――空の子達、準備して。
ライラの声は、拠点最上階の指揮所に静かに響いた。 命令としては、あまりにも短い。怒号でもなければ、勝利をただ渇望する激しい声でもなかった。
けれど、その一言で、空の気配が一斉に変わった。
淡い光の面の中で、高空に散っていたいくつもの反応が、ゆっくりと向きを変える。雲の縁に隠れるように息を潜めていたワイバーン達の位置が、島へ向かう聖戦艦隊の上空へ、吸い寄せられるように重なっていった。
ライラは、まず海を映す光の面を見た。海中の子達は、まだ迷いなく動き続けている。
ダンクルオステウスの一体が、神聖術の光に焼かれて後方へ下がっていた。だが、すぐに別の個体がその穴を埋め、損傷した船へ無理に深追いしないよう距離を取っている。メガロドン達も無理はしていない。傷を負った個体は後方へ退き、別の影が前へ出ていた。
海面に散っていく、落水した人間達の反応。 海棲組は、彼らにどれほど近づいても、決して噛まない。食べない。
船を押し、連絡船を止め、護衛船の進路を乱す。けれど、人間そのものへ牙を向けることは絶対にしない。
ライラは小さく頷いた。「うん。食べてない」
それから、別の光へ視線を移す。 光の面に映る聖戦艦隊は、激しく乱れていた。前方の大型船は傾き、後続は左右へ逃げ、連絡船は止められ、救助船はメガロドンの影に怯えて動きが鈍い。
だが、それでも彼らは止まっていなかった。船団司令は驚くべき手際で隊列を組み直そうとし、神官達は海面下へ光の網を沈め、聖騎士達は船縁から海を鋭く睨み、輸送船を中央へ下げようとしている。
有能だった。脆い烏合の衆ではない。壊されたところからすぐに直し、乱れたところを即座に繋ぎ直してくる。だからこそ、海の中からの攻撃だけでは、あの大軍勢は止まらない。
ライラは、高空の反応を静かに見つめた。
「帆を落として。旗を壊して。武器を使えないようにして」
光の中で、ワイバーン達の軌道がさらに鋭く変化する。
「人は、狙わなくていい。無理しないで、怪我したら戻って」
それは、凄惨な戦争を指揮する声というより、遠くへ送り出す家族を案じる言葉だった。そして、最後に切実な祈りを付け加える。
「帰ってきて」
朝の雲の上で、無数の竜達が一斉に翼を広げた。
◆
朝の雲の上には、圧倒的な質量を持つ影がひしめいていた。 炎の熱を内側に抱えた真紅の影。青白い電光を走らせる紫の影。周囲の空気を一瞬で凍らせるような白い影。空気そのものを毒々しく濁らせる緑の影。
そのどれもが、人の世界から見れば「災害の化身」と呼ぶしかない存在だった。 だが、それだけではなかった。
原種のワイバーン達の間を、朝日を受けて水晶めいた鱗をきらめかせる別の影達が飛んでいる。
水面近くを裂くように走る、鮮やかな気配のトロピカル・クリスタルワイバーン。 身体の内側に赤熱する光を溜め込み、吐息そのものが炉のような熱を宿すエンバー・クリスタルワイバーン。 そして、赤黒い光を鱗の奥に沈ませ、聖戦軍には呪いそのもののように見えるブラッド・クリスタルワイバーン。
彼らは、原種ワイバーン達とは動き方が違う。 原種のワイバーン達が空そのものを属性の力で制圧する存在だとすれば、クリスタルワイバーン達は、その制圧の隙間へ入り込み、艦隊の機能を削り続けるための鋭い刃だった。
高速で側面を圧迫するもの。熱を重ね、逃げ場を奪うもの。精鋭の持久を乱し、結界の立て直しを阻むもの。それらが同じ空に並んでいた。
ライラにとっては、どの子も同じだった。 名前を呼ばれ、褒められ、拠点の上を気ままに飛び、時にはライラの近くへ降りてきて撫でられたがる大切なファミリア達。彼らは魔王の軍勢としてではなく、ただ家を守るためにそこにいた。
シルヴィアは、その群れから少し離れた場所にいた。 彼女の背には、私が乗っている。 私を守ること――それが、今の彼女の最優先事項だった。
シルヴィアの鱗の内側には、激しい怒りを帯びた青白い光がまだ明滅している。聖戦艦隊が私に武器を向けたことを、彼女は決して忘れていない。 それでも、今は動かなかった。私の手がその首元に置かれ、私の声を聞くと約束してくれたからだ。
ワイバーン達は、眼下の海を見下ろした。 白い船団が乱れ、海面の下では巨大なファミリア達が動いている。けれど帆はまだ多く残り、信号旗は立ち、甲板兵器も健在だ。神官達の祈りの光が、今なお艦隊を軍として機能させている。
なら、次に狙うべきものは決まっていた。人ではない。彼らが軍として動くための機能そのものだ。
帆。旗。マスト。ロープ。甲板兵器。魔法陣。上陸艇。
ワイバーン達が、一斉に翼の角度を変えた。雲の上から、文字通り空が落ちるような進撃が始まった。
◆
聖戦艦隊は、海中からの苛烈な攻撃への対応に追われていた。今、敵は海の下にいる――誰もがそう確信していた。 だから、最初にその異変に気づき、空を見上げた者はあまりにも少なすぎた。
見張りからの悲鳴のような絶叫が、遅れて甲板に落ちてくる。
「上空! 上空を見ろ!」
その声に、何人かが顔を上げた。最初は、青空の中の小さな黒い粒にすぎなかった。だが、それは一瞬で空いっぱいに広がっていく。 雲の影そのものが崩れ落ちてくるように、天を埋め尽くす無数の竜影が姿を現した。
「竜だ……」 「上空、竜群! 対空用意!」
甲板の上で、混乱がさらに何重にも重なった。海面を見ていた弓兵が慌てて空へ向き直り、水中へ神聖術を向けていた武装神官が、青ざめて術式の角度を変える。
「隊列を崩すな! 上空の敵へ弩を向けろ!」
聖騎士団長が叫ぶが、船団はすでに海から激しく揺らされていた。傾いた船。進路を阻まれた連絡船。破損した舵。その機能不全の上へ、容赦なく空が落ちてくる。
◆
最初に、凄まじい炎が走った。 ファイアワイバーン達が、船団の上空を斜めに鋭く駆け抜ける。
彼らの狙いは、人間の列ではなかった。帆、信号旗、ロープ、マスト上部。燃えれば船が動けなくなる部位だ。 凄まじい火炎が吐き出される。だが、それは甲板の人々を焼き尽くす火ではなかった。広く焼き払うのではなく、上空の構造物だけを正確に切り裂く。
白い帆布が次々と激しく燃え上がり、信号旗が火を噴き、太いロープが焦げてぷつりと切れていった。
「帆を切り落とせ! 延焼を止めろ!」 「水を運べ! 信号旗が燃えたぞ!」
船員達は必死だった。燃えた旗を海へ叩き落とし、聖水を染み込ませた布を帆の残りへ叩きつけ、炎が船全体へ回るのを防ぐ。その防衛処置は、確かに効いた。祈りを込められた布が白く光り、ファイアワイバーンの炎を押し返す。
だが、帆は確実に燃え落ち、信号旗は消えた。人は焼き尽くされていない。それでも、艦隊としての統制能力は目に見えて鈍っていった。
そこへ、別の熱が重ねられた。 エンバー・クリスタルワイバーン達が、炎の抜けたあとを縫うように降りてくる。ファイアワイバーンの炎が一撃で帆と旗を焼き抜くものなら、エンバー達の熱はもっと執拗だった。
帆柱の継ぎ目。索具の結び目。上陸艇を吊るす金具。甲板兵器の土台。補給資材の積み上げられた一角。そうした、船が船として動くための要所へ、逃げ場のない熱を積み重ねていく。
一度では耐えた部位も、二度、三度と熱を浴びれば持たない。甲板の上で兵達が必死に水をかけても、索具は焦げ、吊り具は歪み、ついには上陸艇の一つが不自然な角度で大きく揺れた。
「火が消えない!」 「違う、まだ熱が残っている!」 「吊り具が歪んでいるぞ!」
エンバー達の熱は、人ではなく船の要所へ置かれていた。 けれど、船が上陸艇を下ろすための仕組みを、船が兵器を動かすための土台を、じわじわと、確実に奪っていった。
◆
次に、無慈悲な雷が落ちた。 シルヴィアではない。別のライトニングワイバーン達が、高空から垂直に降りてきたのだ。
青白い電光が、甲板兵器を目がけて正確に炸裂する。弩砲、大型投射装置、神官達が描いた結界の魔法陣の要。雷は、そこだけを狙って落とされた。
鼓膜を破るような爆音が響く。弩砲の金具が赤く焼け、投射装置の巻き上げ機が砕け散る。魔法陣の一部が弾け、白い光が狂ったように乱れた。
「結界陣が乱れた! 予備の聖具を!」 「甲板兵器が焼けたぞ!」
武装神官の一人が、執念で雷ワイバーンの進路を読んで光の槍を放った。それは狂いなく命中し、ワイバーンの翼の端を深くかすめる。白い火花が散り、ワイバーンが空中で身を翻して高度を上げた。無理に突っ込まず、すぐに下がる。
しかし、退いたその穴を、別のワイバーンが即座に横から埋めた。甲板の兵達は、戦慄とともに理解させられる。傷つければ退く。だが、退いた穴は別の竜によってすぐに塞がれる。それは無謀な特攻などではない。統制された、一撃離脱だった。
◆
さらに、容赦のない氷の息が甲板を走った。アイスワイバーンが低空を滑るように翔ける。
兵達は炎や雷を警戒していた。だが、襲ってきたのは凶暴な冷気だった。甲板の一部が一瞬で凍りつき、通路が白く染まる。ロープが固まり、滑車がピキピキと音を立てて動かなくなった。 兵達の足元が凍り、何人かが派手に転倒する。殺すためではない、ただ止めるための冷気。だが、この戦場で足を止められることは、文字通り致命的だった。
「足元を見るな! まず氷を割れ!」 「滑るぞ! 舵が動かん!」
聖具の光が氷を溶かし、神聖術が冷気を払っていく。確かに彼らの光は効いていた。しかし、払っている間に船の足は遅れる。遅れた船は、後ろの船の進路を最悪な形で塞いでしまう。
その隙間へ、また海中から巨大な影が滑り込んでくる。空へ意識を向ければ、海から船底を砕かれる。海へ意識を戻せば、空から帆を焼かれる。
次に来たのは、ポイズンワイバーンの毒霧だった。甲板上へ流れ込む濃緑の霧。それは聖戦軍側には、人を腐らせる魔王の瘴気に見えたはずだ。 だが、その本質は甲板の制圧だった。視界を奪い、激しく咳き込ませ、兵器の操作を妨害して弓兵の狙いを外させる。
神官達の聖句が響き、光が霧を裂いていくが、すべては払いきれない。兵達は激しく咳き込み、涙を流しながら、それでも必死に武器を握りしめていた。彼らは決して弱くない。だが、強いことと、この圧力に追いつけることは、全く別問題だった。
◆
さらに水面近くを、きらめく影が矢のように走った。トロピカル・クリスタルワイバーンだった。
彼らは原種ワイバーン達のように高空から一気に制圧するのではない。海と空の境目を自在に滑り、乱れた船列の側面へ食い込んでいく。水面近くを掠めるたび、船員達の顔に飛沫がかかった。聖騎士達が槍を構えるより早く、トロピカルの影はもう次の船の横へ抜けている。
彼らは救助船には向かわなかった。落水者を拾おうとしている船には、直接は手を出さない。代わりに、損傷船の陰から前へ出ようとする護衛船の前へ回り込み、鋭い威嚇の飛行で進路をずらす。
島へ向かおうとする船。隊列維持のために横へ広がろうとする船。上陸のための空間を作ろうとする船。そうした船の逃げ道や進路を、彼らは水面ぎりぎりで塞いでいく。
海中から押し上げるモササウルス。側面から追い立てるトロピカル・クリスタルワイバーン。その連携が重なった瞬間、船団の端はもはや思うようにまとまれなかった。
「横から来る!」 「違う、上だ!」 「海面を飛んでいるぞ!」 「護衛船、前へ出られません!」
船団司令の命令は正しい。だが、正しい位置へ船が行けない。そこに、トロピカル達の確かな役割があった。
◆
そして、聖戦軍の者達に最も不吉に映ったのは、赤黒い光を鱗の奥に沈ませたブラッド・クリスタルワイバーン達だった。
彼らは治療船や救助船には向かわない。代わりに、聖騎士団船や武装神官船の周囲を鋭く旋回し、結界の核となる船、反撃の要となる船へ執拗に圧をかけていく。直接に甲板を薙ぎ払うのではない。だが、彼らが近づくたび、神官達の祈りはわずかに乱れ、兵の呼吸が浅くなり、立て直しかけた持久が崩れていく。
聖戦軍の側には、それが呪いに見えた。命を吸われているようだ、と叫ぶ者さえいた。実際に何が起きているかなど、戦場の甲板にいる者には分からない。
ただ、赤黒い竜が精鋭船の上空を回るたび、祈りの声が乱れ、結界の光が薄れ、聖騎士達の顔に疲労が浮かんでいく。それだけで十分だった。
「呪いだ!」 「魔王の吸命だ!」 「聖印を掲げろ、祈りを切らすな!」
ブラッド達は、殺しに来ているのではない。持久を崩し、結界の維持を乱し、精鋭部隊が立て直す時間を奪いに来ている。だが、聖戦軍側にはそうは見えない。彼らには、魔王の呪いが空から降っているようにしか見えなかった。
◆
さらに、聖戦軍が最も理解できない、異質な存在が上空から降り注いだ。それは竜ですらなかった。 滑空するのではない、空気を爆音で切り裂くように飛ぶ異形の翼竜。その背には、この世界の理とは根本的に異なる、不気味な金属の筒のような装備を背負っていた。トロペオグナトゥス。
彼らは、船団の隙間を凄まじい超低空飛行で駆け抜けた。速い。あまりにも速すぎる。
「何だ、あれは! 竜ではないぞ!」 「魔王の空中兵器だ!」
トロペオは甲板の人を直接は狙わない。上陸艇を吊るしているロープ、信号塔、補給資材の集積所、マストの基部、それらだけを正確に狙っていく。
連続する爆発音が響き渡り、甲板の一部が派手に吹き飛んだ。上陸艇のロープが切れて海へ中途半端にぶら下がり、補給箱が砕けて聖水の瓶が派手に転がり、食料袋が裂けていく。人を殺してはいない。だが、人のいる場所のすぐ近くが、見慣れない爆音と衝撃で次々と粉砕されていくのだ。兵達は転び、耳を押さえ、爆煙の中でただ叫ぶしかなかった。
聖騎士の一人が、決死の覚悟で聖印付きの投槍を放った。それはトロペオの金属装備を激しくかすめ、がぎんと鋭い金属音を響かせる。トロペオの軌道がわずかに乱れ、放たれた一撃が海へと逸れて巨大な水柱を上げた。
反撃は届いている。彼らは墜とせる。だが、トロペオは墜ちなかった。ぐらりと揺れた直後、信じられない体勢で強引に立て直し、高度を上げて別の方向からまた突っ込んでくる。甲板の兵達の心に、空を見上げることへの根源的な恐怖が刻まれ始めていた。
◆
船団の一角に、複数の船を覆う巨大な半球状の対空結界が展開された。ワイバーンの炎がその光の幕にぶつかり、激しく火花が散る。結界は炎の直撃を防いだ。
兵達が歓声を上げかけた――その瞬間、海中から船が凄まじい力で突き上げられた。 下からモササウルスに押され、船上の術式の中心がわずかにずれる。光の幕にできた一瞬の隙間へ、別のワイバーンが正確に雷を叩き落とした。
結界はすべてを防げない。守るべき範囲が、あまりにも多すぎた。
空、海、火、雷、氷、毒。水晶めいた鱗を持つ高速の遊撃竜。赤熱する熱を重ねる竜。赤黒い不吉な光で持久を乱す竜。超高速で肉薄する異形の飛行生物。水面下から竜骨を砕く巨体。さらに、海へ落ちていく落水者の救助、損傷船の補給、信号の維持。
聖戦軍は間違いなく強い。だが、守るべきものが多すぎた。 魔法矢で空のワイバーンを追えば、海中のダンクルが舵を砕く。毒霧を払えば、トロペオが信号台を破壊する。トロピカルを追えば、船団の側面が押し崩される。エンバーの熱を抑えようとすれば、帆を守る手が足りなくなる。ブラッドの不吉な圧に祈りを乱されれば、結界の維持が揺らぐ。
対応は決して間違っていない。だが、どうしても追いつかないのだ。
◆
拠点最上階の光の面に、その海と空の混沌がすべて映し出されていた。ライラは表情を少しも変えず、ただその反応を凝視している。敵をどれだけ殺したかではない。誰が怪我をしたか、誰が無理をしているか、それだけを。
ライトニングワイバーンの一体の反応に、負傷のノイズが走った。
「下がって。無理しないで、代わって」
ライラの即座の指示で、負傷した個体がすぐ上空へ離れ、 別の健全な反応が前へ出る。「代わりはいるから、命を削らなくていい。戻ってきていい」――その言葉は、彼らの命を何より愛おしむためのものだった。
無理に突っ込もうとする個体があれば、ライラは少しだけ声を強くして制する。「行きすぎないで。深追いしない」
トロピカル・クリスタルワイバーンの一体が、救助船に近い位置まで入り込みすぎた。ライラはすぐに言う。
「そこは外して。救助の船は追わない」
反応が進路を変える。エンバーの一体が、燃えた帆をさらに追おうとする。
「もう動けない船はいい。次」
ブラッドの群れが、武装神官船へ圧をかけ続けている。だが、近くに治療船の反応がある。
「治療の船には近づきすぎないで」
ライラは、戦況を見ている。だが、彼女にとっての指揮とは、家族を誰一人として死なせないための確認そのものだった。
◆
私は、シルヴィアの背の上から、そのすべてを見ていた。
シルヴィアは私の指示通り、艦隊から一定の距離を保ちながら、海と船団を見下ろせる位置を静かに飛んでくれていた。下で船が傾き、人が海へ落ちる。そのすべてが、私の胸をきつく締めつける。
これは、私も一緒になって構築した防衛作戦だ。艦隊を一つの組織として機能させなくする。上陸できる戦力を削ぐために、必要な箇所を私も一緒に考えた。
信号旗、連絡船、補給船、上陸艇の基部。聖騎士団船、武装神官船、治療船、救助船。私は聖戦軍側の構造を知っているからだ。だからこそ、上空からすべてが分かってしまう。
「ライラさん。あの船は救助船です」 私は胸元の魔道具に触れて叫んだ。 「落水者へ向かっています。攻撃を外してください!」
魔道具の向こうから、ライラの短い返事が届く。『分かった』 光の面の中の反応が動き、ワイバーンの一体が救助船の上をただ通り過ぎるだけに留める。
「あちらは治療船です。直接狙わないでください」 『うん』
「右側の船団、信号が乱れています。もう連絡が取れていませんから、追いすぎなくて大丈夫です」 『分かった』
私はさらに下を見る。海面近くを走るトロピカル達が、護衛船の進路を押し込んでいる。 「右舷側の護衛船、まだ前へ出ようとしています。トロピカル組をそちらへ。救助船の進路は塞がないでください」 『うん』
前方の大型船で、上陸艇の吊り具がまだ生きているのが見えた。 「上陸艇を吊っている船があります。エンバー組なら吊り具だけを落とせます」 『分かった』
聖騎士団船の周辺で、神官達の結界が立て直されかけている。 「聖騎士団船の結界が立て直されかけています。あちらはブラッド組で圧をかけてください。ただし、隣の治療船には寄せないで」
少しの間をおいて、ライラの声が返る。『うん。分かった』
「前方の小型船……上陸用です。あれは止めないと、地上戦が始まってしまいます」 『うん。止める』
胸が、激しく痛んだ。止める――その言葉の本当の重さを知っている。人を殺したいわけではない、だが上陸用の船を止めるということは、そこに乗る人間の道をここで断つということだ。
けれど、止めなければならない。上陸されれば地上での、もっと近い距離での凄惨な殺し合いが始まってしまう。そうなれば、もっと多くの人が死ぬ。私はそれを知っているからこそ、非情に告げなければならなかった。
シルヴィアが私の震えをそっと感じ取り、飛び方をどこまでも安定させてくれる。シルヴィアは私を守るために、そばにいてくれている。
「……大丈夫です」 小さく呟いたその言葉が、誰に向けたものなのか、自分でももう分からなかった。
◆
聖戦軍の側から見れば、その光景は最悪だった。 青白い竜の背に、私が乗っている。魔王の竜に奪還された、あの魔女が、今も悠然と空にいる。
そして、私が何かを指し示すたびに、敵の攻撃の方向が恐ろしい精度で変わっていくように見えたのだ。 救助船が巧みに避けられ、治療船が直撃を免れる。その代わりに、上陸艇を吊るす船が的確に狙われ、信号船が次々と落とされ、聖騎士団船の結界が立て直される直前に赤黒い竜達が圧をかける。
聖戦軍の者達に、その真の意図など届くはずもなかった。救護船を守るための指示、死者を減らすための判断、戦えない船を見逃すための選別。そんなものには見えない。彼らの目には、より巧妙に、より確実に艦隊の息の根を止めるために、魔女が冷静に牙を振り分けているようにしか見えなかった。
「魔女が指揮している!」 甲板の上で、絶望に満ちた叫びが上がった。 「やはり聖座の判断は正しかった! あれはもう、魔王の側だ!」
若い神官の顔から血の気が失せる。私の勧告に揺れていたはずの義勇兵が、恐怖で顔を歪めて剣を握り直す。治療術士の一人は、悲しそうに私を見上げた。
私は、人を無駄に殺させないために言葉を送っていた。救助船を外し、治療船を避けさせていた。だが、下からはそうは見えない。魔女が、魔王軍を率いて自分達を蹂躙している。その誤解は、戦場の熱の中で、もはや疑いようのない事実のように固まりつつあった。
私の努力は、確かに命を救っていた。同時に、私自身を世界の敵である魔女として、決定的に見せてしまっていた。
◆
聖戦軍の対空反撃は、次第に組織立っていった。最初の混乱を乗り越えた聖騎士団長は、船ごとに射撃範囲を分けさせた。 「低空の敵は弩砲! 高空の敵は魔法矢! 結界班、船団ごとに分けて守れ!」
弩砲が軋み、清められた矢が空へ放たれる。聖印付きの投槍が、低く抜けるトロペオを狙う。神官達の祈りが風を変え、光の網が空へ張られた。
それは、確かに機能した。 ファイアワイバーンの炎が結界に阻まれ、ポイズンワイバーンの霧が祈祷で払われ、アイスワイバーンの冷気が聖具の光で弱まる。雷ワイバーンの進路を読んだ武装神官の光槍が、翼をかすめる。トロペオグナトゥスの装備に投槍が当たりかけ、トロピカルの高速機動も一瞬だけ鈍る。エンバーの熱も、神聖術で抑え込まれる場所があった。ブラッドの圧に対しては、聖騎士達が聖印を掲げ、祈りの声を合わせて耐えた。
実際に、負傷する個体も出た。だが、彼らは無理をしない。ライラが下がれと言えば、下がる。傷ついたまま突っ込まない。そして、代わりが前へ出る。
聖戦軍は強かった。だが、強い相手に対しても、アルカノア側は無謀な消耗戦をしなかった。攻撃して、離れる。当たったら下がる。守られたら別の場所を狙う。海中と空中で、同時に違う機能を壊す。その徹底が、聖戦軍の対応を少しずつ上回っていった。
◆
艦隊は、分断され始めていた。前方は乱れ、中央の輸送船団は結界と救助で足が止まり、後方は連絡が途絶えて遅れている。一部の船は恐怖で進路を外した。
五百隻に迫る大船団は、ひとつの巨大な軍だった。しかし今、それはまとまりを失った無数の集団へと解け始めていた。前へ進もうとする船、燃えた帆を切り落とす船、救助を優先する船、護衛船を前へ出そうとする船、上陸艇を降そうとする船。そのすべてが、同じ聖戦の旗の下にいながら、違う方向へ引き裂かれ始めていた。
司令艦の上で、アレクシオはその地獄を見つめていた。海上でこのまま守り続ければ、戦う前にすべての船を失い、兵達は海へ散る。ならば、上陸だ。 島へ上がれば、聖騎士団は隊列を組める。地上に結界を張り直せる。海に主導権を握られたまま、なぶり殺しにされることはなくなる。アレクシオの中で、その決断が重みを増していく。
「総司令、前方隊列は乱れていますが、上陸用の船はまだ残っています。陸へ上がった方が兵は動けます!」
船団司令の報告に、アレクシオは空を見上げた。そこには、青白い竜の背にいる私がいる。
アレクシオの目には、私は確かに向こう側にいるように見えたのだろう。 アレクシオは、静かに、しかし毅然と命じた。
「上陸可能な船を前へ。進める船を止めてはなりません」
海上で止まれば、飲まれる。ならば、上がる。彼らはそう合理的に判断した。それはアルカノア側から見れば、次に絶対に止めなければならない動きだった。
◆
私は、その船団の明確な変化に気づいた。 前方の船団の中で、小型の上陸艇を波間へ降ろそうとする動きが急激に増えている。兵を砂浜へ運ぶための渡し船だ。
ここから先は、船を止めるだけでは済まない。上陸されれば、あの綺麗な島で、もっと近い距離での凄惨な殺し合いが始まってしまう。悲鳴が、もっと近くなる。
私は、魔道具に触れた。 「ライラさん。上陸を急いでいます」
魔道具の向こうで、ライラは光の面を見つめていた。船の分断、燃える帆、下がるファミリア達、そして前へ出ようとする上陸艇の反応。 ライラは静かに、けれど迷いなく答えた。
『うん。じゃあ、そこを止める。前に出る船を止めて』
彼女は、空で待機するファミリア達へ、最後の規律を送る。 『救助してる船は外して。上陸用の小さい船、壊して。人は狙わなくていい、乗れなくすればいいから』
私は静かに目を閉じた。止めなければ、もっと多くの人が死ぬ。でも、止めるために、また彼らの船を壊さなければならない。その逃れられない矛盾が、胸の奥でぎしぎしと軋みを上げる。
シルヴィアが、私の震えを支えるようにそっと身体を寄せて飛んだ。私は彼女の鱗を強く握りしめる。
「……はい」 それだけを、ライラに返した。
◆
聖戦艦隊は、もはや整った一つの軍ではなくなり始めていた。海に足を砕かれ、空に声を焼かれ、それでもなお、島へ向かう船だけが必死に前へ出ようとしている。
燃えた帆を切り落とす船。上陸艇を必死に降ろそうとする船。信号を失いながらも、鐘と太鼓を鳴らして進もうとする船。そのすべてが、朝の海で悲痛な悲鳴を上げていた。
私は、その破壊の意味をすべて理解していた。
「……上陸を、急いでいます」
魔道具の向こうで、ライラの静かな声が響く。 『うん。じゃあ、そこを止める』
朝の空で、色とりどりの竜達が、再びその巨大な翼を傾けた。 その下で、無数の小さな上陸艇が、その下で、無数の小さな上陸艇が、波間へ、まだ血の匂いを知らない岸辺へ向かって降ろされ始めていた。