廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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届かない祈り

聖座直轄教会から届いた聴取要請は、驚くほど丁寧だった。

 

封蝋は正式なもので、紙質も、文面も、言葉の選び方も、非の打ちどころがない。王国への配慮、王国支部への敬意、そして私という聖女の功績への言及まで、きれいに整えられていた。

 

禁忌の島に関する証言確認のため、聖座は聖女リィナ・エルシアに聴取への協力を求める。

 

聴取は法国本土ではなく、王国内の聖座直轄教会にて行う。

 

本人の安全と名誉に配慮し、王国支部および王国側の立会いも認める。

 

王国との関係を損なう意図はなく、これは断罪ではなく、混乱を防ぐための確認である。

 

どこまでも丁寧だった。

 

丁寧であるからこそ、無下に拒みづらかった。

 

王国支部の執務室でその文面を読み終えた私は、しばらく何も言えなかった。

 

机の上には、いつものように書類が積まれている。地方教会の報告、施療院からの相談、学術院からの照会、王宮への返答。

 

だが今は、どれにも手が伸びなかった。

 

「……聴取、ですか」

 

声に出すと、胸の奥がひやりと冷えた。

 

王国支部の上級神官は、渋い顔で頷いた。

 

「文面上は、極めて穏当です。王国の主権にも、あなたが王国支部所属であることにも配慮している。法国本土へ呼び出す形ではないことも、表向きは譲歩と言えるでしょう」

 

「表向きは、ですね」

 

私が静かに言うと、上級神官は否定しなかった。

 

王国政府も、この聴取要請を強く警戒していた。王国支部も同じだった。私自身、そこに底知れぬ危険があることは痛いほど理解している。

 

だが、完全に拒否すればどうなるか。

 

聖座から逃げた。

 

王国が聖女を匿っている。

 

王国は禁忌の島の情報を独占し、主人との間に密約があるのではないか。

 

そう疑われる。

 

それは、王国にとっても、私にとっても、そしてライラ達にとっても、致命的な引き金になりかねない。

 

目を伏せると、ライラの顔が浮かんだ。

 

状況をよく飲み込めないまま、来客だと判断して調査団を迎え入れた少女。

 

世界征服や人類滅亡を問われ、本気で困惑していた少女。

 

初めての客人がすぐ帰ってしまったことを、ただ寂しそうにしていたあの子。

 

魔王などではない。

 

けれど、世界はライラを知らない。知らないまま、『禁忌の島の主人』という不気味な言葉だけを見ている。

 

「……応じます」

 

私は言った。

 

上級神官が顔を上げる。

 

「本気ですか」

 

「拒否すれば、余計に疑われます。聖座が何を知りたがっているのかも、この目で確認しなければなりません」

 

「危険です」

 

「分かっています」

 

分かっていた。

 

それでも、まだ私の中には、小さな希望が残っていた。

 

話せば、少しは分かってもらえるかもしれない、と。

 

すべては話せない。ライラの名前も、姿も、ファミリア達の詳細も、シルヴィアやカイザーのことも、戦力規模も話せない。

 

けれど、少なくとも言えることはある。

 

ライラに外界への敵意はなかったこと。

 

彼らはただの魔物の軍勢ではなく、そこには確かな生活と秩序があったこと。

 

恐怖だけで断じてはいけないこと。

 

その程度なら、きっと伝えられる。

 

そう思いたかった。

 

「条件を出します」

 

私は顔を上げた。

 

「聴取は王国内で行うこと。王国支部側の者が同席すること。王国側にも記録を残すこと。法国本土への移送は絶対に認めないこと。聴取の範囲は、禁忌の島に関する証言確認に限ること」

 

上級神官は深く息を吐き出した。

 

「聖座へ伝えます。こちらからも信頼できる同行者を出しましょう」

 

「お願いします」

 

静かに頭を下げる。

 

私の手は、膝の上で小さく震えていた。

 

怖くないわけがない。

 

ただ、怖いからといって黙っていれば、もっと最悪な形で話が進む。それを知っていたから、私は立つしかなかった。

 

その時はまだ、自分の言葉が、自分を縛る冷徹な鎖に変えられるのだとは知らなかった。

 

 

聖座直轄教会は、王国内にあった。

 

だが、その空気は王国支部とはまったく違っていた。

 

王国支部には、人の温かい温度がある。

 

施療院へ向かう神官の足音。地方教会から届く、泥のついた報告書。神学校の生徒達のざわめき。

 

忙しく、騒がしく、少し雑然としていて、それでも誰かの生活に繋がっている場所。

 

対して、聖座直轄教会は白く、静かで、冷徹に整っていた。

 

廊下は鏡のように磨き上げられ、足音が無機質に響く。壁には精緻な聖印が掲げられ、窓から差し込む光は、計算されたように床へ落ちている。

 

祈りの場としては美しい。

 

だが、私には温度が低すぎた。

 

王国の中にあるのに、ここだけが聖都の出先機関のようだった。

 

「聖女リィナ・エルシア殿。ご足労いただき、感謝いたします」

 

出迎えた神官は、深く礼をした。

 

私も丁寧に礼を返す。

 

同行者は、王国支部の神官一名、王宮から派遣された文官一名、王国側の護衛二名。

 

ただし、聴取室へ入ることを許されたのは、私と王国支部の神官、王宮文官だけだった。護衛は外で待機となる。

 

それも、手続き上は不自然ではなかった。

 

不自然ではないことが、かえって怖かった。

 

聴取室は広すぎず、狭すぎもしない。長卓があり、向かい側には聖座側の高位神官と記録官が座っている。余計な装飾はない。

 

尋問室ではない。

 

少なくとも、最初はそう見えた。

 

「それでは、禁忌の島に関する証言確認を始めます」

 

高位神官は、落ち着いた声で言った。

 

「リィナ・エルシア殿。あなたのこれまでの功績を、聖座は重く受け止めています。本日の聴取は、あなたを罰するためのものではありません」

 

「承知しております」

 

背筋を伸ばして答えた。

 

最初の質問は、淡々としたものだった。

 

いつ遭難したのか。

 

どのように漂着したのか。

 

どの程度滞在したのか。

 

誰に救助されたのか。

 

その者は人間だったのか。

 

竜のような存在に乗って帰還したのは事実か。

 

調査団に同行したのは事実か。

 

島の主人に敵意はあるのか。

 

なぜ王国は詳細を伏せているのか。

 

ひとつひとつ、言葉を選びながら答えていく。

 

「私は海難に遭い、とある島へ漂着しました。そこで、島の主人と呼ぶべき人物に救助されました。その方は私に敵意を示さず、体調が戻るまで世話になり、帰還の手段を用意していただきました。王国への敵意は、少なくとも私が見た範囲では確認していません。また、島にいた存在達については、単なる魔物の群れと断定することはできません」

 

記録官の筆が走る。

 

私は続けた。

 

「生活がありました。役割があり、意思疎通があり、主人との確かな関係がありました。恐怖を覚える存在もいましたが、恐怖だけで判断すべきではありません」

 

高位神官は静かに頷く。

 

表情は変わらない。だが、記録官の筆先が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。

 

「その存在達を、あなたは何と呼ぶのですか」

 

「……ファミリア、と」

 

「それは、あなたが命名したものですか」

 

「私が、恐怖だけで分類しないために選んだ言葉です。魔物、軍勢、討伐対象。そうした言葉だけでは、私が見たものを正しく表せませんでしたから」

 

真っ直ぐに答えた。

 

高位神官は、また深く頷いた。

 

その頷きが理解なのか、判断材料の整理なのか、私には分からなかった。

 

聴取は数時間続いた。

 

私は嘘をつかなかった。

 

だが、すべてを話したわけでもなかった。

 

ライラの名前は出さない。年齢も姿も性格も詳しく語らない。シルヴィアの詳細も、カイザーも、海の子達の規模も、拠点の構造も、すべて伏せた。

 

ライラ達を守るためだ。

 

だが、聖座側の記録では、その沈黙は別の意味を持ち始めていた。

 

不自然な秘匿。

 

島側への情。

 

私はそれを、完全には分かっていなかった。

 

ただ、慎重に話せていると信じていた。

 

やがて、高位神官が書類を閉じた。

 

「ご協力、感謝いたします。本日の聴取は、ひとまず以上です」

 

ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

 

王国支部の神官も小さく息を吐き、王宮文官が静かに記録をまとめる。

 

終わった。

 

話し合いの余地はある。

 

そう思った、その時だった。

 

別の扉が、不気味な音を立てて開いた。

 

 

入ってきた者達を見て、背筋が完全に凍りついた。

 

黒に近い法衣。

 

白い外套。

 

胸元に刻まれた、『聖座異端審問局』の印。

 

無駄のない足音の後ろには、武装した教会護衛が冷徹に控えている。

 

先頭に立つ男は、三十代ほどに見えた。整った顔立ちに、鋭い目。だが、威圧的な態度は取らない。

 

むしろ、不気味なほど礼儀正しく、静かだった。

 

「聖女リィナ・エルシア殿」

 

男は一礼した。

 

「サイラス・ノクト。聖座異端審問局所属の審問官です。引き続き、いくつか確認させていただきます」

 

立ち上がりかけていた私は、手を止めた。

 

王国支部の神官が、すぐに鋭い声を上げる。

 

「本日の聴取は終了したはずです!」

 

「はい。通常聴取は終了しました」

 

サイラスは穏やかに答えた。

 

「しかし、重大な疑義が生じました。本人保護のためにも、確認は必要です」

 

「本人保護だと?」

 

神官の声が硬くなる。

 

「異端審問局が入ることを、事前に通知されていません」

 

「通知の必要がない段階であると判断しました。これは正式な断罪ではありません。あくまで追加確認です」

 

言葉は丁寧だった。

 

だが、その丁寧さが、強固な壁になる。

 

王宮文官が表情を険しくしたが、すぐには動けない。ここは聖座直轄教会の中であり、私に乱暴はされていない。彼らは、手続きの外に出ていないように、完璧に見せかけている。

 

私は悟った。

 

これは聴取の続きではない。

 

審問だ。

 

サイラスが席に着いた。先ほどの高位神官と記録官は退室し、新しい記録官が筆を構える。

 

「では、確認を始めます」

 

静かな声だった。

 

「あなたは先ほど、島の主人について、敵意なしと評しましたね」

 

「現時点で、王国への敵意を確認していないと申し上げました」

 

「それは、その者が人類に害を及ぼさないと断言するものですか」

 

「いいえ。断言ではありません。私が観察した範囲の証言です」

 

「では、その者が人類に害を及ぼす可能性は否定できない」

 

「未知の存在について、可能性を完全に否定することはできません」

 

「なるほど」

 

サイラスは頷いた。

 

「あなたは、その者を『魔王』ではないと断言できますか」

 

部屋の空気が、一瞬で変わった。

 

王国支部の神官が、強く息を呑む。

 

「魔王と断定する根拠は、私が見た限りありません」

 

「質問に答えてください。魔王ではないと断言できますか」

 

「私は、魔王という言葉を軽率に用いるべきではないと考えます」

 

「断言はできない、ということですね」

 

「違います。私は、断定の前提が成立していないと申し上げています」

 

サイラスの表情は、ピクリとも動かない。

 

「禁忌の島に棲む存在群を、魔物の軍勢ではないと証言するのですか」

 

「単なる魔物の軍勢と断定するには、観察された生活実態と矛盾します。食事、休息、役割分担、採集、整理、主人との意思疎通。そうしたものが見られました」

 

「それは、魔が人を欺くために作った、偽りの生活ではありませんか」

 

私の眉が、わずかに動いた。

 

まだ、声は冷静に保てていた。

 

「その可能性を論じるのであれば、まず観察事実を正確に記録すべきです。最初から偽りと断じれば、何も見えなくなります」

 

「あなたは、禁忌の島の存在達を庇っているのですか」

 

「正確に語ろうとしているだけです」

 

「あなたは、竜のような存在に名を与えていましたね」

 

喉がわずかに詰まる。

 

シルヴィア。

 

雷を帯びたような翼。高空を飛んだ背。怖くて、何度も乗ったあの温かい背。王国まで送ってくれた、ライラに怒られるとしょんぼりする竜。

 

「……名は、ありました」

 

「その竜は、あなたを王国まで運んだ」

 

「はい」

 

「聖女であるあなたが、禁忌の島の竜に背を預けた」

 

「帰還の手段として必要でした」

 

「その竜に、親しみを抱いていましたか」

 

「親しみと信仰の逸脱を混同しないでください。私は聖座を裏切っていません。禁忌の島の主人を信仰対象としたことも、竜を聖なるものとして崇めたこともありません」

 

「では、聖座よりも、その島の主人を信じているわけではない」

 

「聖座に属する者としての信仰と、私を助けてくださった方への感謝は、別のものです」

 

「魔王があなたを助けた場合でも、感謝するのですか」

 

胸の奥で、何かが軋んだ。

 

誘導だ。

 

分かっている。

 

冷静でいなければならない。

 

ここで感情を乱せば、すべてが歪んで記録される。

 

深く息を整える。

 

「前提が誤っています。その方を魔王と断定する根拠はありません」

 

「では、魔王ではないと?」

 

「軽率な断定を避けるべきだと申し上げています」

 

「あなたは先ほどから、禁忌の島の主人に対する断定を執拗に避け続けている。魔に情を移した者は、しばしばそう言います」

 

王国支部の神官が立ち上がりかけた。

 

「審問官殿、その言い方は――」

 

サイラスは、そちらを見向きもしなかった。

 

ただ、私だけを冷酷に見つめていた。

 

「魔王は、あなたに優しかったのですね」

 

静かな言葉だった。

 

怒鳴られていないからこそ、深く、毒のように刺さった。

 

「魔物の群れは、あなたの前では牙を隠していた。偽りの竜に背を預けた聖女が、今もそれを救いだと思っている」

 

「違います」

 

声が少し低くなった。

 

「あなたは、魔王の巣を生活と呼んだ」

 

「違います」

 

「恐るべきことです。魔は、かくも温かい顔で近づくのですね」

 

「違います」

 

「その主人は、人を欺くために少女の姿を取っていたのではありませんか」

 

その瞬間。

 

私の中で、何かが完全に弾けた。

 

ライラの姿が浮かぶ。

 

食事を出してくれた少女。シルヴィアに乗る練習を、怖かったらやめていいと言ってくれた少女。帰る場所があるなら帰った方がいいと、当たり前のように受け止めてくれた少女。

 

王国調査団を前にしても、敵ではなく客として迎えた少女。

 

初めての客人がすぐ帰ってしまって、寂しそうにしていたあの子を。

 

人を欺くための姿だと。

 

魔王の仮面だと。

 

そう、汚された。

 

「違います!!」

 

私の叫びが、部屋に激しく響いた。

 

王国支部の神官が息を呑み、サイラスの目がわずかに細くなる。

 

私はもう、止まれなかった。

 

「彼女は魔王ではありません! あの子達は、あなた方が言うような魔物の軍勢ではないのです! 私は見ました。あの島で、彼女達はただ穏やかに暮らしていました! 食べて、眠って、遊んで、採集して、帰る場所を持っていました! ライラさんは――」

 

そこまで言って、ハッと息を止めた。

 

名前を出してしまった。

 

けれど、その先を続ける前に、ぎりぎりで飲み込んだ。

 

それでも、もうすべてが遅かった。

 

部屋の隅にいた別の審問官が、突然、勝ち誇ったように大きな声を上げた。

 

「聖女様がご乱心になられた!!」

 

それは、私に向けた言葉ではなかった。

 

扉の外にいる者達へ聞かせるための、冷酷な合図の声だった。

 

「違う!」

 

王国支部の神官が叫んだ。

 

「乱心などしていない! あなた方が誘導したのです!」

 

だが、教会護衛が冷徹に動いた。

 

サイラスは静かに言った。

 

「記録を」

 

記録官の筆が走る。

 

冷たいものが、私の身体の芯へ沈んでいくのを感じた。

 

私の言葉が、別の都合のいい形に変えられていく。

 

聖女リィナ・エルシア殿は審問中、著しい感情の錯乱を示した。

 

禁忌の島の主人を魔王ではないと強く否定した。

 

島に棲む存在群を擁護し、聖座への情報提供に不自然な制限を加えた。

 

魔王疑惑に関わる存在を庇護する発言を連発した。

 

完全な嘘ではない。

 

確かに私は感情的になったし、ライラが魔王であることを否定し、情報を伏せている。

 

だが、意味が違う。

 

すべて、意味が違うのだ。

 

「……違います」

 

声が震えた。

 

「私は、正しく伝えようと……」

 

「聖女リィナ・エルシア殿」

 

サイラスは静かに告げた。

 

「あなたには、禁忌の島との接触による影響が疑われます。本人保護、および追加審問のため、一時的に身柄をお預かりします」

 

「本人保護だと?」

 

王国支部の神官が怒りを露わにした。

 

「これは拘束でしょう!」

 

「正式な断罪ではありません。聖座は真実を明らかにするだけです」

 

サイラスは、少しも揺らがなかった。

 

その言い方が、何より怖かった。

 

真実を明らかにする。

 

そう言いながら、彼らは最初から、自分たちの欲しい形の真実を作ろうとしている。

 

私は抵抗しなかった。

 

抵抗すれば、さらに事態が悪化すると分かっていたからだ。

 

立ち上がると、足元がわずかに揺れた。

 

話せば、少しは分かってもらえるかもしれない。

 

そう思っていた自分が愚かだった。

 

相手は最初から、分かるためではなく、私をはめるために来ていたのだ。

 

 

発表は、早かった。

 

聖座本部側の文面は、どこまでも硬かった。

 

――聖女リィナ・エルシア殿について、禁忌の島に関する証言中、重大な疑義が生じた。本人保護および信徒の安全確保のため、聖座異端審問局が一時的に身柄を預かる。

 

そこに『魔女』という言葉はなかった。

 

魔王に魅入られた、とも書かれていない。

 

あくまで一時的な身柄預かり、本人保護。

 

すべて整った言葉だった。

 

王国支部側も、すぐに発表を出した。

 

――リィナ・エルシア聖女は現在、追加聴取を受けている。王国支部は彼女の功績と人格を信じ、慎重な対応を求めている。

 

だが、二つの発表が並んだことで、人々の疑念はかえって爆発的に膨らんだ。

 

市場で、酒場で、王都の路地で、噂はあっという間に姿を変えた。

 

「聖女様が異端審問官に拘束されたらしい」

 

「禁忌の島の話をして乱心したとか」

 

「魔王を庇ったって聞いたぞ」

 

「竜に乗って帰ってきたのは、やっぱりおかしかったんだ。聖竜じゃなくて、魔竜だったんだ」

 

そして、誰かが小さく言った。

 

「……魔女」

 

最初は、小さな囁きだった。

 

次に、別の場所で誰かが繰り返した。

 

魔女。

 

魔女リィナ。

 

魔王の竜に乗った聖女。

 

まだ公式には、誰も私を魔女とは呼んでいない。

 

だが、民衆の中では、もう私の名前が変わり始めていた。

 

 

私が入れられた部屋は、清潔だった。

 

白い壁。小さな窓。簡素な寝台。机と椅子。水差し。食事も出て、乱暴に扱われたわけでも、縛られているわけでもない。

 

部屋には、祈るための小さな聖印さえ置かれていた。

 

表向きは保護室。

 

実態は監禁。

 

その徹底された丁寧さが、かえって私を精神的に追い詰めた。

 

雑に扱われたなら、理不尽だと叫べたかもしれない。

 

けれど、すべてが整っている。

 

自分は丁寧に、静かに壊されている。

 

そう思った瞬間、息が詰まりそうになった。

 

「……誤解です。きちんと話せば、まだ……」

 

小さく呟くが、言葉が続かなかった。

 

きちんと話した結果が、これだ。

 

廊下の向こうから、低い話し声が聞こえる。

 

「……魔女だって」

 

「乱心したらしい」

 

「聖女様だったのにね」

 

息を止めた。

 

聖女だったのに。

 

その言葉が、胸に深く突き刺さる。

 

孤児だった。

 

努力して、神学校に通った。

 

夜遅くまで術式を書き、何度も失敗し、何度も直した。

 

施療院で人を助け、地方教会を回った。監査で嫌われることもあった。けれど、助けられるはずだった人を帳簿の外へ追いやらないために、記録を見続けた。

 

その私の人生が今、たった一つの『魔女』という言葉で、すべて汚され、塗り替えられていく。

 

膝の上で、手をきつく握りしめた。

 

泣きたくなかった。

 

泣けば、本当に心が折れてしまう。

 

だから、聖印に手を伸ばして祈ろうとした。

 

けれど、祈りの言葉が出なかった。

 

何を祈ればいい?

 

自分を守ってください。

 

王国を、ライラを、ファミリア達を守ってください。

 

民衆を安心させてください。

 

全部を同時に祈ることが、今の私にはできない気がした。

 

誰かを守る祈りが、別の誰かへの刃になるかもしれないという恐怖が、喉を完全に塞いでいた。

 

 

拘束されている間、廊下の声や食事を運ぶ修道女の表情から、私は多くの不穏な噂を聞いた。

 

「義勇兵の受付が始まるらしい」

 

「聖騎士団には待機確認が出ている」

 

「港で船を押さえているそうだ」

 

「『人類防衛献金』と呼ぶらしい。魔王討伐の準備だ」

 

顔から血の気が引いた。

 

自分のことより、その言葉の方が何倍も怖かった。

 

聖戦。

 

まだ正式には決まっていないが、社会はもうそれを前提に動き始めている。

 

私だけが知っている。

 

ライラは魔王ではないし、ファミリア達は侵略軍ではない。シルヴィアは、自分を慎重に運んでくれた優しい存在だ。

 

けれど、もし法国が、聖戦の名でライラの家へ攻め込めば――ライラは戦う。ファミリア達も戦う。

 

そして、恐らく圧倒的に勝ってしまうだろう。

 

勝つからこそ、もっと恐ろしいのだ。

 

法国の兵士達が死ぬ。

 

義勇兵が死ぬ。

 

そして外の世界は言うだろう。

 

――やはり魔王だった。

 

人を殺した。

 

世界の敵だ、と。

 

攻め込まれたから、家族を守っただけなのに。

 

寝台に座ったまま、両手で顔を覆った。

 

息が苦しい。

 

ライラが、戦って勝つことで、さらに世界から魔王にされていく。

 

その未来が、あまりにも残酷で、怖かった。

 

 

その夜、部屋を訪れたのは、ひとりの修道女だった。

 

穏やかな顔をしているが、目の下には深い疲れがあった。施療院や孤児院に関わる者特有の疲れ方。

 

燭台派に近い人物だと分かった。

 

修道女は食事の盆を置き、低い声で言った。

 

「リィナ様」

 

「……様は、もう付けない方がいいのではありませんか」

 

苦く笑うと、修道女は静かに首を振った。

 

「私は、あなたが人を救ってきたことを知っています。施療院で、あなたの術式に助けられた子もいます。だから、信じたいのです」

 

信じたい。

 

その言葉の中に、信じきれない揺れがあった。

 

修道女は、胸元の聖印を強く握りしめていた。

 

「ですが、私達には孤児達も、病人も、逃げる足を持たない老人達もいます。もし、本当にあの島の主人が魔王だったなら、私達はどうすればよいのですか」

 

言葉を失った。

 

利権を狙う金香派の悪意なら、憎めばよかった。

 

けれど、目の前の彼女は違う。

 

本気で怯え、本気で人々を守りたいと願っている。

 

その恐怖は、純粋な善意だった。

 

問題は、悪意だけではない。

 

人々が本気で怖がっているから、噂は止まらないし、聖戦の空気は消えないのだ。

 

恐怖は、善意の顔をして広がっていく。

 

「……魔王では、ありません。少なくとも、私が見たあの方は、そんな存在ではありませんでした」

 

「でも、あなたは全部を話せない。それが、人々をもっと怖がらせています」

 

「……分かっています」

 

話さないほど疑われ、話せばライラ達を危険に晒す。

 

どちらを選んでも、誰かが怖がり、誰かが傷つく。

 

膝の上で手を握りしめた。

 

「私は……どうすればよかったのでしょう」

 

修道女は答えなかった。

 

ただ、深く頭を下げて部屋を出ていった。

 

扉が閉じ、鍵の音が響く。

 

私はまた、一人になった。

 

 

夜が深くなっても、眠れなかった。

 

部屋の完璧な整い方が、牢の形をして私を締めつける。小さな窓から王都の空を見つめた。雲の向こう、海の向こうの島を思う。

 

ライラは何もしていない。

 

ただファミリア達と暮らし、私を助け、食事をくれ、帰り道を用意してくれただけだ。

 

なのに、世界は彼女を魔王にしようとしている。

 

その原因の一つは、私だ。

 

私が流れ着き、シルヴィアに乗って帰ってきて、彼女を庇ったから。

 

何一つ悪意でしたことではないのに、結果としてライラの家を世界の恐怖に晒してしまった。

 

「……ごめんなさい」

 

声が零れた。

 

誰に向けた謝罪なのか、もう分からなかった。

 

ライラへか、自分を信じてくれた人々へか。

 

聖印に手を添え、今度こそ祈ろうとしたが、やはり喉が詰まった。

 

王国を。

 

法国を。

 

ライラを。

 

民衆を。

 

すべてを守ってください。

 

全部が本心だったが、全部が同時には叶わない現実がそこにあった。

 

その瞬間、押し殺すように、静かに涙が流れた。

 

「ごめんなさい……」

 

暗闇の中で、誰も答えてはくれなかった。

 

 

数日後、私は呼び出された。

 

部屋へ入ってきた神官は、感情を抑えた顔をしていた。

 

「聖女リィナ・エルシア殿」

 

その呼び方に、かすかに目を伏せた。

 

「追加審問の結果、聖座はあなたの聖女位を停止し、公開断罪式を執り行うことを決定しました」

 

息を止めた。

 

「公開、断罪式……」

 

「はい」

 

神官の声は、どこまでも平坦だった。

 

「禁忌の島との接触による影響、魔王疑惑に関わる存在への庇護発言、ならびに聖座への情報提供に対する不自然な制限。これらを総合し、聖座はあなたを、通常の証人として扱うことはできないと判断しました」

 

喉が、乾く。

 

「私は……」

 

言いかけた言葉は、途中で消えた。

 

何を言っても、もう記録の中で形を変えられる。

 

神官は、わずかに目を伏せた。

 

「公開断罪式の後、浄化処刑が行われます」

 

世界から音が消えた。

 

処刑。

 

その言葉が、あまりにも静かに置かれた。

 

「……処刑」

 

自分の声が、遠く聞こえた。

 

「正式に、ですか」

 

「はい。聖座の決定です」

 

神官は感情を見せなかった。あるいは、見せないようにしていた。

 

「これは魔王の影響を受けた可能性のある者を、信徒の前で浄化し、混乱を鎮めるための儀礼です。あなた個人への憎悪ではありません」

 

その言葉に、何かが胸の奥で崩れた。

 

憎悪ではない。

 

だから、処刑する。

 

怒りではない。

 

秩序と信仰のために殺す。

 

その整った理屈が、あまりにも恐ろしかった。

 

「……聖戦は」

 

震える声で尋ねる。

 

「正式な発表はまだありません。私から申し上げられることはありません」

 

その沈黙が、冷徹な答えだった。

 

顔から血の気が引いていく。

 

正式発表はまだ。

 

だが準備は進んでいる。

 

船、護符、人類防衛献金、聖騎士団、義勇兵、魔王討伐。

 

すべては時間の問題だ。

 

胸元を押さえた。

 

痛くて、息がうまくできない。

 

自分が殺されることよりも、その先の未来が怖かった。

 

ライラ、シルヴィア、カイザー、主任、みんなが暮らすあの温かい食卓へ、人々が聖戦の旗を掲げて向かっていく。

 

膝から崩れそうになるのを、何とか堪えた。

 

ここで倒れれば、また「錯乱」と記録され、魔王に魅入られた証拠にされるだけだ。

 

聖女でなくなっていく私が、まだ聖女のように背筋を伸ばそうとしていることが、ひどく滑稽だった。

 

「準備を。まもなく、会場へ移動します」

 

私は、静かに頷いた。

 

 

廊下へ出ると、遠くから地鳴りのような声が聞こえた。

 

教会の外に集まった民衆の声だ。

 

「魔女」

 

「魔女リィナ」

 

「光を裏切った女」

 

「偽りの竜に魅入られた」

 

目を閉じた。

 

言葉の刃が、身体に突き刺さる。

 

聖女と呼ばれていた名が、魔女に変えられていく。

 

そして、その魔女は、正式に処刑されることになった。

 

けれど、今一番つらいのは、そこではなかった。

 

自分が魔女と呼ばれることよりも。

 

自分が処刑されることよりも。

 

ライラが世界によって魔王にされていくことの方が、ずっと、ずっと怖かった。

 

――ライラさん、ごめんなさい。私が、うまく守れませんでした。

 

扉の向こうで、民衆の狂気の声が大きく膨らんでいく。

 

その頃、誰もまだ気づいていなかった。

 

遠く、王都の夕暮れの空のさらに上。

 

雲の切れ間を、圧倒的な速度で青白い影が横切ったことに。

 

激しい雷を帯びたような紫の翼が、夕闇を裂いて進んでいたことに。

 

その長大な影が、ただ一人の、大切な友人を探していたことに。

 

まだ、世界の誰も、気づいていなかった。

 

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