廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

36 / 65
第33話 最終勧告

シルヴィアが、力強く翼を打った。

 

夜明け前の冷たい空気が、一瞬で激しく押し広げられる。私の外套が大きく揺れ、足元が浮いた。地面が離れる。

 

増築を重ねてきた拠点、正門近くに立つカイザー、眠らないまま夜を越えたファミリア達の影が、ゆっくりと下へ遠ざかっていく。

 

私は、シルヴィアの紫がかった鱗にそっと手を添えた。

 

何度も練習した姿勢だ。背に沿って身体を低くし、肩の力を抜き、風を正面から受けないようにシルヴィアの動きと同化する。身体は完全に覚えている。けれど、今日だけは指先の震えがどうしても止まらなかった。

 

空へ上がる。海へ向かう。その先には、聖戦艦隊が待っている。

 

一度だけ、眼下を振り返った。

 

そこには、私を救ってくれた「家」があった。

 

高所から飛び立つワイバーン達。森へ散っていく小型や中型の影。沖へ向かう海棲組の不気味な気配。

 

そして、拠点の最上階。そこに、ライラがいる。

 

昨夜見た光景が脳裏をよぎる。元々はただの展望室だった場所。晴れた日には海が見え、夜には星が近くに見えたあの穏やかな部屋。今はそこに、淡い光の面がいくつも浮かんでいた。海、森、拠点外周、空、正門、遠くの崖。夜の水面を横切る巨大な影の輪郭まで、すべてを網羅するように。

 

ライラはその中心に、ぽつんと立っていた。

 

外の世界の人間が見れば、きっとあれを「魔王の玉座」と呼ぶだろう。島の最上階で光の面に囲まれ、すべての巨獣の動きを掌握する少女。恐怖に染まった目には、絶対的な支配者の座に見えるに違いない。

 

けれど、私は知っている。ライラはそこに座ってなどいなかった。誰かを支配するために立っていたわけでもない。

 

彼女はただ、ファミリア達の位置を見失わないように、怪我をしていないか確かめるために、帰ってくるべき場所を示すために、あの部屋に立っていたのだ。

 

魔王の玉座ではない。家族を見守るための部屋だった。

 

シルヴィアが、少しだけ首を動かした。私の呼吸が乱れたことに気づいたのだろう。

 

「大丈夫です」

 

小さく、彼女に語りかける。

 

「私は、戦いに行くのではありません。まず、言葉を届けに行くんです」

 

たぶん、帰ってはくれない。そう思う。

 

聖座が、法国が、およそ五百隻の船を集め、十万に届きかける人々を乗せてここまで来ている。その巨大な質量は、一人の言葉で止められるほど小さくはない。

 

それでも、言わなければならない。言葉を省略したら、本当にただの残酷な殺し合いになる。なぜ戦うのかも、何を守ろうとしているのかも分からないまま、血だけが流れる――それだけは、絶対に嫌だった。

 

服の内側、布で固定した小さな金属片に触れた。私が作り、何度も調整した、ただ一人へ声を繋ぐための魔道具。対になる石は、ライラのそばに置かれている。

 

うまく働く保証はない。島の魔力は濃く、外から来る聖具や結界の気配は強烈な干渉になるだろう。けれど、今の私にできることのすべてをここに詰め込んだ。

 

その小さな魔道具を一度だけ強く握り、私は前を向いた。

 

夜明けの海へ、シルヴィアは一直線に進む。

 

 

後から思えば、聖戦艦隊の夜明けも、きっと緊張に満ちていたのだろう。船団司令は隊列を整え、結界担当司教は祈祷陣を確認し、聖具もいつでも使えるよう管理されていたはずだ。

 

船団はまだ島を目視していない。だが、近い。それは、海に生きる船員達が一番よく分かっていた。

 

海鳥が完全に消え、波の音が不気味に重い。船体へぶつかる波の底に、低く響く地鳴りのような音が混じっている。船乗り達から無駄口が消え、神官達の祈りは長くなり、義勇兵達は護符を握りしめていた。

 

大型軍船、護衛船、補給船、治療船。多すぎる船団ではあっても、そこには確かに鉄の秩序があった。

 

彼らは、本気で魔王の島へ向かっているつもりだった。実際には、ただ一人の少女の家へ向かっている。その決定的な差を、まだ誰も知らない。

 

司令艦の甲板へ、アレクシオ・レーヴェン枢機卿が出てきた。

 

人類防衛聖戦軍総司令官。その表情に高揚はなく、魔王討伐という言葉に熱を上げている風でもない。彼はただ、これから起こるすべてを受け止める者の顔をしていた。

 

海風が白い外套を揺らす。アレクシオは遠い水平線を見つめていた。その先にある、彼らが禁忌の島と呼ぶ場所を。

 

あの方は、私のことを考えているのだろうか、と思った。少なくとも、彼が私を憎んでいるようには見えなかった。魔女と罵りたいだけの人ではない。むしろ、惜しんでいるようにさえ見えた。

 

多くの人を救い、若くして聖女と呼ばれた者が、魔王の影響下にあるのなら、救えるなら救いたい、と。

 

けれど、彼の「救う」は、私にとって救いではない。そのことを、彼はまだ知らない。

 

アレクシオは静かに祈っていた。

 

「彼女がまだ光を覚えているなら、どうか戻る道を。もし戻れぬなら、せめて闇の器とならぬように」

 

その祈りは真摯だった。善意があり、慈悲があった。だからこそ、怖かった。

 

善意は時に退かない。慈悲は時に、相手の言葉を「汚染」と見なす。アレクシオは人類を守るためにここにいると本気で信じている。だから彼は、私の言葉を聞き、そして、それでも進むのだろう。

 

 

「島影!!」

 

司令艦の高所から、見張りの鋭い声が落ちた。その一言は、船団の上を波のように広がっていった。

 

水平線の向こうに、暗い影が見える。朝靄の奥に隠れた高い輪郭。

 

船団が激しくざわついた。義勇兵達が祈り、聖騎士達は剣に手を置き、神官達は祈りを強める。記録官達は、震える手で時刻を書き留めた。

 

――人類防衛聖戦軍第一陣、禁忌の島を視認。

 

彼らは、自分達が島を見つけたのだと思っていた。だが実際には違う。島に見つけられてから、すでに一晩が過ぎていたのだ。

 

その時、空に青白い光が走った。

 

艦隊前方の空、朝の光がまだ届ききらない場所に、ひとつの巨大な影が現れた。長い首、紫がかった鱗、身体の奥を走る青白い光。竜だ。

 

その背に、私はいた。白い衣が風に揺れ、髪が頬に張りつく。艦隊の人々が、一斉にこちらを見上げた。

 

「魔女だ……!」「リィナ・エルシアだ!」「断罪台を襲った竜だ!」「撃て!!」

 

一部の弓兵が弓を構え、武装神官達の足元で魔法陣が光る。

 

その害意を、シルヴィアは見逃さなかった。喉の奥で低い雷鳴が鳴り、鱗の内側の光が鋭く明滅する。明確な、怒りだった。

 

私は、すぐにシルヴィアの首元へ手を置いた。

 

「まだです。お願い、まだ」

 

私の声は風の中で小さかったけれど、シルヴィアには届いた。

 

『私が止めたら、止まってください』。あの夜の約束を、彼女は覚えてくれていた。完全に納得したわけではなくても、彼女は私のためにその牙をぎりぎりで留めた。

 

その時、司令艦の甲板から、よく通る声が響いた。

 

「撃つな。まだ撃つな」

 

アレクシオだった。聖騎士達が動きを止め、弓兵達がためらう。彼は私を見上げていた。敵としてだけではなく、言葉を聞くべき相手として。

 

 

私は、シルヴィアの背で深く息を吸い込んだ。胸元の術式が淡く光る。声を遠くへ届けるための魔法が、風や波に呑まれることなく、五百隻の大船団へ届くように。

 

震える手を押さえ、言葉を明確に紡ぎ出す。

 

「聖戦艦隊に告げます。これ以上、進まないでください」

 

声が海の上を滑るように響いていく。神官達が祈りを止め、記録官が慌てて筆を取る。

 

「この先は、アルカノア――あの人達が家として守る島の防衛圏です。あなた方が魔王と呼ぶ存在は、人類を滅ぼそうとしていません。あの島には、確かな暮らしがあります。家があります。守ろうとしている大切な命があります」

 

遠い島を振り返りたい衝動を必死に抑える。ライラ、みんな、カイザー、主任。

 

「けれど、これ以上進むなら、島はあなた方を侵入者として扱います。これは脅しではありません、最後の勧告です」

 

声を張り上げた。

 

「武器を収め、船を反転してください。まだ、間に合います」

 

確かに届いた。誰もが聞いていた。だが、届くことと、信じられることは全く別だった。

 

「魔女の言葉だ!」「魔王の島を守ろうとしている!」「あれが誘惑だ、耳を貸すな!」

 

言葉が正しければ正しいほど、聖戦軍には逆の意味で響いてしまう。魔女リィナが、魔王の竜に乗り、魔王の島を守るために退去命令を出している、と。その強固な構図を覆すには、私の言葉だけではあまりにも足りなかった。

 

 

私はシルヴィアを向かわせ、先頭の司令艦へと近づいた。

 

巨大な翼が近づくだけで甲板の上に烈風が荒れ、帆が揺れ、兵士達の外套が激しくはためく。シルヴィアは完全に甲板へ体重を預けなかった。翼で風を掴み、浮力を残したまま、爪だけを甲板の端にかける。それでも、ぎし、と重い木材の悲鳴が響いた。

 

私は完全には降りず、シルヴィアの背に乗ったまま片手を彼女の首元に添えていた。ライラとの約束を守るために。

 

聖騎士達が一歩下がり、武装神官の魔法陣が光る。シルヴィアが低く唸り、甲板の上の空気が細かく震えた。

 

「大丈夫です。まだ、話します」

 

シルヴィアにそう告げ、私は前を向いた。

 

アレクシオが前へ出た。聖騎士団長を片手で制し、彼は私をじっと見つめていた。

 

「リィナ・エルシア」

 

名を呼ばれた瞬間、胸が揺れた。聖女だった頃の自分を呼ばれたような気がしたからだ。けれど、今の私は魔女と呼ばれている。

 

「アレクシオ枢機卿。船を退かせてください。この先へ進めば、必ず多くの死者が出ます。私は脅しているのではありません、止めたいんです」

 

アレクシオの目には、深い悲しみがあった。

 

「あなたの言葉は聞きます。ですが、それに従うことはできません」

 

その一言で、胸の奥が冷えきった。

 

「あの方は、魔王ではありません!」

 

名前を叫んでいた。魔王ではなく、名前のある一人の人間なのだと。

 

「人類を滅ぼそうとも、世界を支配しようともしていません。あの島には暮らしがあり、役割があり、家があります。王国調査団は生きて帰りました。私も助けられたのです。ファミリア達は、ただの魔物の軍勢ではありません。攻めなければ、戦わずに済むんです!」

 

アレクシオの表情は変わらない。けれど、その目は確かに私の言葉を聞いていた。

 

「あなたは今も、その竜に乗っている」

 

静かに、彼は言った。

 

「聖座の裁きの直前、あなたは禁忌の島の竜に奪われた。そして今、その竜に守られ、島側の立場から我らへ退去を命じている。王国は詳細を秘匿し、あなたは魔王を庇った。ここで、あなたの言葉が真実か、それとも魔王の影響によるものか、私は判断できません」

 

「違います。私は、操られてなどいません!」

 

「そう言うでしょう。もしあなたが本当に囚われているなら、なおさらです」

 

残酷な論理だった。何を言っても「魔王の影響下にある者の言葉」として処理されてしまう。否定すればするほど、そう言わされているのではないかと疑われるのだ。

 

けれど、彼は悪意で拒んでいるのではない。彼の目には、本当にそう見えている。これまでのすべての事実が、私を「魔王を庇う魔女」として完璧に証明してしまっていた。

 

「もし、あなたの言葉が真実ならば、私はいつか、あなたに詫びねばならないでしょう。ですが、もしその言葉が魔王の影によるものなら、ここで退くことは民を危険に晒すことになります。私は、その賭けを選べません」

 

唇を噛んだ。分かってしまう。アレクシオは高潔だからこそ、人類全体の責任と私の言葉を天秤にかけ、人類全体を選んでいるのだ。退けば守れないものがあると、本気で信じているからこそ、彼は退かない。

 

「アレクシオ枢機卿。名前も知らないまま、魔王と呼ばないでください。知らないまま、殺しに行かないでください」

 

私の声は、風に吹かれて甲板に落ちた。聖騎士達の中に、わずかな動揺が走る。若い神官が祈りを止め、義勇兵が顔を伏せる。

 

届いていた、確かに届いていたのに、この巨大な船団はもう止まれなかった。

 

「あなたを、救いたいと思っています」

 

アレクシオが言った。その言葉は本物だった。だからこそ、痛かった。

 

「私は――救われています」

 

甲板の上の空気が、凍りついたように変わった。

 

ライラに助けられ、シルヴィアに救われ、あの家で確かに私は救われた。だが、アレクシオの目には、それこそが魔王に魅入られた決定的な証拠に見えてしまう。

 

アレクシオは、静かに目を伏せた。その顔には深い苦悩があった。

 

「……進軍を継続します」

 

叫ばず、怒鳴らず、ただ静かに拒絶した。船団司令が動き、信号旗が上がる。

 

太鼓が鳴り、鐘が低く響く。艦隊は進路を変えない。言葉の時間が、完全に終わった。

 

 

シルヴィアが獰猛に唸り、甲板が震えた。聖騎士達が一斉に構える。

 

「シルヴィアさん! 行きましょう!」

 

私は叫び、彼女の首元に強く手を置いた。「お願い、戻って」

 

シルヴィアの身体が怒りで激しく震えていたが、私の声を聞いてぎりぎりで翼を広げた。

 

「撃つな。彼女が離れるまで撃つな」

 

アレクシオの声が響く。彼は今もなお、私をすぐに殺す相手とは見ていない。だからこそ、退いてはくれないのだ。

 

シルヴィアは甲板を強く蹴った。強烈な風が甲板を打ち、青白い光が朝の空へ駆け上がる。私は、もう振り返らなかった。

 

 

司令艦から距離を取った後、私は服の内側に固定した魔道具を強く握りしめた。術式が小さく震える。

 

「……ライラさん」

 

声が掠れた。

 

「駄目です。説得できませんでした。進軍を継続すると……すみません、止められませんでした」

 

悔しさと、無力感が、涙とともに溢れそうだった。

 

 

その頃、拠点の最上階では、ライラが光の面に囲まれて立っているはずだった。海、空、艦隊の反応、私達の位置。外界の者が見れば魔王城の司令室に見えるだろうが、ライラの目はただ、私達が、ファミリア達が傷ついていないかを確かめるためのものだった。

 

小さな魔道具から、私の声が届く。

 

ライラは表情を変えなかった。ただ、私の言葉を静かに受け止めた。

 

「分かった。リィナ、戻って。もういいよ」

 

その声は、私にこれ以上の言葉を背負わせないための、絶対的な優しさだった。

 

「帰ってきて」

 

シルヴィアの反応が、完全に島側へ向きを変える。ライラはそれを確認してから、静かに、深く息を吐き出した。

 

言葉の時間は終わった。なら、次は家を守る時間だ。

 

 

シルヴィアは私を抱えたまま、島側の空へ戻っていく。その背後で、聖戦艦隊は進路を一切変えなかった。白い帆が朝の光を受けて進み、鐘が鳴り、船団は禁忌の島へ向かっていく。もう、誰も止まらない。

 

指揮所で、ライラは光の面を見つめていた。艦隊の反応が増え、距離が縮まる。海中の影が向きを変え、空のワイバーン達が高く旋回し、ファミリア達の反応が静かに配置へ収まっていく。

 

カイザーは正門付近に立ち、主任は内側で最後の確認を終え、私とシルヴィアも戻った。

 

そのすべてを見て、ライラは目を閉じた。昨日言ったことを、もう一度だけ胸の中で確かめるように。

 

――無理しないで。人間は食べちゃだめ。逃げるのは追わないで。みんな、帰ってきて。

 

ライラは目を開けた。光の面には、海面を埋め尽くす白い帆の群れが映っている。家に向かってくる。言葉を聞いても、止まらなかった。

 

なら、止めなければならない。

 

ライラは、静かに言った。

 

「止めて」

 

始めて、ではなかった。殺して、でも、滅ぼして、でもなかった。

 

家に入れないために。ファミリア達を守るために。帰ってくるべき場所を守るために。

 

「止めて」

 

その声が、静かに光の中へ溶けた。

 

次の瞬間。それまで静かだった海の下で、巨大な影達が、ゆっくりと動き出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。