廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第41話 犠牲の道

ついさっきまで、そこには確かに中隊がいた。盾を並べ、聖印を掲げ、祈りを叫びながら進んでいたのだ。森を抜け、平原へ出て、魔王の拠点を目にするところまで来た者達が、確かにいた。

 

けれど今、そこに残っているのは、倒れた白銀の旗だけだった。泥に沈んだ布を、朝の風が虚しく揺らしている。旗の端は赤黒く濡れ、半分折れた柄が草に突き刺さっていた。砕けた大盾に焼けた聖印、折れた結界杭、泥に沈んだ伝令札、誰にも吹かれることのない信号笛。そして、途中で途切れた祈りの言葉。

 

盾の縁から、血が滴っていた。小川へ流れ込んだそれは、泥と混じって黒く濁っていく。

 

伝令が、喉を枯らして叫んだ。

 

「第一聖騎士中隊!」

 

その呼びかけに、返事はなかった。

 

「第一聖騎士中隊!」

 

もう一度呼んでも、重い沈黙が返ってくるだけだった。倒れている者はいたし、息をしている者もいた。盾の下で呻いている者も、砕けた結界の陰で動けなくなっている者もいた。けれど、中隊はもうどこにもなかった。命令に応じる声も、旗を掲げる者も、隊列を組み直す者もいない。それは、部隊として死んだということだった。

 

鋼の塔は、まだ動いていた。乾いた連続音が、途切れ途切れに平原へ響いている。けれど、すべてを撃っているわけではなかった。射程から転がり出た者も、森の縁まで退いた者も、浜の方角へ逃げていく者も、塔は決して追わなかった。その代わり、射程の内側に残って前へ進もうとする者と、塔へ武器を向ける者、拠点へ向かう者には、容赦なく銃身を向けてくる。

 

乾いた連射が、また響いた。倒れた旗へ手を伸ばしかけた誰かが、途中でその手を止めた。取りに行けば撃たれるという、その残酷な判断だけが、生き残った者達の中に、はっきりと刻まれていた。

 

◆

 

「一中隊では、無理だ」

 

岩陰に身を伏せた聖騎士が、血の混じった息で言った。彼の盾には丸いへこみがいくつも刻まれ、聖印は半分砕けて、腕は激しく震えていた。

 

「盾が足りない。正面は受けられても、横から十字に撃たれる」

 

別の場所では、結界担当の武装神官が、砕けた杭を握ったまま唇を噛んでいた。

 

「結界だけでも足りません。上から削られ、横から割られる。祈りを重ねても、あの塔は止まらない」

 

弓兵の生き残りが、黒く焦げた砲座の一つを見上げた。

 

「砲座を一つ止めても、横にまだいくつもある。塔そのものは、死なないんだ」

 

彼らは、ようやく分かっていた。塔と塔のあいだは、抜け道などではない。中隊ごとに勝手に走れば、一つずつ潰されるだけなのだと。盾の列だけでも、結界だけでも足りず、砲座をいくつか黙らせても、塔全体は止まらない。射程の外へ逃げれば、生き残れる。けれど拠点へ進むなら、誰かが、あの射線を受け続けなければならなかった。

 

「散れば死ぬ」

 

年老いた聖騎士が、低く言った。

 

「なら、残っているものを、全部集めるしかない」

 

それは希望ではなく、ほかに道がないという、絶望の中の理解だった。

 

◆

 

集まるだけで、命懸けだった。

 

生き残りの部隊は、射程の外ぎりぎりの場所を必死に探した。岩場の裏に森の縁の窪地、倒れた大盾が重なった場所、砲座の一部が焦げて動きの鈍った塔の陰、谷の折れ目、焼けた結界の跡、低い土手の陰。そこへ向かうために、彼らはまた仲間を失った。

 

「その盾を持ってこい!」

 

聖騎士の声に応えて、二人がかりで倒れた大盾を引きずり、急ごしらえの遮蔽にする。その表面を見えない衝撃が叩き、金属が悲鳴のような音を上げた。

 

「伏せろ、上の塔が向いた!」

 

地面に転がった兵のすぐ上を、乾いた音が通り過ぎていった。草が弾け、後ろの岩に白い火花が散る。

 

「三息だけ結界を張る! その間に走れ!」

 

武装神官が杭を地面に打ち込み、白い壁が立ち上がった。

 

「一!」

 

その声を合図に、兵達が一斉に走り出す。

 

「二!」

 

結界に、激しい衝撃が重なっていく。

 

「三――!」

 

壁が砕け散り、最後に渡りきれなかった兵が、無残に地面へ転がった。仲間の一人が、思わず戻ろうとする。

 

「戻るな!」「でも!」「今戻れば、二人とも倒れる!」

 

その声は正しかったし、正しいからこそ、たまらなく苦しかった。負傷者を置いていくのか、背負うのか、二人で引くのか。それとも今は、集まることを優先するのか。誰もが、その選択を突きつけられていた。

 

「置くな、背負え! 背負えないなら二人で引け!」

 

聖騎士が、迷う兵達に向かって怒鳴った。

 

「それで遅れたら!」

 

「なら、俺が盾になる!」

 

言い終えるより先に、塔が首を巡らせた。その聖騎士は、本当に盾になった。何人かが、その犠牲の陰を使って窪地へ滑り込む。集まる場所にたどり着くたびに、誰かが確実に減っていた。

 

◆

 

やがて、ぼろぼろの生き残り達が、一つの窪地に集まり始めた。

 

正面の道を来た聖騎士の生き残りに、谷道の武装神官、小川沿いの寄せ集めの部隊、岩場沿いの弓兵、斜面を降りてきた義勇兵達。そこにはもう、先に来た者も後から来た者もなかった。どの道を通ってきたのか、どの隊にいたのかなど、鋼の塔の前ではほとんど意味を失っていた。聖騎士も義勇兵も武装神官も、荷物持ちもない。そこにいるのは、まだ立っている者と、もう立てない者だけだった。

 

それでも、点呼はしなければならなかった。誰が残っているのかを知らなければ、次の命令さえ出せない。掠れた声で、名前が呼ばれていった。

 

「第一聖騎士中隊!」

 

呼ばれても、誰ひとり手を上げなかった。

 

「第二聖騎士中隊!」

 

「……残存、十七」

 

「谷道神官隊!」

 

長い沈黙のあとで、一人が手を上げた。

 

「……一名」

 

「小川沿い混成隊!」

 

「負傷者を含めて、二十九」

 

「岩場弓兵隊!」

 

「弓を持てる者、八。立てる者、十三」

 

「倒木斜面の義勇兵中隊!」

 

誰も答えないまま、代わりに一人の兵が、折れた旗を、静かに差し出した。

 

「後続は?」

 

聖騎士の問いに、若い伝令が震える唇で答えた。

 

「……来ました」

 

「なら、どこにいる」

 

伝令は、震えながら顔を伏せた。

 

「ここにいる者で、すべてです」

 

その言葉で、窪地の空気が凍りついた。誰かがすすり泣き、誰かが拳を地面に叩きつけた。

 

かつて十万の大軍だったものが、海で砕かれ、空で焼かれ、森で眠らされ、鋼の塔の前で中隊ごと消えていった。今ここにいるのはもう大軍ではなく、傷ついた、小さな残り火だった。

 

◆

 

「撤退すべきだ」

 

最初にそう言ったのは、腕に包帯を巻いた聖騎士だった。

 

「今なら、まだ射程の外に下がれる。負傷者を連れて森へ戻り、浜へ向かえば、生きている者は救える」

 

「戻って、どうする」

 

武装神官が、押し殺した声で言い返した。

 

「船は失われ、海は魔物だらけだ。浜に戻った者達も、いつまで生きられるか分からない」

 

「だが前へ進めば死ぬんだぞ!」

 

「ここまで来て退くのか!」

 

義勇兵の一人が、震えながら立ち上がった。

 

「ここで死んだ者達は何だったんだ。あの殺し間で倒れた中隊は、何のために……!」

 

「意味などあるものか!」

 

別の兵が、泣きそうな顔で叫び返した。

 

「意味をつけるために、また誰かを死なせるのか!」

 

撤退すべきだという声も、進むべきだという声も、狂信からだけ出てくるものではなかった。疲れと罪悪感と使命感が、そこには混じり合っていた。仲間を置いてここまで来てしまった者達が、まだ立っているための理由を、必死に探している声だった。

 

やがて、年老いた聖騎士が静かに口を開いた。

 

「戻れば、生きている者は救える。進めば、ここで倒れた者達の意味をつなげられる。だがそれは、全員が生きて進むという意味ではない」

 

そう言って、彼は遠くの塔を見つめた。

 

「少数を通す。そのために、多数が残る」

 

窪地の中で、誰もすぐには答えられなかった。それが何を意味するのか、全員が分かっていたからだ。

 

◆

 

その作戦は、勝つためのものではなかった。少数を最後の関門まで届けるためだけの、あまりにも非情なものだった。

 

盾隊は大盾と聖印の守りで、最初の射撃を受け止める。いちばん危険な役目で、生きて戻れる見込みはない。結界隊は、ほんの短いあいだだけ射線を遮る光の壁を張る。数十も数えないうちに壊れ、術者は力尽きるだろう。囮隊は旗を掲げ、光を放ち、声を上げて、塔の銃口を別の方向へ向けさせる。砲座を壊す隊は、角度の悪い筒を狙って数を減らし、一瞬の隙を作る。突破隊は、その隙に殺し間を抜ける少数の精鋭で、救護隊は射程の外で、戻ってくる者を拾う。進む者を、見送る役目だった。

 

誰も笑わなかったし、誰もこの作戦を勝利とは呼ばなかった。誰かが進むためには、誰かが残るしかない。その冷たい事実だけが、そこにあった。

 

「盾は、我々が持つ」

 

最初にそう言ったのは、聖騎士達だった。傷ついた腕で、へこんだ大盾を握り直す。

 

「結界は、長くは保ちません。ですが、十息なら作れます」

 

「十息で十分だ」

 

年老いた聖騎士が、ゆっくりと頷いた。

 

「囮なら、俺達がやる」

 

義勇兵達が、次々に手を上げた。誰の顔色もよくなく、足も震えているのに、上がった手は下ろされなかった。

 

治療術士が、思わず声を上げた。

 

「それは、戻れない役目です」

 

その義勇兵は、少しも笑わずに答えた。

 

「知ってる。俺達は、さっき何もできなかったから。今度は、誰かを前に送るくらいはしたい」

 

彼らは、悪人ではなかった。仲間を失い、恐怖し、それでも誰かを前へ送るために残ることを選んだ人間達だった。だからこそ、あまりにも悲惨だった。

 

◆

 

その頃、私はまだ治療区画にいた。

 

第三防衛線の乾いた音は、遠くから途切れ途切れに聞こえてくる。けれど私は、外へは行かなかったし、行くこともできなかった。目の前に、痛みに震えるファミリア達がいたから。

 

聖水を浴びたディロフォサウルスの肌には白く焼けた痕が残り、聖印付きの矢がかすめたミクロラプトルの翼には、術式が絡みついている。結界の杭に触れたデイノニクスの脚は不自然に光を拒み、糸を焼かれたアラネオは動かない。赤枝の死を見たメソピテクスとペゴマスタクスは、ずっと、赤枝が倒れていた方角を見つめたままだった。

 

私は、ファミリア達を見回して小さく息を吐いた。

 

「……今は、こちらです」

 

自分に言い聞かせるように呟いて、手を動かす。

 

「動かないでくださいね。聖印を外しますから」

 

指先に光を灯しながら、私は思った。神聖術は本来、傷を癒し、痛みを鎮めるためのものだ。けれど今、私は神聖術で刻まれた拒絶を、同じ神聖術で、同じ祈りでほどいている。人が傷つけたものを、人の手でほどいているのだ。その矛盾が、胸をきつく締めつけた。

 

外で、また塔の音が響いた。私が一瞬だけ顔を上げると、ミクロラプトルが不安そうに小さく鳴いたので、すぐに目を戻した。

 

「大丈夫。まだ、戻せます。今度は、絶対に間に合わせますから」

 

声は震えていたけれど、手は止めなかった。そばでシルヴィアが低く喉を鳴らし、私は静かに頷いた。

 

人間を見捨てたわけではない。けれど今の私は、ライラの家族を救う役目を選んでいる。その選択の重さは、苦く胸の底に沈み続けていた。

 

◆

 

指揮所で、ライラは聖戦軍の生き残りが集まっていくのを、じっと見つめていた。

 

射程の外ぎりぎりに集まる人間達の反応の中から、再び前へ出ようとする動きが始まっている。治療区画の光の面では、傷ついたファミリア達の反応が揺れていた。ライラは、そのどちらも淡々と見つめていた。

 

「集まった。まだ来るんだ」

 

声は荒れていなかったけれど、どこまでも冷たかった。赤枝が、もういないからだ。ライラは、守り方を少しも変えなかった。

 

「射程の外なら、撃たない。前に出るなら撃って。塔を攻撃するなら撃って。家に向かうなら、止めて」

 

聖戦軍の覚悟を、ライラは見ていた。仲間を前へ送るために、残ることを選んだ者達がいることも分かっていた。それでも、止めはしない。その覚悟が向かっている先は、彼女の家なのだ。だから、塔が冷徹に迎え撃つ。

 

◆

 

突破は、囮隊から始まった。

 

「こちらだ! 魔王の眷属ども、こっちを見ろ!」

 

義勇兵達が折れかけた旗を掲げて叫び、神聖術の光が放たれる。塔のいくつかの砲座が、機械的にそちらへ首を向けた。

 

続いて出た盾隊が、大盾を重ねて身体ごと壁になった。乾いた連続音が絶え間なく盾を叩き、一枚目が軋み、二枚目がへこみ、三枚目の聖印が砕け散った。それでも彼らは、執念で踏みとどまった。

 

「結界を!」

 

武装神官達が膝をつき、十息のためだけの、白い光の壁が立ち上がった。

 

「一!」

 

その声と同時に、突破隊が一斉に走り出す。

 

「二!」

 

砲座を壊す隊が低く身を伏せて、壊れかけた下段の筒へ向かう。

 

「三!」

 

矢が飛び、神聖術の光が走って、黒い筒のいくつかが火花を散らし、動きを止めた。

 

「四!」

 

囮隊の旗が撃ち抜かれて旗手が倒れかけ、隣の義勇兵がそれを受け取って、また高く掲げた。

 

「五!」

 

塔のいくつかが、そちらへ向いた。その瞬間に、殺し間に、ほんのわずかな隙が生まれた。

 

突破隊が、狂ったように駆け出した。

 

◆

 

そこから先は、要るものだと割り切るしかない、犠牲の連鎖だった。

 

盾隊の前列が倒れれば、後列がその盾を拾って前へ出る。結界担当が血を吐きながら壁を保ち、砲座を壊す隊の一人が筒を一本止めて、その場に倒れる。けれど止まったその一本ぶんだけ、後ろの者が確実に前へ走れた。

 

「今だ! 走れ!」

 

旗を掲げた義勇兵が、別の方向へ走って、塔の銃口を引きつけていく。

 

「持っていけ!」

 

聖騎士が、自分の盾を突破隊へ投げてよこした。

 

「あなたは!」

 

「いいから行け!」

 

武装神官が最後の術式を放ち、その光が一瞬だけ、塔の動きを鈍らせた。その数秒のあいだに、さらに三人が走り抜けていく。

 

恐怖で引き返そうとした兵の腕を、治療術士が強く掴んだ。

 

「戻らないで! 戻ったら、あの人が残った意味が、全部なくなります!」

 

残酷な言葉だったけれど、それが、ただ一つの真実だった。道が開いたのではなく、開けた者がその場に残っただけだった。突破隊は、その仲間達の背を踏み越えて進むしかなかった。

 

◆

 

彼らが踏み越えたのは、敵ではなかった。先に進もうとして倒れた、自分達の白銀の旗だった。

 

泥に沈んだ布を越え、割れた聖印を越え、持ち主のいない盾を越えて、突破隊は死に物狂いで走った。盾はほとんど残っておらず、鎧は傷だらけで、聖水は底をつき、結界担当は息も絶え絶えだった。治療術士は、ぼろぼろと涙を流しながら走っていた。

 

止まれば、残った者達が作ってくれた数秒が無駄になる。背後で塔の音が鳴り続ける中、彼らはついに、殺し間を抜けた。勝ったわけではなく、仲間が作ってくれた空白を、走り抜けただけだった。

 

◆

 

塔の群れの内側で、いくつもの道から命をつないだ突破隊が、ひとつに合流した。誰もが激しく息をしていたけれど、勝った者の顔をしている者は一人もいない。その中で、再び点呼が始まった。

 

「正面隊」

 

「……残り、七」

 

「谷道隊」

 

「三」

 

「岩場隊」

 

「十一。うち、弓を持てる者は四」

 

「小川沿い」

 

「負傷者を含めて、五」

 

「倒木斜面」

 

誰も答えないまま、重い沈黙が落ちた。

 

「倒木斜面!」

 

もう一度叫んでも、返事はなかった。やがて誰かが、静かに首を振った。

 

かつて十万の大軍として海を越えた聖戦軍の面影は、もうどこにもなかった。海を越え、空を越え、森を越え、鋼の塔を越えた先にいたのは、千にも届かない傷だらけの生き残りだけで、そこからさらに進める者は、数百に満たなかった。合流は勝利ではなく、ただ絶望的な喪失を確かめることでしかなかった。

 

◆

 

指揮所で、ライラは少数の人間達が第三防衛線を抜けたのを確かめた。ここは数を削るための線にすぎないので、焦りは少しもなかった。

 

ライラは、家の側の、さらに奥の広い平原の先で待っている、最後の子達へ意識を向けた。

 

「じゃあ、最後の子達」

 

その声は、人のいない塔へ命じるときとは違っていた。家族へ頼む、切実な声だった。

 

「カイザー。お願い、近づけないで」

 

光の面の奥で、途方もない重さを持つ黒い反応が、静かに動き出した。

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