その子は、まるで私の声を確かめるように、低く、優しく喉を鳴らした。ごろごろ、と、低く響く。 巨大な身体の奥から響くその音は、耳で聞くというより、胸の内側に直接伝わってくるようだった。
動けなかった。目の前にいるのは、紛れもない竜だ。朝日を受けて紫がかった鱗を輝かせ、淡い青白い光を身体の内側に走らせる、圧倒的な生き物。現実にいていいはずがないのに、そこにいる。門の上から見下ろすその姿は、綺麗で、恐ろしくて、あまりにも大きかった。
頭では分かっている。逃げろ、目を合わせるな、刺激するな。こんなものに近づいてはいけないと、人間としての本能が全力で叫んでいる。 けれど、胸の奥では別の声がしていた。名前を呼べ。もう一度。ちゃんと、あの子の名前を。
その子は私を見ている。敵としてではなく、見知らぬ獲物としてでもなく、まるで、ずっと待っていたものを確かめるように。
「……シルヴィア」
今度は、さっきよりも少しだけはっきりと呼べた。声はまだ震えていたが、確かに名前を紡いだ。 その名を聞いた瞬間、門の上の竜の瞳がわずかに細められた。人間とは何もかも違う竜の顔だ。口元も目の形も違うのに、なぜか分かった。喜んでいる、と。
シルヴィアはゆっくりと翼を畳んだ。ばさりと巨大な皮膜が空気を押し、私の髪が後ろへ流れる。その動作だけで門の周囲に小さな風が巻き、足元の草が一斉に倒れ、乾いた土が舞い上がった。 思わず目を細めた次の瞬間、シルヴィアが門の上からするすると長い首を下げてきた。
距離が縮まる。近い。近い。近すぎる。 実際に鼻先が迫ってくると、身体が勝手に固まった。シルヴィアの顔だけで、私の身体よりずっと大きい。牙が見える。角が見える。鱗の一枚一枚まで見える。
鼻先から吐き出される息が、頬に触れた。 熱い。朝の冷たい空気の中で、その吐息だけがはっきり温かかった。同時に、微かに焦げたような匂いがした。嵐の前の空気みたいな、肌の表面がちりちりする匂い。静電気に似ていた。そう思った瞬間、腕の毛が逆立つような感覚が走る。
怖いはずだった。この距離で何かあれば、逃げることも、防ぐことも、抵抗することもできない。 なのに、シルヴィアは私に触れなかった。鼻先をすぐ近くまで寄せたまま、ぴたりと止まる。まるで、こちらが手を伸ばすのを待っているみたいに。
「……え」
情けない声を漏らしても、シルヴィアは動かない。ただ、静かにこちらを見ている。
その大きな瞳に、朝の光が映っていた。その瞳の中に、小さな私がいる。白銀の髪を乱し、短いナイフを持ったまま、顔を強張らせている少女。見知らぬ土地で、見知らぬ身体になって、何も分からないまま立ち尽くしている私。 けれど、その瞳は私を脅かしていなかった。待ってくれている、そう感じた。
握っていた右手をゆっくりと下ろした。刃が地面に触れないよう、慎重に腰の鞘へ戻す。指が少し震えて、金具がかち、と小さな音を立てた。その音にすらびくりとした私を見て、シルヴィアがまた低く喉を鳴らす。急かしてはいない。怒ってもいない。ただ、そこにいる。
深く息を吸った。潮と、草と、土の匂い。そして、シルヴィアの微かな熱と、雷のような気配。 「……触って、いい?」
言葉を交わせるわけではないのに、聞かずにはいられなかった。シルヴィアは目を細め、ほんの少しだけ鼻先を下げた。許可――そう受け取ってしまうにはあまりに都合が良すぎるが、それでも、震える手を伸ばした。
指先が、鱗に触れる。 硬い。想像していたより、ずっと硬い。金属ほど冷たくはなく、石ほど無機質でもない。硬く、滑らかで、けれどその奥に確かな熱があった。生きている。その事実が、指先から一気に胸の奥まで流れ込んでくる。
「……ほんとに、いる」
声がかすれた。シルヴィアがいる。画面の向こうでも、記憶の中でも、夢の中でもない。私の手の届く場所に、温度を持って、息をして、ここにいる。 怖い。でも、温かい。怖いのに、手を離したくなかった。
もう片方の手も伸ばし、シルヴィアの鼻先にそっと触れる。鱗の隙間に沿って指を滑らせると、呼吸に合わせて微かに動くのが分かった。シルヴィアはじっとしていた。大きな竜が、私が触れる間、まるで壊れ物を扱うみたいに動かずにいてくれた。そのことが、どうしようもなく胸に来た。
「シルヴィア……」
もう一度名前を呼ぶと、今度こそ待ちきれなかったように、ぐい、と鼻先を押しつけてきた。
「わっ、ちょ、重い!」
予想以上の力によろめき、倒れそうになって慌てて足を踏ん張る。けれど、シルヴィアはまったく悪びれた様子がない。むしろ、嬉しそうに喉を鳴らしながら、これでもかと鼻先を胸元に押しつけてくる。 「待って、待って、力加減! 潰れちゃう! 潰れちゃうから!」
思わず叫んでいた。叫んでから、はっと固まる。さっきまで声を出すのすら怖かったのに、今は目の前の竜に文句を言っている。そのことが妙におかしくて、でも笑えるほど余裕があるわけでもなくて、喉の奥が変に詰まった。
シルヴィアは、ふん、と鼻を鳴らす。どこか不満そうな、けれど機嫌の良さそうな音だった。その仕草が、あまりにも私の知っているシルヴィアだった。 格好いい見た目、強そうな翼、雷を宿した身体。でも、距離感がおかしい。威厳があるようで、どこかない。鼻先に押されながら、半ば呆然とその子を見上げた。
「……本当に、シルヴィアなんだ」
言った瞬間、視界が少し滲んだ。泣くつもりはなかったし、泣いている場合ではない。ここがどこなのかも、どうして自分がこの姿なのかも、拠点がなぜここにあるのかも、何一つ分からないことだらけだ。 それでも、この子がいる。名前を呼べば、返事をしてくれる。それだけで、少しだけ息ができた。
シルヴィアは私の顔を覗き込むように首を傾げた。その動きに合わせて、首筋の青白い光がゆっくりと流れる。まるで、体内に小さな雷が巡っているみたいだった。 手の甲で目元を拭い、視界を少しだけはっきりさせる。
「……他の子は?」
そう呟いた瞬間、胸の奥の温度が変わった。シルヴィアがいる。なら、他の子達は――。 拠点の中にいるのか。無事なのか。怪我をしていないのか。数は足りているのか。あの子はいるのか。あの子も、あの子も……。 考え始めると、怖さとは違う激しい焦りが込み上げてきた。
顔を上げ、巨大な門を見る。その向こうには、さっきから低い息遣いと足音がある。シルヴィアだけではない。何かがいる。たぶん、何かではない。私の知っている子達が、そこにいるはずだ。
「……中、入れる?」
シルヴィアに聞くと、彼女は首を上げて門の上へ視線を向け、短く鳴いた。それは、さっきの甘えるような喉鳴りとは違う、低く、鋭く、拠点の中へ響く明確な合図の声だった。
直後、門の奥で何かが動いた。金属が擦れるような重い音が響く。「がこん」と一度、内側で何かが外れる音。続いて、巨大な門がゆっくりと動き始めた。 ぎぎぎ、と朝の空気を震わせるような軋みを立てながら、門が開いていく。
思わず数歩下がった。門の隙間から、内側の空気が一気に流れ出してくる。外の冷えた風とは違う、乾いた草、獣の体温、金属、土、水。そして、長く使われてきた場所の匂い。生き物がいて、寝床があって、餌場があって、何度も歩かれた通路がある。確かな生活の匂いだった。
門が開くにつれて、内側が見えてくる。広すぎる。人間の歩幅ではなく、大型の何かが通ることを前提にした通路。壁の内側には補強材が並び、ところどころに爪痕や擦れた跡が残っている。 門の隙間から中を覗き込み、私は息を止めた。
そこに、黒い山があった。 いや――山ではない。それは、呼吸していた。
正門の内側、広場の手前。巨大な影が、地面に伏せていた。最初は本当に岩かと思ったが、岩は呼吸しないし、地面に爪を食い込ませたりしない。朝の光を受けて、厚い皮膚をわずかに動かしたりしない。 巨大な頭が、ゆっくりと持ち上がる。地面が、低く震えた気がした。身体が、完全に凍りついた。
知っている。知っているはずなのに、こんな大きさで見つめられる覚悟なんて、できていなかった。
「……カイザー」
声が、勝手に漏れた。ギガノトサウルス――その名が脳裏に浮かぶ。 巨大という言葉では足りない。門の内側に伏せているだけで、そこがもう道ではなく、その子の領域になっていた。厚い頭骨、岩のような顎、並ぶ牙、地面に沈むほど重い爪。尻尾は通路の奥へ長く伸び、その先がゆっくりと動くたびに、床の小石がかすかに跳ねた。
カイザーは動かなかった。ただ、片目だけを開き、私を見ていた。その瞳には、シルヴィアのような分かりやすい甘さはない。静かで、重く、深く、測るような目。 敵か。主か。本当にその名を呼ぶ者か――そう問いかけられている気がした。
息を飲む。逃げたい。正直に言えば、逃げ出したかった。シルヴィアはまだ近づいてきた時の仕草に甘さがあったが、カイザーは違う。ただそこにいるだけで、全身の細胞が危険を訴えてくる。目の前にいるのは、動く山であり、牙と爪を持った暴力そのものだ。
それなのに、私はその名前を知っている。何度も呼び、何度も頼った。危険な場所へ行く時、拠点を守る時、どうしても突破しなければならない時。その名前があるだけで安心できた。その子が、今、私を見ている。
「カイザー」
もう一度、呼ぶ。今度は震えながらも、はっきりと。 カイザーの瞳が、ほんのわずかに細くなった。低い音が響く。唸り声ではない。もっと低く、地面の下から響いてくるような重低音。
シルヴィアが私の背後で短く鳴いた。その声に反応したのか、カイザーはゆっくりと頭を下げた。巨大な顎が地面に近づき、伏せたまま、私へと視線を落とす。 攻撃ではない。威嚇でもない。ただ、認めた。そんな動作に見えた。
その場に立ち尽くしたまま、ようやく呼吸を思い出す。 シルヴィアがいる。カイザーもいる。拠点もある。なら、きっと、他の子達も。 その考えが頭に浮かんだ瞬間、安心よりも先に焦りが押し寄せた。確認しなければ。一体でも欠けていたら。誰かが怪我をしていたら。外へ出て戻れていなかったら。あの子は、あの子達は……。
思考が一気に溢れ出す。私は門の内側へ、一歩踏み入れた。 足元の土は、外よりも固く踏みしめられている。何度も、何度も、重い足が通った場所。壁の内側には、広い通路が伸びていた。 奥にはいくつかの分岐がある。大型の子達が通れる広い道、少し細い作業場へ続く道、高い足場へ上がる坂。遠くには、餌場らしき場所の影も見えた。
全部、どこかで知っている。けれど、初めて見る。そんな変な感覚だった。私の記憶にある形のまま、現実の重さと匂いを持って、ここにある。
シルヴィアが後ろから、そっと鼻先を寄せてくる。押しているのか、支えているのか分からない。でも、その温かさで、私は少しだけ前へ進めた。
カイザーは正門の内側に伏せたままだ。門番というには物騒すぎる。この子がいるだけで、どんな敵も門へ近づきたくなくなるだろう。初めて見る人なら、腰を抜かして逃げ出すに違いない。それくらい、カイザーは大きくて、恐ろしくて、圧倒的だった。
「……カイザーも、無事」
声に出して確認すると、胸の奥の焦りがさらに強くなった。一体ずつ、全員を見なければならない。 息を吸う。まだ怖い。まだ何も分からない。ここがどこなのかも、なぜこうなったのかも。けれど、少なくとも今、私にできることはある。
帰る方法を探すより先に。この土地の正体を調べるより先に。まず、確認しなければならないことがある。 シルヴィアがいる。カイザーがいる。なら、他の子達も、ちゃんとここにいるのか。
「……点呼」
自分でも驚くほど、小さな声だった。でも、言葉にした瞬間、身体の奥に一本の芯が通った気がした。
シルヴィアが首を傾げる。カイザーの片目が、静かにこちらを見ている。 私は、震える手を強く握りしめた。
「全員いるか、確認する」
帰る方法も、ここがどこなのかも、私はまだ何も知らない。それでも、それだけは決められた。 この知らない世界で、私が最初にやるべきこと。
それは、私が名前を呼んできた子達が、ちゃんとここにいるかを確かめることだった。
今更ですが本作品は初投稿のものになります。
慣れないことが多く、手探りで執筆しております。
感想・アドバイスなんでもお待ちしております