廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

40 / 67
第37話 森の入口

海から上がった者達は、誰一人として、勝った顔をしていなかった。

 

砂浜に転がり込むように倒れた聖騎士は、片膝をついたまま荒く息を吐いていた。盾を握る手は震え、濡れた鎧の隙間からは、海水が絶え間なく流れ落ちている。

 

義勇兵達は、剣を抱えたまま砂の上に座り込んでいた。船の上では張り詰めて立っていられた者も、浜へ上がった途端に、足からすべての力が抜けてしまう。砂を虚しく掴む者もいれば、地獄のようだった海を振り返る者も、白んでいく空をただ見上げている者もいた。

 

空にはまだ竜の影があったけれど、もう近づいてはこない。海面の下にも巨大な影が見えたけれど、それも沖へ戻り始めていた。トロペオグナトゥスの聞き慣れない飛行音も、次第に島の方へ遠ざかっていく。あれほど激しかった追撃が、ぴたりと止んでいた。

 

「……追ってこない?」

 

そう呟いた誰かの声には、安堵よりも戸惑いの方が強く滲んでいた。

 

「なぜだ。浜へ上がったからか?」「陸では、奴らも不利なのでは……」

 

本当の理由を知る者は、誰もいなかった。海の魔物も空の竜も、疲れたから引いたのではない。聖戦軍の祈りが追い払ったのでも、浜に上がったから急に襲えなくなったのでもない。ただ、ライラが止めたというだけのことだった。

 

けれど浜に上がった者達には、それを知る術がない。だから彼らは、その不気味な沈黙を猶予だと受け取った。神が与えてくれた立て直しの時間か、あるいは、海と空の魔物達が払った代償による一瞬の隙なのだと。どう受け取るにせよ、今動かなければ全滅することだけは分かっていた。

 

「負傷者を集めろ!」

 

聖騎士の一人が、声を枯らして叫んだ。

 

「隊列を整えろ! 武装神官は浜に結界を張れ! 船員、まだ動ける者は上陸艇を引き上げろ! 治療術士を呼べ!」

 

浜が、慌ただしく動き出した。けれどそれは、勝った軍の動きではなかった。生き残るための、悲痛な足掻きだった。

 

砂の上に、次々と負傷者が並べられていく。海水を吸った重い外套が脱がされ、鎧の留め具が外されて、震える手で包帯が巻かれた。治療術士達は濡れた薬箱を開き、使えるものと駄目になったものを懸命に分け始める。武装神官達は波打ち際から少し離れたところに聖具を置き、急ごしらえの結界を張ろうとしていた。祈りの声は掠れていたけれど、それでも消えてはいなかった。

 

そして義勇兵達は、目の前の森をじっと見つめていた。

 

あまりにも濃いその森は、砂浜の先に、生きた壁のように広がっていた。背後で海が轟いているせいか、その森は不自然なほど静まり返って見えた。

 

海は彼らを殺そうとし、空は彼らを引き裂いた。そして浜の先では、沈黙した森が待っていた。

 

◆

 

家の最上階の指揮所で、ライラは光の面を見つめていた。

 

淡い光の中には、海と浜と森のすべてが映し出されていた。沖へ静かに戻っていく海の子達の反応と、高い空へ離れていくワイバーン達の気配。浜へ上がった聖戦軍と、海に漂う無数の人間達。救助や避難のために浜へ寄せようとする船の動きも、そこには見えていた。

 

第一防衛線は、これで終わった。少なくとも海と空の子達の役目は、ここで一度終わる。

 

ライラは、光の面にそっと手を置いた。

 

「海の子達、戻って。空の子達も、深追いしないで。浜に上がった人は追わない」

 

どこまでも静かな声で、けれどそれは、絶対の決まりだった。

 

「怪我した子から、リィナのところへ」

 

別の光の面には、後方の処置場所が映し出されていた。ワイバーンが降りられるだけの広さのある、開けた岩場と草地で、入り江へつながる水路も確保してある。そこでは雪フクロウ達が冷気を纏って待っていて、ダエオドンが低く鼻を鳴らしていた。主任は、もうたくさんの水と布と道具を用意してくれていた。

 

第一防衛線に出た子達は、みんなタフだった。ライラは危ないと思えばすぐに下がらせていたし、無理はさせていない。大きな裂け傷や、動けなくなるほどの重い傷は、ほとんどなかった。

 

それでも、それで終わりではなかった。聖戦軍の反撃は、確かに彼らの身体を削っていたのだ。聖水と聖具、聖印付きの矢、祈りを込めた槍、神聖術の光、そして対魔の結界。どれもがファミリア達の身体に、痛みを残していた。普通の回復ではどうしても抜けない異物の光で、この世界の祈りの形を知っている者でなければ、ほどくのが難しかった。

 

だからそこには、リィナが要るのだ。

 

「みんな、帰ってきて」

 

ライラは、もう一度だけ言ってから、小さく付け加えた。

 

「――ありがとう」

 

兵器へ向ける言葉ではない。家を守ってくれた子達へ向ける、心からの言葉だった。

 

◆

 

私は、シルヴィアと一緒に後方の処置場所へ戻っていた。

 

シルヴィアが地面へ降りると、周りの草が大きく揺れた。けれどその着地は、驚くほど静かだった。私を揺らさないように、翼の角度も足の置き方も、いつも以上に慎重にしてくれているのが分かった。

 

背から降りると、膝がわずかに震えた。第一防衛線のあいだ、私はずっと空にいたのだ。最後の勧告から、海と空の凄惨な戦い、そして浜への上陸まで、すべてを見続けていた。身体よりも、心の方がすっかり疲れ果てていた。

 

けれど、休むわけにはいかなかった。目の前には、傷を負って戻ってきたファミリア達がいる。

 

雪フクロウ達が冷気を纏わせて、傷ついた翼や鱗の熱を鎮めている。ダエオドン達は低く鼻を鳴らしながら、周りに治癒の力を満たすように立っていた。体力は戻りつつあって、裂けたところも塞がっている。けれど私には、まだ残っているものがあると分かっていた。

 

「傷は閉じています。でも、聖印が残っていますね。このままだと、飛ぶたびに痛みます」

 

私は、ライトニングワイバーンの翼膜にそっと手を伸ばした。翼の端に、白い光の細い筋が刺さるように残っている。じっとしてくれているワイバーンに、私は静かに手をかざした。

 

神聖術を、力任せに打ち消すのではなく、ほどいていく。何が刻まれていて、どう働いているのかを読み取ってから、要らない棘だけを一本ずつ外していく。

 

翼膜の上に、祈りの名残と敵意の形が、薄い光になって浮かび上がった。聖なるものとして放たれたはずの力が、今はワイバーンの身体を内側から苛む、理不尽な痛みになっていた。

 

「少しだけ、我慢してくださいね」

 

小さく声をかけて、指先から細い術式を滑り込ませる。白い棘が、翼膜からゆっくりと、確実に抜けていった。ワイバーンが、気持ちよさそうに低く喉を鳴らした。

 

次は、ダンクルオステウスだった。入り江の浅瀬に、巨大な頭が半分だけ浮かんでいる。その顎の端に、聖水の焼け残りのような白い跡があった。海水では流れず、雪フクロウの冷気でも消えない、神聖術の癖が染み込んだしつこい痛みだった。

 

「ここですね」

 

水辺に膝をつくと、主任が無言で、足場になる頑丈な板を差し出してくれた。小さく礼を言ってから、私はダンクルオステウスの顎に手をかざした。

 

「体力は戻っています。でも、聖水の焼けが残っていますね。中和します」

 

淡い光が水面に広がっていく。私の術式は、聖水を否定するものではない。祈りの形を優しく読み解いて、ファミリアの身体に残らないよう、外へきれいに流していく。白く残っていた跡は、少しずつ薄れていった。

 

トロペオグナトゥスも来た。投槍がかすめたときの、聖具の反応が鞍に残っている。金属のような装備の表面に、白い火花のような乱れが時折走っていた。

 

「ここは……装備そのものより、触れた術式が残っていますね。外せます」

 

私は、いつも以上に慎重に術式を組んだ。直接触れすぎないように、装備の働きを乱さないように気をつけながら、そこに絡みついた聖具の反応だけを丁寧に剥がしていく。細い光が、糸のようにほどけていった。

 

クリスタルワイバーン達の鱗にも、結界の反発が残っていた。エンバーの赤熱する鱗の隙間の白い抵抗と、トロピカルの翼の付け根の歪み、ブラッドの赤黒い光の奥に絡みつく祈りの圧。私は一頭ずつを見つめて、焦らずに、確実にほどいていった。

 

「傷は閉じています。でも、ここに残っています。このままだと、飛ぶときに痛みますから、私が外しますね。少しだけ、我慢してください」

 

同じような言葉を、何度も何度も繰り返した。

 

ファミリア達は、私を一度も責めなかった。神聖術に焼かれ、聖具に痛みを残されても、彼らはまっすぐに私を見つめていた。それが、たまらなく苦しかった。人ではなく船を狙い、殺さずに止めると決めたから、彼らはこんなにも難しい戦い方をしてくれたのだ。そして、誰ひとり欠けることなく戻ってきてくれた。それは救いで、同時に、胸が引きちぎれるほど苦しいことでもあった。

 

シルヴィアは、ずっとそばにいた。私が一頭ずつ処置するたびに、その後ろでじっと見守っていて、私が少しでもふらつくと、すぐに大きな鼻先で支えようとしてくれた。

 

「大丈夫です」

 

そう声をかけても、シルヴィアは信じていないように、心配そうに喉を鳴らしていた。

 

◆

 

処置がひと段落した頃、私はもう一度立ち上がろうとした。

 

「第二防衛線は……上陸した方々の動きも見なければ。森は見通しが悪いですし、私に分かることも――」

 

その瞬間、胸元の魔道具が鋭く震えて、ライラの声が届いた。

 

『リィナ、寝て』

 

短い言葉に、私は息を止めた。

 

「でも、ライラさん」

 

『ここからしばらくは動かない。必要になったら起こす』

 

ライラの声は静かで、いつもの柔らかさもあった。けれど、絶対に譲る気のない声だった。

 

『今寝ないと、あとで動けなくなるよ』

 

私は、必死に言葉を探した。休んでいるあいだに何かが起きたら、森へ進む者達がいたら、浜の治療所が攻撃されたと誤解されたら。考えれば考えるほど、休むことが怖かった。

 

けれど、シルヴィアが鼻先で、私の肩をぽんと押した。

 

「シルヴィアさん?」

 

もう一度、肩を押し戻される。軽くだけれど、拒むことは許さないという、はっきりとした力だった。雪フクロウが静かに翼を広げて、ひんやりとした空気が周りを包み、ダエオドンが早く座れと言いたげに、不満そうに鼻を鳴らす。主任は、いつの間にか敷布を用意して待っていた。

 

それを見て、少しだけ笑いそうになった途端に、全身から力が抜けた。

 

「……分かりました。少しだけ」

 

『うん。少しだけでもいいから、寝て』

 

シルヴィアが、私のすぐそばに伏せた。見張るように、守るように、そして絶対に逃がさないように。

 

敷布に座って横になっても、完全に安心できたわけではなかった。壊れていく船の音や、海に落ちた人達の叫び、自分が口にした拒絶の言葉が、頭の奥で渦を巻いている。それでも、まぶたは耐えがたいほど重かった。すぐそばにシルヴィアの温かい気配があり、雪フクロウの冷気が、熱を持った頭を静かに冷ましていく。眠ったというより、糸が切れるように、私は意識を手放した。

 

◆

 

海の上は、まだ地獄だった。

 

第一防衛線は終わったけれど、この海域の流れは速く、波は重かった。ファミリア達がいなくても、壊れた船材や燃え残った帆が不規則に漂う海は、それだけで脅威だった。そこに、数えきれないほどの人間が落ちていた。鎧を着た兵士に聖具を抱えた神官、船員、義勇兵、治療術士。彼らは、魔物に食われてはいなかった。ライラの言いつけどおり、メガロドンもモササウルスも、誰も噛まなかったのだ。

 

けれど、海は待ってくれない。波が顔を叩き、海水が口に入り、鎧は水を吸い、濡れた衣が身体に絡みつく。手を伸ばした仲間が、次の波で無慈悲に消えていく。

 

「掴まれ!」「こっちだ!」「流されるぞ!」

 

救護の手立てを整えようにも、船団は分断され、海流は容赦なく船を横へ押していく。第一防衛線で命を落とした者の多くは、魔物に食われたのではなく、船から落ちて流され、沈んでいったのだった。

 

だからこそ、海の上の者達は判断を変えるしかなかった。沖へ戻るより、浜へ寄せた方が、まだ助かるのだと。

 

「浜へ寄せろ!」

 

撤退しようとしていた船の船長が、声を張り上げた。

 

「撤退は後だ、先に拾え! 沈むぞ、陸へ上げろ!」「治療術士を浜へ! 船の上では手が足りない! 漂流者を見捨てるな!」

 

こうして、浜へ逃げ込もうとする船が次々に増えていった。進軍のためではなく、ただ生きて人を救うために。

 

◆

 

ライラは、そのすべてを指揮所から見ていた。

 

リィナは休んでいて、シルヴィアもそのそばについている。だから指揮所には、ライラが一人で静かに立っていた。淡い光の面には、近づいてくる船の動きがはっきりと映し出されていた。漂流者を拾う船も、負傷者を下ろそうとする船も、治療術士を浜へ送る船もある。ライラは、すぐには攻撃を命じなかった。

 

「あれは助けてる船、外して。浜で治してる人達も、そのまま。海に落ちた人を拾ってるなら、見てるだけ」

 

治療している者も、人を助けている者も襲わない。それが、彼女の引いた線だった。けれど、とライラは少し声を低くして続けた。

 

「でも、森へ進むなら止める」

 

光の面の中に、浜の奥へ集まり始めた武装した一団の反応があった。盾を持ち、槍を構え、隊列を組んで、森へ向かおうとしている者達だった。

 

「武器を持って奥へ行くなら、そこから」

 

森は沈黙していたけれど、その沈黙の中には、数えきれないほどのファミリア達の気配が、音もなく潜んでいた。

 

◆

 

浜は、いつの間にか最前線であると同時に、巨大な救護所にもなっていた。

 

治療術士達が砂の上に布を広げて神聖術を施し、神官達が急ごしらえの結界を張る。船員達は、漂流者を必死に砂浜へ引きずり上げていた。亡くなった兵には布がかけられ、誰かが祈り、誰かが泣き、誰かが海を睨みつけて怒鳴っている。浜は、混乱の極みにあった。

 

それでも、ファミリア達は一度も襲いかからなかった。森は動かず、海は追わず、空も降りてこない。その沈黙を、聖戦軍の者達はそれぞれ、自分を支える言葉で受け止めた。神の守りだ、聖なる結界が効いているのだ、魔物どもは力を使い果たしたのだ、と。

 

本当は、まったく違っていた。ファミリア達はライラの言いつけを守って、ただ静かに待っているだけだったのだ。

 

◆

 

やがて浜の中で、部隊がはっきりと分けられた。

 

負傷者と救助の者達は浜に残り、第一陣の生き残りの戦える部隊が前へ出る。聖騎士と武装神官と義勇兵。誰もが疲れきり、濡れて、恐れていたけれど、それでも武器を握りしめて、進む者達の側に立っていた。

 

聖騎士団長が、森を睨みつけた。

 

「海ではやられた。だが、ここは陸だ。盾を並べられる。槍を構えられる」

 

「森の中に、何がいるのでしょうか……」

 

若い兵の震える問いに、答えられる者はいなかった。分からなくても、進むしかなかった。魔王の拠点は森の奥にあり、そこにすべてを統べる主人がいると信じているから、彼らは足を止められなかったのだ。

 

前に聖騎士、その後ろに武装神官、左右に義勇兵、最後尾に弓兵。できる限りの隊列を組んで、彼らは沈黙する森へと足を踏み入れた。

 

◆

 

ライラは、宙に浮かぶ光の面を静かに見つめていた。

 

そこに映っているのは、ひとつの統制された軍隊ではなかった。草の陰に木の上、倒木の裏、湿った岩場、水辺、枝の隙間。ありとあらゆる死角に、それぞれの子達が息を潜めていた。

 

「まだだよ」

 

光の面に向かって、ライラは小さく呟いた。森の縁に近い下草の中で、ユタラプトル達の反応がわずかに揺れる。走り出せば一瞬で浜まで届く距離だったけれど、彼らはライラの言葉を守って、まだ動かなかった。

 

「見てて。浜では動かないで」

 

別の場所では、デイノニクス達が低く身を伏せていた。鋭い爪を地面に立て、太い木の根の影に紛れて、獲物が森の奥へ深く足を踏み入れるのを、じっと待っている。

 

ライラはその細かな反応を、ひとつずつ指先で確かめていった。

 

「森に入ってから」

 

ダイアウルフ達は、もう風下へ回っていた。群れの形は少しも崩していないのに、聖戦軍の目に入る場所には決して姿を見せない。草と木々の濃い匂いの中に気配を溶かして、ただ静かに息を潜めていた。

 

太い幹の陰には、ダイアベアの重い反応があった。そのさらに奥にはカルノタウルスの反応があり、もっと暗い木陰の深いところには、メガロサウルスが眠っているかのように、静かに深く伏せていた。

 

大きい子達は、まだ奥にいる。最初から前に出せば、その圧倒的な力で、浜まで一気に押し潰してしまうかもしれない。今必要なのは蹂躙ではなく、止めて、ばらばらにして、家の方へは決して進ませないことだった。

 

「大きい子達は、まだ待って」

 

その声に応えるように、森の奥の巨大な反応が、さらに深く闇の中へ沈んでいった。

 

◆

 

木々の枝のあいだには、小さな反応がいくつも散らばっていた。ミクロラプトルにディモルフォドン、メソピテクス。

 

彼らは小さくて、聖騎士の頑丈な盾を正面から壊すような力はない。けれど、この見通しの悪い森の中で、目を乱し、音を散らし、前と後ろの連絡を断ち切るには、十分すぎるほどだった。

 

「小さい子は、前に出すぎないで。無理しないでね」

 

下草の奥ではディロフォサウルス達が静かに待ち、岩場にはプルモノスコルピウスの硬い反応があった。湿った草の下には、長大なティタノボアの影が、ほとんど動かずに横たわっている。水辺にはカプロスクスとバリオニクスが、ぬかるんだ泥地にはベールゼブフォがいた。

 

この島の森には、道があるようで、ない。乾いた地面もあれば、一瞬で足を取る底なしの泥もある。浅い水場も、張り巡らされた見えない根も、苔で滑る岩もある。人間の軍が隊列をきれいに保ったまま進むには、最悪の地形だった。

 

「逃げるなら、浜へ戻して。家の方へ行くなら止めて。殺さなくていい。ばらばらにして」

 

◆

 

それから、ライラは少し離れた光の面へ目を移した。高い木の上に、ひときわ静かで、揺るがない反応があった。

 

古参のティラコレオ、赤枝だった。

 

普段は家の梁や、日当たりのいい高い木の上で眠っていることが多い子だった。古い鞍と古い傷があり、まだ家が小さかった昔、迷子になった赤枝を見失わないようにと、ライラがつけてやった小さな目印も残っている。

 

今も赤枝は、高い枝の上に低く伏せていた。鋭い目で森の奥を見つめながら、下にいる小さな子達の動きも見守っている。聖戦軍が進む道も、彼らが恐慌に陥って逃げていく先も、すべてを見渡せる場所だった。

 

「赤枝」

 

ライラは、懐かしいその名前を呼んだ。

 

「小さい子達を見てて」

 

光の面の中で、赤枝の長い尾がゆっくりと揺れた。

 

「でも、自分も帰ってきて。危なかったら、戻っていいからね」

 

ライラの声が、ほんの少しだけ、元の優しい少女の柔らかさに戻った。赤枝は鳴かずに、もう一度、返事のように尾を揺らしただけだったけれど、ライラにはそれで十分だった。

 

森は、まだ動かなかった。けれどその不気味な沈黙の中で、配置はもう終わっていた。

 

聖戦軍は、敵はいないと思い込んでいた。あるいは、海と空の凄惨な戦いで、島の魔物達は力を使い果たしたのだと、そう信じようとしていた。けれど森は、ただ静かに待っているだけだった。ライラが「まだだよ」と言ったから。そして、武器を持った侵入者達が、もう引き返せないほど森の奥へ入り込むその時を、待っていたのだ。

 

◆

 

時間は、静かに過ぎていった。

 

昼のあいだ、浜では負傷者の治療が続き、森は少しも動かなかった。夕方になると、壊れた船材で浜に火が灯され、煙が低く流れたけれど、大きな襲撃は来なかった。夜は交代で見張りを立てながら、兵達は怯えて眠った。それでもやはり、魔物の大襲撃は来なかった。

 

朝が来ても、森は静かだった。鳥の声が少しだけ聞こえたことが、かえって彼らの恐怖を薄れさせた。ここは地面の上だ、戦える。そんな空気が、聖戦軍の中に少しずつ戻っていった。

 

島の側でも、同じように時間は過ぎていた。リィナは眠り続け、シルヴィアはそのそばに伏せ、第一防衛線から戻ったファミリア達も落ち着きを取り戻していた。

 

ライラだけが、ずっと起きていた。淡い光の面に囲まれたまま、静かに森を見つめ続けていた。聖戦軍は敵が引いたのだと思っていたけれど、違う。何も起きなかったのではなく、起こさなかっただけなのだ。

 

◆

 

目を覚ましたとき、最初に見えたのはシルヴィアの顔だった。

 

あまりの近さで、大きな瞳がじっと私を覗き込んでいて、私は一瞬だけ固まった。

 

「……シルヴィアさん」

 

シルヴィアが、低く喉を鳴らした。ほっとしたようでもあり、まだ寝ていろと叱っているようでもある。身体を起こそうとすると、大きな鼻先で肩を軽く押し戻された。

 

「起きます。起きますから」

 

苦笑しながらも、どうにか上体を起こした。頭はまだ少し重いけれど、眠る前よりは、ずっと考えがはっきりしている。私はすぐに、魔道具へ手を伸ばした。

 

「ライラさん、状況は?」

 

『まだ、始めてないよ』

 

その言葉の意味が、一瞬分からなかった。

 

「……まだ?」

 

『うん。待ってた。浜の人達は、治療と救助をしてる。海で人を拾ってる船もある。そこは見てるだけ。最初に上がった人達が、これから進む。そこから』

 

私は、静かに目を閉じた。ライラは、二つに分かれるのを待っていたのだ。浜で救助をする人達と、武器を持って森へ進む人達とに。

 

「浜の治療所は……」

 

『見てるだけ。進まないなら、何もしない』

 

その言葉に、胸が少しだけ緩んだ。けれどすぐに、第一防衛線の冷たい現実が頭をよぎった。食べられた人はいないけれど、それでも助からなかった人達は、海に沈んだ人達は、確かにいるのだ。

 

「食べられなかった。でも、助からなかった」

 

小さく呟いたのは、誰に向けた言葉でもなかった。私の胸に残り続ける、冷たい事実だった。

 

魔道具の向こうで、ライラは少し黙ってから、静かに言った。

 

『うん』

 

短い返事だったけれど、それは、その事実を一緒に背負ってくれるような、重い声だった。

 

◆

 

第一陣の生き残りの部隊が、森の奥へ入っていった。

 

最初のうち、彼らは慎重だった。聖騎士達は盾を構え、武装神官は聖具を掲げ、義勇兵達は左右を見張りながら、ゆっくりと進んでいく。けれど森は静かで、咆哮も突撃もなかった。鳥の声が聞こえ、枝のあいだから朝の光がきれいに落ちているだけだった。

 

隊列は、少しずつ不自然に伸びていった。前と後ろの距離が開き、荷物を運ぶ者達が遅れ、伝令が前後を走り回る。森が、音もなく彼らを呑み込み始めていた。

 

ライラは、それを見ていた。反応の群れが、もう浜へは戻れない距離まで入り込んでいく。ライラは、第二防衛線の子達へ静かに声を送った。

 

「浜は、見てるだけ。森に入った人達だけ。戻るなら追わない。家の方へは行かせない。殺さなくていい。――ばらばらにして」

 

森の沈黙が、わずかに、けれど決定的に変わった。ユタラプトルの群れが音もなく位置を変え、デイノニクスが低く走り、赤枝が枝の上で身を沈め、ダイアウルフ達が風下へ回る。彼らはまだ、襲わなかった。ただ、それぞれの持ち場についただけだった。

 

最初の異変は、あまりにも小さく、静かだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。