廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第42話 最後の門番

第三防衛線を越えた者達は、前を向いた。

 

背後では、鋼の塔の音がまだ遠く響いていた。詠唱も祈りもなく、ただ人を削っていくだけの、乾いた鉄の連続音だった。彼らはその射線を、仲間の盾を踏み越え、倒れた白銀の旗を越え、残された者達の祈りを背にして、ようやく抜けてきたのだ。

 

目の前には、遮るもののない広い平原が広がっていた。

 

朝の光が、血と泥に汚れた鎧を照らしている。折れた旗を抱えた兵がいて、欠けた聖印を胸元に押し当てた神官がいた。片腕に包帯を巻いた聖騎士は息を荒げながらかろうじて立ち、治療術士は負傷者の肩を支えていたが、もう祈る声すら掠れていた。

 

無傷の者は一人もいなかった。聖水は底をつき、結界杭は折れ、聖具は欠け、盾は割れている。武装神官達の術力も限界に近く、義勇兵達の足は震えていた。

 

それでも彼らは、平原の先にある、魔王の拠点と信じる場所を見ていた。

 

かつて十万の大軍として海を越えた聖戦軍第一陣の、最後に残された者達だった。その数は、もはや数百にすぎない。

 

「ここまで来た。あとは、あの城だけだ」

 

「ここで……終わらせる」

 

勝利を確信した者の言葉ではなかった。ここまで来てしまい、これほど多くの仲間を失ってしまった以上、前を見るしかない。それだけの、あまりにも悲痛な意地だった。

 

その最後の意地を折るものが、平原の奥で、静かに動き始めていた。

 

◆

 

――ドン。

 

最初に聞こえたのは、地鳴りだった。

 

一歩ごとに大地が低く震え、疲れきった兵達の足元で、青々とした草がわずかに揺れる。重すぎる足音がいくつも重なりながら、平原の端から近づいてきた。

 

正面だけではなかった。左の低い丘の陰からも、右の岩場の向こうからも、拠点へ続く道の脇や森との境界からも、土埃を割って山のような影の群れが現れた。

 

それは襲撃ではなかった。平原を囲むように、圧倒的な質量がただそこに立ち上がったのだ。

 

翼のない、巨大な肉食の獣達だった。太い首に厚い頭骨、鎧のように盛り上がった筋肉、岩さえ砕きそうな顎。朝日を受けて、牙が鈍く光っている。その横には、さらに低く、より獰猛な輪郭の影が並んでいった。

 

彼らは走らず、吠えもせず、ただ整然と配置についた。前へ進む道を塞ぎ、左右の逃げ道を潰し、森へ戻る道を狭めるように。口を閉じたまま、静かに聖戦軍を見下ろしていた。

 

もし獰猛に襲いかかってきたのなら、彼らはまだ抗えたかもしれない。盾を構え、祈りを唱え、最後の力で戦おうとしただろう。けれど巨獣達はただ現れて、ただ囲んだだけだった。

 

それだけで、彼らは本能的に悟らされていた。ここは突破した先などではなく、ここもまた門なのだと。

 

退けば鋼の塔があり、進めば巨獣の牙がある。左右にも、もう逃げ道はない。空はこれほど明るいのに、世界のどこにも逃げ場がなかった。

 

「……まだ、あるのか」

 

誰かの小さな呟きに、答えられる者はいなかった。仲間を残し、祈りを使い果たし、盾を砕かれてここまで来たというのに、まだこれほどの門番がいたのだ。それも鋼ではなく、確かに生きて息をしている災厄が、彼らを静かに待っていた。

 

肉食獣達の列が、音もなく自然に割れた。

 

その奥から、ひときわ巨大な影が歩いてきた。一歩進むたびに平原が沈み込むようで、山が牙を持って歩いているかのような質量だった。

 

巨大な頭がゆっくりと持ち上がり、深い瞳が、数百の人間を見下ろした。その目にあったのは、獲物を前にした飢えではなく、深い、逃げ場のない静けさだった。

 

最後の門番。カイザーだった。

 

カイザーは聖戦軍の正面で、ぴたりと止まった。近すぎるほどの距離だったが、噛みもせず、踏み潰しもせず、ただそこに立っていた。

 

それだけで聖騎士達の盾は意味を失い、神官達の祈りは喉の奥で萎み、義勇兵達の膝は震え始めた。

 

◆

 

重すぎる沈黙の中で、カイザーが低く喉を鳴らした。

 

音というより、地面の底から響いてくる地鳴りだった。それが合図だった。

 

次の瞬間、平原を囲むすべての大型の獣達が、一斉に咆哮した。

 

大気が折れ、大地が震え、鎧の内側で骨が鳴った。平原を包む空気そのものが、見えない巨大な手で押し潰されるように歪んでいく。

 

兵達は耳を塞ぎ、次々と膝をつき、声にならない悲鳴を上げて砂に伏せた。祈りの声が消え、剣が手から落ち、大盾を構えていた聖騎士が崩れ落ちる。義勇兵が子供のように泣き出し、武装神官は聖印を握りしめたまま、呆然と目を見開いていた。

 

ただの咆哮だった。けれど、それで十分だった。

 

海で船を失い、森で壊され、鋼の塔で中隊を失い、それでもかろうじて残っていた最後の戦意が、そこで折れた。

 

「無理だ……」

 

誰かが呟いた絶望を、もう否定できる者はいなかった。彼らはまだ死んではいなかったが、もう誰一人として戦えなかった。

 

◆

 

その時、空が暗くなった。

 

雲ではなく、翼だった。雷の気配を纏うもの、喉の奥に炎を宿すもの、毒の気配を漂わせるもの、氷のような翼を広げるもの、宝石のような鱗を朝日に輝かせるもの。色とりどりのワイバーン達が、空を埋めるように高度を下げてくる。翼が風を叩くたびに、平原の草が大きくなぎ倒された。

 

地上の巨獣達は動かず、空の竜達を迎えるように、静かに道を空けた。

 

その空の中心から、赤い鱗のクリスタルワイバーンが降りてきた。その背には、白銀の髪の少女が乗っていた。

 

聖戦軍の兵達は、恐る恐る顔を上げた。巨獣の軍勢を従え、鋼の塔の先に現れた少女の姿は、彼らの目には魔王の降臨にしか見えなかった。

 

少女は竜の背から、静かに地面へ降りた。

 

叫ぶことも、怒鳴ることもなかった。降りた先は、カイザーの巨大な頭のすぐ横だった。その影の中に、少女は立った。

 

カイザーがわずかに頭を下げ、ワイバーン達が周囲を制するように翼を広げる。その中心で、少女は聖戦軍の残党を見つめた。

 

三百か、四百か。かつて十万を誇った軍の、哀れな残り火だった。

 

「武器を置いて。聖具も。怪我人は後ろへ。治療はしていい。でも、こっちには来ないで」

 

短く、静かな声だった。その言葉に、治療術士達がはっと息を呑んだ。

 

「ここから先に来るなら、殺す」

 

冷たい言葉だったが、ただの脅しではなかった。すべてを終わらせるために、彼女が示せる最後の道だった。

 

その時、色を失った兵達の間から、一人の男が歩み出てきた。

 

止めようとする護衛の聖騎士を片手で制し、泥と血に汚れた白い法衣のまま、男はまっすぐ少女の前へ進んだ。胸元の枢機卿の聖印は欠け、片腕には包帯が巻かれ、手にした聖杖には傷が走っている。

 

アレクシオ・レーヴェン枢機卿だった。

 

本気で人類すべてを救おうとしていた、善意の強硬派。かつて神学校で、一人の少女がその高潔な理想を仰ぎ見た人物でもある。その彼が、聖戦軍第一陣の最高指揮官として、魔王の前に立っていた。

 

「この軍の責任は、私にある」

 

アレクシオは背筋を伸ばし、少女を見据えた。

 

◆

 

近くで見ると、少女はあまりにも小さかった。

 

アレクシオの胸ほどにも届かない背丈で、華奢な肩をしている。十六か、十七か。その歳の頃の娘なら、法国の施療院にも、聖歌隊にもいくらでもいる。

 

けれど、その背後には山のような黒い巨獣がいて、頭上には竜の群れが旋回していた。少女はその巨獣の頭の陰に、半ば身を寄せるようにして立っている。まるで、その影から出るつもりがないかのように。

 

アレクシオは、そのことに気づいた。

 

そしてもう一つ。彼が一歩、また一歩と近づくたびに、少女の指先が、ほんのわずかに動いたことにも。

 

一度だけ、その指が小さく震えた。少女はすぐにその手を握り込み、身体の横に下ろした。

 

――怒りを、抑えているのだ。

 

アレクシオはそう受け取った。これほどの軍勢を率いて島を守りきった主が、侵略者の長を前にして、湧き上がる怒りを必死に押し殺している。その手が震えるのは当然だろう、と。

 

彼は一歩だけ距離を取った。礼儀としてではなく、その怒りを刺激しないために。

 

その一歩で、少女の肩がほんのわずかに下りたことには、気づかなかった。

 

◆

 

竜と巨獣に囲まれた平原の中央で、二人の声だけが静かに交わされた。

 

「貴女が、この島の主人か」

 

「うん。ライラ。この島の主人」

 

少女は短く答えた。魔王とは名乗らず、名前を告げた。

 

「禁忌の島の主人は魔王であると、我らは聞いている。魔物を従える存在を放置すれば、いずれ世界が呑まれると教えられ、それを信じた。ここにいる兵達も、世界を守るために海を越えたのだ」

 

アレクシオは、倒れた兵達の方へ視線を向けた。

 

「その兵達が、ここで死んだ」

 

「うん」

 

ライラは否定しなかった。事実をそのまま受け止めるように、頷いた。

 

「貴女が魔王でないと、何をもって信じればよい」

 

「信じなくていい」

 

あまりにも短い答えに、アレクシオは言葉を失った。

 

「でも、私は世界を取りたいわけじゃない。人間を滅ぼしたいわけでもない。ここで、うちの子達と暮らしてただけ」

 

うちの子、とライラがその言葉を口にした瞬間、アレクシオの目がわずかに揺れた。彼らが魔物の軍勢と呼び、悪魔の眷属と呼んだ存在を、この少女は家族のように呼んだのだ。

 

「先に来たのは、あなた達。警告はした。逃げる人は追わなかった。治療してる人も、救助してる人も、攻撃しなかった」

 

ライラは静かに続けた。

 

「それでも、あなた達は来た。だから、止めた」

 

聖杖を握るアレクシオの手に、力がこもった。

 

「ここまで死んだ者達の意味を、私は失わせるわけにはいかないのだ!」

 

その声にあったのは、怒りだけではなかった。責任があり、悔恨があり、自分が率いた兵達をここまで連れてきてしまった者の重さがあった。

 

「うちの子も死んだ」

 

ライラが言ったのは、それだけだった。

 

アレクシオは、沈黙した。

 

彼にとって魔物は討つべき悪であり、聖戦の対象だった。けれど目の前の少女にとっては、昨夜、精鋭小隊が森で討ったというあの獣も、かけがえのない家族だったのだ。その事実が、彼の中に小さなひびを入れた。

 

◆

 

アレクシオは、ゆっくりと振り返った。

 

心が折れた兵達がいた。武器を落とした義勇兵がいて、血の滲む包帯を押さえた聖騎士がいて、負傷者を抱えて泣き出しそうな顔をしている治療術士達がいた。ここでこれ以上の進軍を命じれば、残った兵は一人残らず、この平原で倒れるだろう。

 

それはもう、人類を守るための聖戦などではない。自分の敗北を認められず、責任から逃れるために、死を積み上げるだけの命令だ。

 

アレクシオは深く、長く息を吐き、手にした傷だらけの聖杖を見つめた。

 

ライラを信じたわけではなかった。法国の教義を捨てたわけでもない。それでも、今ここで前進を命じることはできなかった。それはもう信仰ではなく、指揮官としての責任を失った者の意地でしかないからだ。

 

アレクシオは、聖杖を草の上へ、ゆっくりと置いた。

 

カツン、という乾いた音が、平原に小さく響いた。兵達が、一斉に息を呑んだ。

 

「……武器を置け」

 

誰も、動けなかった。

 

アレクシオはもう一度、今度ははっきりと全軍へ告げた。

 

「武器を、置け。聖戦軍第一陣は、ここで戦闘を停止する」

 

その命令が、朝の平原に静かに落ちた。

 

カイザーも、周りを取り囲む巨獣達も、一歩も踏み出さなかった。空のワイバーン達も沈黙を守り、ライラもまた、カイザーの影の中から、ただそれを見ていた。

 

やがて、一本の剣が地面に落ちた。続いて槍が落ち、割れた盾が草の上へ伏せられ、神官達が震える手で聖具を地面へ置いていく。カララン、と武器が手放される音が、ひとつ、またひとつと平原に広がっていった。

 

十万の祈りと恐怖を乗せて始まった聖戦軍第一陣は、この黒い門番の前で、ついに膝を折った。

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