第三防衛線を越えた者達は、前を向いた。
背後では、まだ鋼の塔の音が遠く響いている。
詠唱も祈りもなく、ただ人を削っていく、乾いた鉄の連続音。
だが、彼らはその射線を越えた。
仲間の盾を踏み越え、倒れた白銀の旗を越え、残された者達の祈りを背にして、ようやくあの殺し間を抜けたのだ。
前には、遮るもののない広大な平原が広がっていた。
朝の光が、血と泥に汚れた鎧を照らしている。
折れた旗を抱えた兵がいる。欠けた聖印を胸元に押し当てた神官がいる。片腕に包帯を巻いた聖騎士が、息を荒げながらかろうじて立っている。治療術士は負傷者の肩を支え、もう祈る声すら掠れていた。
誰も無傷ではなかった。
聖水は底をつき、結界杭は折れ、聖具は欠け、盾は割れている。武装神官達の術力も限界に近く、義勇兵達の足は震えていた。
それでも、彼らは前を見ていた。
平原の先にある、魔王の拠点と信じる場所を。
かつて十万の大軍として海を越えた聖戦軍第一陣。
その最後に残された者達は、もはや数百人に過ぎない。
「ここまで来た。あとは、あの城だけだ」
「ここで……終わらせる」
それは勝利を確信した者の言葉ではなかった。
ただ、ここまで来てしまった。
これほど多くの仲間を失ってしまった。
ならば前を見るしかない。
それだけの、あまりにも悲痛な意地だった。
そして、その最後の意地を折るものが、平原の奥で静かに動き始めた。
◆
――ドン。
最初に聞こえたのは、地鳴りだった。
一歩。
大地が低く震える。
もう一歩。
疲弊した兵達の足元で、青々とした草がわずかに揺れた。
重すぎる足音が、いくつも重なって平原の端から近づいてくる。
正面だけではない。
左の低い丘の陰。右の岩場の向こう。拠点へ続く道の脇。森との境界。
土埃の向こうから現れたのは、山のような影の群れだった。
それは襲撃ではなかった。
ただ、平原を囲むように、圧倒的な質量がそこへ立ち上がったのだ。
翼のない、巨大な肉食の獣達。
太い首。厚い頭骨。鎧のように盛り上がった筋肉。岩すら粉砕しそうな顎。朝日を受けて鈍く光る牙。
さらにその横には、より低く、より獰猛な輪郭を持つ影が並んでいく。
彼らは走らない。吠えもしない。ただ、整然と配置についていく。
前進路を塞ぎ、左右の逃げ道を潰し、森へ戻る道を狭めるように。
口を閉じたまま、静かに、聖戦軍を見下ろしていた。
もし獰猛に襲いかかってきたなら、彼らはまだ抗えたかもしれない。
盾を構え、祈りを唱え、最後の力で戦おうとしたかもしれない。
だが、巨獣達はただ現れ、ただ囲んだ。
それだけで、彼らは本能的に悟らされていた。
ここは突破した先などではない。
ここもまた、門なのだと。
◆
退けば鋼の塔。
進めば巨獣の牙。
左右にも、すでに逃げ道はない。
空はこれほど明るいのに、世界のどこにも逃げ場がなかった。
「……まだ、あるのか」
誰かが小さく呟いた。
誰も答えられなかった。
仲間を残し、祈りを使い果たし、盾を砕かれてここまで来たのに、まだこれほど圧倒的な門番がいた。
それも、鋼ではない。
確かに生きて、息をしている災厄が、彼らを静かに待っていた。
巨大な肉食獣達の列が、音もなく自然に割れた。
その奥から、ひときわ巨大な影が歩いてくる。
それを見た瞬間、聖戦軍の誰もが声を失った。
一歩進むたび、平原が沈む。
山が牙を持って歩いているかのような、圧倒的な質量。
巨大な頭がゆっくりと上がり、深い瞳が数百人の人間を見下ろした。
その目には、獲物を前にした飢えとは違うものがあった。
深い、逃げ場のない静けさ。
あれが、最後の門番。
カイザーだった。
カイザーは聖戦軍の正面でぴたりと止まった。
近すぎるほど近い。 けれど、噛まない。踏み潰しもしない。ただ、立っている。
それだけで、聖騎士達の盾は意味を失い、神官達の祈りは喉の奥で萎み、義勇兵達の膝は震え始めた。
◆
重すぎる沈黙の中、カイザーが低く喉を鳴らした。
それは音というより、地面の底から響く地鳴りだった。
それが、合図だった。
次の瞬間、平原を囲むすべての大型ファミリア達が、一斉に咆哮した。
大気が折れた。
大地が震え、鎧の内側で骨が鳴る。
平原を包む空気が、見えない巨大な手で押し潰されるように歪んだ。
兵達は耳を塞ぎ、次々と膝をつき、声にならない悲鳴を上げて砂に伏せた。
祈りの声が消える。
剣が手から落ちる。
大盾を構えていた聖騎士が崩れ落ちる。
義勇兵が子供のように泣き出し、武装神官が聖印を握りしめたまま呆然と目を見開いた。
それはただの咆哮だった。
けれど、それだけで十分だった。
海で船を失い、森で壊され、鋼の塔で中隊を失い、それでもかろうじて残っていた彼らの最後の戦意が、今、折れた。
「無理だ……」
誰かが呟いた。
その絶望を、もう誰も否定できなかった。
彼らはまだ死んでいない。
だが、もう誰一人として戦えなかった。
◆
その時、空が暗くなった。
雲ではない。
翼だった。
色とりどりのワイバーン達が、空を埋めるように高度を下げてくる。
雷の気配を纏うもの。
炎を喉の奥に宿すもの。
毒の気配を漂わせるもの。
氷を思わせる翼を広げるもの。
宝石のような鱗を朝日に輝かせるもの。
翼が風を叩くたび、平原の草が大きくなぎ倒された。
地上で待機していたカイザー達は動かない。
ただ、空の竜達を迎えるように、静かに道を空ける。
治療区画では、命に関わる術式の除去だけは終わっていた。
まだ痛みに震える子達はいる。完全に癒えたわけではない。
それでも、聖戦軍第一陣の終着点を見届けるため、リィナはシルヴィアの背に乗ってライラを追った。
リィナの胸には、まだ治療区画の光景が残っている。
翼を傷めたミクロラプトル。
聖水の痕に震えていたディロフォサウルス。
槍傷を負ったデイノニクス。
糸を焼かれ、動けずにいたアラネオ。
リィナの手で聖印の棘をほどき、命だけは繋いだ。
だが、外から響いていた鋼の塔の音は、その間ずっと彼女の胸を刺し続けていた。
その空の中心から、ライラを乗せた赤い鱗のクリスタルワイバーンが降下する。
続いて、リィナとシルヴィアも、その傍らへと静かに降り立った。
聖戦軍の兵達が、恐る恐る顔を上げる。
巨獣の軍勢を従え、鋼の塔の先に現れた白銀の髪の少女。
その傍らに降り立つ、青白い光を宿した竜と元聖女。
彼らの目には、この光景が魔王の降臨に見えているのだろうと、リィナにも分かった。
◆
ライラは竜の背から静かに地面へ降りた。
叫ばない。
怒鳴らない。
ただ、真っ直ぐに立つ。
その表情にあるのは、怒りよりも深い疲弊だった。
カイザーがわずかに頭を下げる。
ワイバーン達が周囲を制圧するように翼を広げる。
その中心で、ライラは聖戦軍の残党を見つめた。
もはや三百か、四百人。
かつて十万を誇った軍の、哀れな残り火。
ライラは短く、静かに告げた。
「武器を置いて。聖具も。怪我人は後ろへ。治療はしていい。でも、こっちには来ないで」
その言葉に、治療術士達がはっと息を呑む。
「ここから先に来るなら、殺す」
それは冷たい言葉だった。
けれど、ただの脅しではない。
もうすべてを終わりにするために、ライラが提示できる最後の道だった。
その時、色を失った兵達の間から、一人の男が歩み出てきた。
護衛の聖騎士が止めようとするのを片手で制し、泥と血に汚れた白い法衣をまとったその男は、真っ直ぐにライラの前に立つ。
欠けた枢機卿の聖印。
片腕に巻かれた包帯。
傷の走った聖杖。
アレクシオ・レーヴェン枢機卿。
かつて神学校で、リィナがその高潔な理想を仰ぎ見た人物だった。
本気で人類すべてを救おうとしていた、善意の強硬派。
その彼が、聖戦軍第一陣の最高指揮官として、ライラ達の前に立っていた。
「この軍の責任は、私にある」
アレクシオは背筋を伸ばし、ライラと、その横にいるリィナをじっと見た。
◆
竜と巨獣に囲まれた平原の中央で、二人の声だけが静かに交わされる。
リィナは、シルヴィアの傍らで固唾を呑んで見守っていた。
「貴女が、この島の主人か」
「うん。ライラ。この島の主人」
ライラは短く答えた。
魔王ではなく、名前を。
「禁忌の島の主人は、魔王であると聞いている。我らは人類を守るために来た。魔物を従える存在を放置すれば、いずれ世界が呑まれると教えられ、それを信じた。ここにいる兵達も、世界を守るために海を越えたのだ」
アレクシオは、倒れた兵達の方へ視線を向ける。
「その兵達が、ここで死んだ」
「うん」
ライラは否定しなかった。
事実を、ただ受け止めるように頷く。
「貴女が魔王でないと、何をもって信じればよい」
「信じなくていい」
ライラの答えは、あまりにも短かった。
アレクシオが言葉を失う。
「でも、私は世界を取りたいわけじゃない。人間を滅ぼしたいわけでもない。ここで、うちの子達と暮らしてただけ」
うちの子。
ライラがその言葉を口にした瞬間、アレクシオの目がわずかに揺れた。
彼らが魔物の軍勢、悪魔の眷属と呼んだ存在を、彼女は家族のようにそう呼んだのだ。
「先に来たのは、あなた達。警告はした。逃げる人は追わなかった。治療してる人も、救助してる人も、攻撃しなかった」
ライラは静かに続ける。
「それでも、あなた達は来た。だから、止めた」
アレクシオの手が、聖杖を強く握りしめる。
「ここまで死んだ者達の意味を、私は失わせるわけにはいかないのだ!」
その声には、怒りだけではない。
責任があった。
悔恨があった。
自分が率いた兵達を、ここまで連れてきてしまった者の重さがあった。
ライラは、短く言った。
「うちの子も死んだ」
それだけだった。
アレクシオは沈黙した。
彼にとって魔物は討つべき悪であり、聖戦の対象だった。
だが、目の前の少女にとっては、昨夜命を落としたあの赤枝も、かけがえのない家族だった。
その事実が、彼の中に小さなひびを入れた。
◆
アレクシオは、ゆっくりと振り返り、自らの背後を見た。
心が折れた兵達。
武器を落とした義勇兵。
血の滲む包帯を押さえた聖騎士。
負傷者を抱えて泣きそうな顔をしている治療術士達。
ここでこれ以上の進軍を命じれば、残った兵は一人残らず、この平原で倒される。
それは人類を守るための聖戦などではない。
ただ、自分の敗北を認められず、責任から逃れるために死を積み上げるだけの命令だ。
アレクシオは、深く、長く息を吐いた。
そして、自らの手にある傷ついた聖杖を見つめる。
彼は、ライラを完全に信じたわけではない。
法国の教義を捨てたわけでもない。
それでも、今ここで前進を命じることはできなかった。
それはもう、信仰ではない。
指揮官としての責任を失った者の意地だ。
アレクシオは、ゆっくりと聖杖を地面の草の上へ置いた。
カツン、と乾いた音が、平原に小さく響く。
兵達が一斉に息を呑んだ。
「……武器を置け」
誰も動けなかった。
アレクシオはもう一度、今度ははっきりと、全軍へ告げた。
「武器を、置け。聖戦軍第一陣は、ここで戦闘を停止する」
その命令が、朝の平原に静かに落ちた。
カイザーも、周りを取り囲む巨獣達も、一歩も踏み出さなかった。
ワイバーン達も、空で静かに沈黙を守っている。
ライラも、ただそれを見ていた。
やがて、一本の剣が地面に落ちた。
続いて、槍が落ちる。
割れた盾が草の上へ伏せられる。
神官達が、震える手で聖具を地面へ置いていく。
カララン、と武器が手放される音が、ひとつ、またひとつと平原へ広がっていった。
十万の祈りと恐怖を乗せて始まった聖戦軍第一陣は、この黒い門番の前で、ついに膝を折った。