廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第49話 お別れ

人間の声が完全に消え去った浜辺は、あまりにも広すぎた。

 

つい昨日まで、そこには確かに人々が息づいていた。負傷者の悲痛な呻き声。治癒術師たちの低く掠れた祈り。水を配り、人数を記録し、生存の数を確かめ合う乾いた声。壊れた船を無理やり直すために、生木を削る鋭い音。誰かの名を呼ぶ悲痛な叫びと、二度と返らないその名を待つ、重苦しい沈黙。

 

だが今、そのすべてが消え失せていた。聖戦軍第一陣の生存者たちは、静かに外海へと去っていった。船団は王国へ向けて針路を取り、この島から人間の軍勢は完全に退去した。

 

もちろん、浜に何も残らなかったわけではない。

 

急ごしらえで畳まれた天幕の跡。砂に沈んだ寝台の歪な四角い窪み。水桶を置いていた泥の跡。何度も人が往復して不自然に踏み固められた砂地。重い荷車の轍。灰だけになって冷めきった焚き火の跡。祈祷用に突き立てられていた簡易結界杭の、暗い穴。船の修理のために散らばった無数の木片。そして、捨てられずに一箇所へまとめられた、乾いた血の匂いのする布の山。

 

潮風には、まだ薬草と血、そして燻る煙の匂いがわずかに混ざり合っていた。

 

負傷者区画にはもう誰も並んでいなかった。かつて巨獣たちが見張りを続けていた簡易キャンプの出入り口にも、今はただ朝の光が虚しく満ちているだけだった。

 

けれど、いなくなったからといって、何かが元通りになるわけではなかった。

 

浜は空になった。けれど、一度傷を刻まれた場所は、二度とただの無垢な砂浜には戻らないのだ。

 

ライラは、その波打ち際に静かに立っていた。

 

朝の風に、白銀の髪が細く揺れた。服も髪も整えられていたけれど、その目元に沈む疲労は、昨日よりもさらに濃くなっているように見えた。

 

私は、彼女の少し後ろに寄り添うようにして立ち、何も言えずにただ浜辺を見つめていた。

 

侵略者たちが去ったことに、安堵がないわけではなかった。彼らの残した危険は劇的に減った。恐怖に駆られて何をしでかすか分からない敗残兵も、牙を剥く武器を持った人間も、もうこの島にはいなかった。

 

だが、胸の奥を吹き抜ける空白は、どうしても消せなかった。

 

「……帰った」

 

ライラがぽつりと言った。その小さな声は、波音に吸い込まれるようにして消えた。

 

しばらくして、彼女はもう一度、空っぽになった浜を見渡した。

 

「でも、まだ残ってる」

 

私は、言葉を返すことができなかった。

 

人間たちが去っても、この島に刻まれた爪痕は決して消えない。その残酷な事実を、私もまた身をもって理解していたからだ。

 

 

不意に、沖合の水面が静かに、重く持ち上がった。風による波ではない。海の下から、とてつもなく巨大な質量が戻ってくる時の、独特なうねりだった。

 

ライラが顔を上げた。

 

遠くの深い青のなかに、黒い滑らかな背が見えた。一つ、また一つ。去りゆく聖戦軍の船団を外海まで送り届けていた、海のファミリアたちが帰ってきたのだ。

 

まず、モササウルスの巨大な頭部がゆっくりと海面を割った。

 

濡れた頑強な鱗が、朝の光を浴びて鈍く輝いた。顎の端から海水が小さな滝のように流れ落ち、広い同心円の波紋が浜へ向かって優しく押し寄せてきた。

 

その奥から、さらに別の影が浮上した。

 

少し離れた場所では、バシロサウルスが穏やかにその背を覗かせた。けれど、いつもよりその動きは緩慢で、体の側面には無理に船体を押しのけたのであろう浅い擦り傷がいくつも走っていた。

 

岩礁の近くでは、骨質の硬い兜のような頭部を持つダンクルオステウスが姿を見せた。その頑強な甲殻の表面に、白く削れた跡が残っていた。障害となる岩や沈船を強引に砕いたのだろう。

 

彼らの下を旋回するメガロドンたちの群れも、何体かは背びれに鋭い切り傷を負っていた。

 

最後に、暗い深海から、白く大きな触腕がゆっくりと浮かび上がってきた。トゥソテウティスだ。触腕の一本に、かすれた白い傷痕が痛々しく走っていた。命に別状はないのだろうが、普段のような滑らかなうねりには、少しだけ元気が足りなかった。

 

ライラは砂浜のギリギリまで歩みを進めた。冷たい波が、彼女の靴先を濡らした。

 

シルヴィアは相変わらず水が苦手なのか、少し後ろの乾いた砂地で待機していた。けれど、今日ばかりは不満そうに鼻を鳴らすこともなく、ただ静かに海を見つめていた。

 

「おかえり」

 

ライラが、海に向かってそっと声をかけた。

 

モササウルスが、胸の奥に響くような低い音で喉を鳴らした。海そのものが低く震えるような重低音。けれど、そこには人間を威嚇していた時のような猛々しさは微塵もなかった。それは、確かな返事だった。

 

「こっち、見せて」

 

ライラが手を差し伸べると、モササウルスがその巨体をゆっくりと傾けた。

 

あまりにも大きすぎて、直接触れて抱きしめることはできなかった。けれど、その身体に刻まれた戦いの跡は、ここからでもはっきりと見て取れた。

 

顎の下の浅い擦れ傷、欠けた背の鱗、尾の付け根の赤み。

 

命を脅かすほどの深い傷ではなかった。それでも、彼らだって決して無傷ではなかったのだ。

 

「怪我、少しあるね」

 

ライラの声が、かすかに低くなる。モササウルスは、そんな傷など大したことはないと言うように、優しく鼻先で水面を叩いた。

 

「大丈夫そう。でも、今日はもう休んで」

 

次に、ライラはバシロサウルスの影を見つめた。

 

「そっちも。……疲れたね」

 

バシロサウルスが、水面近くを滑るようにして円を描いた。浮き上がるその動作は、いつもよりずっと重そうだった。

 

私は、少し後ろからその光景を静かに見つめていた。直接手を伸ばして触れることはできなかったけれど、彼らの身に纏う魔力の残滓を観察することなら、私にもできた。

 

私は胸の前でそっと両手を重ね、彼らの状態を精査するために意識を澄ませた。

 

水面の上に残る、かすかな光の揺らぎ。

 

聖水、聖印、そして対魔術式の拒絶。

 

それらの異物感は、アポカリプスの強い潮の流れによって、ほとんど綺麗に洗い流されていた。今すぐ彼らの肉体を深く蝕むような、深刻な神聖術の残留は見当たらなかった。

 

「聖水の残留反応は、ほぼ完全に流されています」

 

私が慎重に報告すると、ライラは小さく頷いた。

 

「うん」

 

「ですが、ひどく疲弊しています。特に深い海流のなかを泳ぎ続けていた子たちは、体内の魔力の巡りが少し不安定です。安静にさせてあげてください」

 

「休ませる」

 

短い返事。ライラは海面に見える無数の影を、一匹ずつ、慈しむように見つめていった。

 

「おかえり」「うん、大丈夫だよ」「そこ、痛む?」「今日はもう、遠くには行かないで」「休んでいいよ、おかえり」

 

そこに、戦果を問い詰めるような声は一切なかった。

 

何隻の船を沈めたか。何人の侵略者を海に落としたか。どれほど完璧に防衛任務を全うしたか。

 

ライラは、そんな数字を一度だって聞きはしなかった。

 

ただ無事に戻ってきたか。怪我はしていないか。どれほど疲れているか。ゆっくりと休めているか。

 

彼女にとって重要なのは、ただそれだけだった。

 

海棲ファミリアたちが、ゆっくりとそれぞれの安息地へと散っていった。深い海溝へと戻る者、静かな岩礁の陰にその巨体を休める者。

 

その背中を見送るライラの肩から、ほんの少しだけ緊張の糸が解けるのが分かった。

 

無事に戻ってきてくれた。それは確かに救いだった。

 

けれど、彼らの無事を確認すればするほど、もう二度と戻ってくることのない「不在」の重みが、より冷酷に浮き彫りになっていった。

 

 

浜辺の片づけは、必要最低限の処置にとどめられた。本格的な戦場整理や汚染の除去、残された船の残骸の処理は、もっと後でやればいい。今はまず、別のことをしなければならなかった。

 

それでも、そのままにしておけない危険なものだけは、私が分類して隔離した。

 

人間が使っていた不衛生な水桶は一箇所にまとめて封鎖し、血と膿の染み込んだ布は、清潔な物資と混ざらないよう厳重に分けた。散らばった聖印の欠片は、ファミリアたちが不用意に触れて傷つかないよう、私が一つずつ丁寧に拾い上げて布に包んでいった。聖水が染み込んだ恐れのある砂地には、小さな木杭を打ち込んで目印とした。

 

まだ幼いファミリアの一匹が、まとめられた人間の衣服に興味を示して近づきかけた。

 

ライラが、すぐに手を上げて制止した。

 

「まだ駄目」

 

その子はピタリと足を止め、不思議そうに首を傾げた。

 

「あとで、綺麗にするから。今は近づかないでね」

 

ライラにそう優しく諭されると、その子は名残惜しそうに布の山を一度振り返り、すごすごと後ろへ下がっていった。

 

私は、拾い集めた割れた聖印の重みを、手のひらの上でじっと感じていた。

 

それは本来、人々を守るためのものだった。誰かの無事を祈り、痛みを鎮めるための、神聖な加護の印。だがこの島において、それはファミリアたちの肉体を無残に焼き裂き、その命を奪い去るための最悪の「兵器」だった。

 

指先から伝わる微かな魔力の残滓が、酷く冷たく感じられた。

 

浜の遙か向こうの丘には、人間たちが作った戦死者墓地が見えた。

 

海を見下ろす高台の一角。むき出しになった土の色はまだ新しく、並べられた簡素な木標が朝の光を浴びて冷ややかに直立していた。

 

ライラは、その墓地を一度だけ静かに見つめた。

 

私は少し躊躇いながらも、彼女に尋ねた。

 

「墓地は……あのままで、よろしいのですか」

 

「うん」

 

ライラは短く答えた。

 

「あれは、もう動かないから。……でも、こっちには入れない」

 

こっち――彼女が指したものの意味を、私は正確に理解した。

 

屋敷、生活圏、幼い子たちが日向ぼっこをする日当たりの良い草地、採取組がのんびりと往復する小道。彼らの家族が、平穏に「暮らす」ための場所。

 

人間の墓地を壊して暴くような真似はしない。それは、死者に対する彼女なりの静かな一線だった。

 

けれど、彼らの存在を決して生活の中へは踏み込ませない。それは冷酷さではなく、家を、平穏な暮らしを二度と汚させないための、揺るぎない境界線だった。

 

 

彼らを見送る場所は、人間たちの墓地とは異なる場所に用意されていた。

 

浜辺から少しだけ内陸に入った森。潮の匂いが薄れ、代わりに青々とした下草と湿った土、そして力強い木の香りが満ちる場所。戦いの爪痕こそ残っていたが、その一角だけは、まるで昔から何一つ変わっていないかのように、不気味なほど穏やかな静けさに包まれていた。

 

そこには、一本の巨大な古木が立っていた。

 

太い幹から、何手にも分かれた立派な枝が横へ大きく張り出していた。その上の方には、とりわけ日当たりの良い太い一本の枝が、外に向かって誇らしげに伸びていた。

 

かつて、赤枝が好んで陣取っていた場所だった。

 

幹の表面には、無数の深い爪痕が刻まれていた。彼が何度も木に登った証、降りる時に力強く樹皮を削り取った跡、背中をこすりつけた古い傷。

 

赤枝がよく体を休めていた太い枝の一部は、長い年月の間にこすれ合い、滑らかな光沢を帯びていた。

 

すぐ近くには、小型のファミリアたちがいつも無邪気にじゃれ合っていた暖かな草地があった。

 

少し離れた岩場は、回収組が拾ってきた果実や木の実を、一時的に保管する場所として使われていた。

 

どれほど激しい戦火に晒されようと、そこには確かに、彼らの愛おしい「生活」の匂いが染みついていた。

 

誰かが眠り、誰かが遊び、そして――赤枝がいつも、その高い場所からみんなを静かに見守っていた場所。

 

その大木は、今日も変わらずそこに立っていた。

 

けれど、いつもそこにいるはずの、あの誇り高い獣の影だけが、どこにもなかった。

 

ライラは、大木の前でふっと足を止めた。

 

何も言わなかった。ただ、一歩を踏み出そうとした足が、それ以上は動かなくなった。

 

私は彼女を急かさなかった。その横顔に言葉をかけることさえ、今の私には酷い不作法のように思えたからだ。

 

ライラは、木漏れ日の差し込む枝を、ただ静かに見上げていた。もうそこにいない、大切な家族の姿を目に焼き付けるように。

 

 

赤枝の遺体は、その大木の根元に静かに寝かされていた。

 

白い綺麗な布がかけられていたけれど、完全に覆い隠されてはいなかった。彼の凛々しい顔立ちの一部と、背中に残る古い鞍の擦れ跡が、そっと見えるようにしてあった。

 

もう、動かなかった。

 

どれほど名前を呼んでも、枝の上から面倒そうに尾を揺らして応えてくれることはなかった。黄金の瞳を細めて、甘えるようにすり寄ってくることもなかった。小さな子たちが勝手に森の奥へ行こうとするのを、木の上から低く吼えて、優しく引き留めることも、もう二度とないのだ。

 

ただそこに、静かに伏せていた。眠っているだけのようにさえ見えるけれど、眠っているだけなら、ライラが近づいた瞬間に、その耳が微かにピクリと動くはずだった。

 

赤枝は、微動だにしなかった。

 

その隣には、別の白い布が静かに並べられていた。

 

小さなメソピテクスの、クルミ。

 

罠の確認や物資の回収によく同行していた子だ。木の実が大好きで、丸いものを見つけるとすぐに小さな両手で抱え込んで離さなかった。戦いの後、しばらくは息があった。私が与えた水も飲んだ。けれど、夜が明ける前に、私の術式が追いつかぬまま静かに冷たくなっていった。

 

その横には、ディモルフォドンの、コハネ。

 

飛行組のなかでも、とりわけ小さな女の子だった。普段は高い場所から場所へすばしこく飛び回り、シルヴィアの大きな頭の周りさえ平気で旋回するような、お転婆で怖いもの知らずの子だった。伝令妨害の任務中に、鋭い聖印の矢を射抜かれ、戻ってきた時にはもう、その美しい翼は動かなかった。

 

さらに、採取組を長く支えてくれたドエディクルスの、ゴロ丸。

 

のんびりとした性格で、いつも石の多い斜面で丸くなっていた。戦闘用の個体ではなかった。けれど、傷ついた幼い子たちをその甲殻の上に乗せて、安全な治療区画へ何度も、何度も往復して運び、その途中で重い神聖術の槍を受けた。丸まっていれば平気だと強がるように動き続けていたけれど、最後は、自分のお気に入りの敷物の上で眠るようにして息を引き取った。

 

そして、ダイアウルフの、ナギ。

 

群れのなかでも、一際静かで物静かな子だった。遠吠えを上げることも滅多になく、いつも仲間たちの後ろをそっと歩いていた。けれど、迷子になった小型の子を見つけるのが誰よりも得意で、回収班が戻らない時は真っ先に匂いを追って飛び出していった。戦いの後も、最後まで必死に立ち上がろうとしていた。けれど、私の治療区画でライラの温かい声を聞いた瞬間、ほっとしたように座り込み、そのまま目を開けることはなかった。

 

彼らは、犠牲となった兵士のように一律に、ただ並べられているのではなかった。大切な家族を、安らかな寝台へと送り出すように、丁寧に横たえられていた。

 

赤枝の傍らには、彼が愛用していた古い鞍布。

 

クルミの手元には、小さな丸い木の実。

 

コハネの近くには、彼女の抜け落ちた美しい羽根を束ねたもの。

 

ゴロ丸の横には、彼がいつも嬉しそうに転がしていた、丸く磨かれた自慢の石。

 

ナギの足元には、群れの仲間がどこからか咥えて持ってきた、小さな青い布紐。

 

誰が教えたわけでもない。

 

けれど、生き残ったファミリアたちはそれぞれ、自分たちにできる方法で、大切にしていた思い出の品を持ち寄り、彼らの傍らにそっと供えていたのだ。

 

 

私は、その遺体の前で、無意識に胸の前で両手を組もうとしていた。死者を目の前にした時、私の肉体は、長年仕込まれた神学校の規律によって勝手にそう動いてしまうのだ。

 

死者の魂を安息へと送るための、厳かな弔いの聖句。痛みを鎮め、失われたものを神の光のもとへ戻すための、美しい祈りの言葉。私はそれを、数え切れないほど記憶していた。病床で、戦場で、冷たくなった施療院のベッドの傍らで、何度も、何度も口にしてきた言葉だった。

 

けれど、この木陰において、私の指先はピタリと止まった。

 

祈りの形を、どうしても組むことができなかった。

 

この戦いは、「聖戦」という法国の都合のよい正義のもとで行われた。

 

聖なる奇跡の水が、この子たちの肉体を無残に焼き。

 

神聖な加護の印が、この子たちに呪いを植え付け。

 

白銀の祈りの旗を掲げた侵略者たちが、この平穏な家を土足で蹂躙したのだ。

 

そして私自身も、その法国によってかつて魔女と断じられた。その神聖術の言葉を、祈りの旋律を、今この無垢な子たちの前で口にすることなど、私には到底許されないように思えた。それは彼らの死を、再び「人間の都合」で美しく飾るだけの、欺瞞に満ちた暴力ではないか。

 

私は口を開きかけ、そして、きつく唇を噛みしめて閉じた。

 

言葉はたくさんあった。けれど、どれ一つとして、この木陰に響かせてよいものはなかった。

 

ライラは、私のその葛藤に気づいていた。彼女は赤枝の傍らにしゃがみ込んだまま、ゆっくりと私を見上げた。

 

「祈りじゃなくていいよ」

 

私の指先が、小さく震えた。ライラは、赤枝の額にそっと手を置きながら、静かに続けた。

 

「名前、呼んであげて」

 

私は、その言葉の本当の重さに、息を呑んだ。

 

死者を前にして、祈りを捧げるのではなく、ただ名前を呼ぶ。それは法国のいかなる教典にも記されていない、不格好な弔いだった。けれど、ライラがこの場所で求めているものは、それだけだった。

 

彼らを、戦死した魔物として処理するのではない。

 

損耗した戦力として、ただの数字で帳簿に記録するのでもない。

 

ただ、名前を呼ぶ。

 

彼らが生きて、この家で確かに暮らしていた時のように。

 

私は、胸の前で組もうとしていた手を、ゆっくりと下ろした。祈りという防壁を取り払い、ただ、そこにいる愛おしい家族たちの姿を、真っ直ぐに見つめるために。

 

 

ライラは、赤枝の鞍布をそっと指先で撫でた。

 

「赤枝」

 

名前を呼んだ。けれど、返事はなかった。それでも、ライラは語りかけた。

 

「いつも、高い木の上から見てた。小さい子が勝手に遠くへ行くと、よく怒ってた。怒るって言っても、ただ静かに降りてきて、その子の前に座るだけだったけど」

 

私は、その生前の穏やかな光景を、見たことがあるような気がした。大木の上から静かに目を光らせる、古参の風格。小さな子たちが境界線を越えようとすると、いつの間にか音もなく降りてきて、その行く手を大きな体で塞いでいた、ぶっきらぼうな優しさ。

 

「でも、ちゃんとみんなを待ってた。回収組が遅いと、面倒くさそうな顔をしながら、いつも迎えに行ってた。……ちゃんと、みんなを見てたんだよね」

 

ライラの声が、かすかに掠れた。

 

「呼ぶと、ちゃんと来てくれた。すぐには来ない時もあったけど、最後には、私のところに絶対来てくれた」

 

ライラは、赤枝の静かな顔を見つめた。

 

「最後も、そうだったね。……小さい子たちを、みんなを守ってくれて、ありがとう」

 

それを最後に、ライラはしばらく動かなかった。泣き叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、次の名前を呼ぶまでに、ひどく長い長い静寂が必要だった。

 

やがて、ライラは隣の寝台へと視線を移した。

 

「クルミ」

 

小さなメソピテクスの手元に置かれた木の実を、そっと撫でた。

 

「ごはんの時だけは、誰よりも早かったよね。本当は、寝床の隅にこっそり木の実を隠してたでしょ。知ってたよ」

 

少し離れた場所から、小さなファミリアが悲しげに鳴いた。クルミといつも一緒に遊んでいた個体が、寂しそうに布の端に鼻を寄せていた。ライラはそれを優しく許した。

 

「危険な場所を見つけるのが、誰よりも上手だった。クルミが先に見つけてくれたから、みんな助かったよ。最後も……ちゃんと、お家に帰ってきてくれた」

 

ライラは、そっと目を閉じた。

 

「ありがとう、クルミ」

 

次に、コハネの布へと手を伸ばした。

 

「コハネ」

 

小さな小さな翼は、白い布の下できちんと畳まれていた。

 

「飛ぶのが本当に速かったね。シルヴィアの周りを平気でグルグル飛び回って、よく怒られてた」

 

私のすぐ後ろで、シルヴィアが低く喉を鳴らした。それは怒りの音ではなく、懐かしい思い出に静かに応えるような、切ない低い響きだった。

 

「高い場所が本当に好きだった。屋根の端とか、梁のてっぺんとか、ハラハラするところにばっかり止まって。……でも、夜になると、ちゃんと私のところに戻ってきた」

 

ライラは、コハネの近くに置かれた抜け殻の羽根を見つめた。

 

「戻ってきたのに……助けてあげられなくて、ごめんね。ありがとう、コハネ」

 

そして、ゴロ丸の丸い布へと向き合った。

 

「ゴロ丸」

 

丸くなって眠る彼の姿は、生前の穏やかなお昼寝の姿勢にそっくりだった。

 

「水浴びはあんなに嫌がってたのに、泥遊びは大好きだったね。いつも体にいっぱい土をつけて戻ってきて、お家を汚して」

 

採取組のドエディクルスが一匹、ゆっくりと首を下げて大木に寄り添った。

 

「変な形の丸い石を集めるのが、本当に好きだった。……これも、ゴロ丸が持ってきたやつだよね。綺麗だね」

 

ゴロ丸のそばに供えられた、よく磨かれた丸い石に、ライラは優しく触れた。

 

「みんなを、たくさん運んでくれてありがとう。休んでいいよ、ゴロ丸」

 

最後に、ナギの白い布の前に、ライラは長く佇んだ。

 

「ナギ」

 

ダイアウルフの群れたちは、少し離れた草地で静かに座っていた。一匹として遠吠えを上げることもなく、ただ、静かに逝ってしまった仲間を見つめていた。

 

「走るのが誰よりも速かったのに、ナギはいつも、先頭を走らなかった。遅れている子がいないか、いつも後ろを気にして、すぐ戻ってあげてた。……そういう、優しい子だった」

 

ライラは、ナギの布にゆっくりと自らの額を寄せた。

 

「撫でられるのは嫌いなふりをして、夜になると、いつも私のベッドのすぐ近くまで寄ってきて寝てたよね」

 

一匹のダイアウルフが、悲しげに低く鳴いた。

 

「最後まで、自分の足で歩こうとしてた。……もう、歩かなくていいんだよ。おやすみ、ナギ。ありがとう」

 

 

私は、ただ立ち尽くしていた。それは教会のいかなる洗練された祈りよりも深く、この静かな森の隅々にまで染み渡る、本物の「弔い」の言葉だった。

 

彼らは、ただの「ファミリア」でも、防衛線を維持するための「戦力」でもなかった。

 

木の上からみんなを見守っていた子。

 

こっそり木の実を隠していた子。

 

高い場所が大好きだった子。

 

水浴びが大嫌いだった子。

 

甘えるのが少し下手くそだった子。

 

数字ではない。大義名分でもない。

 

彼らはただ、この場所でライラと共に生きていた、かけがえのない家族だったのだ。

 

私は、そっと赤枝の前に膝をついた。手は組まなかった。祈りの聖句も唱えなかった。ただ、震える声を絞り出して、その名前を呼んだ。

 

「……赤枝さん」

 

人間の敬称をつけた、少しおかしな呼び方だったかもしれない。けれど、私にとっては、それが最も自然な言葉だった。

 

「私を、あの森で守ってくださって、本当にありがとうございました。私は……あなたに助けられました」

 

赤枝は、答えなかった。

 

それでも、私は真っ直ぐにその沈黙を見つめた。

 

「あなたの名前を、私は一生、忘れません」

 

ライラは何も言わなかった。私の奇妙なさん付けを訂正することもしなかった。それは、私が彼と過ごした短い時間のなかで紡いだ、私だけの呼び方だったからだ。

 

私は、クルミ、コハネ、ゴロ丸、ナギの名前を、一つずつ呼んだ。震える声で、うまく言えないままだったけれど、彼らの生きた名前から、私は決して目を逸らさなかった。

 

 

葬儀の場には、いつの間にか、信じられないほど多くのファミリアたちが静かに集まっていた。

 

喧騒は一切なかった。誰かが静粛を命じたわけでもないのに、彼らは一様に、今日は声を上げてはいけないのだと理解しているようだった。

 

小型のファミリアたちは、そっと白い布の端に寄り添い、お互いに場所を譲り合うようにして静かに伏せていた。ダイアウルフの群れたちも、その場に香ばしい毛並みを並べて、静かに鼻先を地面に伏せていた。

 

ティラコレオたちは、大木の周りの枝々に静かに身を潜めていた。赤枝がいつもいた、あの日当たりの良い特等席の枝には、一匹として登ろうとはせず、少し離れた場所から、じっと下の様子を見守っていた。

 

シルヴィアは、ライラの後ろでじっと佇んでいた。いつもなら褒めてほしそうに身体を擦りつけてくる大竜が、今日はライラが倒れたらすぐに支えられる距離を保ちながら、彼らの眠る場所を大きな足で踏み荒らさぬよう、静かに羽を畳んでいた。

 

さらに遠く、木々の隙間からは、あの黒い絶対的な巨体が静かに立ち尽くしているのが見えた。カイザーだった。

 

彼は近づきすぎることなく、大木から十分に離れた平原の端で足を止め、巨大な頭部を静かに、深く下げていた。

 

それが、彼なりの、この島の絶対王者としての精一杯の別れの敬礼なのだと、その場にいる誰もが理解していた。

 

言葉はなくとも、誰がもう戻ってこないのかを、彼らは知っていた。誰の場所が空っぽになってしまったのかを、全員が痛いほど理解していたのだ。

 

 

ライラは、大木の幹に刻まれた、赤枝の深い爪痕を見つめた。何でもない日常のなかに刻まれた、生きた証。

 

それを見つめた瞬間、ライラの小さな肩が、初めてかすかに震えた。

 

「ごめんね」

 

消え入りそうな、ひどく小さな小さな声だった。

 

「守れなかった」

 

私は、反射的に口を開きかけた。「ライラさんのせいではありません」と、その痛みを否定して慰めようとした。けれど、ライラは静かに首を横に振った。

 

「でも、うちの子だから」

 

私は、それ以上、何も言えなくなった。誰の判断が正しかったのか、戦いを避ける方法はあったのか、そんな理屈は、彼女のこの痛みの前では何の薬にもならなかった。ライラにとっては、自分の守るべき大切な家族が死んだ。ただそれだけが、この世界のすべてだった。

 

守れなかった。その重い悔恨を引き受けることこそが、彼女が彼らの「主人」であることの、あまりにも残酷な証明だった。

 

ライラはもう一度、赤枝を見つめ、クルミ、コハネ、ゴロ丸、ナギを、順にそっと見つめた。名前を呼び終えても、彼女はしばらく立ち上がろうとはしなかった。

 

サァ……と静かな風が吹き抜け、古木の葉が小さく鳴った。赤枝がいつもいた、あの滑らかな枝が、かすかに優しく軋んだ。

 

そこにはもう、誰もいなかった。けれど、まるで彼が最後に「気にするな」と尻尾を揺らして返事をしたかのように、木漏れ日のなかで、枝だけが静かに揺れていた。

 

 

日が西の海へと傾き始める頃、ライラはゆっくりと立ち上がった。極限の疲労のなかで、その足元がほんの少しふらついた。シルヴィアが慌てて一歩踏み出しかけたが、ライラはそっと手を上げて大竜を制した。少しだけ待って、という意味だった。

 

ライラは、並べられた白い布の前に、真っ直ぐに立った。

 

赤枝、クルミ、コハネ、ゴロ丸、ナギ。名前は、もう全員呼んだ。思い出も、すべて伝えた。

 

それで彼らが戻ってくるわけではない。この深い悲しみが綺麗に消えてなくなるわけでもない。

 

けれど、名前を呼ばなければ、彼らの生きた毎日は終わらせられなかった。外界の人々が叫ぶような、都合のよい「損耗」や「勝利」という数字ではなく、愛おしい家族として見送るために。

 

ライラは、最後に短く言った。

 

「おやすみ」

 

それは、驚くほど小さな囁きだった。けれど、その場にいたすべての生命が、その温かい別れを確かに聞いた。

 

外界の人間たちの墓地には、階級と部隊名が刻まれた。けれど、この森には、全く違うものが遺された。

 

彼らが愛した木、いつもお昼寝をしていた心地よい岩場、駆け回っていた暖かい草地。傍らにそっと添えられた木の実、羽根、磨かれた石、青い布紐。そして――ライラが呼んだ、彼らの愛おしい名前。

 

この凄惨な大戦役が終わったのは、侵略者の船団が島を去った時でも、敵がいなくなった時でもなかった。ライラが、帰ってこなかった子たちの名前を一つずつ呼び、最後に「おやすみ」と告げることができた、その瞬間。

 

その時、ようやく。

 

この島の暮らしのなかで続いていた一つの戦いが、静かに、そして優しく幕を閉じた。

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