点呼を終えると、拠点の内側にいくぶんかの静けさが戻ってきた。
とはいえ、無音になったわけではない。むしろ逆だ。
あちこちに確かな息遣いが満ちている。低く重い呼吸。翼が擦れる音。小さな足音。水を飲む音。寝床の草がかすかに揺れる音。
ただ、先ほどまで私の呼びかけに応えていた子達は、それぞれの定位置へと戻っていった。
大型の子達は、ずしりと足音を響かせながら自分の区画へ。ワイバーン達は高所の岩棚へ翼を畳んで身を落ち着ける。小さい子達は眠そうに寝床へ集まり、誰かの羽毛に顔を埋める。採取組は穏やかな足取りで、それぞれの広場や素材置き場の近くへと引き返していった。
主任は、ヘルメットを被ったまま何も言わずに工房の奥へ戻った。
歩き方はのんびりとしている。それなのに、作業場へ入るその背中だけは、妙に頼もしげに見えた。
正門の方では、カイザーがまた伏せている。
あの巨体がそこにあるだけで、門の存在感が何倍にも増圧されて見えた。
シルヴィアだけは、私のそばから離れようとしない。
私が数歩でも歩けば後ろからついてくるし、足を止めれば隣に大きな頭を擦り寄せてくる。
相変わらず、距離感がおかしい。でも今は、その温もりがひどく心強かった。
中央に近い広場で、ゆっくりと周囲を見渡す。
みんな、いる。
その事実を確認できた。それだけで、本当ならその場にへたり込んでしまいたいくらいだった。
けれど、安心したからこそ、次の不安が鎌首をもたげる。
みんなが暮らすこの空間そのものは、果たしてどうなっているのか。
防壁は崩れていないか。倉庫の物資は無事か。作業台は使える状態か。餌箱は満たされているか。水場は機能しているか。防衛線は生きているか。奥にしまった設備は残っているか。
考え始めれば、確認すべき事柄は山ほどある。
広場の真ん中で、もう一度深く息を吸い込んだ。
草の青臭さ。土の香り。獣の体温。金属。水。そして、かすかに焦げたようなシルヴィアの匂い。
ここは、見知らぬ地の中にある。
でも、この場所だけは、私の記憶と確かに繋がっている。
だからこそ、この目で確かめなければならない。
視線を上げる。
高い壁。広い通路。そびえる塔。見張り台。正門。奥へ続く回廊。左右に広がる区画。高所の足場。工房への道。
「……ここ、本当に私の拠点なんだよね」
ぽつりと呟き、ゆっくりと歩き出した。
まず目を向けたのは、正門と外壁だ。
この一角は、拠点の中でももっとも『初期の構想』を残している。
高くそびえる門。石造りを思わせる壁。外側を見下ろせる見張り台。突き出した塔の構造。
朝日を受けて、門の金属部分が鈍く光っている。壁はところどころ補修され、石材の色も完全には統一されていない。それでも、遠目に見れば城と言えなくもない。
少なくとも、最初はそういうものを作ろうとしていたはずだ。
西洋の城。堅牢な壁と正門があり、塔が立ち、中央に巨大な館を構える。外敵を防ぎ、内側に資源と作業場を集約させ、必要なものを即座にクラフトできる場所。
見栄えの良い要塞。効率を極めた城塞。
おそらく最初は、そんなものを目指していた。
「……最初は、もっと綺麗に作るつもりだった気がする」
正門の横に立つ塔を見上げる。
形自体は悪くない。けれど、左右対称ではない。片側は後から壁を継ぎ足したせいで分厚くなっている。塔の上へ続く階段も、元からそこにあったというより、後から無理やり繋ぎ合わせたような角度をしていた。
正門の内側では、カイザーが伏せている。
黒い山のような巨体が、まるで城門の守護者のように陣取っていた。
それだけ切り取れば、たしかに城だ。恐ろしい獣が守る、巨大な城門。
でも、カイザーの尻尾が通路の一部を塞いでいて、それを避けるように床の端が削られているのを見ると、急に城というより『巨大な家の玄関』みたいに思えてくる。
「……カイザー、そこ邪魔じゃない?」
問いかけると、カイザーは片目だけを開けた。
そして、わずかに尻尾をずらした。ほんの数センチ。通路の端に僅かな隙間ができる。
「うん。ありがとう」
返事なのか、ただの気まぐれなのかは知る由もない。けれど、それで十分だった。
正門から内側へ向かって歩みを進める。
城塞としての面影を保っているのは、入り口周辺だけだった。
奥へ進むにつれて、その整然とした形はいびつに歪んでいく。
通路の幅が場所によってバラバラだ。壁の材質も途中で変わっている。床の色も揃っていない。石材が多い一角もあれば、金属補強が目立つエリアもある。さらに奥へ行くと、木材を多用した温かみのある区画も見えた。
後から増築した廊下。途中で拡張された部屋。元々の壁をぶち抜いて繋げた空間。天井を高くするために、強引に上へ継ぎ足した跡。
綺麗ではない。城として見れば、ひどく不格好だ。
でも、その不格好さにはすべて理由があった。
ここは、大型の子が通るには窮屈だった。だから広げた。
ここは、ワイバーンが翼をぶつけそうだった。だから天井を高くした。
ここは、小さい子が通るには危なかった。だから低い横道を用意した。
ここは、一体だけで寝るには広すぎた。でも、仲間と一緒にいたがる子達がいた。だから壁を取り払った。
一つ一つ、蘇ってくる。
曖昧だけれど、確かな手触りがある。
私はこの建造物を、設計図通りに作り続けたのではない。
誰かが増えるたびに、誰かが困るたびに、誰かが過ごしづらそうにするたびに、手探りで作り変えていったのだ。
「……そっか」
壁にそっと触れる。そこは、後から増設された部分だった。
色も、質感も、隣の壁とは微妙に違う。
でも、そのちぐはぐさが変に愛おしく見えた。
最初は、効率だけで考えていたはずだ。
ここに作業場。ここに倉庫。ここに大型用の通路。そして余ったスペースに寝床。
そういう優先順位だった。
でも今歩いてみると、実態は違う。
余った場所に寝床を置いたのではない。寝床が必要になったから、空間を広げたのだ。
その結果、工業区画は奥へと追いやられ、居住区がどんどん肥大化していった。
次に、工業・ストレージエリアへ向かった。
通路を曲がると、空気が一変する。
生き物の匂いは薄れ、代わりに金属や油、乾いた素材の匂いが鼻をついた。
作業台。炉。修理用の設備。素材置き場。予備装備。サドル。薬品。餌。ペイント道具。
棚や箱は、記憶にある通りに整然と並んでいた。
近くの収納に手を伸ばす。
どこに何があるのか、身体が記憶している。考えるより先に、手が動いた。
ここの箱には金属。隣には石材。奥には繊維や皮。壁際には予備の防具。高い棚には薬品。作業台のそばには、頻繁に使う素材。
中身も、きちんと整理されている。
荒れた様子はない。散乱してもいない。
「……ちゃんとしてる」
呟いてから、思わず苦笑した。
自分で作った場所なのに、まるで他人の見事な収納を見せられている気分だ。
ここは確かに、拠点の心臓部だ。
ものを作り、直し、補充し、増築し、足りないものを補う。
このエリアが機能しなければ拠点は維持できない。この子達の寝床も、餌場も、水場も、増やすことはできなかった。
でも、改めて歩いてみると、工業エリアは想像以上に手狭だ。
いや、人間の感覚からすれば広大すぎるくらいだが、拠点全体の面積から見ればほんの一部だった。二割。多く見積もっても三割程度。
「……あれ。こんなにコンパクトだったっけ」
当初は、ここを中心にするつもりだった。
素材を集め、加工し、装備を整え、次の遠征に備える。そういう生産拠点を核にするはずだった。
でも今は違う。
工業区画は、建物の奥にひっそりとまとまっている。機能は果たしているし、必要なものは揃っている。
けれど、ここはこの建造物の『中心』ではなかった。
棚の奥に、小さな箱を見つけた。
中には、塗料が残っている。赤、青、白。それから、少しの黒。横には、使いかけの筆のような道具。
攻略や防衛には、直接関わりのない代物だ。
けれど、目にした瞬間に鮮明に思い出した。
主任のヘルメット。
わざわざ作った。色まで塗った。たぶん、かなり真剣にこだわって塗装した。
なのに、出来上がったものを見て、みんなで大笑いした。
「主任」と書き込んだのだったか。それとも、それっぽいマークを入れただけだったか。
記憶の細部はぼやけている。でも、あの時の楽しさだけは、確かな熱を持って胸に残っている。
「こんなの、必要なかったのに」
ぽつりと漏れた。
必要なかった。強くなるためにも、効率を上げるためにも、生き残るためにも。なくても一切困らなかったはずだ。
でも、捨てられなかった。
塗料の残りも。使いかけの筆も。主任のヘルメットを作った時の名残も。
棚の別の箱には、小さな餌入れがあった。小型組用に作ったものだ。
初期のものは背が高すぎて、食べづらそうにしている子がいた。だから高さを低くした。怪我をしないよう角を丸めた。数も増やした。
別の棚には、シルヴィア用に使おうとした装飾材らしきものが眠っている。
綺麗な金属片。防御力には大して影響しなさそうな飾り。でも、きっと似合うと思ったのだろう。使う予定がなくなったのか、まだ使っていないだけなのかは分からない。
けれど、残っている。
必要だからではない。
捨てたくなかったからだ。
そういう品々が、合理性の塊であるはずの工業区画の中にいくつも紛れ込んでいた。
棚を閉じる。
ここは機能の場所だ。作り、直し、蓄え、備える空間。
でも、それだけではなかった。
みんなが暮らすために、ここがあった。
工業エリアのために暮らしがあるのではない。
暮らしのために、工業エリアが存在しているのだ。
今さらながら、その事実に気づかされた。
「……うん」
小さく頷き、工業区画を後にする。
シルヴィアは入り口の外で待っていた。
中へ入りたそうに首を下げていたが、さすがに窮屈だと理解しているのか、無理に入ってこようとはしなかった。
「えらい」
声をかけると、シルヴィアは得意げに鼻を鳴らした。ひどく誇らしげだ。
「褒められ待ちだったの?」
もう一度鼻を鳴らされた。どうやら図星らしい。
私はふっと笑い、居住区の方へと戻った。
居住区は広大だ。
改めて歩き回ると、笑ってしまいそうになるほど途方もない。
通路を曲がれば誰かの部屋。階段を上ればワイバーン用の高台。広場を抜ければ大型肉食組の寝床。低い小道の先には小型組の柔らかい区画。水場に近い場所には生活組。素材置き場のそばには採取組。
城の構造としては、完全に破綻している。
通路は蛇行し、部屋の広さもまちまちだ。塔の配置もいびつで、外観の美しさよりも内側の都合が優先されきっている。
でも、雑な造りではない。
その子達の生態に合わせて、何度も丁寧に手を加えられている。
大型組の区画に足を踏み入れると、その容積を改めて実感した。
点呼の時は、そこにいる子達のサイズに圧倒されていた。今度は、部屋そのものに目を向ける。
広大な床。見上げるような天井。規格外の入り口。分厚く堅牢な壁。身体を預けられる岩場のような仕切り。餌場へと続くスムーズな動線。正門へ出やすい通路。
壁には無数の爪痕が刻まれ、床には尾を擦った跡が残る。ところどころ、補修を重ねた跡もある。
荒らされたわけではない。日々の暮らしの中で刻まれた、生活の証だ。
床にしゃがみ込み、爪痕の近くに手を当てた。深い。それだけ強大な力が加わったのだろう。
最初から、ここまで規格外に作るつもりはなかった。
でも、ギガノトが増えた。ティラノ達も増えた。カルカロ達も加わった。一緒に過ごしたい子達がいた。密集している方が落ち着く群れがいた。逆に、少し距離を取りたがる個体もいた。
だから、壁をぶち抜いた。床を補強した。入り口を拡張した。天井をさらに高くした。
立派な城の形を保つことより、この子達が窮屈な思いをせずに丸くなれる広さの方が、ずっと大事だったのだ。
「……そりゃあ、城じゃなくなるよね」
独り言に呼応するように、奥で伏せていたティラノが低く喉を鳴らした。
肯定してくれたのか、ただ寝言を漏らしただけなのかは定かではない。私は口元をほころばせ、立ち上がった。
次に高所区画へ向かう。
ワイバーン達のための空間だ。
ここは元々、外を見渡せる見張り台か塔にする予定だったのかもしれない。風の通る構造。上へ伸びる螺旋の通路。広々とした足場。
でも今は、完全にワイバーン達のねぐらと化していた。
天井はどこまでも高く、ほとんど外と直結しているような開放感がある。岩棚のような足場がいくつも並び、悠々と翼を畳んで休めるようになっている。尾が干渉しないよう、足場同士の距離も計算されている。首をいっぱいに伸ばしてもぶつからないクリアランス。
外へ出ずとも、空を感じられる場所。そう思えた。
シルヴィアは自分の定位置に近づくと、露骨に足取りが軽くなった。
いや、足取りというより、尻尾の揺れ方がなんともご機嫌に見える。
「ここ、気に入ってる?」
問いかけると、シルヴィアは当然のように喉を鳴らした。
その岩棚は、私が拠点内でよく通るメインルートのすぐそばだった。工業区画からも、中央広場からも、自室へ向かう道からも見上げやすい。
これまでは、単に便利だからそこにしたのだと思っていた。呼びやすい。乗りやすい。すぐに出発できる。
でも今見上げると、少し違う気がした。
近くにいてほしかったのだ。
すぐ声をかけられる場所に。すぐ顔を見られる場所に。ふと通りがかった時、いつでもそこにいると分かる場所に。
「……あなた、ほんと特等席にいるね」
シルヴィアは誇らしげに胸を張った。その立ち姿は格好いい。非の打ち所がないほど格好いい。でも、どこか威厳がない。
私は肩を揺らして笑い、そのしなやかな首元を撫でた。
次に、小型組と生活組の区画へ。
そこは、拠点の中でもとりわけ空気が穏やかだった。
床材からして違う。硬い石や金属ではなく、干し草や柔らかな敷物がふんだんに使われている。餌箱の背は低く、水場も小さい子が楽に届く浅さになっている。大型の子が誤って入り込まないよう、通路には低い仕切りが設けられていた。
小さな子達が踏まれないように。怯えないように。
一匹で身を潜められる隙間も、何匹かで身を寄せ合えるスペースもある。日当たりのいい寝床。奥まった小部屋。水場に近い広場。干し草がふかふかに敷き詰められた一角。
しゃがみ込み、低い餌箱の縁に触れた。
角が滑らかに丸められている。初期のものは、もっと角ばっていたはずだ。
ドードーが顔をぶつけそうになったのか。オヴィラプトルが食べづらそうにしていたのか。モスコプスが身体を引っ掛けたのか。
詳細な理由は思い出せない。だが、改修した動機は容易に想像がついた。不便そうにしている姿を見てしまったら、放っておけなかったのだ。
効率だけを求めるなら、こんな手間は必要ない。でも、この子達が少しでも快適に過ごせる方がよかった。
奥では、ダエオドンがまた寝ている。本当に一日中寝ている。
その近くで、ドードー達がちょこちょこと動いている。カストロイデスは木材のそばで丸まり、オヴィラプトルは卵の周りをうろうろと巡回している。
その平和な光景に、胸の奥がじんわりと緩んだ。
「ここ、ちゃんとみんなの居場所になってたんだ」
ぽつりとこぼすと、足元のドードーが短く鳴いた。返事をしてくれたのかもしれない。
私はその子の頭を優しく撫でてから、採取組と運搬組の区画へ向かった。
ここは、工業エリアとの境界線に近い。
最初は完全に効率重視で配置したはずだ。素材を運び込みやすい。作業場が近い。倉庫が近い。必要になれば即座に出動できる。
機能性だけを考えれば、極めて理にかなっている。
でも、ここもただの『重機の置き場』ではなかった。
巨体を休められる広々とした床。荷物を下ろしやすいゆとりある空間。水場への最短ルート。角をぶつけないよう配慮された通路幅。高所を好む子のための足場。臆病な子が身を隠せる奥まった寝床。
アンキロサウルスが壁際にどっしりと座っている。ドエディクルスは相変わらず丸まっている。マンモスは広い空間でゆっくりと長い鼻を揺らしている。アルゲンタヴィス達は高めの足場に陣取り、ケツァルコアトルスはさらに巨大な専用の台に身を預けている。
機能と暮らしの中間。そんなエリアだった。
この子達は、資源を集めるための労働力だ。それは間違いない。
でも、今ここで静かに眠っている姿を見ると、それだけではなかったのだと実感する。
単なる作業場ではなく、一仕事を終えた後に安らぐための家でもあったのだ。
通路の端を歩きながら、壁をなぞる。
そこにも補修の跡があった。たぶん、誰かが曲がり角でぶつけたのだろう。硬い角か、重い尾か、あるいは大量の荷物か。その場所だけ、後から念入りに分厚く補強されている。
「……ほんと、どれだけ直したんだろ」
呆れながらも、嫌な気分ではなかった。
直した跡が無数にあるということは、ここで共に暮らしていた時間がそれだけあるということだ。
次に、一番奥のエリアへと足を踏み入れた。
そこは、他の区画とは明らかに異質な空間だった。
通路が狭まり、空気がふっと冷え込む。足音が無機質に響く。壁の材質も変わり、照明の色が、わずかに青白さを帯びていた。
生き物の体臭が途切れる。
代わりに、澄んだ金属の匂いと、微かな電子的な熱の気配が漂っていた。
最深部、あるいは地下。そう呼ぶべき場所に、その設備群は鎮座していた。
TEK設備。
その単語だけが、自然と脳裏に浮かび上がる。
青白い光。無機質で洗練された輪郭。汚れひとつない金属の装甲。余計な排熱すら感じさせない高度な装置。
記憶のままの姿で、そこにあった。
強大。至便。高性能。私の理解を絶するほどのテクノロジーを秘めている。
巨大な恐竜たちが闊歩するこの原始的な島の中で、これだけがひどく異質で、浮き上がっていた。 だが、それを目にしても、私の心はさほど揺れ動かなかった。
「あった」
ただ、それだけだ。
必要に迫られれば使える。そういうセーフティネットとしての安心感はある。でも、ここは私の日常の中心ではない。
あの子達の穏やかな寝息もない。餌の匂いもない。干し草の柔らかさもない。床に刻まれた足跡も、壁についた身体の擦れ跡もない。
ひたすらに冷たい。
そう感じた。
危険だから隔離したわけではない。使いこなせないから奥へ追いやったわけでもない。
ただ、この手作りの拠点の空気に、あまりにもそぐわなかったのだと思う。
木と石と布。爪痕と足跡と体温に満ちた場所。
その泥臭い生活空間の中に、この完璧な青白い光はひどく浮いてしまう。だから奥底へ隠した。たぶん、それだけの理由だ。
それに。
「……遠いし」
思わず身も蓋もない本音が漏れた。
自分で言って、少しだけ気が抜ける。こんな異常事態になっても、面倒なものは面倒らしい。
水もある。食料もある。作業場もある。倉庫もある。みんなの居住区もある。防衛設備も、過剰なくらいに整っている。
ならば、ここをわざわざ生活の基盤にする必要はない。
TEK設備は、確かに絶大な力を持つ。でも、私が帰りたいと思ったのは、この無機質な青白い光の中ではなかった。
地上へと引き返す。
通路を上がるにつれて、少しずつ馴染み深い匂いが戻ってきた。
土。草。獣の体温。水場の湿り気。
その泥臭い匂いに包まれると、無意識に強張っていた肩の力が抜けた。
シルヴィアは地下へ続く入り口の手前で待っていた。
狭くて入れなかったのか、単に入りたくなかったのかは分からない。私が戻ると、すぐに長い鼻先を寄せてくる。
「うん。ただいま……って、まだ変かな」
呟いてから、言葉を濁した。
ただいま。その響きが、胸の奥に小さく引っかかった。
最後に、自分の部屋へ向かう。
みんなの部屋は見た。工業エリアも見た。TEK設備も見た。では、自分自身のテリトリーはどうなのか。
通路を進み、少し奥まった場所にある扉の前で立ち止まる。
見上げるような巨大な扉ではない。人間の背丈に合わせた高さ。巨大な子達が通るためのものではない、私専用の入り口。
手を伸ばすと、ドアノブの位置を身体が正確に覚えていた。
扉を開ける。中は、思ったよりもずっと静かだった。
さほど広くはない空間。ベッド。収納。机。小さな窓。壁際に立てかけられた道具。ささやかな装飾品。
生活感はある。でも、自分の部屋だというのに、まだどこか他人の仮宿のように感じられた。
どこに何があるかは完全に把握している。この収納には衣服と装備。机の引き出しには細々とした道具。窓の近くの椅子には、たぶんよく座っていた。
知識としては分かるのに、実感が伴わない。
私はいつ、このベッドで眠ったのだろう。いつ、ここを心から自分の居場所だと思ったのだろう。
記憶のピントが合わない。けれど、部屋の中に漂う空気は、ひどく優しかった。
窓へ近づき、外を眺める。
正門の方にカイザーの巨体が見える。高所にはシルヴィアのシルエット。増築を重ねた屋根が幾重にも連なり、回廊がうねり、巨大な居住区が広がっている。遠くには工業エリアへ続く煙突も見えた。
自分の部屋は、まだ少し借り物みたいだ。
でも、窓の外には私の子達が確かに息づいている。なら。ここにいてもいいのかもしれない。
自然とそう思えた。
部屋を出て、拠点全体を一望できる場所へ向かった。
中央の高所。見張り台とも屋上とも呼べる、一番開けた場所。
そこからは、拠点の全貌がよく見渡せた。
城塞を目指した名残はある。高い外壁。正門。塔。見張り台。中央の主塔。
工業・ストレージエリアも備わっている。整然とした作業場。素材置き場。修理設備。奥底に集約された機能の中枢。
さらにその深部には、青白い光を放つオーバーテクノロジーが眠っている。
けれど、拠点の大部分を占めているのは、それらとは全く別のものだった。
後から無秩序に増築された居住区。
ワイバーン達の天空のねぐら。大型組の広大なエリア。小型組の柔らかな寝床。採取組の広場。水場。餌場。工房。主任のヘルメット。正門のカイザー。傍らに控えるシルヴィア。
全体を見渡し、長く息を吐き出した。
ここは城ではない。城塞にしようとした名残はあるが、その用途としてはあまりに不格好だ。
ここは工場でもない。生産設備は揃っているが、面積の多くは居住区が占めている。
ここは兵器庫でもない。強力な装備や冷徹な機械もあるが、それらは奥底にひっそりと隠されている。
では、何なのか。
明確な答えは、まだ言葉にならなかった。
拠点。要塞。基地。
どれも間違いではない。だが、どこか満たされない。
視線を下へ落とす。
小型区画のあたりで、ドードーが一羽、短く鳴いた。その声に、別の子が呼応する。
上層でワイバーンが翼を畳み直す音が響く。正門では、カイザーが静かにまぶたを閉じている。工房の方角からは、主任が何か重いものを置く鈍い音がした。
シルヴィアが、私の隣へと首を下ろす。
その鼻先が、私の肩のすぐそばで止まった。押し付けてはこない。ただ、そこに寄り添っている。
私はその硬い鼻先にそっと手を添えた。
「立派なお城を作るつもりだったんだと思う」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼした。
「でも、出来上がったのは城じゃなかった」
シルヴィアが小さく喉を鳴らす。私はふっと笑みをこぼした。
「完璧な工業拠点にするつもりだった気もする。でも、それも違った」
風が吹き抜ける。無骨な建物の中を通り抜け、私の髪を揺らす。
「ここ、みんなの場所なんだね」
言葉にして、ようやくパズルのピースがはまった気がした。
みんなのための部屋。通路。寝床。餌場。水場。作業場。私の部屋。
そのすべてが、脈絡なく繋がっている。
ただ生き延びるためのシェルターではない。ただ外敵を拒絶するだけの城でもない。ただ物資を量産するための工場でもない。
みんなが帰ってくる場所。
みんなが待っていてくれた場所。
そして、たぶん。私も帰ってきていい場所。
ゆっくりと、唇を開いた。
「……ただいま、でいいのかな」
風に溶けてしまいそうな小さな声。でも、かき消されはしなかった。
シルヴィアが低く優しく喉を鳴らす。
正門の方で、カイザーが応えるように小さく地響きを立てた。小型区画から、愛らしい鳴き声が返ってくる。高所で翼がばさりと揺れる。工房の方で、何かがカタンと置かれた。
それはまるで、この場所全体からの返事のようだった。
私は、堪えきれずに笑い声を漏らした。
ここには、まだ名前がない。
大層な名前をつけるには、まだ早い気がした。
ここで本当に生きていくのだと認めるのが、ひそかに恐ろしかった。この世界が何なのかも、私はまだ何も知らない。自分の記憶がどこまで現実なのかも、定かではない。
それでも。
拠点という言葉では、味気なさすぎた。城という言葉では、いかめしすぎた。
もう一度、眼下に広がる景色を見渡す。
不格好な防壁。増築だらけの迷路のような通路。奥底に封じられた冷たい光。肥大化しすぎた居住区。あちこちから聞こえる、愛おしいうちの子達の息遣い。
名前はまだない。
けれど、ここはきっと。
まだ名前のない、『家』だった