廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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フィクサー

葬儀が終わっても、私たちの『日常』は、すぐには戻ってこなかった。

 

名前を呼んだ。 最後におやすみと、告げた。 それでも、朝になれば浜には簡易キャンプの杭が残り、砂には轍が残り、潮風には血と薬草、そして燻る煙の匂いがしがみつくように残っていた。

 

人間たちが去った仮キャンプの跡地には、不自然に踏み固められた砂地が白く広がっている。寝台を置いていた場所は歪な四角形に沈み、水桶の泥の跡は丸く残り、焚き火の灰は黒く冷え切ったまま、容赦ない海風に少しずつ崩されていた。

 

ライラは、ほとんど毎日その場所に立っていた。

 

杭を抜く。 残された不衛生な天幕の布を分類する。 使用済みの水桶を隔離する。 砂に沈んだ聖印の欠片を、一つずつ指先で拾い上げる。 聖水が染み込んだ恐れのある砂地を特定し、目印を打つ。 汚染された木材を焼却用に積み上げ、使えそうな金属片を別の箱へと仕分けていく。

 

作業はひどく単純だった。 けれど、単純だからこそ、私たちは立ち止まらずに済んでいた。 考えるより先に、ただ泥に汚れた手を動かす。 顔を上げて水平線を見つめるより先に、次の瓦礫を拾う。 胸の奥から何か暗いものが這い上がりそうになったら、力任せに次の木杭を地面から引き抜く。 そうしなければ、二人とも簡単に崩れてしまいそうだった。

 

ある日の午後、まだ幼いファミリアの一匹が、まとめられた人間の衣服の山に興味を示して近づきかけた。 ライラがすぐに手を伸ばし、遮るように立ちはだかった。

 

「まだ駄目」

 

その声に、小さな子はピタリと足を止めた。怒られたと思ったのか、耳を伏せるようにして身を小さく縮める。 ライラはその場にゆっくりとしゃがみ込み、その子の鼻先をそっと撫でた。

 

「怒ってないよ。でも、そこはまだ『痛い』が残ってるかもしれないから」

 

その子はライラの指先に甘えるように鼻を寄せた。それから、名残惜しそうに布の山を振り返りながらも、すごすごと仲間たちのところへ戻っていった。

 

私はそのすぐ近くで、地面に浸透した神聖術の残滓を確認していた。 手のひらの上に、淡い中和の光を浮かび上がらせる。祈りではなく、治療でもない。ただ、土の奥に何がどれだけ残っているかを測定するための、慎重な術式だ。

 

「ここは、まだ反応が残っています」

 

私が告げると、ライラは無言で足元に目印の木杭を突き立てた。

 

「こっちは?」

 

「かなり薄いです。ですが、まだ幼い小型組の子たちは、近づけない方が賢明だと思います」

 

「分かった」

 

それだけを言って、ライラはまた次の場所へと歩き出す。

 

丘の上に作られた、あの聖戦軍の墓地だけは残された。 海を見下ろす高台に並ぶ、簡素な木標。むき出しになった土の色は、まだ新しく赤い。そこだけは、片づける対象にはしなかった。 ただし、ライラはそこに厳格な境界線を引いた。

 

彼らの生活圏には絶対に入れない。採取組がのんびりと往復する小道とも繋げない。小型組が遊ぶ日当たりの良い草地からは見えないよう、途中に目隠しとなる植樹と境界杭を置いた。

 

壊して暴くような真似はしない。 けれど、決して私たちの生活とは混ぜない。 それが、ライラの示した静かで揺るぎない一線だった。

 

第三防衛戦の跡地にも、まだ生々しい爪痕が深く刻まれていた。 焼けた草地、無残に掘り返された粘土質の土、砕けた大盾の破片。折れた槍の穂先や、聖印が刻まれた矢尻。そして、鋼の塔の足元に飛び散った無数の小さな金属片。

 

ファミリアたちが通る道には、仮の柵が立てられた。 聖水の反応が特に強い場所には、私が用意した警告の赤い組紐が張られた。 ライラは、その紐の内側へ無邪気に入ろうとする子を、何度も、何度も、辛抱強く引き留めていた。 そのたびに、同じように頭を撫でて、諭すように語りかける。

 

「まだ駄目。もう少しだけ待ってね」

 

待つことを覚えた子たちは、柵の向こうに静かに座り、首を傾げながら、私とライラが泥や金属片を仕分けていく様子をじっと眺めるようになった。

 

少しずつ、けれど確実に戦場の跡を消していった。 けれど、それは決して魔法のように素早いものではなかった。 一日で終わるはずもない。三日で元の美しい島に戻るはずもない。 ひと月が経っても、雨が降るたびに土の奥からあの聖水の重く湿った匂いが立ち上る場所があった。

 

人間が去ったからといって、家はすぐには「家」に戻らない。 その痛烈な現実を、ライラは毎日、自らの手で土を掘り返しながら確かめていた。

 

 

さらに、ひと月と少しが過ぎた。 浜辺は、波の満ち引きに洗われながら、少しずつ元の無垢な砂浜に戻り始めていた。

 

仮キャンプの木杭はすべて抜かれ、テントの四角い窪みも風と波に均されて消えつつある。不衛生な桶は洗浄できるものと破棄するものに選別され、汚染の強い布はすべて焼却された。 地下深くに影響を与えかねない危険な聖具や結界杭は、私が丁寧に残留魔力を抜き取った上で、屋敷の奥の安全な石倉へと厳重に隔離された。 聖水が強く染み込んだ土壌はショベルで掘り返され、影響のない荒れ地へと移されて中和処置が施された。

 

ファミリアたちも、少しずつ以前の生活パターンを取り戻し始めていた。 小型組は、まだ安全が確認された草地から出ない。採取組も、以前より警戒を怠らずに慎重に往復している。ワイバーンたちは上空からの哨戒を続け、海棲組は近海へと戻ったが、境界線を越えて遠くへ行きすぎることはなかった。

 

ただ、第三防衛戦の跡地と、聖水の反応が強かった森の縁だけは、まだ彼らから避けられていた。 そこは、私が日々、土壌の浄化術式を回し続けている場所だった。

 

ライラは最近になって、ようやくその作業の手伝いをするようになった。

 

最初の数日間、私は彼女に深い話を持ちかけることができなかった。 あの静かな葬儀の翌日に話すには、あまりにも早すぎた。三日後でも、一週間が経っても、ライラはずっと機械的に身体を動かし続けていた。 けれど、それは彼女が立ち直ったからではないことを、私は痛いほど知っていた。 立ち止まってしまえば、赤枝たちの不在の重さに押し潰されてしまう。だから、彼女はただ動くことで自分を支えていたのだ。

 

ライラは毎日、何かを運び、何かを分け、何かを拾った。 食事も、最低限は喉を通していた。 泥だらけのベッドで、浅い眠りに落ちることもあった。 ファミリアたちに、いつも通りの優しい声をかけていた。

 

けれど、そのどれもが、以前の彼女のようではなかった。 必要だから、動いている。 守るべきうちの子たちがいるから、立っている。 やらなければならない仕事が、まだ残っているから。 張り詰めた細い糸のような精神力だけで、彼女はかろうじて持ち堪えていた。

 

だから、私は待った。 どうしても、彼女に話さなければならないことがあった。 けれど、いつそれを切り出すべきか、ずっと迷っていた。その言葉を、私は長いこと胸の奥に秘め続けていた。

 

そして、ひと月と少しが過ぎた頃。 大まかな物資の回収と浜の片づけが落ち着き、ライラが私の浄化作業の傍らで、黙々とショベルを動かして土を掘るようになったある日のこと。

 

私は、静かにその話を切り出すことにした。

 

 

第三防衛戦の跡地には、まだかすかに焦げた硝煙の匂いが漂っていた。 血の匂いはもう、雨と潮風に洗い流されて久しい。鉄の匂いも、以前ほど鼻を突くことはない。

 

だが、土の中には、まだ「残滓」が潜んでいる。 目には見えない。けれど、私が地面に手をかざすと、空間がわずかに不自然に歪む場所がある。

 

そこは、あの聖水が深く染み込んだ場所だった。 ただの水ではない。祝福を帯び、魔を激しく拒絶するよう調整された、法国の秘跡の結晶。 人間にとっては偉大なる神の守りであり、癒やしの奇跡。けれど、この島のファミリアたちにとっては、肉体を内側から焼き焦がす最悪の毒薬だ。

 

私は泥の上に膝をつき、湿った土にそっと両手をかざした。 淡い青白い光がじんわりと広がる。すぐに、私の光の端がパチパチとかすかに乱れた。

 

「ここは……神聖術の浄化だけでは、これ以上は無理です」

 

私の言葉に、隣で小さなショベルを持っていたライラが顔を上げた。

 

「下まで?」

 

「はい。表面の中和はできていますが、魔力の根がかなり深く染み込んでいます。もし、まだ幼い小型組の子たちがここを掘り返して口にしたりすれば、激しい拒絶反応を起こします」

 

「じゃあ、土ごと入れ替える」

 

ライラは、迷いのない手つきでショベルを土に突き立て、掘り始めた。 私は少し離れた場所に、簡易の隔離用の木箱を置く。箱の内側には、私が用意した遮魔用の封印布が幾重にも敷かれていた。 掘り返された湿った土が、静かにその中へと落とされていく。

 

カツ、と硬い金属音が静かな空間に響いた。 ライラが動きを止める。 土の中から、割れて煤けた聖印の欠片が顔を覗かせていた。

 

私はすぐに封印布を広げた。

 

「直接触らないでください」

 

「うん」

 

ライラは手近な木片を使って手際よく欠片をすくい、布の上にコト、と落とした。 私が指先から微弱な魔力を流し、反応を確かめる。

 

「攻撃用に魔力増幅されたものではありません。ですが、これ自体にかなりの濃度の聖水が染み込んでいます。このまま封印します」

 

「燃やすのは?」

 

「金属の触媒なので、私の簡易術では今すぐ完全に消滅させるのは難しいです。一度すべて封じて、後でまとめて処理しましょう」

 

「分かった」

 

会話は短かった。 乾いた作業の音だけが、私たちの間の沈黙を埋めていく。 ショベルが土を穿つ音。土塊が木箱へ落ちる重い音。私が布を結び、封印の魔法印を施す衣擦れの音。 そして遠くで、小型組のファミリアが下草を踏みしめる柔らかな足音。

 

幼い子たちは、少し離れた仮柵の向こうから、じっとこちらを見つめていた。 まだここへは近づけない。けれど、数週間前よりは私たちの近くまで来られるようになっていた。 ライラが時折、作業を止めてそちらへ優しく手を振る。 柵の向こうで、ディロフォサウルスの幼い子が、ピィ、と小さく鳴いた。 そのあどけない鳴き声に、ライラの横顔が、ほんの少しだけ柔らかく綻ぶ。

 

それを見届けてから、私は小さく息を吸い込んだ。

 

「ライラさん」

 

「うん」 ライラは視線を落としたまま、ショベルを動かす。

 

「少し……お話ししてもいいですか」

 

「作業のこと?」

 

「いいえ」 私は、手元に包まれた聖印の欠片を静かに見つめた。

 

「法国のことです」

 

ショベルの動きが、そこでピタリと止まった。 ライラは顔を上げない。ただ、泥に汚れたショベルを握りしめたまま、じっと土を見つめている。

 

「……また来る話?」

 

「可能性の話、です」

 

「決まってるの?」

 

「いいえ」

 

私はすぐに答えた。そこは、決して曖昧にしてはならない境界線だった。

 

「私は、この島の外の情報を直接聞くことはできません。聖座でいま、どのような政治的駆け引きが行われているかも分かりません。彼らが第二陣の派遣を決めたのか、あるいは完全に諦めたのかも、私には知り得ないことです」

 

ライラは黙って、私の言葉の温度を測るように聞いていた。

 

「第一陣を編成した際の実務帳簿も、この戦役の内部記録も、聖座会議の決定文書も、私は一切目を通していません」

 

「じゃあ、分からない?」

 

「客観的な事実としては、断定できません」

 

私は、包んだ欠片を木箱の奥へ納めた。

 

「ですが――元聖女として、あそこで実務に関わっていた人間として、お話しすべきだと思いました」

 

ライラはしばらく泥を見つめていたが、やがて、小さく顎を引いた。

 

「うん」

 

それだけだった。続きを急かすような言葉はなかった。 けれど、私の言葉を遮る気もないようだった。

 

私は、少しだけ肩の力を抜いた。 机を挟んで向き合い、冷たい交渉をするのではなく、こうして作業の続きをしながら、土の匂いの中で話す。それこそが、今のライラにとって、最も言葉を受け入れやすい形なのだと分かったからだ。

 

 

「私は、この戦役の具体的な動員帳簿を見たわけではありません」

 

私は、また別の地面へと手をかざし、術式を編みながら静かに語り始めた。

 

「第一陣の編成に、どれほどの資金や物資が動いたのか。その詳細な記録は知りません。ですが、ただの憶測ではありません」

 

私は、土の上に中和の印となる魔法文字を指先で刻んだ。

 

「私はライラさんと出会う前、王国支部で、地方の教会や教区をくまなく回る仕事をしていました。施療院や孤児院の運営実態を監査し、神聖術の正しい使い方を現場に指導していたのです」

 

「リィナ、先生してた?」

 

「先生……に近いこともありましたね」

 

かつての懐かしい日々に、私の声が少しだけ和らいだ。

 

「回復術の無駄な術力消費を抑える手順を指導したり、浄化術の安全な扱いを教えたり。災害や疫病が起きたとき、限られた物資の中で複数の重症者をどのようにトリアージをつけて診るべきか、そんなことばかりを地方の神官たちに指導していました」

 

「忙しそう」

 

「ええ、本当に忙しかったです」

 

私は、ショベルを動かすライラの背中を見つめた。

 

「そしてその際、私は地方教会の『帳簿』を詳細に監査していました。各施療院の備蓄、薬布や聖油、清水の保有量、聖具の管理状態、そして民衆から集まる巡礼寄付の金額。それだけでなく、彼らが日々の説教でどのような言葉を使っているかも、すべて記録していたのです」

 

「言葉も?」

 

「はい」

 

私は静かに頷く。

 

「人々の間に不安や恐怖が広がるとき、教会の使う『言葉』は確実に変わります。お祈りの言葉も、寄付を募る際の説明も、魔物や災厄をどのように語るかも、すべて一定の意図を持って変化していくのです」

 

ライラは土を木箱に入れながら、少しだけ怪訝そうに眉を寄せた。

 

「難しい」

 

「物の流れに置き換えて説明しますね」

 

「うん。その方がいい」

 

少しだけ口元を緩め、私は話を整理した。 ライラにとって、法国の派閥対立や聖座の複雑な権力構造は、海の向こうのどうでもいい雑音に過ぎない。 けれど、物資がどこから調達され、誰の手を経て、どのように消費されるのか――その「物の動き」なら、彼女には深く理解できる。なぜならライラ自身が、巨大な拠点を、限られたリソースの循環によって管理してきた「主」だからだ。

 

 

「聖水は、いくら教会の偉い人が必要だと叫んでも、急に天から湧いて出るものではありません」

 

私は、中和された土の感触を確かめながら言った。

 

「聖水を製造する神官がおり、それを保管する特別な大釜があり、運搬するための厳重な護衛や、品質を保証する認証手続きが必要です。何より、聖水は本来、戦いのためだけのものではありません」

 

ライラの手が、ピタリと止まった。

 

「……あれだけの量、持ってきたのに?」

 

「そうです。地方の施療院で日々の怪我人の治療に使われ、疫病を予防し、魔物の襲撃を受けた村々を清めるために、本来は薄く広く備蓄されているものです。それを、十万もの大遠征軍に持たせるために――どこかで『強引に集める仕組み』が動いたはずなのです」

 

ライラは、無言で木箱へと土を落とした。

 

「仕組み」

 

「はい。聖具も同様です。誰の手で作られ、どの教区の神父に貸し出され、いつ返却されるのか、すべての聖具には固有の番号と管理台帳が存在します」

 

「落ちてたあの破片も?」

 

「そうです。たとえ砕けた鉄片であっても、元は法国の厳格な管理下にあったものです」

 

ライラは、少しだけ顔をしかめた。

 

「たくさんあったよ」

 

「偶然、あれだけの数の聖具が戦場に揃うことはありません」

 

「……誰かが、持たせた」

 

「はい。教区の反対を押し切ってでも、それらの資産を一箇所に集約し、軍に貸し出すことができる『強い立場の人』が、あちら側に存在します」

 

ライラは黙って頷いた。 政治の理屈ではなく、物の道理として、彼女は完全に理解していた。 大量の武器を作るには鉄と職人がいる。ファミリアのサドルを作るには上質な革がいる。彼らの餌を賄うには、採取と保管の計画が必要だ。それと、まったく同じなのだ。

 

あの凄惨な聖戦軍を支えた膨大な秘跡の物資は、信仰の奇跡などではなく、誰かの冷徹な意志によって「集められた」ものなのだ。

 

 

私は、少し離れた場所に次の印を置いた。

 

「ここは浅いです。術式の中和だけでいけます」

 

「分かった」

 

ライラはショベルを置き、私が術を紡ぐのを静かに待った。 私は膝をつき、時間をかけてゆっくりと土壌に中和の光を染み込ませていく。 一瞬で綺麗に消せる魔術などない。急激に強い力を流せば、むしろ土地の自然な魔力循環を乱し、森の木々を枯らしてしまう。だから、絡まった糸を一本ずつ、丁寧に解きほぐすように術を編む。

 

手元に淡い魔力の温もりが戻ってきたのを確認して、私は静かに言葉を続けた。

 

「法国の地方にある施療院に、物資が余っていることなど、ただの一度もありませんでした」

 

ライラがじっと私を見つめる。

 

「薬布も、清らかな水も、聖油も、患者の痛みを和らげるための鎮静の香も、常に足りない状態です。地方になればなるほど、その不足は深刻でした」

 

「足りないの?」

 

「はい、いつも限界でした」

 

私の声に、隠しきれない苦い記憶が滲む。

 

「目の前の患者は待ってくれません。大怪我を負った農夫も、熱を出して苦しむ子供も、命がけの出産も、魔物に襲われた旅人もいます。現場の医療神官たちは、少しでも薬布が余れば、次の患者のためにと必死に保管していました」

 

「うん」

 

「それを『聖戦』という名目のために強制的に召し上げれば、当然、地方の誰かの治療が遅れ、失われなくていい命が失われます」

 

ライラの手が、再び止まった。

 

「このアポカリプス遠征に、どれほどの物資が地方から吸い上げられたのか、私には分かりません。ですが、十万の兵が消費する医療物資や聖水を賄うためには――」

 

「……誰かが、奪った?」

 

「『戦場へ回す』という決定を下した者がいるのは、間違いありません」

 

ライラは何も言わなかった。 ただ、再びショベルを握りしめ、静かに土を掘り始めた。

 

 

「そして、物資だけでなく、言葉の流れも同じです」

 

私は、ライラの掘るショベルの動きに合わせて、次の場所へと移動しながら語りかけた。

 

「法国の地方にある、まったく繋がりのないはずの小教会の神職たちが、ある時期から急に『同じ言葉』を説教で使い始めることがあるのです」

 

「同じ言葉?」

 

「ええ」 私は頷く。

 

「『今こそ祈りを捧げるときだ』『魔を討つ気高い戦いに加護がある』『聖戦のために財を捧げることは、魂を救済に導く』『信徒よ、恐れるな。清き信仰こそが試練を乗り越える』――そのような言葉が、地方の説教壇で一斉に語られるのです」

 

ライラは、不快そうに小さく眉を寄せた。

 

「……それ、言われたら戦いに行くの?」

 

「行く人はたくさんいます」

 

私は静かに答えた。

 

「特に、人々の間に不安や凶作への恐怖が広がっているときは。何かを恐れている民衆は、そのやり場のない『恐怖の向け先』を常に探しています。そこへ、教会から『この敵を討てばすべてが救われる』という明確な言葉が与えられれば、人々は疑わずに動きます」

 

「人間を、行きたくさせたんだ」

 

「はい。怖がっている人々の視線を、意図的に『禁忌の島』という一つの方向へ誘導した者がいます」

 

海から吹き抜ける風が、少しだけ強く、冷たく私たちの間を通り抜けた。 遠くの仮柵の向こうで、小型のファミリアたちが寒さに身を寄せ合うようにしてお互いを温め合っている。 ライラはその愛らしい子たちの姿を一度見つめ、それから私に視線を戻した。

 

「言葉で、人が来たんだね」

 

「言葉は目に見えませんが、最も人を動かす暴力になります。そして、その背後には必ず『お金』の流れが存在します」

 

「お金」

 

「民衆の不安が募れば、人々は熱心に祈り、巡礼を行います。巡礼が増えれば、教会への寄付金が集まります。集まった莫大な寄付金は、物資を買い調達する巨大な力となり、その物資がまた、次の『聖戦』を支えるための軍資金となるのです」

 

ライラは、ぽつりと呟いた。

 

「……ぐるぐる、回ってる」

 

「はい。その通りです」

 

私は、その極めて本質的な表現に深く頷いた。

 

「だから、この巨大な循環は、一度回り始めると内側から止めることは極めて難しいのです」

 

 

作業は、淡々と続けられた。 掘り、分け、封じ、中和し、そして清らかな土を戻していく。 私たちの手の動きに合わせるように、私の言葉も核心へと近づいていった。

 

「つまり……最初からこの島が『魔王の棲家』だったから戦いが起きたのではない、と私は考えています」

 

ライラのショベルが、カツンと土に刺さったまま止まった。

 

「……違うの?」

 

「はい。先に存在していたのは、『敵が現れたときに、それを燃料にして巨大な利益と権力を生み出すシステム』そのものです」

 

「システム」

 

「聖水を集め、具を動かし、寄付金を募り、言葉で人々を煽る。その完成された回収装置が、次の獲物を探していたのです。そこへ――『禁忌の島に、魔物を従える主が現れた』という、これ以上ない格好の『名前』が与えられたに過ぎません」

 

ライラは、しばらく泥を見つめて沈黙していた。 やがて、低くかすれた声で言った。

 

「じゃあ……私がここにいなくても?」

 

「はい。別の何かが、教会の都合の良い『敵』として選ばれ、同じように聖戦が叫ばれていたはずです」

 

「敵にされたんだ」

 

「はい。それがあなたにとって、どれほど理不尽で一方的な暴力だったとしても。彼らにとっては、そのシステムを回すための燃料が必要だったのです」

 

ライラの指が、泥を掴んだまま白くなるほど力が入る。

 

「でも、実際にここを戦場にされて、うちの子たちが傷つけられた。それは、本当のことだよ」

 

「ええ。だからこそ、許されることではありません」

 

私は、彼女の掴む泥の上に、中和の光をそっと重ねた。

 

「ライラさんが悪魔だから攻めてきたのではない。彼らがその肥大化したシステムを維持するために、アルカノアという存在を都合よく利用したのです。それを、私は元聖女として、あそこで物資の流れを見ていた人間として、確信しています」

 

ライラは、ゆっくりと、重い息を吐き出した。 木箱へと土を落とす。サラサラと、乾いた音だけが響いた。

 

「……嫌な仕組み」

 

「はい。本当に、醜く嫌な仕組みです」

 

私は否定しなかった。かつて自分がその一部として機能していたかもしれないという、静かな罪悪感を胸に秘めながら。

 

 

手元の作業の音だけが、しばらくの間、静かに響いていた。 私は、次の言葉を口にする前に、喉の奥をきつく締めつけられるような感覚を覚えた。 その名前を口にすれば、ライラの未来の行動を、決定的に変えてしまうかもしれない。 けれど、ここで黙っていることは、彼女に対する最大の不誠実だ。

 

「グレゴール・マルセイン枢機卿」

 

私は、静かにその名を告げた。 ライラが顔を上げる。

 

「だれ?」

 

「聖座の枢機卿です。法国の財務、巡礼、物資調達、そして寄付金の流れを、その細い指先一つで掌握している、あちら側の重鎮です」

 

「その人が、うちの子たちを傷つけたの?」

 

「あの方が直接、進軍の命令書に署名した証拠は、今の私にはありません」 私は、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて答えた。 「この戦役の極秘記録も、財務の帳簿も、私は見ていません。ですから、これは私の状況証拠に基づいた『仮説』に過ぎません」

 

「でも、その人が一番怪しい?」

 

「はい。私がかつて見てきた物資の不自然な偏りと、今回この島に持ち込まれた異常な規模の聖具、そして第一陣の戦死によって生じる『殉教者』という美名の恩恵。――それらを繋ぎ合わせると、この戦いで最も莫大な富と権力を手にしたのは、戦場で血を流した兵たちではありません」

 

風がぴたりと止まったように、辺りが静まり返る。 遠くで、シルヴィアが大きな翼を休めたまま、静かに私たちの会話を聞いているようだった。

 

「送り出した側で、その死を『殉教』と言葉に変えているであろう、その男です」

 

ライラは、木箱の中に沈む聖印の欠片をじっと見つめた。 ここに残されたものは、すべて外の人間たちが持ち込んできた。 誰かが集め、誰かが持たせ、誰かが言葉で煽り、誰かが送り出した。

 

「聖水も、聖具も」

 

「はい」

 

「お金も、人も」

 

「……おそらく、すべてあの方の描いた図式の上で動いています」

 

ライラは、浄化を終えつつある地面を見つめた。 ひと月以上の時間をかけ、血を洗い、聖水を中和しても、土地の痛みは完全には消えていない。日常は、すぐには戻らない。

 

「じゃあ……その人がまた『仕組み』を動かしたら」

 

私は答えることができなかった。

 

「また、人が来る?」

 

「……可能性は、極めて高いです」

 

「来てから止めるのは、もう嫌」

 

ライラの声は、平坦だった。けれど、その底には、赤枝やミズハたちを失ったときの、あの暗く深い悔恨の淀みが眠っていた。

 

「来てから止めると、また、みんなが死ぬ」

 

泥を握る彼女の指先が、小さく、けれど激しく震えていた。

 

「うちの子も。人間も。たくさん、たくさん死ぬ」

 

それは怒りでも、復讐心でもなかった。 ただ、このひと月、泥に汚れながら死者を見送り続けた少女が辿り着いた、最も冷徹な「現実の防衛」だった。

 

来てから止めた。その結果、取り返しのつかないことが生まれた。 ならば、同じ過ちを繰り返してはならない。ライラの中で、それは政治的な難題ではなく、自分の家族を絶対に汚させないための、至極当然の整理だった。

 

 

「ライラさん」

 

私は思わず、彼女の細い肩に手を伸ばしかけた。

 

ライラは、静かに木箱の蓋を閉じた。バタン、と重い音が響く。

 

「行くよ」

 

「まだ……仮説の段階です。証拠もありません」

 

「うん」

 

「あの方が今、あちら側で何を企んでいるかも、私には分かりません」

 

「うん」

 

ライラは真っ直ぐに立ち上がり、私の目を見据えた。

 

「でも、その仕組みが残っているなら、また必ず来る。だから、来る前に止める」

 

「それは……!」

 

私の言葉は、それ以上続かなかった。 行かないでほしい、危ないから、まだ早すぎる――そんな言葉は、目の前の少女の「家族をこれ以上死なせない」という強固な決意の前では、あまりにも無力で薄っぺらかった。

 

また、白い帆が水平線を埋めるかもしれない。 また、聖水で焼かれたファミリアたちが、私の寝台の上で短い呼吸を繰り返すかもしれない。 それを、私自身が彼女に説明してしまったのだ。

 

ライラは、静かに言った。

 

「殺しに行くんじゃないよ」

 

彼女は、夕暮れに染まる森の静けさを見つめた。

 

「終わらせに行くの」

 

その言葉は、悲壮な叫びでもなければ、大層な誓いでもなかった。 ただ、明日の朝食のメニューを決めるかのような、あまりにも自然な、けれど一歩も退く気のない「主人の声」だった。 だからこそ、私は確信した。ライラはもう、海の向こうへ動くのだ、と。

 

 

「私も、同行します」

 

私は言った。言わずにはいられなかった。

 

けれど、ライラはすぐに首を横に振った。

 

「だめ」

 

「ライラさん、私なら、神聖術の残滓やあちらの仕掛けを見分けることができます。それに――」

 

「リィナは、ここにいて」

 

ライラのその言葉に、私は言葉を失った。 ライラは、片付け途中の地面や、封印された木箱、そして仮柵の向こうでこちらを見つめているファミリアたちを静かに指し示した。

 

「ここ、まだ終わってない。痛いの、まだたくさん残ってる。うちの子たちも、まだ本調子じゃないから」

 

「それは……」

 

「リィナがいないと困る。お家をお願い」

 

その言葉が、私の胸を激しく突いた。 置いていかれるのではない。託されたのだ。

 

ライラが海の向こうへ向かう間、この家を守り、ファミリアたちの命を繋ぎ止められる人間は、世界に私しかいない。 神聖術の毒を見分け、彼らの傷を癒やし、中和の術式を回し続けられるのは、私だけなのだ。

 

「……分かりました」 私は、深く、ゆっくりと頷いた。 胸の奥は、張り裂けそうなほど苦しかった。けれど、彼女の信頼から逃げるように「連れていって」と駄々をこねることは、私には絶対にできなかった。

 

「ここは、私が責任を持って守ります。あなたの大切な、家族の場所ですから」

 

ライラは、ほんの少しだけ口元を緩め、頷いた。

 

「お願いね」

 

その一言は短かった。けれど、どんな法国の誓約書よりも重く、私の胸に刻まれた。 私は、その重みを両手でしっかりと抱きしめるように、胸の前で手を強く握りしめた。

 

今度のそれは、神への祈りではなかった。 大切な「友」への、生涯をかけた返事だった。

 

 

作業をすべて終えた頃には、空は淡く、美しい茜色に染まり始めていた。

 

ライラは、まだ完全に浄化しきれていない黒い土壌を見下ろした。 ひと月以上の時間をかけても、傷跡は消えない。血は薄くなり、聖水の反応は弱まり、割れた聖印を拾い上げても、土地の痛みは残る。 ならば。 この島に、再びこの痛みを持ち込もうとする火種を、そのままにしておくわけにはいかない。

 

ライラは顔を上げ、水平線の彼方、外海の方角を見据えた。

 

遠くの波間で、巨大な黒い影が水面を割る。海のファミリアたちが、静かに、一斉に動き始めている。 森の奥では、カイザーが巨大な頭部をゆっくりと持ち上げた。

 

ライラはまだ、何も命じていない。 けれど、島の生命たちはみな、主人の決意が変わり、新たな風が吹き始めたことを、本能的に感じ取っているようだった。

 

「終わらせに行くよ」

 

サァ……と風が草地を揺らし、私たちの髪を細く撫でて通り抜けていく。

 

私は、その小さくも頼もしい後ろ姿を、ただじっと見つめていた。 それは傲慢な勝者の背中ではなかった。血に飢えた復讐者の背中でもない。

 

ただ、自らの愛おしい「暮らし」に、二度と不条理な火を運ばせないために、一人で嵐の中へ立ち向かおうとする、島の主人の、あまりにも美しい背中だった。

 

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