廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第一防衛線

――止めて。

 

その言葉は、拠点最上階の光の中へ静かに溶けていった。 命じる声としては、あまりにも小さかった。戦場を始める声としては、あまりにも柔らかかった。

 

けれど、その一言で海が決定的に変わった。

 

ライラは、指揮所の中央に立っていた。 そこは、元々はただの展望室だった場所だ。今、その周囲には淡い光の面がいくつも浮かんでいる。

 

海と空。

聖戦艦隊の動き。

私とシルヴィアの位置。

海中に散ったファミリア達の反応。

正門近くで佇むカイザーの巨大な気配。

 

そのすべてが、冷たい光の中に映っていた。 外界の者がこの部屋を見れば、きっと魔王城の司令室と呼ぶだろう。空間に浮かぶ光。海も空も森も見渡す少女。その一言で、国を滅ぼす巨獣達が動く。

 

だが、ライラの目は支配者のものではなかった。彼女が見ているのは、敵の死に場所ではない。 みんなが怪我をしていないか。無理をしていないか。ちゃんと帰ってこられるか。ただ、それだけだった。

 

「無理しないで。食べちゃだめ。逃げるのは追わないで。みんな、帰ってきて」

 

ライラは、最後に深く息を吸った。そして、静かに命じる。

 

「止めて」

 

海が、地鳴りのような咆哮を上げて応えた。

 

 

海の下は、暗かった。 朝の光は水面を越えて差し込んでいるが、五百隻もの船団の影が幾重にも重なり、深い場所にはまだ濃い夜の色が残っていた。

 

頭上には、無数の船底が水面越しにひしめいていた。 木材の腹、補強された竜骨、舵、重い鎖。船員達の足音が、水の中では鈍い振動になって伝わってくる。

 

聖水の清浄な気配、護符の淡い光、神官達が張った対魔の結界。それらは決して無意味ではなかった。普通の魔獣なら怯み、瘴気を帯びた獣なら痛みに身をよじるほどの厚いな加護。

 

だが、海の下に潜んでいたのは、宗教的な闇の被造物などではなかった。

 

巨大な影が、音もなく移動する。 モササウルス。その輪郭は、まるで岩礁そのものが生き物となって動いているようだった。水そのものが彼らの完全な領域であり、人の船はその上を通るただの異物にすぎない。

 

その下を、重戦車のような影が進む。 ダンクルオステウス。頭部の骨質な装甲が暗い海の中で鈍く光る。その顎に並ぶのは、噛み砕くための、鋼を凌ぐ岩の刃だった。

 

水面近くではメガロドンの群れが細い影となって走り、さらに深い闇の底では、超巨大な触腕が”のの字”を描いてゆっくりと広がっていた。トゥソテウティス。

 

彼らは、人間を見ていない。少なくとも、餌としては見ていない。 ライラの言葉が、彼らの牙の向かう先を決めていたからだ。

 

だから彼らが見ているのは、人間ではない。「船」だった。家へ向かってくるもの。ファミリア達の島へ、侵略者を運んでくる器。

 

最初に動いたのは、ダンクルオステウスだった。

 

海の底近くを滑るように進み、前方の大型船の真下へ入り込む。船底には対魔の加護の光が薄くまとわりついていた。清浄な光が装甲に触れ、じり、と焼けるような痛みを生む。

 

けれど、ダンクルは一歩も退かなかった。 狙うのは人ではない。船底の補強部。竜骨の周辺。舵へ続く金属の構造。

 

大きな顎が開く。次の瞬間、海中に鈍く凄まじい破砕音が響き渡った。

 

木材が木端微塵に砕けた。板材が、外側からごっそりとえぐられる。 船底が悲鳴を上げるより早く、ダンクルは舵の根元へもう一度猛烈に噛みついた。木材と金属がまとめて軋み、ぐしゃりと形を崩す。

 

その直後、横から巨大な質量が迫った。 モササウルスが、船体の側面へその巨体を容赦なく押しつけたのだ。

 

噛みつかない。乗員を狙わない。ただ、押す。 だが、その一押しは、嵐の逆巻く波よりも重かった。

 

すでに底を砕かれた大型船が、抵抗できずに横へ流される。内部で支えきれない致命的な歪みが走り、板材が悲鳴を上げた。 大量の水が入り込み、五百隻の先頭を行く大船が、不自然に傾いた。

 

 

最初、甲板の者達は何が起きたのか全く分からなかった。前方の大型船が、何の前触れもなく唐突に横へ傾いたのだ。

 

聖騎士達が足を滑らせて甲板へ倒れ、義勇兵達が悲鳴を上げ、船員が怒鳴り声を飛ばした。

 

「岩礁か!?」 「違う、下だ! 船底をやられた!」 「浸水! 排水を急げ!」

 

船団司令も即座に動いた。 「先頭艦、減速! 後続、左右へ分かれろ! 輸送船を中央へ下げろ、護衛船を前へ!」

 

太鼓が鳴り、鐘が短く連打される。連絡船が指示を伝えるために走ろうとした。 だが、その小型船が進路を取るより早く、海面が爆発するように膨らんだ。

 

黒い巨大な触腕が、水面を割って伸びる。トゥソテウティスの触腕が、連絡船の側面にガチリと絡みついた。

 

握り潰しはしない。人間を引きずり込むこともしない。ただ、船を完全に「停止」させた。 急に止まった連絡船が、水の抵抗を受けて大きく揺れ、船員達が床へ転がる。結ばれていた信号旗が水をかぶり、指示が途中で途切れた。

 

「連絡船が止まった! 何かに掴まれている!」 「切れ、縄を切れ!」 「違う、縄じゃない! 巨大な化け物の腕だ!」

 

後続が前方の傾いた船を避けようとし、鉄の隊列が横へ乱れる。その隙間を、エラスモサウルスが水面近くで高速で横切り、護衛船の舵を狂わせていく。

 

まだ壊滅ではない。だが、一直線に島へ向かうはずだった白い大船団の足並みは、瞬く間に乱れ始めていた。

 

 

結界担当司教は、すぐに対処を命じた。 「下方へ神聖術を展開しなさい!」

 

武装神官達が聖具を掲げ、祈りの言葉が連なる。甲板上の魔法陣が光を帯び、光は船縁から水面へ落ちて、そこから網のように広がっていった。 海面を覆う、清浄な光の網。

 

それは、確かに強固な力を持っていた。 海の中を泳いでいたメガロドンの一体が、光に触れて身を翻す。鱗に焼けるような刺激が走り、群れが一瞬だけ距離を取る。さらに聖印付きの銛が放たれ、魔法矢が水中を突き破った。

 

一本が、ダンクルの硬い外殻に当たった。表面に白い火花が散り、ダンクルが痛みに身を捩る。

 

効果はある。間違いなく効いている。聖戦軍の装備は飾りではない。この世界の通常の魔物相手なら、十分すぎるほど有効な備えだった。

 

だが、問題は相手の「規格」だった。

 

彼らは人間を狙う魔獣を退ける備えはしていた。だが、船団の「機能」そのものを冷徹に破壊するために動く、海中のファミリア達への備えは、何一つしていなかったのだ。

 

 

私は、シルヴィアの背の上から、空からその光景をじっと見つめていた。 シルヴィアは艦隊から一定の距離を保ちながら、海と船団を完全に見下ろせる位置を静かに滑空していた。

 

下で、船が傾いていく。祈りが途切れる。人が走り、海へ落ちる者がいる。 そのすべての光景が、私の胸を容赦なく締めつけた。

 

これは、私も一緒になって考えた作戦だった。 上陸前に船団の機能を奪い、全員を殺すのではなく船を止める。指揮を乱し、島へ到達する戦力を減らす。戦闘不能になった者は、できる限り見逃す。 そうすれば、死ぬ数を最小限に抑えられる。理屈では分かっていたし、それが最善だと判断した。

 

けれど、自分の考えた通りに船が壊れ、人々が海へ落ちていくのを生々しく見るのは、全く別だった。 必死に船縁へ掴まる人々を見て、胃が引きちぎれるような感覚が広がる。

 

シルヴィアが、飛び方をわずかに穏やかにした。急な揺れを抑え、安定した滑空へ移る。私の身体の震えに、気づいてくれたのだ。

 

「……ありがとうございます、シルヴィアさん」

 

かすれた声で礼を言い、私は服の内側の魔道具に触れた。

 

「ライラさん。一隻、前方大型船が止まりました。後続が詰まり始めています」

 

小さな魔道具の奥から、ライラの声が静かに返ってきた。 『分かった。落ちた人は絶対に食べない。戦えない船は追わない』

 

「はい」

 

私は深く頷き、シルヴィアの首元に触れた。 「シルヴィアさん、低くなりすぎないでくださいね。まだ、私達は見て伝える役目ですから」

 

シルヴィアは不満そうに鼻を鳴らした。彼女は、今すぐにでも私へ武器を向けたあの船団へ飛び込みたいのだろう。 けれど、私の声を聞いて、その衝動をじっと抑えてくれていた。

 

 

船団司令の立て直しは、驚くほど迅速だった。 「前列、左右へ開け! 中央の輸送船は下げろ! 護衛船を前へ出せ! 損傷船の周囲に救助船を回せ。ただし、主隊列を止めるな!」

 

命令は極めて合理的だった。船団全体を止めれば、的になる。だから、損傷した船は周囲に任せ、進める船を前へ出す。 救護統括の船では落水者を引き上げるための縄が準備され、治療術士達が濡れた甲板に膝をついて必死に祈祷を始める。

 

だが、島の海棲組は、正面から船団を押し潰そうとしてはいない。ただ徹底して、彼らの足を止めるために動いていた。

 

メガロドンの群れが、救助船の周囲を不気味に泳ぐ。彼らは決して人を食べない。だが、船員達はそれを知らない。海面近くを鋭い背びれが回るだけで、恐怖で動きが鈍る。

 

「近づいてくる! 食われるぞ!」

 

メガロドンは落水した兵士のすぐ近くをただ素通りし、彼が掴もうとしていた折れた板を押し流すこともない。ただ周囲を回り、武器を構えた小舟が近づこうとすると、その進路へ割り込んで威嚇する。 救助を完全に妨げるわけではないが、思い通りには動かせない。その不可解な沈黙が、彼らの恐怖をさらに狂おしく膨らませていた。

 

 

海に落ちた一人の若い兵士は、自分の死を完全に覚悟していた。鎧が重く、冷たい塩水を飲み込み、必死に浮こうとしながら、手の中の護符を強く握りしめる。

 

神よ、と祈ろうとした瞬間、水面の下に、ありえないほど巨大な影が見えた。 終わった、と思った。魔王の海の魔獣に、足から引きずり込まれて食われるのだ、と。

 

しかし、噛まれなかった。巨大な影は兵士のすぐ横を静かに通り過ぎ、小舟の兵士が槍を構えた瞬間、海面を大きく揺らして牽制しただけだった。

 

落水した兵士は、呆然と水面に浮かんでいた。なぜ食わない、なぜ殺さない、と。 近くで別の兵士が叫び声を上げる。

 

「奴ら、人を食ってないぞ!」 「じゃあ何だ!?」 「船だ、船だけを正確に狙ってる!」

 

食われないことすら、不気味で恐ろしかった。彼らは知らないのだ。ただ、ライラが命じた「人間は食べちゃだめ」という一言が、暗い海の下で絶対の規律として守られているだけだということを。

 

 

聖戦軍の反撃が、次第に鋭さを増していく。 「水面下、三十歩! 影が来る、放て!」

 

聖印付きの銛が海へ突き刺さり、魔法矢が水中で白い軌跡を描く。一発が、メガロドンの背を深く焼いた。水面に赤い血が少しだけ滲む。

 

私は思わず息を呑んだ。 同時に、ライラの指揮所でもその生体反応が捉えられていた。

 

『下がって。無理しないで、代わって』

 

ライラさんは、効いていることに怒ったのではない。効いたなら下がれと、ただそれだけを言った。

 

ライラの即座の指示で、負傷したシグナルが後方へ退き、別の健全な影が前へ出る。引いた個体を彼らは追えない。海は広く、敵はすべて水の下にいるからだ。

 

撃てば確かに効く。しかし、効いても全体が止まるわけではない。その底の知れない質量が、聖戦軍にとっての本当の絶望だった。

 

結界担当司教は、歯を食いしばって術式を広げ続ける。「船底へ、もっと深く光を沈めなさい!」「聖水を追加しろ!」 彼らの祈りは本物で、術式も確かに働いている。だが、海中の巨大な影は、光の網の下を悠然と回り込み、船底の別の場所へ容赦なく食いついていった。

 

 

五百隻に迫る大船団はあまりにも巨大だ。一隻二隻を止めても、全体はすぐには止まらない。だが、整然と島へ向かっていた大きな白い流れは、確実に乱れ、重くなっていた。

 

その私の真下の海域で、バシロサウルスが静かに動いているのが見えた。私とシルヴィアのいる周辺を、静かに見守るように。 聖水や状態異常を帯びた術式が広がっても、バシロサウルスは全く乱れない。その穏やかな影がそこにいることで、シルヴィアの下の海は不思議なほど安定していた。

 

私は、それに気づいた。 「……守ってくれている」

 

小さく呟く。自分は遥か空にいるのに、海の下にまで、確かな守りがある。そのライラたちの優しさが、私の心を辛うじて支えていた。

 

 

司令艦の上で、アレクシオ枢機卿は全体の混乱を冷徹に見つめていた。 私の警告の直後に始まった、この海中からの正確な攻撃。それは、聖戦軍側から見れば「脅迫」の答えに他ならなかった。

 

だが、アレクシオは退かなかった。 「救助を続けなさい。戦えぬ船を見捨ててはなりません」 まず、そう言って周囲を落ち着かせる。

 

「ですが、進軍を止めてはなりません。上陸できる船を守りなさい。隊列を再編し、前へ」

 

それは無謀な突撃ではなかった。救助も防御もこなし、それでも一歩も退かない。アレクシオは総司令官として、冷徹に進むことを選んだ。その揺るがない意志により、船団は再び前へ動き出そうとしていた。

 

 

指揮所の光の中で、ライラはその進軍をじっと見つめていた。 前方は乱れ、損傷船は出ている。だが、大軍勢は止まらない。輸送船を守り、護衛船を前へ送り、結界を張り直しながら、なお進もうとしている。

 

ライラは、小さく息を吐いた。 「止まらないか」

 

魔道具から、私の声が苦しげに返る。 『止まりません……むしろ前へ出ようとしています。救助を続けながら、必死に隊列を組み直しています』

 

「そっか」

 

ライラは静かに頷いた。怒りはなく、ただ、次の段階を冷徹に判断する声だった。 海の子達は、約束を完璧に守ってよくやってくれた。けれど、船団全体は止まらない。なら、次が必要だ。

 

ライラは、空を映す光の面へ視線を移した。 朝の雲の近く。そこに、無数の翼の生体シグナルが、静かに待機している。

 

ライラは、言った。

 

「空の子達、準備して」

 

光の面の中で、高空の膨大な反応が、一斉に向きを変えた。

 

海は、艦隊の足を止めようとした。けれど、白い帆の群れは、軋み、悲鳴を上げながらも、前へ進むことを選んだ。

 

だから、次が来る。 まだ甲板の兵士達は誰も知らない。海の下だけが、この島の「防衛」ではないということを。

 

朝の雲の上で、炎のような赤、夜のような黒、雷を帯びた紫――幾つもの竜影が、一斉に翼を広げた。

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