シルヴィアの帰還は、いつもと決定的に違っていた。
普段なら、空から戻ってくる彼女の姿はどこか得意げだった。大きな翼で風を掴み、拠点の上を一度ゆるく旋回してから、広い場所へ悠然と降りてくる。ライラが顔を上げれば当然のように近づいてきて、勢い余って砂埃を立てては、「もう少しゆっくり」と注意されるのがいつもの光景だった。
けれど、この日のシルヴィアは違った。空気を切り裂くような速度で戻ってきたのだ。
高い空から一直線に島へ入り、速度を落としきらないまま拠点の近くへ滑り込んでくる。翼が風を叩くたび、周囲の草が激しくなぎ倒された。近くにいた小型の子達が驚いて飛び起き、ワイバーン達が慌てて空で進路を譲る。
怒っている。誰が見ても分かるほど、シルヴィアは激怒していた。
喉の奥で低い雷鳴のような音が鳴り響いている。鱗の隙間を走る青白い光はいつもより鋭く、近づく者すべてを拒むように激しく明滅していた。
「シルヴィア? どこ行ってたの?」
ライラは最初、いつもの調子で声をかけた。少し離れた場所で、倉庫の確認をしていたところだったらしい。手には在庫確認用の板を持ち、服の袖にはうっすらと金属粉がついている。
だが、次の瞬間、ライラの表情が凍りついた。
シルヴィアの腹側に、誰かを抱えていることに気づいたのだ。
シルヴィアは地面へ降りる時だけ、奇妙なほど慎重だった。着地そのものは荒く、尾が地面を打ち、凄まじい風が巻き上がる。けれど、抱えているものだけは決して揺らさないよう、爪の角度も翼の動きも、必死に抑え込んでいるのが分かった。
そして、彼女はそっと、それを地面へ下ろした。
「……リィナ?」
ライラの声が、小さく掠れた。
◆
地面に下ろされたリィナは、立つことができなかった。
膝が崩れ、草と土の上へ倒れ込むように座り込む。簡素な白い衣は乱れ、袖口は無惨に裂けかけていた。胸元には聖印がない。聖女として身につけていた飾りも、祈り紐も、何一つ残っていなかった。
手首には、赤く擦れた痛々しい拘束痕が残っている。砕けた金属の小さな破片が、まだ片方の手首に引っかかったままだった。強く縛られていたのだろう。皮膚は腫れ上がり、ところどころから血が滲んでいた。
顔色は白を通り越して青ざめ、唇は乾ききっている。意識はあった。だが、心だけがどこか遠い暗闇に置き去りにされたような、呆然とした感覚のなかにいた。
シルヴィアは、リィナを下ろした後も決して離れようとしなかった。体を低くし、リィナの背後を完全に塞ぐようにして立つ。低い唸り声が地鳴りのように続き、周囲に集まり始めたファミリア達へも、「近づくな」と告げるような圧倒的な圧を放っていた。
カイザーが遠くで顔を上げ、主任も倉庫の入り口からこちらをじっと見つめている。小型の子達は不安そうに互いの顔を見合わせ、採取組の何体かは運びかけていた素材をその場に置いた。
いつもの家の空気が、一瞬で張り詰めていく。
ライラが真っ直ぐに駆け寄ってきた。
「リィナ!」
その声を聞いた瞬間、リィナの視界が激しく揺れた。
ライラがいる。変わらない綺麗な顔で、自分の名前を呼んでくれている。そのことが、ひどく安心で、ひどく苦しかった。
リィナは震える唇を開いた。
「ごめんなさい、ライラさん」
最初に出た言葉は、それだった。
ライラはリィナの前で膝をついた。
「何が?」
問い返す声に、責める響きは微塵もなかった。本当に分からない、という純粋な声だった。そのことが、リィナの胸をさらに強く締めつけた。
「ごめんなさい……私……」
言わなければならないことは山ほどある。聖座のこと、審問のこと、魔女と呼ばれたこと、処刑されそうになったこと。シルヴィアが来てくれたこと。そして、そのせいで外の世界の誤解が、もう引き返せない形になってしまったこと。
だが、言葉が続かなかった。喉が詰まって、声にならない。
ライラはリィナの顔をじっと見つめ、それからすぐに視線を下へ移した。
拘束痕。裂けた袖。震える指。血の気のない顔。乱れた呼吸。そして、背後で今も怒り続けているシルヴィア。
ライラの目が、静かに据わった。
「リィナ、怪我してる?」
リィナは答えられない。
「痛いところある?」
ライラはリィナの手にそっと触れた。腫れ上がった拘束痕を見て、痛ましそうに眉を寄せる。
「手、見せて」
「ライラさん、私は……」
「先に手」
強くはない。けれど、絶対に譲らない声だった。リィナは思わず口を閉ざした。
ライラは、手首に残った金属片を慎重に外してくれた。傷口に触れないよう、指先だけで丁寧に。シルヴィアが低く唸ると、振り返らずに語りかける。
「シルヴィア、落ち着いて。リィナはここにいるから」
シルヴィアの唸り声はすぐには止まらなかったが、ほんの少しだけ低くなった。
「大丈夫。今はここにいる」
もう一度言われると、シルヴィアはリィナの背後に顔を寄せた。匂いを確認するように鼻先を近づけ、傷のある手首を見ては、また喉の奥で不快そうに雷を鳴らす。
「シルヴィアさん……」
リィナがかすれた声で呼ぶと、シルヴィアはぴたりと動きを止めた。怒りは消えていない。だが、リィナの声には確かに反応する。
ライラはその様子を見て、ゆっくりと息を吐き出した。
「シルヴィアがこんなに怒ってるってことは、相当ひどいことされたんだね」
その言葉に、リィナの胸の奥がまた激しく揺れた。
ライラは、自分が世界から魔王と呼ばれることになった経緯について、まだ何も聞いていない。まず見ているのは、リィナの傷だった。
それが、たまらなく苦しかった。
責めてほしかったわけでも、怒ってほしかったわけでもない。けれど、ライラが自らのことより先にリィナの心配をするたび、リィナは自分が取り返しのつかないことを外の世界へ繋いでしまったのだと、より深く思い知らされる気がした。
ライラは簡単な布を取り出し、リィナの手首を包んだ。
「ちゃんと手当てする。立てる?」
リィナは頷こうとしたが、身体が全く動かなかった。膝に力が驚くほど入らない。
「じゃあ、座ったままでいい。水、持ってくる」
そう言うと、近くにいた小型の子がすぐに動き、拠点の方へ走っていった。主任がいつの間にか近くまで来ていて、無言で手当て用の箱を差し出す。
それを見て、リィナの喉の奥がまた熱くなった。
ここは、何も変わらない。みんなが当たり前のように動き、ライラを助け、傷ついた者を当たり前のように気にかけてくれる。自分が壊してしまったかもしれない、この愛おしい家が、ここにある。
「ごめんなさい……」
また、同じ言葉が地面に落ちた。
ライラは手当ての準備をしながら、少し首を傾げた。
「だから、何が?」
リィナは顔を歪めた。言わなければならない。今、すべてを話さなければならない。どれほど苦しくても、どれほどライラの目を見るのが怖くても。
「話します」
リィナは震える息を吸い込んだ。
「今、話さないといけません」
「あとでいいよ。休んでからで」
「駄目です。今、聞いてください。お願いします」
ライラは、少しだけ沈黙した。それから、手当て用の布をリィナの手首へ巻きながら頷いた。
「分かった。でも、無理そうなら止めるから」
小さく頷き、リィナは話し始めた。
◆
言葉にするたび、リィナの胸の奥が引き裂かれるようだった。
聖座から届いた丁寧な聴取要請。完全に拒否すれば疑惑を深めるため、条件付きで応じざるを得なかったこと。
最初は通常の聴取だったが、その後に異端審問局が乱入してきたこと。
ライラを魔王と呼ばれたこと。
ファミリア達を、魔物の軍勢と呼ばれたこと。
シルヴィアを、偽りの聖竜、あるいは魔竜と呼ばれたこと。
リィナは必死に否定した。生活があり、役割分担があり、意思疎通がある事実と矛盾すると説明した。けれど、彼らは最初から分かろうとしていなかった。
言葉を選べば選ぶほど「不自然に隠している」と記録され、ライラやファミリア達を侮辱され続けた。
耐えきれなくなって、叫んでしまったこと。
――彼女は魔王ではない。あの子達は魔物の軍勢ではない。ただ暮らしていただけだ。
その瞬間、『聖女様がご乱心になられた』と叫ばれ、監禁されたこと。
そして、信徒の安全確保という名目のもとで処刑が決まったこと。光の裁きによる「浄化」という美しい言葉で、民衆の前で殺されかけたこと。
そこまで話して、リィナは激しく息を詰まらせた。
ライラは黙って聞いていた。シルヴィアは、途中で何度も怒り狂った。特に、自分が魔竜と呼ばれ、リィナが処刑されそうになったことを聞いた瞬間、喉の奥で凄まじい雷が鳴り、周囲の空気がびりびりと震えた。
ライラはそのたびに、シルヴィアへ短く声をかけて制していた。
「待って」
「ここにいるから」
「まだ聞く」
リィナは、手元の布をきつく握りしめた。
「シルヴィアさんが来てくれました。私を助けてくれました。けれど……」
そこから先が、最も残酷な現実だった。
「外の世界から見れば、あれは……魔女が、魔王の竜に奪還されたようにしか見えません。これで、疑惑は確信に変わります。私は魔女として処刑されるところを、禁忌の島の竜に連れ去られた。彼らは、きっとそう記録します。民衆もそう信じます」
リィナは顔を上げられなかった。
「私があの島に流れ着いたから。私が、王国へ帰ってきたから。私が、シルヴィアさんに送ってもらったから。私が、あなたを恐怖だけで語らなかったから。私が、あなたを庇ったから。だから、あなたが世界から魔王にされて……」
涙が止まらなかった。声が詰まる。
「ごめんなさい、ライラさん」
それしか言えなかった。
ライラの沈黙が怖かった。怒っているのか、裏切られたと思っているのか。彼女にとってここはただの、温かい家だったのに。それをリィナが、世界に見つけさせてしまった。
だが、ライラは静かに言った。
「呼ばれるだけなら、別にいいよ」
リィナは一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「魔王って呼ばれるだけなら、別にいい。だって、私がそうじゃないなら、私は変わらないし」
リィナは固まった。
「よく、ありません。よくありません、ライラさん。魔王と呼ばれるということは、それだけで敵と見なされ、討伐対象にされるということです。あなたが何をしていなくても、あなたの名前ではない何かで、世界に規定されてしまうということです」
「うん」
ライラは頷いた。その頷きは、現実を知らない者のそれではなく、すべてを受け止めた上でのものだった。
「それは嫌だと思う。でも、呼ばれること自体は、たぶん私の中身を変えない」
ライラはリィナの手首の布を、優しく結び直した。
「ただ、それでリィナが殺されそうになったなら嫌。それでシルヴィアがこんなに怒るくらい、リィナにひどいことをしたなら嫌」
周囲の空気が、少しだけ重くなった。
「それでファミリア達を傷つけに来るなら、止める」
リィナは、ライラを見た。
彼女は泣いていなかったし、怒鳴ってもいなかった。ただ、目が恐ろしいほど静かだった。いつもののんびりした柔らかさの奥で、何かが完全に切り替わっている。
リィナは気づいた。ライラは、悲しんでいないのではない。反応する箇所が普通の人間とは違うのだ。
自分が魔王と呼ばれることより、リィナが傷つけられたこと。シルヴィアが激怒するほどの害意があったこと。ファミリア達が危険に晒されるかもしれないこと。彼女にとって、大切なのはそこだけだった。
彼女には、どこか覚えがあるようだった。何もしていなくても、拠点を狙われることがある。持っているものが多いというだけで、敵と見なされることがある。話し合う前に壁を壊されることがある、と。
だから、守る。
好きで戦うわけではない。奪いたいわけでも、支配したいわけでもない。ただ、壁の内側にいる家族を守るために、必要な準備をする。その確かな感覚が、彼女の奥深くに残っていた。
ライラがリィナを見つめる。
「攻めてくるの?」
問いは短かった。リィナは唇を噛む。
「おそらく」
「どれくらい? 何を持ってくる? どうやって来る? 何をしに来る?」
もう、ライラの声は冷徹な実務の声だった。
リィナは涙を拭った。泣いている場合ではない。答えなければならない。自分にできることがあるなら、すべて言葉にするのだ。
「聖戦軍として動く場合、中心は聖騎士団と聖座直轄教会の武装神官になります。ですがそれだけではなく、義勇兵、傭兵、治癒術士、神官、補給部隊、あらゆる者が加わるはずです。どれほどの規模になるかは分かりませんが、聖座が本気で動くなら、かなり大きな遠征軍になる可能性があります。船も多数集められるでしょうし、段階的に戦力を送り込んでくるかもしれません」
周囲のファミリア達が、意味までは理解していなくても、リィナの声の重さを感じ取って静まり返る。
「全員が戦う人?」
「いいえ。ですが、外から見れば一つの聖戦軍です。武器は剣、槍、弓、クロスボウ、魔法杖、聖具、対魔結界具などが中心になると思います。船には船載弩や対魔用の装備が積まれるかもしれません。大船団で接近し、結界や加護によって海域の危険を退けながら進もうとするはずです。上陸後は聖騎士団を中心に隊列を組み、島の中央部を目指すと思われます。ただ、実際にどこまで統制できるかは分かりません。義勇兵や傭兵の中には独断で動く者も出るでしょうし、恐怖から過剰な行動を取る者もいるかもしれません。目的も一つではありません。表向きは主人の討伐、魔王疑惑の排除、私の奪還あるいは再断罪、そして聖座の威信回復になるでしょう。ですが、人によっては本当に世界を守るためだと信じているでしょうし、命令だから従うだけの者もいると思います」
「交渉は?」
「……難しいと思います。彼らはあなたを魔王だと思っていますから。特に『聖戦』として動くなら、最初から討伐のみを目的にします。ただ、全員が悪意で来るわけではありません。本気で人々を守ろうとしている者も、怖がっている人も、命令に従うしかない人もいます。私は、彼らを全員憎むことはできません。でも、止めなければ、多くの人が死にます」
ライラは静かに目を伏せた。
「分かった」
短い返事だった。けれど、その一言で、島全体の空気が決定的に変わった。
◆
その夜、リィナ達は遅くまで話し合った。
リィナは知っている限りのことを話した。聖戦軍がどう動くか。聖騎士達が何を信じ、神官達がどんな言葉に反応し、義勇兵が何を恐れるか。
ライラは、必要なことだけを短く尋ねた。どこで止めるか。何を守るか。誰を傷つけないようにするか。どこから先を絶対に通してはいけないのか。
答えながら、リィナは自分の声が少しずつ違うものになっていくのを感じていた。聖女として、王国支部の実務家として、人を救うための言葉を選んできたはずのリィナが、今は「戦争」の話をしている。誰がどこで止まり、誰が進み、誰が死ぬか。それを前提にした言葉だった。
苦しかった。けれど、黙っている方がもっと多くの人を殺す。だから、すべてを話した。
夜が深くなっても、ライラは席を立たず、リィナも動けなかった。
やがてライラは、静かに言った。
「倉庫、開ける」
それはただの一言だった。だが、その一言で、この家は牙を剥き始めた。
◆
翌朝、拠点の奥にある倉庫の扉が開いた。いつも使っている食料保管や日用品の倉庫ではない。さらに奥にある、分厚い鉄の扉の先だった。
そこには、この家の温かい生活感とは完全に違うものが詰まっていた。
金属インゴット。セメント。ポリマー。電子基板。火薬。弾薬。発電設備。ケーブル。罠。予備武器。そして、冷たい光を帯びた、こちらの世界の理を超えた機器の一部。
リィナは言葉を失った。昨日まで見ていたこの家は、木材や石材に囲まれた、ファミリア達の穏やかな居場所だった。けれど、今開かれた倉庫は違う。眠っていた「防衛拠点」の心臓が、音もなく姿を見せたようだった。
「使うために置いてあるから」
ライラの一言に、リィナは何も返せなかった。
主任が、すぐに動き始めた。何をどこへ運ぶべきか、誰に言われるまでもなく完璧に理解している。大きな手で資材を確認し、必要なものを次々と外へ出していく。
採集組も動いた。アンキロ、ドエディクルス、マンモス、テリジノサウルス。運搬役のアルゲン、ケツァル、リニオグナタ。ワイバーン達も加わる。
普段は家の生活を支えるためのファミリア達が、今はまったく別の意味を持って動き始めていた。鉄が運ばれ、セメントが練られ、重い部品が、翼あるファミリア達の手で拠点の外へ運ばれていく。
ライラは作業台や炉を確認し、手早く指示を出す。大声ではない。焦ってもいない。だが、一切の迷いがなかった。
完璧な「防衛拠点」としての駆動。
それが、リィナにはたまらなく苦しかった。この家は、本当ならこんな空気を纏う必要はなかったのに、と。
ライラは、奥に隔離されていた冷たい機器のいくつかを取り出した。銀色とも黒ともつかない材質。淡く走る電子的な光。触れていないのに、空気の温度が下がったように感じる。
「それは……?」
「見張りみたいなもの。動いてるものとか、距離とか、熱とか……たぶん。使い方は分かるけど、説明は難しい」
ライラはそう言って、機器を見下ろした。
「冷たいから、あんまり好きじゃないんだけどね」
その言葉が、リィナには妙に印象に残った。好んで使っているわけではない。けれど使うのだ。家を守るために。
島の各所へ、資材が運ばれていく。拠点の外周や、少し離れた海岸線の斜面には、金属の塔の骨組みが建ち始めた。
最初は一本。それから、また一本。上部に何かの装置が取り付けられ、射線を確かめるように、ライラが何度か角度を見た。主任が無言で部品を支え、リニオグナタが高い位置へ資材を正確に放り込んでいく。
それが何をするものか、リィナには完全には分からない。けれど、優しいものではないことだけは分かった。近づく者を止め、必要なら、容赦なく傷つけるもの。
そう理解した瞬間、胸が少し痛んだ。
◆
リィナも、ただ守られているだけではいられなかった。身体はまだ本調子ではないし、手首の痛みも残っている。処刑台の記憶は、ふとした瞬間に呼吸を詰まらせた。
それでも、机に向かった。紙を広げ、魔法陣を書き、消し、また書く。神聖術の研究者として、リィナにできることがあるはずだ。
戦いを止めることはできなかった。なら、せめて傷つく数を減らす。
声を遠くまで届けるための魔法。武器を捨てた者や、戦う意思を失った者を見分けるための印。ファミリア達の負傷を早く見つけるための術。
ライラの機器と、リィナの魔法をどう噛み合わせるか。どれも、至難の業だった。この島の魔力環境は濃すぎるし、ライラの持つ機器は魔力に対して奇妙な応答を返す。こちらの世界の術式とは根本的に異なる理屈で動いているらしく、リィナの知識では完全には理解できない。
それでも、試す。少しずつ調整し、失敗して、また書く。
術式を組み替え、祈祷句を短くし、補助式を別の位置に置き、魔力の流れを細かく分ける。
人を救うために研究してきたその手で、今、戦争を前提にした魔法を書いている。その矛盾に、胃が激しく痛む。だが、止められなかった。
「私は、戦いを止められませんでした。なら、せめて傷つく数を減らします」
机の上で小さく呟いた。その声を聞いていたのか、近くにいたシルヴィアが低く鳴いた。
シルヴィアは、あれからリィナのそばを片時も離れたがらない。リィナが作業をしている間も近くで丸くなり、少しでも苦しそうに息を詰めると、すぐに跳ね起きる。
リィナは、そんなシルヴィアの鼻先にそっと触れた。
「大丈夫です」
そう言うたび、嘘をついている気がした。
大丈夫ではない。
けれど、言わなければシルヴィアがまた怒る。シルヴィアはリィナを守ろうとしてくれている。それが嬉しくて、同時に怖かった。彼女が怒るほど、外の世界から見れば『魔王の竜』になっていくからだ。
だから、彼女にも、自分自身にも言い聞かせる。
大丈夫です、と。
◆
準備が進む中で、夜、作業が一段落した後にライラが言った。
「リィナは、ここにいて。危ないから」
当然のような心配だった。
リィナは、少しだけ目を伏せた。安全な場所に置いておきたいというライラの気持ちは、どこまでも優しい。
けれど、首を振った。
「私が何もしなければ、最初から言葉がなくなります。通じない人の方が多いと思いますが、言わないまま始めたら、本当にただの殺し合いになります」
リィナは手首の布を押さえた。痛みはあるが、それでも前を向く。
「私は、もう聖座の聖女ではないかもしれません。でも、まだ言葉を知っています。あの人達が何を恐れているかも、何を信じているかも、少しは分かりますから」
「危ないよ。また、ひどいことされるかもしれない。リィナが死ぬかもしれない」
ライラの声が、ほんの少しだけ強くなった。リィナの胸が痛んだ。ライラは、自分が魔王と呼ばれることには驚くほど淡白だった。けれど、リィナが死ぬかもしれないことには、明確に感情を動かしている。
そのことが、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく苦しい。
「それでも、私は、何もしないで見ていることはできません」
シルヴィアが低く鳴いた。ライラはその声を聞き、リィナを見て、それから深く息を吐き出した。
「じゃあ、条件。危ないと思ったら戻ること」
「……はい」
「シルヴィアのそばから離れないこと」
シルヴィアが、当然だと言いたげに喉を鳴らした。
「無理しないこと」
リィナは少しだけ苦笑した。
「それは、守れる自信があまりありません」
「守って」
ライラは即答した。リィナは言葉に詰まり、それから小さく頷いた。
「……努力します」
「努力じゃなくて、守って」
「はい。守ります」
それで、ライラはようやく頷いた。完全に納得したわけではないけれど、リィナの意志を折ることはしなかった。
シルヴィアがリィナの背後で低く鳴く。守る、そう言っているようだった。
◆
その日から、本格的な準備の日々が始まった。島全体の空気が変わっていくのは、誰の目にも明らかだった。
主任が建材を運び、採取組がいつもより多くの素材を集める。金属の塔の骨組みが少しずつ増え、冷たい機器が島の各所へ配置されていく。ライラが倉庫と工業区画を何度も行き来し、炉の火が長く灯り、作業台の音が夜遅くまで響く。
小型組は、安全のために居住区の一部に集められ、普段より多くの備蓄が積まれていく。水棲組はいつもより遠くの海へ出て、ワイバーン達は空を巡回する。カイザーは正門近くでじっとしている時間が増えた。遠くの斜面では、ヴェロナが普段の見回りとは違う鋭さで何かを確認していた。
ファミリア達は、命令されて無理やり動いているわけではない。それぞれが、自分の役割を完全に理解しているようだった。家を守る、ライラを守る、仲間を守る。そのために動いている。
外から見れば、これは完璧な『魔王軍の出陣準備』に見えるのだろう。禁忌の島の奥で、巨大な生物達が動き、金属の塔が建ち、冷たい機器が配置され、竜が空を飛び、海の下で何かが泳いでいる。その光景を外の者が見れば、恐怖するに違いない。
だが、リィナは知っている。これは侵略の準備ではない。ライラが世界を滅ぼすために倉庫を開けたのではない。家を守るためだ。ファミリア達が傷つけられないように、もう誰も、知らないまま踏み荒らさないようにするための準備なのだ。
だからこそ、苦しかった。
家を守るための純粋な準備が、外からは魔王城の戦争準備に見える。その隔たりが、どうしようもなく遠かった。
◆
夜。
リィナは拠点の外に立っていた。
建ちかけの金属の塔が、月明かりを受けて鈍く光っている。遠くでは主任がまだ作業を続けており、重い資材を運ぶ音が静かな夜に響く。
シルヴィアは、少し離れた場所でリィナを見つめていた。彼女は相変わらず、王都の方角へ時折鋭い視線を向けている。怒りは少し収まったが、忘れたわけではない。リィナに害意を向けたものを、シルヴィアは克明に覚えているのだ。
ライラは倉庫からまた資材を運び出していた。小さな体で、重そうなものを当たり前のように扱っている。
その姿を見て、リィナは胸の奥が重く沈むのを感じた。
自分は、戦争を止められなかった。
今、自分は戦争の準備を手伝っている。
人を救うために学んできた術式を、少しでも被害を減らすための道具へ変えようとしている。
それでも、何もしないよりはましだと信じるしかなかった。そう信じなければ、立っていられなかった。
「リィナ」
ライラの声がした。振り返ると、作業用の道具を持った彼女がこちらを見ていた。顔には疲れがあるが、目はまだ死んでいない。
「休んで。倒れたら困るから」
リィナは言葉を止めた。その言い方は、どこまでも優しかった。責めていない。ただ心配している。リィナは少しだけ笑おうとした。
「はい」
うまく笑えたかは分からなかった。眠れる気はしない。目を閉じれば、光裁の壇が浮かび、魔女と呼ぶ声が聞こえ、シルヴィアが空から落とした青白い光が見える。
それでも、休まなければならない。
明日も、やることがある。
リィナはもう一度、建ちかけの金属の塔を見た。
その向こうには、いつもの穏やかな居住区がある。眠っている小型組、水を飲むマンモス、空を巡るワイバーン、海にいる大きな影。帰る場所としての、大切な家。
そして、守るために姿を変え始めた砦。
ライラは魔王になるためではなく、ただ家を守るために、倉庫の扉を開けた。
その日から、アルカノアは、家でありながら、確かな砦になった。