廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第43話 返させた者達 帰ってこなかった者達

カララン、と一本の剣が草の上に落ちた。

それを合図にしたかのように、次々と武器が地面へ置かれていった。

 

槍。折れた弓。欠けた聖具。聖印の刻まれた短剣。幾筋もの罅が入った大盾。

金属が草を叩く音は、驚くほど小さく、そしてひどく虚しく響いた。

 

十万の祈りと恐怖を背負って海を越えた、聖戦軍第一陣。

その最後に残った者達が戦闘停止の意志を示しているというのに、平原には勝利の歓声などどこにもなかった。

 

聖戦軍の側にも。ライラの側にも。

誰も叫ばなかった。誰も笑わなかった。誰も勝利を誇らなかった。

そこには、ただ重い「沈黙」だけが落ちていた。

 

アレクシオ・レーヴェン枢機卿の聖杖は、力なく草の上に横たわっていた。泥と血に汚れた白い法衣の裾が、朝の風にわずかに揺れていた。

 

武器を置いた者。

 

まだ現実を受け入れられず、指先だけを強張らせている者。

 

膝をついたまま動けない者。

 

負傷者を抱え、顔を上げられない治療術士。

 

彼らを取り囲む巨獣達は、微動だにしなかった。

カイザーは聖戦軍の正面で静かに佇んでいた。牙を持つ王達が左右と後方を完全に塞ぎ、空にはワイバーン達が巨大な影を落としていた。襲いかかってはこなかった。だからこそ、兵達は恐怖のあまり指一本動かすことができなかった。

 

 

ライラは、その重苦しい沈黙を長く引きずることはしなかった。勝敗の余韻に浸るような時間など、彼女には一秒たりとも必要なかったからだ。

 

彼女の視線が、一度だけ背後の屋敷の方へ向いた。

――まだ、リィナは戻ってきていない。

屋敷の奥での過酷な治療は、まだ終わっていなかった。それだけで、ライラには十分だった。まだ危ない家族がいる。けれど今、この場を放置してリィナのいる屋敷に戻るわけにはいかなかった。

 

島の中には、まだ大勢の人間が散らばっていた。

武器を持ったままの者。恐怖で何をするか分からない者。負傷して動けない者。草むらや森の奥に隠れている者。それらを全部、一か所に集めておかなければ、家には戻れない。

 

ライラは、アレクシオを真っ直ぐに見つめた。

「この島にいる、生きている人を全員連れてきて」

 

短い、淡々とした命令だった。アレクシオが顔を上げた。

「全員、ですか」

 

「うん。逃げた人。隠れた人。浜にいる人。森にいる人。船に残ってる人。動けない人。怪我してる人。戦う気がなくなった人。――全部」

 

聖戦軍の兵達が息を呑んだ。それは処刑の宣告ではなかった。だが、決して赦しでもなかった。ライラにとっては、単なる「家の中の整理」に近かった。

 

「島の中に、人が残ってるのは困る。武器を持ってる人も、怖がって何をするか分からない人も。あとで何かされるのも困るから」

そこで一度、ライラは周囲の兵達を見渡した。

「だから、全員ここに集めて。――隠したら、次は止めない」

 

アレクシオは、屈辱に唇をきつく引き結んだ。彼は法国の枢機卿であり、十万の軍勢を率いた最高指揮官だった。その自分が、異国の奇妙な少女に敗残兵の回収を命じられていた。

 

だが、拒めば残った兵達が死ぬ。ここで反抗すれば、彼自身が下した戦闘停止の命令すら無意味になる。アレクシオは深く息を吸い、全責任を背負って振り返った。

 

「伝令を出せ。浜へ。森へ。第三防衛線の外縁へ。壊れた船にも、隠れている者にもすべて伝えろ。生存者を集める。武器は持たせるな。負傷者を優先し、動けない者は運べ。――戦闘は終わった。これは最高指揮官である私の命令だ」

 

その言葉で、ようやく兵達が動き始めた。遅く、重く、壊れかけた身体を引きずるようにして。

 

 

聖戦軍の回収班が動き始めたが、彼らに自由などどこにもなかった。鎖で縛られてはいなかった。手足を拘束されてもいなかった。それでも、島そのものに見張られているような圧倒的な感覚が彼らを縛っていた。

 

丘の上には、巨大な肉食獣が座っていた。

岩場の陰からは、低く獰猛な影がこちらをじっと見つめていた。

森の縁では、狼達の目が暗がりで怪しく光っていた。

空では、竜がゆっくりと旋回を続けていた。

海を覗けば、水面下を巨大な影が音もなく滑っていた。

 

ライラは、ファミリア達へ短く語りかけた。

「近づかなくていいよ。見てて。武器を拾ったら止めて。こっちに走ってきたら止めて。逃げるだけなら追わない。――でも、隠れて残るのはだめ。変なことをしたら、攻撃して」

 

誰も鳴かなかった。ただ、それぞれの場所で動かず、聖戦軍の回収作業を監視していた。捕食はしない。だが、反抗すれば終わる。その確固たる規律が、兵達の心をさらに強く縛っていた。

 

 

浜には、まだ多くの者が残っていた。海と空の惨状に怯え、進軍できずに仮の治療所に留まっていた者達だ。

壊れた船の近くには船員達がいた。溺れた者を助けようとしていた兵もいた。負傷者の包帯を替えていた治療術士も、武器を置いたまま座り込んでいる義勇兵もいた。

 

伝令が浜へ到着し、掠れた声で告げた。

「第一陣は降伏した。全員、武器を置いて指定地点へ移動せよ」

 

最初、誰も信じなかった。「何を言っている」「降伏?」「猊下は?」とざわめきが広がった。伝令は、疲れ切った顔でそれを受け止めた。

「アレクシオ猊下の命令だ」

 

その一言で、浜の空気が変わった。信じたくなくても、無視できなかった。

「魔王の拠点前まで行った部隊は……どうなったんだ」

船員の一人が掠れた声で尋ねた。伝令は、静かに顔を伏せた。

「……ほとんど、戻っていない」

 

その一言で、浜の者達は決定的な敗北を現実として受け入れた。

 

 

森の奥深くには、まだ隠れている者達がいた。

草むらに潜んでいた神官見習い。木の根元で震えていた義勇兵。武器を捨て、聖水袋だけを握りしめていた者。毒や麻痺が抜けきらず、うまく立てない者。

 

回収班が声をかけた。

「出てこい。戦闘は終わった。武器を置けば殺されない。枢機卿猊下の命令だ」

それでも、草むらは動かなかった。

「嘘だ……出たら、魔物に食われる……」

 

その時、頭上の枝で影が動いた。長い尾が、一度だけ静かに揺れた。

ティラコレオが、枝の上から彼らを見ていた。

食われる――隠れていた兵達は恐怖に身を硬くした。だが、その獣は飛びかかってこなかった。ただ、じっと見ていた。

 

――逃げるな。隠れるな。出てこい。

そう言われているようだった。やがて草むらが震え、隠れていた神官見習いが、泣きそうな顔で這い出してきた。義勇兵も、よろめきながら立ち上がった。

その手には、もう武器は握られていなかった。

 

 

第三防衛線跡の周辺は、最も重苦しかった。そこには、凄惨な戦場の跡がそのまま残っていた。

砕けた盾。血を吸った土。折れた聖印。倒れた旗。焼けた結界杭。

 

殺し間の外へ転がり出て、生き延びていた者がいた。大盾の陰で息を潜めたまま、動けなくなっていた者がいた。結界を張りすぎて意識が朦朧としている神官がいた。倒れた仲間の下で、奇跡的に助かっていた兵もいた。

 

彼らは、回収班を見てもすぐには反応できなかった。助けが来たと理解できない者もいた。自分だけが生きていることを受け入れられない者もいた。

 

隊旗を抱えたまま動けなくなっていた兵が、回収班を見た。

「……中隊は」

誰も答えられなかった。彼の腕の中にある旗だけが、残酷な答えだった。

 

回収班は、生きている者を拾っていった。担架に乗せ、肩を貸し、水を飲ませ、名前を聞いた。だが、名前を聞くたびに、二度と返ってこない名前の方が圧倒的に多かった。

 

 

生存者達は、拠点から遠く離れた広い平原へと集められていった。

彼らは縄で縛られてはいなかった。だが、誰も大声を出さなかった。誰も走らなかった。武器に手を伸ばす者もいなかった。

空を見ればワイバーンがおり、森を見れば獣の目が光り、海を見れば水面下に巨大な影がある。彼らは理解していた。自分達は捕虜なのだと。そして、この島そのものに囲まれているのだと。

 

点呼は、日が高くなる頃まで続いた。名を呼ぶ声。それに応じるかすれた声。そして、二度と返ってこない無数の名前。

伝令が、震える手で最後の数字をアレクシオに差し出した。

 

「確認された生存者は……およそ、一万」

 

誰も声を出せなかった。

十万だった。この島へ向かった第一陣は、十万だったのだ。そのうち、名を呼ばれ、息をしていると確認された者は、一万。ただ、それだけだった。

 

全員が戦死したわけではない。海に流された者、行方の分からない者、船ごと戻れなくなった者、森で分断され確認できない者、どこかで倒れたままの者。だが、今この島で生きていると確認された者は、一万。

 

十万が、一万になった。アレクシオの指が震えた。その現実を、彼は生涯背負い続けなければならない。

ライラはその数字を聞いても、表情を変えなかった。まだ一万人も島に残っていた。ただ、その事実だけを淡々と処理しようとしていた。

 

 

「全員を集めて、どうするつもりだ」

アレクシオが尋ねた。声には敵意よりも疲労が滲んでいた。

 

「数える。勝手に島に残られると困るから」

ライラは短く答え、そして続けた。

「それから――返すよ。森で預かってた人」

 

アレクシオの目が大きく見開かれた。

 

「……生きているのか」

「殺してない」

 

その言葉の通り、森の奥から人影の列が現れた。

第二防衛線で連れ去られ、死んだと思われていた者達。魔王の生贄にされたと噂されていた者達だった。

 

彼らは武器を持っていなかった。手を縛られていた者もいた。肩を支えられている者もいた。顔色の悪い者。足を引きずる者。周囲を怯えたように見回す者。それでも、生きて戻ってきた。

 

「生きていたのか……!」

「あれは、第三神官隊の……」

「食われたのではなかったのか」

 

聖戦軍側に、大きなざわめきが広がった。駆け寄る仲間に、戻ってきた捕虜の一人が震える唇で答えた。

「殺されなかった」

それだけで、周囲の空気が変わった。

 

「武器は取られた。縛られた者もいた。逃げようとした者は押さえられた」

彼は森の方を一度だけ振り返った。その目には、まだ恐怖が残っていた。

「怖かった。ずっと見られていた。けれど……誰も食われていない。毒が抜けるまで動けなかった俺たちの近くには、水袋が置かれていた。重傷者には、布が巻かれていたんだ」

 

親切だったとは、誰も言わなかった。彼らにとって、それは紛れもない恐怖の体験だったからだ。だが、「殺されても、食われてもいなかった」という決定的な事実が、聖戦軍の中に静かに、しかし深く落ちていった。

 

アレクシオは、絞り出すように尋ねた。

「……なぜ、殺さなかった」

 

ライラは少しだけ首を傾げた。そして、至極当然のように答えた。

「殺す必要がなかったから」

 

その答えは、巨獣のどんな咆哮よりも静かに、アレクシオの心の奥を揺さぶった。

 

 

一万人のために、拠点から最も遠い平原に簡易の幕営地が指定された。森からも少し離れ、海にも近すぎない、周囲が開けていて大型ファミリア達が見張りやすい場所だった。

 

そこへテントが運ばれ、水が置かれ、最低限の食料が積まれた。毛布や布が配られ、負傷者用の区画が分けられていった。火葬と埋葬のために使う場所の印も、次々と示されていった。

 

だが、自由はなかった。出入口は数か所に限定され、周囲にはファミリア達が厳格な監視の目を光らせていた。そこは生活の道具があっても、自由だけがない空間だった。

 

ライラは、アレクシオに向き直った。

「死んだ人を集めて。特に、タレットタワーの前」

第三防衛線跡地、あの殺し間の死者達の名を聞き、アレクシオの顔が硬くなった。

 

「あそこをそのままにはしないで。あなた達の人でしょ。あなた達で運んで」

 

敗者に死者を運べと命じた。それは一見、残酷な屈辱のようだった。だが同時に、それは死者を人間の手に返したということでもあった。魔物に食い荒らさせるのでもなく、見せしめにするのでもなく、名もなく捨てるのでもない。人間の手で弔え、と。

 

「……我々に、弔えと」

アレクシオが静かに問いかけた。

 

ライラは淡々と答えた。

「散らかしたのは、あなた達。――でも、死んだ人は、あなた達の人でしょ」

 

アレクシオは、黙って深く頭を下げた。

「……承知しました」

 

戦闘は止まった。だが、この戦争の残務は、まだ何一つ片付いていなかった。

それは慈悲ではなかった。少なくとも、ライラはそう思っていなかった。家の中に入り込んだ危険を、一つずつ外へ出しているだけだった。

 

ライラは最後に、もう一度だけ屋敷の方を見つめた。

 

――リィナは、まだ来ない。

それが、何よりも悪い知らせのように思えた。

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