廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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聖戦宣言

聖座からの通達は、静かな言葉で書かれていた。

 

そこに、怒号はなかった。血を求めるような文言も、復讐を叫ぶような言葉もない。封蝋は正式なもので、白い紙面には整った祈りの文句と、慎重に選ばれた語句が並んでいた。

 

書面には、禁忌の島を人類社会への重大な脅威と認定する文言があった。

 

その主人は魔王疑惑存在とされ、リィナ・エルシアは魔の影響下にある被疑者として扱われていた。

 

聖座は沈黙しない。

 

人類社会の防衛のため、秩序のもとに行動する。

 

義勇を願う者は、各地教区の正式窓口へ申し出ること。

 

船舶、物資、治療術士、神官、聖具、護符、医療資材の提供を求めること。

 

許可なき無断の遠征、私的な討伐行動はこれを固く禁ずること。

 

すべては、聖座の指揮のもとに。

 

すべては、人の世を守るために。

 

その声明は、表面だけを見れば人々を落ち着かせるためのものだった。恐れるな、勝手に動くな、聖座が道を示す。秩序のもとに祈り、必要なら正式な形で力を貸せ、と。

 

血に飢えた呼びかけではない。

 

むしろ、恐怖に震える民衆へ差し出された、救いの手のように見えた。

 

だからこそ――人々は爆発的に動いた。

 

聖座がこれほど厳重に言うなら、本当に危ないのだ。

 

魔王は本当に実在し、王都の断罪台があの竜に引き裂かれたのなら、次は自分達の街かもしれない。

 

家族を、村を、信仰を守るために、誰かが立つのなら自分も立たなければならない。

 

そうして、聖戦という名の巨大な門から、最初の人々が歩き始めた。

 

 

聖都の大聖堂前には、朝から長い列ができていた。

 

巡礼者達が膝をつき、泣きながら祈っている。そのすぐ近くに置かれた献金箱へ、人々はただの小銭を入れていくのではなかった。

 

指輪を外す者がいた。

 

母から受け継いだ小さな銀の飾りを、布に包んで差し出す者がいた。

 

老いた男が、震える手で財布を丸ごと置いていった。

 

若い母親が、眠る子供を抱きながら、泣きそうな声で縋りつく。

 

「この子達を守ってください……」

 

献金箱のそばに立つ神官は、何度も同じ言葉を穏やかに繰り返した。

 

「聖座は、確かに皆様の祈りを受け取ります。混乱なさらず、列にお並びください。正式な窓口はこちらです」

 

金香派から派遣された管理役達の動きは、驚くほど手際が良かった。

 

受付を細かく分け、献金を記録し、名前を控え、物資を整え、偽造品の売買を厳格に禁止する。

 

混乱を防ぐ。

 

信徒の不安を受け止める。

 

偽物を排除し、正式な窓口を作る。

 

どれも、正しかった。

 

実際にそれがなければ、聖都はもっと早く無秩序な混乱に呑まれていただろう。

 

だからこそ、人々は疑わずに従った。

 

聖具店には人が狂ったように押し寄せていた。

 

家の扉に掲げる聖印。

 

旅立つ息子へ持たせるための小さな守り布。

 

主人は何度も同じ説明を繰り返す。

 

「数には限りがあります。聖座印のない偽物はお避けください」

 

その背後で、金香派と繋がる管理役が冷徹に帳簿をつけていく。

 

恐怖は、祈りになった。

 

祈りは、物になった。

 

物は、金になった。

 

そして金は、また新たな祈りを生み出すための巨大な流れに組み込まれていく。

 

誰かが邪悪な企みを叫んでいたわけではない。

 

多くの者は、本気で不安に震えていた。

 

だからこそ、その欲望と善意の流れは誰にも止められなかった。

 

 

地方の小さな教会でも、重い鐘が鳴っていた。

 

神官が聖座から届いた声明を読み上げると、広場はしばらく静まり返った。やがて、一人の若い男が進み出た。

 

「義勇兵の受付は、ここでよろしいのでしょうか」

 

地方神官は、一瞬だけ言葉に詰まった。若い男の後ろでは、母親らしき女性が、蒼白な顔で息子の袖を必死に掴んでいた。

 

「やめておくれ……お前が行かなくても、騎士様達が行ってくださるよ」

 

けれど、若い男は母親を見なかった。

 

「魔王が本当にいるなら、誰かが行かなきゃいけないんだ」

 

それは純粋な勇気であり、同時に、底知れぬ恐怖でもあった。

 

自分が立たなければ村が臆病だと思われるかもしれない。信仰が薄いと見なされるかもしれない。誰かが行くなら、自分も行かなければならないのではないか。

 

そういう無言の圧力が、確かに彼らの背中を押していた。

 

「俺も登録します」

 

「うちの兄も行くと言っています」

 

「荷運びならできます」

 

神官の手元で、名簿の名前が瞬く間に増えていく。

 

全員が戦いを望んでいるわけではなかった。

 

村を守りたい者。

 

名誉を求める者。

 

周囲の目が怖くて断れない者。

 

誰もが、同じ言葉で自分を納得させていた。

 

――人類防衛。

 

聖座がそう呼ぶなら、これはただの残酷な戦ではないのだ、と。

 

別の地方教会では、神官が机の上の名簿を前に頭を抱えていた。

 

名を連ねた者の中には、まだ十分な訓練を受けていない若者も、家に幼い子供を残している男もいる。

 

止めるべきだ。

 

そう思う。

 

だが、止めれば、あの者の信仰を疑うことになるのか。

 

魔王を前にして、立とうとする者を止めるのか。

 

そう問われたら、何と答えればよいのか。

 

神官は、深く重い息を吐き出した。

 

名簿は、これからさらに真っ黒に埋まっていく。

 

 

沿岸の港町では、さらに生々しい熱が生まれていた。

 

船舶提供要請が届くと、港の会議所には船主や商人達が集まった。外洋へ出られる商船、大型輸送船、補給船。遠征軍が本気で禁忌の海域へ向かうなら、頑強な船が必要になる。

 

「聖座からの正式要請だ。断れば今後の取引に響く」

 

「だが相手は禁忌海域だぞ、戻ってこられる保証があるのか」

 

「契約を勝ち取れば、我が家名には箔がつく。損にはならん」

 

「問題は船員だ。誰があの恐怖の海へ行く」

 

信仰、名誉、損得、恐怖。

 

港の空気は、複雑に絡み合っていた。

 

金香派と繋がる商会は迅速に動き、船舶目録を作り、倉庫の物資を次々と確認していく。

 

保存食。

 

淡水樽。

 

薬品。

 

そして、聖座印のある物資だけを扱う正式な窓口が置かれた。

 

船員の雇用も始まった。

 

禁忌の海域へ向かうと聞いて逃げ出す者もいれば、跳ね上がった危険手当を目当てに名乗り出る者、魔王討伐の船に乗ったと語れるなら一生の誇りになると笑う者もいた。

 

港の酒場では、夜になると噂が不気味に膨らんだ。

 

「聖戦船団だ。聖騎士団が乗るらしい」

 

「竜が出るなら、船なんて一瞬で燃やされるんじゃないか」

 

「だから正式な護符を大量に積むんだろう。聖座が守ってくださる」

 

その言葉を本気で信じたい者ほど、酒を飲む手が激しく震えていた。

 

 

騎士家や没落貴族の屋敷でも、聖戦の通達は別の意味を持った。

 

古い剣を磨く若い騎士がいる。

 

落ちぶれた家名を再び高める機会だと考える者もいれば、ただ純粋に、人類防衛の旗の下に立たなければならないと信じる者もいた。

 

「魔王討伐だぞ」

 

ある没落騎士家の長男は、そう言って笑った。

 

「ここで立たねば、騎士ではない」

 

その妹は、兄の手元にある古びた剣を悲しげに見つめていた。

 

「でも、兄様。禁忌の島って、誰も戻らない海の向こうでしょう。帰ってこなければ意味がありません」

 

兄は答えず、ただ、剣を静かに鞘へ戻した。

 

別の家では、老騎士が静かに息子へ鎧を渡していた。

 

「憎しみで行くな。聖座が人類防衛と呼んだなら、お前が守るべきは名誉ではない。恐れている者達だ」

 

「はい」

 

若い騎士は頷いた。その目に一切の迷いはなかった。

 

迷いがないことを父は誇らしく思い、同時に、深く恐れた。

 

若者の正義ほど、どこまでも遠くへ歩いていってしまうものはないからだ。

 

 

施療院では、包帯の箱が山のように積み上げられていた。

 

まだ戦争は始まっていない。だというのに、そこにはもう戦場の生々しい匂いがあった。薬草が乾かされ、担架の数が確認され、治療術士達の派遣名簿が作られていく。

 

若い治療術士が、クラリス・ベルティア大司教の前に不安げに立っていた。

 

「大司教様……私達も、行くべきなのでしょうか。私は人を治すために術を学びました。でも、戦場へ行けば、戦いを助けることにもなるのではないですか」

 

クラリスはその問いから目を逸らせなかった。

 

彼女自身が、全く同じ問いに苦しんでいたからだ。

 

行かなければ戦場で死ぬ人が増え、行けば戦場を成立させることになる。

 

どちらを選んでも、その手に血がつく。

 

「……傷ついた者を見捨てることはできません」

 

やっと出た答えは、それだった。

 

「ですが、戦いを喜んではなりません。どちらの者であっても、救える命があるなら救う。その心を絶対に失わないでください」

 

孤児院では、小さな少女が泣いていた。兄が義勇兵として登録してしまったのだという。

 

「兄様は帰ってきますか」

 

修道女は、答えられなかった。代わりに、ただその小さな体を抱きしめる。

 

聖戦はまだ始まっていない。

 

だが、もうすでに、人々の生活を残酷に変え始めていた。

 

 

聖座内部の実務は、日ごとに膨れ上がっていった。

 

白冠派の書記官達は、最初は整然と名簿をまとめていた。義勇兵登録、船舶提供、物資、治療術士。最初は、管理できる規模だと思われていたのだ。

 

だが、数日が過ぎ、さらに日が重なるにつれ、紙の山は机から完全に溢れ返った。

 

「東部教区から、想定を遥かに超える追加の義勇登録です」

 

「各地の神学校から、従軍神官志願者が殺到しています」

 

「一部の港では、聖戦参加を求める者達で宿が完全に埋まり始めています!」

 

報告は止まらない。書き写す速度よりも、届く紙の方が圧倒的に速かった。

 

マティアス・ヴェルナー枢機卿は、積み上がった書類を見て眉を深くひそめた。

 

「多すぎる」

 

「窓口を通していない者達も、独自に集合を始めています。各地の司祭達が止めようとしても、『聖戦に立つ者を止めるのか』と詰め寄られる例が後を絶ちません。船も外洋に適さないものまで混ざり、補給計画の再編が必要です」

 

マティアスは目を閉じた。

 

聖座は、管理可能な遠征軍を編成するつもりだった。だが今、世界の方から「聖戦」という巨大な渦へ、人々が自ら流れ込んでいる。

 

その流れを止めるには、聖座自身が掲げた旗を下ろさなければならない。

 

それは、もう不可能だった。

 

グレゴール・マルセイン枢機卿の執務室にも、悲鳴のような報告が次々と届いていた。

 

「各地の献金が完全に想定を超えています」

 

「物資価格が跳ね上がっています」

 

「偽の護符商人が出回っています」

 

グレゴールは穏やかに言った。

 

「名簿を一本化しなさい。聖座の印なき聖具販売は禁止です。流れを止めるのではありません。整えるのです」

 

彼が動かなければ、市場はもっと早く荒れていただろう。

 

けれど、彼の作る「正式な流れ」は、すべて金香派の管理下へ入った。

 

腐敗している。

 

だが、圧倒的に有能だった。

 

有能だからこそ、危険だった。

 

グレゴールは、初めて少しだけ沈黙した。彼もまた、感じていたのだ。

 

これは大きくなりすぎている、と。

 

人々は、ただ命じられているのではない。

 

自分から来ているのだ。

 

自らの恐怖を、祈りを、欲や焦りまで抱えて。

 

それでも彼は止めなかった。

 

止めれば、主導権を失うからだ。

 

一方、アレクシオ・レーヴェン枢機卿は、集まる義勇者達を見て、胸に熱いものを覚えていた。

 

人は、まだ光を捨てていない。

 

彼は演説し、まっすぐに語りかけた。

 

「憎しみで立ってはなりません。我らは奪うために行くのではない。人の世を守るために立つのです。光の名のもとに、隣人のために立ちなさい」

 

人々は泣き、頷き、拳を握った。

 

自分達が守るために立つのだと思えたからこそ、さらに人が集まった。

 

アレクシオは戦争を煽っているつもりはなかった。人々の心を恐怖から救おうとしていたのだ。

 

だが、その美しい言葉は、彼らに「進む理由」を完璧に与えてしまった。

 

善意が、聖戦を底なしに大きくしていく。

 

 

王国でも、聖戦決議への対応に完全に追われていた。

 

王宮の会議室には、国王、宰相、王国軍将官、学術院教授、外務担当が集まっていた。

 

王国は、ある程度の真実を知っている。

 

ライラは魔王ではないし、ファミリア達も単なる侵略軍ではない。

 

けれど、その詳細を公開することはできなかった。

 

詳細を明かせば、世界はさらに恐怖するかもしれないし、王国が魔王と結託していたと見なされる危険もある。

 

宰相が、疲れた顔で書類を置いた。

 

「法国へ送る文面は、これで三度目です」

 

外務担当が頷く。

 

「聖戦軍派遣への自制要求、無断航行禁止、リィナ・エルシア処刑未遂への抗議、すべて盛り込みました」

 

「効果は」

 

「薄いかと」

 

将官が、低く言った。

 

「聖座正規の軍だけではありません。各国教区の義勇、商会船、傭兵まで混じり始めています。これは、もはや一つの命令で止まる軍ではありません」

 

会議室が、凍りついた。

 

教授が、深く息を吐き出す。

 

「信仰と恐怖に押し出された群衆、ですか」

 

「その中に聖騎士団と武装神官が混ざる。最悪です」

 

将官の声は、絶望的に重かった。

 

国王は目を閉じた。

 

勝てるわけがない。

 

あの島を、通常の軍事目標として考えること自体が間違っているのだ。

 

禁忌の海域へ大量の船が向かい、上陸し、中央へ進もうとする。

 

それが何を意味するか、想像するだけで胃が重くなる。

 

「この規模を、島の主人は知っているのか」

 

誰もすぐには答えられなかった。

 

やがて、教授が静かに首を振る。

 

「知るはずがありません。私達から自由に連絡できる手段はないのですから。あの島は、自分達の予測だけで備えているということになります」

 

将官は海図を見つめた。

 

「おそらく」

 

その予測が甘ければ、多くが死ぬ。

 

その予測が厳しければ、あの島は本気で「備える」。

 

どちらにせよ、戦いは避けがたくなる。

 

王国は、必死に止めようとしていた。

 

だが、聖戦という名で動き始めた巨大な質量は、もう一国の外交文書で止まるものではなくなっていた。

 

 

禁忌の島では、外の世界の喧騒は何も聞こえなかった。

 

聖都の鐘の音も、港のざわめきも、王宮の焦燥も、ここまでは届かない。

 

ただ、島には島の、いつもの音が響いていた。

 

炉の火が鳴る音。

 

金属が運ばれる音。

 

主任が資材を積み替える音。

 

ワイバーン達が空を巡る羽音。

 

リィナは、作業机に向かっていた。

 

紙の上には、何度も書き直された魔法陣が重なっている。線を引いては消し、補助式を加えては崩し、また最初から書き直す。

 

実際に外でどれほどの人が集まっているかは知らない。

 

聖座がどのように聖戦を組み上げているかも、王国がどれほど焦っているかも知らない。

 

けれど、想像はできた。

 

リィナは聖座を知っている。

 

教会を、法国を、信仰を知っている。

 

恐怖と義勇が一つの言葉で結ばれた時、人は理屈では止まらなくなる。

 

聖戦。

 

その言葉が持つ狂気的な力を、リィナは身をもって知っていた。

 

ライラが、倉庫から戻ってきたところだった。

 

手には小さな金属片を持っている。何かの部品なのだろう。リィナには用途が分からないが、普通の生活道具でないことだけは分かった。

 

「リィナ。どれくらい来ると思う?」

 

リィナは、すぐには答えられなかった。

 

少なく見積もることはできる。

 

聖座の正規兵だけ。

 

制御された遠征軍だけ。

 

そう考えれば、まだ数は抑えられる。

 

だが、それは願望だった。

 

聖座が聖戦と呼び、信徒がそれを信じ、恐怖した者が剣を取り、利権を求める者が船を動かした。

 

そうなった時、数は理屈では止まらない。

 

リィナは、正直に言った。

 

「分かりません」

 

ライラは黙って聞いていた。リィナは、少し間を置いて続ける。

 

「でも、少ないと思うのは危険です」

 

ライラは、少しだけ考えた。そして、頷いた。

 

「じゃあ、多い方で準備する」

 

その返事は、とても彼女らしかった。

 

分からないなら、多い方で。

 

守れないよりは、余る方がいい。

 

それは、家を守るための考え方だった。

 

だが、リィナにはたまらなく苦しかった。

 

人が多いかもしれない。

 

だから準備を増やす。

 

準備が増えるほど、戦争は生々しい現実になる。

 

避けたいものへ備えるほど、それが近づいてくるような錯覚がした。

 

「リィナ?」

 

ライラが首を傾げる。リィナは慌てて首を振った。

 

「大丈夫です。続けます」

 

机の下で、シルヴィアが低く鳴いた。

 

彼女は相変わらず、リィナのそばを離れようとしない。リィナが眠っていないことも、食事が少ないことも、すべて分かっているらしい。鼻先で、リィナの膝を軽く押してくる。

 

「シルヴィアさん、少しだけです。本当に、少しだけ」

 

そう言って、リィナはまた魔法陣に向き直った。

 

誰かを殺すためではない。

 

そう自分に言い聞かせる。

 

声を届けるため。

 

武器を捨てた者を見分けるため。

 

傷ついた者を早く見つけるため。

 

ファミリア達が無用に傷つかないようにするため。

 

人間達が、必要以上に死なないようにするため。

 

だが、机の上の魔法陣は、確かに戦場を前提に描かれていた。

 

その冷たい事実からは、どうしても目を逸らせなかった。

 

 

時間は、三つの場所で同時に進んでいた。

 

法国では、義勇兵が列を作り、船に物資が積まれ、聖騎士が剣を研ぎ、神官が祈りを捧げ、金香派が名簿を整え、黎明派が人々へ語りかけ、燭台派が救護物資を用意していた。

 

王国では、外務官が抗議文を書き、軍港で見張りが増え、将官が海図を見つめ、教授が禁忌海域の古い記録を読み返し、国王が、苦い顔で報告を受け、王国支部の聖職者達が、同じ教えを掲げる聖座の決定に苦しんでいた。

 

目標地点では、主任が金属を運び、シルヴィアが夜空を見上げ、水棲組が海へ消え、ライラが倉庫の奥を開け、リィナが眠れないまま魔法陣を書き直し、小型組が安全な場所に集められ、ワイバーン達が高く飛び、カイザーが正門近くで静かに立っていた。

 

三つの場所は繋がっていない。

 

だが、同じ戦いへ向けて狂おしく動いていた。

 

誰も、全体を見てはいなかった。

 

聖座は自らの恐怖と責任で動き、王国は焦燥と後悔で動き、彼らは、ただ家を守るために動いていた。

 

 

数日後、聖座中央庁舎の執務室で、マティアスは新たな報告を受け取った。書記官は疲れ切った顔をしていた。

 

「猊下。このままでは、最初に編成する遠征だけで、当初想定していた全体規模に近づきます。後続の名簿が、まだ止まりません。各地で独自に集合している者達を含めれば、把握できていない部分もあります」

 

マティアスは目を閉じた。名簿の束を見つめる。

 

遠征軍は、もはや机上の編成ではなかった。

 

船が実際に押さえられ、物資が動き始めている。

 

止めるなら今しかない。

 

だが、不可能なのだ。

 

聖座が全会一致で聖戦を決議した結果として集まりすぎた祈りを、今さら帰れと言えるはずがなかった。

 

グレゴールはその報告を受け、静かに目を細めた。

 

巨大な富と人の流れを見つめていた。

 

アレクシオは、同じ報告を聞いて深く息を吸った。

 

「人々は立ち上がったのですね」

 

その声には、畏敬があった。

 

人類が光を捨てていない証だと受け止めたのだ。

 

クラリスは、青ざめていた。

 

彼女には、名簿に書かれた名前の向こうに、母親に見送られる若者や、船に乗る父親の顔が見える。

 

同じ報告を受けても、見えているものが全く違った。

 

マティアスには管理不能の危険が、グレゴールには巨大な流れが、アレクシオには人類の意志が、クラリスには民が戦場へ向かう恐怖が見えていた。

 

そして、誰にもまだ見えていなかった。

 

その先で待つものが、すでに家を砦へ変え始めていることを。

 

 

その夜、島には濃い霧が出ていた。海から上がる湿った風が森へ流れ込み、月明かりをぼやけさせている。

 

リィナはまだ、作業机に向かっていた。

 

魔法陣の線が、何度も重なっている。眠気はある。猛烈な疲れもある。だが、横になればあの光裁の壇が浮かび、魔女と呼ぶ声が聞こえる。

 

だから、ただ手を動かしていた。

 

外では、ライラが倉庫のさらに奥の扉を開けていた。

 

普段なら足を踏み入れることさえほとんどない、温かい家の空気から完全に切り離された、冷たい区画。

 

そこには、使われることなく眠っていた装置や部品が置かれていた。薄く光る金属、見慣れない形の基部、低く唸るような音を立てる機器。

 

リィナには、その仕組みは分からない。

 

だが、それらが生活のためのものではないことだけは痛いほど分かった。主任が黙ってそれを受け取り、重そうに運んでいく。

 

ライラは、少しだけそれを見送った。表情は静かだった。

 

好きで使っているわけではない。

 

しかし、使わないという選択肢は、もうこの世界には残されていないのだ。

 

リィナは窓の向こうを見つめる。

 

外の世界で、どれだけの人が集まっているのかは分からない。どれほどの船が準備されているのかも知らない。

 

けれど、少なく見積もれば必ず後悔する。

 

それだけは、分かっていた。

 

ライラが部屋に戻ってきた。手には、また冷たい部品を持っている。

 

「リィナ。少し休んだ方がいい。倒れたら困るから」

 

リィナは少しだけ苦笑した。

 

「ライラさんもです」

 

「私は、まだ大丈夫」

 

「私も、まだ大丈夫です」

 

シルヴィアが、机の横で不満そうに喉を鳴らした。

 

二人とも大丈夫ではない、と叱っているようだった。

 

リィナは少しだけ笑った。

 

だが、その笑みはすぐに消える。

 

「……どれだけ来るのでしょうね」

 

問いではなかった。

 

恐怖が言葉の形になっただけだった。

 

ライラは、少し考えてから言った。

 

「分からないなら、多い方で準備する」

 

リィナは何も返せなかった。

 

外の世界で、どれほどの祈りと恐怖が船を満たしているのか、二人はまだ正確には知らない。

 

だからこそライラは、ただ家を守るために、さらに奥の扉を開けた。




あとがき補足。

今回集まり始めた聖戦軍は、決して弱い集団ではありません。

本来の禁忌の島――外界でアポカリプスと呼ばれていた魔境を相手にするのであれば、この規模の戦力と装備があれば十分すぎるほどです。聖騎士団、武装神官、治療術士、義勇兵、船団、補給、聖具、護符、聖水。これらは単なるまじないや気休めのお守りではなく、この世界ではきちんと効力を発揮するものです。

普通の魔獣や、アポカリプス由来の高位魔獣を相手にするなら、聖水も護符も結界も有効です。聖騎士達の装備も、武装神官の術も、治療術士の支援も、本来ならば人類側の切り札と言っていいものです。

つまり、法国側は無謀な素人集団を送り出そうとしているわけではありません。彼らの基準では、これは「人類が本気で禁忌の島に対抗するための正しい準備」です。

問題は、今回彼らが相手にしようとしているものが、普通のアポカリプスの魔獣ではないことです。

彼らが魔物の軍勢だと思っている存在は、ライラが長い時間をかけて育て、共に暮らしてきたファミリア達です。外界の常識で測れる魔獣ではなく、島そのものの危険よりもさらに別の理屈で成立している、ライラの家族です。

聖戦軍は弱くありません。
聖具も無意味ではありません。
聖水も護符も、神聖術も、確かに力を持っています。

ただ、相手が悪すぎる。

この戦いは、「迷信にすがった愚かな軍勢が自滅する話」ではなく、「本来なら勝てるだけの準備を整えた人間達が、世界の常識の外側にいるライラ達へ向かってしまう話」として描いています。
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