廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第44話 弔い

朝になっても、幕営地の空気は晴れなかった。

 

空はどこまでも青い。海から吹く風も、昨日よりは穏やかだった。草地には朝露が残り、遠くの森の葉は光を受けて淡く揺れていた。

 

けれど、そこにいる者達の顔に、本当の朝は来ていなかった。

 

テントはあった。水もあった。負傷者を寝かせる布もあった。だが、自由だけがなかった。

 

幕営地の外縁には、一定の間隔で巨大なファミリア達の影が座っていた。それらは檻ではなく、柵でも、鎖でもなかった。それでも、誰もその外へ出ようとはしなかった。

 

出入口は数か所に限定されていた。そこには聖戦軍側の管理兵と記録係が立ち、出入りする者の名を記録していた。そのさらに外側には、牙を持つ巨影が静かに待機していた。

 

誰が出たか。誰が戻ったか。何の目的で外へ出るのか。すべてが、冷たく記録された。

 

負傷者の搬送。水の運搬。遺体処理。墓地作業――。許される理由は、あまりにも限られていた。

 

聖戦軍第一陣は生き残った。だが、もう軍ではなかった。ただ、管理される集団だった。

 

水を受け取る列の中で、義勇兵が震える手を差し出した。負傷者区画では、治療術士が包帯を替えていた。

 

どこかで名前が呼ばれた。返事はなかった。もう一度呼ばれた。やはり、返事はなかった。

 

誰かが、低く祈りの言葉を呟いた。その声もすぐに風の中へ消えた。

 

戦闘は終わった。だが、死者はまだ、あの血の平原に残されたままだった。

 

 

アレクシオ・レーヴェン枢機卿は、幕営地の中央で命令を下していた。

 

顔色は悪かった。片腕の包帯には、うっすらと血が滲んでいた。泥に汚れた白い法衣も、欠けた聖印も、昨日のままだった。

 

それでも、彼は背筋を曲げなかった。敗北した指揮官であっても、指揮官であることをやめるわけにはいかないからだ。

 

「遺体回収班を編成する」

 

彼の声は掠れていたが、聞き取れないほどではなかった。

 

「身元確認班。記録班。搬送班。墓穴掘り班。祈祷班。負傷者補助班を分けろ。名を確認できる者は記録せよ。身元不明の者も、特徴を残す。聖印、隊章、遺品は分けて保管する。祈祷班は、遺体に触れる者の後ろにつけ。立てない者を無理に立たせる必要はない」

 

そこで、アレクシオは一度だけ言葉を切った。そして、低く重く続けた。

 

「これは命令であり、弔いでもある」

 

誰も反論しなかった。

 

海で失われた者の多くは、もう回収できない。第一防衛戦で船ごと沈んだ者、波に呑まれた者、海の下へ消えた者――その多くは、名を呼ぶことすらできなかった。

 

第二防衛戦では、眠らされ、捕らえられ、分断され、逃げた者が多かった。

 

だが、第三防衛戦は違った。

 

鋼の塔の殺し間。盾隊が倒れ、囮隊が旗を掲げ、結界隊が膝をつき、砲座破壊隊が走った、あの場所。突破隊が、仲間を踏み越えて進んだ場所。そこには、今も無数の死者が残っていた。

 

だから、最初の作業場所は第三防衛戦だった。

 

生き残った者達は、自分達が死に物狂いで踏み越えてきた道を、今度は逆向きに歩くことになった。

 

 

第三防衛戦跡地は、ひどく静かだった。

 

昨日まで人を容赦なく削っていた鋼の塔は、今は完全に沈黙していた。ただ、そこにあるだけだった。

 

黒い銃身も、冷たい金属の骨組みも、朝の光を浴びていた。まるで、最初から何も知らない無機物のように。

 

その周囲には、生々しい戦場の跡が残っていた。

 

折れた旗。砕けた盾。泥に沈んだ白布。血を吸って黒ずんだ土。倒れたままの担架。

 

生き残った兵達は、次々と足を止めた。

 

ここを、彼らは走ったのだ。ここで、誰かが残った。ここで、誰かが盾になった。

 

道など、最初からなかった。そこにあったのは、道を作るために倒れた者達だった。

 

遺体回収班の一人が、泥の上に膝をついた。大盾を握ったまま倒れていた聖騎士の手を、そっと外そうとした。だが、その指は固く強張り、盾の取っ手に絡みついて離れなかった。

 

「……隊名は」

 

記録係が低く尋ねた。

 

「第二聖騎士中隊」

 

誰かが答えた。

 

「名は」

 

重い沈黙。近くの兵が、唇を強く噛んだ。

 

「……分からない。兜が、割れていて」

 

「聖印を」

 

胸元の聖印が静かに外された。泥と血を拭い、刻まれた識別を確認した。

 

「記録する。第二聖騎士中隊、身元確認中」

 

少し離れた場所では、祈りの姿勢のまま倒れていた神官がいた。結界杭を抱え、膝をつき、頭を垂れるような姿勢のまま動かなかった。

 

祈祷班の者が、震える声で祈ったが、その声は途中で涙に詰まった。けれど、誰も彼を急かさなかった。

 

中隊の隊旗を抱えたまま、倒れていた義勇兵もいた。白銀の布は泥に沈み、赤黒く染まっていた。回収班の若い兵が、その旗に手をかけて、動けなくなった。

 

「持て」

 

年上の兵が静かに言った。

 

「持てないなら、俺が持つ」

 

「……持ちます」

 

若い兵は、小さく答えた。彼はその旗を、両手で、敬意を込めて持ち上げた。

 

それはただの布ではなかった。中隊の、最後の灯火だった。

 

 

ファミリア達は、それらを遠くから静かに見つめていた。

 

彼らは決して近づいてこなかった。遺体に触れなかった。死者を荒らさなかった。食べもしなかった。

 

ただ、見ていた。

 

聖戦軍の兵達は、その不思議な事実に何度も戸惑った。

 

魔物なら死体を食い散らかす、そう教えられてきた。魔王の軍勢なら、倒した敵を徹底的に辱める、そう頑なに信じていた。

 

だが、目の前の獣達は何もしなかった。ただ、彼らが自分達の死者を運ぶのを見ているだけだった。

 

それはライラの命令なのだろう。死者に触れるな、近づくな、そう命じられているのだろう。

 

それでも事実は残っていた。死者は食われていなかった。少なくとも、魔物に荒らされたようには見えなかった。そこに、彼らが信じてきた魔物像とは違う、決定的な温度差があった。

 

 

戦死者墓地の場所は、浜と第三防衛戦跡地の中間にある、海が見える開けた丘に決まった。仮キャンプから管理できる距離にあり、周囲は開けていて、ファミリア達が見張りやすい場所。

 

そこに、最初の杭が打たれた。

 

墓を作ることは許された。名前を刻むことも、祈ることも許された。

 

だが、厳格な条件があった。聖域化の禁止。結界化の禁止。法国の領有を示す碑文の禁止。

 

攻撃用の神聖術具を埋めることも、武器をそのまま墓標として立てることも許されなかった。

 

その条件を直接告げるために、リィナ・エルシアは、短い時間だけその墓地予定地へ足を運んだ。

 

アレクシオ枢機卿は、リィナの姿を見て一瞬言葉を失っていた。

 

リィナの服は整えられていた。けれど、袖口には治療の痕が残り、指先にはまだ淡い神聖術の光の名残が消えずにあった。目元には濃い疲労があり、顔色もよくなかった。いつもの、かつての柔らかな聖女の顔ではなかった。

 

それでも、リィナは真っ直ぐに立っていた。

 

「アレクシオ枢機卿」

 

リィナは、静かに頭を下げた。声は低い。礼儀はあったけれど、以前のような迷いや柔らかさは、もうその中にはなかった。

 

「作業の確認に来ました」

 

アレクシオは、少しだけ目を伏せた。

 

「聖女リィナ」

 

その呼び方に、周囲の神官達がはっと息を呑むのが分かった。魔女と断じられかけたリィナを、彼は今なおそう呼んだのだ。

 

「長くは離れられません」

 

リィナは静かに告げた。その一言で、アレクシオも察したようだった。

 

治療はまだ終わっていない。リィナはすべてを救い終えてここに来たのではない。危険な山を少しだけ越え、必要な線引きを伝えるために、短い時間だけ出てきているのだ。

 

屋敷の奥では、まだ大切なファミリア達が命を繋ごうと戦っている。

 

リィナは、広大な墓地予定地を見据えた。

 

「墓は許されます。祈りも。ですが、ここを聖域として固定する術式は許されません。結界化も禁止です。ここは、法国の土地ではありませんから」

 

アレクシオは、黙って聞いていた。

 

「ここに攻撃用の聖具を埋めることも、墓参りを名目に無断で島へ入ることも、一切認められません」

 

「……承知しています」

 

アレクシオは答えた。その声には隠しきれない屈辱があった。だが、反論はなかった。

 

「祈りは止めません。ただ――ここを聖地にはさせません」

 

アレクシオは、長く息を吐き出した。

 

「……分かっています」

 

 

リィナとアレクシオは、少し離れた場所から彼らの作業を見ていた。

 

兵達は遺体を運び、身元を確認し、聖印を外していった。身元不明者を布で包み、墓穴を掘り、黙って土をかけた。

 

そこに勝者はいなかった。敗者だけがいた。

 

アレクシオは、しばらく黙ってその光景を見つめていた。やがて、低くリィナに尋ねてきた。

 

「これは、罰ですか」

 

リィナはすぐには否定しなかった。冷たい風が吹き、墓地に打たれた杭が小さく軋んだ。

 

「罰でもあります。島を戦場にしたのは、あなた達です。遺体を放置すれば島が汚れます。腐敗も病も避けなければなりませんし、片づける責任はあなた達にあります」

 

リィナの声は、冷たくはなかった。だが、決して甘くもなかった。

 

「ですが、それだけではありません」

 

リィナは、遺体を丁寧に運ぶ兵達を見つめた。

 

「死者は、あなた達の大切な仲間です。ファミリア達に運ばせれば、あなた達は耐えられないはずです。ライラさんも、そんな残酷なことは望んでいません」

 

「だから、我々に」

 

「はい。あなた達が運ぶべきです。あなた達の、大切な死者ですから」

 

アレクシオは、しばらく何も言わなかった。それは罰であり、同時に、最大の弔いでもあった。

 

「……遺体が、残っている」

 

アレクシオが言った。

 

「森で消えた者達も、生きて返された。ここで倒れた者達も、少なくとも魔物に荒らされたようには見えない。我々は、魔物なら死体を食うと考えていたのだが」

 

「食べさせていません。ライラさんが、そう命じています」

 

「なぜだ」

 

彼の手が震えていた。分からない、という純粋な問いだった。

 

リィナは少しだけ目を伏せた。

 

「人間を食べさせたくないからです。あなた達を憎んでいないから、ではありません」

 

リィナの声が、少しだけ硬くなった。

 

「うちの子達に、そんなことをさせたくないからです」

 

うちの子達――リィナがその言葉を当然のように使った瞬間、アレクシオは静かに息を呑んだ。

 

リィナにとっても、もう彼らはただの恐ろしい魔物ではない。その決定的な現実を、彼は突きつけられていた。

 

「治療は、終わったのですか」

 

アレクシオが別の問いを口にした。

 

「終わっていません。危ない子も、まだいます」

 

「……子、と呼ぶのですか。あの魔物を」

 

リィナは、まっすぐに彼を見つめ返した。

 

「ライラさんにとっては、かけがえのない家族です。そして、リィナにとっても、もう大切な患者ですから」

 

風がぴたりと止まったように感じられた。

 

「患者に、人も魔物もありません」

 

その毅然とした言葉に、アレクシオは何も返せなかった。

 

リィナはかつて法国の聖女だった。けれど、もう違う。法国が魔物と呼んだ存在を、リィナは自らの患者と呼んでいた。その事実が、アレクシオのなかに、静かな重みとして沈んでいった。

 

 

「我々は、貴女を魔女と呼んだ」

 

アレクシオが言った。

 

「恨んでいますか」

 

すぐに「いいえ」とは言えなかった。

 

リィナは、遠くの屋敷の方を一度だけ見つめた。そこには、まだリィナの治療を待つファミリア達がいる。命を繋ぎきれなかった子だっているかもしれない。そして、自分を魔女と呼んだ者達の死者が、今、目の前で運ばれているのだ。

 

「恨む余裕が、今の私にはありません。それより、治さなければならない子がいますから」

 

アレクシオは静かに目を伏せた。

 

その答えの中に、彼は確かに聖女を見た。同時に、彼女がもう二度と法国には戻らないことも、痛いほど理解していた。

 

 

墓穴が掘られていった。

 

最初に立った墓標は、名のない者のためのものだった。

 

聖印は割れ、顔も判別できない。それでも、誰かの息子であり、誰かの大切な友だったはずの身体。

 

木の墓標に、文字が刻まれた。

 

『聖戦軍第一陣 名も戻らぬ者』

 

ただ、それだけだった。家名も栄光もない、帰れなかった者の証。

 

祈祷班が前へ出て、周囲の兵達が静かに膝をついた。ファミリア達は遠くからただ見ていた。ライラの命令通り、純粋な死者への祈りだけは許されていた。

 

「……この墓は、何になるのでしょう」

 

祈りが終わったあと、アレクシオが静かに問うた。

 

リィナは、その悲痛な光景を見つめたまま答えた。

 

「証です。あなた達がここへ来た、証」

 

土がかけられた。ひと掬い。また、ひと掬い。

 

「帰れなかった人達が、確かにいたという証」

 

自分達が走って踏み越えた仲間を、今度は自分達の手で静かに埋めていった。

 

「それから――」

 

リィナは、少しだけ間を置いた。

 

「ここが、誰かの大切な『家』だったと、知らなかった証です」

 

アレクシオは、何も言わなかった。

 

墓地は、法国の栄光の証でも、ライラ達の勝利碑でもない。聖戦の名で、誰かの家に無断で踏み込んだ者達がいたこと。そして、その結果として、弔わなければならない死者が残ったことを刻む場所だった。

 

リィナは祈らなかった。アレクシオも、しばらく祈れなかった。

 

ただ二人で、自分達が信じた正義の終わりと、それでも弔わなければならない者達の背中を見つめていた。

 

土が、またひと掬い、墓穴へ落ちた。そのたびに、聖戦軍第一陣は少しずつ、戦場から静かな墓地へと変わっていった。

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