最初に消えたのは、聖水袋だった。
荷物係の義勇兵は、自分の腰へ手を伸ばした。聖水を含ませた布と、予備の護符を入れておいた小さな革袋。森へ入る前に確かに紐を結び直したし、何度も触って確かめたはずだった。それが、影も形もなかった。
「……あれ?」
思わず足が止まり、後ろを歩いていた兵が、危うくその背にぶつかりかけた。
「どうした」「聖水袋が……ない。さっきまで、確かにあったんだ」
言い終えるより早く、別の場所でも次々に声が上がった。
「信号笛がない!」「薬袋の紐が切られてる!」「地図筒の蓋が開いているぞ!」「包帯が……何でこんなところに引っかかっているんだ!?」
兵達の目が一斉に上へ向くと、木の上で、小さな影が鳴いていた。甲高く短い、どこか人をあざ笑うようにも聞こえる声だった。
枝の上に座ってこちらをじっと見下ろしていたのは、メソピテクスだった。その少し下では、ペゴマスタクスが聖水袋を抱えたまま、葉の奥へ消えようとしていた。
「小型だ!」「追え!」
「待て、追うな!」
すぐに、聖騎士の鋭い声が飛んだ。
「隊列を崩すな! 荷物を内側へ! 小型に構うな、前を見ろ!」
聖騎士の判断は、誰よりも早かった。森で小さな影を追えば、隊列は確実に崩れる。追った者は枝と下草に紛れて仲間から離れ、別の何かに狙われてしまう。聖戦軍の指揮官達は、それを正しく分かっていた。彼らは決して無能ではなく、海と空で一方的に削られたあとでも、まだ部隊を保とうとする判断力が残っていた。
それでも、盗みは止まらなかった。腰にあった聖水袋が消え、伝令の笛が消え、地図筒の中身が一枚だけ抜かれている。結界杭を入れた袋が軽くなり、矢筒の中からは、聖印付きの矢だけが何本か消えていた。
全部ではなく、根こそぎでもない。少しずつ、要るものから、使われたら厄介なものから順に。森は軍の手足を一本ずつ外すように、静かに、確実に彼らの持ち物を奪っていった。
「偶然じゃない……」
武装神官の一人が、青ざめた顔で呟いた。
「見ている。こちらの荷物も、役割も、一つずつ見分けているんだ」
その言葉に、周りの兵達が息を呑んだ。森は殺しには来ないけれど、進ませもしない。その不気味な事実が、姿を見せないまま、聖戦軍の背筋を冷たく撫でていった。
◆
その頃、私はシルヴィアに乗って、家の最上階の指揮所へ戻っていた。
宙に浮かぶ淡い光の面には、森の中へ入った聖戦軍の反応がはっきりと浮かび上がっていた。前衛と後衛、荷物を運ぶ者達、伝令、治療術士。そして、それを取り囲むように散らばる、小さなファミリア達の反応。
「小さい子、近づきすぎないで。追わせるだけでいいよ」
ライラは光の面を見つめたまま、静かに指示を送った。メソピテクスやペゴマスタクスの反応が、素早く葉の奥へ消えていく。
「地図と笛、先に。火をつける道具は取って。武器は、まだ無理しないで」
その声は、どこまでも淡々としていた。けれどそれは、冷たいからではない。線を引いているだけなのだ。進軍に使うものも、森を焼くかもしれないものも、結界を張るためのものも、合図の道具も、容赦なく奪う。けれど、治療に直結するものは別だった。
私は光の面を見つめながら、ライラに声をかけた。
「ライラさん、荷物を運ぶ一団の真ん中に、治療術士用の箱があります。薬と包帯が入っているはずです。あれは、全部は取らないでください」
「うん」
「信号具を奪うと、あの方々は口で伝える伝令に頼るようになります。伝令が増えれば隊列が伸びて、隙が生まれます。地図も全部奪うと、混乱しすぎて浜へ戻れなくなるかもしれませんから、一部だけにしてください。それから、負傷者のための薬と包帯は、あの方々のために残してください」
ライラは光の面を見つめたまま、少しだけ頷いた。
「薬は、半分残して。包帯は外して。聖水は危ないから取って。治すだけの人は、見てるだけ」
私は、少しだけ息を詰めた。これは、私自身が彼らの仕組みを読み解いて組み立てた守りの作戦だった。死なせないための、冷たい選り分け。進む力と攻める力、守りを張る力に関わるものだけを奪って、手当てのためのものは残す。歪んだ優しさであり、あまりにも理にかなった判断でもあった。もちろん、聖戦軍にその本当の意図が見えるはずもない。
相手を殺さないために、相手を怖がらせる。私達は今、そういう作戦を取っているのだ。その矛盾に胸が痛んだけれど、彼らの進軍を止めるには、これしかなかった。
◆
聖戦軍は、すぐに手を打ってきた。
「荷物隊を中央へ! 盾を寄せろ! 弓兵、上を見ろ!」「神官、荷物の周りに簡易結界を!」
聖騎士達が荷物を運ぶ者達を囲むように盾を並べ、武装神官が聖印を刻んだ小さな札を地面に置いて、祈祷の句を唱える。その構えは、決して甘くなかった。ペゴマスタクスの一頭が聖水袋を取ろうと近づいた瞬間、地面に置かれた聖印が白く弾けたのだ。
小さな悲鳴を上げて、ペゴマスタクスが飛び退いた。その前足の先には、白い焼け跡が残っている。すぐに草むらへ消えようとしたところへ弓兵が鋭く反応し、放たれた矢が、近くの枝にいたメソピテクスの肩を浅くかすめた。
「当たった!」「逃がすな!」
「追うなと言っただろう!」
指揮官の怒号が飛ぶあいだにも、別の枝では、伝令札を奪おうとしたディモルフォドンが神聖術の光に弾かれていた。
聖戦軍は、抵抗できていた。彼らの武器も聖具も、当たればファミリア達を確かに傷つける。森の子達も、無傷ではなかった。けれど、彼らが一つを守れば、別の場所で何かが確実に消えていった。小さな影を追い払えば反対側で笛が消え、荷物を囲めば伝令が孤立する。森は正面から押し潰しには来ないで、彼らが軍の形を保つために要るものだけを、執拗に削り取っていった。
◆
聖水袋を奪われた若い義勇兵は、しばらく動けなかった。
それは、ただの水ではなかった。魔王の島へ入る前に、恐れたときはこれを握って祈れと神官から渡された、心を支えるための守りだったのだ。それが、なくなってしまった。
「返せ……」
木の上を見上げて、彼はぽつりと呟いた。
「返せよ……それがないと、近づかれたときに、俺は……!」
「落ち着け!」
隣の兵が慌てて肩を掴んでも、彼の声は止まらなかった。
「聖水を奪われた! 予備を! 誰か、予備をくれ!」
「落ち着け! 聖水だけが守りではない! 盾を見ろ、神官を見ろ、隊列を乱すな!」
指揮官の叱咤は、正しかった。けれど人は、正しい言葉だけで恐怖をねじ伏せられるわけではない。心の拠り所を奪われた瞬間に、彼らの目は前ではなく、周りの死角へと散り始めた。
木の上に草むら、倒木の裏。どこかに潜む小さな影が、次は自分の何を奪うのか。聖水を失った者達の目は少しずつ、確実に乱れていった。それはもう、前へ進む軍の目ではなく、見えない恐怖に怯える群れの目だった。
◆
次に乱れたのは、声だった。
信号笛は足りず、小旗の紐は切られ、伝令札もいつの間にか消えている。そのせいで、彼らは口で伝える伝令に頼るしかなくなった。
「前方、速度を落とせ!」
叫びながら走る伝令の足元に、影が落ちた。横から飛び出したミクロラプトルの小さな身体が、伝令の足に絡みつく。殺すためではなく、転ばせるための一撃だった。伝令が派手に倒れた拍子に、手にしていた札が地面に落ちる。そこへ枝の上からディモルフォドンが急降下してきて、札をくわえ、一瞬で飛び去っていった。
「伝令札が!」「上だ、上を撃て!」
弓兵が弓を向けたその瞬間、別の方向から声が響いた。
「前進だ!」
兵達が、混乱して顔を向ける。
「違う、止まれ!」「誰が言った!?」「後ろから撤退の命令が――」「そんな命令は出していない!」
森の中で、人間の声が不気味に反響していた。枝の上のメソピテクスが、短く鳴き声を上げる。人の声に似ているわけではない。けれど焦りと枝葉のざわめきの中では、どこから何が聞こえたのかが、分からなくなってしまうのだ。
本物の命令と聞き違いと焦りが混ざり合って、軍の声は少しずつ濁っていった。隊列はかろうじて保たれていたけれど、命令が届く速さは、目に見えて落ちていた。そして森の中での命令の遅れは、そのまま命取りの隙になる。
◆
持ち物と声が乱れたあとで、森は隊列そのものに触れ始めた。
最初に姿を見せたのは、ユタラプトルだった。前衛から少し離れたところを、素早い影が駆け抜けていく。襲ってはこずに、追える位置へわざと姿を見せるのだ。
「横だ!」「追え!」
義勇兵の何人かが、思わず反応しかけた。
「追うな!」
聖騎士が、すぐに怒鳴りつけた。
「横に出るな! 隊列を保て!」
その判断は正しかったけれど、正しい判断を強いられ続けることもまた、兵達の心を削っていく。目の前で敵が逃げているのに、追うことができない。その苛立ちが、隊列の中に澱のように溜まっていった。
別の場所では、ディロフォサウルスが下草の奥から顔を出し、大きな襟を広げて、粘りつく毒液を吐きかけた。
「目だ!」「顔をかばえ!」
神聖術の光が飛んで、ディロフォサウルスはすぐに下草へ引っ込んだ。けれどその一瞬で視界が乱れ、そこへミクロラプトルが飛び込んで、伝令がもう一人転んだ。
さらに前の方では、デイノニクスが盾役の聖騎士に飛びついていた。狙ったのは喉ではなく、盾を持つ腕と肩と膝だった。盾を支える革紐を確実に引き裂いて、立てなくするための一撃。
「ぐっ!」
踏みとどまった聖騎士の突き出した槍が、デイノニクスの肩を浅く裂いた。赤い血が飛んだけれど、デイノニクスは無理をせずに身をひねり、鮮やかに離れていく。
「逃げたぞ!」「追うな!」
また怒号が飛んだその頭上から、枝を大きく揺らして、ティラコレオが落ちてきた。
指揮官の、すぐ近くだった。大きな身体が地面に降り立ち、湿った土を豪快にえぐる。振るわれた爪は首ではなく、指揮官の剣帯と盾の吊り紐だけを、正確に断ち切った。
指揮官が一瞬、体勢を崩した。けれどティラコレオは追い打ちをかけず、すぐに木の幹を蹴って、高い枝の上へ戻っていった。まるで、落ちてきた影が森へ吸い込まれていったかのようだった。
「なぜ……なぜ殺さない……」
誰かが、震える声で呟いた。
「武器だけを、正確に狙っている……!」
「隊列を崩すな! 上だ、上を見ろ!」
森は殺しには来ないのに、進ませもしない。その奇妙な一貫性に、聖戦軍は少しずつ気づき始め、恐怖を深めていった。
◆
森のファミリア達は、決してむやみに姿を見せるわけではなかった。一瞬だけ見せては、消える。木の上に目があり、草の奥で鼻息がして、進む道の脇には、いつの間にか足跡が並んでいる。遠くでダイアウルフの遠吠えが響き、その声は部隊の周りを、ゆっくりと包むように回っていた。
兵達は、戦っているというより、見られていると感じ始めていた。こちらの動きも、荷物の場所も、誰が命令を出し、誰が怯えているのかも、すべて見透かされているのだと。
「魔王が見ている……」
若い神官が、掠れた声で呟いた。
「この森全体が、魔王の目なのだ」
実際に、ライラとリィナは見ていた。淡い光の面越しに、森の動きも、彼らの進む道も、すべてを。けれどそれは、魔王としてではなかった。自分の子達が無理をしていないか、傷ついた子がちゃんと下がれているか、それを確かめるために、ライラは光の面を見つめていたのだ。聖戦軍の恐怖とライラの思いは、どこまでも決定的にすれ違っていた。
◆
高い枝の上で、古参のティラコレオ、赤枝は静かに身を伏せていた。
古い鞍と古い傷、そして、ライラが昔つけた小さな目印。赤枝は森の中でいちばん見晴らしのいい場所から、聖戦軍の前衛も、小さな子達の動きも、すべてを見下ろしていた。
聖水袋を抱えたペゴマスタクスの一頭が、深く入りすぎそうになった瞬間に、赤枝が低く鳴いた。それだけで、小さな影はすぐに進路を変えて身を引いた。若いデイノニクスが、倒れた聖騎士をさらに追おうとしたときも、赤枝が短く鳴くと、デイノニクスは爪を引き、盾だけを蹴って離れていった。
◆
「赤枝、ありがとう」
隣で、ライラの声がほんの少しだけ柔らかくなった。
「まだ無理しないで。小さい子達を見てて。でも、自分も帰ってきてね」
光の面の中で、高い枝の上の赤枝の尾が、ゆっくりと揺れた。信頼のこもった返事だった。
私は、光の面に映る赤枝を見つめていた。戦場の中にいてさえ、あの子はただの戦力ではなく、ずっとライラの家にいた大切なファミリアなのだ。
◆
聖戦軍も、必死に森の戦いに慣れようとしていた。
「小型には網を使え! 聖印付きの網だ! 近づいたらかけろ!」「樹上に光の矢を! 荷物隊を中央へ下げろ!」
聖印付きの網が広げられて、ペゴマスタクスの一頭の前足に白い痕が残った。光の矢がミクロラプトルの翼をかすめ、デイノニクスの肩に槍が浅く入る。ティラコレオがいた枝は、神聖術の光で白く焦げた。
森の子達も、無傷ではなかった。彼らの祈りは効くし、武器も届くのだ。
◆
「下がって。無理しないで。怪我した子は奥へ、雪フクロウのところへ行って」
ライラが、すぐに声を送った。私も、魔道具越しに細かく言葉を重ねた。
「聖印の網には、触らないでください。あの光の影響は、しばらく残ります。近づきすぎないで」
それから、ライラに向かって付け加えた。
「森は、海よりも見通しが悪いです。私にも、すべては追いきれません」
自分の声に、焦りと不安が混じっているのが分かった。森は枝葉が多く、反応が重なって、一人ひとりの動きまでは読みきれない。それでも、やるしかなかった。
「みんな、無理しないで。帰ってきて」
ライラのその言葉は、戦場の命令であり、祈りそのものだった。
◆
ついに、一人の若い義勇兵が限界を迎えた。
海で仲間を失い、聖水袋を奪われ、見えない影に囲まれ続けた彼の心は、そこで耐えきれなくなった。
「もう嫌だ!」
止める声を振り切って、彼は隊列から飛び出した。森の奥ではなく、海の音がする浜の方へ、必死に走る。草をかき分け、根に足を取られながら砂浜へ戻ろうとする彼の横に、大きな影が並んだ。
並んできたのはダイアウルフで、兵士は悲鳴を上げたけれど、ダイアウルフは噛まなかった。彼が家の方角へ迷い込みそうになると牙を見せて低く唸り、進む道を塞ぐ。けれど浜へ向かう道だけは、決して塞がなかった。
兵士は震えながら走り続けて、ついに森の縁を抜けた。浜の光が見え、治療所が見える。振り返ると、ダイアウルフは森の中に静かに立っていて、そのまま奥へ戻っていった。
「……なぜだ」
兵士は、砂の上に倒れ込んだ。少し離れたところからその様子を見ていた聖戦軍の者達に、戦慄が走った。
「逃げた者は……見逃すのか?」「では、我々は何をさせられているんだ。進む者だけが、狙われているのか……?」
逃げれば助かるという、そのはっきりとした選択肢は、死ぬまで戦えという命令よりも残酷に、兵士達の士気を内側から削り取っていった。
◆
治療術士もまた、奇妙な違和感に気づき始めていた。
森の中で、盾の紐を切られて転んだ兵の手当てをしていたときのことだ。そのすぐ近くを、ディモルフォドンが鋭い羽音を立てて通り過ぎていった。治療術士は息を止めたけれど、ディモルフォドンは襲ってこずに、そのまま通り過ぎていく。ところが隣にいた弓兵が反射的に弓を構えた瞬間、枝の上からミクロラプトルが飛びかかり、弓兵は倒されて、矢が地面に落ちた。
「治療している者は……見逃されている?」「いや、魔王の罠だ。こちらの役割を見ているのか?」
武装神官の一人が、顔を強張らせた。
「これは慈悲ではない。選別だ。魔王は、我々を弄んでいるのだ」
その言葉は、底知れない恐怖とともに広がっていった。実際に、ライラとリィナは見ていた。けれどそれは選別ではなかった。治療している者を襲わせないため、弓を構えた者を止めるため、逃げる者を浜へ戻すための、ただの線引きだったのだ。
◆
昼も遅くなった頃、聖戦軍の一部は、まだ自分達は戦えていると思っていた。小型を追い払い、ラプトルを退け、武器も届いたからだ。陸なら進めるのだ、と。
けれど指揮官は、実際には進めていないことに気づいていた。朝から進んだ距離は予定の半分にも届かず、伝令は遅れ、地図は失われ、持ち物も結界杭も、ずいぶん減ってしまった。死者は少ないのに、軍としての働きだけが、確実に削ぎ落とされていた。
「これは……足止めか」
指揮官が呟くと、隣の武装神官が森の奥を睨みつけた。
「違います。誘導です。我々は、討たれているのではない。崩されているのです」
森は彼らを殺すのではなく、軍でなくしていたのだ。進むたびに持ち物が減り、隊列が伸び、声が乱れ、判断が鈍っていく。その底知れない意図に気づいたとき、指揮官の背を、冷たい汗が流れ落ちた。
◆
私は、指揮所の光の面をじっと見つめていた。自分が今何をしているのかは、痛いほど分かっていた。
森の子達は、人を殺さないように動いている。ライラは逃げる者を追わせず、治療している者も襲わせない。
私は、魔道具を握る手に力を込めた。
「殺さずに止めるなら、命ではなく、進む力を削るしかありません」
自分の声は静かだったけれど、自分自身を傷つけるような痛みを伴っていた。
「持ち物と、合図と、隊列と、判断する力。進めば、それを失う。進めば、軍としての形を保てなくなる。そう思わせなければ、あの方々は止まりません」
光の面に映る森から、私は目を離さなかった。
「……それが、誰も死なせないための、いちばんましな方法ですから」
ライラは少しだけ黙ってから、ぽつりと言った。
「それ、リィナがいちばん嫌いそう」
私は、思わず目を伏せた。
「はい」
「でも、やるの?」
その問いに、責める響きはなかった。ただ、私の気持ちを確かめるだけの声だった。私は光の面の中の森を見た。武器を失う兵と、逃げ帰る者と、見逃される治療術士。
私は、人を怖がらせるのが嫌いだった。誰かの心を折るために何を奪えばいいのかを、正確に計算できてしまう自分が、嫌でたまらなかった。
それでも、唇を強く噛みしめて答えた。
「やります」
ライラはそれを責めずに、ただ光の面へ目を戻した。
「うん。じゃあ、死なないようにする」
その一言が、何よりも重く、胸に突き刺さった。
◆
夕方が近づく頃になると、森の中で、戦えなくなる者が本格的に出始めた。
大きな傷ではないけれど、動けないのだ。ディロフォサウルスの毒液を浴びて目が見えなくなった兵もいれば、ベールゼブフォの舌に足を取られて泥に転がった兵もいる。プルモノスコルピウスの尾にかすめられて、痺れで動けなくなった者もいた。
そこで、回収の子達が動いた。アラネオの糸が落ちた剣に絡みついて人間から遠ざけ、メソピテクスが短剣を拾って枝の上へ放り投げ、ダイアウルフが倒れた兵に近づいて匂いを確かめる。そして誰かが、彼らのそばに、水袋をそっと置いていった。
人間は食べずに、殺さずに、武器を外して安全な奥へ運ぶ。それが、ファミリアの側の意図だった。
けれど、聖戦軍からはそうは見えない。倒れた仲間が、糸や魔物に引かれて、森の奥へ消えていくのだ。
「連れて行かれた! まだ生きている!」「食われるぞ! 助けに行け!」
「隊列を崩すな!」
聖騎士の指揮官が、歯を食いしばって叫んだ。
「今出れば、全員が分断される! 分かっている。だが今出れば、全員が死ぬんだ!」
その命令は正しかったけれど、残された兵達の胸には、仲間を見捨てたという痛烈な罪悪感が、静かに沈んでいった。
◆
ライラは、回収の子達の反応を見ていた。
「倒れてる人は、武器だけ外して奥へ運んで。水、置いて。逃げるなら戻して」
私は、複雑な思いでその光景を見つめていた。ライラは本当に、誰も殺すつもりがないのだ。運ばれていった者達は、ただ戦場の外へ連れ出されているだけだった。
「あの方々には、分かりません」
私は、ライラにそう伝えた。
「食べられると思うはずです。仲間を助けようとする人が、必ず出ます。それを止められる人ばかりではありませんし、見捨てたことになると思う人も、必ず出ます」
表情を晴らすことは、できなかった。危険は消えず、ただ少しだけ減らせるだけだ。この森は人を殺さないのに、聖戦軍には、殺されるようにしか見えない。その決定的なずれが、いつか必ず誰かを無謀に走らせてしまうことが、私には分かっていた。
◆
夕方になると、聖戦軍はこれ以上進むのを諦めて、森の中に一時の夜営地を作るしかなかった。外周を固め、簡易の結界を張り、負傷者を内側へ集めて、火を焚く。
「夜さえ越えれば、進める」「敵は小型と中型が多い。結界と火を切らすな。陸なら、まだ戦える」
それは、疲れきった兵達が、どうにか自分を支えるための希望だった。
◆
ライラは、その夜営の反応を見つめていた。
「止まった」
光の面の中で、彼らの反応が一か所に固まっている。ライラは、森の奥の方へ目を移した。
「じゃあ、夜の子達、起きて」
森の奥で、昼には動かなかったもの達が、一斉に目を開けた。トロオドンに、メガロサウルス、ティタノボア。暗い場所で、低い反応がひとつ、またひとつと動き始める。
その光景に、私は思わず息を呑んだ。
「ここからが、本当の第二防衛線ですね」
「うん」
ライラは小さく頷いて、すぐにいつもの言葉を繰り返した。
「人間を食べない。逃げるなら、追わない。――帰ってきて」
夜営地では、聖戦軍が火を囲んでいた。夜を越えれば進めると、彼らは思っている。けれど火の届かない暗い森の奥で、妖しい目が一つ、二つと、次々に開いていくのが光の面に映っていた。
森はまだ、彼らを本気で眠らせには来ていない。私には、それが分かっていた。