廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

50 / 65
第47話 帰り道

船は直った、とは到底言えなかった。

 

ただ、沈まずに岸を離れられる、最低限の形に戻っていただけだ。

 

朝の浜辺には、突貫の応急修理を終えた船が並んでいた。

 

折れたマストは別の木材で不格好に継ぎ足され、裂けた帆には何枚もの粗末な布が継ぎ合わされていた。船腹には不揃いな板が打ちつけられ、激しい焦げ跡の残る場所には、樹脂と布が何重にも塗り込められていた。

 

まだ、全身傷だらけだった。

 

海に出れば、すぐにきしむだろう。

波を受ければ、水が染みるだろう。

風が少しでも強くなれば、あの不格好な帆柱は悲鳴を上げて折れるかもしれない。

 

けれど、彼らにとっては、国へ帰るための唯一の船だった。

 

完全な修復などではない。

 

ただ、沈まずに外海までたどり着くための、最低限の器。

 

聖戦軍第一陣の生存者達は、その危うい形に、自らの命を預けることになっていた。

 

砂浜の上には、いつの間にかいくつもの静かな列が作られていた。

 

担架に乗せられた、重傷者の列。

 

術力を使い果たし、泥を被った治癒術師達の列。

 

船を操る船員達の列。

 

生死を確認し続ける記録官達の列。

 

武器を失った一般兵と義勇兵の列。

 

遺品箱と記録板を重そうに運ぶ者達。

 

かつて十万を数えた誇り高き聖戦軍第一陣は、いまや一万人ほどにまで減っていた。

 

それでも、狭い浜を埋め尽くすには、十分すぎるほどの人の質量だった。

 

だが、そこには出発を控えた軍勢の熱気も、勝利の喧騒も、何一つなかった。

 

あるのは、重い荷を積む鈍い音、担架を運ぶかすれた声、船体の重い軋み。甲板の上で治癒術師が区画を確認するせわしない足音と、ただ淡々と名簿を読み上げる記録官の、乾いた声だけだった。

 

持ち帰れるものは、極めて限られていた。

 

最低限の私物。

 

遺品。

 

記録。

 

そして、負傷者達と、取り返しのつかない敗北の事実。

 

持ち帰れないものは、あまりにも多かった。

 

武装を失った彼らに、武器はなかった。聖水もなかった。攻撃用の聖具もなかった。勝利を飾るための白銀の旗もなかった。

 

そして何より、この島で冷たくなった多くの者達の身体を、すべて連れて帰ることは、もう決して叶わなかった。

 

記録官が、船倉の一角へ遺品箱を丁寧に積み重ねていった。

 

割れた聖印。

 

ちぎれた布片。

 

折れた隊章。

 

名の書かれた小さな木札。

 

持ち主を失った祈り紐。

 

積み込む手は、誰もが静かで、丁寧だった。

 

もう、彼らにはそれくらいしか、死者のためにできることが残されていなかったからだ。

 

 

重傷者が、最初に船へ乗せられた。

 

担架に乗せられた者達が、慎重に、揺らさないよう甲板へ運ばれていった。船内には、リィナ達が指示した通りの簡素な仕切りが作られていた。帆布を吊るして風を防ぎ、寝かせる場所を分け、揺れで傷口が擦れないよう布で身体を固定した。

 

治癒術師達は先に船内へ入り、水の置き場や薬の配置、そして看取りが必要な者を静かに寝かせる場所を確認していた。

 

誰もが極限状態で、心に余裕などなかった。

 

だが、昨日までのあの混沌とした悲鳴は、そこにはもうなかった。

 

リィナが仮キャンプで示した処置の優先順位は、船の上という限られた環境でも、確かに彼らの手で運用されていた。

 

動かせる者と、動かせない者。

 

術を今必要とする者と、水と休息を与えるべき者。

 

次に船員達が乗船した。

 

彼らは自分達の傷だらけの船を見上げ、どこか祈るように顔を引きつらせていた。

 

不揃いな板が打ちつけられた船腹。

 

継ぎ足された帆柱。

 

黒く残る焦げ跡。

 

それは決して誇れる船ではなかったが、彼らにとって、生きて海を渡るための唯一の希望だった。

 

記録官達が乗り、遺品箱がすべて積まれた。

 

アレクシオ・レーヴェン枢機卿は、乗船者名簿をじっと見つめていた。腕にはまだ痛々しい包帯が巻かれ、顔色も青ざめたままだった。それでも、彼は最後まで一人ずつ、名を確認し、消し込んでいった。

 

「第二船、重傷者二十九名。治癒術師三名。船員十二名」

 

「記録、完了しています」

 

「第五船、義勇兵百三十六名。中等症二十一名。遺品箱二」

 

「確認いたしました」

 

数が合わなければ、そこで作業は止まった。

 

隠れている者がいないか。

 

乗り遅れた者がいないか。

 

無断でこの浜に残ろうとする者がいないか。

 

その厳しい確認は、他ならぬ聖戦軍自身が、必死に行って徹底させていた。

 

なぜなら、彼らはもう嫌というほど思い知らされているからだ。

 

この島でライラの定めたルールを破れば、次に動くのは人間の法ではない。

 

空を埋める竜の影か。

 

森の牙か。

 

あるいは海の下に潜む、計り知れない巨影か。

 

どれひとつとして、人間の力で逃げ切れるものではないのだと、誰もが理解していた。

 

 

最後の退出確認のため、ライラが浜辺へ姿を現した。

 

リィナは、その隣に静かに寄り添うようにして歩いた。

 

ライラの顔色は、まだ優れなかった。服や髪は整えられていたけれど、目元には深い疲労が沈んでいた。歩幅は小さく、時折、心配そうに視線が屋敷の方向へと戻った。

 

彼女は見送りに来たのではなかった。

 

危険が完全に島から去るのを、確認しに来ただけだ。

 

アレクシオが一歩前へ出た。その背後では、記録官が乗船名簿を抱えて身を硬くしていた。

 

ライラは、短く尋ねた。

 

「全員、乗った?」

 

「生存者は全員、乗船を終えたか、現在搬送中です。最終便の確認を残すのみとなります」

 

アレクシオは答えた。

 

「隠れてる人は?」

 

「確認済みです。森の縁、墓地の周辺、仮キャンプの跡地、すべてくまなく見回りました。残留者は一人もおりません」

 

ライラは、少しだけリィナを見た。

 

リィナは、彼女の視線を受け止めて静かに頷いた。

 

「仮キャンプの撤収班も確認を終えました。許可のない者は、誰一人として島には残っていません」

 

「武器は?」

 

「すべて引き渡しました。鉄片ひとつ残していません」

 

「聖水は?」

 

「すべて回収し、船内にも持ち込ませておりません」

 

「攻撃用の聖具は?」

 

「神官、神官見習いに至るまで所持を禁じ、回収を終えています」

 

「墓地の術式は?」

 

アレクシオは、一瞬だけ喉を詰まらせ、それから静かに言った。

 

「祈りのみです。聖域化、結界化の術式は、決して施しておりません」

 

リィナは、その言葉を受けて静かに補足した。

 

「確認しました。墓地には死者への祈りと、記録の木標以外、何もありません」

 

ライラは小さく頷いた。

 

「船は動く?」

 

一人の船員が、緊張に全身を強張らせながら答えた。

 

「完全な状態ではありません。ですが……外海にたどり着くまでは、必ず保たせます」

 

ライラは、その船員をまっすぐに見つめた。

 

責めるような色はなかった。

 

けれど、ただ真実だけを見抜こうとする瞳だった。

 

「途中で沈まない?」

 

「沈ませません。必ず、連れて帰ります」

 

船員は、震えながらも、強い決意を込めてそう答えた。

 

ライラは、ゆっくりと頷いた。

 

「じゃあ、出て」

 

それは、アポカリプスの海への出航許可だった。

 

同時に、彼らにとっては、この島からの退去命令でもあった。

 

 

その瞬間、海が重く動いた。

 

浜辺にいた兵達が、本能的な恐怖で同時に息を呑んだ。

 

水面の下から、巨大な影が浮かび上がってきた。

 

ひとつではない。沖の深い青が、内側から押し上げられるように不気味に盛り上がった。

 

モササウルス。

 

かつて第一防衛線で牙を剥いたその巨体が、波間に大きな背を見せた。

 

次いで、海水を裂くようにして、トゥソテウティスの長大な触腕がうねりながら水面を割った。

 

側面にはバシロサウルスの穏やかな影が並び、岩礁の近くでは、硬い兜のような骨質を持つダンクルオステウスが静かに旋回していた。外周にはメガロドンの群れが鋭い背びれを覗かせ、遠い流れの先には、エラスモサウルスの長い首が蛇のように一瞬だけ水面に突き出された。

 

船に乗る生存者達は、その影の意味を、あまりにも痛いほど知っていた。

 

船底を砕き、舵を割り、兵達を海へ落としていった、アルカノアの海の牙そのものだ。

 

若い義勇兵が、甲板の縁を白くなるほど強く掴んだまま青ざめていた。

 

「あれが……あの時の化け物が……」

 

隣の年上の兵が、掠れた声で言った。

 

「見るな。前を向け」

 

だが、見ないわけにはいかなかった。

 

水面の下に蠢く巨大な質量。

 

それが、今度は船団を襲うのではなく、前方を塞ぐようにして、ゆっくりと滑り出していったのだ。

 

牙を向けてこなかった。

 

船底へ体当たりしてくることもなかった。

 

ただ、まるで道を示すかのように、船団が進むべき方向へ向かって、静かに並んで泳いでいた。

 

襲われるのか。

 

導かれているのか。

 

あるいは、逃げ道以外の航路を、力づくで塞がれているだけなのか。

 

彼らには、その真意は分からなかった。

 

ただ、その不可解な沈黙こそが、余計に恐ろしかった。

 

 

リィナは、甲板に立つ者達へ向けて、浜辺から声を張った。

 

「このアポカリプス海域は、今のあなた達の船だけで抜けることは不可能です」

 

ざわめきが、波の音の中に消えた。

 

「海流も、不自然な波も、野生の獣も、通常の海とは全く異なります。継ぎ接ぎだらけの船だけで進めば、海流に流されるか、見えない岩礁に乗り上げて沈むだけです」

 

誰も、反論できなかった。

 

彼らはすでに、この海の異常な荒さを身をもって知っていたからだ。

 

「海棲ファミリア達が、海域の外まであなた達を先導します。進路を絶対に外れないでください。勝手に速度を変えないでください。島へ戻ろうとする動きを見せないでください」

 

リィナは一度、言葉を切った。

 

そして、治療者としての憐れみではなく、現実だけを告げた。

 

「指示された流れから外れた場合、救助ではなく、即座に制圧になります。これは護送ではありません。アポカリプスからの、ただの退出管理です」

 

アレクシオは、その警告を静かに受け止めた。

 

彼らは見送られているのではない。

 

この島から排出されているのだ。

 

道を一歩でも外れれば、その瞬間に海に沈められる。

 

それが、生きてこの海を通るための、絶対の条件だった。

 

 

出航の直前、アレクシオはライラの前に立った。

 

長い和解の言葉など、そこにはなかった。そんな言葉を交わせる段階ではないことを、互いに痛いほど理解していたからだ。

 

「我々は、国へ帰ります」

 

アレクシオは言った。

 

「そこで、私が見たものを、すべて伝えます」

 

ライラは短く頷いた。

 

「うん。ちゃんと伝えて。……次に来るなら、今度はもっと早く止める」

 

それは事実であり、同時に、彼女が示せる最後の猶予でもあった。

 

アレクシオは、少しだけ迷うように唇を動かし、問うた。

 

「貴女は……我々を許したのですか」

 

リィナは、わずかに目を伏せた。

 

ライラは、ほとんど間を置かずに首を横に振った。

 

「許してない」

 

その声は、ひどく小さかった。

 

けれど、一分の揺らぎもないほどに、はっきりしていた。

 

「ただ、もうここにいてほしくない。それだけ」

 

アレクシオは、静かに息を呑んだ。

 

赦しでもなく、慈悲でもない。

 

ただ、家に入ってきたものを、外へ出す。

 

ライラの瞳には、ただそれだけの静かな生活の境界線があった。

 

アレクシオは深く頭を下げた。

 

法国の枢機卿としてではなく、一万人の生存者を必ず生きて帰すという、敗軍の指揮官の重い責任を背負う者として。

 

乗船する間際、彼は一度だけ丘を見上げた。

 

海の見えるあの丘。

 

そこには、新しく作られたばかりの戦死者墓地があった。

 

まだ新しく、土の色さえ周囲に馴染んでいない、帰れなかった者達の無数の墓標。

 

アレクシオは、その方角へ、腰が折れるほど深く頭を下げた。

 

帰る者は一万。

 

帰れない者達は、この島に残る。

 

すべてを背負って帰るには、あまりにも多くのものを、この島の土へ置いていくことになった。

 

リィナもまた、同じ丘を見つめていた。

 

胸の奥に、祈りとも痛みともつかない複雑な澱が静かに沈んでいった。

 

ライラは、一瞬だけその丘を見た。

 

けれど、長くは見なかった。

 

そこは人間達の墓地であると同時に、彼女の家に残された傷跡でもあったからだ。

 

 

船団が、静かに動き始めた。

 

誰も歓声を上げなかった。

 

帆が上がり、不格好に継ぎ足された帆柱がきしんだ。応急修理された船腹が波を受けるたび、沈むのではないかと錯覚するほどの重い音が響いた。負傷者区画からは、かすかな呻き声が漏れてきた。

 

甲板に力なく座り込む兵。

 

震えながら海を見つめる兵。

 

水面下の巨大な影に怯えて顔を青ざめさせる者。

 

船員達は、ただ必死に、震える手で舵を握り締めていた。

 

船団のすぐ目の前を、モササウルスの巨体がゆっくりと先導していった。進路を示すように、時折水面を割って黒い背を見せた。

 

側面にはバシロサウルスの影が寄り添い、深海では触腕が妖しくうねった。

 

彼らは魔物に追われているように見えた。

 

だが実際には、魔物に守られていた。

 

いや、守られているというよりは、ただ決められた逃げ道から外れないよう、囲い込まれていた。

 

浜辺には、ライラとリィナが残されていた。

 

遠くにはカイザーの静かな巨影、空には旋回するワイバーン。

 

ライラは、船団が岸を離れていくのを、じっと見つめていた。

 

見送っているのではない。

 

ただ、片づけが予定通りに進んでいるかを確認しているのだ。

 

「ちゃんと出るかな」

 

小さく呟くライラの声に、リィナは静かに答えた。

 

「出ます。もう、戻る力は彼らにはありません」

 

「戻ってこないといい」

 

その声に、勝利を誇る響きは微塵もなかった。

 

ただ、すべてを終えた後の深い疲労だけがあった。

 

リィナはかけるべき言葉を探したが、見つけられなかった。簡単な慰めなど、今の自分達には何の役にも立たないことを知っていたからだ。

 

 

アポカリプス海域は、侵入者を拒むように激しく荒れていた。

 

潮がまるで激流の川のように流れ、一つ舵を誤れば、船同士がぶつかるか、岩礁へ叩きつけられる。

 

突然、水面の一部が陥没し、巨大な白い渦が生まれた。

 

先頭を進んでいたモササウルスが、ゆっくりと右へ大きく尾を振った。それを見た船員が、必死に叫んだ。

 

「右へ! 右へ舵を切れ!」

 

船団が軋みながら進路を変え、激しい渦は、船団のほんの少し左側で白泡を立てて消えた。もしあのまま進んでいれば、一隻は巻き込まれて沈んでいただろう。

 

水面下に隠れた刃のような岩礁の群れ。

 

ダンクルオステウスがその前に立ち塞がるように泳ぎ、硬い背を剥き出しにして、彼らを安全な航路へと誘導していった。

 

彼らは、もう自分達の判断だけで船を操ってはいなかった。

 

水面の影を信じて、進んだ。

 

ファミリアのうねりを読んで、ただ必死に舵を切った。

 

そうしなければ、この荒れた海を生き残る術はなかった。

 

濃霧が立ち込める場所では、エラスモサウルスが長い首を霧の向こうに見せて道標となり、遅れかけた船の横にはバシロサウルスが静かに並び、枠から外れるなと無言で示した。

 

野生の海棲魔獣が船団に迫った瞬間、トゥソテウティスの巨大な触腕が暗い水の中で広がり、メガロドンの群れが一斉に外側へ走った。

 

野生の影は、それだけで進路を変えた。

 

聖戦軍の兵達は、甲板の上でその光景を呆然と見つめていた。

 

守られている。

 

そう錯覚し、すぐに、それは違うのだと気づいた。

 

これは守護ではない。

 

管理された航路だった。

 

この境界線を外れれば、今自分達を通しているこの牙が、一瞬にして自らに向けられるのだと、誰もが確信していた。

 

「あれが……あの時の化け物が……」

 

若い兵が、甲板の隅で震えながら呟いた。海が割れ、船が傾き、仲間達が海へ消えていったあの日の恐怖は、今なお鮮明に脳裏に焼き付いている。

 

魔物なら、なぜ沈めない。

 

魔王の軍勢なら、なぜ殺さない。

 

答えはどこにもなかった。

 

ただひとつ言えるのは、自分達の生死は、未だにアルカノアの海の牙に握られているという事実だけだった。

 

 

アレクシオは、揺れる船尾に一人静かに立っていた。

 

島は、霧と高波の向こうへ、少しずつ、確実に遠ざかっていった。

 

黒い森と高い崖。

 

その奥にある、魔王の城。

 

世界はそこを魔王の棲家と呼ぶだろう。

 

だが、アレクシオはもう、その大義の言葉だけであの島を語ることはできなかった。

 

捕虜は生きて返された。

 

死者は人間の手で弔われた。

 

魔物は死体を食わず、墓を作ることを許された。

 

そして、リィナは患者に人も魔物もないと告げ、ライラは世界征服ではなく、家に入ってきたものを片づけるだけだと静かに言った。

 

そして今、かつて自分達の艦隊を砕いた海の牙達が、船団を安全な航路へ導いていた。

 

これは救いなのか。

 

管理なのか。

 

あるいはただの追放なのか。

 

おそらく、そのすべてであり、そのどれとも違っていた。

 

アレクシオは、まだライラを信じたわけではなかった。法国の教義を捨てたわけでもない。

 

だが、あの島にある真実は、聖座で語られる単純な勧善懲悪の言葉では、決して説明できないのだと、彼はもう知っていた。

 

それを、法国へ持ち帰らなければならない。

 

十万を率いて来て、一万を連れて帰る責任者として。

 

失われた無数の名を背負う、証人として。

 

アレクシオは、波の向こうへ消えゆく島を、ただじっと見つめ続けた。

 

 

浜辺では、ライラが未だに海を見つめていた。

 

船団はすでに霧の彼方へ消え、一隻の姿も見分けることはできなかった。それでも、彼女は水平線を見つめていた。

 

彼女が確認しているのは、人間達の帰還ではない。

 

ちゃんと出て行ったか。

 

野生の獣にファミリア達が襲われていないか。

 

そして、海へ出ているうちの子達が、無事に戻ってくるかどうかだ。

 

「海の子達、戻ってきます」

 

リィナが声をかけると、ライラは小さく頷いた。

 

「うん。……早く戻ってくるといいな」

 

その声は、聖戦軍へ向けたものでは決してなかった。

 

船団を安全な境界まで送り届けている、自らの大切なファミリア達へ向けた、温かい言葉だった。

 

リィナは、何も言わなかった。

 

ライラは、勝者としてそこに立っているのではない。

 

ただ、うちの子達が無事に海から戻ることを心配している、疲れ切った家の主人に過ぎなかった。

 

 

アポカリプス海域の外縁が近づくにつれ、不自然なほど暴れていた海流が、少しずつ緩んでいった。

 

濃い霧が晴れ、遠くに穏やかな、見慣れた外海の青い色が見え始めた。

 

「外海です……! 外海に出ました!」

 

船員の一人が、泣き叫ぶような声で叫んだ。

 

甲板の誰もが、深く、長い安堵の息を吐き出した。何人かはその場にへたり込み、何人かは天を仰ぎ、言葉にならない声を漏らした。

 

だが、そこにも歓声はなかった。

 

勝ったわけではない。

 

ただ、境界の外へと追い出されただけなのだから。

 

水面の下で、モササウルスの巨体がゆっくりと速度を落とした。

 

トゥソテウティスの触腕が最後に一瞬だけ波間に浮かび、深い青へと消えていった。メガロドンの背びれが船団の外側を静かに一周し、やがて島の方角へと向きを変えた。

 

バシロサウルスも、エラスモサウルスも、ダンクルオステウスも、それ以上は境界を越えて進まなかった。

 

ここまでが、アルカノアの海。

 

ここから先は、人間の海。

 

彼らは見送っているのではない。

 

ただ、生活の境界線を守っているのだ。

 

アレクシオの脳裏に、ライラの最後の警告が蘇った。

 

次に来るなら、今度はもっと早く止める。

 

次は、この海にたどり着く前に沈められるかもしれない。

 

アポカリプスは、すでに彼らの侵攻経路も、戦い方も、弱点も把握していた。

 

必ず、法国へ伝えなければならない。

 

アレクシオは、深く息を吸い込んだ。

 

潮の匂いが変わっていた。

 

あの海域の重く湿った匂いではない。

 

ありふれた外海の匂いだった。

 

聖戦軍第一陣の生存者一万人は、ついにアポカリプスを抜けた。

 

だが、その海を離れたとき、誰一人として、自らの帰還を勝利とは呼ばなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。