仮キャンプに、朝が来た。
昨日よりはほんの少しだけ、秩序の形を取り戻した朝だった。テントの列は相変わらずひどく歪み、杭も天幕の布も足りていない。いくつかの天幕は、破れた帆布や兵士達の外套を継ぎ合わせただけの粗末なものだった。
それでも、そこには最低限の列が生まれていた。負傷者区画には簡単な目隠しが立てられ、水を配る場所には静かな列ができ、乏しい食料を分ける者と受け取る者がいた。生存者の名を呼び上げる乾いた声が響き、担架を洗う者や、大釜で布を煮沸する者がいる。遺体処理班から戻った者は、靴にこびりついた泥を黙々と落としていた。
昨日の彼らは、壊れ果てた軍勢の残骸にすぎなかった。けれど今は違う。聖戦軍第一陣はもう軍としての機能を失っていたが、生き残った者達は、ようやく生き延びるための営みを始めていた。
もちろん、そこに自由はなかった。
幕営地の出入口は厳しく限られていて、そこには聖戦軍側の管理兵が立ち、そのすぐ外側には大型の獣が見張り塔のように座っている。誰が、何の目的で出て、いつ戻るのか。そのすべてが淡々と帳簿に記録されていった。
見られている。その事実を、誰もが痛いほど分かっていた。それでも昨日よりは、確実に声が通っていた。
「水、次だ」
「そっちの乾いた布は、負傷者区画へ回せ」
「墓地作業班、三十名。名を記録してから境界を出ろ」
「担架を早く戻してくれ。次の班が待っている」
怒号でも、勝利の鬨でもない。生き残るために必要な、最低限の生活の音だった。
◆
その中を、リィナ・エルシアは歩いていた。
白い衣は一見きれいに整えられていたが、袖口には必死の治療の跡が残り、指先にはまだ淡い神聖術の光がまとわりついていた。顔色は白を通り越して青ざめ、目元には深い疲れの影が落ちている。それでも、その歩みは少しも乱れていなかった。
向かっているのは、聖戦軍の治療区画だった。人々を助けるためだけではなく、ここの現状を正確に掴むためでもあった。
負傷者がどれだけいて、そのうち重い者はどれほどか。自力で動けない者は誰か。術力を使い切った治癒術師は何人いて、水や布や薬や寝床は、どれだけ足りていないのか。それを狂いなく把握しなければ、この幕営地は内側から腐っていく。
衛生が崩れて病が広がれば、死者はさらに増える。錯乱した兵がうっかり武器に触れれば、外の獣達がすぐに牙を剥く。負傷者が放っておかれれば、そこから深い恨みと恐怖が、澱のように溜まっていく。
だからリィナは、柔らかく微笑んで人々を慰める聖女としてここへ来たのではなかった。一人の治療者として、そして島の側の管理者として、ここに立っていた。
治療区画の入口で足を止めると、数人の従軍治癒術師達が、リィナに気づいて複雑な表情を浮かべた。かつての聖女で、今は魔女とも裏切り者とも呼ばれ、それでいて自分達には到底及ばない治療の知識を持つ人。彼らの目に浮かぶ感情は、ひとつに割り切れるものではなかった。
「重症者は何人ですか」
挨拶を省いて、リィナはまっすぐに切り出した。掠れた声だったが、迷いはなかった。
年配の施療司祭が、手元の記録板を指が白くなるほど握りしめた。
「正確な数は、まだ……。ですが、重症区画に運んだ者だけで二百を超えています。中等症はその倍以上。軽傷者は、もはや数えきれていません」
「動かせない方は」
「七十名ほどです。骨折に、ひどい出血、術力の枯渇、溺れかけた後の肺の不調。森で未知の毒を受けた者もいます」
「治癒術師は、何名残っていますか」
「動ける者が二十七名。術を使える者は、その半分ほどです。神官見習いも含めれば手はありますが、術力はもう……」
悔しさに、司祭の声が少し詰まった。
「術力の切れた方を、無理に現場に立たせないでください。その方が倒れたら、助かるはずの方まで助からなくなります」
「……分かっています」
「遺体処理班と負傷者区画は、必ず分けてください。布も水も、共用しないこと」
「ですが、水が圧倒的に足りないのです」
「なら、優先順位を決めてください。飲み水と、傷を洗う水と、布を洗う水を、同じ扱いにしないでください。汚れた布はそのまま使わず、煮沸できるものは煮沸してください。それができないなら、せめて区画を細かく分けて管理してください」
リィナの言葉は、冷たいほどに早かった。かつての柔らかさはなかったが、反論の余地がないほど的確だった。
「聖水の残りは、どこに保管していますか」
その問いに、治癒術師達の表情が一瞬で強張った。彼らにとっては治癒や浄化に用いる聖なる水でも、島の側にとっては、ファミリア達の傷を焼き、回復を妨げ、傷口の奥に厄介な術式を残す危険物でしかない。
「……一部は、治療区画に」
「すぐに移してください。武器と同じ扱いでまとめて管理し、許可なく使うことは禁じます」
「しかし、聖水は治療にも――」
「今は、危険物です」
静かな声だった。けれどその静けさが、かえって治癒術師達を黙らせた。
「ここでは、あの聖水が誰をどれほど傷つけたか、私はすべて知っています。必要な場合は個別に申し出てください。使い方と対象を、私が確認します」
「……承知、いたしました」
施療司祭は、搾り出すように頭を下げた。
◆
従軍治癒術師達もまた、限界を迎えていた。
傷ついた人々を癒やすために、彼らはこの島へ来た。少なくとも、彼ら自身はそう信じていた。聖騎士達を守り、義勇兵を救い、神の名のもとに戦う者を支えるために、荒れた海を越えてきたのだ。
けれど今、彼らの前にあるのは、無慈悲な選別だった。誰を先に治し、誰を後回しにするのか。誰に貴重な術を使い、誰には水と濡れ布だけで耐えてもらうのか。そして、誰を看取りの側へ移すのか。
「我々は、癒やすために来たはずでした。けれど今は、誰を先に諦めるかを決めている……」
血の染みた布を握りしめたまま、若い治癒術師がうわ言のように呟いた。
リィナは、すぐには慰めなかった。慰められなかったのだ。その言葉の重さを、誰よりもリィナ自身が知っていたから。
ついさっきまで、彼女も屋敷の奥で、まったく同じことをしていた。聖水で焼けたファミリア達の傷を見て、聖印の残した術式が肉の奥へ食い込み、結界杭の裂いた傷が普通の治癒術を拒むように弾くのを見た。助けられる子と、まだ分からない子と、もうどうしても戻せない子。その判断を、彼女自身が何度も迫られてきたのだ。
だから、諦めないでください、などとは言えなかった。それは地獄の現場を知らない者の、綺麗なだけの言葉だった。
「優先順位を決めてください」
リィナは、静かにそう重ねた。
「助かる見込みの高い方から、術を使えば助かる方に、術を使ってください。術を使っても助からない方にすべてを注げば、助かるはずだった方まで失うことになります」
刃のように冷たい言葉だったが、そこには治療者としての現実があった。
「聖女様なら、全員を救えと、奇跡を起こせと仰るのかと思っていました」
若い治癒術師が掠れた声で言うと、リィナはわずかに目を伏せた。華奢な肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「全員は、救えません」
短い一言で、治療区画の空気が重く沈み込んだ。
「救える方を救ってください。看取るべき方を、放っておかないで。錯乱している方は、武器や聖具の近くに置かないでください。眠れない方を遺体処理班の戻り口に置くと、死の匂いと音で、確実に悪くなります。負傷者区画と看取りの場所は、分けてください」
年配の施療司祭が、ゆっくりと重く頷いた。
「術力の切れた方には、水と休息を。倒れた治癒術師は、ただの患者になります」
それ以上、誰も言い返さなかった。あまりにも正しく、あまりにも痛い、治療者としての真実だった。
◆
その頃、拠点の奥には、また別の静けさがあった。
治療区画には、まだ白い冷気が残っていた。雪フクロウ達は止まり木で翼を畳み、疲れきったように深く伏せている。ダエオドンは低く息を吐き、重そうに腹を上下させていた。医療設備の淡い光はまだ消えておらず、寝台の周りでは、リィナが残していった術式が細い糸のように揺れている。
床には包帯と固定具が散らばり、剥がされた聖印の破片と焼け焦げた布、聖水の跡を拭き取った黒ずみ、血で固まって切り取られた毛の束が残っていた。人間達の幕営地とは別の、まだ終わらない戦いが、そこにはあった。
ライラは、その中にいた。
ほとんど眠っておらず、何かを食べたのかも覚えていなかった。指揮をして、赤枝を失い、降伏を受け入れ、生き残った人間達の管理を命じて、ようやく戻ってきた子達のそばにいる。その瞳はどこか遠くを見ていたが、ファミリアに触れる手だけは、恐ろしいほどに丁寧だった。
最初の子は、小さなディロフォサウルスのミズハだった。
雨上がりの水たまりで跳ねるのが好きで、まだ拠点が小さかった頃、ライラの足元を何度もくるくると回っていた子だ。今は布を敷いた寝台の上で、小さく丸まっていた。
聖水を浴びた痕には、リィナと雪フクロウが何度も手を尽くしていた。残っていた術式もできる限り剥がし、傷も塞がりかけている。それでも息は浅く、身体の芯が、もう戻るための力を失っていた。
ライラは寝台の横に静かに座り、そっとその額に手を置いた。かつてなら、近づいただけで嬉しそうに鼻先を擦りつけてきた子が、今はまぶたを上げる力さえ残っていなかった。
「うん。いるよ。ここにいるよ」
できるだけ、いつもと同じ声で言った。ミズハの喉が、鳴き声にもならないほど小さく震えた。
「頑張ったね。ちゃんと帰ってきたね」
ライラの声は、震えなかった。震えさせないように、張りつめた糸のように耐えていた。
ミズハの目が、ほんの少しだけ開いた。ライラを見たのか、もう光さえ見えていなかったのかは、分からなかった。
「もう、いいよ。寝ていいよ。……痛くない?」
返事はなかった。
「そっか。ごめんね。帰ってきてくれて、ありがとう」
最後に、喉の奥で小さな音がして、それきりミズハは動かなくなった。
ライラはしばらく、手を離さなかった。もう痛みを感じないその頭を、何度も、何度も、静かに撫で続けていた。
◆
二体目は、夜明け前に息を引き取った。
伝令を妨げる任務のさなかに聖印の矢を受けた、ディモルフォドンのコハネだった。飛行組の中でもとりわけ小さな女の子で、シルヴィアの頭の周りさえ平気で飛び回るような、お転婆な子だった。戻ってきた時には、もうその翼は動かなかった。包帯を替える時にはまだわずかに反応があったのに、次にライラが見に来た時には、小さな身体が冷たくなり始めていた。
名前を呼んでも、返事はなかった。
三体目は、ダイアウルフのナギだった。
群れの中でもとりわけ物静かで、いつも仲間の後ろをそっと歩いていた子だ。迷子になった小さな子を見つけるのが誰よりも得意で、最後まで、自分の足で立ち上がろうとしていた。ライラが寝台のそばにしゃがんで「いるよ。ここにいるよ」と声をかけると、ナギはほっとしたように座り込んだ。
そして、それきり目を開けなかった。
ライラは泣き叫ばなかった。誰かを責める声も出さなかった。ただ次の寝台へ行き、座り、名前を呼び、撫でて、見送った。その淡々とした繰り返しが、終わらなかった。
繰り返せてしまうことこそが、彼女の心がもう限界に近い証だった。
見送った子を、白い布で包む。頭をそっと寄せて、脚を畳み、布の端を身体の下へ折り込む。
その手は、迷わなかった。
どこで覚えたのかは、分からない。それでもライラの手は、どう包めばいいのかを知っていた。こうやって並べたことが前にもあるような気がして、ライラは一瞬だけ手を止め、それからまた、次の布を広げた。
窓の外で、シルヴィアが低く喉を鳴らした。いつもなら褒めてほしそうに顔を寄せてくる大竜が、今は窓の外でじっと佇んでいる。自分が動けば狭い治療区画を壊してしまうと分かっていて、それでも、どうしても離れられないのだ。
ライラは少しだけ窓の方へ歩いた。シルヴィアがそっと大きな頭を下げると、ライラはその硬く温かい鼻先に、ほんの一瞬だけ額を預けた。シルヴィアの喉が、悲鳴にもならない切ない音で震えた。
「大丈夫」
誰に向けた言葉なのか、自分でももう分からなかった。
それから、ライラはまた次の寝台へと戻っていった。
◆
リィナが従軍治癒術師達の案内で重症者区画を回り終えたのは、夕方近くになってからだった。
海で溺れかけた兵の浅い呼吸があり、森で毒を受けた義勇兵の痺れがあり、第三防衛線で腕を砕かれた聖騎士がいた。意識の朦朧とした神官がいて、毛布を被って震える捕虜達がいる。リィナは感情を押し殺して指示を出し続け、助かる者と危ない者を見分けて、処置の順番を決めていった。
「私達は、一体何をしに来たのでしょう」
ぽつりと呟いた若い治癒術師に、リィナは少し黙ってから答えた。
「傷を増やしに来ました」
若い治癒術師の顔が強張り、周りの神官達が一斉に息を呑んだ。リィナの声は低かったが、その言葉には確かな怒りがあった。
それからリィナは、静かに目を伏せた。
「……でも、今は減らしてください。ひとつでも」
「はい」
泣き出しそうな顔で俯いたまま返されたその返事は、ひどく小さかったけれど、確かに意味のある返事だった。
分類を進め、最低限の秩序を幕営地に戻したリィナは、重い足取りで屋敷へ戻った。聖水と聖具を管理下に置き、錯乱した者を隔離して、生存者達は少しずつ、生き延びるための形を取り戻しつつある。真っ先にライラへ伝えるべき知らせだった。
けれど屋敷の奥の治療区画に入った瞬間、リィナの言葉は喉の奥で止まった。
◆
小さな寝台の傍らに、ライラがぽつんと座っていた。
寝台の上にいたのは、メソピテクスのクルミだった。罠の確認や物資の回収によくついていく子で、木の実が大好きで、丸いものを見つけるとすぐに両手で抱え込んで離さなかった。リィナが与えた水も、昼まではちゃんと飲んでいた。けれど聖印の破片が残した術式が身体の奥で治癒を邪魔し続け、リィナが削り、雪フクロウが冷やし、ダエオドンが支えても、ついにその短い呼吸が止まったようだった。
クルミの小さな手は、まだライラの服の裾を握っていた。ライラはその手に、自分の指をそっと添えていた。
そしてライラの前には、白い布に包まれた小さな身体が、きれいに並べられていた。ひとつではなかった。並んだ布の数を見た瞬間、リィナの喉が激しく詰まった。
「……何人ですか」
聞いてしまってから、ひどく後悔した。数で聞くべきことではなかった。けれど一人の治療者として、確かめずにはいられなかったのだ。
ライラはしばらく答えず、布の一つを見つめていた。
「今日だけで、四」
それ以上は、声にならなかった。
リィナは、何も言えなかった。十万が一万になった平原の戦いの後では、四という数字は小さく見えるかもしれない。けれどライラにとっては、まったく違う。四つの名前と、四つの癖と、四つの鳴き声。生きて帰ってきてほしかった、四つのかけがえのない家族が、今日だけで消えたのだ。
「向こうは?」
ひどく静かな声で、ライラが尋ねた。
「少し、落ち着いてきています。重症者は多いですが、分類は進みました。従軍の治癒術師達も最低限は動き始めていて、負傷者区画も整いつつあります。暴動や錯乱も、今のところは抑えられています」
「そっか」
怒りでも安堵でもない、事実をただ受け止めただけの掠れた声だった。少し間を置いて、ライラは布に包まれた小さな身体を撫でながら、淡々と言った。
「よかった。早く片づいてくれた方がいい」
その淡々とした様子こそが、胸を刺すように痛かった。
「もう、誰にも近づいてほしくない」
リィナは、何も言えなかった。その拒絶の気持ちが、痛いほど分かってしまったからだ。
◆
夜になって、仮キャンプには点々と灯りがともった。
負傷者区画には水が運ばれ、治癒術師達は声を掛け合い、墓地では名を記すための火が静かに揺れていた。テントの間にはまだ呻き声や泣き声があり、眠れない者も大勢いたけれど、彼らは少しずつ、生き延びるための明日を作り始めていた。
同じ夜、屋敷の奥では、ライラがもう動かない小さな頭を何度も撫で続けていた。リィナはその隣に、寄り添うように立っていた。
治療区画には、まだ息の荒い子がいた。石の多い斜面が好きなドエディクルスのゴロ丸が、お気に入りの敷物の上で丸くなったまま、浅い息を繰り返している。眠っている子もいれば、眠っているようにしか見えない子もいた。
「……まだ、終わらないね」
ライラがぽつりと言った言葉に、リィナは答えられなかった。
戦闘は終わり、降伏も受け入れた。捕虜を返し、生存者も集め、人間達は少しずつ明日を作り始めている。
けれど、この家が大切な家族を失っていく時間は、まだ何ひとつ終わってはいなかった。