廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第33話 最終勧告

シルヴィアが、力強く翼を打った。

 

夜明け前の冷たい空気が一瞬で押し広げられ、外套が大きくはためいて、足元が地面から離れた。増築を重ねてきた家も、正門近くに立つカイザーも、眠らないまま夜を越えたファミリア達の影も、ゆっくりと下へ遠ざかっていった。

 

私は、シルヴィアの紫がかった鱗にそっと手を添えた。

 

何度も練習した姿勢だった。背に沿って身体を低くし、肩の力を抜いて、風を正面から受けないようにシルヴィアの動きに合わせる。身体はもう、すっかり覚えている。それなのに今日だけは、指先の震えがどうしても止まらなかった。

 

空へ上がって、海へ向かう。その先には、聖戦艦隊が待っている。

 

一度だけ、眼下を振り返った。そこには、私を救ってくれた家があった。高い場所から次々に飛び立つワイバーン達と、森へ散っていく小型や中型の影。沖へ向かう海棲組の、底の知れない気配。そして家の最上階には、ライラがいる。

 

昨夜見た最上階の光景が、脳裏をよぎった。

 

そこは、もとはただの展望室だった。晴れた日には海が見え、夜には星が近くに見える、穏やかな部屋だった。そこに今は、淡い光の面がいくつも浮かんでいる。海と森、家の外周、空、正門、遠くの崖。夜の水面を横切る巨大な影の輪郭まで、何ひとつ見落とさないように映し出されていた。

 

その真ん中に、ライラはぽつんと立っていた。

 

外の世界の人間が見れば、あれを「魔王の玉座」と呼ぶのだろう。島の最上階で光の面に囲まれ、すべての巨獣の動きを掴んでいる少女。恐怖に染まった目には、絶対的な支配者の座に見えるに違いない。

 

けれど、私は知っているのだ。ライラはそこに座ってなどいなかったし、誰かを支配するために立っていたのでもない。ファミリア達の居場所を見失わないように、怪我をしていないかを確かめるために、帰ってくる場所を示すために、あの部屋に立っていたのだ。あれは魔王の玉座ではなく、家族を見守るための部屋だった。

 

シルヴィアが、少しだけ首を動かした。私の呼吸が乱れたことに、気づいたのだろう。

 

「大丈夫です」

 

私は、その首筋に向かって小さく語りかけた。

 

「私は、戦いに行くのではありません。まず、言葉を届けに行くんです」

 

たぶん、引き返してはくれないだろうと思う。聖座が、法国が、およそ五百隻の船を集めて、十万に届こうという人々を乗せてここまで来ているのだ。その巨大な重さは、一人の言葉で止められるほど小さくはない。

 

それでも、言わなければならなかった。言葉を省いてしまえば、本当にただの殺し合いになる。なぜ戦うのかも、何を守ろうとしているのかも分からないまま血だけが流れる。それだけは、絶対に嫌だった。

 

服の内側に布で留めた、小さな金属片に触れた。私が作り、何度も調整を重ねた、ただ一人へ声をつなぐための魔道具だ。対になる石は、ライラのそばに置いてある。

 

うまく働くという保証はなかった。島の魔力は濃く、外から来る聖具や結界の気配は、強い干渉になるだろう。それでも、今の私にできることのすべてを、ここに詰め込んだ。

 

その小さな魔道具を一度だけ強く握って、私は前を向いた。夜明けの海へ、シルヴィアは一直線に進んでいった。

 

◆

 

聖戦艦隊の夜明けもまた、緊張に満ちていた。

 

船団司令は隊列を整え、結界担当の司教は祈祷陣を確かめ、聖具はいつでも使えるように並べられている。船団はまだ島を目にしていなかった。けれど、近いことは分かっていた。それをいちばんよく分かっていたのは、海に生きる船員達だった。

 

海鳥が、一羽残らず消えていた。波の音がいやに重く、船体にぶつかる波の底には、地鳴りのような低い響きが混じっている。船乗り達からは無駄口が消え、神官達の祈りは長くなり、義勇兵達は護符を握りしめていた。

 

大型の軍船に護衛船、補給船、治療船。多すぎるほどの船団ではあっても、そこには確かな鉄の秩序があった。彼らは本気で、魔王の島へ向かっているつもりだった。実際に向かっているのは一人の少女の家だという決定的な違いを、まだ誰も知らなかった。

 

司令艦の甲板に、アレクシオ・レーヴェン枢機卿が姿を見せた。

 

人類防衛聖戦軍の総司令官であるその人の顔に、高揚はなかった。魔王討伐という言葉に熱を上げている様子もない。ただ、これから起こるすべてを受け止める者の顔をしていた。

 

海風が、白い外套を揺らす。アレクシオは遠い水平線の向こう、彼らが禁忌の島と呼ぶ場所を見つめたまま、静かに祈りを口にした。

 

「彼女がまだ光を覚えているなら、どうか戻る道を。もし戻れぬなら、せめて闇の器とならぬように」

 

それは善意と慈悲に満ちた、真摯な祈りだった。

 

「島影!!」

 

司令艦の高所から、見張りの鋭い声が落ちてきた。その一言は、船団の上を波のように広がっていった。

 

水平線の向こう、朝靄の奥に、高く暗い輪郭が見えていた。船団が激しくざわめき、義勇兵達が祈り、聖騎士達は剣の柄に手を置いて、神官達は祈りの声を強めた。記録官達は、震える手で時刻を書き留めた。

 

――人類防衛聖戦軍第一陣、禁忌の島を視認。

 

彼らは、自分達が島を見つけたのだと思っていた。実際には、島に見つけられてから、すでに一晩が過ぎていた。

 

その時、空に青白い光が走った。

 

艦隊の前方、朝の光がまだ届ききらない空に、ひとつの巨大な影が現れた。長い首に紫がかった鱗、身体の奥を走る青白い光を持つ、竜だった。そしてその背には、白い衣を風になびかせた、一人の女の姿があった。

 

「魔女だ……!」「リィナ・エルシアだ!」「断罪台を襲った竜だ!」「撃て!!」

 

◆

 

眼下の甲板で、弓兵達が一斉に弓を構えるのが見えた。武装神官達の足元では、魔法陣が次々に光を帯びていく。

 

その害意を、シルヴィアは見逃さなかった。喉の奥で低い雷鳴が鳴り、鱗の内側の光が鋭く明滅する。はっきりとした、怒りだった。

 

私は、すぐにシルヴィアの首元へ手を置いた。

 

「まだです。お願い、まだ」

 

風の中で小さくしか出なかった声は、それでもシルヴィアに届いた。私が止めたら、止まってください。あの夜の約束を、彼女は覚えてくれていたのだ。完全に納得したわけではなくても、私のために、その牙をぎりぎりのところで留めてくれた。

 

その時、司令艦の甲板から、よく通る声が響いた。

 

「撃つな。まだ撃つな」

 

それは、アレクシオ枢機卿の声だった。聖騎士達が動きを止め、弓兵達がためらう。その人は、まっすぐに私を見上げていた。敵としてだけではなく、言葉を聞くべき相手として。

 

その目に、憎しみは見えなかった。魔女と罵りたいだけの人ではなく、むしろ惜しんでいるようにさえ見えた。多くの人を救い、若くして聖女と呼ばれた者が魔王の影響の下にあるのなら、救えるうちに救いたいと思っている目だった。けれど、その人の「救う」は、私にとって救いではない。そのことを、あの人はまだ知らない。

 

私は、シルヴィアの背で深く息を吸い込んだ。

 

胸元で淡く光ったのは、声を遠くまで届けるための術式だった。風にも波にも呑まれずに、五百隻の船団の隅々まで届くようにと組んだものだ。震える手を押さえて、私は一つずつ、はっきりと言葉を紡いだ。

 

「聖戦艦隊に告げます。これ以上、進まないでください」

 

声が、海の上を滑るように広がっていった。神官達が祈りを止め、記録官が慌てて筆を取る。

 

「この先は、あの人達が家として守る島の防衛圏です。あなた方が魔王と呼ぶ存在は、人類を滅ぼそうとはしていません。あの島には、確かな暮らしがあります。家があって、守ろうとしている大切な命があります」

 

ライラやみんな、カイザーや主任のいる遠い島を振り返りたい衝動を、必死に抑えた。

 

「けれど、これ以上進むなら、島はあなた方を侵入者として扱います。これは脅しではなく、最後の勧告です」

 

そして、ありったけの声を張り上げた。

 

「武器を収めて、船を反転してください。まだ、間に合います」

 

言葉は確かに届いていたし、誰もが聞いていた。けれど、届くことと信じてもらえることは、まったく別のことだった。

 

「魔女の言葉だ!」「魔王の島を守ろうとしている!」「あれが誘惑だ、耳を貸すな!」

 

言葉が正しければ正しいほど、聖戦軍には逆の意味で響いてしまう。魔女リィナが魔王の竜に乗り、魔王の島を守るために退去を命じている。その固い構図をひっくり返すには、私の言葉だけでは、あまりにも足りなかった。

 

◆

 

私はシルヴィアを向かわせて、先頭の司令艦へ近づいた。

 

巨大な翼が近づいただけで、甲板の上に烈風が吹き荒れ、帆が揺れ、兵士達の外套が激しくはためいた。シルヴィアは、甲板にすべての重さを預けはしなかった。翼で風を掴んで浮かんだまま、爪だけを甲板の端にかける。それでも、ぎし、と重い木材が悲鳴を上げた。

 

私も完全には降りずに、シルヴィアの背に乗ったまま、片手を彼女の首元に添えていた。ライラとの約束を守るためだった。

 

聖騎士達が一歩下がり、武装神官の魔法陣が光る。シルヴィアが低く唸ると、甲板の上の空気が細かく震えた。

 

「大丈夫です。まだ、話します」

 

シルヴィアにそう告げて、私は前を向いた。

 

アレクシオ枢機卿が、前へ出てきた。聖騎士団長を片手で制して、その人は私をじっと見つめた。

 

「リィナ・エルシア」

 

名を呼ばれた瞬間、胸が揺れた。聖女だった頃の自分を呼ばれたような気がしたからだ。けれど今の私は、魔女と呼ばれている。

 

「アレクシオ枢機卿。船を退かせてください。この先へ進めば、必ず多くの死者が出ます。私は脅しているのではなく、止めたいんです」

 

アレクシオ枢機卿の目には、深い悲しみがあった。

 

「あなたの言葉は聞きます。ですが、それに従うことはできません」

 

その一言を聞いた瞬間に、胸の奥が冷えきった。

 

「あの方は、魔王ではありません!」

 

気がつけば、私は叫んでいた。魔王ではなく、名前のある一人の人なのだと伝えたかった。

 

「人類を滅ぼそうとも、世界を支配しようともしていません。あの島には暮らしがあって、役割があって、家があります。王国の調査団は生きて帰りましたし、私も助けられたのです。ファミリア達は、ただの魔物の軍勢ではありません。攻めなければ、戦わずに済むんです!」

 

アレクシオ枢機卿の表情は変わらなかった。けれど、その目は確かに、私の言葉を聞いていた。

 

「あなたは今も、その竜に乗っている」

 

その人は、責めるでもなく静かに言った。

 

「聖座の裁きの直前、あなたは禁忌の島の竜に奪われた。そして今、その竜に守られ、島の側に立って我らに退去を命じている。王国は詳細を伏せ、あなたは魔王を庇った。ここで、あなたの言葉が真実なのか、それとも魔王の影響によるものなのか、私には判断できません」

 

「違います。私は、操られてなどいません!」

 

「そう言うでしょう。もしあなたが本当に囚われているのなら、なおさらです」

 

それは、残酷な理屈だった。何を言っても、魔王の影響の下にある者の言葉として片づけられてしまう。否定すればするほど、そう言わされているのではないかと疑われるのだ。

 

けれどこの人は、悪意で拒んでいるのではなかった。この人の目には、本当にそう見えている。これまでのすべての出来事が、私を「魔王を庇う魔女」として、完璧に証明してしまっていた。

 

「もし、あなたの言葉が真実ならば、私はいつか、あなたに詫びねばならないでしょう。ですが、もしその言葉が魔王の影によるものなら、ここで退くことは民を危険に晒すことになります。私は、その賭けを選べません」

 

私は唇を噛んだ。この人の考えが、分かってしまったからだ。この人は高潔だからこそ、人類全体への責任と私の言葉を天秤にかけて、人類全体を選んでいる。退けば守れないものがあると本気で信じているから、退かないのだ。善意は時に退くことを知らず、慈悲は時に相手の言葉を「汚染」と見なしてしまう。

 

「アレクシオ枢機卿。名前も知らないまま、魔王と呼ばないでください。知らないまま、殺しに行かないでください」

 

私の声は風に吹かれて、甲板に落ちた。聖騎士達の中に、わずかな動揺が走る。若い神官が祈りを止め、義勇兵の一人が顔を伏せた。言葉は確かに届いていたのに、この巨大な船団は、もう止まることができなかった。

 

「あなたを、救いたいと思っています」

 

アレクシオ枢機卿が、そう言った。その言葉は本物で、だからこそ痛かった。

 

「私は――救われています」

 

甲板の上の空気が、凍りついたように変わった。

 

ライラに助けられ、シルヴィアに救われ、あの家で、私は確かに救われたのだ。けれどこの人の目には、それこそが魔王に魅入られた決定的な証に見えてしまう。

 

アレクシオ枢機卿は、静かに目を伏せた。その顔には、深い苦悩があった。

 

「……進軍を継続します」

 

叫びも怒鳴りもしない、静かな拒絶だった。船団司令が動き、信号旗が上がる。太鼓が鳴って鐘が低く響き、艦隊は進路を変えなかった。言葉の時間が、完全に終わったのだ。

 

◆

 

シルヴィアが獰猛に唸り、甲板が震えた。聖騎士達が、一斉に構える。

 

「シルヴィアさん、行きましょう!」

 

私は叫んで、彼女の首元に強く手を置いた。

 

「お願い、戻って」

 

シルヴィアの身体は怒りで激しく震えていたけれど、私の声を聞いて、ぎりぎりのところで翼を広げてくれた。

 

「撃つな。彼女が離れるまで撃つな」

 

背後で、アレクシオ枢機卿の声が響いた。この人は今もなお、私をすぐに殺すべき相手とは見ていない。だからこそ、退いてはくれないのだ。

 

シルヴィアが甲板を強く蹴ると、烈風が甲板を打ち、青白い光が朝の空へ駆け上がった。私は、もう振り返らなかった。

 

司令艦から十分に離れたところで、私は服の内側の魔道具を、強く握りしめた。手の中で、術式が小さく震えた。

 

「……ライラさん」

 

呼びかけた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

「駄目です。説得できませんでした。進軍を継続すると……すみません、止められませんでした」

 

悔しさと無力感が、涙と一緒に溢れそうだった。

 

◆

 

家の最上階で、ライラは光の面に囲まれて立っていた。

 

海と空、艦隊の動き、そしてリィナとシルヴィアの位置。外の者が見れば魔王の城の司令室にしか見えないその部屋で、ライラが確かめていたのは、ただ、リィナとファミリア達が傷ついていないかどうかだった。

 

小さな魔道具から、リィナの掠れた声が届いた。

 

ライラは、表情を変えなかった。その言葉を、ただ静かに受け止めた。

 

「分かった。リィナ、戻って。もういいよ」

 

リィナにこれ以上の言葉を背負わせないための、優しい声だった。

 

「帰ってきて」

 

光の面の中で、シルヴィアの影が島の方へ向きを変えた。それを確かめてから、ライラは深く息を吐き出した。言葉の時間が終わったのなら、次は、家を守る時間だった。

 

シルヴィアはリィナを背に乗せたまま、島の側の空へ戻ってくる。その背後で、聖戦艦隊は進路を少しも変えなかった。朝の光を受けた白い帆が進み、鐘が鳴り、船団は禁忌の島へ向かってくる。もう、誰にも止められなかった。

 

光の面の中で、艦隊の影が増え、距離が縮まっていく。海の中の影が向きを変え、空のワイバーン達が高く旋回して、ファミリア達の位置が静かに持ち場へ収まっていった。カイザーは正門の近くに立ち、主任は内側で最後の確かめを終え、リィナとシルヴィアも、無事に戻ってきた。

 

そのすべてを見届けてから、ライラは目を閉じた。昨日みんなに言ったことを、もう一度だけ胸の中で確かめるように。

 

――無理しないで、人間は食べちゃだめ、逃げる人は追わないで、みんな、帰ってきて。

 

目を開けると、光の面には、海を埋め尽くす白い帆の群れが映っていた。言葉を聞いても止まらずに、家に向かってくる。それなら、止めなければならなかった。

 

ライラは、光の面に向かって静かに言った。

 

「止めて」

 

「始めて」でも、「殺して」でも、「滅ぼして」でもなかった。家に入れないために、ファミリア達を守るために、帰ってくる場所を守るための言葉だった。

 

「止めて」

 

その声が、光の中へ静かに溶けた。

 

次の瞬間、それまで静かだった海の下で、巨大な影達がゆっくりと動き出した。

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