大な疑義が生じた。本人保護および信徒の安全確保のため、聖座異端審問局が一時的に身柄を預かる。
そこに『魔女』という言葉はなかった。
魔王に魅入られた、とも書かれていない。
あくまで一時的な身柄預かり、本人保護。
すべて整った言葉だった。
王国支部側も、すぐに発表を出した。
――リィナ・エルシア聖女は現在、追加聴取を受けている。王国支部は彼女の功績と人格を信じ、慎重な対応を求めている。
だが、二つの発表が並んだことで、人々の疑念はかえって爆発的に膨らんだ。
市場で、酒場で、王都の路地で、噂はあっという間に姿を変えた。
「聖女様が異端審問官に拘束されたらしい」
「禁忌の島の話をして乱心したとか」
「魔王を庇ったって聞いたぞ」
「竜に乗って帰ってきたのは、やっぱりおかしかったんだ。聖竜じゃなくて、魔竜だったんだ」
そして、誰かが小さく言った。
「……魔女」
最初は、小さな囁きだった。
次に、別の場所で誰かが繰り返した。
魔女。
魔女リィナ。
魔王の竜に乗った聖女。
まだ公式には、誰も私を魔女とは呼んでいない。
だが、民衆の中では、もう私の名前が変わり始めていた。
◆
私が入れられた部屋は、清潔だった。
白い壁。小さな窓。簡素な寝台。机と椅子。水差し。食事も出て、乱暴に扱われたわけでも、縛られているわけでもない。
部屋には、祈るための小さな聖印さえ置かれていた。
表向きは保護室。
実態は監禁。
その徹底された丁寧さが、かえって私を精神的に追い詰めた。
雑に扱われたなら、理不尽だと叫べたかもしれない。
けれど、すべてが整っている。
自分は丁寧に、静かに壊されている。
そう思った瞬間、息が詰まりそうになった。
「……誤解です。きちんと話せば、まだ……」
小さく呟くが、言葉が続かなかった。
きちんと話した結果が、これだ。
廊下の向こうから、低い話し声が聞こえる。
「……魔女だって」
「乱心したらしい」
「聖女様だったのにね」
息を止めた。
聖女だったのに。
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
孤児だった。
努力して、神学校に通った。
夜遅くまで術式を書き、何度も失敗し、何度も直した。
施療院で人を助け、地方教会を回った。監査で嫌われることもあった。けれど、助けられるはずだった人を帳簿の外へ追いやらないために、記録を見続けた。
その私の人生が今、たった一つの『魔女』という言葉で、すべて汚され、塗り替えられていく。
膝の上で、手をきつく握りしめた。
泣きたくなかった。
泣けば、本当に心が折れてしまう。
だから、聖印に手を伸ばして祈ろうとした。
けれど、祈りの言葉が出なかった。
何を祈ればいい?
自分を守ってください。
王国を、ライラを、ファミリア達を守ってください。
民衆を安心させてください。
全部を同時に祈ることが、今の私にはできない気がした。
誰かを守る祈りが、別の誰かへの刃になるかもしれないという恐怖が、喉を完全に塞いでいた。
◆
拘束されている間、廊下の声や食事を運ぶ修道女の表情から、私は多くの不穏な噂を聞いた。
「義勇兵の受付が始まるらしい」
「聖騎士団には待機確認が出ている」
「港で船を押さえているそうだ」
「『人類防衛献金』と呼ぶらしい。魔王討伐の準備だ」
顔から血の気が引いた。
自分のことより、その言葉の方が何倍も怖かった。
聖戦。
まだ正式には決まっていないが、社会はもうそれを前提に動き始めている。
私だけが知っている。
ライラは魔王ではないし、ファミリア達は侵略軍ではない。シルヴィアは、自分を慎重に運んでくれた優しい存在だ。
けれど、もし法国が、聖戦の名でライラの家へ攻め込めば――ライラは戦う。ファミリア達も戦う。
そして、恐らく圧倒的に勝ってしまうだろう。
勝つからこそ、もっと恐ろしいのだ。
法国の兵士達が死ぬ。
義勇兵が死ぬ。
そして外の世界は言うだろう。
――やはり魔王だった。
人を殺した。
世界の敵だ、と。
攻め込まれたから、家族を守っただけなのに。
寝台に座ったまま、両手で顔を覆った。
息が苦しい。
ライラが、戦って勝つことで、さらに世界から魔王にされていく。
その未来が、あまりにも残酷で、怖かった。
◆
その夜、部屋を訪れたのは、ひとりの修道女だった。
穏やかな顔をしているが、目の下には深い疲れがあった。施療院や孤児院に関わる者特有の疲れ方。
燭台派に近い人物だと分かった。
修道女は食事の盆を置き、低い声で言った。
「リィナ様」
「……様は、もう付けない方がいいのではありませんか」
苦く笑うと、修道女は静かに首を振った。
「私は、あなたが人を救ってきたことを知っています。施療院で、あなたの術式に助けられた子もいます。だから、信じたいのです」
信じたい。
その言葉の中に、信じきれない揺れがあった。
修道女は、胸元の聖印を強く握りしめていた。
「ですが、私達には孤児達も、病人も、逃げる足を持たない老人達もいます。もし、本当にあの島の主人が魔王だったなら、私達はどうすればよいのですか」
言葉を失った。
利権を狙う金香派の悪意なら、憎めばよかった。
けれど、目の前の彼女は違う。
本気で怯え、本気で人々を守りたいと願っている。
その恐怖は、純粋な善意だった。
問題は、悪意だけではない。
人々が本気で怖がっているから、噂は止まらないし、聖戦の空気は消えないのだ。
恐怖は、善意の顔をして広がっていく。
「……魔王では、ありません。少なくとも、私が見たあの方は、そんな存在ではありませんでした」
「でも、あなたは全部を話せない。それが、人々をもっと怖がらせています」
「……分かっています」
話さないほど疑われ、話せばライラ達を危険に晒す。
どちらを選んでも、誰かが怖がり、誰かが傷つく。
膝の上で手を握りしめた。
「私は……どうすればよかったのでしょう」
修道女は答えなかった。
ただ、深く頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉じ、鍵の音が響く。
私はまた、一人になった。
◆
夜が深くなっても、眠れなかった。
部屋の完璧な整い方が、牢の形をして私を締めつける。小さな窓から王都の空を見つめた。雲の向こう、海の向こうの島を思う。
ライラは何もしていない。
ただファミリア達と暮らし、私を助け、食事をくれ、帰り道を用意してくれただけだ。
なのに、世界は彼女を魔王にしようとしている。
その原因の一つは、私だ。
私が流れ着き、シルヴィアに乗って帰ってきて、彼女を庇ったから。
何一つ悪意でしたことではないのに、結果としてライラの家を世界の恐怖に晒してしまった。
「……ごめんなさい」
声が零れた。
誰に向けた謝罪なのか、もう分からなかった。
ライラへか、自分を信じてくれた人々へか。
聖印に手を添え、今度こそ祈ろうとしたが、やはり喉が詰まった。
王国を。
法国を。
ライラを。
民衆を。
すべてを守ってください。
全部が本心だったが、全部が同時には叶わない現実がそこにあった。
その瞬間、押し殺すように、静かに涙が流れた。
「ごめんなさい……」
暗闇の中で、誰も答えてはくれなかった。
◆
数日後、私は呼び出された。
部屋へ入ってきた神官は、感情を抑えた顔をしていた。
「聖女リィナ・エルシア殿」
その呼び方に、かすかに目を伏せた。
「追加審問の結果、聖座はあなたの聖女位を停止し、公開断罪式を執り行うことを決定しました」
息を止めた。
「公開、断罪式……」
「はい」
神官の声は、どこまでも平坦だった。
「禁忌の島との接触による影響、魔王疑惑に関わる存在への庇護発言、ならびに聖座への情報提供に対する不自然な制限。これらを総合し、聖座はあなたを、通常の証人として扱うことはできないと判断しました」
喉が、乾く。
「私は……」
言いかけた言葉は、途中で消えた。
何を言っても、もう記録の中で形を変えられる。
神官は、わずかに目を伏せた。
「公開断罪式の後、浄化処刑が行われます」
世界から音が消えた。
処刑。
その言葉が、あまりにも静かに置かれた。
「……処刑」
自分の声が、遠く聞こえた。
「正式に、ですか」
「はい。聖座の決定です」
神官は感情を見せなかった。あるいは、見せないようにしていた。
「これは魔王の影響を受けた可能性のある者を、信徒の前で浄化し、混乱を鎮めるための儀礼です。あなた個人への憎悪ではありません」
その言葉に、何かが胸の奥で崩れた。
憎悪ではない。
だから、処刑する。
怒りではない。
秩序と信仰のために殺す。
その整った理屈が、あまりにも恐ろしかった。
「……聖戦は」
震える声で尋ねる。
「正式な発表はまだありません。私から申し上げられることはありません」
その沈黙が、冷徹な答えだった。
顔から血の気が引いていく。
正式発表はまだ。
だが準備は進んでいる。
船、護符、人類防衛献金、聖騎士団、義勇兵、魔王討伐。
すべては時間の問題だ。
胸元を押さえた。
痛くて、息がうまくできない。
自分が殺されることよりも、その先の未来が怖かった。
ライラ、シルヴィア、カイザー、主任、みんなが暮らすあの温かい食卓へ、人々が聖戦の旗を掲げて向かっていく。
膝から崩れそうになるのを、何とか堪えた。
ここで倒れれば、また「錯乱」と記録され、魔王に魅入られた証拠にされるだけだ。
聖女でなくなっていく私が、まだ聖女のように背筋を伸ばそうとしていることが、ひどく滑稽だった。
「準備を。まもなく、会場へ移動します」
私は、静かに頷いた。
◆
廊下へ出ると、遠くから地鳴りのような声が聞こえた。
教会の外に集まった民衆の声だ。
「魔女」
「魔女リィナ」
「光を裏切った女」
「偽りの竜に魅入られた」
目を閉じた。
言葉の刃が、身体に突き刺さる。
聖女と呼ばれていた名が、魔女に変えられていく。
そして、その魔女は、正式に処刑されることになった。
けれど、今一番つらいのは、そこではなかった。
自分が魔女と呼ばれることよりも。
自分が処刑されることよりも。
ライラが世界によって魔王にされていくことの方が、ずっと、ずっと怖かった。
――ライラさん、ごめんなさい。私が、うまく守れませんでした。
扉の向こうで、民衆の狂気の声が大きく膨らんでいく。
その頃、誰もまだ気づいていなかった。
遠く、王都の夕暮れの空のさらに上。
雲の切れ間を、圧倒的な速度で青白い影が横切ったことに。
激しい雷を帯びたような紫の翼が、夕闇を裂いて進んでいたことに。
その長大な影が、ただ一人の、大切な友人を探していたことに。
まだ、世界の誰も、気づいていなかった。