夜明け前の港は、すでに目を覚ましていた。
まだ空は暗い。東の水平線に、わずかな灰色が滲み始めているだけだった。だが、港には夜の静けさなど残っていない。石畳を軋ませる荷車の音。縄を引く船員達の怒号。馬車の車輪。箱を積み上げる音。神官達の祈り。鐘の低い響き。
そのすべてが、激しい波音と混ざり合っていた。
聖座が押さえた大港には、見渡す限りの船が並んでいた。
大型軍船。中型護衛船。輸送船。補給船。治療船。神官達を乗せる船。偵察船。連絡船。商会から提供された船。義勇兵を運ぶために急ぎ整えられた船。聖具や聖水、護符を積んだ船。
ひとつひとつを見れば、それぞれに明確な役目があった。
だが、港全体を見れば、それはもはや船の集合ではなかった。祈りと恐怖と物流と利権が、海へ向かって膨れ上がったひとつの都市のようだった。
第一陣として海へ出る船は、およそ五百。
そこに乗り込む者達は、剣を取る者、祈る者、治す者、運ぶ者、船を動かす者まで含めれば、十万に迫ろうとしていた。
それは、聖座が最初から命じた数ではない。
誰かが机の上で、これだけの人間を集めよと決めたわけではなかった。
――人類防衛聖戦。
その名が掲げられた瞬間、人と船と物資と祈りが、あまりにも多く集まりすぎた。
ただ、それだけだった。
だが、その「ただそれだけ」が、今、港を隙間なく埋め尽くしている。
甲板の上では、神官達が出航前の祈祷を行っていた。聖水を入れた銀の器が運ばれ、船首には聖印が掲げられる。帆柱には白い布が結ばれ、祈りの言葉を記した小さな帯が風に揺れていた。
岸では、家族が泣いている。
母親が息子の手を握り、妻が夫の胸元に護符を押し当て、幼い子供が父親の外套を掴んで離さない。
その近くを、聖騎士達が整然と歩いていく。白と銀を基調とした鎧。磨かれた剣。祈祷を受けた盾。顔には緊張があるが、足取りに乱れはない。
義勇兵達は、その横で硬くなっていた。
彼らの多くは、まだ戦場を知らない。魔王も見たことがない。リィナ・エルシアの顔すら、噂でしか知らない。
それでも、ここに来た。
教会で声明を聞いたから。
聖座が沈黙しないと言ったから。
人類防衛という言葉を、胸に刻んでしまったから。
若い義勇兵の一人が、手の中の護符を握りしめていた。
布に包まれた小さな聖印。村の神官から渡されたものだった。彼は、何度もそれを確かめる。
怖かった。
帰りたかった。
だが、帰ることもできなかった。
自分が逃げれば、村の者達はどう思うだろう。母は何と言われるだろう。魔王が本当に来た時、自分は家で震えていたのだと、一生思い続けるのではないか。
そう考えると、足が動かなくなった。
逃げるためではなく、船へ乗るために。
彼は顔を上げた。港の向こうで、白い帆が少しずつ開いていく。まるで、祈りそのものが海へ出る準備をしているようだった。
◆
別の桟橋では、一人の聖騎士が甲冑の留め具を確認していた。
彼は若い義勇兵達とは違う。
訓練を受け、命令系統を知り、海を越えた先に待つものが名誉だけではないことも分かっている。聖戦という言葉に酔っているわけではなかった。
それでも、彼は迷わなかった。
リィナのことを憎んでいるわけではない。むしろ、彼女のこれまでの功績を知っていた。神聖術の改良に尽くし、多くの病人を救い、地方教会を助け、孤児でありながら聖女と呼ばれるに至った者。
その名を、彼は軽んじていなかった。
だからこそ、痛ましいと思っている。
魔王の影響下にあるなら、救わなければならない。
救えないなら、せめて光へ返さなければならない。
その考えは、彼にとって純粋な慈悲だった。
それが、リィナ本人にとってどれほど残酷な言葉であるかを、彼は知らない。
彼は、剣の柄に手を置いた。
祈るように、誓うように。
「救えるなら、救う」
小さく呟いた声は、波音に消えた。
そして、その先へ続く言葉は、口に出さなかった。
――救えないなら。
彼は、目を閉じた。
魔女を憎むな、魔に囚われた者を憎むな、ただ、人の世を守れ。そう教えられてきた教えのまま、船へ乗る。
彼が向かう先が、本当は魔王の城ではなく、一人の少女の穏やかな家であることなど、知るはずもなかった。
◆
治療船の積み込みは、出航直前まで続いていた。
包帯の箱、薬瓶、消毒用の酒、担架、折り畳み式の寝台、治療用の聖具、祈祷済みの布、聖水を満たした小瓶。
治療術士達は、それらをひとつずつ確認していく。
戦う者達の船とは違い、そこには派手な掛け声はなかった。誰も勝利を叫ばないし、誰も魔王討伐の名誉を語らない。ただ、負傷者が出ることを冷徹な前提として、静かに準備している。
若い治療術士が、薬箱の留め具を確認しながら手を止めた。彼女の指は震えていた。隣にいた年長の治療術士が、それに気づく。
「大丈夫?」
「……分かりません」
若い治療術士は、正直に答えた。
「私達は戦うために乗るのではないから」
「でも、私達が乗るから、この遠征は進めるのではありませんか」
その問いに、年長の者もすぐには答えられなかった。
治療術士がいなければ、戦場で死ぬ者が増える。だが、治療術士がいれば、軍はより遠くへ進める。救うことと、戦いを支えることは、時に同じ船へ積み込まれてしまう。
その矛盾を、彼らはもう分かっていた。
それでも、薬箱を降ろす者はいなかった。
誰かが傷ついた時、そこに手を差し伸べる者が必要だからだ。
それが味方であれ、義勇兵であれ、聖騎士であれ、船員であれ。あるいは、敵であったとしても。
若い治療術士は、薬箱を強く抱えた。その顔は青ざめていたが、足は確かに船の方へ向いていた。
◆
港の奥では、船員達が帆と縄を確認していた。
彼らは神官でも聖騎士でもない。魔王討伐の英雄譚を信じていない者も多かった。
船は信仰だけでは動かない。
帆を読む者、潮を知る者、船底の軋みで危険を察する者がいる。
禁忌の海域という言葉を聞いた時、真っ先に顔を曇らせたのは、そういう現実を知る者達だった。
古い船員が、若い船員へ短く言った。
「この先は、祈りが返ってこない海だ」
若い船員は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「そんなに危ないんですか」
「危ないかどうかも分からんから、危ない。戻ってきた船が少ない海ってのはな、何がいたかより、何が起きたか分からねえのが怖いんだ」
若い船員は黙った。
契約は結ばれ、報酬も高く、聖座からの要請を断りにくい空気もある。
それでも、船に乗るのは彼ら自身だ。
祈りを掲げた船でも嵐に遭えば沈むし、聖印を刻んだ帆でも火がつけば燃える。魔王が本当にいるかは分からないが、狂暴な海は確かにそこにある。
古い船員は、沖を見据えた。
夜明けの光が、海の表面を鈍く照らし始めている。
「帆を上げろ」
彼は低く言った。
「祈りは神官に任せろ。船は俺達が動かす」
◆
商会関係者達は、物資目録の確認に追われていた。
食料、水、矢、弩の部品、聖具、護符、聖水、包帯、木材、予備帆、修理材、金属留め具、薬品。
それらを船ごとに割り振り、誰が責任を持つかを記録し、聖座印を確認する。
莫大な利益を見ている者はいたし、聖座との契約を取ることで商会の地位を上げようとする者もいた。
だが、全員が金だけを見ていたわけではない。
魔王を本気で恐れ、この遠征が失敗すれば港も家族もすべて焼かれるのではないかと、不安で眠れない者もいた。
信仰と商売が、同じ船に積まれていた。
それが、この聖戦艦隊だった。
補給を取り仕切る実務官達は、怒号を上げながら積み込みを急がせている。金香派と繋がる者達も多いが、彼らがいなければ物資は動かなかった。
誰かが利を得て、誰かが祈り、誰かが恐れ、誰かが契約を守る。
そのすべてが、同じ帆の下へ詰め込まれていく。
◆
記録官達も船へ乗った。
彼らは剣を持たず、神聖術を扱う者も少ない。だが、聖戦を記録するために選ばれていた。
人類が禁忌の島へ挑んだ日。
光が魔王へ向かった日。
聖戦軍が海を越えた日。
彼らは、そのような記録を書くことになるのだと思っていた。
羽ペン、羊皮紙、防水のための箱、命令文の写し、聖座印の入った記録帳。すべてが整えられている。
若い記録官が、船縁から港を見た。岸には、人が溢れている。祈る者、泣く者、手を振る者、聖歌を歌う者。
その光景は、美しい英雄譚の始まりに見えた。
彼は、まだ知らない。
記録とは、勝利だけを書くものではないことを。
悲鳴も、沈黙も、二度と帰ってこない名前も、書かなければならなくなるということを。
彼は、真新しい記録帳を胸に抱えた。その表紙には、白い文字でこう記されていた。
――『人類防衛聖戦第一陣記録』
まだ何も書かれていない真っ白なページは、朝の光を受けて静かに輝いていた。
◆
港の中央に設けられた仮設壇へ、アレクシオ・レーヴェン枢機卿が上がった。
人類防衛聖戦軍総司令官。
その名は、すでに全船へ伝えられていた。総司令自身もまた、禁忌の海へ向かう船に乗る。
その事実が、人々の士気をさらに高めていた。
アレクシオは、港を見渡した。聖騎士達、義勇兵達、神官達、治療術士達、船員達、商会関係者、記録官、見送る家族。そのすべてを、彼は一人ずつ見るように目を向けた。
そして、静かに口を開く。
「我らは、奪うために行くのではありません」
その声は大きすぎない。
だが、不思議と港の隅々まで届いた。祈りの声が止まり、荷車の音さえ少し遠ざかったように感じられる。
「滅ぼすことを喜んではなりません。憎しみに身を委ねてはなりません。我らが海へ出るのは、人の世を守るためです。まだ顔も知らぬ隣人のために。幼子のために。老人のために。祈りを知らぬ異国の民であっても、人であるなら守らねばなりません」
彼の言葉は、どこまでも美しかった。
「恐怖に膝をつくのではなく、光の名のもとに立つのです。リィナ・エルシアを憎んではなりません。彼女が魔の影響下にあるならば、救う道を探さねばなりません。救えぬならば、光へ返す責務があります。禁忌の島の主人についても同じです。我らは憎悪ではなく、責務によって進みます」
その言葉に、歪んだ嘘はなかった。
アレクシオは本気でそう思っているし、本気で、人類を守ろうとしている。
だからこそ、人々は彼についていくのだ。
彼は、右手を上げた。
「聖座は沈黙しません。人の世を守るため、我らは海へ出ます」
港に、狂おしいほどの祈りが満ちた。
聖歌が始まり、泣き声も混じる。
誰も、自分達が悪へ向かっているとは思っていなかった。
誰も、自分達が魔王の城ではなく、一人の少女の小さな家へ向かっているとは知らなかった。
◆
出航前、総司令の周囲では最後の冷徹な確認が行われていた。
上陸後の護衛配置と戦闘配置、艦隊隊列、信号旗、連絡船の配置。対魔結界と祈祷の順番、聖具の運用。治療船の位置、負傷者搬送、薬品管理。食料、水、聖水、護符、物資の積荷。
この聖戦軍は、ただの烏合の衆ではない。
人員も船も混ざりすぎているが、それでも上層部は必死に秩序を作ろうとしていた。
聖座はこの大艦隊を完全には制御できていない。
それでも、制御しようとしていた。
その努力もまた、本物だった。
聖都には、グレゴール・マルセイン枢機卿が残っている。
表向きの理由は、後方支援。
後方が乱れれば前線の兵が死ぬ。
それは正論だった。
だから金香派の重鎮は聖都に残り、人と物と金と祈りの流れを整える役を引き受けた。
その巨大な富の流れを握る者が何を得るのかを、口にする者はいなかった。
前線には、金香派に近い補給監や実務官達が乗っている。彼らは名を残すためではなく、物資を動かすためにそこにいた。
出航の鐘が鳴る直前まで、彼らは冷徹に帳簿を見つめていた。
◆
王国は、その出航を止められなかった。
王宮の会議室には、重い空気が落ちている。国王、宰相、王国軍将官、学術院教授、外務担当、王国支部代表。誰もが疲れ切った顔をしていた。
外交文書は送った。
聖戦軍派遣への自制要求、無断航行禁止、リィナへの処刑未遂への抗議。
どれも無視されたわけではない。
読まれてはいる。
しかし、船は出る。
「これは、法国正規軍だけではありません」
将官が言った。
「各国教区の義勇、傭兵、商会船、巡礼団まがいの船まで混じっています。今さら一つの命令で止められる軍ではありません」
宰相が、苦々しく言う。
「こちらが力で止めれば」
「王国が魔王を庇ったと叫ばれるでしょう」
外務担当が答えた。
「聖座との全面衝突になります。法国だけでなく、各地教区や信徒も巻き込む。下手をすれば、王国内の教会にも動揺が広がります」
王国支部代表は、青ざめた顔で目を伏せていた。
同じ光を掲げる者達が、互いに疑い合う。
その最悪な未来が、すでに見え始めている。
教授は、机の上に広げられた海図を見ていた。
古い記録、禁忌海域の伝承、漁船の消失、巨大な海の怪物の死骸。
そして、王国調査団が報告した、あの島の海と空の圧倒的な異質さ。
教授は、静かに言った。
「彼らは、島へ着く前に見つかります」
将官が短く返す。
「見つかるだけなら、まだよい」
それ以上は、誰も言わなかった。
王国調査団は知っている。あの島の近海で、海の下に何がいて、空の上に何がいるのかを。そして、そのどちらもが、ただの自然災害ではないということを。
国王は、苦い顔で目を閉じた。
「止めれば、王国は魔王を庇う国になる。止めなければ、彼らは島へ向かう」
会議室に重い沈黙が落ちた。
どちらを選んでも、最悪だった。
将官は海図の上に手を置いた。
禁忌の島は、まだ遠い。だが、船団はもう海へ出ようとしている。その間に、王国ができることはあまりにも少なすぎた。
◆
港に、出航の鐘が鳴り響いた。
聖歌が響き、旗が掲げられ、一隻目の船がゆっくりと岸を離れた。続いて、二隻目、三隻目。次々と船が動き出す。
大型軍船の白い帆が、朝の光を受けて膨らむ。治療船の甲板では、治療術士達が薬箱を押さえていた。
岸では、人々が泣いている。手を振る者、祈る者、その場に崩れ落ちる者、名前を叫ぶ者。
船の上では、義勇兵が震える手で護符を握り、聖騎士が剣の柄に手を置き、神官が祈りの言葉を唱え、船員が帆を張る。補給監が最後の積荷を確認し、記録官が出航時刻を書き留める。
その光景は間違いなく荘厳だった。
笑いものにできるものではない。
彼らは本気で人類を守るつもりだったし、本気で魔王へ向かうつもりだった。
だからこそ、救えない悲劇だった。
船団は、ゆっくりと港を離れていく。
白い帆が、ひとつ、またひとつと海へ広がっていく。
やがて港の外に、圧倒的な帆の群れができた。
海面を埋めるほどの白。
祈りの布のようにも、葬列の旗のようにも見える白。
聖戦艦隊第一陣は、こうして海へ出た。
◆
航海の初日は、驚くほど秩序が保たれていた。
信号旗が上がり、船団司令の指示に従い、艦隊は整えられた隊列を組む。
護衛船が外側へ出て、輸送船と補給船は中央へ置かれ、治療船は守りやすい位置に配置される。聖職者を乗せた船では祈祷時間が定められ、連絡船は隊列の間を素早く行き来していた。
見張りは交代制になり、夜間の灯火も統一される。聖水の配布が行われ、護符の確認がされ、結界担当の神官達は甲板で祈祷の準備を整えていた。
弩の弦が確認され、矢束が分けられ、火を使う装備は慎重に管理された。船団司令は有能だった。
それでも、完全ではなかった。
船種が違いすぎ、船員の技量も違う。義勇兵の数は多く、船酔いする者も出始めている。補給船は遅く、偵察船は先へ出たがる。秩序はあったが、その秩序は常にギチギチと軋んでいた。
夕方になると、海の空気が少し変わった。
海鳥が消え、波の音が不気味に重くなった。ただ高いだけではない、船体にぶつかる音の底に、低く響くような地鳴りのような音が混じる。
経験のある船員達は口数を極端に少なくし、義勇兵達の冗談も消えた。神官達の祈りは、少しだけ長くなった。
夜の海は、どこまでも黒く、深かった。
甲板の上で、誰かが禁忌海域の伝承を小声で口にした。
戻らない船。
空に現れる影。
海の底で光る目。
「やめろ」
船員が低く言った。
「夜の海で、そういう話をするな」
義勇兵は口を閉ざした。
だが、一度浮かんだ本能的な恐怖は消えない。
祈りの声が、また少しずつ長くなっていった。
◆
禁忌の島では、聖戦艦隊の出航をまだ知らなかった。
だが、厳重な警戒は続いていた。
ワイバーン達は、いつもより遥か遠くまで空を飛び、海棲組は沖合へ深く出ていた。拠点の外周には、冷たい機器が配置され、主任は黙々と作業を続けている。
リィナは、眠れないまま魔法陣の確認を続けていた。シルヴィアは、相変わらずリィナの近くから片時も離れようとしない。
ライラは、拠点の上部からじっと海を見つめていた。
見えるのは、いつもの海だった。
深い青、遠くに流れる雲の影、岩場に砕ける白い波。
けれど、その向こうから「何か」が来ることを、ライラは知っていた。
正確な日付は分からないし、どれだけの船かも知らない。ただ、来るなら遠くから来る。海から来る。それだけは分かっていた。
カイザーは正門近くで静かに待ち、小型の子達は、いつもと違う緊迫した空気を感じ取っているのか、まとまって過ごしている。
ライラは、海を見つめたまま呟いた。
「まだかな」
それは焦りではなく、ただ静かに待っている声だった。
来ないなら、それが一番いい。
けれど、来るなら見つけなければならない。
見つけなければ、守れないから。
リィナは、ライラの横に静かに立っていた。顔色はまだよくないが、目は海の向こうをじっと見据えている。
「来ると思います」
小さな、けれど確信を込めた声だった。
「『聖戦』と名付けられたものは、簡単には止まりません」
ライラは静かに頷いた。
「じゃあ、見つける」
短い言葉だった。
リィナは、何も言えなかった。
その単純さが、今は少しだけ頼もしく、そして、恐ろしかった。
◆
高空を飛ぶワイバーンは、いつもより遥か遠い海を凝視していた。
空は広く、雲は薄く、風は安定している。上から見れば、波の白さは模様のようだった。
ワイバーンは、ゆっくりと翼を傾けた。
下には、何もないように見えた。
海、波、光、風。
だが、その中に、不自然に白い「点」があった。
最初は波か、あるいは鳥かと思ったが、動きが違っていた。
ワイバーンは高度を変えた。風を掴み、少しだけ角度を変える。
白い点は、一つではなかった。
いくつもある。
点が線になり、線が面になっていく。
帆。
帆。
帆。
海面の一部が、白く濁って見えるほどの圧倒的な船影。
見たことのない巨大な群れだった。
海を埋めるように進む、白い帆の群れ。
ワイバーンは、じっとそれを見つめた。
島へ向かっている。
まだ遠い。
船団の側からは、まだ島は見えていないだろう。
だが、ワイバーンの目には見えていた。
こちらへ向かう、巨大すぎる群れ。
ワイバーンは攻撃しなかった。
命じられていたのは、見つけること、そして知らせること。
だから、大きな翼を翻した。
風を蹴り、雲の下へ滑り込む。
そして、禁忌の島へ向かって一直線に飛んだ。
◆
その鳴き声は、普段ののんびりしたものとは決定的に違っていた。
高く、鋭く、短い。
完全な、警告の声だった。
空にいた他のワイバーン達が、一斉に反応する。シルヴィアが鋭く顔を上げ、海の方で水棲組の一部が動いた重い気配があった。カイザーが正門近くでゆっくりと首を上げ、主任の手が、一瞬だけぴたりと止まった。
ライラは外へ出た。
拠点の上部から戻ってきたワイバーンを見上げる。
「見つけた?」
ワイバーンが短く鳴いた。
言葉ではない。
けれど、ライラには分かった。
遠い海。
多くの船。
白い帆。
こちらへ向かっている、と。
リィナも、その警告の声を聞いていた。
顔から血の気が一気に引いていく。
まだ聖歌は聞こえない。
まだ旗は見えない。
けれど、来た。
ついに、来てしまったのだ。
ライラは、海の方へ静かに目を向けた。
正確な距離までは分からないが、おおよそは掴める。
順調に進めば、翌日には島を視認できる距離へ入る。
つまり、翌日には衝突が始まる可能性が高い。
ライラは静かに言った。
「じゃあ、明日だね」