小さな上陸艇が、次々と波間へ降ろされ始めていた。
それは、聖戦艦隊がまだ諦めていないという明確な証だった。
帆は焼かれ、信号旗は落ちている。船底をやられた船は傾き、舵を失った船は波に流され、連絡船は海中の触腕に阻まれていた。上空には竜が舞い、水面下には巨大な影が蠢く。
海は白い泡を立て、船団はもはや整った大軍ではない。救助、前進、撤退、上陸準備、漂流が混然と入り混じった、 無数の混乱した集団になりつつあった。
それでも、島は見えていた。 禁忌の島。魔王の棲家とされた場所。
白い砂浜と、その奥に広がる濃い森。そこへ届けば、まだ戦える。そう考える者達がいた。
海上では圧倒的に不利だ。船は下から無残に壊され、空からは帆と旗と武器を狙い澄まして焼かれる。 だが、陸に上がれば、聖騎士団は盾を並べられる。武装神官は結界を組める。義勇兵も足を踏みしめて戦える。治療術士は負傷者を寝かせる場所を作れる。
――船ではなく、地面の上なら。海に揺らされるこの場所ではなく、浜に足をつければ。その縋るような希望が、彼らをまだ前へ押していた。
「上陸艇を下ろせ!」 「急げ、ロープを切らすな!」 「盾を前へ! 聖騎士団から乗せろ!」
燃えた帆の影で、船員達が歯を食いしばって滑車を回す。焦げたロープを交換し、歪んだ金具を叩き、まだ使える小舟を意地でも海へ降ろそうとする。
甲板の端では、聖騎士達が盾を抱えて待っていた。海水に濡れた鎧が重く、足元は激しく揺れている。だが、彼らはまだ崩れていない。 隣では武装神官が聖具を胸に抱え、震える指で祈祷句を唱えている。義勇兵は顔を青ざめさせながらも小型艇の縁に手をかけ、治療術士は薬箱を抱え、濡れた布で中身を必死に守ろうとしていた。
誰もが恐れていた。それでも、下りる。 浜へ。海から、陸へ。それ以外に、彼らが前へ進む道はもう残っていなかった。
◆
拠点最上階の指揮所では、ライラが光の面を見つめていた。
海と空。燃える帆。壊れた信号。落水者。救助へ向かう船、逃げようとしている船、動けなくなった船。そして、浜へ向かおうとする船。 それらはすべて、冷たい光の中で細かな生体シグナルや光点として浮かんでいる。
もし外界の者がこの部屋を見れば、やはりここを「魔王の玉座」だと思うだろう。戦場のすべてを冷徹に見下ろす少女。その一言で、海の獣と空の竜が同時に駆動する。
だが、ライラが見ているものは全く違った。 海中組の負傷反応。空中組の飛行軌道。下がった子がちゃんと戻っているか、無理をしている子はいないか。落水者に近づきすぎていないか、救助船を間違えて追っていないか。
彼女の目は、敵の死体を数えてなどいなかった。ただ、ファミリア達の確かな帰り道を見ていたのだ。
魔道具が細かく震え、リィナの声が彼女の元へ届く。
『ライラさん。上陸艇が降ろされています。前方の船団が、浜へ向かっています。損傷船を捨ててでも、上陸を優先するつもりです』
声は、はっきりとしていた。けれど、その奥にある防ぎきれない震えを、ライラは聞き取っていた。
確かに、光の面の中の反応が完全に分かれている。救助へ向かう船、後方へ流れる船、動けずに漂う船。 そして、前へ出る船。小さな上陸艇の反応が、波間へ降り始めていた。
ライラは、短く息を吐き出した。
「上陸する船を止めて。逃げる船は追わないで。救助してる船も外して。海に落ちた人はそのまま」
ライラは一度、言葉を切った。そして、何度も脳裏に刻み込んできた指令を、静かに繰り返す。
「食べちゃだめ」
それは、凄惨な戦場においてあまりにも奇妙で、あまりにも優しい命令だった。 けれど、アルカノアの海では絶対の規律だった。
来る船は止める。帰る船は追わない。助ける船は外す。人間は食べない。 ライラの厳格な線引きは、そこにあった。
◆
最初に狙われたのは、甲板から吊り下げられていた上陸艇そのものだった。
トロペオグナトゥスが、低く、速く、船団の隙間をすり抜ける。 甲板の高さより少し上。弩砲が狙いを定めるには低すぎ、槍を投げるには速すぎる絶妙な高度。背に負った異質な装備が、鈍い駆動音を立てた。
激しい爆発が起きる。狙ったのは人間ではない。上陸艇を吊るしていた滑車、固定具、ロープ、小舟を支える梁――その構造物だけがピンポイントで弾け飛んだ。
上陸艇が、不自然に斜めに落下する。
「ロープが切れた!」 「支えろ! 下に人がいるぞ!」
船員達が叫ぶが、その質量を支えきれるはずがない。小舟は半ば海へ落ち、半ば船体に引っかかったまま大きく揺れた。乗り込もうとしていた聖騎士達が床へ転がり、義勇兵が必死に甲板にしがみつく。
次の船では、ファイアワイバーンが索具を的確に焼いた。 船を丸ごと燃やさない。甲板の人間を焼き払わない。ただ、上陸艇を下ろすためのロープと木製の渡し板だけを、冷徹に焼き切っていく。燃え盛る渡し板が折れ、海へ落ちた。
その下で、トゥソテウティスの巨大な触腕が動く。 上陸艇が水に触れた瞬間、黒い腕がガチリと絡みついた。人間を引きずり込まない。小舟だけを掴み、それを横へずらし、波に乗せて回転させる。
乗り込んでいた兵達が悲鳴を上げて海へ投げ出された。すぐ近くをメガロドンの影が音もなく横切る。兵達は完全に「食われる」と覚悟した。 だが、噛まれない。メガロドンは彼らのすぐ横を悠然と通り過ぎ、小舟の進路を遮るように泳いだだけだった。
「なぜ食わない!?」 「祈りが効いているのか……?」 「違う、船だけを正確に狙っている!」 「魔女が選んでいるんだ!」
恐怖は、理解できないものほど大きくなる。食われないことすら、聖戦軍にとっては不気味な呪いに思えた。彼らは知らないのだ。それは祈りでも気まぐれでもなく、ただライラがそう命じたからだということを。
◆
海中からは、さらに別の圧力がかかっていた。
ダンクルオステウスが、浅瀬へ向かおうとする小型船の底へ回り込む。兵を浜へ運ぶには十分な大きさがあるその船底の浅い部分へ、骨質の顎がガチリと噛みついた。
ばきり、と海中に重い音が響く。舵が割れ、底板が歪む。 船は沈まない。けれど、真っ直ぐ進めなくなる。
その横を、エラスモサウルスが高速で抜けた。細長い影が水を激しく裂き、不自然な高波を起こす。小型船は大きく揺れ、乗っていた義勇兵達が一斉に片側へ転がり落ちるように倒れ込んだ。
「体勢を戻せ!」 「盾を落とすな! 水が入ってきた!」
浜へ向かうはずだった小舟が、なす術なく横へ流されていく。そこへトロピカル・クリスタルワイバーンが水面すれすれを通り抜け、強烈な水飛沫を叩きつけた。小舟の前へ回り込み、鋭く翼を傾けて進路を強引にずらしていく。
海中から押し上げられ、空から執拗に追い立てられる。 救助船は意図的に外されている。逃げる船は追われていない。だが、浜へ向かう船は違う。徹底的に、その足を止められていた。
モササウルスは、大型輸送船へ向かった。 その船は、損傷しながらも浅瀬へ無理やり乗り上げるつもりだった。船底が傷ついても、浜へ突っ込めば兵を降ろせる――そう判断したのだろう。
だが、海そのものが横から動いた。モサの圧倒的な巨体が、船体の側面へ押し当てられる。
ばきばきと板材が鳴り、船が浜ではなく真横へ流される。
「押されている! 舵が効かない!」 「浜が遠ざかるぞ!」
船員達が必死に舵を切るが、すでに舵は半分壊れている。帆も焼け、波も荒れ、船体は思うように動かない。 モサは噛まない。船員を食わない。ただ、浜へ行かせない。それだけを完璧に実行していた。
◆
聖戦軍も、ただ一方的に壊されているだけではなかった。
聖騎士達が必死に盾を並べる。上陸艇の上で、濡れた盾が重なり合い、簡易の鉄の壁を作る。
「盾を上げろ! 竜の炎を受けるな、流せ!」
武装神官が小舟の中央で聖具を掲げた。淡い光の膜が舟を包み、海水を激しくかぶりながらも、彼らは必死に祈祷を続けた。 ファイアワイバーンの炎が、その光の膜へ触れて激しく弾ける。火は散ったが、小舟は燃えなかった。
「効いたぞ! このまま浜へ!」
だが、次の瞬間、海中から巨大な影が近づく。エラスモサウルスが小舟の真横を猛烈な速度で抜け、不自然な高波を起こした。 光の膜は炎には強かった。だが、横合いから叩きつけられる波と質量までは受け止めきれない。
舟が大きく傾き、乗っていた義勇兵が水へ落ちる。聖騎士が腕を伸ばして必死に掴み、治療術士が薬箱を抱えたまま身体を低くする。 それでも、舟は沈まなかった。結界は消えず、神官は祈りを切らさない。小舟は、遅くとも確かに浜へ向かっていた。
別の場所では、結界担当司教が上陸艇の周囲へ光の輪を張った。光が水面に広がり、聖水が撒かれると、海中の影がわずかに距離を取った。 効いている。ファミリア達もその光の干渉を嫌がっているのだ。トゥソテウティスの触腕がその光に触れて引き、メガロドンの群れも一瞬だけ遠ざかる。
その一瞬の隙に、上陸艇の一つが前へ出た。
「今だ! 漕げ! 浜へ向かえ!」
聖戦軍の力は、決して無意味ではない。彼らの祈りも、聖具も、神聖術も、本当に働いている。ただ――守るべき範囲が、あまりにも広すぎたのだ。
空、海、船底、甲板、上陸艇、救助船、漂流者。それらすべてを同時に守るには、彼らの光は足りない。 結界が小舟を守れば別の船の吊り具が焼かれ、聖水で海中の影を遠ざければ上空からトロペオが信号台を砕く。
それでも聖戦軍は、泥を噛むように戦った。 そして、いくつかの上陸艇は、確かに生き残った。
◆
私は、シルヴィアの背の上から、その凄惨な戦場を見つめていた。
船が壊れ、小舟が転覆し、人が海へ落ちていく。そのたびに、胸の奥がきつく締めつけられる。
だが、私は目を逸らさなかった。逸らせない。この防衛作戦には、私自身も深く関わっているからだ。どの船を止めるべきか、どの船を外すべきか、治療船と救助船をどう見分けるか。上陸艇をどこで止めれば、より死者を減らせるか。
それらを冷徹に言葉にしたのは、私自身でもある。だから、見届けなければならない。そして、伝えなければならなかった。
「ライラさん、左側の船は救助船です。落水者を拾っていますから、攻撃を外してください」
『分かった』
「右前方、小型艇です。浜へ向かっています。止めないと岸に着きます」
『うん』
「あの船はもう完全に動けません。追わないでください」
『分かった』
「あちらは治療術士が乗っています。直接狙わないで」
『うん』
私の声は、震えていた。だが、止まらない。
「前へ出ているのは聖騎士団の船です。まだ戦闘可能です」
『じゃあ止める』
「小型艇が浜へ向かっています。上陸されます!」
『うん』
短いやり取り。その一つ一つが戦場の形を、刻一刻と変えていく。 私の言葉で救われる船があり、私の言葉で確実に止められる船がある。その重すぎる事実が、私の胸をさらに重く沈ませた。
それでも、何も言わないよりはマシだった。私が言わなければ、彼らは救助船も治療船も戦闘船も、すべて同じ「敵」として壊してしまう。言えば、少なくとも外せる。死者を確実に減らせる。
そのために、私は魔道具を強く握りしめた。 シルヴィアが、わずかに首を動かした。私の震えを感じ取ったのだろう、飛び方が少しだけ安定する。シルヴィアは攻撃には向かわない。ただ、私のそばにいてくれる。それだけで、私は辛うじて息を繋いでいた。
◆
だが、聖戦軍の側からは、その光景は「最悪の地獄」に映っていた。
青白い竜の背に、私がいる。断罪台から魔王の竜に奪われた、あの魔女が、空から自分たちを見下ろしている。 そして、私が何かを告げるたび、竜達の攻撃の方向が恐ろしい精度で変わっていくように見えたのだ。
救助船が巧みに避けられ、治療船が直撃を免れる。その代わりに、上陸艇を吊るす船が的確に狙われ、信号船が次々と落とされていく。彼らの目には、より巧妙に、確実に艦隊の息の根を止めるために、魔女が冷静に牙を振り分けているようにしか見えなかった。
「見ろ、魔女が選別している!!」 甲板にしがみつく義勇兵が、絶望に顔を歪めて叫んだ。 「あの船を指した後に、竜が向かった! やはり、あれは完全に魔王の側だ!」
「リィナ様が……本当に……」
若い神官は、震えながら空を見上げていた。彼は、かつての私の名前を知っていた。努力の聖女。神聖術を研究し、多くの施療院を回り、祈りに技術を添えた人。その名前を、尊敬と共に聞いていたのだ。
だが今、彼の目に映る私は、竜の背で魔王軍へ冷徹に指示を送る魔女だった。
真実は違う。私は彼らを救っている。それでも、この戦場では見え方こそが絶対の真実になる。私の必死の善意は、また一つ、彼らの誤解を強固にする材料になっていった。
◆
海と空は、聖戦艦隊を大きく削り取っていた。 前方船団の多くが損傷し、いくつかの船は、すでに艦隊としての役割を完全に失っていた。帆を失い、舵を砕かれ、信号を出せず、ただ波に流されるだけの船。一部は沈みかけている。
救助船が走り回り、落水者が縄へ必死に掴まる。治療術士が甲板で倒れた者へ神聖術を施す。上陸艇の多くは破壊され、海へ落とされた。
それでも、すべてではなかった。守られた艇があり、聖水に守られた小舟がある。半壊しながらも進む舟があり、浅瀬へ突っ込もうとする輸送船がある。聖戦軍は、壊れてもなお進もうとしていた。
司令艦上で、アレクシオはその光景を見つめていた。退こうとしても、後方は混乱し、損傷船が道を塞いでいる。この海で背を向ければ、さらに沈められるだけだ。
アレクシオの顔に苦渋が刻まれる。だが、声は少しも揺れなかった。
「浜へ向かえる船は、向かいなさい。負傷者と漂流者は救助船へ。動けぬ船は、救助信号を掲げよ。進める者は、進みなさい」
船団司令が短く頷く。 「救える者を捨ててはなりません。ですが、進める者まで止まってはならない」
救助、撤退、前進、上陸。それらはもう、一つの命令で綺麗にまとまるものではなかった。だが、それでもアレクシオは命じた。できることを、同時に進めるしかない。聖戦軍は崩れながらも、なお自らの使命を手放さなかった。
◆
ライラの指揮所に映る艦隊は、もう巨大な一つの面ではなかった。乱れた点と線の集まりだった。 戻る船、止まる船、助ける船、浜へ向かう船。
ライラは、光の面を見ながら静かに線を引いた。 「止まった船はもういい。戻る船もいい。助けてる船もいい」
救助船の周囲を回っていたメガロドンが、すっと距離を取る。
「前に来る船だけ。浜に向かう船だけ止めて」
その命令で、戦場の形が変わる。すべてを沈めるのではない、選ぶのだ。来るなら止める、来ないなら追わない。それだけだった。
その判断によって、助かる者が確かにいた。だが、聖戦軍側がそれを「慈悲」と理解するはずがなかった。 祈りが効いたと思う者、魔物が別の獲物を選んだと考える者、魔王が弄んでいると怯える者、魔女が選別していると憎む者。
真実はただ一つ、ライラがそう決めたから。それだけだったが、その絶対的な温度差が彼らをさらに狂わせていく。
◆
それでも、すべては止められなかった。 一艘の上陸艇が、激しい波を越えてついに砂浜へ滑り込んだ。
半分壊れ、片側の縁は割れ、盾が一枚海へ落ち、乗っていた兵達は全員ずぶ濡れだった。それでも、浜に着いたのだ。
聖騎士が、砂浜へ転がるように降りて膝をつく。海水が鎧から流れ落ちる中、彼は震えながらも、盾を前へ出した。
「……着いた」
誰かが呟いた。それは勝利の声ではなかった。ただ、生きて海を越えた者の、執念の声だった。
別の小舟が、少し離れた場所で砂へ乗り上げる。義勇兵達が、這うように浜へ上がった。手が震え、足も震えている。それでも、剣だけは決して手放していない。
武装神官が、濡れた聖典と聖具を抱えて降りる。水を吸った衣に足を取られながらも、彼は聖印を掲げた。治療術士が、負傷した兵を引きずるようにして浜へ上げる。
「着いた……本当に、着いた……」
彼らは勝ったわけではない、海を越えただけだ。だが、聖戦軍側から見れば、それは奇跡に近かった。 魔王の海を越え、竜の空を抜けて、ついに禁忌の島の浜に足をつけた。それだけで、心が折れかけていた者達に、わずかな正義の火が戻る。
「隊列を整えろ!」 聖騎士の一人が叫ぶ。 「負傷者を後ろへ! 神官、浜に結界を張れ!! 森を抜ければ、魔王の巣だ!」
その言葉に、何人かが顔を上げた。目の前には、暗く深い森 が広がっていた。
◆
空のワイバーン達は、まだ追えた。海中の子達も、浜近くまで迫ることはできた。上陸した者達は疲弊し、隊列も整っていない、追撃すればさらに削り取れるはずだった。
だが、ライラは命じた。 「浜に上がったら、空の子は深追いしない。海の子達も戻って。そこから先は、森の子達。怪我した子は戻って。まだ動ける子も、一回下がって」
それから、光の面に映る帰ってくるファミリア達のシグナルを見つめた。
「みんな、ありがとう」
それは、兵器に向ける言葉ではなかった。家を守ってくれた家族へ向ける、心からの言葉だった。
海中の影が沖へ戻り、ワイバーン達が高空へ上がり、トロペオグナトゥスが島側へ戻っていく。戦える子達も、浜の上までは決して追わなかった。
聖戦軍の者達は、その不気味な撤退を見て息を呑んだ。
「……追ってこない?」 「なぜだ、浜へ上がったからか?」 「ここからが、本当の地獄の本番なのか……?」
彼らには分からない。それは見逃されたのではない、ただ、「役目」が移っただけなのだということを。
◆
私は、上空からその浜を見つめていた。
一部、上陸した。それを認めなければならなかった。第一防衛線は終わったのだ。
海と空は、聖戦艦隊を大きく削り取った。多くの船を壊し、多くの進路を乱した。それでも、すべては止めきれなかった。浜へ上がった者達がいる。
それは失敗なのか。違う。第一防衛線の目的は、全員を海で殺すことではなかった。上陸できる戦力を減らし、艦隊としての統制を奪うこと。その役目は、確かに果たされていた。
けれど、生きて浜へ上がった者達は、助かったわけではない。次の防衛線へ進んだだけだ。 森――アルカノアの内側へ続く、濃い緑の壁。
私は唇を強く噛んだ。海で全滅させるよりは、マシだった。逃げた船があり、救助された者がいる、食われた者は誰一人としていない。その事実は、せめてもの救いだった。
だが、救いだけでは終わらない。浜へ上がった者達は、これから森へ進む。そこでまた、凄惨な戦いが始まるのだ。
私は、魔道具に触れた。声が掠れていた。
「ライラさん。一部、上陸しました」
返ってきた声は、どこまでも静かだった。 『うん。見えてる』
少しの間があった。そして、ライラは言った。 『海の子達、戻って。ありがとう』
その言葉を聞いた瞬間、私の胸がひどく痛んだ。 ありがとう――戦場で、ライラはそう言ったのだ。命令を果たして帰ってくる家族に。
私は静かに目を閉じた。そのあまりにも変わらない優しさ が、どうしようもなく苦しかった。
◆
浜へ上がった聖戦軍の前には、森があった。
海の轟音が背後にあり、燃える帆の臭いが風に混じる。遠くではまだ救助を求める声が聞こえているが、目の前の森は不気味なほど静まり返っていた。
濃く、深い。朝の光が差しているはずなのに、木々の奥は暗く沈んでいる。 葉が厚く重なり、幹は太く、枝は複雑に絡み合っている。鳥の声すら、何一つ聞こえなかった。
聖騎士達は、息を整えながら盾を並べた。武装神官が濡れた聖具を掲げ、治療術士が負傷者を後方へ運ぶ。義勇兵達は震えながら、剣や槍を握り直した。
「ここまで来た。上がれば戦える。隊列を整えろ!」
彼らは、ようやく戦えると思った。海ではない、揺れる船でもない。足元には砂があり、その先には確かな地面がある。盾を構え、槍を並べ、祈りを合わせれば、戦えるのだと。そう信じようとしていた。
その時、森の奥で枝が揺れた。 小さな音だった。海の轟音に比べれば、あまりにも小さい微かな音。
だが、浜にいた何人かが、本能的な恐怖で同時に振り返った。
葉の奥。暗がりの中。何かが動いた。小さな影。素早い気配。喉の奥で転がるような低い唸り。
それはまだ、姿を現さない。森はただ、静かにそこにあった。
海は彼らを削った。空は彼らを裂いた。そして、浜の先には、森があった。 その光を飲み込む程の暗がりの奥で、小さな影が一つ、音もなく動いた。
日間総合ランキング16位
読んでくださった皆さま、ありがとうございます。
今後もライラ達の物語を楽しんでいただけるよう、続きを書いていきます。