廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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明日の海

ワイバーンの鳴き声は、まだ空に残っていた。

 

 高く、鋭く、短い。

 

 普段の気ままな声ではない。獲物を見つけた時の興奮でも、仲間を呼ぶ時の軽い合図でもなかった。

 

 ――警告。

 

 その意味だけが、空気を裂くように家の上へ落ちてきた。

 

 空にいたワイバーン達が、一斉に向きを変えている。高所で休んでいた個体が翼を広げ、遠くの空を見た。海の方では、水面の下で巨大な影が動いた気配があった。

 

 正門近くにいたカイザーが、ゆっくりと首を上げる。

 

 作業場の前では、主任の手が一瞬だけ止まった。

 

 ライラは、戻ってきたワイバーンを見上げていた。

 

 言葉はない。

 

 けれど、伝わるものはあった。

 

 遠い海。

 

 白い帆。

 

 たくさんの船。

 

 こちらへ向かっている。

 

 まだ距離はある。だが、風と潮が大きく変わらなければ、翌日には島を視認できる位置まで来る。

 

 ライラは、海の方へ目を向けた。

 

 まだ何も見えない。

 

 青い海と、岩場へ砕ける波と、空を流れる雲だけがある。

 

 聖歌も聞こえない。

 

 鐘の音もない。

 

 旗も、人の声も、船の影も、ここからはまだ見えなかった。

 

 それでも、来ている。

 

 それだけは、もう分かった。

 

「じゃあ、明日だね」

 

 ライラは静かに言った。

 

 私の顔から、血の気が引いていく。

 

 明日。

 

 あまりにも短い言葉だった。

 

 何日も前から覚悟していたはずなのに、実際にその言葉が落ちてくると、胸の奥が冷えた。

 

 聖座は来る。

 

 聖戦軍は来る。

 

 祈りと恐怖と正義の名を掲げた大船団が、この島へ向かってくる。

 

 シルヴィアが、私のそばで低く鳴いた。

 

 その声には、明確な怒りが混じっている。

 

 私へ向けられた害意を、シルヴィアはまだ忘れていない。

 

 光裁の壇。

 

 拘束された手首。

 

 私を囲んでいた声。

 

 あの空気を、言葉として理解していなくても、危険として覚えているのだ。

 

 私は、そっとシルヴィアの首元に触れた。

 

「大丈夫です」

 

 そう言った声は、自分でも頼りなく聞こえた。

 

 シルヴィアは納得していないように喉を鳴らす。

 

 その横で、ライラは振り返った。

 

「集める」

 

 短い一言だった。

 

 だが、その一言で、家の空気が変わった。

 

 

 最初に動いたのは空だった。

 

 高所の足場から、ワイバーン達が次々と降りてくる。翼が風を叩き、砂と草を揺らし、広場の周囲に大きな影を落とした。

 

 紫、赤、青、緑。

 

 それぞれの鱗が、夕方の光を受けて鈍く輝く。

 

 どの個体も、普段のように遊び半分で集まってきたわけではなかった。翼を畳み、首を下げ、ライラを見る。

 

 森の影からは、小型や中型のファミリア達が現れた。

 

 素早い影。

 

 低く身を伏せる影。

 

 尻尾を揺らしながら、しかし鳴き声を抑えて進むもの。

 

 普段なら好奇心のままに動く子達も、この時ばかりは空気を読んでいた。

 

 知らない大勢が海から来る。

 

 それがどういう意味か、完全に理解していなくても、ライラが真剣であることだけは分かっている。

 

 少し離れた海では、水面が大きく盛り上がった。

 

 姿までは見えない。

 

 けれど、海の下に巨大なものがいる気配は、陸からでも分かった。水が重く揺れ、岩場に当たる波の形が変わる。

 

 沖合にいる海棲組もまた、ライラの呼びかけを受け取っていた。

 

 地面が、低く震えた。

 

 大型の戦闘組が姿を見せる。

 

 ひとつひとつが、外の人間にとっては災害のような存在だった。

 

 牙。

 

 爪。

 

 厚い皮膚。

 

 地面を沈ませるような足音。

 

 息をするだけで、周囲の空気が重くなる。

 

 カイザーは正門近くにいた。

 

 動かない。

 

 ただ、その片目でライラを見ている。

 

 それだけで十分だった。

 

 そこにいるだけで、正門の周囲はすでに彼の領域に変わっていた。

 

 主任は、ライラのすぐ近くに立った。

 

 いつもの黄色いヘルメット。

 

 無言のまま、腕を下ろしている。

 

 だが、その姿勢には普段の作業中とは違う硬さがあった。

 

 必要ならすぐ動けるように。

 

 必要なものをすぐ渡せるように。

 

 すべてを理解した上でそばにいる。

 

 支援や運搬を担うファミリア達も、少し離れた位置で待っていた。

 

 物資を運ぶもの。

 

 仲間を運ぶもの。

 

 何かを支えるもの。

 

 直接前に出るわけではなくても、家を守るために必要な子達だった。

 

 非戦闘組や生活組は、すでに奥の区画へ移されている。

 

 それでも、いくつかの小さな影が、遠くの通路や柵の向こうからこちらを見ていた。不安そうに鳴くものもいる。

 

 だが、近づいては来ない。

 

 ライラがそう言ったからだ。

 

 私は、その光景をただ見つめていた。

 

 外の者がこれを見れば、きっと「魔王軍の集結」と呼ぶだろう。

 

 竜が降り、巨獣が集まり、海の下に怪物がひしめき、牙と爪と翼を持つもの達が一人の少女の前に並んでいる。

 

 恐怖に染まった者の目には、それは禁忌の島の軍勢にしか見えない。

 

 けれど、私にはもう分かっていた。

 

 これは軍勢ではない。

 

 少なくとも、ライラにとっては違う。

 

 彼らは、命令された兵士としてだけ集まったのではない。

 

 名前を呼ばれてきたのだ。

 

 ライラの家族として。

 

 守りたい場所があるもの達として。

 

 その中心に立つライラは、玉座に座ってはいなかった。

 

 高い場所から見下ろしてもいない。

 

 広場の真ん中に、いつもの小さな体で立っていた。

 

 その姿は、魔王などという言葉とはあまりにも違っていた。

 

 けれど、その周囲に集まった力は、確かに国を震え上がらせるほど大きい。

 

 私は息を呑んだ。

 

 優しさと恐怖が、同じ場所に並んでいる。

 

 それが、この家だった。

 

 

 ライラは、集まったファミリア達を見回した。

 

 一体一体を見るように。

 

 名前を呼ぶ代わりに、目で確かめるように。

 

 全員が静かだった。

 

 翼の音も、足音も、呼吸の音もある。

 

 それでも、その場に乱れはなかった。

 

 誰も勝手に動かない。

 

 誰も吠えない。

 

 ライラが口を開くのを待っている。

 

 ライラは、少しだけ息を吸った。

 

「明日、人間達が来ると思う」

 

 声は大きくない。

 

 けれど、広場に届いた。

 

「たくさん来る。船で来る。武器を持ってる。たぶん、私達を倒しに来る」

 

 胸が、ぎゅっと締めつけられた。

 

 私達。

 

 ライラはそう言った。

 

 自分だけではない。

 

 家だけでもない。

 

 ここにいるファミリア達すべてを含めて、そう言った。

 

「だから、みんなにお願いする。一番大事なのは、自分の命」

 

 ファミリア達が、わずかに反応した。

 

 ワイバーンの一体が首を傾げる。

 

 小型の子が耳のようなものを動かす。

 

 カイザーは動かない。

 

 ただ見ている。

 

「危ないと思ったら逃げて。死にそうなら、絶対に下がって。怪我をしたら戻ってきて。私の命令より、生きて帰る方を優先して」

 

 私は目を見開いた。

 

 最初の命令が、それなのだ。

 

 勝て。

 

 倒せ。

 

 守れ。

 

 ではなかった。

 

 生きて帰れ。

 

 それが最初だった。

 

「私が呼んでも、無理なら来なくていい。助けに行けないと思ったら、行かなくていい。自分が死ぬくらいなら、逃げて。――帰ってきて」

 

 その短い言葉に、広場の空気が一瞬だけ揺れた気がした。

 

 胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 これは命令ではある。

 

 けれど、同時に祈りでもあった。

 

 家族を危険な場所へ送り出す者の、どうしようもなく切実な祈りだった。

 

 ライラは、次に海の方へ視線を向けた。

 

「それから、人間は食べちゃだめ。海に落ちても、倒れてても、動かなくても、食べないで。間違えても食べない。分かった?」

 

 海の方で、水が大きく揺れた。

 

 沖の影が、低く応えるように動いた。

 

 肉食のファミリア達も、静かにライラを見る。

 

「食べ物じゃない。相手がこっちを殺しに来ても、食べ物じゃない。そこは間違えないで」

 

 私は思わず息を止めた。

 

 救われるような言葉だった。

 

 聖戦軍の人間達は知らないだろう。

 

 海の下の影が近づけば、彼らは食われると思うに違いない。巨大な顎や牙を見れば、恐怖で祈るだろう。

 

 だが、ライラは最初から禁じていた。

 

 人間を餌として見ていない。

 

 私は、その事実に少しだけ救われた。

 

「できれば、殺さないで止めてほしい。武器を壊すとか、動けなくするとか、気絶させるとか。船を止めるとか。逃げられないようにするとか。それで済むなら、それがいい」

 

 その言葉は、私にとって痛いほど優しかった。

 

 ライラは、人間を憎んでいない。

 

 聖戦軍を殲滅したいわけではない。

 

 傷つけられる前に殺せと命じているわけでもない。

 

 だが、次の言葉で、私の胸は別の意味で詰まった。

 

「でも、無理ならいい。相手が本気で殺そうとしてきたら、自分を守って。殺しても怒らないし責めない」

 

 指先が冷たくなるのを感じた。

 

 それは、当然の言葉だった。

 

 当然で、残酷な言葉だった。

 

 ライラは人殺しを望んでいない。

 

 けれど、ファミリアの命が危ないなら、人間よりファミリアを優先する。

 

 その線だけは、絶対に譲らない。

 

 私には、それが分かった。

 

 そして、それを責めることができなかった。

 

 自分が同じ立場なら、何と言えただろう。

 

 大切な存在を傷つけようとしている相手に、絶対に殺すなと言えるだろうか。

 

 言えない。

 

 少なくとも、私は今、言えなかった。

 

「逃げる人は追わないで。追いかけすぎないで。島から離れるなら、それでいい。こっちに来ないなら、放っておいて。――家に入れないで」

 

 その言葉だけは、少しだけ硬かった。

 

 拠点の奥。

 

 非戦闘組のいる場所。

 

 生活の場所。

 

 寝床。

 

 工房。

 

 水場。

 

 ライラが家と呼んできたすべて。

 

 そこへ入れないで。

 

 それが、守るべき厳格な線だった。

 

 そして、ライラは最後に言った。

 

「もう一度言っておくね、みんな帰ってきて。勝つことより、帰ってくる方が大事。相手を全部倒すことより、みんなが帰ってくる方が大事。だから、絶対に無理しないで。ちゃんと帰ってきて」

 

 広場に集まったファミリア達が、次々と応えた。

 

 鳴き声。

 

 低い喉鳴り。

 

 翼を打つ音。

 

 地面を踏む音。

 

 海の方で水が重く揺れる音。

 

 言葉ではない。

 

 だが、確かな返事だった。

 

 私には、そう分かった。

 

 

 私は、ライラの横顔を見ていた。

 

 救われた、と思った。

 

 人間を捕食しない。

 

 できるだけ殺さずに止める。

 

 逃げる者を追わない。

 

 ライラは、人間を憎んでいない。聖戦軍をただの獲物とも、餌とも見ていない。

 

 それだけで、私の胸は少しだけ軽くなった。

 

 けれど、同時に苦しかった。

 

 殺しても咎めない。

 

 その言葉は、戦争の現実そのものだった。

 

 ライラは魔王ではない。

 

 けれど、聖女の理想そのものでもない。

 

 誰も傷つけずにすべてを救う存在ではない。

 

 彼女は、家族を守る主人だった。

 

 優しく、淡く、時に危ういほど無欲で、けれど、最後の線だけは絶対に譲らない。

 

 ファミリア達が傷つけられるなら、相手が人間であっても止める。

 

 止まらないなら、殺しても責めない。

 

 それは恐ろしい。

 

 同時に、ひどく正直だった。

 

 外の世界は、ライラを魔王と呼んでいる。

 

 だが今、目の前にいる少女は、世界征服を語ってはいない。人類の滅亡も、復讐も、支配も望んでいない。

 

 ただ、家を守りたいと言っている。

 

 みんなに帰ってきてほしいと言っている。

 

 この指令を、聖戦艦隊の者達は知らない。

 

 彼らの目には、明日、魔王軍が待ち構えているように見えるだろう。

 

 海の下の影。

 

 空の竜。

 

 森の奥の牙。

 

 拠点を囲む異質な設備。

 

 そのすべてが、恐怖の証明に見えるだろう。

 

 だから、言わなければならない。

 

 たとえ届かなくても。

 

 私はそっと手を握った。

 

 明日、私はあの船団へ向かう。

 

 魔女と呼ばれた私が。

 

 魔王の竜に奪還されたと記録された私が。

 

 それでも、言葉を届けなければならない。

 

 帰ってください、と。

 

 ここは魔王の城ではない、と。

 

 彼女は魔王ではない、と。

 

 たとえ、世界の誰も信じなくても。

 

 

 ライラの指令を受け取った後、ファミリア達は静かに動き始めた。

 

 ワイバーン達が、夜空へ上がる。

 

 翼が風を叩き、月明かりの下に影を伸ばす。それぞれ別の方向へ散っていく。

 

 その意味を私は完全には知らない。

 

 ただ、それぞれが自分の役目へ向かっていることだけは分かった。

 

 海の方では、水面が大きく揺れた。

 

 巨大な影が、沖へ消えていく。

 

 一つではない。

 

 いくつも。

 

 海は、先ほどまでと同じ暗い海に見える。だが、その下で何かが確実に動いている。

 

 小型や中型のファミリア達は、森の影や岩場の方へ散っていった。

 

 静かに、素早く、いつもとは違う緊張感を伴った足取りで。

 

 大型戦闘組も動く。

 

 地面が低く揺れ、重い足音が響いた。

 

 どの個体も、ライラの方を一度見てから、それぞれの場所へ向かう。

 

 命令に従う兵器ではなく、言葉を受け取った家族のように。

 

 支援役のファミリア達は、資材や食料を運び始めた。

 

 私には用途が分からないものも多い。

 

 主任が無言で指示を出し、必要なものが必要な場所へ運ばれていく。

 

 主任自身も、最後の設備確認へ向かった。

 

 途中で一度だけ、ライラの方を見る。

 

 ライラが小さく頷くと、主任は片手を上げた。

 

 それだけで、会話は終わった。

 

 カイザーは、正門近くへ静かに戻った。

 

 座る。

 

 ただそれだけだった。

 

 けれど、その場にいるだけで、正門は巨大な意思を持った壁のように見えた。誰かがあの場所を越えようとするなら、まずあの黒い巨体と向き合わなければならない。

 

 シルヴィアだけは、動かなかった。

 

 私のそばにいる。

 

 首を低くし、私の背後から離れない。

 

 ライラはそれを見て、何も言わなかった。

 

 明日、シルヴィアには別の役目がある。

 

 そして、その役目は私と一緒だった。

 

 

 ファミリア達が、それぞれの場所へ向かっていく。

 

 ワイバーン達は夜空へ上がり、海の影は沖へ消え、小型や中型の子達は森や岩場へ散っていった。大型の戦闘組は重い足音を響かせながら、拠点の周囲へ向かう。支援役の子達は資材を運び、主任は最後の確認へ戻っていく。

 

 そのすべてを見届けてから、ライラは家の中へ戻った。

 

 向かった先は、拠点の最上階だった。

 

 そこは、元々はただの展望室だった。

 

 晴れた日には海が見えた。

 

 風の強い日には、ワイバーン達が雲の下を滑るのが見えた。

 

 夜には星が近く、朝には島の森が金色に染まる。

 

 家の中で一番高い場所。

 

 ライラがときどき景色を見に来る場所で、ファミリア達が空を横切るのを眺める場所。

 

 けれど今、その場所は別の顔を持っていた。

 

 ライラが中央に立つと、周囲の空間に淡い光が浮かび上がった。

 

 壁ではない。

 

 窓でもない。

 

 魔法陣でもない。

 

 薄い光の面が、彼女を囲むようにいくつも開いていく。

 

 海。

 

 森。

 

 拠点外周。

 

 空。

 

 正門。

 

 遠くの崖。

 

 夜の水面を横切る、大きな影。

 

 それぞれ違う場所の景色が、光の中に映っていた。

 

 私は、思わず息を呑んだ。

 

 遠見の術とは違う。

 

 水晶球とも違う。

 

 神聖術の監視結界とも違う。

 

 それなのに、そこには確かに島のあちこちが映っていた。

 

 まるで島そのものが、ライラを中心に輪になって並んでいるようだった。

 

「……これで、見るんですか」

 

 尋ねると、ライラは光の一つを見ながら頷いた。

 

「うん。全部じゃないけど。動いてるところとか、反応があるところとか」

 

 光の一部がわずかに乱れた。

 

 海を映していた面に、細かなノイズのようなものが走る。

 

 ライラは目を細める。

 

「やっぱり、外の魔法とか聖具みたいなのがあると、ちょっと変になるね」

 

 その声は落ち着いていた。

 

 けれど私には、そこに立つライラの姿が、ひどく危ういものに見えた。

 

 もし聖戦軍がこの光景を見たなら、何と呼ぶだろう。

 

 島の最上階。

 

 周囲に浮かぶ無数の光。

 

 海も森も空も見渡し、巨獣達の動きを知る少女。

 

 きっと、魔王の玉座と呼ぶ。

 

 だが、ライラは玉座に座っていなかった。

 

 誰かを支配するために、そこにいるのでもなかった。

 

 彼女はただ、帰ってくるはずの子達が迷わないように、傷つかないように、見失わないように、島を見ていた。

 

「みんな、ちゃんと見える」

 

 ライラが小さく呟く。

 

 その声音は、支配者のものではなかった。

 

 遠くへ出した家族を、帰るまで見守ろうとする者の声だった。

 

 だからこそ、私は胸が痛くなった。

 

 外の世界が見れば、これは魔王の座に見える。

 

 けれど、ここにあるのは玉座ではない。

 

 家の中で一番高い場所に作られた、見守るための部屋だった。

 

 

 最上階を出た後、私はシルヴィアのそばへ行った。

 

 月明かりの中で、シルヴィアの鱗は淡く光っていた。

 

 紫がかった鱗。

 

 その内側を流れる青白い光。

 

 翼は畳まれているが、それでも見上げるほど大きい。

 

 最初に見た時は、ただ恐ろしかった。

 

 今でも、怖さが消えたわけではない。

 

 けれど、その怖さの奥に、別の温かい温度があることを私は知っている。

 

 シルヴィアは、私が近づくとすぐに鼻先を寄せた。

 

 心配している。

 

 怒っている。

 

 守ろうとしている。

 

 その全部が混ざったような仕草だった。

 

 私はそっとその鱗に触れた。

 

「明日、もう一度、私を乗せてください」

 

 シルヴィアが低く鳴いた。

 

 もちろん、と言っているようにも聞こえたし、任せろ、と胸を張っているようにも見えた。

 

 私は小さく笑いかけようとして、うまく笑えなかった。

 

「それから……怒りすぎないでくださいね」

 

 シルヴィアの喉が、少し不満そうに鳴る。

 

 それは、難しいと言っているようだった。

 

 私は両手でシルヴィアの鼻先に触れた。

 

「私が止めたら、止まってください。お願いです。私のために怒ってくれるなら、私の声も聞いてください」

 

 言葉をどこまで理解しているのかは分からない。

 

 けれど、私が真剣に頼んでいることは伝わったらしい。

 

 シルヴィアはしばらくじっとしていた。

 

 それから、少しだけ不満そうに鼻を鳴らし、私へ鼻先を押しつけた。

 

 重い。

 

 けれど、優しい。

 

 私はその重さを受け止めた。

 

「ありがとうございます」

 

 シルヴィアは、また低く鳴いた。

 

 少しだけ得意そうにしたが、すぐに海の方へ視線を向ける。

 

 その目には、まだ激しい怒りが残っている。

 

 明日、私へ害意が向けられたなら、この竜は迷わず動くだろう。

 

 だから私は、シルヴィアの鱗を撫でながら、もう一度小さく言った。

 

「聞いてくださいね。私の声を」

 

 

 私は、夜遅くまで魔法の確認を続けた。

 

 机の上には、紙が何枚も広げられている。

 

 声を遠くへ届けるための術式。

 

 風や波に声が散らないようにする補助。

 

 武器を捨てた者や傷ついた者を見分けるための印。

 

 ファミリア達の負傷を早く見つけるための術。

 

 ライラの持つ冷たい機器と、魔法の反応を合わせるための試み。

 

 どれも、完全ではない。

 

 この島の魔力の流れは濃すぎるし、ライラの機器は、この世界の魔法とは違う理屈で動いている。私の知識だけでは扱いきれない部分が多かった。

 

 それでも、確認をやめなかった。

 

 誰かを殺すための魔法ではない。

 

 そう何度も言い聞かせる。

 

 届けるため。

 

 止めるため。

 

 見分けるため。

 

 助けるため。

 

 だが、術式の余白には、戦争の気配が染みついていた。

 

 声を届ける相手は、武器を持ってこちらへ来る人間達だ。

 

 傷ついた者を見分けるのは、傷つく者が出るからだ。

 

 ファミリア達の負傷を見つけるのは、傷つけられる可能性があるからだ。

 

 その現実を、どれだけ優しい言葉で包んでも消せなかった。

 

 手が震え、線が少し歪む。

 

 息を吸い、書き直した。

 

 シルヴィアは部屋の外にいた。

 

 窓の向こうから、こちらを見ている。大きな顔が近すぎて、普通なら悲鳴を上げるような距離だった。

 

 けれど、私はもう驚かなかった。

 

「見張らなくても大丈夫です」

 

 そう言うと、シルヴィアは低く鳴いた。

 

 大丈夫ではない、と言われた気がした。

 

 私は苦笑する。

 

 その時、扉が軽く叩かれた。

 

 ライラだった。

 

「まだ起きてる」

 

「……はい」

 

「寝た方がいいよ」

 

 ライラは、ただ心配してくれていた。

 

 私は筆を置いた。

 

「眠れる気がしません」

 

「うん。じゃあ、横になってるだけでも」

 

 その言い方が、あまりにも普通だった。

 

 明日には、聖戦軍が来るかもしれない。

 

 海には大船団が迫っている。

 

 この家は、すでに砦のように姿を変え始めている。

 

 それでも、ライラは私に「横になって」と言う。

 

 無理をしないでほしいから。

 

 倒れたら困るから。

 

 ただ、それだけの理由で。

 

 胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

「ライラさんも、休んでください」

 

「私は、あと少し確認したら」

 

「それ、絶対に少しではない言い方です」

 

 ライラは、少しだけ目を逸らした。

 

 思わず小さく笑った。

 

 本当に小さな笑いだった。

 

 けれど、笑えた。

 

 ライラはそれを見て、少しだけ安心したようだった。

 

「横になって。シルヴィアも心配してる」

 

 窓の外で、シルヴィアが当然だと言いたげに喉を鳴らした。

 

 私は筆を置き、立ち上がる。

 

「少しだけ、横になります。でも、夜明け前には起きます」

 

「分かった」

 

 ライラは頷いた。

 

 止めなかった。

 

 明日、私が言葉を届けに行くことを、ライラも分かっているからだ。

 

 

 同じ夜、遠い海では、おそらく聖戦艦隊も眠ってはいないのだろう。

 

 実際に何が起きているのか、私には分からない。

 

 けれど、想像はできた。

 

 暗い海の上で、信号灯が船から船へ送られているはずだ。

 

 見張りは増やされ、神官達は夜の祈祷を続け、聖騎士達は甲板で静かに待機しているだろう。

 

 義勇兵の中には、眠れない者も多いに違いない。船室に横たわっても、波の音と船体の軋みに心が落ち着かず、護符を握りしめたまま目だけを開けている者もいるかもしれない。

 

 船員達は風と潮を読み、指揮を執る者達は、翌日には禁忌の島を視認する可能性が高いと判断しているだろう。

 

 彼らは、魔王の島へ向かっているつもりなのだ。

 

 魔に支配された軍勢。

 

 人類社会へ牙を剥く禁忌の主人。

 

 その像へ向かって、祈り、武器を磨き、護符を確認している。

 

 その中心に、アレクシオ・レーヴェン枢機卿もいるはずだった。

 

 あの方は、私を憎んでいるわけではないだろう。

 

 むしろ、惜しんでいるのだと思う。

 

 光に仕え、多くを救った者。

 

 若くして聖女と呼ばれ、それに見合う努力を続けた者。

 

 その私が、もし魔王の影響下にあるのなら。

 

 救えるなら、救いたい。

 

 そう思っているはずだ。

 

 けれど、その救いは、私にとって救いではないかもしれない。

 

 アレクシオ枢機卿は、きっと怒鳴らない。

 

 話は聞く。

 

 私の顔を見て、声を聞いて、言葉を受け止めようとする。

 

 それでも、退かない。

 

 なぜならあの方は、自分が人類を守るためにここにいると、本気で信じているからだ。

 

 善意が、明日の海へ来る。

 

 信仰が、武器を持って来る。

 

 そのことが、何より怖かった。

 

 王国のことも、少し考えた。

 

 王都では、きっと誰も眠れていないだろう。

 

 国王も、将官も、教授も、海図を前に苦い顔をしているに違いない。

 

 聖戦艦隊がもう止められない距離にいることを、王国も理解しているはずだ。

 

 そして、あの島なら、王国より先に艦隊を見つけているだろうとも考えているかもしれない。

 

 その推測は、正しい。

 

 私達は、もう見つけている。

 

 だからこそ、備えている。

 

 そう思うと、胸の奥がさらに重くなった。

 

 王国は、何を祈っているのだろう。

 

 聖戦軍の無事か。

 

 この島の自制か。

 

 私の無事か。

 

 ライラさんが最悪の誤解に呑まれないことか。

 

 そのすべてを同時に祈るには、現実はあまりにも重すぎた。

 

 

 夜明け前。

 

 家は、普段より静かだった。

 

 非戦闘組は奥の区画にいる。小さな子達の中には落ち着かずに鳴くものもいたが、そばにいるファミリア達が寄り添っている。

 

 採取組の一部は、まだ動いていた。

 

 最後の確認。

 

 最後の運搬。

 

 最後の調整。

 

 ワイバーン達は交代で空へ上がり、海棲組は夜の海へ消えたままだ。

 

 ライラは眠っていなかった。

 

 けれど焦ってはいない。

 

 必要なことを確認し、声をかけている。その動きは淡々としていたが、一つ一つに迷いがない。

 

 私も眠れなかった。

 

 少しだけ横にはなったが、眠れたとは言えない。

 

 目を閉じると、光裁の壇が見え、魔女と呼ぶ声が聞こえ、明日の海に浮かぶ白い帆が見えた。

 

 外へ出ると、すぐにシルヴィアがついてきた。

 

 夜明け前の海は暗い。

 

 まだ船の灯りは見えない。

 

 聖歌も聞こえない。

 

 ただ、波が岩に砕ける音だけがある。

 

 けれど、そこにいる。

 

 遠い海の向こうに、彼らはいる。

 

 それを強く感じていた。

 

「明日、私はあの人達に帰ってくださいと言います」

 

 シルヴィアへ小さく言った。

 

「たぶん、帰ってはくれません」

 

 シルヴィアは何も言わない。

 

 ただ、そばにいる。

 

「それでも、言わないといけないんです」

 

 声は震えていた。

 

 自分が止められなかった。

 

 戻ってきた。

 

 ライラさんを庇った。

 

 シルヴィアに助けられた。

 

 その結果、明日、あの海で人が死ぬかもしれない。

 

 全部が自分のせいではないと頭では分かっている。聖座の判断、異端審問局の誘導、法国の教義、金香派の利権、王国の情報秘匿、民衆の恐怖。いくつものものが絡み合ってここまで来てしまった。

 

 それでも、心は割り切れない。

 

 私はシルヴィアの鱗に触れた。

 

「だから、お願いします。私が言葉を届ける間だけでいい。私の声を、聞いてください」

 

 シルヴィアは低く喉を鳴らし、私を支えるように鼻先を寄せてくれた。

 

 その温かさに、私は目を閉じた。

 

 

 空が白み始めた。

 

 家の高所では、ワイバーン達が戻ってくる。海の方から、深い振動のような気配が伝わってきた。海棲組もまた、何かを捉えているのだろう。

 

 主任が最後の確認を終えて片手を上げ、それを見てライラが頷く。

 

 カイザーは正門近くで静かに立っていた。

 

 黒い巨体が夜明け前の薄い光を受けて影のように見える。呼吸は低く重いが、動きは静かだった。

 

 私は身支度を整えた。

 

 動きやすい服。

 

 必要最低限の道具。

 

 魔法の補助に使う小さな布。

 

 そして、胸元に手を当てる。

 

 聖座に奪われた聖印は、もうここにはない。

 

 それでも、祈りを忘れたわけではなかった。

 

 シルヴィアが、広場に伏せる。

 

 乗りやすいように身体を低くしている。紫がかった鱗が夜明けの光を受けて淡く輝き、内側の青白い光がゆっくりと脈打つ。

 

 その背に手を伸ばした。

 

 指先が少し震えている。

 

 怖い。

 

 当然だった。

 

 これから向かうのは、かつて自分がいた世界だ。

 

 自分を魔女と呼び、断罪しようとした世界。

 

 そして、その中には、自分を本気で救おうとしている者達もいる。

 

 だからこそ、怖い。

 

 震える息を吸い込んだ。

 

 ライラが、そばに立っていた。

 

「リィナ。危なくなったら、帰ってきて」

 

 短い言葉。

 

 けれど、そこには命令よりも強い願いがあった。

 

 私は頷いた。

 

「はい。必ず」

 

 ライラは、シルヴィアを見た。

 

「シルヴィアも。リィナを連れて帰ってきて」

 

 シルヴィアが力強く鳴いた。

 

 任せろと言っているようだった。

 

 私はシルヴィアの背へ足をかけた。

 

 何度も練習した動き。

 

 それでも、今日は重い。

 

 背に上がり、鱗に手を添え、呼吸を整える。

 

 遠くの海には、まだ聖戦艦隊の姿は見えない。

 

 だが、もうすぐ見える。

 

 もうすぐ、彼らもこの島を見る。

 

 その前に、言葉を届けなければならない。

 

 私は前を向いた。

 

「行きましょう」

 

 声は小さかった。

 

 けれど、逃げるための声ではなかった。

 

 シルヴィアが翼を広げる。

 

 夜明けの光が、その大きな翼の縁を白く照らした。

 

 まだ、戦いは始まっていない。

 

 だからこそ私は、最後の言葉を持って、明日の海へ上がった。




あとがき補足。

今回出てきたライラの指揮所について。

拠点最上階にあるあの場所は、元々は戦争用の司令室というより、島や空や海を見渡せる展望室に近い場所です。普段なら、ライラが景色を眺めたり、ワイバーン達が飛んでいるのを見たりするための場所でした。

ただ、今回は聖戦軍が来るため、そこにTEKセンサーの情報を集約しています。

イメージとしては、ガンダムなどに出てくる全周囲モニターに近いです。ライラの周囲に、海、森、拠点外周、空、正門、各地の警戒反応などが映し出される感じです。
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