廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第50話 フィクサー

葬儀が終わっても、私たちの『日常』は、すぐには戻ってこなかった。

 

名前を呼んだ。一人ひとりに別れを告げ、最後に、おやすみと言った。それでも、朝になれば浜には簡易キャンプの杭が残り、砂には幾筋もの轍が刻まれ、潮風には血と薬草、そして燻る煙の匂いが混じっていた。

 

人間たちが去った仮キャンプの跡地には、不自然に踏み固められた砂地が白く広がっていた。寝台の脚が沈んでいた場所、水桶の泥の跡、焚き火の灰、破れた天幕の切れ端。雨が降り、波が寄せても、戦争の痕跡は簡単には消えてくれなかった。

 

ライラさんは、ほとんど毎日そこに立っていた。

 

杭を抜き、残された布を集め、使えそうな金属片と捨てなければならないものを分けていく。聖水が染み込んだ恐れのある場所には木杭を打ち、危険な聖具の破片を見つければ、私を呼んだ。

 

作業はひどく単純だった。けれど、単純だからこそ、私たちは立ち止まらずに済んでいた。考えるより先に手を動かし、次の瓦礫を拾い、次の杭を抜き、次の場所を確かめる。何もせずに立ち止まれば、あの森で見送った六つの命のことを、どうしても考えてしまうから。

 

私も、ライラさんも、そうだったのだと思う。

 

ある日の午後、まだ幼いファミリアの一匹が、まとめられた人間の衣服の山へ興味を示して近づいていった。

 

「まだ駄目」

 

ライラさんがすぐに手を伸ばし、その前に立った。小さな子はぴたりと足を止め、怒られたと思ったのか、身を縮めてしまう。

 

「怒ってないよ。でもね、そこはまだ『痛み』が残ってるかもしれないから。もう少し待ってね」

 

ライラさんはしゃがみ込み、その子の鼻先をそっと撫でた。小さな子は彼女の指に鼻先を押しつけると、名残惜しそうに衣服の山を振り返りながら、仲間たちのところへ戻っていった。

 

私はその傍らで、地面に残された神聖術の痕跡を調べていた。掌の上に淡い光を浮かべ、土の奥へ慎重に術力を通す。そこで微かに乱れる光が、まだ取り除けていない危険の存在を教えてくれる。

 

「ライラさん。ここは、まだ反応が残っています」

 

「こっちは?」

 

「かなり薄くなっています。ですが、小型組の子たちは、もうしばらく近づけない方がいいでしょう」

 

「分かった」

 

ライラさんは短く答え、新しい目印を打ち込んだ。

 

丘の上に作られた聖戦軍の墓地だけは、手をつけなかった。

 

海を見下ろす高台には、簡素な木標が並んでいる。土の色はまだ新しく、周囲の草も十分には生え揃っていない。そこに眠る者たちが何を信じ、何を願ってこの島へ来たのか、私にはすべてを知ることはできない。

 

けれど、ライラさんは墓を壊そうとはしなかった。その代わり、墓地とファミリアたちの生活圏を明確に分けた。採取組が行き来する道から外し、小型組が遊ぶ草地との間には境界杭を立て、木を植えた。

 

死者を踏みにじることはしない。けれど、二度と自分たちの暮らしの中へ入り込ませることもしない。それが、ライラさんの決めた線引きだった。

 

第三防衛線の跡地にも、傷跡は残っていた。焼けた草地、掘り返された土、折れた槍や矢尻、砕けた大盾。そして鋼の塔の足元に散らばる金属片。特に聖水が深く染み込んだ場所では、私が浄化の術式を使っても、一度には取り除けなかった。

 

魔力の残り方を確かめ、危険な土を取り除き、少しずつ中和するしかない。ライラさんは、そこにも仮の柵を立てた。

 

柵の向こうでは、ファミリアたちが首を傾げていた。

 

「まだ駄目。もう少しだけ待ってね」

 

その声は、何度繰り返しても優しかった。けれど、ライラさんが笑うことは、ほとんどなかった。

 

食事は取っていた。眠ることもあった。ファミリアたちには、以前と変わらない声をかけていた。それでも、何かが違っていた。

 

誰かがいなくなったことに慣れたのではない。いなくなった子たちのことを考えないように、手を動かし続けている。私は、そう感じていた。

 

そして、その理由が分かってしまう自分自身も、彼女に何を言えばよいのか分からなかった。

 

◆

 

葬儀から、ひと月あまりが過ぎた。

 

浜は、ようやく以前の姿を取り戻し始めていた。抜き取った杭の穴は波と砂に埋まり、踏み固められた地面にも少しずつ草が伸び始めている。危険な布は処分され、聖具や結界杭は残った術力を封じたうえで、屋敷の奥の石倉へ隔離した。

 

大きな瓦礫も、ほとんど片づいた。けれど、森の縁と第三防衛線の跡地だけは、まだ作業を続けなければならなかった。

 

ファミリアたちも、完全に元の生活へ戻ったわけではない。小型組は安全な草地から遠くへ出ようとせず、採取組も以前より慎重に周囲を警戒していた。空ではワイバーンたちが哨戒を続け、海棲組も近海から離れようとはしなかった。

 

彼らもまた、あの戦いを覚えているのだ。

 

ライラさんは、最近になって私の浄化作業を手伝うようになっていた。

 

最初の頃は、危険なものを見つければ私を呼び、あとは一人で黙々と瓦礫を片づけていた。けれど今は、私の隣でショベルを使い、危険な土を取り除いてくれる。話しかければ返事をしてくれるし、時折、ファミリアたちを見て微笑むこともある。

 

ほんの少しずつではあったけれど、彼女の中にも時間が流れ始めているのだと思いたかった。

 

だからこそ、私は迷っていた。

 

話さなければならないことがあった。けれど、それを告げれば、ライラさんがようやく取り戻しかけた静けさを、再び壊してしまうかもしれない。

 

三日待った。一週間待った。そして、ひと月以上が過ぎた。

 

それでも、もう黙っているわけにはいかなかった。

 

◆

 

第三防衛線の跡地には、まだ焦げた匂いが微かに残っていた。

 

血は雨に洗われ、折れた木々の間には若い草が芽吹いている。けれど、地面の下には目に見えない危険が残されていた。

 

私は湿った土に膝をつき、両手をかざした。淡い青白い光が広がり、その端が不自然に揺らいだ。

 

「ここは……これ以上、術だけでは取り除けませんね」

 

隣でショベルを持っていたライラさんが顔を上げた。

 

「下まで?」

 

「はい。かなり深いところまで染み込んでいます。小型組の子たちが掘り返してしまえば、危険です」

 

「じゃあ、土ごと入れ替える」

 

迷いのない返事だった。

 

ライラさんはすぐにショベルを突き立てた。私は遮魔用の封印布を敷いた木箱を用意し、掘り出された土を受け取っていく。

 

かつん、と乾いた音がした。

 

土の中から、煤けた金属片が顔を覗かせていた。割れた聖印だった。

 

「待ってください。直接触らないで」

 

「うん」

 

ライラさんは木片を使い、金属片をすくい上げた。私は布の上に落とされた欠片へ術力を通し、反応を調べる。

 

「攻撃用の術式は残っていません。ですが、聖水がかなり染み込んでいます。これも封じておきます」

 

「燃やせない?」

 

「金属ですし、今すぐ完全に処理するのは難しいですね。一度保管して、後でまとめて処分しましょう」

 

「分かった」

 

会話はそこで途切れた。

 

ショベルが土を穿つ音。掘り出された土が木箱へ落ちる音。封印布を結ぶ、小さな衣擦れの音。

 

少し離れた仮柵の向こうでは、幼いファミリアたちがこちらを見つめていた。ライラさんが時折手を止め、その子たちへ手を振る。一匹の幼いディロフォサウルスが小さく鳴くと、彼女の表情が僅かに和らいだ。

 

私は、それを見届けてから口を開いた。

 

「ライラさん」

 

「うん?」

 

「少し、お話ししてもいいですか」

 

「作業のこと?」

 

「いいえ」

 

手元の聖印の欠片へ視線を落とす。

 

「法国のことです」

 

ショベルの動きが止まった。

 

ライラさんは顔を上げなかった。ただ、土に突き立てたショベルを握ったまま、小さく尋ねた。

 

「……また来る話?」

 

「その可能性について、です」

 

「決まってるの?」

 

「いいえ」

 

私はすぐに答えた。

 

「今、聖座で何が話し合われているのか、私には分かりません。次の軍を送ると決めたのか、それとも諦めたのか。島にいる私には、確かめる手段がありません」

 

「じゃあ、分からない?」

 

「はい。少なくとも、今の時点では断定できません」

 

私は金属片を封印布で包みながら、続けた。

 

「ですが、以前から気になっていたことがあります。王国支部で仕事をしていた頃、何度か見てきたものと、今回の聖戦には、似ているところがあるんです」

 

ライラさんはしばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。

 

「うん。聞く」

 

私は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

向かい合って難しい話をするのではなく、こうして作業を続けながら話す。今の彼女には、その方がよいように思えた。

 

◆

 

「私は以前、王国支部から各地の教会や施療院へ派遣されていました」

 

土の上に中和の術式を刻みながら、私は話し始めた。

 

「神聖術の扱いを指導したり、孤児院や施療院の運営を調べたり。地方の神官たちが、限られた物資でどのように人々を助けているのか、確かめる仕事です」

 

「リィナ、先生してた?」

 

「先生……に近いこともありましたね」

 

思わず、少しだけ笑みがこぼれた。

 

「回復術で術力を無駄に使わない方法や、浄化術を安全に使うための手順を教えたりしていました。災害や疫病のときには、物資や治療できる人数に限りがあるので、誰から先に治療すべきか、判断する方法も教えていました」

 

「忙しそう」

 

「ええ。とても忙しかったです」

 

そう答えてから、私は続けた。

 

「それと同時に、各地の教会の帳簿も調べていました。薬や聖水、聖具の備蓄。巡礼者からの寄付金。必要なものが、必要な場所へ届いているか」

 

「ちゃんと届いてた?」

 

「届いていない場所もありました」

 

ライラさんの手が、僅かに止まった。

 

「足りないの?」

 

「はい。特に地方の施療院では、いつも何かが不足していました」

 

怪我をした農夫、熱を出した子供、出産を控えた母親、魔獣に襲われて辛うじて生き残った旅人。施療院には、助けを求める人が途切れることなく訪れる。

 

「地方の神官たちは、少しでも薬が余れば、次に来る患者のために大切にしまっていました。聖水も、聖油も、決して好きなだけ使えるものではありません」

 

「……うん」

 

「その貴重なものが、今回の聖戦では大量に使われました」

 

ライラさんが顔を上げた。

 

「あれだけ、持ってきたのに?」

 

「そうです」

 

私は頷いた。

 

「聖水は、必要だと言えば突然手に入るものではありません。作る神官がいて、保管する施設があって、運ぶ人がいる。聖具も同じです。一つひとつに管理の記録があり、どこで使われているかが分かるようになっています」

 

「落ちてたあの破片も?」

 

「はい。元は、どこかの教会や施設で管理されていたものです」

 

「たくさんあったよ」

 

「ええ。十万もの兵を集め、あれだけの聖水や聖具を持たせるには、各地から膨大な量を集めなければなりません」

 

ライラさんは黙って木箱に土を落とした。

 

「……誰かが、集めた?」

 

「そうです」

 

私は少しだけ言葉を選んだ。

 

「それも、ただ集めたのではありません。普段なら別々の場所で使われるものを、一つの軍へ集中させたのです。そうするよう命じられる立場の人が、必ずいたはずです」

 

ライラさんは、ゆっくりと頷いた。

 

巨大な拠点を維持している彼女なら、その意味が理解できるのだろう。金属の装備を作るには鉱石が必要で、ファミリアたちの鞍には革や繊維が要る。大勢の子たちへ食事を用意するだけでも、採取し、運び、保管する手間がかかる。

 

十万の人間を動かすのなら、その何倍もの準備が必要になる。

 

「……そっか」

 

ライラさんが呟いた。

 

「誰かが、全部用意したんだ」

 

「はい」

 

「じゃあ、あの人たちだけで来たんじゃないんだね」

 

その言葉に、私は頷いた。

 

戦場に立っていた兵士だけが、あの戦争を作ったわけではない。彼らの背後には、武器を作り、物資を集め、軍を送り出す人々がいる。そして、そのための命令を下した者たちがいる。

 

私は、もう一つのことを告げなければならなかった。

 

「ライラさん。仮に、あの聖水や薬が地方の施療院から集められていたとしたら、どうなると思いますか」

 

「……病気の人が、困る?」

 

「はい」

 

私は静かに答えた。

 

「治療を受けられなかった人がいたかもしれません。使えるはずの薬がなくなって、助けられたはずの命が失われたかもしれない」

 

ライラさんは何も言わなかった。

 

「今回、実際にどれだけの物資が地方から集められたのか、私は知りません。ですが、あれほどの量を一つの戦場へ集めた以上、どこかに負担が生じたことは考えなければなりません」

 

「……誰かが、決めたんだ」

 

「ええ」

 

ライラさんは、再びショベルを握った。

 

しばらく、土を掘る音だけが続いた。

 

◆

 

「もう一つあります」

 

少し離れた場所へ移動しながら、私は話を続けた。

 

「物だけではありません。人を動かすためには、言葉も必要になります」

 

「言葉?」

 

「はい。教会では、各地で似たような説教が行われることがあります。離れた場所にある教会でも、同じ時期に、同じような言葉を使うようになるんです」

 

「例えば?」

 

「『今こそ信仰を示す時だ』『魔を討つために力を合わせよう』『聖戦へ財を捧げることは尊い行いである』……そういった言葉です」

 

ライラさんは、眉を寄せた。

 

「……それ、言われたら戦いに行くの?」

 

「行く人はいます」

 

私は答えた。

 

「特に、人々が何かを恐れているときには。災害や凶作、魔獣の襲撃。暮らしに不安があれば、誰もが安心できる理由を探します」

 

土に触れた指先へ、淡い光が集まる。

 

「そこへ、教会が『この敵を討てば安心できる』と説いたら、どうなるでしょう」

 

「……信じる人がいる」

 

「はい。もちろん、すべての神官が人々を騙そうとしているわけではありません。心から人々を救いたいと思い、その言葉を伝える方もいます」

 

私は一度、言葉を区切った。

 

「けれど、上から同じ教えが繰り返し伝えられれば、人々の考えは少しずつ、同じ方向へ向けられていきます」

 

ライラさんは、柵の向こうのファミリアたちへ目を向けた。幼い子たちが互いに身を寄せ合い、こちらを見つめている。

 

「……あの子たちが、怖いから?」

 

「そう教えられれば、信じてしまう人もいるでしょう」

 

「でも、何もしてない子もいるよ」

 

「ええ」

 

「怖いって言われただけで?」

 

私は、すぐには答えられなかった。

 

そこに、あの戦争の理不尽さがあった。

 

「……人は、自分がよく知らないものを、恐ろしいと感じることがあります。そして、その恐ろしいものを倒せば安心できると言われれば、信じてしまうこともあるんです」

 

ライラさんは俯いた。

 

「そっか。言葉で、人が来たんだね」

 

「はい」

 

私は頷いた。

 

「そして、人々が聖戦を支持すれば、そこには寄付金が集まります。巡礼が増え、聖具が売れ、軍を支えるための金銭も集まる」

 

「お金?」

 

「ええ。そのお金で、さらに聖水や聖具を集めることができます。多くの物資が集まれば、次はもっと大きな軍を用意できるかもしれません」

 

ライラさんは、しばらく考えていた。

 

それから、ぽつりと呟いた。

 

「……ぐるぐる、回ってる」

 

「そうです」

 

信徒の不安、教会の説教、聖戦への支持、集まる寄付金と物資、そして新たな敵に向けられる人々の目。それらが互いに結びつけば、一度始まった流れは簡単には止まらない。

 

私は、かつて地方の施療院を回っていた頃、何度もその一端を見てきた。

 

もちろん、すべてが悪意から生まれたものではない。信仰から寄付をする人がいる。誰かを守ろうと武器を取る人がいる。それでも、そうした善意さえ利用して、大きな利益を得ようとする者がいるのだ。

 

「……ライラさん」

 

「うん」

 

「私は、今回の戦争も、そうした流れの中で起こされた可能性があると思っています」

 

ショベルが止まった。

 

「どういうこと?」

 

私は深く息を吸った。

 

「この島に、魔物を従える恐ろしい主が現れた。そういう噂は、聖戦を呼びかける人々にとって、とても都合がよかったのかもしれません」

 

「……私が?」

 

「はい」

 

私は静かに続けた。

 

「恐ろしい敵がいると訴えれば、兵を集める理由になります。寄付を募る理由にも、聖具を集める理由にもなります。そして、戦いが終われば、そこで命を落とした人々を殉教者として讃え、さらに信仰を集めることもできる」

 

ライラさんは、私を見つめた。

 

「じゃあ……私がここにいなくても?」

 

その声は、小さかった。

 

「……別の何かが、敵とされていた可能性はあります」

 

私は答えた。

 

「もちろん、それが実際に起きたかどうかは分かりません。ですが、今回の聖戦には、そう疑うだけの理由があります」

 

ライラさんは視線を落とした。

 

「敵にされたんだ」

 

「……はい」

 

「何もしてないのに?」

 

胸が痛んだ。

 

「はい」

 

私は、それ以上の言葉を探せなかった。

 

ライラさんの指が、泥を強く握りしめる。

 

「でも……」

 

その声が、僅かに震えた。

 

「本当にここに来たよ。あの人たち」

 

「はい」

 

「うちの子たちが、傷ついた」

 

「……はい」

 

「死んじゃった子もいる」

 

「ええ」

 

ライラさんは、泥だらけの手を見つめた。

 

「それは、本当だよ」

 

「……そうです」

 

私は頷いた。

 

「どれほど立派な理由を並べても、その事実は変わりません」

 

言葉で敵を作り、誰かに武器を持たせる。その結果として人が死に、ファミリアたちが傷ついた。たとえ戦いを煽った者が遠く安全な場所にいたとしても、起こされたことの重さが変わるわけではない。

 

ライラさんは、長く息を吐いた。

 

「……嫌な仕組み」

 

「はい」

 

私は、彼女の言葉を否定しなかった。

 

「本当に、嫌な仕組みです」

 

かつて、私自身もその教会の中で働いていた。救いたい人がいた。少しでも多くの人の命を守ろうと、できる限りのことをしてきた。

 

けれど、その同じ教会の中で、誰かが人々の恐怖を利用していたのだとしたら。私が必死に守ろうとしてきたものは、いったい何だったのだろう。

 

答えの出ない問いを抱えたまま、私は次の場所へ手を伸ばした。

 

◆

 

しばらくの間、作業の音だけが続いた。掘り出された土が、木箱の中へ落ちていく。ライラさんは黙って手を動かしていた。

 

私は、その横顔を見つめた。

 

ここから先を話すべきか、まだ迷っていた。これ以上、彼女に背負わせたくない。けれど、知らずにいることで、再び同じ悲劇が起こるかもしれない。

 

そう考えたとき、私は黙っていることができなかった。

 

「グレゴール・マルセイン枢機卿」

 

その名を口にすると、ライラさんが顔を上げた。

 

「だれ?」

 

「聖座の枢機卿の一人です。法国の財務や寄付金、物資の調達に強い影響力を持つ方です」

 

「偉い人?」

 

「はい。とても」

 

「……その人が、うちの子たちを傷つけたの?」

 

私は、すぐに首を横に振った。

 

「それは、まだ分かりません」

 

ライラさんの瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「私は今回の聖戦の内部記録を見ていません。グレゴール枢機卿が、どの命令に関わっていたのかも知りません」

 

「じゃあ……」

 

「ですが、あれほどの物資と資金を動かすには、聖座の中で相応の権限を持つ人物の協力が必要だったはずです」

 

私は、言葉を慎重に選びながら続けた。

 

「そして、私が知る限り、そのような力を持つ方の一人が、グレゴール枢機卿なのです」

 

ライラさんは、少し考えてから尋ねた。

 

「その人が、一番怪しい?」

 

「……私は、そう疑っています」

 

あくまでも疑いだった。証拠を見つけたわけではない。あの戦いを命じた者が誰なのか、実際に利益を得た者が誰なのか。今の私には、断定できない。

 

けれど、各地から物資を集め、多くの寄付金を動かし、教会の中に強い影響力を持つ人物がいる。そのことは知っていた。

 

「もし、グレゴール枢機卿が今回の聖戦を利用していたのだとしたら……」

 

私は言葉を切った。

 

「多くの兵士が死に、数えきれない人々が悲しんだこの戦いで、あの方は何も失わず、かえって強い立場を手に入れた可能性があります」

 

ライラさんは木箱の中の聖印の欠片を見つめた。

 

「聖水も?」

 

「はい」

 

「聖具も?」

 

「ええ」

 

「お金も、人も?」

 

「……それらの動きに、あの方が関わっていた可能性はあります」

 

ライラさんは黙り込んだ。

 

何かを考えるように、ゆっくりと視線を地面へ戻す。

 

「じゃあ……」

 

その声が、かすかに掠れた。

 

「その人が、また集めたら?」

 

私は答えられなかった。

 

「また、聖水も、聖具も、いっぱい集めて……」

 

「……」

 

「また、人が来る?」

 

私は、目を伏せた。

 

「……その可能性は、あります」

 

「止められないの?」

 

「私には、今すぐ止める方法が分かりません」

 

ライラさんは、俯いたまま動かなかった。

 

やがて、ぽつりと呟いた。

 

「……来てから止めるのは、もう嫌」

 

胸の奥が、冷たくなった。

 

「ライラさん……」

 

「来てから止めたら、また、みんなが死ぬ」

 

泥を握る小さな手が震えていた。

 

「うちの子も。人間も。たくさん、たくさん死ぬ」

 

その言葉に、私は何も返せなかった。

 

彼女は、敵を皆殺しにしたいと言っているのではなかった。失った家族の仇を討ちたいと叫んでいるのでもなかった。ただ、もう二度と、同じことを繰り返したくないのだ。

 

あの戦いで、どれほど多くの命が失われたか。傷ついた子たちが、どれほど苦しんだか。ようやく終わったと思った戦争が、今もこの島にどれほどの傷跡を残しているか。

 

ライラさんは、そのすべてを見てきた。だからこそ、次に誰かが来るのを待つことができないのだろう。

 

私は、その気持ちを否定することができなかった。

 

◆

 

「ライラさん」

 

私は思わず、彼女の肩へ手を伸ばしかけた。けれど、触れる前にライラさんが木箱の蓋を閉じ、重い音が響いた。

 

「行くよ」

 

私は息を呑んだ。

 

「……どこへ、ですか」

 

「法国」

 

短い返事だった。

 

「待ってください。今お話ししたことは、まだ仮説です。グレゴール枢機卿が何をしたのか、証拠もありません」

 

「うん」

 

「向こうで、どんな話し合いが行われているのかも分からないんですよ」

 

「うん。分かってる」

 

ライラさんは立ち上がった。泥で汚れたショベルを脇へ置き、私を見つめる。

 

「でも、また来るかもしれないんでしょ?」

 

「……はい」

 

「だったら、来る前に止めたい」

 

その声には、怒りも憎しみもなかった。

 

「誰が動かしてるのか、分からないなら、聞いてくる」

 

「ライラさん……」

 

「もう、ここで待ってるのは嫌」

 

彼女は、柵の向こうのファミリアたちへ視線を向けた。幼い子たちは、こちらの話を理解しているのかいないのか、静かに座っていた。

 

「またあの子たちが痛い思いをするのは嫌だし、人間がいっぱい死ぬのも嫌」

 

私は、言葉を失った。

 

白い帆が再び水平線を埋め尽くす光景が浮かんだ。傷ついたファミリアたち、治療を待つ人々、間に合わなかった命。あの夜のような悲劇を、もう一度繰り返すことになるのだとしたら、止められるうちに止めなければならない。

 

私自身が、そう考えてしまっていた。

 

けれど、それでも。

 

「……危険です」

 

ようやく、声を絞り出した。

 

「法国は、あの軍を送り出した国です。向こうには、ライラさんを恐れ、憎んでいる人だっているかもしれません」

 

「……うん」

 

「話を聞いてもらえるとは限りません。むしろ、また攻撃されるかもしれない」

 

ライラさんは少しだけ俯いた。握った手が、小さく震えている。

 

それでも、顔を上げた。

 

「でも、行かないと」

 

そして、静かに言った。

 

「殺しに行くんじゃないよ」

 

私は、彼女を見つめた。

 

ライラさんは、遠くの森へ目を向けた。

 

「終わらせに行くの」

 

その言葉は、決して大きなものではなかった。力強い宣言でも、怒りに任せた叫びでもなかった。

 

ただ、家族の食事を用意するときのように。危険な場所へ近づく子を引き留めるときのように。これ以上、誰にも傷ついてほしくないという、ごく当たり前の願いから出た言葉だった。

 

だからこそ、私は理解した。

 

ライラさんは、もう決めているのだ。

 

◆

 

「私も、同行します」

 

気づけば、そう口にしていた。

 

「法国の内部事情なら、私の方が詳しいです。聖座のことも、神聖術の仕掛けも、きっとお役に立てます」

 

けれど、ライラさんはすぐに首を横に振った。

 

「だめ」

 

「どうしてですか」

 

「リィナは、ここにいて」

 

その言葉に、私は息を詰めた。

 

ライラさんは、片づけ途中の地面を指さした。まだ処理の終わっていない土、封印された聖具、赤い組紐が張られた立ち入れない場所。そして、仮柵の向こうで静かに待っているファミリアたち。

 

「ここ、まだ終わってない」

 

「……はい」

 

「まだ痛いところ、いっぱい残ってる。怪我してる子もいる」

 

私は、ゆっくりと頷いた。

 

「それは……そうですが」

 

「リィナがいないと、困る」

 

ライラさんは、私を真っ直ぐに見つめた。

 

「私じゃ、治せないから」

 

その一言に、胸が締めつけられた。

 

どれほど強い力を持っていても、ライラさんにはできないことがある。そして、どれほど多くの術を使えても、私にもできないことがある。

 

あの戦いでは、互いにそれを思い知らされた。

 

「リィナ」

 

「……はい」

 

「お家、お願い」

 

私は、しばらく何も言えなかった。

 

置いていかれるのではない。私が必要ないと言われているのでもない。ライラさんは、自分の大切な家族と、その暮らしを私に託そうとしているのだ。

 

ここには、まだ治療を必要としている子たちがいる。浄化の終わらない土地がある。いつまた危険な聖具が見つかるか分からない場所が、いくつも残っている。

 

彼らを守るために、私ができることがある。そして、ライラさんはそれを知っているからこそ、任せてくれたのだ。

 

「……分かりました」

 

私は、深く頷いた。

 

「ここは、私が責任を持って守ります」

 

声が震えそうになるのを、必死に堪える。

 

「ライラさんが帰ってきたとき、みんなが安心して迎えられるように」

 

ライラさんは、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「うん。お願いね」

 

その言葉を、私は胸に刻んだ。

 

あの子たちを失った日に、何もできなかった自分。救えるはずの命に、手が届かなかった自分。それでも、まだ私を信じてくれる人がいる。守るべきものが、ここにある。

 

今度こそ、その信頼に応えたかった。

 

◆

 

作業を終えた頃には、空が茜色に染まり始めていた。

 

私は最後に封印布の状態を確かめ、木箱の蓋を閉じた。ライラさんは、まだ完全には浄化しきれていない土地を見つめていた。

 

あれほどの時間をかけても、すべての傷跡は消えていない。雨が降れば、また聖水の反応が見つかるかもしれない。草が生え揃うまでにも、まだ時間がかかるだろう。

 

失った命が戻ってこないことは、言うまでもない。

 

けれど、それでも。

 

少しずつ、ここを元の暮らしへ戻していくことはできる。あの子たちが安心して走り回れる草地も、採取組がのんびり行き来する道も、シルヴィアが翼を休める木陰も。すべて、少しずつ取り戻していけばいい。

 

ライラさんは顔を上げた。その視線の先には、広い海があった。

 

水平線の向こう。あの白い帆の群れが現れた場所。

 

あれほど恐ろしい思いをしたというのに、彼女はもう一度、人間たちのいる世界へ向かおうとしている。

 

遠くの水面で巨大な黒い影が浮かび上がり、海のファミリアたちがゆっくりと泳いでいた。森の奥では、カイザーが頭を持ち上げ、こちらへ視線を向けている。

 

ライラさんは、まだ何も命じていない。それでも、彼らは彼女を見守っていた。

 

私は、その光景を静かに眺めた。

 

誰もが恐れた、禁忌の島の主。十万もの聖戦軍を退けた、恐るべき魔物たちの主人。

 

けれど、私の隣に立っているのは、泥だらけの服を着た、一人の小さな少女だった。

 

まだ悲しみを抱えている。人間を恐れている。失った家族のことを、きっと何度も思い出している。それでも、彼女は誰かを憎むためではなく、これ以上誰も傷つけさせないために、海の向こうへ行こうとしている。

 

「……終わらせに行くよ」

 

ライラさんが、ぽつりと呟いた。

 

海風が吹き、草が揺れ、私たちの髪を撫でていく。

 

私は、その横顔を見つめていた。

 

どうか、彼女の願いが届きますように。

 

そう祈りかけて、言葉を止めた。

 

今度は、祈るだけではいけない。

 

ライラさんが帰ってくるまで、この場所を守る。あの子たちを守る。彼女が守ろうとしている日常を、少しでも取り戻しておく。

 

それが、今の私にできることだった。

 

私は、もう一度、目の前の土地へ視線を戻した。

 

明日もまた、浄化を続けよう。

 

ここが、もう一度みんなの家になるように。

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