廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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しばらくARK成分ほぼないです


第48話 敗北の証

王国西岸の港町は、いつもなら朝から喧騒に包まれている。

 

漁船が戻り、荷馬車が行き交い、潮の匂いと魚の匂い、そして焼きたてのパンの香ばしい匂いが混ざり合う。港湾官が帳簿を抱えて埠頭を歩き、荷役達が声を張り、船員達が乱暴な冗談を交わす。

 

それが、この港の変わらない日常だった。

 

けれど、その朝。

 

最初に響いたのは、いつもの快活な怒号ではなかった。

 

カン、カン、カン、と。

 

見張り台の鐘が鋭く、冷たく、港町の空気を切り裂いた。

 

「沖合に船団!」

 

見張りの叫びが、激しい海風に乗って落ちてきた。

 

「数、多数! だが……様子がおかしい!」

 

港にいた者達が、一斉に海へ視線を向けた。

 

最初は、誰もその影が何であるかを判断できなかった。

 

敵襲か。それとも、ただの難破船団か。

 

遠くの水平線に現れた影は、確かに船団の体をなしていた。数は多い。だが、その姿は、戦いへ向かう誇り高い軍勢のそれとは到底かけ離れていた。

 

ズタズタに引き裂かれた帆。

 

不格好に継ぎ足され、今にも折れそうに傾いたマスト。

 

不揃いな板が無理やり打ちつけられ、黒い焦げ跡の残る船体。

 

潮と泥、そして赤黒い血に汚れたまま、かろうじて結ばれた白銀の聖印旗。

 

甲板の上には、白い布で覆われた人影がいくつも横たえられていた。

 

勝利の聖歌は聞こえなかった。

 

神への感謝を唱える敬虔な声もなかった。

 

あれは、凱旋の船団などではなかった。

 

戦場そのものが、海を渡って流れ着いたようだった。

 

港湾官は、埠頭の先で目を細めた。

 

額に冷たい汗が滲んでいた。

 

「弓兵、構えは維持しろ。だが、絶対に撃つな」

 

傍らに立つ若い兵士が、困惑して振り返った。

 

「敵襲ではないのですか?」

 

「違う」

 

港湾官は、確信を込めて、だが血の気のない顔で言った。

 

「あれは……あそこにいるのは、生きて帰ってきた者達だ」

 

ルミナリア法国、聖戦軍第一陣。

 

あの禁忌の島を討つために、かつて水平線を白い帆で埋め尽くして進軍していった、十万規模の大軍。

 

その結末が今、王国の港へ静かに流れ着こうとしていた。

 

「武器を構えるな。だが、警戒は解くな」

 

港湾官は短く命じた。

 

「治癒術師を全員呼べ。水と清潔な布を集めろ。荷役、担架を用意しろ。王国兵は埠頭を空けろ。記録官を呼べ。――すべてを、克明に記録させる」

 

港町に、息の詰まるような慌ただしさが広がっていった。

 

誰もが本能的に理解していた。

 

これは、ただの難破船の救助ではない。

 

王国は、外界へ戻ってきた敗北そのものを、いま目の前にしているのだと。

 

 

最初の船が埠頭へ接舷したとき、出迎える港の群衆から歓声は一切上がらなかった。

 

船員が投げた縄は途中で力なく落ち、埠頭の王国兵が慌ててそれを拾い上げて固定した。船体は波を受けるたびに低く軋み、今にも崩れ落ちそうな音を立てていた。

 

甲板に立ち尽くす生還者達のなかに、勝者の顔をした者は、誰一人としていなかった。

 

鎧は泥と潮にまみれ、白い法衣は血と煤で灰色に汚れていた。槍や剣を握る者もいたが、それは戦うためではなく、震える身体を支える杖に近かった。

 

負傷者が、次々と担架で陸へ下ろされていった。

 

海水を飲んで肺を痛めた者。

 

神聖術でも癒えきらない火傷を負った者。

 

包帯の下から、まだ血を滲ませている者。

 

従軍治癒術師達は、自らも憔悴しきった顔でありながら、倒れかける兵の肩を必死に支えていた。

 

「所属と指揮官の名を名乗れ!」

 

王国兵の鋭い制止に、船団の中央から、一人の男がゆっくりと埠頭へ降り立った。

 

白い法衣は裂け、枢機卿の聖印は欠けていた。片腕には包帯が巻かれ、手に持つ聖杖には無数の傷が走っていた。

 

それでも、男は背筋を曲げなかった。

 

「ルミナリア法国、聖戦軍第一陣」

 

男の声は低かった。

 

だが、港のざわめきを押し通した。

 

「最高指揮官、アレクシオ・レーヴェン」

 

その名乗りが、港全体を凍りつかせた。

 

アレクシオ・レーヴェン枢機卿。

 

法国の重鎮にして、あの大遠征の総大将。

 

その人物が、勝利の凱旋ではなく、夥しい負傷者と壊れた船を引き連れて王国の港へ戻ってきた。

 

港湾官は一瞬だけきつく目を閉じ、それからすぐに実務の顔に戻った。

 

「負傷者を保護しろ。船ごとに区画を分け、法国兵と王国兵を混ぜるな。治癒術師は王国側の配置に組み込め。記録官、これより記録を始めろ」

 

若い記録官が、震える手で筆を握りしめた。

 

港湾官は、その耳元で低い声を落とした。

 

「人道的には最大限救う。だが、政治的には狂いなく記録しろ。どちらも怠るな」

 

王国は、法国の掲げた聖戦を支持したわけではない。

 

だからこそ、この現実を、政治的な事実として狂いなく掴まなければならない。

 

この港に、世界を揺るがす敗北の証人が流れ着いたのだ。

 

 

急ごしらえの記録机は、港湾倉庫の一角に置かれた。

 

薄暗い倉庫の壁越しに、負傷者の呻き声、治癒の祈り、水を運ぶ足音、煮沸した布を裂く音が絶え間なく聞こえてきた。

 

その中で、王国記録官はアレクシオ枢機卿と向かい合っていた。

 

アレクシオの顔色は極めて悪かった。

 

しかし、その声は一本の糸のように張り詰めていた。崩すことを、指揮官としての矜持が許していないようだった。

 

「出征時の、聖戦軍総数は」

 

王国記録官が問う。

 

「およそ、十万」

 

筆が走った。

 

十万という数字が、インクとなって紙の上を滑った。

 

「現在、王国港に到着した生存者の数は」

 

アレクシオは、そこで一瞬だけ沈黙した。

 

倉庫の外から、行方不明者の名を確認する声が聞こえた。

 

名簿を読む声。

 

それに答えられない兵の沈黙。

 

アレクシオは、かすかに息を吐いた。

 

「……一万前後」

 

サラサラと走っていた筆の音が、そこで止まった。

 

若い記録官は、思わずアレクシオの顔を見上げた。己の耳を疑ったのだ。

 

だが、アレクシオの深い疲労と絶望を湛えた目を見て、それが聞き間違いではないと悟った。

 

「一万、前後。それは、戦闘可能な兵の数、という意味ですか」

 

「戦闘可能人数ではありません」

 

アレクシオは、絞り出すように言った。

 

「動けない負傷者、船を操る船員、術力を使い果たした治癒術師、その他補助要員――あの島から生きて戻ってきた、すべての総数です」

 

記録官の指が震えた。

 

十万の軍勢が、たった一万に。

 

それは敗北という二文字で片付けるには、あまりにも異常な喪失だった。

 

記録官の筆は、そこで一度止まった。

 

しかし、すぐ横に立っていた港湾官の視線が落ちた。

 

書け。

 

そう言われた気がして、記録官は震える指で再び筆を取った。

 

その後、記録官は生き残った兵達の断片的な証言を集め始めた。

 

彼らの言葉は、恐怖で激しく混乱していた。

 

何度も同じことを繰り返す者がいた。

 

途中で言葉を失う者がいた。

 

突然、膝を抱えて震え出す者もいた。

 

証言は、ばらばらだった。

 

だが、王国記録官は、それをいくつかの項目へ分けていった。

 

巨大海棲魔獣群。

 

複数の飛行竜種。

 

森中の攪乱戦。

 

無人と思われる鋼製砲座群。

 

大型獣群。

 

主と思われる白銀髪の少女。

 

その分類の下に、震える声が書き留められていった。

 

「海が動いた」

 

船員の一人は、濡れた毛布を肩にかけたまま言った。

 

「嵐じゃない。波でもない。海の下から、船より遥かに大きい影が来た。船底が持ち上がって、それから割れた」

 

別の兵は、両耳を押さえながら呟いた。

 

「空が落ちてきたんだ。竜だ。何体もいた。雷や炎みたいなものが走った。祈りの声が神に届く前に、全部裂かれた」

 

森から戻った義勇兵は、何度も唇を噛みながら語った。

 

「森の中では、声を出した者から消えた。振り向くと、もういない。倒れた仲間も、気絶した者も、白い糸や獣にさらわれて森の奥へ連れて行かれた。食われたと思った。だが、あとで生きて返された者もいた」

 

第三の防衛線を生き延びた聖騎士は、しばらく何も言えなかった。

 

やがて、掠れた声で言う。

 

「鋼の塔があった。人はいなかった。だが、こちらを見ていた」

 

記録官が顔を上げた。

 

「人がいない塔が、見ていた?」

 

「そうだ」

 

聖騎士は、血の気のない顔で頷いた。

 

「塔と塔の間が、道に見えた。そこへ走り込んだ。だが、そこが一番撃たれた。詠唱も、祈りも、弓兵もいない。ただ、鋼が火を吹いた。中隊が、消えた」

 

最後に、最終地点まで辿り着いた兵が、震える声で語った。

 

「最後には、山みたいな獣達が並んでいた」

 

誰も口を挟まなかった。

 

「大地が鳴った。右にも左にも、後ろにもいた。前には、一番大きな影がいた。吠えられただけで、立てなくなった」

 

兵は、そこで両手で顔を覆った。

 

「そのあと、空から竜が降りてきた。その背に、白銀の髪の少女が乗っていた」

 

記録官の筆が、一瞬だけ止まった。

 

王国記録官は、そこに固有名を書かなかった。

 

知らなかったからだ。

 

彼はただ、聞いたままの現象を分類した。

 

巨大海棲魔獣群。

 

複数の飛行竜種。

 

森中の攪乱戦。

 

無人と思われる鋼製砲座群。

 

大型獣群。

 

主と思われる白銀髪の少女。

 

その文字を書いた時、記録官の背筋に冷たいものが走った。

 

王国は、すでに禁忌の島の主人について、わずかながら情報を持っていた。

 

だが、今ここで記録されているのは、王国側の調査報告ではない。

 

法国の聖戦軍が、命を削って持ち帰った重い証言だった。

 

 

急報を受け、王国軍の将官が港町へ到着したのは、翌朝のことだった。

 

灰色の軍装をまとったその男は、倉庫に並べられた記録と、埠頭に並ぶ負傷者、そして継ぎ接ぎだらけの法国船団を一つずつ確認した。

 

表情は冷静だった。

 

だが、同行した若い士官達は青ざめていた。

 

将官は、記録官の前で立ち止まった。

 

「誇張するな」

 

記録官が背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「だが、数字を絶対に削るな。見たものは見たまま、聞いたことは、誰が、どの船で、どのような精神状態で語ったかを詳細に残せ。混同や錯乱があるなら、その混乱自体を記録に残すんだ」

 

「承知しました」

 

将官は、窓の外を運ばれていく負傷者を見た。

 

片腕を失った聖騎士が、天井を呆然と見つめながら担架で運ばれていった。

 

「この記録は、王国のものになる」

 

将官の声は低かった。

 

「法国がどんな言葉を並べようと、我々はこの壊れた船を見た。一万人という動かしようのない数字を、この港で数えた。彼らの負傷も、彼らの沈黙も、我々は見た」

 

それから、アレクシオのいる区画へ視線を向けた。

 

「生存者は速やかに法国へ送り返す。王国の軍船で護送をつけろ。途中で数字をすり替えられたり、不慮の事故で全滅したなどと言われては困るからな」

 

若い士官が小さく息を呑んだ。

 

「そこまで警戒を?」

 

「当然だ」

 

将官は、淡々と答えた。

 

「この件で最も重いのは、誰が勝ったかではない。あのアポカリプスの海で、何が起きたかだ」

 

机の上に残された二行の記述。

 

出征時、およそ十万。

 

生還、およそ一万。

 

その二行が、どんな大砲よりも重く、王国の港町にのしかかっていた。

 

 

法国へと戻る帰還の航路は、底知れぬ沈黙に包まれていた。

 

王国の灰色の軍船が先導し、その後ろを、今にも沈みそうな傷だらけの法国船団が従った。

 

生還した兵達は、ほとんど甲板に出ようとしなかった。

 

海を覗き込めば、あの波の下を音もなく滑っていった巨大な影が、砕けた船が、落ちていった仲間の叫びが、嫌でも脳裏をよぎるからだ。

 

王国の記録官は、船に同乗していた。

 

法国側にとっては、決して心地よい存在ではなかった。

 

だが、誰も追い返せなかった。

 

王国が救助した。王国が記録した。王国が護送している。

 

その政治的な事実がある限り、法国側はこの大敗北を闇に葬ることは、もはやできない。

 

やがて、水平線の向こうにルミナリア法国の港が見えてきた。

 

そびえ立つ白い聖塔。

 

翻る祈りの小旗。

 

聖歌堂の尖塔。

 

港には、すでに夥しい数の人々が集まっていた。

 

聖戦の勝利報告を待ち望む高位聖職者。

 

凱旋を迎えるために集まった、勝利を信じて疑わない信徒達。

 

兵士の家族。

 

商人。

 

施療院の者達。

 

不安そうに海を見つめる子供達。

 

最初に船影を見つけた者が、帰ってきた、と叫んだ。

 

その声には、まだ喜びがあった。

 

だが、次の瞬間、その喜びは港全体から消えた。

 

近づいてきた船団には、白銀の凱旋旗がなかった。

 

聖歌もなかった。

 

勝利を掲げる槍の列もなかった。

 

あるのは、不格好に継ぎ足された船体と、血に汚れた布と、甲板に横たえられた人影だけだった。

 

勝利を称える鐘の音は、ついにただの一度も鳴り響かなかった。

 

鳴らしてよい理由を、誰も見つけられなかったからだ。

 

船から最初に降ろされたのは、勝利の白銀旗ではなかった。

 

血に染まった担架だった。

 

次も担架。

 

その次も、手足を失った兵。

 

白い法衣の治癒術師が支えられながら桟橋へ降り立ち、義勇兵が石畳に両手をついて、そのまま子供のように泣き崩れた。

 

「エミリオ……エミリオはどこ!?」

 

民衆の中から、金切声のような悲鳴が上がった。

 

だが、誰も答えなかった。

 

「第三神官隊は!? 私の夫のいた船はどこなの!?」

 

船員がただ静かに目を伏せた。

 

それだけで、問いかけた女性は力が抜けたようにその場へへたり込んだ。

 

港を埋め尽くしていく、怒号と悲鳴、そして絶望の泣き声。

 

王国の記録官は、その光景すらも羊皮紙に刻んでいった。

 

法国港到着時、勝利の鐘なし。

 

生還者、甚大なる肉体的・精神的損耗あり。

 

家族の安否確認を求める民衆により、港は混乱状態。

 

サラサラと走る乾いた筆の音は、出迎えた法国の聖職者達の耳に、ひどく重く響いていた。

 

 

ルミナリア法国の最高意思決定機関である聖座の広間は、白く、広く、静まり返っていた。

 

十二枢機卿会のために整えられた大円卓に、重すぎる沈黙が落ちていた。

 

報告のために立つアレクシオ・レーヴェン枢機卿の姿は、あの壮麗な出征前とはあまりにもかけ離れていた。

 

白い法衣こそ新調されていたが、その顔色は悪く、片腕は白布で吊られ、胸元で微かに揺れる聖印は不格好に欠けたままだった。

 

円卓の一角には、秩序の維持を第一とするマティアス・ヴェルナー枢機卿が厳しい眼差しで座っていた。

 

その隣から少し離れた席には、常に柔和な笑みを浮かべて指を組む、グレゴール・マルセイン枢機卿。

 

さらに後方には、施療院と民衆側の事情を知る者として召喚された、クラリス・ベルティア大司教が青ざめた顔で控えていた。

 

そして、円卓の端には、王国の使節と記録官が立会人として同席していた。

 

法国だけで、歴史の言葉を都合よく整えることは、もうできなかった。

 

マティアスが、静かに口を開いた。

 

「アレクシオ・レーヴェン枢機卿。報告を」

 

アレクシオは、一度だけ目を伏せた。

 

アレクシオは、信仰を捨てたわけではなかった。

 

聖座に背を向けたわけでもない。

 

だからこそ、見たものを偽ることはできなかった。

 

彼は顔を上げた。

 

「我々は、敗北いたしました」

 

広間の空気が、わずかに凍った。

 

「到達できなかった、とはどういうことだ」

 

一人の枢機卿が声を荒らげる。

 

「魔王の拠点を視認し、大義の槍を突き立てたのではなかったのか」

 

「視認はいたしました」

 

アレクシオの声は崩れない。

 

「ですが、そこへ至る前に、第一陣はほぼ壊滅いたしました」

 

王国記録官の筆が走った。

 

その音だけが、白い広間にやけに大きく響いた。

 

「出征時十万に対し、生還した生存者は一万前後。その一万も、戦闘可能な兵ではありません。手足を失った負傷者、術力を使い果たした治癒術師、生き残った船員を含む、生きて戻ってきた者すべての総数です」

 

大広間に、重い沈黙が広がった。

 

十万。

 

一万。

 

数字は短い。

 

だが、その間に横たわる喪失は、広間の白い床を埋め尽くすほど重かった。

 

アレクシオは、言葉を選びながら報告を続けた。

 

「海では船より巨大な影に船団を砕かれ、空からは複数の飛行竜種に襲撃されました。森では殺害よりも戦闘不能化と捕縛を優先するような戦術に翻弄され、平原では無人の鋼の塔から放たれる火によって、中隊単位の兵が失われました」

 

グレゴールがわずかに目を細めた。

 

クラリスは祈るように手を胸元できつく握りしめた。

 

「ですが、捕らえられた者は、魔物に食われてはおりませんでした」

 

アレクシオのその言葉に、枢機卿達が一斉に顔を見合わせた。

 

「何だと」

 

「魔物が人間を食わぬなどと……」

 

「捕虜は、後に生きて返されました。負傷した者には、最低限の治療と布が与えられ、水も渡されていました。さらに、死者を弔うことも、墓を作ることも許されました。ただし、そこを法国の土地と主張する術式や聖域化は、すべて厳格に禁じられました」

 

「つまり、魔王は我々の死者を利用して結界でも張ったのか」

 

「いいえ」

 

アレクシオの声に、確かな強さが宿った。

 

「私が見た範囲において、死者を辱める意図はありませんでした。あの島を統べる主は、白銀の髪の少女。名をライラと名乗る者。彼女は世界征服も、人類の滅亡も語りませんでした。ただ――ここは自分の家であり、踏み込んできたのは我々だと告げました」

 

彼女。

 

家。

 

うちの子。

 

法国が魔王、魔物、悪しき眷属と呼んだものを、アレクシオはそう表現した。

 

「救助を行う者、逃げる者は一切追撃されませんでした。ですが、武器を持って前進する者は、例外なく止められました」

 

そこで、アレクシオはマティアスを見た。

 

「マティアス枢機卿。再び兵を送れば、次は第一陣より早く死にます」

 

それは恐怖に屈した者の弱音ではなかった。

 

十万の死を背負って帰還した総大将の、最も現実的な報告だった。

 

 

その重苦しい沈黙を破ったのは、クラリス大司教だった。

 

「リィナ様は……」

 

彼女の声は、激しく震えていた。

 

「聖女リィナ・エルシア様は、あの島で、生きておられるのですか」

 

アレクシオは、クラリスを見つめ、静かに頷いた。

 

「生きていました」

 

クラリスの目が揺れた。

 

「彼女は、島側に立ち、傷ついた魔獣――いえ、彼女がファミリアと呼んだ存在達の治療に関わっていました。そして、私にこう告げました。患者に、人も魔物もない。ライラにとっては、かけがえのない家族だ、と」

 

クラリスは知っていた。

 

リィナ・エルシアが、どれほど多くの施療院を救い、どれほど多くの術式を現場へ残したかを。

 

王国支部で、地方教会で、施療院で、学術院で。

 

彼女の名は、奇跡だけで飾られた聖女の名ではなかった。

 

実務と研究と救護の積み重ねによって、多くの現場に残された名前だった。

 

その名を、魔女と呼んだ。

 

その事実が、今さらクラリスの喉を焼いた。

 

「ならば……」

 

クラリスは、円卓に座る枢機卿達を鋭く見据えた。

 

「我々が下した、あの魔女認定とは、一体何だったのですか」

 

広間の空気が、一瞬で凍った。

 

魔女。

 

リィナを断罪し、処刑台へ押し上げかけた、聖座内部で下されたあの認定。

 

その彼女が、十万の軍勢が壊滅した島で、敵味方を問わず命を扱っていた。

 

その事実が、法国の掲げた聖戦の大義を、静かに、だが致命的に揺さぶっていた。

 

マティアスは、重い沈黙を守っていた。

 

彼は、リィナへの魔女認定の誤りを、いまこの場で認めることはできなかった。

 

聖座の秩序と権威を守る者として、それは自らの足元を崩すことにも等しかった。

 

だが同時に、彼は現実を理解する知性を持っていた。

 

「第二陣の編成は、これをもって無期限に凍結とする」

 

マティアスが、低く厳かに告げた。

 

「いかなる名目であれ、現時点における再侵攻は認められない。まずは生還した一万の治療と、事実の精査を最優先とする」

 

何人かの強硬な枢機卿が顔を上げたが、反論は誰一人として出せなかった。

 

王国の記録官が、そこにいた。

 

十万が一万になったという動かしがたい数字が、すでに白日の下に晒されていた。

 

アレクシオは、深く頭を下げた。

 

「私が率い、私が敗れました」

 

その声に、言い訳はなかった。

 

「あの島を、魔王の棲家という言葉だけで測ったことが、誤りでした」

 

その時、それまで静かに指を組んでいたグレゴール・マルセイン枢機卿が、穏やかに口を開いた。

 

「第一陣の死を、ただの敗北としてのみ記録してよいのでしょうか」

 

その声は、驚くほど静かで、深い慈悲を帯びているようにすら聞こえた。

 

アレクシオの背筋に、嫌な冷気が走った。

 

グレゴールは、円卓を見渡して優しく微笑んだ。

 

「彼らは神への信仰のために荒海を越え、魔の領域で命を落としたのです。ならば、彼らはルミナリア法国の気高い殉教者です。彼らの殉教に意味を与えることもまた、この聖座の務めではありませんか」

 

その言葉に、何人かの枢機卿がわずかに目を伏せた。

 

死者に意味を。

 

遺族に救いを。

 

それは、確かに聖座が語り慣れた言葉だった。

 

だからこそ、危うかった。

 

アレクシオの顔から、血の気が引いた。

 

クラリスも、激しい拒絶に唇をきつく結んだ。

 

マティアスの瞳が、わずかに細められた。

 

殉教者。

 

その言葉は、死者を慰めるための言葉にもなる。

 

同時に、次の火を灯すための油にもなる。

 

アレクシオは、ゆっくりと、グレゴールを見つめた。

 

「彼らは……ただ、死んだのです」

 

声は低かった。

 

だが、激しい怒りが籠もっていた。

 

「意味などという都合のよいものにすり替える前に、まず名前を呼ぶべきです。何人が死に、何人が戻らず、何人が名もなき土の下に埋められたのか。我々はまず、その責任を、数を数えるべきです」

 

「もちろんですとも、レーヴェン枢機卿」

 

グレゴールの声は、どこまでも柔らかかった。

 

「私は死者を軽んじるつもりなど、毛頭ありません」

 

この男は、死者を悼んでいる。

 

少なくとも、そう見える言葉を選んでいる。

 

だが同時に、その死を次の言葉へ変える道筋を、もう見ている。

 

それに気づいた者達の沈黙が、白い広間に重く落ちた。

 

 

会議は、終わらなかった。

 

敗北をそのまま敗北として認め、悔い改めようとする者。

 

権威と秩序を守るため、言葉を整えようとする者。

 

死者の名前を呼び、ただ静かに弔おうとする者。

 

そして、その死者を次の戦いのための殉教者という大義名分に変えようとする者。

 

それぞれの沈黙が、聖座の白い広間のなかで重なり合っていた。

 

王国の記録官の帳簿には、動かしがたい数字がすでに刻まれていた。

 

聖戦軍第一陣。

 

出征時、およそ十万。

 

生還、およそ一万。

 

残りの九万に、まだ名前は与えられていなかった。

 

ルミナリア法国は、その数字にすら、まだ何と呼ぶべきかを決められずにいた。

 

敗北か。殉教か。試練か。あるいは、魔女の呪いか。

 

ただひとつ、確かなことがある。

 

あの大戦役は、もうあの霧深き島だけの出来事ではない。

 

生きて戻ってきた一万人の傷跡。

 

戻らなかった、およそ九万人の名。

 

王国がすべてを目撃したという事実。

 

壊れた船。

 

港で数えられた負傷者。

 

王国の記録。

 

そして、そのすべてを背負って白い広間に立つアレクシオ自身。

 

敗北の証人は、もう一人ではなかった。

 

己が正義と信じたものの崩壊を告げる証人達は、いま、聖座の白い大理石の上に、確かに立っていた。

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