――止めて。
その言葉は、家の最上階に満ちる光の中へ、静かに溶けていった。命じる声としては、あまりにも小さかった。戦いを始める声としては、あまりにも柔らかかった。それでも、その一言で海は決定的に変わった。
ライラは、指揮所の真ん中に立っていた。もとはただの展望室だった部屋の周りに、今は淡い光の面がいくつも浮かんでいる。海と空、聖戦艦隊の動き、リィナとシルヴィアの位置。海の中に散ったファミリア達の反応と、正門の近くに佇むカイザーの大きな気配。そのすべてが、冷たい光の中に映し出されていた。
外の者がこの部屋を見れば、きっと魔王の城の司令室と呼ぶのだろう。宙に浮かぶ光に囲まれ、海も空も森も見渡す少女。その一言で、国を滅ぼしかねない巨獣達が動くのだから。
けれど、ライラの目は支配者のものではなかった。彼女が見ていたのは、敵の死に場所ではない。みんなが怪我をしていないか、無理をしていないか、ちゃんと帰ってこられるか。見ていたのは、ただそれだけだった。
「無理しないで。食べちゃだめ。逃げるのは追わないで。みんな、帰ってきて」
光の面を見つめたまま、ライラは深く息を吸った。その小さな手が、一瞬だけ強く握られた。
海が、地鳴りのような咆哮を上げて応えた。
◆
海の下は、暗かった。
朝の光は水面を越えて差し込んでいたけれど、五百隻にのぼる船団の影が幾重にも重なって、深いところにはまだ濃い夜の色が残っている。頭上には、無数の船底が水面越しにひしめいていた。木の腹と補強された竜骨、舵、重い鎖。甲板を行き交う船員達の足音が、水の中では鈍い振動になって伝わってくる。
聖水の清らかな気配と護符の淡い光、神官達が張った対魔の結界。どれも、決して無意味なものではなかった。普通の魔獣なら怯み、瘴気を帯びた獣なら痛みに身をよじるほどの、厚い加護だった。
けれど、海の下に潜んでいたのは、教えに語られるような闇の被造物ではなかった。
巨大な影が、音もなく動いていく。モササウルスの輪郭は、まるで岩礁そのものが生き物になって泳いでいるようだった。水は彼らの完全な領分で、人の船はその上を通るだけの異物にすぎない。
その下を、重い装甲を纏ったような影が進んでいく。頭部の骨の鎧を暗い海の中で鈍く光らせたダンクルオステウスで、その顎に並ぶのは、鋼さえ噛み砕く刃だった。水面の近くではメガロドンの群れが細い影になって走り、さらに深い闇の底では、トゥソテウティスの巨大な触腕が、渦を描くようにゆっくりと広がっていた。
彼らは、人間を見ていなかった。少なくとも、餌としては見ていなかった。ライラの言葉が、牙の向かう先を決めていたからだ。だから彼らが見ていたのは、人間ではなく船だった。家へ向かってくるもの、ファミリア達の島へ侵略者を運んでくる器だった。
最初に動いたのは、ダンクルオステウスだった。
海の底近くを滑るように進み、前方の大型船の真下へ入り込む。船底には、対魔の加護の光が薄くまとわりついていた。その清らかな光が装甲に触れると、じり、と焼けるような痛みが走る。それでもダンクルオステウスは、少しも退かなかった。狙うのは人ではなく、船底の補強と、竜骨の周りと、舵へ続く金属の作りだった。
大きな顎が開き、次の瞬間、海の中に鈍く凄まじい破砕音が響き渡った。
木材が砕け、船板が外側からごっそりとえぐり取られる。船底が悲鳴を上げるより早く、ダンクルオステウスは舵の根元へもう一度、猛烈に噛みついた。木と金属がまとめて軋み、ぐしゃりと形を崩していく。
その直後に、横から巨大な重さが迫った。モササウルスが、船体の側面にその巨体を容赦なく押しつけたのだ。
噛みつきもせず、乗っている者を狙いもせずに、ただ押しただけだった。けれどその一押しは、嵐の逆巻く波よりも重かった。すでに底を砕かれていた大型船は抗うこともできずに横へ流され、内側で支えきれない歪みが走って、板材が悲鳴を上げた。大量の水が流れ込み、五百隻の先頭を行く大船が、不自然に傾いた。
◆
甲板の者達には、最初、何が起きたのかまったく分からなかった。
前を行く大型船が、何の前触れもなく、いきなり横へ傾いたのだ。聖騎士達が足を滑らせて甲板に倒れ、義勇兵達が悲鳴を上げ、船員が怒鳴り声を飛ばした。
「岩礁か!?」「違う、下だ! 船底をやられた!」「浸水! 排水を急げ!」
船団司令の判断は、早かった。
「先頭艦、減速! 後続、左右へ分かれろ! 輸送船を中央へ下げろ、護衛船を前へ!」
太鼓が鳴って鐘が短く連打され、指示を伝えるために連絡船が走り出そうとしたけれど、その小さな船が進路を取るより早く、海面が爆ぜるように盛り上がった。
水面を割って伸びた黒く巨大な触腕が、連絡船の側面に、がちりと絡みついた。
トゥソテウティスは、船を握り潰しはしなかった。人間を海へ引きずり込むこともせず、ただ船を止めただけだった。急に止められた連絡船は水の抵抗を受けて大きく揺れ、船員達が床に転がる。結ばれていた信号旗が水をかぶり、指示は途中で途切れた。
「連絡船が止まった! 何かに掴まれている!」「切れ、縄を切れ!」「違う、縄じゃない! 化け物の腕だ!」
後続の船が傾いた先頭船を避けようとして、整っていた隊列が横へ乱れた。その隙間を、エラスモサウルスが水面近くを高速で横切り、護衛船の舵を次々に狂わせていく。
まだ、壊滅とは程遠かった。けれど、一直線に島へ向かうはずだった白い大船団の足並みは、見る間に乱れ始めていた。
◆
結界担当の司教は、すぐに対処を命じた。
「下方へ神聖術を展開しなさい!」
武装神官達が聖具を掲げ、祈りの言葉が重なっていく。甲板の魔法陣が光を帯び、その光は船縁から水面へ落ちて、網のように広がっていった。海面を覆う、清らかな光の網だった。
それは、確かに強い力を持っていた。海の中を泳いでいたメガロドンの一頭が、光に触れて身を翻す。肌に焼けるような痛みが走り、群れが一瞬だけ距離を取った。さらに聖印付きの銛が放たれ、魔法の矢が水の中を突き破っていく。そのうちの一本がダンクルオステウスの硬い外殻に当たって白い火花を散らし、ダンクルオステウスは痛みに身を捩った。
攻撃は、確かに効いていた。聖戦軍の備えは飾りではなく、この世界の普通の魔獣が相手なら、十分すぎるほどの備えだった。
問題は、相手がその物差しに収まらないことだった。彼らは人間を狙う魔獣を退ける備えはしていたけれど、船団の働きそのものを壊すために動く海の中のファミリア達への備えは、何ひとつしていなかったのだ。
◆
私は、シルヴィアの背の上から、その光景をじっと見下ろしていた。
シルヴィアは艦隊から一定の距離を保ったまま、海と船団を見渡せる高さを静かに滑っている。眼下で船が傾き、祈りが途切れ、人が走り、海へ落ちていく。そのひとつひとつが、容赦なく胸を締めつけた。
これは、私も一緒に考えた作戦だった。上陸の前に船団の働きを奪い、全員を殺すのではなく船を止める。指揮を乱して島へたどり着く戦力を減らし、戦えなくなった者はできる限り見逃す。そうすれば、死ぬ人の数をいちばん少なく抑えられる。理屈では分かっていたし、それが最善だと判断したのも私自身だった。
けれど、自分が考えたとおりに船が壊れ、人々が海へ落ちていくのを目の当たりにするのは、まったく別のことだった。必死に船縁へしがみつく人々を見ていると、胃が引きちぎられるような感覚が広がっていった。
シルヴィアが、飛び方をわずかに穏やかにした。急な揺れを抑えて、安定した滑空に移っていく。私の身体の震えに、気づいてくれたのだ。
「……ありがとうございます、シルヴィアさん」
掠れた声で礼を言ってから、私は服の内側の魔道具に触れた。
「ライラさん。前方の大型船が一隻、止まりました。後続が詰まり始めています」
小さな魔道具の奥から、ライラの声が静かに返ってきた。
『分かった。落ちた人は、絶対に食べない。戦えない船は追わない』
「はい」
私は深く頷いて、シルヴィアの首元に触れた。
「シルヴィアさん、低くなりすぎないでくださいね。今の私達は、見て伝えるのが役目ですから」
シルヴィアは、不満そうに鼻を鳴らした。私に武器を向けたあの船団へ、今すぐにでも飛び込みたいのだろう。それでも私の声を聞いて、その衝動をじっと抑えてくれていた。
◆
船団司令の立て直しは、驚くほど速かった。
「前列、左右へ開け! 中央の輸送船は下げろ! 護衛船を前へ出せ! 損傷船の周りに救助船を回せ。ただし、主隊列を止めるな!」
その命令は、筋が通っていた。船団全体が止まれば、ただの的になる。だから傷ついた船は周りに任せ、進める船を前へ出す。救護を束ねる船では、落ちた者を引き上げるための縄が用意され、治療術士達が濡れた甲板に膝をついて、必死に祈りを捧げ始めていた。
けれど、島の海の子達は、正面から船団を押し潰そうとはしていなかった。ただ徹底して、彼らの足を止めるために動いていた。
メガロドンの群れが、救助船の周りを不気味に泳いでいる。彼らは、決して人を食べなかった。けれど船員達は、そのことを知らなかった。海面のすぐ近くを鋭い背びれが回っているだけで、恐怖に身体がすくんでしまう。
「近づいてくる! 食われるぞ!」
メガロドンは、落ちた兵士のすぐそばを、ただ素通りしていった。その兵士がしがみつこうとしていた折れた板を押し流すこともしない。周りを回り続け、武器を構えた小舟が近づこうとしたときだけ、その進路に割り込んで威嚇した。救助を完全に妨げはしないけれど、思いどおりにも動かせない。その不可解な沈黙が、彼らの恐怖をいっそう膨らませていた。
◆
海に落ちた一人の若い兵士は、死を覚悟していた。
鎧が重く、冷たい塩水を飲み込みながら、必死に浮こうともがいて、手の中の護符を握りしめる。神よ、と祈ろうとしたその瞬間、水面の下に、ありえないほど巨大な影が見えた。もう終わりだ、と兵士は思った。魔王の海の魔獣に足から引きずり込まれ、食われるのだと。
けれど、噛まれはしなかった。巨大な影は兵士のすぐ横を静かに通り過ぎ、小舟の上の兵士が槍を構えた瞬間に、海面を大きく揺らして牽制しただけだった。
兵士は、呆然と水面に浮かんでいた。なぜ食わないのか、なぜ殺さないのか、まるで分からなかった。近くで、別の兵士が叫び声を上げた。
「奴ら、人を食ってないぞ!」「じゃあ何だ!?」「船だ、船だけを狙ってる!」
食われないことさえ、不気味で恐ろしかった。彼らは知らなかったのだ。ライラが言った「人間は食べちゃだめ」という一言が、暗い海の下で、絶対の決まりとして守られているだけなのだということを。
◆
聖戦軍の反撃は、次第に鋭さを増していった。
「水面下、三十歩! 影が来る、放て!」
聖印付きの銛が海へ突き刺さり、魔法の矢が水の中に白い軌跡を描いた。その一発がメガロドンの背を深く焼き、水面に、赤い血が少しだけ滲んだ。
空の上から、私はそれを見ていた。思わず息を呑んだ私の胸元で、魔道具が小さく震え、ライラの声が届いた。
『下がって。無理しないで。代わって』
効いたことに、怒っているのではなかった。効いたのなら下がって、と言っただけだった。その声と同時に、傷を負ったメガロドンが後ろへ退き、代わりに傷のない別の影が前へ出てくる。退いた一頭を、聖戦軍は追うことができなかった。海は広く、相手はすべて水の下にいるのだ。
撃てば確かに効くけれど、効いたところで全体が止まるわけではない。その底の知れない数と重さこそが、聖戦軍にとっての本当の絶望だった。
結界担当の司教は歯を食いしばって、術式を広げ続けていた。
「船底へ、もっと深く光を沈めなさい!」「聖水を追加しろ!」
祈りは本物で、術式も確かに働いていた。けれど海の中の巨大な影は、光の網の下を悠々と回り込み、船底の別の場所へ容赦なく食らいついていった。
◆
五百隻に迫る大船団は、あまりにも大きかった。一隻や二隻を止めても、全体はすぐには止まらない。それでも、整然と島へ向かっていた白い大きな流れは、確実に乱れ、重くなっていた。
そのとき、私とシルヴィアの真下の海で、バシロサウルスが静かに動いているのが見えた。私達のいる空の真下を、見守るようにゆっくりと泳いでいる。聖水や、身体を蝕む術式が広がっても、その影は少しも乱れなかった。穏やかな影がそこにいるだけで、シルヴィアの下の海は、不思議なほど落ち着いていた。
「……守ってくれている」
思わず、そう小さく呟いていた。遥か空の上にいる私の下に、海の底まで続く守りがある。その優しさが、かろうじて私の心を支えてくれていた。
◆
司令艦の上で、アレクシオ枢機卿は混乱する船団の全体を、静かに見つめていた。
リィナ・エルシアの勧告の直後に始まった、海の中からの正確な攻撃。聖戦軍の側から見れば、それは勧告が脅迫であったことの答えに他ならなかった。
けれど、アレクシオは退かなかった。
「救助を続けなさい。戦えぬ船を見捨ててはなりません」
まずそう言って周りを落ち着かせてから、彼は続けた。
「ですが、進軍を止めてはなりません。上陸できる船を守りなさい。隊列を立て直し、前へ」
それは、無謀な突撃ではなかった。救助も守りもこなしながら、それでも一歩も退かない。総司令官として、アレクシオは進むことを選んだのだ。その揺るがない意志に引かれるように、船団は再び前へ動き出そうとしていた。
◆
指揮所の光の中で、ライラはその進軍をじっと見つめていた。
前の方は乱れ、傷ついた船も出ている。それでも大軍勢は止まらない。輸送船を守り、護衛船を前へ送り、結界を張り直しながら、なお進もうとしていた。
ライラは、小さく息を吐いた。
「止まらないか」
魔道具から、リィナの苦しげな声が返ってきた。
『止まりません……むしろ、前へ出ようとしています。救助を続けながら、必死に隊列を組み直しています』
「そっか」
ライラは、光の面から目を離さないまま静かに頷いた。その声に怒りはなく、次の段階を見極める落ち着きだけがあった。海の子達は約束をきちんと守って、よくやってくれた。それでも船団全体が止まらないのなら、次の手が要る。
ライラは、空を映した光の面へ目を移した。朝の雲の近くで、数えきれないほどの翼の反応が、静かに待っている。
「空の子達、準備して」
その言葉に応えて、光の面の中の高い空の反応が、一斉に向きを変えた。
海は、艦隊の足を止めようとした。けれど白い帆の群れは、軋み、悲鳴を上げながらも、前へ進むことを選んだ。だから、次の守りが動き出す。甲板の兵士達はまだ誰も、この島の守りが海の下だけではないことを知らなかった。
朝の雲の上で、炎のような赤や夜のような黒、雷を帯びた紫の竜影が、一斉に翼を広げた。