廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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森の入口

海から上がった者達は、誰一人として勝利した顔をしていなかった。

 

砂浜に転がり込むようにして倒れた聖騎士は、片膝をついたまま荒く息を吐いていた。盾を握る手は震え、濡れた鎧の隙間から海水が絶え間なく流れ落ちている。

 

義勇兵達は、剣を抱えたまま砂の上に座り込んでいた。船の上では張り詰めて立っていられた者も、浜へ上がった瞬間、足腰からすべての力が抜けてしまう。何人かは砂を虚しく掴み、何人かは地獄のような海へ振り返り、何人かはただ白む空を見上げていた。

 

上空には、まだ竜の影があった。けれど、もう近づいてはこない。 海面の下には、まだ巨大な影が見えた。けれど、それも沖へ戻り始めている。トロペオグナトゥスの異質な飛行音も、次第に島側へ遠ざかっていった。

 

あの追撃が、ピタリと止まっていた。

 

「……追ってこない?」 誰かが呟いた。その声には、安堵よりも困惑の方が強かった。

 

「なぜだ。浜へ上がったからか?」 「陸では、奴らも不利なのでは……」

 

誰も、本当の理由を知らない。海の魔物も空の竜も、疲れたから引いたのではない。聖戦軍の祈りが完全に追い払ったのでもない。浜へ上がったから急に彼らが襲えなくなったわけでもない。

 

ただ、ライラが止めた。それだけだった。

 

だが、浜に上がった者達にそれを知る術はない。だから彼らは、その不気味な沈黙を「猶予」だと受け取った。神が与えた立て直しの時間。あるいは、海と空の魔物達が支払った代償による一瞬の隙。

 

どう解釈するにせよ、今動かなければ全滅することだけは分かった。

 

「負傷者を集めろ!」 聖騎士の一人が声を枯らして叫んだ。 「隊列を整えろ! 武装神官は浜に結界を張れ! 船員、まだ動ける者は上陸艇を引き上げろ! 治療術士を呼べ!」

 

浜が慌ただしく動き出す。だが、それは勝利した軍の動きではなかった。ただ生き残るための、悲痛な足掻きだった。

 

砂の上に次々と負傷者が並べられる。海水を吸った重い外套が脱がされ、鎧の留め具が外され、震える手で包帯が巻かれる。治療術士達は濡れた薬箱を開き、使えるものと駄目になったものを懸命に分け始めた。 武装神官達は、波打ち際から少し離れた場所に聖具を置き、簡易の結界を張ろうとしていた。祈りの声はかすれていたが、それでも消えてはいない。

 

そして義勇兵達は、目の前の森を凝視した。

 

濃すぎる森だった。砂浜の先に、まるで生きた壁 のように広がっている。海の轟音が背後にあるせいか、その森は不自然なほど静まり返って見えた。

 

海は彼らを殺そうとした。空は彼らを裂いた。 そして、浜の先には、沈黙した森が待っていた。

 

 

拠点最上階の指揮所で、ライラは光の面を見つめていた。淡い光の中には、海と浜と森のすべてが映し出されている。

 

沖へ静かに戻っていく海中の子達の反応

 

高空へ離れていくワイバーン達の気配

 

浜へ上がった聖戦軍と、海に漂う無数の人間達

 

救助や避難のために浜へ寄せようとする船の動き

 

第一防衛線は終わった。少なくとも、海と空の子達の役目は、ここで一度終わる。

 

ライラは、光の面にそっと手を置いた。 「海の子達、戻って。空の子達も、深追いしないで。浜に上がった人は追わない」

 

その声は、どこまでも静かだった。けれど、絶対の規律だった。

 

「怪我した子から、リィナのところへ」

 

別の光の面には、後方の処置場所が映し出される。開けた岩場と草地。ワイバーンが降りられるだけの広さがあり、入り江へつながる水路が確保されている。 そこでは雪フクロウ達が冷気をまとわせながら待機し、ダエオドンが低く鼻を鳴らしていた。主任はすでに大量の水と布、道具を用意している。

 

第一防衛線に出た子達はタフだった。ライラが危ないと思えばすぐに下がらせていたし、無理はさせていない。大きな裂傷や、動けなくなるほどの重傷はほとんどなかった。

 

だが、それで終わりではなかった。聖戦軍の反撃は、確かに彼らの肉体を削っていたのだ。 聖水、聖具、聖印付きの矢、祈りを込められた槍、神聖術の光、対魔結界。それらは、確かにファミリア達の身体に痛みを残していた。

 

普通の回復ではどうしても抜けない、異物の光。この世界の祈りの形を知っている者でなければ、ほどきにくい聖なる拒絶。

 

だから、そこにはリィナが必要だった。

 

ライラは、もう一度だけ言った。「みんな、帰ってきて。――ありがとう」 それは兵器へ向ける言葉ではない。家を守ってくれた子達へ向ける、心からの主人の言葉だった。

 

 

リィナは、シルヴィアとともに後方の処置場所へと戻っていた。 シルヴィアが地面へ降りると、周囲の草が大きく揺れた。けれど、その着地は驚くほど静かだった。私を揺らさないよう、翼の角度も足の置き方も、いつも以上に慎重になってくれているのが分かった。

 

シルヴィアの背から降りると、膝がわずかに震えた。 第一防衛線の間、ずっと空にいた。最後の勧告から、海と空の凄惨な戦い、そして浜への上陸までをすべて見続けていたのだ。身体よりも、心が完全に疲れ果てていた。

 

だが、休むわけにはいかなかった。目の前には、傷を負って戻ってきたファミリア達がいる。

 

雪フクロウ達が冷気をまとわせながら、傷ついた翼や鱗の熱を鎮めている。ダエオドン達は低く鼻を鳴らし、周囲に治癒の力を満たすように立っていた。体力は戻りつつあり、裂けたところも塞がっている。

 

だが、私には分かっていた。残っている。

 

「傷は閉じています。でも、聖印が残っていますね。このままだと、飛ぶたびに痛みます」

 

ライトニングワイバーンの翼膜へそっと手を伸ばした。白い光の細い筋が、翼の端に刺さるように残っている。 じっとしているワイバーンに対し、私は静かに手をかざした。

 

神聖術を力任せに打ち消すのではない。「ほどく」のだ。何が刻まれ、どう作用しているのかを読み取り、不要な棘だけを一本ずつ外していく。

 

薄い光が、翼膜の上に浮かび上がった。祈りの残り、敵意の形。聖なるものとして放たれたはずの力が、今はワイバーンの身体を内側から苛む不条理な痛みになっていた。

 

「少しだけ、我慢してくださいね」

 

小さく声をかけ、指先から細い術式を滑り込ませる。白い棘が、翼膜からゆっくりと、確実に抜けていった。ワイバーンが心地よさそうに低く喉を鳴らす。

 

次は、ダンクルオステウスだった。入り江の浅い場所に、巨大な頭が半分だけ浮いている。顎の端に、聖水の焼け残りのような白い拒絶の跡があった。海水では流れないし、雪フクロウの冷気でも消えない。神聖術の癖が染み込んだ執拗な痛みだ。

 

「ここですね」 水辺へ膝をつく。主任が無言で足場になる頑丈な板を差し出してくれた。「ありがとうございます」と小さく礼を言い、ダンクルの顎へ手をかざした。

 

「体力は戻っています。でも、聖水の焼けが残っていますね。中和します」

 

淡い光が水面に広がる。私の術式は、聖水を否定しない。祈りの形を優しく読み解き、ファミリアの身体へ残らないよう、外へ綺麗に流す。白く残っていた痕跡が、少しずつ薄れていった。

 

トロペオグナトゥスも来た。サドルに、投槍がかすめた聖具由来の反応が残っている。金属のような装備の表面に、白い火花のような乱れが時折走っていた。

 

「ここは……装備そのものより、触れた術式が残っていますね。外せます」

 

慎重に術式を組んだ。直接触れすぎず、彼らの機器の働きを乱さないよう、そこへ絡みついた聖具の反応だけを丁寧に剥がしていく。細い光が、糸のようにほどけた。

 

クリスタルワイバーン達の鱗にも、結界の反発が残っていた。エンバーの赤熱する鱗の隙間にある白い抵抗、トロピカルの翼の付け根の歪み、ブラッドの赤黒い光の奥に絡みつく祈りの圧。

 

一体ずつ、彼らを見つめた。焦らず、確実にほどいていく。

 

「傷は閉じています。でも、ここに残っています。このままだと、飛ぶ時に痛みますから。私が外しますね。少しだけ、我慢してください」

 

同じような言葉を、何度も何度も繰り返した。

 

ファミリア達は、私を絶対に責めなかった。神聖術に焼かれ、聖具に痛みを残されても、それでも彼らは私をまっすぐに見つめている。

 

それが、たまらなく苦しかった。人ではなく船を狙い、殺さずに止めると決めたから、彼らはこんなにも難しい戦い方をしてくれたのだ。そして、誰も欠けることなく戻ってきてくれた。 救いだった。同時に、胸が引きちぎれるほど苦しかった。

 

シルヴィアは、ずっと近くにいた。私が一体ずつ処置するたびに、その後ろでじっと見守っている。私が少しでもふらつくと、すぐに大きな鼻先で支えようとしてくれた。

 

「大丈夫です」 そう声をかけたが、彼女は信じていないように、心配そうに喉を鳴らしていた。

 

 

処置が一段落した頃、私はもう一度立ち上がろうとした。

 

「第二防衛線は……上陸した方々の動きも見なければ。森は視界が悪いですし、私が分かることも――」

 

その瞬間、胸元の魔道具が鋭く震え、ライラの声が届いた。 『リィナ、寝て』

 

短い命令だった。息を止める。

 

「でも、ライラさん」

 

『ここからしばらくは動かない。必要になったら起こす』

 

ライラの声は静かだった。いつもの柔らかさがある。けれど、絶対に譲る気がない声だった。

 

『今寝ないと、あとで動けなくなるよ』

 

必死に言葉を探した。自分が休んでいる間に何かが起きたら、森へ進む者達がいたら、浜の治療所が攻撃されると誤解されたら――考えれば考えるほど、休むことが怖かった。

 

だが、シルヴィアが鼻先で私の肩をぽんと押した。 「シルヴィアさん?」

 

もう一度、押し戻される。軽くだけれど、拒否は許さないという明確な強さがあった。 雪フクロウが静かに翼を広げてひんやりとした空気が周囲を包み、ダエオドンが「早く座れ」と言いたげに不満そうに鼻を鳴らす。主任は、いつの間にか敷布を用意して待っていた。

 

それを見て少しだけ笑いそうになり、すぐに全身の力が抜けた。

 

「……分かりました。少しだけ」

 

『うん。少しだけでもいいから、寝て』

 

シルヴィアが、私のすぐそばで伏せた。見張るように、守るように、絶対に逃がさないように。

 

敷布に座り、横になる。完全に安心できたわけではなかった。壊れる船の音、落水者の叫び、自分が告げた拒絶の言葉が頭の奥で渦巻いている。

 

それでも、瞼は耐えがたいほど重かった。シルヴィアの温かい気配がすぐそばにあり、雪フクロウの冷気が、熱を持った頭を静かに冷ましていく。 完全に眠ったというより、糸が切れるように意識を手放した。

 

 

海上は、まだ地獄だった。 第一防衛線は終わったが、アポカリプス海域の流れは速く、波は重かった。ファミリア達がいなくても、壊れた船材や燃え残った帆が水面を不規則に漂う海は、それ自体が脅威だった。

 

そこに、無数の人間が落ちていた。 鎧を着た兵士、聖具を抱えた神官、船員、義勇兵、治療術士。彼らは魔物に食われてはいない。ライラの命令通り、メガロドンもモサも彼らを噛まなかった。

 

だが、海は待たない。波が顔を叩き、海水が口に入り、鎧が水を吸って濡れた衣が身体に絡みつく。手を伸ばした仲間が、次の波で無慈悲に消えていく。

 

「掴まれ!」「こっちだ!」「流されるぞ!」

 

救護体制を整えようにも船団は分断され、海流は容赦なく船を横へ押す。第一防衛線で亡くなった者の多くは、魔物に食われたのではなかった。船から落ち、流され、沈んだ――ただそれだけだった。

 

だからこそ、海上の者達は判断を変えざるを得なかった。沖へ戻るより、浜へ寄せた方がまだ助かる、と。

 

「浜へ寄せろ!」 撤退しようとしていた船の船長が声を張り上げた。 「撤退は後だ、先に拾え! 沈むぞ、陸へ上げろ!」

 

「治療術士を浜へ! 船上では手が足りない! 漂流者を見捨てるな!」

 

こうして、浜へ逃げ込もうとする船が次々に増えていった。それは進軍のためではなく、ただ生きて救助するためだった。

 

 

ライラは、それを指揮所からすべて見ていた。 私が休んでいて、シルヴィアも私のそばについている。だから、指揮所にはライラだけが静かに佇んでいた。

 

淡い光の面には、近づいてくる船の動きが克明に映し出されている。漂流者を拾う船、負傷者を下ろそうとしている船、治療術士を浜へ送る船。 ライラは、すぐに攻撃を命じなかった。

 

「あれは助けてる船、外して。浜で治してる人達も、そのまま。海に落ちた人を拾ってるなら、見てるだけ」

 

それが、彼女の厳格な線引きだった。治療している者は襲わない、人を助けている者も襲わない。ただし――

 

「でも、森へ進むなら止める」

 

光の面の中に、浜の奥に集まり始めた武装集団の反応があった。盾を持ち、槍を構え、隊列を組み、森へ向かおうとする者達。

 

「武器を持って奥へ行くなら、そこから。」

 

森は沈黙していた。だが、その沈黙の中には、無数のファミリア達の気配が、音もなく潜んでいた。

 

 

浜は、いつの間にか最前線であり、巨大な救護所になっていた。 治療術士達が砂の上に布を広げて神聖術を施し、神官達が簡易結界を張る。船員達は漂流者を必死に砂浜へ引きずり上げていた。

 

亡くなった兵に布がかけられ、誰かが祈り、誰かが泣き、誰かが海を睨みつけて怒鳴る。浜は混乱の極みにあった。

 

だが、そこへ奴らは一切襲いかからなかった。森は動かず、海は追わず、空は降りてこない。その沈黙を、聖戦軍の者達は、それぞれ自分達を支える言葉として受け取った。 「神の守りだ」「聖なる結界が効いている」「魔物どもは力を使い果たしたのだ」と。

 

だが、真実は全く違う。ファミリアは、ライラの命令によって、ただ静かに待っているだけだった。

 

 

やがて、浜の中で部隊が明確に分けられた。負傷者と救助組は浜に残り、第一陣の残存戦闘部隊が前へ出る。 聖騎士、武装神官、義勇兵。全員が疲弊し、濡れ、恐れていたが、それでも武器を握りしめていた。彼らは進む者達だった。

 

聖騎士団長が、森を睨みつけた。「海ではやられた。だが、ここは陸だ。盾を並べられる。槍を構えられる」

 

「森の中に、何がいるのでしょうか……」 若い兵の震える問いに、答えはなかった。分からない、だが進むしかない。魔王の拠点は森の奥にあり、そこにすべてを統べる主人がいると信じているから、彼らは足を止められなかった。

 

前衛に聖騎士、後ろに武装神官、左右に義勇兵、後ろに弓兵。可能な限りの隊列を組み、彼らは沈黙する森へと足を踏み入れた。

 

 

ライラは、空間に浮かぶ光の面を静かに見つめていた。

 

そこに映し出されているのは、ひとつの統制された軍隊ではない。

草の陰、木の上、倒木の裏、湿った岩場、水辺、枝の隙間――ありとあらゆる死角に、それぞれの子達が息を潜めている。

 

「まだだよ」

 

ライラは、光の面に向かって小さく呟いた。

森の縁に近い下草の中で、ユタラプトル達の反応がわずかに揺れる。走り出せば一瞬で浜へ届くほどの距離。けれど、彼らはライラの言葉を守り、まだ動かない。

 

「見てて。浜では動かないで」

 

別の場所では、デイノニクス達が低く身を伏せていた。鋭い爪を地面に立て、太い木の根の影に紛れ、獲物が森の奥深くへ足を踏み入れるのを じっと待っている。

 

ライラは、その細かな反応をひとつずつ指先で確かめていく。

 

「森に入ってから」

 

ダイアウルフ達は、すでに風下へ回っていた。群れの形は少しも崩していない。だが、聖戦軍の視界に入る位置には決して姿を現さない。草と木々の濃密な匂いの中に気配を溶かし、ただ静かに息を潜めている。

 

太い幹の陰には、ダイアベアの重い反応があった。そのさらに奥にはカルノの反応。もっと暗い木陰の深いところには、メガロサウルスが眠っているかのように、静かに、深く伏せている。

 

大きい子達は、まだ奥だ。最初から彼らを前へ出せば、その圧倒的な力で浜まで一気に押し潰してしまうかもしれない。

今必要なのは、蹂躙することではない。止めること。ばらけさせること。そして、拠点の方へ絶対に進ませないこと。

 

「大きい子達は、まだ待って」

 

ライラの声に応じるように、森の奥の巨大な反応が、さらに深く闇の中へ沈んでいった。

 

 

木々の枝の間には、小さな反応がいくつも散っていた。

 

ミクロラプトル、ディモルフォドン、メソピテクス

 

彼らは小さい。聖騎士の強固な盾を正面から壊すような物理的な力はない。だが、この視界の悪い森の中で彼らの視線を激しく乱し、音を散らし、前後の連絡を完全に寸断するには、十分すぎるほどだった。

 

「小さい子は前に出すぎないで。無理しないでね」

 

下草の奥ではディロフォサウルス達が静かに牙を研ぎ、岩場にはプルモノスコルピウスの硬い反応がある。湿った草の下には、長大なティタノボアの影がほとんど動かずに横たわっていた。水辺にはカプロスクスとバリオニクス、ぬかるんだ泥地にはベールゼブフォ。

 

この島の森には、道があるようで、ない。

乾いた地面もあれば、一瞬で足を取る底なしの泥もある。浅い水場も、張り巡らされた見えない根も、苔で滑る岩もある。そこは、人間の軍が隊列を綺麗に保って進むには、あまりにも最悪な地形だった。

 

「逃げるなら浜へ戻して。拠点の方へ行くなら止めて。殺さなくていい。ばらけさせて」

 

 

それから、ライラは少し離れた光の面へ視線を移した。高い木の上に、ひときわ静かで強固な反応があった。

 

そこにいるのは、古参のティラコレオだった。

――赤枝。

 

普段は拠点の梁や、日当たりの良い高い木の上で眠っていることが多い子だ。

古い鞍。古い傷。まだ拠点が小さかった昔、ライラが迷子になった彼を見失わないようにつけた、小さな、愛おしい目印。

 

今も、赤枝は高い枝の上で低く伏せていた。

鋭い瞳で森の奥を見つめ、下にいる小さな子達の動きも見守っている。聖戦軍が進む道も、彼らがパニックを起こして逃げる先も、すべてを見守れる場所だった。

 

「赤枝」

 

ライラは、その懐かしい名前を呼んだ。

 

「小さい子達を見てて」

 

光の面の中で、赤枝の長い尾がゆっくりと揺れた。

 

「でも、自分も帰ってきて。危なかったら、戻っていいからね」

 

ライラの声が、ほんの少しだけ、元の優しい女の子の柔らかさに戻る。

赤枝は鳴かなかった。ただ、もう一度だけ、返事のように尾を揺らした。それだけで、ライラには十分だった。

 

森はまだ、動かない。けれど、その不気味な沈黙の中で、配置はすでに終わっていた。

 

聖戦軍は、敵がいないと思い込んでいる。あるいは、あの凄惨な海と空の戦いで、島の魔物達が力を使い果たしたのだと、そう信じようとしている。

 

森は、ただ静かに待っているだけだった。ライラが「まだだ」と言ったから。

 

そして、武器を持った侵略者達が、二度と引き返せないほど森の奥へ入る その時を待っているだけだった。

 

 

時間が静かに過ぎていった。 昼、浜では負傷者の治療が続き、森は一切動かない。 夕方、壊れた船材で浜に火が灯り、煙が低く流れるが、大規模な襲撃は来ない。森は沈黙している。 夜、交代で見張りを立てながら兵達は怯えて眠ったが、魔物の大襲撃はやはり来なかった。

 

朝。森は、やはり静かだった。鳥の声が少しだけ聞こえたことが、逆に彼らの恐怖を薄れさせた。聖戦軍の中に、「ここは地面だ、戦える」という確かな空気が戻っていく。

 

一方、こちら側でも時間は同じように過ぎていた。私は眠り、シルヴィアはそのそばに伏せ、第一防衛線から戻ったファミリア達も落ち着きを取り戻していた。

 

そして、ライラだけが指揮所でずっと起きていた。淡い光の面に囲まれたまま、静かに森を見つめ続けている。 聖戦軍は敵が引いたと思っているが、違う。何も起きなかったのではない、起こさなかっただけなのだ。

 

 

目を覚ました時、最初に見えたのはシルヴィアの顔だった。近い。大きな瞳が、じっとこちらを覗き込んでいる。 一瞬だけ固まった。

 

「……シルヴィアさん」

 

シルヴィアが低く喉を鳴らした。安堵したようでもあり、まだ寝ていろと叱っているようでもあった。身体を起こそうとすると、大きな鼻先で私の肩を軽く押し戻される。

 

「起きます。起きますから」

 

苦笑しながらも、どうにか上体を起こした。頭はまだ少し重いが、眠る前よりはずっと思考がクリアになっている。すぐに魔道具へ手を伸ばした。

 

「ライラさん、状況は?」

 

『まだ、始めてないよ』 一瞬、意味が分からなかった。「……まだ?」

 

『うん。待ってた。浜の人達は治療と救助をしてる。海で人を拾ってる船もある。そこは見てるだけ。最初に上がった人達が、これから進む。そこから』

 

静かに目を閉じた。ライラは分かれるのを待っていたのだ。浜の救助組と、武器を持って森へ進む戦闘部隊を。

 

「浜の治療所は……」 『見てるだけ。進まないなら、何もしない』

 

その言葉に、私の胸が少しだけ緩む。けれど、すぐに第一防衛線の冷たい現実が脳裏をよぎった。彼らは食われていない、けれど助からなかった者達が、海に沈んだ者達が確かにいる。

 

「食べられなかった。でも、助からなかった」

 

小さく呟いた。それは、誰に向けたものでもない、私の胸に残り続ける冷たい事実だった。魔道具の向こうで、ライラは少し沈黙し、それから静かに言った。

 

『うん』

 

短い返事だった。けれど、その事実を一緒に背負ってくれるような、重い声だった。

 

 

第一陣の残存部隊が、森の奥へと入っていった。 最初は慎重だった。聖騎士達は盾を構え、武装神官は聖具を掲げ、義勇兵達は左右を警戒しながらゆっくりと進む。

 

だが、森は静かだった。咆哮もなければ、突撃もない。鳥の声が聞こえ、枝の間から朝の光が美しく落ちているだけだ。 少しずつ、彼らの隊列が不自然に伸びていった。前衛と後衛の距離が開き、荷物隊が遅れ、伝令が前後を走る。森が、彼らを音もなく飲み込み始めていた。

 

ライラは、それを見ていた。生体反応が完全に浜へ戻れない距離へ入っていく。 ライラは、第二防衛線の子達へ静かに声を送った。

 

「浜は見てるだけ。森に入った人達だけ。戻るなら追わない。拠点の方へは行かせない。殺さなくていい。――ばらけさせて」

 

森の沈黙が、わずかに、けれど決定的に変わった。 ユタラプトルの群れが音もなく位置を変え、デイノニクスが低く走り、ティラコレオが枝の上で身を沈め、ダイアウルフ達が風下へ回る。 彼らはまだ、襲わない。ただ配置についた。

 

 

最初の異変は、あまりにも小さく、静かだった。

 

荷物係の義勇兵が、腰へ手を伸ばした。聖水を含ませた布と予備の護符を入れた小さな革袋を確認するためだ。 それが、影も形もなかった。

 

「……あれ?」 彼が足を止めると、後ろの兵がぶつかりそうになる。「どうした」

 

「聖水袋が……ない。さっきまで確かにあったのに」

 

その時、少し離れた木の上で、甲高く短い鳴き声がした。見上げた兵士の視界に、何かが映る。 小さな猿のような影。メソピテクスが、枝の上からこちらを小馬鹿にするように見下ろしていた。

 

その少し下、葉の影の中で、ペゴマスタクスが彼の聖水袋を抱え、小さな手で器用に紐を掴んで匂いを嗅いでいた。

 

「小型の魔物だ! 荷物を確認しろ!」

 

別の兵が反射的に追おうとしたが、聖騎士が鋭く制した。「待て、追うな! 隊列を崩すな!」 その声が、広大な森に虚しく吸い込まれていく。ペゴマスタクスはすでに草の影へ滑り込むように消えていた。メソピテクスが、もう一度だけ不気味に鳴く。まるで、不気味な合図のように。

 

その瞬間、隊列の別の場所で、伝令が腰に手を当てて顔を青ざめさせた。 前後の連絡に使うための、大事な信号笛が消えていたのだ。

 

「笛がない……」

 

周囲が、一斉に森の暗闇を見た。 枝は揺れていない。草も動いていない。ただ、静かだった。

 

森は沈黙している。しかしその深い沈黙の中で、彼らの大切な道具だけが、一つ、また一つと、音もなく消え始めていた。

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