廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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うちの子達

「全員いるか、確認する」

 

そう口にした瞬間、私はようやく自分が何をしようとしているのかを理解した。

 

点呼。ただの確認だ。名前を呼んで返事を聞き、姿を見て無事を確かめる。それだけのこと。

 

それだけのことなのに、足がすぐには動かなかった。

 

シルヴィアはいる。

 

門の上から私を見下ろし、名前を呼べば喉を鳴らして返してくれた。触れれば硬くて、温かくて、確かに生きていた。

 

カイザーもいる。

 

正門の内側に黒い山のように伏せて、私の声に応えるように静かに頭を下げた。その存在感だけで、巨大な門そのものよりも重く見えるほどだった。

 

でも、それは二体だけだ。

 

二体がいたからといって、全員が無事だとは限らない。

 

もし、奥へ進んだ先がもぬけの殻だったら。

 

もし、私の記憶にある区画がなくなっていたら。

 

もし、名前を呼んでも返事がなかったら。あるはずの場所に、あの子達がいなかったら。

 

胸の奥がきゅっと縮む。考えただけで、息が浅くなった。

 

私は正門の内側で立ち尽くし、広い通路の奥を見つめた。

 

そこにはいくつかの分岐がある。大型の子達が通るために何度も広げた道。作業場や倉庫の方へ続く少し低い通路。高所の足場へ上がる坂。奥の寝床へ続く区画。

 

全部、知っている。知っているはずなのに、今はまったく知らない場所みたいに見える。

 

壁には記憶にある傷がある。床には何度も踏み固められた跡がある。補修した場所も、足した壁も、置いた柵も、見覚えがある。

 

けれど、その全部が『現実の厚み』を持っていた。

 

質量がある。匂いがある。音がある。

 

奥から、いくつもの呼吸の気配がする。

 

私は手を握りしめた。

 

怖い。中に何もないことが怖い。逆に、何かがいることも怖い。

 

でも、確かめないままではいられなかった。

 

シルヴィアが背後で小さく喉を鳴らす。

 

振り返ると、彼女は首を傾げて大きな瞳でこちらを見ていた。その仕草は、どう見ても「行かないの?」と言っているようだった。

 

「……うん。行く」

 

私は深く息を吸い、最初の区画へ向かった。

 

向かうべき場所は決まっている。大型戦闘組の区画。

 

拠点の正門に最も近く、広く、頑丈で、何度も補修を重ねた場所。何かあれば最初に動けるように、何かが来ても受け止められるように。そして、彼らがゆったりと身体を休められるように考えて作った場所だ。

 

今思えば、かなり物騒な配置だったと思う。けれど、あの頃の私はそれが自然だと思っていた。

 

大きい子には大きい場所を。暴れた時に壁を壊さないよう、広い通路を。爪が引っかからないよう床は平らにしつつ、滑らないように少し粗く。休む時に身体を預けられるよう、低い岩場のような区切りも置いた。

 

効率のため。安全のため。そう思っていた。

 

でも、今こうして見ると、それだけではなかった気がする。私はただ、その子達が狭い場所で苦しそうに身じろぎするのが嫌だったのだと思う。

 

区画の入口に立つ。そこから先は、空気が違った。

 

熱い。

 

巨大な生き物たちの体温が、ゆっくりと空間に満ちている。乾いた草と、土と、むせ返るような獣の匂い。そして、重い呼吸の音。

 

私はごくりと喉を鳴らした。

 

奥には、影がいくつもあった。

 

座っているもの。伏せているもの。首を床に預けて眠っているもの。片目だけを開けて、こちらを見ているもの。

 

巨大な肉食恐竜達。普通の人間が見れば、足がすくむどころでは済まないだろう。

 

ギガノトサウルスの群れ。カルカロドントサウルスの影。ティラノサウルス達の並ぶ牙。

 

遠目でも分かる圧倒的な質量が、区画の中で静かに過ごしていた。

 

暴れてはいない。吠えてもいない。ただ、それぞれの場所で身体を休めている。

 

壁には爪痕があった。床には太い尾を擦ったような跡もあった。区切りに使った岩場の一部は欠けている。

 

けれど、荒れているのではない。壊された跡ではなく、『使われてきた跡』だった。

 

そこに寝て、そこを歩き、そこへ身体を預け、何度も何度も過ごした跡。

 

生活の跡。

 

そう気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 

「……みんな」

 

声が出た。小さな声だった。

 

それでも、近くに伏せていたティラノが目を開けた。金色に近い瞳が、ゆっくりこちらを見る。

 

その瞳が私を捉えた瞬間、奥の方で別の子が首を上げた。さらに奥で、低い唸りのような音が響く。

 

警戒ではない。返事だった。そう分かった。

 

「いる……」

 

私は一歩踏み出した。足元が震える。

 

恐怖ではある。でも、それだけではない。目の前の光景があまりにも大きすぎて、心が追いつかなかった。

 

「グラウ。……うん、いる」

 

最初に呼んだティラノが、低く喉を鳴らした。

 

この子は気が短かった。ちょっと目を離すとすぐに前へ出たがる。でも、私が近くにいる時だけは妙に大人しくなる。そういう子だった。

 

いや、そういう子だ。過去形にしてはいけない。今、ここにいる。

 

「ブラン。寝てた?」

 

奥で伏せていた白っぽい個体が、少しだけ尻尾を動かした。

 

返事のつもりなのか、ただ面倒だったのかは分からない。けれど、それで十分だった。

 

「相変わらずだね」

 

少しだけ笑えた。

 

私は一体ずつ、見える範囲の子達に声をかけていく。

 

強いかどうかではない。役に立つかどうかでもない。

 

この子はよく前に出すぎた。この子は餌場でいつも場所を譲らない。この子は大きいわりに音に敏感だった。この子は初めて遠征に連れていった時、帰り道で崖に引っかかった。

 

そんな記憶が、名前と一緒に鮮やかに蘇ってくる。

 

戦闘用に育てた子達だ。それは間違いない。けれど、私にとっては無機質な数字ではなかった。

 

一体ずつ、性格があった。癖があった。思い出があった。

 

「カイザー」

 

私は振り返り、正門の方にいる黒い巨体を見た。

 

カイザーは区画の入口近く、正門側で堂々と伏せていた。彼の周囲だけ、他の子達も少し距離を取っている。まるで、そこが最初からカイザーの場所だと分かっているみたいに。

 

ギガノト達の中心。正門の重し。この拠点の、動かない警告。

 

そんな言葉が浮かぶ。カイザーは片目を開き、こちらを見た。私はその視線に、背筋が伸びるような感覚を覚えた。

 

怖い。やっぱり怖い。でも、同時にひどく頼もしい。

 

「みんな、いてくれてよかった」

 

私の声に、区画の奥からいくつもの低い音が返ってきた。

 

咆哮ではない。唸りでもない。大地の奥で石が鳴るような、重い返事。

 

普通の人間なら威嚇としか思えないだろう。けれど私には分かった。

 

『ここにいる』と、そう言ってくれている。

 

それだけで、膝から力が抜けそうになった。

 

でも、まだ終わりではない。大型戦闘組がいる。カイザーがいる。なら、次は空の子達だ。

 

私はシルヴィアを見上げた。彼女はなぜか少し得意げだった。

 

「案内してくれるの?」

 

そう聞くと、シルヴィアは当然のように首を上げた。

 

そのまま、私の前を歩き出す。いや、歩くというより、狭くならないよう気をつけながら身体を動かしている。巨大な翼を畳み、長い尾を壁にぶつけないよう、妙に慎重に。

 

その仕草が少しおかしくて、私は思わず小さく笑った。

 

「さっきまで格好よかったのに」

 

シルヴィアが振り返り、不満そうに鼻を鳴らした。

 

その顔があまりにも分かりやすくて、また少しだけ笑えた。

 

高所区画へ続く坂は広く作ってある。

 

人間が上るには広すぎる。けれど、翼を持つ子達が移動するには必要な幅だった。

 

坂を上るにつれ、空気が少し変わる。

 

乾いた岩の匂い。羽ではなく、鱗と皮膜の匂い。そして、微かに焦げたような雷の気配。

 

天井が高い。ほとんど外と繋がっているような開放感があった。

 

上部には岩棚のような足場を作ってある。翼を畳んで休めるように。首を伸ばしても天井に当たらないように。互いの尾が邪魔にならないように。

 

その場所に、ワイバーン達がいた。

 

炎を宿すような赤い鱗。氷を纏ったような白い体。毒々しい色合いの細い影。そして、シルヴィアと同じ雷の気配を持つ子達。

 

それぞれが岩棚に身を預け、翼を畳んで休んでいる。

 

外へ飛び出していたわけではない。暴れ回っていたわけでもない。私が用意した高い場所で、自分の身体に合う姿勢を見つけて、静かに待っていた。

 

胸が痛くなった。

 

「……みんな、ここにいたんだ」

 

私が呟くと、一体のワイバーンが首を持ち上げた。それにつられるように、別の子も目を開ける。

 

区画の上の方で翼が少し動いた。空気が流れ、私の髪が揺れる。

 

シルヴィアが私の横に立ち、なぜか胸を張った。

 

「いや、あなたが偉い顔するところ?」

 

シルヴィアはふん、と鼻を鳴らした。どうやら、するところらしい。

 

私は呆れたように息を吐き、それから一体ずつ名前を呼んだ。

 

炎の子。氷の子。毒の子。雷の子。

 

全員に声をかける。全員が同じ反応をするわけではない。

 

すぐ首を伸ばしてくる子もいれば、眠そうに片目だけ開ける子もいる。翼を少し広げるだけの子もいる。返事の代わりに、喉の奥で小さく鳴く子もいた。

 

それでよかった。返事は、それぞれ違っていい。私はそれを知っていた。

 

「うん。……うん、いる」

 

一体ずつ確認するたび、胸の奥の不安が少しずつ薄れていく。

 

でも同時に、重くもなる。この子達は、本当にここにいる。生きている。

 

それは絶対の安心であり、同時に、重い責任だった。

 

『私が守らなければならない』。自然とそう思ってしまう。

 

誰に言われたわけでもない。この場所が何なのかも分からない。

 

それでも、この子達がいるなら、私はこの子達を絶対に放っておけない。

 

私はシルヴィアの首元に軽く触れた。

 

「次、行こう」

 

シルヴィアはすぐ近くに顔を寄せてくる。

 

近い。やっぱり近い。

 

「だから距離感」

 

抗議すると、シルヴィアは分かっているのかいないのか、満足そうに喉を鳴らした。

 

次に向かったのは、小型の子達がいる区画だった。

 

そこへ近づくにつれ、空気が一気に変わる。戦闘組の区画にあった圧力はない。ワイバーン達の高所にあった緊張も薄い。

 

代わりに、もっと柔らかい匂いがした。

 

干し草。穀物。水場の湿り気。温かい体温。小さな足音。

 

入口の前で、私は少しだけ立ち止まった。

 

ここは、何度も作り直した場所だ。大型の子達に踏まれないように。小さい子達が隅で潰されないように。眠る場所と餌場を分けて。水場を近くに置いて。怖がりな子が隠れられるよう、奥まった寝床も用意して。

 

効率だけで考えれば、もっと雑でもよかった。でも、雑にはできなかった。そういう記憶がある。

 

私はゆっくり扉を開けた。

 

最初に聞こえたのは、小さな鳴き声だった。

 

「……あ」

 

足元近くで、丸い鳥のような生き物が首を傾げていた。ドードーだ。

 

ふっくらした身体。短い脚。眠そうな目。その子は、私を見ると小さく鳴いた。

 

たったそれだけ。戦闘組のように地面を震わせるわけでもない。ワイバーンのように風を起こすわけでもない。本当に小さな声。

 

でも、私はその場にしゃがみ込んだ。

 

「いる……」

 

手を伸ばすと、その子は逃げなかった。ぽてぽてと近づいてきて、私の膝に身体を寄せる。

 

小さい。温かい。さっきまで見ていた子達と比べると、信じられないくらい小さい。でも、その命の温かさに差はなかった。

 

「よかった」

 

声が震えた。私はその子の背をそっと撫でる。

 

柔らかい羽毛の感触が指に触れた。この子は強くない。たぶん、外の獣どころか、さっき草原で見た小動物にも負けるかもしれない。

 

でも、大事だ。強いから大事なのではない。便利だから大事なのでもない。

 

ここにいてくれたから。名前を呼べるから。一緒に過ごしてきたから。だから、大事なのだ。

 

私は何も言わずに、その子をしばらく撫でた。

 

奥では、オヴィラプトルが卵の近くをうろうろしていた。モスコプスが干し草の上でのんびり横になっている。

 

少し離れた水場のそばでは、ダエオドンが大きな身体を丸めるようにして眠っていた。

 

カストロイデス達は木材の近くにいた。いや、木材置き場の近くというより、そこを『自分達の仕事場』だと思っているような顔をしていた。一体が木材に顎を乗せ、もう一体が隣の子の耳のあたりを前足で押している。遊んでいるのか、邪魔しているのかは分からない。

 

私は思わず笑った。

 

「……相変わらず」

 

その声に反応して、ビーバーの一体がこちらを見る。そして、何事もなかったようにまた木材の方へ顔を戻した。

 

返事、なのだろうか。たぶん、そうだ。この子達の返事は、そういうものだ。

 

私は一体ずつ名前を呼ぶ。

 

大型の子達に比べれば、反応は小さい。ぴ、と鳴くだけ。耳を動かすだけ。寝返りを打つだけ。こちらを見るだけ。

 

でも、そのたびに私は胸が熱くなった。

 

「うん。いるね」

 

しゃがみ込み、立ち上がり、また別の子の前で膝をつく。何度もそれを繰り返す。

 

シルヴィアは入口付近で大人しくしていた。さすがにこの区画に入るには大きすぎると分かっているらしい。けれど、顔だけはぎりぎりまで覗き込んでいる。

 

小さい子達は、シルヴィアのことを特に怖がっていなかった。それもそうだ。この子達にとって、シルヴィアは外から来た怪物ではない。同じ拠点にいる『大きな家族』なのだから。

 

私はその光景を見て、また少し泣きそうになった。

 

次に向かったのは、採取組や作業組の区画だった。

 

ここは、拠点の中でも少し雰囲気が違う。素材置き場が近い。作業場も近い。通路は広いが、ただ広いだけではなく、物を運びやすいように作ってある。効率を考えて作った場所だ。それは間違いない。

 

石を運ぶ子。木を集める子。金属を砕く子。遠くへ物を運ぶ子。それぞれの役割を考えて、配置した記憶がある。

 

けれど、今見ると、それだけではなかった。

 

体の大きな子には、広い入口を。高い場所を好む子には、上へ登れる足場を。臆病な子には、奥まった寝床を。小さい子には、踏まれない安全な場所を。

 

そういう細かい配慮が、あちこちに残っていた。

 

「……私、けっこう考えてたんだ」

 

呟いてから、少し恥ずかしくなった。自分で自分を褒めているみたいだったからだ。でも、そう思ってしまったのだから仕方ない。

 

区画の奥では、アンキロサウルスが壁際に身体を預けていた。

 

ドエディクルスは丸まって眠っている。その丸さに、少しだけ気が抜けた。

 

マンモスの大きな影が、広い場所でゆっくりと鼻を動かしている。

 

アルゲンタヴィス達は高めの足場で翼を休め、ケツァルコアトルスはさらに上の広い台に身体を預けていた。

 

大きさも、役割も、姿も違う。でも、それぞれがちゃんと自分の場所にいた。

 

「いる。……うん、いる」

 

名前を呼ぶと、アンキロが低く鳴いた。ドエディクルスは一瞬だけ丸まりを緩め、また丸くなった。それが返事らしい。

 

「もうちょっと反応してくれてもいいんだけど」

 

思わずそう言うと、シルヴィアが背後で喉を鳴らした。笑っているように聞こえた。

 

「あなたも人のこと言えないからね」

 

シルヴィアは不満そうに鼻を鳴らす。

 

そのやり取りの横で、アルゲンタヴィスの一体が翼を少し広げた。風が起こり、作業場近くの軽い布がふわりと揺れる。

 

私はその子の名前を呼び、手を振った。返事の代わりに、首を一度だけ下げる。それだけでよかった。

 

そうして一つずつ区画を回っていくと、拠点の印象が少しずつ変わっていった。

 

最初は、ただ巨大な建物だった。知らない島の中に突然現れた、私の記憶にあるはずの人工物。

 

けれど、歩けば歩くほど、それはただの建物ではなくなっていく。

 

ここには、誰かがいた。いや、いる。

 

床には足跡がある。爪で擦れた跡がある。寝床の干し草は少しだけ沈んでいる。壁には身体を擦りつけた跡がある。餌場の周りには食べた跡がある。水場の縁は濡れている。

 

荒れているのではない。壊れているのでもない。

 

ちゃんと使われていた。ちゃんと暮らしていた。

 

配置は、私の記憶にあるまま。

 

でも、完全に停止していたわけではない。誰も棒立ちではなかった。誰も命令待ちの置物みたいにはなっていなかった。

 

寝ていた。座っていた。隣の子と遊んでいた。自分の場所で休んでいた。

 

自分達の居場所を守るように。私が来るまで、ずっと。

 

胸が苦しくなった。

 

この子達は、外に出ていなかった。勝手に拠点を離れて、好き勝手に散っていたわけではない。

 

出られなかったのかもしれない。そう考えかけて、私は首を横に振った。

 

違う。たぶん、そうではない。少なくとも、私にはそうは見えなかった。

 

閉じ込められていたのではない。待っていたのだと思った。

 

私が作った居場所を、自分達の場所として。

 

それぞれの部屋で。それぞれの区画で。それぞれの寝床で。ただ、待っていた。

 

そう思った瞬間、目の奥がじわりと熱くなった。

 

「……ごめん」

 

誰に向けたのか分からない言葉がこぼれた。

 

シルヴィアが鼻先を寄せてくる。慰めているのか、ただ近づきたいだけなのかは分からない。たぶん、両方だ。

 

私はその鼻先を軽く撫でてから、最後に工房へ向かった。

 

作業場に近づくと、匂いが変わる。

 

獣の匂いよりも、木材と石と金属の匂いが強い。 積まれた素材。壁際に並んだ道具。作業台らしき広い台。途中まで直されたようにも見える柵の一部。

 

そこは、私の記憶より少しだけ整って見えた。 いや、違う。たぶん、もともと整えていた。少なくとも、そういう場所にするつもりで作った。

 

でも、ここを見ると真っ先に浮かぶ記憶は、整備でも作業でもなかった。 笑い声だった。

 

誰かの声。いくつもの声。たぶん、私一人ではない。 大きな背中に乗って、意味もなく拠点の中を歩き回っていた記憶。 わざわざ専用のヘルメットを作って、色まで塗った記憶。 そのヘルメットを被せた瞬間、妙に似合ってしまって、みんなで笑った記憶。

 

そして、誰かが言った。 『主任じゃん』と。

 

何かの責任者だったわけでもない。ただ、そのヘルメット姿があまりにもそれっぽくて、冗談みたいに呼び始めた。 それが、いつの間にか名前になった。

 

主任。 ギガントピテクス。

 

拠点の奥、作業場のそばに、その大きな影は静かに座っていた。 広い肩。長い腕。厚い毛並み。 人に近い形をしているのに、決して人ではない大きな身体。

 

そして、頭にはヘルメット。

 

少し傷がついている。塗装も、ところどころ剥げている。 それでも、ちゃんとそこにあった。あの時、ふざけて作ったはずのヘルメットが。

 

私は思わず息を止めた。

 

「……主任」

 

名前を呼ぶと、その影がゆっくり振り返った。 主任は、何も言わなかった。もちろん、言葉を話すわけではない。 けれど、主任は私を見て、それから大きな片手を上げた。

 

ゆるく。 本当に、昔と同じみたいに。

 

「……ふふ」

 

笑いがこぼれた。 怖さとも、緊張とも違うものが、胸の奥に広がっていく。

 

「いた。主任も、いた」

 

頼れる職人。何でもできる拠点管理者。 そんな言葉が浮かびかけて、少し違うな、と思った。

 

少なくとも、私の記憶の中の主任は、最初からそんな立派な存在ではなかった。 どちらかといえば、みんなでふざけて背中に乗っていた子。ヘルメットが妙に似合って、いつの間にか『主任』と呼ばれるようになった子。 強いとか、便利とか、そういう理由より先に、そこにいると妙に楽しくなる子。

 

マスコット。たぶん、その方が近い。

 

けれど、今の主任は、記憶の中より少しだけ落ち着いて見えた。 作業場の周りには、道具が整えられている。木材は束ねられ、石材は種類ごとに分けられ、壊れた柵のようなものが作業台の上に置かれている。

 

誰かが片づけ、誰かが直そうとしたような跡。 主任が本当にそれをしたのかは分からない。ただ、主任は何も言わず、そこに座っている。 まるで、ずっとここで番をしていたみたいに。

 

「主任って、こんなに落ち着いてたっけ」

 

そう呟くと、主任は首を傾げた。 それだけだった。でも、その仕草があまりにも主任で、私はまた少し笑ってしまった。

 

ヘルメットの端に、古い傷があった。塗った色は少し薄くなっている。 けれど、雑に扱われたようには見えない。大事にされていた。少なくとも、そう見えた。

 

私は主任の前まで歩き、そっとヘルメットの縁に触れた。 硬い。冷たい。でも、その下にある主任の体温は温かい。

 

「……待っててくれたの?」

 

答えはない。主任は何も言わない。 ただ、さっきと同じように、ゆるく片手を上げた。

 

返事なのか、挨拶なのか、ただの癖なのかは分からない。 でも、それで十分だった。私は小さく頷いた。

 

「うん。主任も、確認」

 

その言葉に、主任はまた静かにこちらを見た。 無口で、妙に落ち着いていて、それでいてヘルメット姿だけは少しおかしい。 懐かしい。そして、少しだけ頼もしい。

 

私は工房を見回した。 ここも、ちゃんと使われていた。 誰かが座った跡。道具が動かされた跡。作業台の上に残った小さな傷。素材の束に残る手の跡。

 

停止した場所ではない。生きている場所。 主任が本当に工房を守っていたのか、偶然そう見えるだけなのかは分からない。

 

でも、私は思ってしまった。 この子はこの子なりに、ここにいたのだと。 自分の場所で。ヘルメットを被ったまま。主任として。

 

「ありがとう」

 

自然と、そう言っていた。 主任は、やっぱり何も言わなかった。 けれど、その沈黙が、やけに落ち着いた。

 

私はこの拠点の中を、ゆっくりと歩いてきた。

 

戦闘組の区画。ワイバーン達の高所。小さい子達の寝床。採取組の広場。主任の工房。 どこも、記憶にある。でも、記憶とは違う。

 

そこには、確かな温度があった。息遣いがあった。 私を待っていた時間があった。

 

私は工房を出て、拠点の中央に近い広場へ戻った。 シルヴィアが後ろについてくる。正門の方にはカイザーがいる。 遠くの区画からは、大型組の低い呼吸が聞こえる。上の方では、ワイバーン達が翼を動かす音がする。小型区画からは、小さな鳴き声が時々聞こえた。作業場では主任がまた静かに座っている。

 

みんな、いる。全員。 少なくとも、今見て回った子達は、ちゃんとここにいた。

 

名前を呼べば、返事があった。 大きな返事も、小さな返事も。声にならない返事も。

 

私は広場の真ん中で立ち止まった。 足の力が抜けそうになる。安心した。ようやく、少しだけ。

 

でも、その安心は、ただ「強い子達が残っていた」という安心ではなかった。

 

違う。そうじゃない。 ギガノトがいるから安心したのではない。ワイバーンがいるから大丈夫だと思ったのでもない。

 

ドードーがいて。オヴィラプトルがいて。モスコプスがいて。ダエオドンが寝ていて。ビーバーが木材の近くにいて。アンキロが壁際にいて。主任が工房にいて。シルヴィアが横にいて。カイザーが門にいる。

 

それが、嬉しかった。

 

強さも役割も違う。 大きい子もいる。小さい子もいる。戦う子もいる。戦わない子もいる。便利な子もいる。ただそこにいてくれるだけの子もいる。 でも、大事さに差はなかった。

 

私は顔を伏せた。 泣きそうだった。泣いてしまえば、きっと止まらない気がした。

 

だから、何度も呼吸する。 吸って、吐く。 それでも、胸の奥が熱い。

 

「……よかった」

 

小さく呟く。 シルヴィアがそっと鼻先を寄せてきた。 今度は押さなかった。ただ、私の肩の近くに鼻先を置いている。温かい。

 

私はその鼻先に額を軽く預けた。

 

「みんな、いた」

 

言葉にしたら、また泣きそうになった。 正門の方で、カイザーが低く喉を鳴らした。遠くの区画でも、誰かが返事をするように鳴く。小型区画からは、短い鳴き声が重なった。工房の方では、主任が何かを置いたような小さな音がした。

 

私はゆっくり顔を上げる。拠点を見回した。

 

まだ、ここに名前はない。少なくとも、ちゃんとそう呼んだ記憶はない。 巨大な門。広い通路。それぞれの区画。寝床。餌場。水場。工房。高所の足場。補修跡だらけの壁。

 

どれも、私が作ったものだ。 でも、それだけではなかった。

 

ここには、この子達の居場所がある。 私のためだけの場所ではない。この子達が眠って、休んで、遊んで、待っていた場所。 そう思ったら、初めて、胸の中に別の言葉が浮かんだ。

 

拠点。要塞。基地。 そういう言葉では少し足りない。

 

でも、まだ名前にはならない。そこまで、私はこの場所を受け止めきれていなかった。 だから今は、ただ見回すだけにした。 この子達がいる場所。この子達が待っていてくれた場所。そして、私が最初に確かめなければならなかった場所。

 

「……うん」

 

私は、シルヴィアの鼻先をもう一度撫でた。

 

「みんな、うちの子だ」

 

その言葉を口にした瞬間、拠点の中を清々しい風が通り抜けた。 上の高所でワイバーンの翼が揺れ、正門の影でカイザーが静かに目を閉じる。小型区画から、小さな鳴き声がひとつ返ってきた。

 

私は少しだけ笑った。

 

知らない島。知らない朝。知らない身体。分からないことばかりの世界。 けれど、ひとつだけ、はっきりした。

 

ここにいる子達は、戦力でも、所有物でも、ただの記憶でもない。 みんな、私の『うちの子達』だった。

 

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