廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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初心者サバイバーだった頃を思い出しながらお読みください。



森の目

最初に消えたのは、聖水袋だった。

 

荷物係の義勇兵は、自分の腰へ手を伸ばした。聖水を含ませた布と、予備の護符を入れておいた小さな革袋。森へ入る前、確かに紐を結び直した。何度も触って確認したはずだった。

 

それが、影も形もない。

 

「……あれ?」

 

思わず足が止まる。後ろを歩いていた兵が、危うくその背にぶつかりかけた。

 

「どうした」

 

「聖水袋が……ない。さっきまで、確かにあったんだ」

 

言い終えるより早く、別の場所で次々と声が上がった。

 

「信号笛がない!」 「薬袋の紐が切られてる!」 「地図筒の蓋が開いているぞ!」 「包帯が……何でこんなところに引っかかっているんだ!?」

 

兵達の視線が、一斉に上へ向く。 木の上で、小さな影が鳴いた。甲高く、短く、どこか人をあざ笑うようにも聞こえる声。

 

メソピテクスだった。枝の上に座り、こちらをじっと見下ろしている。その少し下では、ペゴマスタクスが聖水袋を抱えたまま、葉の奥へ消えようとしていた。

 

「小型だ!」「追え!」

 

「待て、追うな!」 すぐに聖騎士の鋭い制止が飛んだ。 「隊列を崩すな! 荷物を内側へ! 小型に構うな、前を見ろ!」

 

判断は早かった。森で小さな影を追えば、確実に隊列が崩れる。追った者は枝と下草に紛れ、仲間から離れ、別の何かに狙われる――それを聖戦軍の指揮官達は正しく理解していた。彼らは決して無能ではない。海と空で一方的に削られた後でも、まだ部隊を保とうとする判断力が残っていた。

 

だが、盗みは止まらなかった。 少し前まで腰にあった聖水袋が消える。伝令の笛が消える。地図筒の中身が一枚だけ抜かれている。結界杭を入れた袋が軽くなり、矢筒の中から、聖印付きの矢だけが何本か消えている。

 

全部ではない。根こそぎではない。少しずつ。必要なものから。使われたら厄介なものから。 森は、軍の手足を一本ずつ外すように、静かに、確実に彼らの資産を奪っていった。

 

「偶然じゃない……」 武装神官の一人が、青ざめた顔で呟いた。 「見ている。こちらの荷物を、役割を、個別で見分けているんだ」

 

その言葉に、周囲の兵達が息を呑む。 森は殺しに来ない。けれど、進ませもしない。その不気味な事実が、まだ姿を現さないまま、聖戦軍の背筋を冷たく撫でまわしていた。

 

 

その頃、リィナは目を覚まし、拠点最上階の指揮所へと合流していた。

 

周囲に浮かぶ淡い光の面には、森の中へ入った聖戦軍の反応が克明に浮かび上がっている。前衛、後衛、荷物隊、伝令、治療術士。そして、それらを取り囲むように散る、小さなファミリア達の反応。

 

「小さい子、近づきすぎないで。追わせるだけでいいよ」

 

ライラは光の面 を見つめたまま、静かに指示を送る。メソピテクスやペゴマスタクスの反応が、素早く葉の奥へ消えていく。

 

「地図と笛、先に。火をつける道具は取って。武器は、まだ無理しないで」

 

彼女の声は、どこまでも淡々としていた。けれど、それは冷酷だからではない。線を引いているだけなのだ。進軍に使うもの、森を焼くかもしれないもの、結界を張るためのもの、合図の道具。それらは容赦なく奪う。

 

けれど、治療に直結するものは違う。リィナは光の面を見つめながら、ライラへ声をかけた。

 

「ライラさん、荷物隊の中央に治療術士用の箱があります。薬と包帯が入っているはずです。あれは全部取らないでください」

 

『うん』

 

「信号具を奪うと、彼らは口頭の伝令に頼るようになります。伝令が増えれば隊列が伸びて隙が生まれます。地図も、全部奪うと混乱しすぎて浜へ戻れなくなるかもしれません。一部だけに留めてください。ただし、負傷者用の薬と包帯は、彼らのために残してください」

 

ライラは光の面を見つめたまま、少しだけ頷いた。

 

「薬は半分残して。包帯は外して。聖水は危ないから取って。治すだけの人は、見てるだけ」

 

私は、少しだけ息を詰めた。 これは、私自身が彼らの構造を分析して構築した防衛作戦だ。死なせないための、冷たい選別。進軍能力、攻撃力、防御展開に関わるものだけを奪い、医療物資は残す。

 

それは歪んだ優しさでもあり、あまりにも合理的な判断だった。けれど、当然ながら聖戦軍にその真意が見えるはずもない。

 

ライラとリィナは今、相手を殺さないために、相手を恐怖させる作戦を取っている。その矛盾に胸が痛むが、彼らの進軍を止めるには、これしかなかった。

 

 

聖戦軍は、すぐに対応した。 「荷物隊を中央へ! 盾を寄せろ! 弓兵、上を見ろ!」 「神官、荷物の周囲に簡易結界を!」

 

聖騎士達が荷物隊を囲うように盾を並べ、武装神官が聖印を刻んだ小さな札を地面に置いて祈祷句を唱える。

 

その構えは決して甘くはなかった。ペゴマスタクスの一体が聖水袋を取りに近づいた瞬間、地面に置かれていた聖印が白く弾けた。

 

「ギィッ!」 小さな悲鳴を上げ、ペゴマスタクスが飛び退く。前足の先に白い焼け跡が残った。すぐに草むらへ消えようとするが、今度は弓兵が鋭く反応し、放たれた矢がメソピテクスの肩を浅くかすめて血が滲む。

 

「当たった!」「逃がすな!」

 

「追うなと言ったろう!」 指揮官の怒号が飛ぶ。その間にも、別の枝ではディモルフォドンが伝令札を奪おうとして、神聖術の光に弾かれていた。

 

聖戦軍は抵抗できている。彼らの武器も聖具も、当たればファミリア達を確かに傷つける。森の子達だって無傷ではない。

 

けれど、彼らが一つを守れば、別の場所で何かが確実に消えた。小さな影を追い払えば反対側で笛が消え、荷物を囲えば伝令が孤立する。 森は、正面から押し潰しには来なかった。ただ、彼らが「軍」の形を保つために必要な機能だけを、執拗に削り取っていく。

 

 

聖水袋を奪われた若い義勇兵は、しばらく動けなかった。 それはただの水ではない。魔王の島へ入る前、神官から『恐れた時は、これを握って祈れ』と渡された、心を支えるための絶対的な守りだった。

 

それが、ない。

 

「返せ……」 彼は、木の上を見上げてぽつりと呟いた。 「返せよ……それがないと、近づかれた時に、俺は……!」

 

「落ち着け!」 隣の兵が慌てて肩を掴む。

 

「聖水を奪われた! 予備を! 誰か、予備をくれ!」

 

「落ち着け! 聖水だけが守りではない! 盾を見ろ、神官を見ろ、隊列を乱すな!」

 

指揮官の叱咤は正しかった。だが、人は正論だけで恐怖をねじ伏せられるわけではない。 精神の拠り所 を奪われた瞬間、彼らの視線は前ではなく、周囲の死角へと完全に散り始めた。

 

木の上、草むら、倒木の裏。どこかに潜む小さな影が、次は自分の何を奪うのか。聖水を失った者達の視線が、少しずつ、確実に乱れていく。それは前へ進む軍の目ではなく、見えない恐怖に怯える群れの目だった。

 

 

次に乱れたのは、「声」だった。 信号笛が足りず、小旗の紐も切られ、伝令札もいつの間にか消えている。その結果、彼らは口頭伝令に頼らざるを得なくなった。

 

「前方、速度を落とせ!」 伝令が叫びながら走る、その足元へ影が落ちた。

 

ミクロラプトルだった。小さな身体が横から飛び出し、伝令の足へ絡みつく。殺すためではない、ただ転ばせるための一撃。 伝令が派手に倒れた拍子に、手にしていた札が地面へ落ちる。そこへ枝の上からディモルフォドンが急降下し、札をくわえて一瞬で飛び去った。

 

「伝令札が!」「上だ、上を撃て!」

 

弓兵が弓を向けるが、その瞬間、別の方向から声が響いた。 「前進だ!!」

 

兵達が混乱して顔を向ける。 「違う、止まれ!」「誰が言った!?」 「後方から撤退命令が――」 「そんな命令は出していない!」

 

森の中で、人間の声が不気味に反響する。枝上のメソピテクスが、短く鳴き声を上げた。人の声に似ているわけではない。だが、焦りと枝葉のざわめきの中では、どこから何が聞こえたのか分からなくなるのだ。

 

本物の命令、聞き違い、焦り。それらが混ざり合い、軍の声が少しずつ濁っていく。隊列は辛うじて保たれているが、命令が届く速度は致命的に落ちていた。そして、森の中での命令の遅れは、そのまま致命的な隙となる。

 

 

物資と声が乱れた後、森は「隊列」そのものへ触れ始めた。

 

最初に姿を見せたのは、ユタラプトルだった。 前衛から少し離れた位置を、素早い影が駆け抜ける。襲ってこない。ただ見せる。追える位置に、わざと出る。

 

「横だ!」「追え!」 義勇兵の数人が反応しかけた。

 

「追うな!」 聖騎士が即座に怒鳴りつける。 「横に出るな! 隊列を維持しろ!」

 

その判断は正しい。だが、正しい判断を強制され続けることもまた、兵達の精神を極限まで削っていく。目の前で敵が逃げているのに、追えない。その苛立ちが、隊列の中に澱のようにたまっていった。

 

別の場所では、ディロフォサウルスが下草の奥から顔を出し、大きな襟を広げて粘ついた毒液を放った。

 

「目だ!」「顔をかばえ!」

 

神聖術の光が飛び、ディロフォサウルスはすぐに下草へ引くが、その一瞬で彼らの視界が乱れる。そこへミクロラプトルが飛び込み、伝令がもう一人転ぶ。

 

さらに前方では、デイノニクスが盾役の聖騎士へ飛びついた。狙ったのは喉ではない。盾を持つ腕、肩、膝。殺すためではなく、盾を支える革紐を確実に引き裂き、立てなくするための一撃。

 

「ぐっ!」 聖騎士が踏みとどまり、突き出された槍がデイノニクスの肩を浅く裂いた。赤い血が飛ぶが、デイノニクスは無理をせず、そのまま身をひねって鮮やかに離脱していく。

 

「逃げたぞ!」「追うな!」 また怒号が飛ぶ。その上空から、枝を大きく揺らしてティラコレオが落ちてきた。

 

指揮官のすぐ近くだった。大きな身体が地面へ着地し、湿った土を豪快にえぐる。爪が振るわれるが、それは首ではなく、指揮官の剣帯と盾の吊り紐だけを正確に断ち切った。

 

指揮官が一瞬、体勢を崩す。ティラコレオは追撃せず、すぐに木の幹を蹴って上空の枝へと戻っていく。まるで、落ちてきた影が森へ吸い込まれたようだった。

 

「なぜ……なぜ殺さない……」 誰かが震える声で呟いた。 「武器だけを正確に狙っている……!」

 

「隊列を崩すな! 上だ、上を見ろ!」

 

森は殺しに来ない。だが、進ませもしない。その奇妙な一貫性に、聖戦軍は少しずつ気づき、恐怖を深め始めていた。

 

 

森のファミリア達は、決して無暗に姿を見せるわけではなかった。一瞬だけ見せて、消える。 木の上に目がある。草の奥で鼻息がする。進路の横に、いつの間にか足跡が並んでいる。遠くでダイアウルフの遠吠えが響き、その声は部隊の周囲をゆっくりと包囲するように回っていた。

 

兵達は、戦っているというより、「観察されている」と感じ始めていた。こちらの動き、荷物の位置、誰が命令を出し、誰が怯えているのかを、すべて見透かされているのだ、と。

 

「魔王が見ている……」 若い神官が、かすれた声で呟いた。 「この森全体が、魔王の目なのだ」

 

実際、ライラとリィナは見ていた。淡い光の面越しに、森の動きも、彼らの進路もすべて。 だが、それは魔王としてではない。自分の子達が無理をしていないか、傷ついた子が下がれているか、それだけを確認するために、ライラは光の面 を見つめていた。聖戦軍の恐怖と、ライラの意図は、どこまでも決定的にすれ違っていた。

 

 

高い枝の上で、古参のティラコレオ――赤枝は静かに身を伏せていた。 古い鞍、古い傷。そして、ライラが昔つけた小さな目印。彼は森の中でも一番良い場所から、聖戦軍の前衛も、小さな子達の動きもすべて見下ろしていた。

 

ペゴマスタクスの一体が、聖水袋を抱えたまま深く入りすぎそうになった瞬間、赤枝が低く鳴いた。ただ、それだけだった。だが、その声を聞いた小さな影は、すぐに進路を変えて身を引く。 若いデイノニクスが、倒れた聖騎士をさらに追おうとした時も、赤枝が短く鳴くと、爪を引いて盾だけを蹴って離れた。

 

「赤枝、ありがとう」 ライラの声が、私の横でほんの少しだけ柔らかくなる。 「まだ無理しないで。小さい子達を見てて。でも、自分も帰ってきてね」

 

高い枝の上で、赤枝の尾がゆっくり揺れた。確かな信頼の返事だった。

 

私は、光の面に映る赤枝を見つめていた。戦場の中でさえ、その子はただの戦力ではなく、ずっとライラの家にいた大切なファミリアなのだ。

 

森は、ただ静かに待っている。武器を持った者達が森の奥へ入る、その瞬間を。

 

 

聖戦軍も、必死に森の戦いに適応しようとしていた。 「小型には網を使え! 聖印付きの網だ! 近づいたらかけろ!」 「樹上に光の矢を! 荷物隊を中央へ下げろ!」

 

聖印付きの網が広げられ、ペゴマスタクスの一体の前足に白い痕が残る。ミクロラプトルの翼を光の矢がかすめ、デイノニクスの肩に槍が浅く入る。ティラコレオがいた枝が、神聖術の光で白く焦げた。

 

森の子達だって無傷ではない。彼らの祈りは効くし、武器は届くのだ。ライラは、すぐに声を送った。

 

「下がって。無理しないで。怪我した子は奥へ、雪フクロウのところへ行って」

 

「聖印網には触れないでください。あの光の干渉はしばらく残ります」 私も、魔道具越しに細かく声を重ねた。

 

「近づきすぎないで」

 

「森は海より視界が悪いです。私にも、すべては追いきれません」

 

私の声には、焦燥と不安が混ざっていた。森は枝葉が多く、反応が重なり、彼ら一人一人の動きまでは読みきれない。それでも、やるしかなかった。

 

「みんな、無理しないで。帰ってきて」 ライラのその言葉は、戦場の命令であり、祈りそのものだった。

 

 

ついに、一人の若い義勇兵が限界を迎えた。 海で仲間を失い、聖水袋を奪われ、見えない影に囲まれ続けた彼の精神は、そこで限界を超えた。

 

「もう嫌だ!!」

 

叫び声を無視して、彼は隊列から飛び出した。森の奥ではなく、海の音がする浜の方へ、必死に走る。草をかき分け、根に足を取られながら、砂浜へ戻ろうとする彼の横に、大きな影が並んだ。

 

ダイアウルフだった。兵士は悲鳴を上げたが、ダイアウルフは噛まなかった。ただ、彼が拠点の方角へ迷い込みそうになると牙を見せ、低く唸って進路を塞いだ。浜へ向かう道だけは、決して塞がない。

 

兵士は震えながら走り続け、ついに森の縁を抜けた。浜の光が見え、治療所が見える。振り返ると、ダイアウルフは森の中に静かに立ち、そのまま森の奥へ戻っていった。

 

「……なぜだ」 兵士は砂の上へ倒れ込んだ。その様子を、少し離れた場所から見ていた聖戦軍の者達に、戦慄が走る。

 

「逃げた者は……見逃すのか?」 「では、我々は何をさせられているんだ。進む者だけが、狙われているのか……?」

 

逃げれば、助かる。その明確な選択肢は、死ぬまで戦えという命令よりも残酷に、兵士達の士気を内側から削り取っていった。

 

 

治療術士もまた、奇妙な違和感に気づき始めていた。 森の中で、盾の紐を切られて転倒した兵を処置している。そのすぐ近くを、ディモルフォドンが鋭い羽音を立てて通り過ぎた。

 

治療術士は息を止めたが、襲ってこない。そのまま通り過ぎていく。その隣にいた弓兵が反射的に弓を構えた瞬間、枝の上からミクロラプトルが飛びかかり、弓兵は倒されて矢が地面へ落ちた。

 

「治療している者は……明確に見逃されている?」 「いや、魔王の罠だ。こちらの役割を見ているのか?」

 

武装神官の一人が、顔を強張らせた。 「これは慈悲ではない。選別だ。魔王は、我々を弄んでいるんだ」

 

その言葉は、底知れぬ恐怖と共に広がっていった。 実際に、私達は見ていた。けれどそれは選別ではない。治療している者を襲わせないため、弓を構えた者を止めるため、逃げる者を戻すための、ただの「線引き」だった。

 

 

昼の後半になった頃、聖戦軍の一部は、まだ自分達が「戦えている」としていた。小型を追い払い、ラプトルを退け、武器が届いたからだ。「陸なら進める」と。

 

だが、指揮官は冷徹に気づいていた。進めていないのだ。 朝から進んだ距離は予定の半分にも届かず、伝令は遅れ、地図は失われ、物資も結界杭も激減している。死者は少ないが、軍としての機能が確実に削ぎ落とされていた。

 

「これは……足止めか」

 

指揮官が呟くと、隣の武装神官が森の奥を睨みつけた。 「違います。誘導です。我々は、討たれているのではない。崩されているのです」

 

森は、彼らを殺していない。ただ、軍ではなくしているのだ。進むたびに物資が減り、隊列が伸び、声が乱れ、判断が鈍る。その底知れぬ意図に気づいた時、指揮官の背に冷たい汗が流れた。

 

 

指揮所の光の面を、私はじっと見つめていた。自分が今、何をしているのかは痛いほど分かっている。

 

森の子達は、人を殺さないように動いている。ライラは逃げる者を追わせず、治療している者も襲わせない。

 

私は、魔道具を握る手に力を込めた。 「殺さずに止めるなら、命ではなく、進む力を削るしかありません」

 

声は静かだった。けれど、自分自身を傷つけるような、酷い痛みを伴っていた。

 

「物資、合図、隊列、判断力。進めばそれらを失う。進めば軍としての形を保てなくなる。そう思わせなければ、あの方々は止まりません」

 

リィナは、光の面に映る森を見つめた。

 

「……それが、誰も死なせないための、一番ましな方法ですから」

 

ライラは、少しだけ沈黙した。それから、ぽつりと言った。 「それ、リィナが一番嫌いそう」

 

私は目を伏せた。「はい」

 

「でも、やるの?」

 

問いかけに責める響きはなかった。ただ、私の意志を確認する声だった。 私は、光の面 の中の森を見た。武器を失う兵、逃げ帰る者、見逃される治療術士。

 

私は優しかった。だから、こんな残酷な方法が嫌いだった。人を怖がらせることが嫌いだったし、誰かの心を折るために、何を奪えばいいか正確に計算できてしまう自分が、たまらなく嫌だった。

 

それでも、強く唇を噛みしめて答えた。 「やります」

 

ライラはそれを責めず、ただ光の面 へ視線を戻した。「うん。じゃあ、死なないようにする」 その一言が、私の胸に何より重く突き刺さった。

 

 

夕方が近づく頃、森の中で戦闘不能者が本格的に出始めた。大きな傷ではない、だが、動けないのだ。 ディロフォサウルスの液を浴びて視界を失った兵、ベールゼブフォの舌に足を取られて泥に転がった兵、プルモノスコルピウスの尾にかすめられて痺れで動けなくなった者。

 

そこで、回収組が動いた。 アラネオの糸が、落ちた剣へ絡みつき、人間から遠ざける。メソピテクスが短剣を拾って枝の上へ投げ、ダイアウルフが近づいて倒れた兵の匂いを確認する。

 

そして、誰かが水袋を彼らの近くにそっと置いた。 人間を食べない。殺さない。武器を外し、彼らを安全な奥へ運ぶ。それがファミリア側の意図だった。

 

だが、聖戦軍からは、そうは見えない。倒れた仲間が、糸や魔物に引かれて森の奥へ消えていくのだ。

 

「連れて行かれた! まだ生きている!」 「食われるぞ! 助けに行け!」

 

「隊列を崩すな!!」 聖騎士の指揮官が、歯を食いしばって叫んだ。 「今出れば、全員が分断される! 分かっているが、今出れば全員が死ぬんだ!」

 

その命令は正しい。だが、残された兵達の胸には、仲間を見捨てたという痛烈な罪悪感が、静かに沈殿していった。

 

 

ライラは、回収組の生体反応を見ていた。 「倒れてる人は、武器だけ外して奥へ運んで。水、置いて。逃げるなら戻して」

 

私は、複雑な胸中でその光景を見つめていた。ライラは本当に、誰も殺すつもりがない。回収された者達は、ただ戦場の外へ運ばれているだけだ。

 

「あの方々には、分かりません」 私は言った。 「食べられると思うはずです。仲間を助けようとする人が、必ず出ます。それを止められる人ばかりではありません。見捨てたことになる、そう思う人が必ず出るのです」

 

私の表情が晴れることはなかった。危険は消えない、ただ、少しだけ減らせるだけだ。 リィナには分かっていた。この森は殺さない。だが、聖戦軍には「殺される」ようにしか見えない。その決定的なずれは、いつか必ず誰かを無謀に走らせる、と。

 

 

夕方になり、聖戦軍はこれ以上の進軍を諦め、森の中に一時的な夜営地を作るしかなかった。外周を固め、簡易結界を張り、負傷者を内側へ集めて火を焚く。

 

「夜さえ越えれば進める」 「敵は小型と中型が多い。結界と火を切らすな。陸なら、まだ戦える」

 

それは、疲れ切った兵達がどうにか自分達を支えるための希望だった。

 

 

ライラは、その夜営の反応を見つめた。 「止まった」

 

光の面 の中で、彼らの反応が一か所に固まる。ライラは、森の奥へ視線を移した。 「じゃあ、夜の子達、起きて」

 

森の奥で、昼には動かなかったもの達が一斉に目を開けた。 トロオドン、メガロサウルス、ティタノボア。暗い場所で、低い反応がひとつ、またひとつと動き始める。

 

私は、思わず息を呑んだ。 「ここからが、本当の第二防衛線ですね」

 

ライラは、小さく頷いた。「うん」 そして、すぐに繰り返す。

 

「人間を食べない。逃げるなら、追わない。――帰ってきて」

 

夜営地では、聖戦軍が火を囲んでいた。彼らは、夜を越えれば進めると思っている。 火の届かない暗黒の森の奥で、無数の妖しい目が、一つ、二つ、また一つと開いていく。

 

リィナには、分かっていた。 森は、まだ彼らを本気で「眠らせに」来てはいないのだ。

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