王都の朝は、重かった。
空は晴れていた。雲は薄く、陽光は白い石畳を明るく照らしている。けれど、その明るさは、人々の顔を少しも晴らさなかった。
聖座直轄教会前の広場には、夜明け前から人が集まり始めていた。
王国民、巡礼者、聖座直轄教会の信徒、野次馬、祈る者、泣く者、怒る者。恐怖に震えながら、それでも何が起きるのかを見届けようとする者。
広場の中央には、白い壇が設けられている。
聖座側は、それを処刑台とは呼ばなかった。
――光裁の壇。
罪に沈んだ魂を光へ返すための壇。魔に触れた者を浄化し、信徒の不安を鎮めるための神聖な場所。そう説明されていた。
だが、広場に集まった者達の多くは理解していた。
あれは、処刑台だ。
白い布で覆われ、聖印で飾られ、祈りの言葉で包まれていても、そこで人が死ぬことに変わりはない。
壇の周囲には、聖座直轄教会の護衛が並んでいた。鎧は白く、槍の穂先は朝日を受けて冷たく光っている。聖職者達は整然と並び、誰も大きな声を出さない。
整っていた。
あまりにも、整っていた。
王国兵も、広場の外側に控えていた。王宮から派遣された文官達もいる。王国支部の神官やシスター達も、苦しげな顔で遠巻きに立っていた。
彼らは抗議した。王国政府も、王国支部も、激しく抗議した。
けれど、聖座側はすべてを押し切った。
これは王国の法による刑罰ではない。聖座内部における聖女位の停止と、異端審問に関わる宗教儀礼である。本人の魂を救い、信徒の不安を鎮めるための浄化である。王国の主権を侵すものではない。
少なくとも聖座側は、どこまでも整った論理でそう突きつけてきた。
王国が武力で踏み込めば、それは全面対立になる。王国支部が正面から儀礼を妨害すれば、聖座への反逆と見なされかねない。
誰も、動けなかった。動けば、何かが完全に壊れると分かっていた。
その残酷な動けなさの中で、広場の空気だけが、少しずつ狂っていく。
「魔女が来るぞ」
「聖女だったんだろ」
「魔王に魅入られた聖女だ」
「偽りの竜に乗って帰ってきたって」
「王国は隠していたんだ」
「聖座が浄化してくださる」
声は、祈りと怒りと恐怖を混ぜて膨らんでいく。
そこには、かつて私が救った人々の声もあったかもしれない。私の術式に助けられた者。私の監査によって救われた貧しい患者。施療院で私に指導を受けた若い術者。私を信じたいと願ってくれた者達。
けれど、群衆の中で、個人の声は簡単に潰される。
恐怖は数を得ると、祈りよりも大きな濁流となる。
鐘が鳴った。
重く、長く、広場全体を押し潰すような音だった。
◆
私は、冷たい廊下を歩いていた。
手枷が重い。
足枷までは付けられていなかった。暴れる者として扱われているわけではない、という体裁なのだろう。左右には聖座護衛がいるが、乱暴に腕を掴まれているわけでもない。
丁寧だった。
どこまでも、丁寧だった。
その徹底された丁寧さが、私には何より残酷だった。
身につけている衣は、かつての聖女服ではない。白を基調とした簡素な衣だ。汚れてはいない。むしろ、儀礼のために清められたように整えられている。
だが、聖印は外されていた。
胸元にいつもあった重みがない。それだけで、自分の一部を無理やり削り取られたようだった。
聖女位停止。公開断罪式。浄化。光へ返す儀。
彼らは、処刑という言葉を頑なに使わない。だが、分かっていた。私は、今日ここで殺される。
死ぬことが怖くないはずがない。まだ十九歳で、やりたいことも、やらなければならないことも、山ほどあった。施療院の術式改良も途中だった。地方教会の監査記録も、学術院への返答も、王国支部の机に残されたままだ。
帰る場所があった。待ってくれていた人もいた。
そのすべてが、今日で途切れる。
怖い。
怖くないわけがない。
けれど、それ以上に、私の胸を締めつけているものがあった。
自分の死が、次の戦いの「旗」になること。
――魔女リィナは浄化された。次は、魔女を惑わせた魔王を討て。次は、魔王の島へ。
その恐ろしい声が、もう耳元で聞こえる気がした。
私が死ねば、それで終わるのではない。むしろ、最悪の形で始まってしまうのだ。
聖戦。
まだ正式には発表されていない。だが、監禁されている間に聞いた噂は、どれもその方向へ確実に動いていた。
義勇兵、聖騎士団、港で押さえられる船、人類防衛献金、魔王討伐。
全部が、まだ名を得ていない戦争の確かな輪郭だった。
私だけが知っている。
ライラは魔王ではない。ファミリア達は、侵略軍ではない。シルヴィアは、聖竜でも魔竜でもなく、ライラのファミリアで、私を王国まで運んでくれた優しい竜だ。
けれど、もし法国が聖戦の旗を掲げてあの島へ向かえば、ライラはきっと戦う。ファミリア達も戦う。
そして、勝ってしまうだろう。圧倒的に。
その勝利は、外の世界から見ればさらなる魔王の証明になる。攻め込まれたから守っただけなのに、家族を守っただけなのに、ライラはさらに魔王へ近づけられていく。
それが、たまらなく怖かった。
廊下の先に光が見えた。広場へ出る扉だ。
外から、猛烈な声が聞こえる。
「魔女!」
「魔女リィナ!」
「魔王を庇った女!」
「偽りの竜に乗った聖女!」
声が身体に突き刺さる。
けれど、足を止めなかった。ここで膝をつけば錯乱と記録される。泣き叫べば魔に侵された証とされる。
だから、歩く。
聖女ではなくなったはずなのに、まだ聖女のように背筋を伸ばしてしまう。
それが滑稽で、ひどく悲しかった。
扉が開いた。朝の光が、目に刺さる。
私は、光裁の壇へ引き出された。
◆
広場が、波のように揺れた。
私の姿を見た瞬間、人々の声が爆発的に膨れ上がる。怒号、祈り、悲鳴、罵声、すすり泣き。そのすべてが混ざり合い、巨大な獣の唸りのように広場を満たした。
壇へ上がる足元は冷たかった。白い石の表面は朝の光を受けているのに、私の足裏には氷のように感じられた。
手枷が鳴る。その音が、妙に大きく響いた。
壇の正面には、サイラス・ノクト審問官が立っていた。
黒に近い法衣。白い外套。聖座異端審問局の印。
彼は相変わらず、怒りも憎しみも見せない。ただ、淡々としていた。
その顔を見た瞬間、胸に冷たい絶望が広がる。この人は、私を憎んでいるわけではない。憎んでいないからこそ、冷徹に殺せるのだ。
記録のために。秩序のために。信徒のために。聖座のために。
整った正義の理由があるから、人を殺せる。
それが、何より恐ろしかった。
サイラスは巻物を開いた。広場の声が少しずつ静まっていく。
「リィナ・エルシア」
その名が響いた。
かつてなら、その前に聖女という称号が付いた。今は、ない。
「汝は、ルミナリア聖教会王国支部所属の聖女でありながら、禁忌の島に漂着し、当該島の主人およびその眷属と接触した」
眷属。
ファミリア達のことだ。
主任。シルヴィア。カイザー。エクウス達。採集組。海の子達。小型の子達。彼らが、記録の中では記号としての眷属になる。
「帰還後、汝は当該存在に関する情報を不自然に秘匿し、聖座の聴取においても十分な開示を拒んだ。また、審問中、著しい感情の錯乱を示し、魔王疑惑のある存在を強く庇護した。禁忌の島に棲む存在群を魔物の軍勢ではないと擁護し、竜のような存在に対し親愛を示した」
広場が激しくざわめく。
「以上の点より、聖座は、汝を通常の証人として扱うことはできないと判断した。よって、聖女位を剥奪し、その魂に及んだ魔の影響を祓うため、光の裁きにより浄化を行う」
浄化。救済。光へ返す。
どれほど美しい言葉で飾っても、結論はひとつ。私を殺す。
ゆっくりと息を吸った。
不思議と、少しだけ落ち着いていた。
もう自分にできることは、ほとんどない。
名前は守った。すべての詳細は守った。ライラがどれほど年若い少女なのかも、ファミリア達がどれほどの規模なのかも、シルヴィアがどんな子なのかも、カイザーのことも、海の下のことも。
何もかもは、渡していない。
守れたものはある。そう、思いたかった。
サイラスが顔を上げる。
「最後に言葉を許します。ただし、民衆を惑わせる発言は認めません」
最後の言葉。
喉が乾いている。唇が少し震える。
広場を見渡した。
怒っている人々。怯えている人々。祈っている人々。泣いている人々。そして、苦しそうにこちらを見ている王国支部の神官達。
皆、恐怖の中にいる。利用する者もいるが、それだけではない。本気で怖がり、本気で守りたいと願う人々もいる。
だから、憎みきれない。
憎めないことが、苦しかった。
手枷の鳴る手を胸元へ寄せようとして、聖印がないことに改めて気づく。
それでも、顔を上げた。
「私は、魔王を見たのではありません」
広場がざわついた。サイラスの目がわずかに細くなる。
「恐怖だけで、名を与えないでください。あの島には、命がありました。温かい暮らしがありました。どうか、知らないまま憎まないで――」
「もう十分です」
サイラスが遮った。
私の言葉は、最後まで届かなかった。
それでも、言えた。
ほんの少しだけでも。
目を閉じた。
ライラの顔が浮かぶ。
困ったように首を傾げる姿。初めての来客がすぐ帰ってしまって、寂しそうにしていた少女。ご飯を出してくれた、優しい声。
――ライラさん、ごめんなさい。守れませんでした。
鐘が鳴る。聖句が唱えられる。民衆の声が、遠くなる。
処刑の準備が進み、白い光が、壇の周囲に灯り始めた。
神聖術の光。浄化のための術式。救済のための炎。
それを見つめながら、静かに息を吐き出した。
その時だった。
空が、爆発するように光った。
◆
最初、それが何なのか、誰も理解できなかった。
白い神聖術の光ではない。金色の奇跡でもない。
青白く、鋭く、空を裂くような閃光。雲の切れ間から、一直線に落ちてくる。雷のように。空そのものが切り裂かれたように。
「空を見ろ!」
「上だ!」
民衆のざわめきが瞬時に悲鳴に変わった。
サイラスも視線を上げ、聖座護衛が反射的に槍を構えようとする。
私は、動けなかった。
青白い光の中に、翼が見えた。細長い影。風を切る狂おしい軌道。雷を帯びたような光。
見間違えるはずがない。
何度も背に乗った。何度も怖くて、何度も名前を呼んだ。王国まで、私を運んでくれた。
「……まさか」
胸の奥で、心臓が跳ねた。
「どうして」
青白い影が近づく。速い。あまりにも速い。
王都の空を裂いて落ちてくるそれを見て、ようやく声にした。
「シルヴィアさん……?」
次の瞬間、私が見たのは、懐かしい甘えん坊の顔ではなかった。
怒りに歪んだ、本物の「竜」の顔だった。
目は鋭く、牙が剥き出しになり、喉の奥で本物の雷鳴が轟いている。翼の角度は、私を乗せていた時のあの慎重な飛行のそれではない。
完全に、攻撃の角度だった。
背筋が凍りついた。
シルヴィアは、怖い竜だった。
最初は本当に恐ろしかったのだ。けれど、名前を呼ぶと反応してくれた。怖がると速度を落としてくれた。ライラに注意されるとしょんぼりする、どこか威厳のないところもあったから、私はいつの間にか忘れかけていた。
彼女が、絶対的な空の捕食者であることを。
怒れば、災害そのものになることを。
シルヴィアは、私だけを見ているのではなかった。私を囲むものすべてを見ていた。
壇。鎖。武器。聖座護衛。民衆の害意。
そのすべてを、明確な「敵」として認識していた。
叫ぼうとしたが、声が出ない。
助かった、と思うより先に、別の絶望が胸を突き刺した。
――来てしまった。シルヴィアさんが、来てしまった。
青白い光が、落ちる。
轟音。悲鳴。焼ける匂い。砕ける聖印。
白い壇が、雷の光に一瞬で染まった。
◆
少しだけ、時間を戻す。
シルヴィアは、作戦行動をしていたわけではなかった。 ライラに命じられたわけでもない。遠く離れたリィナの危機を、神の奇跡のように正確に感知したわけでもなかった。
ただ、気になった。
リィナが帰ってから、しばらくは平気だった。ライラがいた。家があった。ファミリア達もいた。いつものように空を飛び、いつものように拠点の周りを見て、いつものようにライラの近くへ戻る日常。
けれど、そこにリィナがいない。
名前を呼んでくれた人間。怖がりながらも背に乗った人間。高い空で震えながら、自分の鱗に必死に触れていた人間。王国に着いた時、「ありがとう」と言ってくれた人間。
あの人間は、もういない。 そう思うと、シルヴィアの中に、どうにも落ち着かない感覚が残った。
ライラがいれば、家は満ちている。ファミリア達がいれば、いつもの日常は続く。けれど、リィナは別だった。 シルヴィアにとって、リィナはライラとは違う。家族の中心ではないし、主でもない。群れの一員とも、少し違う。
けれど――気にしていい人間だった。
怖がりながらも背に乗り、落ちないように必死にしがみつき、それでも最後には名前を呼んでくれた。王国まで運んだ時、ちゃんと礼を言った。
だから、気になる。会いに行く。 シルヴィアにとって、それはとても単純なことだった。
◆
ある朝、ライラが拠点の前でシルヴィアを見上げた。
「シルヴィア、散歩?」
シルヴィアは軽く鳴いた。 散歩。だいたい合っていた。
少し遠くへ飛ぶ。リィナがいる方へ行く。顔を見て、匂いを確認する。できれば、また名前を呼んでもらう。それだけだった。
「遠くに行きすぎないでね」
ライラはそう言った。 シルヴィアはまた軽く鳴き、翼を広げた。
ライラは、まさかシルヴィアが王都まで行くとは思っていなかったし、シルヴィア本人も、最初はそこまで大きなことをしているつもりはなかった。
ただ、会いに行くだけ。リィナに。 だから、飛んだ。
◆
空は広く、風は冷たい。リィナを乗せて飛んだ方向を、シルヴィアは克明に覚えていた。海を越え、大陸の方へ向かう。
リィナの匂いは、もう薄かった。けれど、飛んだ記憶は確かに残っている。 王国。人間の多い場所。リィナを下ろした場所。そこへ行けば、リィナがいる。それだけを頼りに、シルヴィアは飛んだ。
だが、王都上空へ近づくにつれて、激しい不快感がシルヴィアを襲った。
人間が多すぎる。音が多すぎる。匂いが濃すぎる。 金属。汗。祈り。恐怖。怒り。興奮。殺意。
シルヴィアに、人間の言葉は分からない。魔女も、聖座も、異端審問も、処刑も、聖戦も分かりはしない。 けれど、感情の波は痛いほど分かった。
群れが一つのものを囲む気配。逃げられないものへ、怒りと害意を向ける悍ましい気配。
傷つけようとしている。
その瞬間、シルヴィアの中で判断は終わった。理由はいらない。
リィナが危ない。 だから、降りる。
翼を畳み、体を傾け、喉の奥で雷を練る。
シルヴィアにとって、それは戦争ですらなかった。断罪台も、聖座も、王国も、民衆も、何の意味も持たない。
邪魔なものがある。だから、どかす。 リィナを連れて帰る。
それだけだった。
◆
雷が、壇を裂いた。
正確には、シルヴィアのライトニングブレスが、光裁の壇の支柱を狙い澄ましたように焼き切った。
私へは当てない。
私からわずかに外す。
けれど、その周囲は容赦しなかった。
白い石が砕け、聖印が焼け焦げ、壇の側面が爆ぜる。拘束具を固定していた金具が青白い火花を散らし、近くにいた聖座護衛が衝撃で一瞬にして吹き飛ばされた。
民衆の悲鳴が、広場を突き破る。
「竜だ!」
「魔竜だ!」
「逃げろ!」
誰かが倒れ、誰かが踏まれ、誰かが泣き叫ぶ。シルヴィアから見れば、それは周囲が勝手に動いているだけだった。
目的は、私。
邪魔な壇を壊し、私を縛るものを壊す。
低空を滑るように、シルヴィアが突っ込んできた。
着地はしない。爪が壇の縁を一瞬掴み、石が砕ける。翼が風を叩き、白い布と祈祷文の紙片が吹き飛ぶ。
私の手枷へ、巨大な爪が伸びた。
目を見開く。
怖い。
だが、分かった。
シルヴィアは、私を傷つけるつもりなど微塵もない。
怒り狂っているけれど、その爪は驚くほど正確だった。金属の拘束具だけが綺麗に砕ける。手首に痛みが走るが、皮一枚剥けていない。
次の瞬間、私の身体が宙に浮いた。
「っ……!」
腹側に抱え込まれる。衝撃で息が詰まり、視界が揺れる。だが、落ちない。シルヴィアの爪と身体が、私をしっかりと抱えている。
荒い。
とても荒い。
けれど、絶対に傷つけないようにしているのが分かった。
「シルヴィアさん……!」
ようやく、声が出た。
シルヴィアは返事の代わりに、低く猛々しく唸った。
機嫌が悪い。とても悪い。
私の記憶にある、ライラに注意されてしょんぼりする竜ではない。
自分を縛ったものに、自分へ害意を向けた人間達に、そしておそらく、私がこんな状態になっていたことに、激怒している。
シルヴィアは翼を大きく広げ、壇から一気に離れた。
だが、そのまま飛び去る前に、広場の上空で一瞬だけピタリと停止した。
長い首が下を向き、鋭い瞳が、広場全体を冷徹に見下ろした。
そこにいた全員が、本能的に理解したはずだ。
殺される、と。
あれは、人を守るために現れた奇跡などではない。怒れる竜、空の災害そのものだ。
サイラスも、倒れた護衛達も、民衆も、全員がその視線に凍りついた。シルヴィアの喉の奥で、再び雷が鳴る。
私は、全身の痛みを押し殺して叫んだ。
「シルヴィアさん、行きましょう!」
声は弱かった。
けれど、確かに届いた。
シルヴィアの目が、ほんのわずかに私へ向く。
「もういいです。お願い、帰りましょう」
低い唸りが続く。
まだ怒っている。
けれど、追撃はしなかった。
シルヴィアは、私の声を聞いてくれたのだ。
翼が風を掴む。
次の瞬間、青白い閃光は、私を抱えたまま王都の空を裂いて、遠く海の方角へ一気に駆け上がった。
◆
広場には、破壊と悲鳴だけが残った。
光裁の壇は崩れ、白い石は焦げ、聖具の破片が燃え残り、風に舞っていた。
その混乱の中で、サイラス審問官は生きていた。壇の破片で額を切り、片腕を押さえている。白い外套には血が滲んでいたが、その目は冷静だった。
倒れた記録官へ視線を向ける。
「記録を」
その声は、奇妙なほどはっきりしていた。
「魔女リィナ・エルシアの断罪直前、禁忌の島の竜が出現。光裁の壇を破壊。聖座護衛を攻撃。リィナ・エルシアを奪取し、飛去。竜はリィナ・エルシアのみを回収した。以上により、リィナ・エルシアと禁忌の島勢力の結びつきは明白」
――明白。
その言葉が、広場の空気に重く落ちた。
民衆の中から声が上がる。
「魔女を取り返しに来た……」
「魔王の竜だ!」
「魔女リィナが逃げた!」
疑惑は、確信に変わった。
真実は違う。シルヴィアは、寂しくなって私に会いに来て、私が危なかったから助けただけだった。
だが、誰がそれを信じるのか。
広場の人々が見たのは、断罪直前の魔女が、禁忌の島の竜によって奪還される光景だった。
これ以上ないほど分かりやすい、魔王との結びつきの証拠。
そう、完全に解釈された。
◆
王宮へ報告が届いた時、会議室の空気は完全に凍りついた。
国王、宰相、王国軍将官、全員が言葉を失った。
「リィナ・エルシアは」
国王が短く問うと、報告官が蒼白な顔で答えた。
「竜に連れ去られました。行方は海の方角。おそらく、禁忌の島へ向かったものと」
沈黙。
将官が額に手を当てた。
彼はあの島で、私に絡み、ライラに注意されて懐いた様子を見せていた飛竜を知っている。今回の行動が、ライラの命令によるものではない可能性は、彼には分かった。シルヴィアが私に懐いていて、害意を感じて単独で動いたのだろう、と。
だが、それを法国が信じるはずがない。民衆が信じるはずもない。
宰相が低く呟いた。
「法国は、これを証拠と呼ぶでしょう」
教授が目を閉じた。
「魔女奪還。禁忌の島の竜。断罪台の破壊。……学術的な事実以前に、政治的な物語として完璧に完成してしまった」
「リィナは魔女などではありません!」
王国支部代表が唇を噛んだ。
「それを我々は知っている」
国王が重く言った。
「だが、世界がそう見るとは限らぬ。彼女は救われた。だが、世界は今、あれを救出とは呼ぶまい。法国は動く。止めるのは難しい。聖戦の口実としては、十分すぎます」
誰も反論できなかった。
世界は知らないまま、最も分かりやすい「魔王と魔女」の答えを手に入れてしまったのだ。
◆
空の上で、私は震えていた。
風が痛い。処刑台で晒されていた時とは別の冷たさが身体を打つ。
シルヴィアは速かった。怒っているせいか飛び方は荒い。けれど、私を絶対に落とさない。抱え方はぎこちないほど慎重で、爪も、身体の支え方も、痛みを与えないようにしているのが分かった。
その優しさが、逆に涙を誘った。
「シルヴィアさん……」
声を出すと、シルヴィアが低く唸った。まだ機嫌が悪い。
私は震える手を伸ばし、そっとシルヴィアの鱗に触れた。
懐かしい感触。
訓練の時、恐る恐る触れた鱗。空を越えた時、必死に掴んだ背。怖くて、それでも信じられるようになった温かさ。
「来てくれて、ありがとう」
それは本心だった。
助かった。死なずに済んだ。もう一度、ライラに会える。
けれど、その直後に、別の絶望が口から零れた。
「でも……ごめんなさい」
シルヴィアには、その意味は分からない。
けれど、私が泣いていることは分かったらしい。
弱っている。悲しんでいる。
だから、シルヴィアは少しだけ飛び方を穏やかにした。風の当たり方が変わり、身体への負担がわずかに軽くなる。
優しい。
やっぱり、この子は優しい。
でも、世界はそう見ない。
あの広場で起きたことが、どのように最悪な物語として語られるかを、私は理解している。これで疑惑は確信に変わり、世界は魔王の竜が魔女を奪還したと言うだろう。
シルヴィアの鱗に額を寄せた。
「ごめんなさい……」
風に消えそうな声で、何度も呟いた。
シルヴィアへ。
ライラへ。
王国へ。
これから魔王と呼ばれるかもしれない、あの穏やかな家へ。
全部へ。
◆
海が見えてきた。潮の匂いが濃くなり、空の色が少し深くなった。
シルヴィアは迷わず、あの島へ帰る。私を抱えたまま、一直線に飛ぶ。
島に近づくと、海の下で巨大な気配が動いた。海中の子達が気づいたのだ。上空にも影が増える。ワイバーン達が、遠巻きに私達を見つめている。
誰も攻撃しない。
ただ、シルヴィアの怒りを察しているようだった。
やがて、島影が見えた。
禁忌の島。
世界が恐れる島。
王国が発表した、『主人のいる島』。
けれど私にとっては、ライラがいる場所、ファミリア達が暮らす場所、自分が救われた場所。
そして今、また戻ってきてしまった場所。
シルヴィアが拠点の方へ高度を下げると、ファミリア達がざわつき始めた。大型の影が動き、小型の子達が顔を出す。カイザーが遠くからゆっくり顔を上げた。
騒ぎを聞いたのか、ライラが走って出てきた。
「シルヴィア? どこ行ってたの?」
その声は、まだ何も知らない。
シルヴィアが低く着地し、腹側に抱えていた私を、そっと下ろした。
その瞬間、ライラの目が大きく見開かれた。
「……リィナ?」
立とうとした。けれど、足に力が入らなかった。膝が崩れ、砂と草の上に、身体が落ちる。
ライラが慌てて駆け寄ってきた。
「リィナ!」
その声を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていたものが完全に切れた。
ライラがいる。
何も知らない綺麗な顔で、私を心配してくれている。
それが安心で、苦しくて、申し訳なくて、涙が一気に溢れた。
「ごめんなさい、ライラさん」
声は、掠れていた。
ライラは目を瞬かせる。
「何が?」
答えられなかった。
何から話せばいいのか分からない。
自分が魔女にされたこと。処刑されそうになったこと。シルヴィアが助けに来てくれたこと。そのせいで世界がきっとライラを魔王だと思うこと。聖戦の旗が掲げられかけていること。
全部が言葉にならない。
「ごめんなさい……」
それしか言えなかった。
ライラは困惑しながらも、そっと私の肩に手を伸ばした。
「大丈夫。とりあえず、怪我してる? どこか痛い?」
その問いが、あまりにも普通だった。
普通に心配してくれる、ただそれだけのことが、今の私には痛いほど優しかった。
背後で、シルヴィアが低く唸った。
ライラはそこで初めて、シルヴィアの様子がおかしいことに気づいた。
ただ機嫌が悪いのではない。
リィナを傷つけようとした何かに対して、今も激怒し続けているのだ。
その瞳は、まだ王都の方角を睨みつけていた。
ライラはシルヴィアを見上げ、次に私を見た。
私は泣いている。衣は簡素で、手首には砕けた拘束具の跡があり、立つこともできない。
何かがあった。
それも、よくない何かが。
ライラはまだ、世界がどれほど動き出してしまったのかを知らない。けれど、目の前で泣いている私と、怒りに震えるシルヴィアを見て、静かに表情を変えた。
「……シルヴィア」
名前を呼ぶと、シルヴィアは唸りながらライラへ視線を向けた。
「リィナを、連れて帰ってきてくれたんだね」
シルヴィアは低く鳴いた。怒っているけれど、少しだけ誇らしげでもあった。
ライラは、私の肩に手を置いたまま、小さく言った。
「ありがとう」
その言葉に、シルヴィアの喉の音がわずかに変わる。
私は、涙で滲む視界の中、ライラを見上げた。
言わなければならない。
全部。
けれど、今はまだ声が出ない。
ただ、もう一度だけ、掠れた声で呟いた。
「ごめんなさい、ライラさん……」
ライラは、やっぱり意味が分からないという顔をした。けれど決して責めず、ただ私を支えてくれていた。
リィナは救われた。
確かに、救われた。
けれど同じ瞬間、世界は最悪の答えを手に入れてしまった。
魔女リィナは、魔王の竜に奪還された。
その破滅の物語が、今まさに外の世界へ広がろうとしていることを、ライラはまだ知らない。
私だけが、その重さを知っていた。
だから私は、助かったことに安堵しながらも、ただ泣くことしかできなかった。