先ほどまで、そこには確かに中隊がいた。 盾を並べ、聖印を掲げ、祈りを叫びながら進んでいた。
森を抜けた。平原へ出た。魔王の拠点が見えた。そこまで来た者達が、確かにいたのだ。
けれど今、そこに残っているのは、倒れた白銀の旗だけだった。 朝の風が、泥に沈んだ布を虚しく揺らしている。旗の端は赤黒く濡れ、半分折れた柄が草に突き刺さっていた。
砕けた大盾、焼けた聖印、折れた結界杭、泥に沈んだ伝令札、誰にも吹かれない信号笛
、途中で途切れた祈りの言葉
盾の縁から、血が滴っていた。小川へ流れ込んだそれは、泥と混じって黒く濁っていく。
伝令が、喉を枯らして叫んだ。 「第一聖騎士中隊!」
返事はなかった。
「第一聖騎士中隊!」
もう一度呼ぶ。それでも、重い沈黙が返ってくるだけだった。 倒れている者はいた。息をしている者もいた。盾の下で呻いている者も、砕けた結界の影で動けなくなっている者もいた。
けれど、中隊はもうどこにもなかった。命令に応じる声がない。旗を掲げる者がいない。隊列を組み直す者がいない。 それは、部隊として死んだということだった。
鋼の塔は、まだ動いていた。乾いた連続音が、途切れ途切れに平原へ響く。 だが、全てを撃っているわけではなかった。射程から転がり出た者、森の縁まで後退した者、浜の方角へ逃げていく者を、塔は決して追わない。
ただし――射程の内側に残り、前へ進もうとする者。塔へ武器を向ける者。拠点へ向かう者には、容赦なくその銃身を向ける。
ダダダダダッ、と乾いた音がまた鳴った。 誰かが、倒れた旗へ手を伸ばしかけて、途中で止まった。取りに行けば撃たれる。その残酷な判断だけが、生き残った者達の中に、はっきりと刻まれていた。
◆
「一中隊では無理だ」
岩陰に身を伏せた聖騎士が、血の混じった息で言った。彼の盾には、丸い凹みがいくつも刻まれている。聖印は半分砕け、腕は激しく震えていた。
「盾が足りない。正面は受けられても、横から十字に撃たれる」
別の場所では、結界担当の武装神官が、砕けた杭を握ったまま唇を噛んでいた。
「結界だけでも足りません。上から削られ、横から割られる。祈りを重ねても、あの機械は止まらない」
弓兵の生き残りが、黒く焦げた砲座の一つを見上げる。 「砲座を一つ止めても、横にまだいくつもある。塔そのものは死なないんだ」
彼らは、ようやく理解していた。 塔と塔の間は、抜け道などではない。各中隊が勝手に走れば、各個に撃破されるだけだ、と。
盾列だけでは足りない。結界だけでも足りない。砲座をいくつか黙らせても、システム全体は止まらない。射程外へ逃げれば、生き残れる。 だが、拠点へ進むなら――誰かが、あの射線を受け続けなければならない。
「散れば死ぬ」 老いた聖騎士が、低く言った。 「なら、残っているものを全部集めるしかない」
それは希望ではなかった。ただ、他に道がないという絶望的な理解だった。
◆
合流するだけで、命懸けだった。 残存部隊は、射程外ぎりぎりの場所を必死に探した。
岩場の裏、森の縁の窪地、倒れた大盾が重なった場所、一部砲座が焦げて動きを鈍らせた塔の影、谷の折れ目、焼けた結界跡、低い土手の陰
そこへ向かうために、彼らはまた仲間を失った。
「その盾を持ってこい!」 聖騎士が叫ぶ。倒れた大盾を二人がかりで引きずり、即席の遮蔽にする。盾の表面を見えない衝撃が叩き、金属が悲鳴のように鳴り響いた。
「伏せろ、上の塔が向いた!」 地面へ転がった兵のすぐ上を、乾いた音が通り過ぎる。草が弾け、背後の岩に白い火花が散った。
「三息だけ結界を張る! その間に走れ!」 武装神官が杭を地面へ打ち込む。白い防壁が立ち上がった。
「一!」 兵達が走る。
「二!」 結界に激しい衝撃が重なる。
「三――!」 壁が砕けた。最後に渡りきれなかった兵が、無残に地面へ転がる。仲間が戻ろうとする。
「戻るな!」 「でも!」 「今戻れば、二人とも倒れる!」
その声は正しかった。正しいからこそ、たまらなく苦しかった。 負傷者を置いていくのか。背負うのか。二人で引くのか。それとも、今は合流を優先するのか。誰もが、選ばされていた。
「置くな、背負え! 背負えないなら二人で引け!」 聖騎士が怒鳴った。
「それで遅れたら!」
「なら俺が盾になる!」
言い終えるより先に、塔が首を巡らせた。彼は本当に盾になった。 数人が、その犠牲の影を使って窪地へ滑り込む。合流地点に辿り着くたび、誰かが確実に減っていた。
◆
やがて、ぼろぼろの残存兵達が一つの窪地へ集まり始めた。
正面ルートからの聖騎士の生き残り、谷道からの武装神官、小川沿いからの混成部隊、岩場沿いからの弓兵、斜面からの義勇兵達。 そこには、もう先行組も後続組もなかった。どの道を通ってきたか、どの隊に所属していたかなど、鋼の塔の前ではほとんど意味を失っていた。
聖騎士も、義勇兵も、武装神官も、荷物持ちもなかった。そこにいるのは、まだ立っている者と、もう立てない者だけだった。
それでも、点呼は必要だった。誰が残っているのかを知らなければ、次の命令すら出せない。掠れた声で、名前が呼ばれていく。
「第一聖騎士中隊!」 ――返事はなかった。誰も、手を上げない。
「第二聖騎士中隊!」 「……残存、十七」
「谷道神官隊!」 長い沈黙のあと、一人が手を上げた。「……一名」
「小川沿い混成隊!」 「負傷者を含めて、二十九」
「岩場弓兵隊!」 「弓を持てる者、八。立てる者、十三」
「倒木斜面の義勇兵中隊!」 誰も答えなかった。代わりに、一人の兵が折れた旗を静かに差し出した。
「後続は?」 聖騎士が尋ねる。若い伝令が、震える唇で答えた。
「……来ました」
「なら、どこにいる」
伝令は顔を伏せた。 「ここにいる者で、全てです」
その言葉で、窪地の空気が凍りついた。 誰かがすすり泣いた。誰かが拳を地面へ叩きつけた。
かつて十万の大軍だったものが、海で砕かれ、空で焼かれ、森で眠らされ、鋼の塔の前で中隊ごと消えていった。今ここにいるのは、もう大軍ではない。傷ついた、小さな残り火だった。
◆
「撤退すべきだ」
最初にそう言ったのは、腕に包帯を巻いた聖騎士だった。 「今なら、まだ射程外に下がれる。負傷者を連れて森へ戻り、浜へ向かえば、生きている者は救える」
「戻ってどうする」 武装神官が言った。 「船は失われ、海は魔物だらけだ。浜に戻った者達も、いつまでも生きられるとは限らない」
「だが前へ進めば死ぬんだぞ!」
「ここまで来て退くのか!」 義勇兵の一人が、震えながら立ち上がった。 「ここで死んだ者達は何だったんだ。あの殺し間で倒れた中隊は、何のために……!」
「意味などあるものか!」 別の兵が叫んだ。 「意味をつけるために、また誰かを死なせるのか!」
撤退すべきだ、進むべきだ。それは狂信だけではなかった。 疲弊だった。罪悪感だった。使命感だった。仲間を置いてここまで来てしまった者達が、まだ立っているための「理由」を必死に探している声だった。
やがて、老いた聖騎士が静かに口を開いた。 「戻れば、生きている者は救える。進めば、ここで倒れた者達の意味を繋げられる。だが、それは全員が生きて進むという意味ではない」
彼は、塔を見つめた。 「少数を通す。そのために、多数が残る」
窪地の中で、誰もすぐには答えられなかった。それが何を意味するのか、全員が分かっていたからだ。
◆
その作戦は、勝つためのものではなかった。少数を最終関門へ届けるためだけの、あまりにも非情なものだった。
盾隊は 大盾と聖印防壁で初撃を受ける。最も危険な役目で、生還の見込みはない。
結界隊は 短時間だけ射線を遮る光の壁を張る。数十秒も保たず、術者は力尽きるだろう。
囮隊は 旗を掲げ、光を放ち、声で別方向へタレットの銃口を向けさせる。
砲座破壊隊は 角度の悪い筒を狙って数を減らし、一瞬の隙を作る。
突破隊は その隙に殺し間を抜ける少数精鋭。
救護隊は射程外で戻ってくる者を拾う。進む者を見送る役目。
誰も笑わなかった。誰も、この作戦を勝利と呼ばなかった。ただ、誰かが進むためには、誰かが残るしかない。その冷徹な事実だけが、そこにあった。
「盾は我々が持つ」 聖騎士達が、最初に言った。傷ついた腕で、へこんだ大盾を握り直す。
「結界は長く保ちません。ですが、十息なら作れます」
「十息で十分だ」 老いた聖騎士が頷く。
「囮なら、俺達がやる」 義勇兵達が、次々と手を上げた。誰も、顔色は良くない。足も震えている。それでも、手は上がった。
治療術士が、思わず言った。「それは、戻れない役目です」
義勇兵は、笑わなかった。 「知ってる。俺達は、さっき何もできなかったから。今度は、誰かを前に送るくらいはしたい」
彼らは悪人ではなかった。仲間を失い、恐怖し、それでも前へ送るために残ることを選んだ人間だった。だからこそ、あまりにも悲惨だった。
◆
その頃、リィナはまだ治療区画にいた。 第三防衛線の乾いた音は、遠くから途切れ途切れに聞こえてくる。だが、私は外へ行かなかった。行けなかった。目の前に、痛みに震えるファミリア達がいるからだ。
聖水を浴びたディロフォサウルスの皮膚には白く焼けた痕が残り、聖印付きの矢がかすめたミクロラプトルの翼には術式が絡んでいる。結界杭に触れたデイノニクスの脚は不自然に光を拒み、糸を焼かれたアラネオは動かない。 赤枝の死を見たメソピテクスとペゴマスタクスは、ずっと彼が倒れていた方角を見つめたままだった。
私は、小さく息を吐いた。 「……今は、こちらです」
自分に言い聞かせるように呟き、手を動かす。 「動かないでくださいね。聖印を外しますから」
指先に光を灯す。神聖術は本来、傷を癒やし、痛みを鎮めるためのものだ。 けれど今、私は神聖術によって刻まれた拒絶を、同じ神聖術で、同じ祈りでほどいていた。人が傷つけたものを、人の手でほどいている。その矛盾が、胸をきつく締めつける。
外でまた、タレットの音が響いた。私が一瞬だけ顔を上げると、ミクロラプトルが小さく不安そうに鳴いた。すぐに視線を戻す。
「大丈夫。まだ、戻せます。今度は、絶対に間に合わせますから」
声は震えていたけれど、手は止めなかった。シルヴィアが近くで低く喉を鳴らし、私は静かに頷く。
人間を見捨てたわけではない。けれど私は今、ライラの家族を救う役割を選んでいる。その選択の重さは、私の胸に苦く沈み続けていた。
◆
指揮所で、ライラは残存聖戦軍が集まっていくのをじっと見つめていた。射程外ぎりぎりに集まる人間達の反応。その中から、再び前へ出ようとする反応が動き出す。
治療区画では、傷ついたファミリア達の反応が揺れている。ライラは、それらを淡々と画面越しに見つめた。
「集まった。まだ来るんだ」
声は荒れていない。けれど、どこまでも冷たかった。赤枝が、もういないからだ。ライラは、自らの防衛方針を一切変えなかった。
「射程外なら撃たない。前に出るなら撃って。塔を攻撃するなら撃って。家に向かうなら止めて」
聖戦軍の覚悟を、ライラは見ていた。彼らが仲間を前に送るために残ることを選んだことも分かっていた。 それでも、止めない。その覚悟は、彼女の家へ向かっている。だから、塔が冷徹に迎撃する。
◆
突破は、囮隊から始まった。 義勇兵達が、折れかけた旗を掲げて叫ぶ。
「こちらだ! 魔王の眷属ども、こっちを見ろ!」
神聖術の光が放たれ、タレットのいくつかの砲座がそちらへ機械的に首を向けた。 次に、盾隊が出た。大盾を重ね、身体ごと壁になる。乾いた連続音が盾を絶え間なく叩き、一枚目が軋み、二枚目がへこみ、三枚目の聖印が砕け散る。けれど、彼らは執念で踏みとどまった。
「結界!!」 武装神官達が膝をつき、白い光の壁が立ち上がる。十息、それだけのための防壁。
「一!」 突破隊が一斉に走り出す。
「二!」 砲座破壊隊が低く身を伏せ、壊れかけた下段の筒へ向かう。
「三!」 矢が飛び、神聖術の光が走る。黒い筒のいくつかが火花を散らし、動きを止めた。
「四!」 囮隊の旗が撃ち抜かれ、旗手が倒れかける。隣の義勇兵がそれを受け取り、また高く掲げた。
「五!」 塔のいくつかがそちらへ向いた。その瞬間、キルゾーンにほんのわずかな「隙」が生まれた。
突破隊が、狂ったように走り出した。
◆
そこから先は、必要と割り切るしかない犠牲の連鎖だった。
盾隊の前列が倒れれば、後列がその盾を拾って前に出る。結界担当が血を吐きながら壁を維持し、砲座破壊隊の一人が筒を一本止めてはその場に倒れる。 だが、その止まった一本分だけ、後ろの者が確実に前へ走れた。
義勇兵が旗を掲げたまま、別方向へ走ってターゲットを引きつける。 「今だ! 走れ!」
聖騎士が自らの盾を突破隊へ投げつけた。「持っていけ!」 「あなたは!」 「いいから行け!!」
武装神官が最後の術式を放ち、光が一瞬だけタレットの駆動を鈍らせる。その数秒の間に、さらに三人が走り抜けた。
治療術士が、恐怖で戻ろうとした兵の腕を強く掴んだ。 「戻らないで! 戻ったら、あの人が残った意味が全部なくなります!」
言葉は残酷だった。けれど、それが唯一の真実だった。 道が開いたのではない。開けた者が、その場に残っただけだった。 突破隊は、その仲間達の背を踏み越えて進むしかなかった。
◆
彼らが踏み越えたのは、敵ではなかった。 先に進もうとして倒れた、自分達の白銀の旗だった。
泥に沈んだ布を越え、割れた聖印を越え、持ち主のいない盾を越えて、突破隊は死に物狂いで走った。 盾はほとんど残っていない。鎧は傷だらけで聖水は底をつき、結界担当は息も絶え絶えだった。治療術士はボロボロと涙を流しながら走っていた。
止まれば、残った者達が作った数秒が無駄になる。 背後でタレットの音が鳴り続ける中、彼らはついに、キルゾーンを突破した。
勝ったわけではない。ただ、仲間が作った空白を、走り抜けただけだった。
◆
タレットタワー群の内側で、複数のルートから命を繋いだ突破隊が合流した。 全員が激しい息をしていたが、誰一人として勝者の顔はしていない。点呼が始まった。
「正面隊」 「……残り、七」
「谷道隊」 「三」
「岩場隊」 「十一。うち、弓を持てる者は四」
「小川沿い」 「負傷者を含めて、五」
「倒木斜面」 ――誰も答えなかった。重い沈黙が落ちる。
「倒木斜面!!」 もう一度叫ぶが、返事はなかった。やがて、誰かが静かに首を振った。
かつて十万の大軍として海を越えた聖戦軍の面影は、もうどこにもない。 海を越え、空を越え、森を越え、鋼の塔を越えた先にいたのは、千にも届かない、傷だらけの残存兵だけだった。その中から、さらに進める者は数百に満たない。 合流は勝利ではない。ただの、絶望的な喪失の確認だった。
◆
指揮所で、ライラは少数の人間達が第三防衛線を抜けたことを確認した。焦りは全くない。ここは数を削るための線にすぎないからだ。
ライラは、拠点側、さらに奥の広い平原の先に待つ、最後の子達へ意識を向けた。
「じゃあ、最後の子達」
その声は、無人のタレットへ命じるものとは違っていた。家族へ頼む、切実な声だった。
「カイザー。お願い、近づけないで」
画面の奥で、圧倒的な質量を持つ黒いシグナルが、静かに動き出した。
◆
第三防衛線を抜けた残存聖戦軍は、前を向いた。
背後では、まだ鋼の塔の音が遠く響いている。 ダダダダダ、と鳴り響く乾いた連続音。詠唱も祈りもなく、ただ効率的に人を削っていく無機質な鉄の音。
けれど、彼らはその地獄の射線の内側を、仲間の犠牲によって辛うじて駆け抜けたのだ。
前には、遮るもののない広大な平原がある。 拠点へと真っ直ぐに続く道がある。朝の光が、血と泥に汚れた彼らの鎧を容赦なく照らし出していた。
誰かが、膝に手をついて荒く息を吐き出した。
「抜けた……」
その声には、勝利の響きなど微塵もなかった。ただ、まだ生きている、まだ立っている――それだけを奇跡のように確かめる、掠れた声だった。
◆
次の瞬間、大地が凄まじく揺れた。
最初は、誰もが先ほどの衝撃による地震かと思った。 だが、違う。地鳴りのような揺れは、一度では終わらなかった。
――ドン。 一歩。大地が低く震える。
――ドン。 もう一歩。平原の草が波のように激しく揺れ、遠くの土埃が朝日の中でゆっくりと立ち上がっていく。
何かが、こちらへ向かって歩いている。 ひとつではない。重く、圧倒的な質量を持つ足音が、幾重にも重なって確実に近づいてくる。
霧のような、低く白い吐息。
土埃の向こうに浮かび上がる、巨大な影の輪郭。
朝日を受けて、ナイフのように鈍く光る無数の牙。
太い首、そして大地を容赦なく踏み潰す丸太のような脚。 最初に見えたのは、巨竜のような影の群れだった。
だが、彼らに翼はない。空を飛ぶ竜ではない。人の世の古い伝承に現れる、どのような魔獣とも根本的に違っていた。ただ地上を歩き、生命を蹂躙するためだけに作られたかのような、絶対的な肉食の王達。それらが横一列に、平原の奥を塞ぐように並び立つ。
厚い頭骨、岩をも容易く噛み砕けそうな巨大な顎。鎧のように盛り上がった筋肉を震わせ、それらが横一列に平原の奥を塞ぐように並び立つ。
◆
そのさらに横に、別の不気味な影が現れた。
低く、長く、より獰猛な飢えを孕んだ輪郭。 首を低く下げたまま、獲物の総数を測るように静かにこちらを凝視している。歩くたびに凶暴な爪が地面を深く抉り、重い尾がゆっくりと草を薙ぎ払う。
そして、そのさらに奥。 ひときわ巨大な影が姿を現した瞬間、誰かが呼吸を忘れて言葉を失った。
大きい。あまりにも、大きすぎる。 竜ではない、巨人でもない。魔獣という言葉でも、その存在感を説明するには足りない。
――山が、牙を持って歩いている。
そんな馬鹿げた、けれどこれ以上ないほど正確な絶望の言葉が、疲弊しきった兵の頭に浮かんでいた。
そして、その中心。
圧倒的な黒い巨体が、ゆっくりと顔を上げた。 他のどの影よりも重く、深く、そして不気味なほどに静かだった。
吠えない。駆け出さない。牙を剥いてこれ以上の威嚇をすることすらしない。 ただ、そこに泰然と佇んでいる。それだけで、平原全体の空気の圧力が変わった
◆
先ほどまで彼らを削っていた鋼の塔は、冷たい無機質の恐怖だった。何を考えているのか分からない、自動制御の砲座だった。
だが、目の前の黒い巨影は違う。 確実に生きている。息をしている。そして、明確な意思を持って、こちらを静かに見つめているのだ。
聖戦軍の残存兵達は、誰もすぐには声を出せなかった。
ようやく合流した。ようやくあの殺し間の塔を抜けた。 無数の仲間をその場に残し、白銀の旗を泥に捨て、盾を砕かれ、祈りの術力をすべて使い果たして、命からがらここまで辿り着いた。
だが、それは勝利などではなかった。ただ、最後の門番の前に、残された者達が辿り着いただけだった。
鋼の塔の音が、背後で遠ざかっていく。 その代わりに、前方の大地が重く、重く鳴り響いた。
黒い巨影が、朝日の中で静かに彼らを見下ろす。
カイザーが、そこで待っていた。