森の中に、火が灯っていた。
聖戦軍が築いた夜営地は、決して無防備ではなかった。むしろ昼の過酷な混乱を味わったからこそ、彼らはできる限りの備えをしていた。
濡れた木を避けて乾いた枝を集め、壊れた荷箱の板を割って火にくべる。聖騎士達は外周に立ち、盾を地面に突き立てるようにして固く並べていた。武装神官達は夜営地の周りに聖水を薄く撒き、簡易の結界の杭を深く打ち込んでいく。治療術士は負傷者を真ん中へ集めて包帯を巻き直し、弓兵は木の上を見上げて、枝の影へ鋭く弦を向けていた。伝令は一人で動くことをできるだけ避け、必ず二人以上で動くよう厳しく命じられていた。
それでも、火に照らされた兵達の顔は誰もが青ざめていて、眠れる者は一人もいなかった。
昼の森は、彼らを大勢殺したわけではない。けれど聖水袋も信号笛も、地図も伝令札も、正確に奪っていった。役割を見分け、逃げる者は逃がし、治療している者は見逃した。そして倒れた仲間を、そのまま静かに、森の奥へ連れ去っていった。食われたのか、生かされているのか、何のためなのか、何も分からない。その底の知れない空白が、彼らの恐怖を際限なく膨らませていた。
「夜さえ越えれば進める。敵は小型と中型が多い。火と結界があれば守れるはずだ」「陸なら、まだ戦える。そうだろ」
その言葉は希望であり、同時に、縋りつくような祈りでもあった。
聖水を奪われた義勇兵は、代わりに小さな聖具を、壊れそうなほど両手で握りしめていた。弓兵は瞬きのたびに木の上を確かめ、神官は詠唱の途中で何度も後ろを振り返る。夜営地は確かに守られていた。けれど、彼らの心までは、何ひとつ守れていなかった。
◆
夜が深まるにつれて、森の音は不気味に減っていった。
昼にはあれほど騒がしかった鳥の声も、枝の揺れる音も、草むらの気配も、夜になると不自然なほどに消えてしまう。残ったのは、火のはぜる音と、誰かの荒い呼吸と、鎧の金具が触れ合う小さな音。それから、結界の杭に込められた祈りがかすかに震える、張り詰めた気配だけだった。
そして木の上で、何かが枝を渡る音が、一度だけ静かに響いた。
全員が一斉に顔を上げたけれど、何も見えず、枝がわずかに揺れただけだった。
「……風だ」
誰かがそう言ったけれど、誰もそれを信じなかった。森はまだ襲ってこないで、ただ彼らが眠ることだけを、静かに拒んでいた。火の光の届かない闇の奥、結界の外の黒い下草の向こうに、何かが確実にいる。本能がそう告げるだけで、彼らの眠気は消えていった。
◆
最初の見張りが倒れたのは、夜半より少し前のことだった。
火の届かない外側で、結界の端に立って槍の柄を握りしめ、森の奥を睨んでいる見張りがいた。足元の聖水の跡を何度も確かめ、少しでも草が揺れれば、すぐに槍先を向ける。だから小さな影が走った瞬間に、彼は確かに気づいた。
「そこか!」
槍を構えようとした、その一瞬だった。足元に、鋭い痛みが走った。
叫ぼうとしたのに、声が出なかった。膝が折れて、槍が手から滑り落ちる。目は開いているし、意識もある。それなのに、身体がまるで言うことを聞かなかった。
草の中を音もなく走り抜けていったのは、小さなトロオドンだった。見張りは、深い眠りに落ちるように、地面へ倒れ込んだ。
「見張りが倒れた!」「毒だ!」「火を増やせ! 結界の内側へ戻れ!」
夜営地は、一瞬で恐慌に染まった。神官が慌てて聖水を撒き、白い飛沫が草の上に落ちると、小さな影が一瞬だけ跳ねて、森の闇の奥へ消えていった。
「退いたぞ! 聖水は効く!」
聖水は確かに効いていて、トロオドンを遠ざけ、結界も火も働いていた。けれど、倒れた見張りは起き上がらなかった。呼吸はあり、胸も上下していて、死んではいない。それが、周りの者達にはかえって恐ろしかった。
「まだ生きています! すぐそこです、引き戻せます!」
若い兵が、結界の際まで駆け寄って叫んだ。
「出るな! 結界を保て! 二人一組で動け!」
「ですが、見捨てるのですか!」
その言葉に、夜営地の空気が凍りついた。昼にも、彼らは同じものを見ていたのだ。倒れた仲間が、森の奥へ運ばれていく姿を。助けに行けば分断され、行かなければ見捨てることになる。
「二人出ろ。盾を前に。神官、聖水を撒け。絶対に離れるな」
指揮官が歯を食いしばって命じ、兵達が結界の外へ一歩踏み出した。その時、倒れた見張りの足に、白い糸が音もなく絡みついた。
◆
聖戦軍にとって、それは最悪の光景だった。
アラネオの糸が倒れた見張りの足に絡みつき、別の糸が、落ちた槍を引きずっていく。メソピテクスが短剣を外し、ラプトルが周りを見張り、ペゴマスタクスがそのそばに水袋を置こうとしている。そしてダイアウルフが近づいて、倒れた兵の匂いを確かめていた。
ファミリア達のしていることは、はっきりしていた。武器を外し、戦えなくなった者を安全な後ろへ運び、水を置き、逃げる者は浜へ戻す。食べもせず、殺しもしない。けれど夜の闇の中でそれを見た聖戦軍には、そうは見えなかった。仲間が魔物に冷酷に引きずられていくようにしか、映らなかったのだ。
「連れて行くな!」「まだ生きている、助けに行かせろ!」「食われるぞ!」
「動くな! 追えば分断される! 夜の森に出るな、命令だ!」
指揮官は声を嗄らして叫んだけれど、火の明かりの中で、兵達の顔が苦痛に歪んでいく。命令を守ることが、仲間を無残に見捨てることになる。その引き裂かれるような残酷さが、夜営地を覆っていった。
◆
家の最上階の指揮所で、私はライラの隣に立って、淡い光の面を見つめていた。
夜の森は、昼よりもずっと見通しが悪い。木々の反応と結界の光、神聖術の揺らぎが重なって、反応のひとつひとつがぼやけてしまう。私は光の面から目を離さないまま、ライラに声をかけた。
「やはり、助けに来ます。倒れた仲間を見捨てられる人ばかりではありません。あの方々には、回収ではなく、連れ去りにしか見えていませんから」
「うん」
ライラは、光の面から目を離さずに短く答えた。
「回収の子達、奥の道を使って。見つからないように。小さい子は、前に出ないで」
光の面の中で、アラネオの反応が少し進路を変え、小さな反応がいくつも後ろへ下がっていく。それからライラは、ひときわ静かで揺るがない、別の反応へ目を移した。
「赤枝、見てて」
森の中で、古参のティラコレオが静かに目を開いた。古い鞍と古い傷、そしてライラが昔つけた大切な目印。赤枝は夜になっても同じ場所にいて、小さな子達の動きも、倒れた兵の場所もすべて見下ろせる高い木の上から、静かに森を見守っていた。
◆
夜の森は、昼とは違う顔をしていた。
トロオドンは火の外側を小さく速く回って、見張りの目を狂わせていく。アラネオは糸で武器を遠ざけ、兵が暴れないように、そっと留めておく。ティタノボアは湿った草の中から足元に絡みつき、締め殺さない程度に動けなくして、気を失わせた。プルモノスコルピウスは毒で動きを鈍らせ、聖水を撒かれれば、すぐに岩陰へ退いた。
ダイアウルフは匂いを追い、浜の方へ逃げる者は見逃して、家の方へ迷い込んだ者だけを牙で止める。そして一度だけ、森の奥で、巨大な影が音もなく動いた。
倒れた仲間を助けようとして火の外へ出た見張りの一人の背後に、ぬっと黒い巨体が立ち上がったのだ。それは、メガロサウルスだった。
巨大な顎が開き、兵には振り返る暇さえなかった。肩口をくわえられて、そのまま草の奥へ引きずり込まれていく。
「食われた!」
誰かが絶叫したけれど、本当はそうではなかった。メガロサウルスは噛み砕きもせず、振り回しもしなかった。抗えないほどの力で引き倒し、武器を手放させて、戦えなくしただけだった。
それでも、彼らには分からない。夜の森の闇の奥へ、巨大な顎にくわえられて消えていった。その事実だけで、夜営地の心は、さらに壊れていった。
◆
聖戦軍も、ただ震えていたわけではなかった。
火が増やされ、結界は張り直され、見張りは三人一組に変えられた。神官達は木の上を照らすように神聖術を放ち、弓兵は枝葉の影へ矢を向ける。その必死の対策は、確かに働いていた。トロオドンは聖水を浴びて退き、アラネオの糸は焼かれ、ダイアウルフの鼻先には聖印の火花が散った。
ライラは、光の面越しにそれを見つめていた。
「無理しないで。一回下がって。怪我した子、戻って。――夜は長いから」
その言葉は、彼らには届かない。けれど森の子達には、確かに届いていた。無理に今倒す必要はないし、夜は長い。眠れない夜は、まだ終わらないのだ。
◆
夜半を過ぎた頃、聖戦軍の中で、ついに意見が激しく割れ始めた。
「朝まで結界を固めるべきです! 火と聖水を切らさなければ、夜は越えられます!」「連れ去られた者を放っておけと言うのか! まだ生きているかもしれないんだぞ!」「今動けば、全員が分断される!」「前進すべきだ! ここで怯えているより、魔王の拠点へ向かった方がまだいい。留まれば、一人ずつ消されるだけだ!」
指揮官は、割れていく悲鳴のような声を、必死に押さえ込んだ。
「朝まで耐えろ。隊列を崩すな。今動けば、全滅する」
「夜明けまで生きている保証が、あるのですか」
若い聖騎士が、震える声で言った。
「我々は、人々を救うために来たのではないのですか!」
その一言で、空気がまた凍りついた。魔王を討ち、世界を、仲間を救うために来たはずだった。それなら、目の前で連れて行かれた者を見捨てることは、いったい何なのか。その正義の矛盾が、彼らの胸を深く締めつけていた。
◆
だから、精鋭の小隊が動いた。悪意でも狂気でもなく、ただ仲間を助けたかった、それだけだった。
聖騎士が数名と武装神官、結界担当、義勇兵。そして若い治療術士が一人、震えながらもついていく。
「今なら追える。近い、まだ遠くへは行っていないはずだ!」「あれを見捨てたら、何のための聖戦だ」
暗闇の中で、彼らは回収の子達の動きを捉えた。アラネオが気を失った兵を糸で引き、ペゴマスタクスが水袋を置こうとしている。けれど精鋭達の目には、それがもう、仲間をさらっていく醜い魔物にしか見えなかった。
「行くぞ!」
彼らは、決死の覚悟で夜営地から飛び出した。指揮官が気づいたときには、もう遅かった。
「戻れ! 隊列を崩すな! 今出るな!」
叫びが響いても、精鋭達は止まらなかった。聖水が撒かれ、聖印付きの槍が構えられ、夜の森に、強い神聖の光が走った。
◆
回収の子達は、戦うための子達ではなかった。メソピテクスは身をすくませて水袋を落とし、アラネオの糸は焼き切られる。小型のラプトルが身構えたけれど、数がまるで足りない。聖騎士達は、本気だった。仲間を救うために、魔物を討つために、彼らに迷いはなかった。
◆
光の面の上で、小さなファミリア達の反応が激しく乱れた。
「回収の子達、下がって。小さい子、奥へ」
ライラがすぐに声を送ったけれど、聖戦軍の踏み込みの方が速かった。聖印付きの槍が、小さなラプトルの目の前へ突き出される。
ライラの声が、ほんの少しだけ変わった。
「赤枝」
光の面の中で、高い枝の上の反応が、音もなく闇を蹴った。
◆
闇の上から、大きな影が落ちてきた。
聖騎士と小さな子達のあいだに、赤枝が地鳴りを立てて降り立つ。その重さに小さな子達は一瞬だけ止まり、赤枝が低く吼えると、一斉に森の奥へ逃げ始めた。
赤枝は、最初から殺す動きを一度もしなかった。聖騎士を盾ごと力強く押し倒し、槍を持つ腕を弾き、武装神官の詠唱を体当たりで崩していく。杭を打とうとした瞬間には、その杭を前脚で叩き落とした。
本当なら、その鋭い牙で、喉などたやすく裂けたはずだった。鎧ごと噛み潰すこともできたはずだ。それでも、赤枝はそうしなかった。ここで自分が牙を剥いて暴れれば、後ろにいる逃げ遅れた小さな子達を巻き込んでしまうからだ。赤枝は敵を殺すためではなく、小さな家族達を無事に逃がすために、そこに降り立っていたのだ。
精鋭の小隊は、止まらなかった。彼らもまた悪人ではなく、倒れた仲間を救うのだと、本気で信じていた。
聖印付きの槍が赤枝の肩を深く裂き、神聖術の光が木々を照らす。周りに結界の杭が打ち込まれて、赤枝の退路は、少しずつ残酷に狭められていった。
◆
「赤枝、戻って。もういい」
ライラは、光の面に向かって声を絞り出した。けれど、その反応は動かなかった。赤枝は、小さな子達が無事に逃げきるのを、まだ見届けていたのだ。
ライラの声が、悲痛に低くなった。
「殺してもいいから、戻って!」
私も、思わずライラの隣で叫んでいた。
「無力化にこだわらないでください! その子達を逃がす方を、いちばんに!」
もう殺してもいいと、ライラも許したし、私も止めていない。それでも赤枝は、最期まで殺す一撃を選ばなかった。選ばなかったのではなく、選べなかったのだ。すぐ後ろに、怯えた小さな子達がまだいたから。だから赤枝は、攻撃ではなく、ただの頑丈な盾になることを選んだ。
◆
武装神官が結界の杭を地面に激しく打ち込むと、白い光が走って、小さな子達の逃げ道を塞いだ。赤枝は、その光の杭へ自分から飛び込んでいった。
毛皮と肌が激しく焼け、低い苦悶の唸りが漏れる。それでも赤枝は前脚で、その杭を強引に叩き折った。逃げ道が開き、メソピテクスが走り、ペゴマスタクスが逃げ、小型のラプトルが奥へ飛び込んでいく。
そこへ、聖騎士の槍が迫った。赤枝なら、避けるのはたやすかったはずだ。枝へ跳ぶことも、横へ受け流すこともできた。けれど自分が避ければ、後ろにいる逃げ遅れた子に当たってしまう。だから赤枝は、決して避けなかった。
槍が深く突き刺さり、聖印が激しく光って、傷口を無残に焼き焦がした。赤枝の巨体が大きく揺らいだ。それでも赤枝は最後まで敵を殺さずに、盾ごと激しく押し飛ばして、彼らの進む道を塞いだ。
小さな子達と回収の子達が、森の奥へ消えていく。赤枝は、それをしっかりと見届けた。高い枝の上ではなく、湿った夜の地面の上で、ゆっくりと膝を折った。
◆
光の面の中で赤枝の反応が激しく明滅して歪み、ライラの手が止まった。
「……赤枝?」
返事はないまま、反応だけが見る間に薄くなっていく。
「戻って」
その声が、小さく震え始めていた。
「戻って、いいよ。もういいから……」
それはもう、いつもの落ち着いた主の声ではなかった。少し幼い、迷子になった大切な子を必死に呼ぶような声だった。
私が息を呑んだそばで、待っていたシルヴィアが、低く、悲痛に唸る。光の中の反応は、戻ってくる動きを止めたまま、消えかけていた。
「行かせてください」
気がつけば、私は叫んでいた。
「今なら、まだ間に合います!」
夜の森は危険で、聖戦軍もすぐ近くにいる。けれど、ライラは私を止めなかった。
「お願い」
ライラは、その一言だけを私に託した。
◆
シルヴィアが、夜の空へ猛然と飛び上がった。私を背に乗せて、木々の上を低く、音もなく越えていく。紫がかった鱗に青白い光が走り、夜の森に一瞬だけ、雷の匂いが落ちた。
焦げた木と聖水の匂いと、結界の杭の残り火の真ん中に、赤枝が倒れていた。
まだかすかに息はあったけれど、あまりにも浅かった。メソピテクスが赤枝の毛を掴んで震え、ラプトルが低く、細く鳴いていた。私はシルヴィアの背から飛び降りて、すぐに血に濡れたその身体のそばへ膝をついた。
「待ってください! まだ戻れます!」
必死に、神聖術の式を組んだ。けれど、私の光は滑るように弾かれてしまった。聖水に神聖術、結界の杭に聖印の槍。ありとあらゆる祈りの拒絶で、傷口がいくつも歪んでいたのだ。普通の裂け傷とは違って、癒す前に、ほどかなければならないものが多すぎた。
「ライラさんが、待っています。だから、戻ってください……!」
私の声は激しく震えていたけれど、赤枝は私を見ず、責めもしなかった。ただ、逃げきった小さな子達の方へ、満足そうにわずかに顔を向けた。みんなが生きていることだけを誇るように、その目が少しだけ動いた。
それから赤枝は、家のある森の奥の方角をじっと見つめたまま、静かに呼吸を止めた。
◆
指揮所の光の面から、赤枝の反応が消えた。
ライラは、しばらく何も言わなかった。周りの光の面だけが、淡く揺れていた。
「……帰ってこなかった」
ぽつりと呟いてから、ライラは、ほとんど声にならない声で、もう一言だけこぼした。
「知ってた。手加減する方から、先にいなくなる」
どこでそれを知ったのかは、自分でも分からなかった。ただ、ずっと前から知っていたことのように、その言葉は胸の底にあった。
魔道具の向こうで、リィナは何も言えずにいた。
◆
精鋭の小隊も、赤枝が倒れるのを見届けていた。荒い息を吐きながら、彼らは、仲間を助けて魔物を討ったのだと思おうとしていた。
「討った……仲間を、助けたんだ」「そうだ。あれは魔物だ。魔物を討ったんだ」
けれど、胸の中の違和感は消えなかった。あの巨大な獣は、最期まで一人も人を食わなかった。喉を狙わず、後ろの小さな魔物達を必死に逃がして、盾になっていたのだ。
それを、この場で認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば、自分達が何をしたのか、分からなくなるからだ。
「魔物を、討ったんだ」
自分に言い聞かせるように何度も呟く彼らを、夜の森は、ただ静かに見つめていた。
◆
夜が明けても、聖戦軍は生きてこそいたけれど、誰ひとり眠れてはいなかった。見張りは倒れ、武器も聖具もずいぶん減り、義勇兵は森を見るだけで肩を震わせる。聖騎士達でさえ、深く黙り込んでいた。第二防衛線は、人間の側の死者をぎりぎりまで抑え込んだ。けれどファミリアの側にも、取り返しのつかない犠牲が出た。古参の一頭が、二度と帰ってこなかったのだ。
私は、冷たくなった赤枝のそばで、どうしようもない無力感に言葉を失っていた。殺さないための防衛線だった。だからこそファミリア達は手加減するために近づき、小さな子達が前へ出て、赤枝はその子達を庇って、帰れなくなった。
私は、治せなかった自分の手を見つめた。間に合わなかった、聖女だったはずのこの手が、悔しさと悲しみで震えていた。
夜が明けきる前に、私はシルヴィアに乗って、指揮所へ戻った。赤枝のそばには、メソピテクス達が寄り添ったまま、離れようとしなかった。
◆
指揮所に戻ると、ライラが静かに口を開いた。荒れてもいなければ、怒鳴ってもいない。けれど、何かが決定的に変わった声だった。
「回収の子達は、もう前に出ないで。小さい子は下がって。森の子達、無理しないで」
光の面を見つめたまま、ライラは続けた。
「近づいてくるなら、止めて。――余裕がないなら、殺していいよ」
それは、虐殺の命令ではなかった。けれど赤枝の死を経たその言葉には、確かな重みが乗っていた。
私には、何も言えなかった。止める言葉が、どうしても出てこなかったのだ。
◆
夜が明けると、聖戦軍は全軍で進むことを諦め、まだ動ける精鋭の部隊だけが、木々の薄くなり始めた森の出口へ向かっていった。疲れきり、鎧は傷つき、隊列も乱れている。それでも、まだ武器を握りしめていた。
木々がまばらになり、森の圧迫感が晴れていく。森を抜けたのだと、彼らは安堵の息を吐いた。
◆
同じとき、ライラは森の子達に、静かに引き上げを命じていた。
「森の子達、戻って。塔の線から出て。追わないで。ここから先は、塔に任せる」
ファミリア達が、森の奥へ引いていく。けれど、そこにはもう赤枝の姿がなかった。いつも高い場所からすべてを見守っていた古参のティラコレオが、いない。その決定的な不在が、ライラの胸を焦がしていた。
ライラは、手を強く握りしめた。もう、うちの子達に近くで人を見分けさせたりしないし、誰にも庇わせない。ここから先は、塔が止めるのだ。
◆
森を抜けた聖戦軍は、そこで初めて、第三防衛線の全貌を目にした。
最初、それは不気味な黒い金属の塔に見えた。幾重にも組まれた梁の上に、筒を束ねたような頭がいくつも乗っている。それが森の出口の向こうに、右にも左にも、さらにその奥にも、いくつも立っていた。
魔法陣も、詠唱も、術者も、祈りの光もない。それなのに、人のいない鋼の塔は、無言で彼らを見据えていた。
「……何だ、あれは。砦、なのか?」
「違う……人のいない砲座だ。詠唱のない、鉄の番人……」
彼らには、その数を数えきれなかった。塔そのものが、おびただしい武器の塊でできているように見えた。壁の代わりに、鋼の塔が立ち塞がっていたのだ。
◆
指揮所で、ライラは第三防衛線の表示を見つめていた。そこには、私が組み込んだ安全識別が重ねられている。負傷者や治療術士、降伏した者を撃たないための、魔法の印だった。
その光の面の、取り返しのつかない変化に、私は気づいた。
「ライラさん……」
呼びかけた声が、恐怖で激しく震えた。
「今、何を外しましたか……?」
「安全識別」
ライラの短い答えに、私は息が止まった。
「それを外せば、第三防衛線は区別しません! 負傷者も、武器を落とした方も、射程に入ればすべて――」
「うん」
「それでも、ですか……!」
ライラは、しばらく黙っていた。それから静かに、鋼のような声で言った。
「ここから先は、家の前だから」
私は、もう何も言えなかった。ライラは、冷酷になったのではない。浜の治療所を撃つわけでも、逃げる者を追うわけでもない。けれど森を抜け、家へ向かい、あの塔の射程に入った者は、もう彼女の家の前に立ち塞がる、はっきりとした敵なのだ。
ライラはもう、ファミリア達に近くで人を見分けさせない。もう誰にも、庇わせないのだ。
◆
私の魔法の印が、照準の輪から切り離されていった。淡い白の治療の印も、青の後退の印も、光の面の上には虚しく残っていたけれど、塔はもう、それを少しも見なかった。森を抜けて第三防衛線の内側へ踏み込んだ反応が、すべて同じ色の標的として沈んでいく。
外周に並ぶ鋼の塔が、低い音を立てて一斉に唸りを上げた。一つの塔の上で、数えきれない黒い銃身が、それぞれ別々に首を巡らせていく。その不気味な動きが、二十の場所で同時に繰り返されていた。
森を抜けた者達は、ようやく地獄を越えたのだと安堵していた。けれど森の外に待っていたのは、壁ではなかった。壁の代わりに、二十の鋼の塔が立っていた。
そのひとつひとつに、幾十もの黒い砲座がある。詠唱も祈りもない、人のいない鉄の番人達が、一斉に彼らへ銃口を向けた。
ライラは、最後の安全識別を外していた。射程に入った者は、ひとりの例外もなく、ただの標的だった。