廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第39話 眠れない夜

森の中に、火が灯っていた。

 

聖戦軍が築いた夜営地は、決して無防備ではなかった。むしろ、昼の過酷な混乱を経験したからこそ、彼らはできる限りの厳重な備えをしていた。

 

濡れた木材を避け、乾いた枝を集め、壊れた荷箱の板を割って火へくべる。聖騎士達は外周に立ち、盾を地面に突き立てるようにして強固に並べていた。武装神官達は夜営地の周囲に聖水を薄く撒き、簡易結界の杭を深く打ち込む。

 

治療術士は負傷者を中央へ集めて包帯を巻き直し、弓兵は木の上を見上げて枝の影に鋭く弦を向けた。伝令は一人で動くことを極力避け、必ず二人以上で移動するよう厳命されていた。

 

それでも、火に照らされた兵達の顔は、誰もが青ざめていた。彼らは、眠れなかった。

 

昼の森は、彼らを大量に殺したわけではない。だが、彼らの聖水袋を、信号笛を、地図を、伝令札を正確に奪っていった。役割を見分け、逃げる者は逃がし、治療している者は見逃した。

 

そして、倒れた仲間を、そのまま静かに森の奥へ連れ去っていった。食われたのか。生かされているのか。何のために。分からない。その底知れぬ空白が、彼らの恐怖を際限なく肥大化させていた。

 

「夜さえ越えれば進める。敵は小型と中型が多い。火と結界があれば守れるはずだ」「陸なら、まだ戦える。そうだろ」

 

その言葉は希望だった。同時に、縋るような祈りだった。

 

聖水を奪われた義勇兵は、代わりに小さな聖具を壊れそうなほど両手で握りしめている。弓兵は瞬きのたびに木の上を確認し、神官は詠唱の途中で何度も背後を振り返る。夜営地は物理的に守られていた。だが、彼らの心までは何一つ守れていなかった。

 

 

夜が深まるにつれて、森の音が不気味に減っていった。

 

昼にはあれほど騒がしかった鳥の声も、枝の揺れる音も、草むらの気配も、夜になると不自然なほどに消え失せる。残ったのは、火のはぜる音。誰かの荒い呼吸。鎧の金具が触れ合う小さな金属音。結界杭に込められた祈りが、かすかに震える張り詰めた気配。

 

そして――木の上で、何かが枝を渡る音が、一度だけ静かに響いた。

 

全員が一斉に顔を上げた。だが、何も見えなかった。枝がわずかに揺れただけだった。

 

「……風だ」

 

誰かがそう言ったが、誰もそれを信じなかった。森はまだ襲ってこなかった。ただ、彼らが眠ることを静かに拒絶していた。

 

火の光が届かない闇の奥。結界の外の、黒い下草の向こう。そこに、何かが確実にいる。そう本能が告げるだけで、彼らの眠気は消え去っていった。

 

 

最初の見張りが倒れたのは、夜半より少し前だった。

 

火の届かない外側。結界の端で槍の柄を握りしめ、森の奥を睨んでいた見張りがいた。彼は足元の聖水の跡を何度も確認し、少しでも草が揺れればすぐに槍先を向けた。だから、小さな影が走った瞬間、彼は確かに気づいた。

 

「そこか!」

 

槍を構えようとする、その一瞬。足元に鋭い痛みが走った。

 

「っ――」

 

叫ぼうとしたが、声が出なかった。膝が折れ、槍が手から滑り落ちる。目は開いている。意識もある。けれど、身体が狂ったように言うことを聞かない。

 

草の中を、小さな影が音もなく走り抜けた。トロオドンだった。見張りは、まるで深い眠りに落ちるように地面へ倒れ込んだ。

 

「見張りが倒れた!」「毒だ!」「火を増やせ! 結界の内側へ戻れ!」

 

夜営地が一瞬でパニックに染まる。神官が慌てて聖水を撒き、白い飛沫が草の上へ落ちると、小さな影が一瞬だけ跳ねて森の闇の奥へ消えた。

 

「退いたぞ! 聖水は効く!」

 

確かに効いている。聖水はトロオドンを遠ざけ、結界も火も機能していた。だが、倒れた見張りは二度と起き上がらなかった。呼吸はある、胸も上下している、死んではいない。それが、周囲の者達には余計に恐ろしかった。

 

「まだ生きています! すぐそこです、引き戻せます!」若い兵が叫ぶ。

 

「出るな! 結界を維持しろ! 二人一組で動け!」指揮官の怒号が飛ぶ。

 

「ですが、見捨てるのですか!」

 

その言葉に、空気が凍りついた。昼にも彼らは同じものを見たのだ。倒れた仲間が森の奥へ運ばれていく姿を。助けに行けば分断され、行かなければ見捨てることになる。

 

「二人出ろ。盾を前に。神官、聖水を撒け。絶対に離れるな」

 

指揮官が歯を食いしばって命じ、兵達が結界の外へ一歩踏み出した。その時、倒れた見張りの足に、白い糸が音もなく絡みついた。

 

 

聖戦軍にとって、それは最悪の光景だった。

 

アラネオの糸が倒れた見張りの足に絡みつき、別の糸が落ちた槍を引きずっていく。メソピテクスが短剣を外し、ラプトルが周囲を見張り、ペゴマスタクスがその近くに水袋を置こうとしている。そしてダイアウルフが近づき、倒れた兵の匂いを確認する。

 

彼らファミリア達の目的は明確だった。武器を外し、戦闘不能者を安全な後方へ運び、水を置き、逃げる者は浜へ戻す。食べない、殺さない。

 

だが、夜の闇の中でそれを見た聖戦軍には、そうは見えなかった。仲間が、冷酷に魔物に引きずり去られているようにしか映らない。

 

「連れて行くな!」「まだ生きている、助けに行かせろ!」「食われるぞ!」

 

「動くな! 追えば分断される! 夜の森に出るな! 命令だ!」

 

指揮官が必死に叫ぶ。火の明かりの中で、兵達の顔が苦痛に歪んだ。命令を守ることが、仲間を無残に見捨てることになる。その引き裂かれるような残酷さが、夜営地を支配していった。

 

 

拠点最上階の指揮所で、リィナはライラの横で、淡い光の面を見つめていた。夜の森は、昼よりも視界が悪い。木々の反応、結界の光、神聖術の揺らぎが重なり、シグナルを曖昧にさせている。

 

リィナは光の面を見つめながら、ライラへ声を届けた。

 

「やはり、助けに来ます。倒れた仲間を見捨てられる人ばかりではありません。あの方々には、回収ではなく連れ去りにしか見えません。」

 

「うん」ライラは短く答えた。「回収組、奥の道を使って。見つからないように。小さい子は、前に出ないで」

 

光の面の中で、アラネオの反応が少し進路を変え、小さな反応が後ろへ下がる。ライラは、別のひときわ静かで強固なシグナルへと視線を移した。

 

「赤枝、見てて」

 

森の中で、古参のティラコレオが静かに目を開いた。古い鞍、古い傷、ライラが昔つけた大切な目印。赤枝は、夜になっても同じ場所にいた。小型組の動きも、倒れた兵の位置も、すべてを見下ろせる高い木の上から、静かに森を見守っていた。

 

 

夜の森は、昼とは違う顔を持っていた。

 

トロオドンは火の外側を小さく、速く回り、見張りの視線を完全に狂わせる。アラネオは糸で武器を遠ざけ、兵を暴れないように優しく留める。ティタノボアは湿った草の中から足元に絡みつき、締め殺さない程度に動けなくして気を失わせる。プルモノスコルピウスは毒で動きを鈍らせ、聖水が撒かれればすぐに岩陰へ退いた。

 

ダイアウルフは匂いを追い、浜側へ逃げる者は見逃し、拠点方向へ迷い込んだ者だけを牙で止める。そして、一度だけ、森の奥で巨大な影が音もなく動いた。

 

見張りの一人が、倒れた仲間を助けようとして火の外へ出た瞬間、その背後にぬっと黒い質量が立ち上がる。メガロサウルスだった。

 

巨大な顎が開く。兵は振り返る暇さえなかった。肩口をくわえられ、そのまま草の奥へ引きずり込まれた。

 

「食われた!!」

 

誰かが絶叫した。だが、違う。メガロサウルスは噛み砕かなかったし、振り回しもしなかった。ただ抵抗できない圧倒的な力で引き倒し、武器を手放させて戦闘不能にしただけだ。

 

それでも、彼らには分からない。夜の森の闇の奥へ、巨大な顎にくわえられて消えた。その不気味な事実だけで、夜営地の精神はさらに壊れていった。

 

 

聖戦軍も、ただ震えていたわけではなかった。火が増やされ、結界が張り直され、見張りは三人一組に変えられる。神官達は木の上を照らすように神聖術を放ち、弓兵は枝葉の影へ矢を向けた。

 

その必死の対策は、確かに機能していた。トロオドンが聖水を浴びて退き、アラネオの糸が焼かれ、ダイアウルフの鼻先に聖印の火花が散る。

 

ライラは、光の面越しにそれを見つめていた。「無理しないで。一回下がって。怪我した子、戻って。――夜は長いから」

 

その言葉は彼らには届かない。けれど、森の子達には確かに届いていた。無理に今倒す必要はない、夜は長い。眠れない夜は、まだ終わらないのだ、と。

 

 

夜半を過ぎた頃、聖戦軍の内部でついに意見が激しく割れ始めた。

 

「朝まで結界を固めるべきです! 火と聖水を切らさなければ夜は越えられます!」「連れ去られた者を放置しろと言うのか! まだ生きているかもしれないんだぞ!」「今動けば全員が分断される!」「前進すべきだ! ここで怯えているより、魔王の拠点へ向かった方がまだいい。留まれば、一人ずつ消されるだけだ!」

 

指揮官は、割れていく悲鳴のような声を必死に押さえ込んだ。「朝まで耐えろ。隊列を崩すな。今動けば全滅する」

 

「夜明けまで生きている保証があるのですか」若い聖騎士が震える声で言った。「我々は、人々を『救う』ために来たのではないのですか!」

 

その一言で、空気がまた凍りついた。魔王を討つため、世界を、仲間を救うために来た。ならば、目の前で連れて行かれた者を見捨てることは何なのか。その正義の矛盾が、彼らの胸を深く締めつけていた。

 

 

だから、精鋭小隊は動いた。悪意でも狂気でもない、ただ仲間を助けたかった、それだけだった。聖騎士が数名、武装神官、結界担当、義勇兵、そして若い治療術士が一人、震えながらもついていく。

 

「今なら追える。近い、まだ遠くへは行っていないはずだ!」「あれを見捨てたら、何のための聖戦だ」

 

彼らは、暗闇の中で回収組の動きを捉えた。アラネオが気絶者を糸で引き、ペゴマスタクスが水袋を置こうとしている光景。精鋭小隊の目には、それがもう「仲間をさらっている醜悪な魔物」にしか見えなかった。

 

「行くぞ!」

 

彼らは夜営地から決死の覚悟で飛び出した。指揮官が気づいた時には、もう遅すぎた。

 

「戻れ! 隊列を崩すな! 今出るな!」叫びが響くが、精鋭達は止まらない。聖水が撒かれ、聖印付きの槍が構えられ、夜の森に強い神聖の光が走った。

 

 

回収組は戦闘向きではなかった。メソピテクスが硬直して水袋を落とし、アラネオの糸が焼き切られる。小型ラプトルが身構えるが、圧倒的に数が足りない。聖騎士達は本気だった。仲間を救うために、魔物を討つために、彼らに迷いはなかった。

 

光の面の上で、小さなファミリア達のシグナルが激しく乱れる。ライラが、すぐに指示を送った。「回収組、下がって。小さい子、奥へ」

 

だが、聖戦軍の進撃の方が速い。聖印付きの槍が、小さなラプトルの前へ突き出される。ライラの声が、ほんの少しだけ変わった。

 

「赤枝」

 

高い枝の上で、古参のティラコレオが、音もなく闇を蹴った。

 

 

闇の上から、あまりにも巨大な影が落ちる。聖騎士と小型組の間へ、赤枝が地鳴りを立てて降り立った。

 

その質量に小型組が一瞬止まり、赤枝が低く吼えた。それだけで、彼らは一斉に森の奥へ逃げ始める。

 

赤枝は、最初から「殺す動き」を一切しなかった。聖騎士を盾ごと力強く押し倒し、槍を持つ腕を弾き、武装神官の詠唱を体当たりで崩す。杭を打とうとした瞬間、その杭を前脚で叩き落とした。

 

本来なら、その鋭い牙で喉を容易く裂けたはずだった。鎧ごと噛み潰すこともできたはずだった。けれど、彼は決してそれをしなかった。ここで自分が暴れて牙を剥けば、背後にいる逃げ遅れた小さな子達を巻き込んでしまう。

 

赤枝は、敵を殺すためではなく、ただ小さな家族達を無事に逃がすために、そこに降り立っていたのだ。

 

 

精鋭小隊は止まらなかった。彼らもまた悪人ではなく、倒れた仲間を救おうと本気で信じていたからだ。

 

聖印付きの槍が赤枝の肩を深く裂き、神聖術の光が木々を照らす。結界杭が周囲に打ち込まれ、赤枝の退路が少しずつ、残酷に狭められていく。

 

指揮所で、ライラが光の面に向かって声を絞り出した。「赤枝、戻って。もういい」

 

けれど、シグナルは動かない。赤枝は、まだ小型組が安全に逃げ切るのを見届けていた。ライラの声が、悲痛に少しだけ低くなる。

 

「殺してもいいから、戻って!」

 

リィナも、魔道具の向こうから必死に叫んだ。「無力化にこだわらないでください! その子達を逃がす方を最優先に!」

 

もう、殺してもいい。ライラも許し、私も止めていない。だが、赤枝は最期まで殺す一撃を選ばなかった。選べなかったのだ。すぐ後ろに、怯える小さな子達がまだいたから。だから彼は、攻撃ではなく、ただの強固な「盾」になることを選んだ。

 

 

武装神官が結界杭を地面へ激しく打ち込み、白い光が走って小型組の逃げ道を塞いだ。赤枝は、その光の杭へ自ら飛び込んだ。

 

毛皮と皮膚が激しく焼け、低い苦悶の唸りが漏れる。それでも、赤枝は前脚でその杭を強引に叩き折った。小型組の逃げ道が開く。メソピテクスが走り、ペゴマスタクスが逃げ、小型ラプトルが奥へ飛び込んでいく。

 

そこへ、聖騎士の槍が肉薄した。赤枝なら避けることは容易だった。枝へ跳ぶことも、横へ流すこともできたはずだった。だが、自分が避ければ、後ろにいる逃げ遅れた子に当たる。

 

だから、彼は絶対に避けなかった。

 

槍が深く突き刺さる。聖印が激しく光り、傷口を無惨に焼き焦がした。赤枝の巨体が大きく揺らぐ。それでも、彼は最後に敵を殺すことなく、盾ごと激しく押し飛ばして彼らの進路を塞いだ。

 

小型組と回収組が森の奥へ消える。赤枝は、それを確かに確認した。高い枝の上ではなく、湿った夜の地面の上で。ゆっくりと、その膝を折った。

 

 

指揮所の光の面の中で、赤枝のシグナルが激しく明滅し、歪んだ。ライラは、手を止めた。

 

「……赤枝?」

 

返事は、ない。反応が、急激に薄くなっていった。

 

「戻って」ライラの声が、小さく震え始めた。「戻って、いいよ。もういいから……」

 

その声は、いつもの冷静な主人の声ではなかった。少し幼い、迷子になった大切な存在を必死に呼ぶような声だった。

 

私は、魔道具の向こうで息を呑んだ。近くで待機していたシルヴィアが、低く、悲痛に唸る。光の中のシグナルは、戻ってくる動きを止め、消えかけていた。

 

 

「行かせてください」私は叫んでいた。「今なら、まだ間に合います!」

 

夜の森は危険で、聖戦軍もすぐ近くにいる。けれど、ライラは私を止めなかった。「お願い」ただ、それだけを私に託した。

 

シルヴィアが夜の空へ猛烈に飛び上がる。私を乗せ、木々の上を低空で音もなく越えていく。紫がかった鱗に青白い光が走り、夜の森に一瞬だけ雷の匂いが落ちた。

 

焦げた木、聖水の匂い、結界杭の残光。その中心に、赤枝が倒れていた。

 

まだ、微かに息はあった。だが、あまりにも浅い。メソピテクスが赤枝の毛を掴んで震え、ラプトルが低く、細く鳴いていた。私はシルヴィアの背から飛び降り、すぐにその血に濡れた身体へ膝をついた。

 

「待ってください! まだ戻れます!」

 

必死に神聖術の式を組んだ。だが、私の光が滑るように弾かれた。聖水、神聖術、結界杭、聖印の槍。傷口がいくつもの、ありとあらゆる「祈り」の拒絶で歪んでいた。普通の裂傷ではない、癒やす前にほどかなければならない呪いが多すぎる。

 

「ライラさんが、待っています。だから、戻ってください……!」

 

声が激しく震えた。けれど、赤枝は私を見なかった。責めもしなかった。ただ、逃げ切った小型組の方へ、満足そうにわずかに顔を向けた。みんな、生きている。それだけを誇るように、赤枝の目が少しだけ動き。

 

それから、家がある森の奥、拠点の方角をじっと見つめたまま。その呼吸を、静かに止めた。

 

 

指揮所で、赤枝のシグナルが完全に消滅した。ライラは、しばらく何も言わなかった。周囲の光の面だけが、淡く揺れていた。

 

「……帰ってこなかった」

 

ぽつりと呟いた彼女の声に、私は魔道具越しに何も言えなかった。

 

 

精鋭小隊も、赤枝が倒れたのを見届けていた。彼らは荒い息を吐きながら、仲間を助け、魔物を討ったのだと思おうとしていた。

 

「討った……仲間を、助けたんだ」「そうだ。あれは、魔物だ。魔物を討ったんだ」

 

だが、彼らの中の違和感は消えなかった。あの巨大な獣は、最期まで一人も人を食わなかった。喉を狙わず、後ろの小さな魔物達を必死に逃がし、盾になっていた。

 

その場でそれを認めるわけにはいかなかった。認めれば、自分達が何をしたのか分からなくなるからだ。「魔物を、討ったんだ」自分に言い聞かせるように何度も呟く彼らを、夜の森はただ静かに見つめていた。

 

 

夜が明けた。聖戦軍は生きていたが、誰一人として眠れてはいなかった。

 

見張りが倒れ、武器や聖具は激減し、義勇兵は森を見るだけで肩を震わせる。聖騎士達さえ深く沈黙していた。第二防衛線は、人間側の死者を極限まで抑え込んだ。だが、ファミリア側にも、致命的な被害が出た。大切な古参が一体、二度と帰ってこなかったのだ。

 

私は、赤枝の冷たくなった亡骸のそばで、激しい無力感に言葉を失っていた。殺さないための防衛線。だからこそファミリア達は手加減のために近づき、小型組が前へ出て、赤枝は彼らを庇って、帰れなくなった。

 

自分の手を見つめた。治せなかった手。間に合わなかった、聖女だったはずのこの手が、屈辱と悲しみで激しく震えていた。

 

 

指揮所で、ライラが静かに口を開いた。その声は荒れていないし、怒鳴ってもいない。ただ、何かが決定的に変わっていた。

 

「回収組は、もう前に出ないで。小さい子は下がって。森の子達、無理しないで」ライラは光を見つめる。「近づいてくるなら、止めて。――余裕がないなら、殺していいよ」

 

それは虐殺の命令ではなかった。けれど、赤枝の死によって、その言葉には確かな「重み」が乗っていた。

 

私は、何も言えなかった。止める言葉が、どうしても出なかった。

 

 

夜明け後、聖戦軍は全軍で進むことを諦め、動ける複数の精鋭部隊だけが、木々が薄くなり始めた森の出口へと向かっていた。彼らは疲弊し、鎧は傷つき、隊列も乱れている。それでも、まだ武器を握りしめていた。

 

木々が薄くなり、森の圧迫感が晴れていく。彼らは「森を抜けた」と、安堵の息を吐き出した。

 

同時に、ライラは森の子達へ静かに撤退を命じていた。「森の子達、戻って。塔の線から出て。追わないで。ここから先は、塔に任せる」

 

ファミリア達が森の奥へ引いていく。だが、そこに赤枝の姿はもうない。いつも高い場所からすべてを見守っていた、あの古参のシシの姿がない。その決定的な不在が、ライラの胸を焦がしていた。

 

ライラは手を強く握りしめた。もう、うちの子達を近くで見分けさせない。もう、誰にも庇わせない。ここから先は、「塔」が止める。

 

 

森を抜けた聖戦軍は、そこで初めて、第三防衛線の全貌を目撃した。

 

最初、それは不気味な黒い金属の塔に見えた。幾重にも組まれた梁の上に、筒を束ねたような無数の頭部が乗っている。それが、森の出口の向こうにいくつも立っていた。右にも、左にも、さらにその奥にも。

 

魔法陣はない。詠唱もない。術者も、祈りの光もない。それなのに、その無人の鋼の塔は、無言で彼らを凝視していた。

 

「……何だ、あれは。砦、なのか?」

 

「違う……無人の砲座だ。詠唱なき、鉄の番人……」

 

彼らには数えきれなかった。塔そのものが、おびただしい武器の塊でできているように見えた。壁の代わりに、鋼の塔が立ち塞がっているのだ。

 

 

指揮所で、ライラは第三防衛線の表示を見つめていた。そこには、私が構築した「安全識別(負傷者や治療術士、降伏者を撃たない魔法印)」が重なっている。

 

私は、その光の面の致命的な異変に気づいた。

 

「ライラさん……」声が恐怖で激しく震える。「今、何を外しましたか……?」

 

ライラは答えた。「安全識別」

 

息が止まった。「それを外せば、第三防衛線は区別しません! 負傷者も、武器を落とした方も、射程に入ればすべて――」

 

「うん」

 

「それでも、ですか……!」

 

ライラは、しばらく黙った。そして、静かに、鋼のような声で言った。

 

「ここから先は、家の前だから」

 

リィナは、何も言えなかった。ライラは冷酷になったのではない。浜の治療所を撃つわけでも、逃げる者を追うわけでもない。だが、森を抜け、拠点へ向かい、あの塔の射程に入った者――それはもう、彼女の家の前に立ちはだかる、明確な敵だった。

 

ライラは、もうファミリア達に近くで見分けさせない。もう、誰にも庇わせないのだ。

 

 

リィナの魔法印が、照準の輪から切り離されていった。淡い白の治療印、青の後退印。それらは光の上には虚しく残っていたが、塔はもう、それらを一切見ない。

 

森を抜け、第三防衛線の内側へ踏み込んだ生体反応が、すべてが同じ色の標的として沈んでいく。

 

外周に並ぶ鋼の塔が、重低音を立てて一斉に唸りを上げた。一つの塔で、無数の黒い銃身が別々に首を巡らせる。その不気味な自動駆動が、二十の地点で同時に繰り返された。

 

森を抜けた者達は、ようやく地獄を越えたのだと安堵していた。だが、森の外に待っていたのは、壁ではなかった。壁の代わりに、二十の鋼の塔が立っていた。

 

その一つ一つに、幾十もの黒い砲座。詠唱はない。祈りもない。ただ、無人の鉄の番人達が、一斉に彼らへ銃口を向けた。

 

ライラは、最後の安全識別を外していた。射程圏内の敵は、例外なく、すべてがただの標的だった。

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