夜明け前の砂浜は、ひどく冷たい霧の中に沈んでいた。
空は薄い藍色からまだ覚めず、波は静かに黒い海面を揺らし、森の奥からは早い鳥の声だけが小さく響いている。
けれど、その静けさは、かつての何もなかった穏やかな朝のそれとは、決定的に違っていた。
第三防衛戦跡地には、今もリィナが立てた中和の印が点々と白く浮かんでいる。聖水の残滓が強く残る土には白い目印の杭が打たれ、聖具の欠片が埋まっていた場所には封印の布が被せられていた。
小型のファミリア達は、少しずつ以前の生活パターンを取り戻し始めていた。
けれど、彼らにはまだ近づかない場所があった。
まだ通ろうとしない道があった。
戦いの前なら無邪気に駆け抜けていた草地の前で、何かに怯えるようにぴたりと足を止めてしまう子がいた。
赤枝がいつも好んで陣取っていた木の近くにも、冷たい朝露がしっとりと降りていた。
低い枝も、幹に残った爪跡も、削れた樹皮も、すべてはあの日のままそこにある。
けれど、そこにいるはずの、あのぶっきらぼうで誇り高い影は、もうどこにもなかった。
ライラは、その大木を一度だけ静かに見上げた。
立ち止まったのは、ほんの数瞬のことだった。
彼女はすぐに踵を返し、朝霧の這う浜辺へと向かって歩き出した。
浜には、すでに海棲ファミリア達が集まり始めていた。
暗い水面の下で、巨大な影がゆっくりとうねる。沖合の波が不自然な盛り上がりを見せ、ひとつ、またひとつと、頑強な背が黒い海面を割った。
モササウルス達。
この海を守る、巨大な家族達。
彼らの背には、すでに頑丈な平台が据え付けられていた。
海上移動用に低く設けられた木製の柵、荒波を被っても足を滑らせないように打ち込まれた鉄の固定具、幾重もの太い革帯で固定された補強床。
それは船ではなかった。
海棲の王者達がその圧倒的な巨躯を貸し、海上を渡るための、生きた移動要塞そのものだった。
ライラは、波打ち際に集まったファミリア達を見渡した。
「小さい子達は、お留守番」
小型組のファミリアが、置いていかれるのを察して不安そうに、ぴぃ、と鳴いた。
けれど、ライラは静かに首を横に振った。
「だめ。まだ怪我してる子も多いから。採取組も、今回は拠点から遠くに行かないで。ここで、お家を守って。リィナの言うことをよく聞いてね」
森の縁に控えていた中型の子達が、主の命令を理解したように低く喉を鳴らした。
「危ない場所には、絶対に近づかないでね」
ライラの声は小さかった。
けれど、そこには一分の揺らぎもない、静かな主の響きがあった。
崖の上には、色とりどりのワイバーン達が翼を静かに畳んで並んでいた。
今回は、大量の竜を連れてはいかない。
空から竜の群れを法国の空へ飛ばせば、あちらの民にとっては一方的な襲撃にしか見えなくなる。必要以上に無関係な民を怯えさせ、島の防空を薄くするわけにもいかない。
何より、今回の目的は壊すことではない。
あの聖戦の動員に関わった者の前に立ち、再びこの島へ人を送れる流れを止めること。
海と、地上の牙だけで、圧力としては十分すぎた。
◆
リィナは、冷たい砂に足を沈めながら、浜辺までライラを見送りに来ていた。
白い衣の袖口には、泥だらけの浄化作業の跡が残っている。顔色は悪く、目元には深い疲労が沈んでいた。
それでも、彼女はライラの前に真っ直ぐに立った。
「本当に、行くんですね」
「うん」
「一人で、ですか?」
ライラは、静かに海を見つめた。
水面の下で、巨大な影がゆっくりと向きを変える。
「ひとりじゃないよ」
「そういう意味ではありません」
リィナの声が、少しだけ震えた。
ライラはそれを聞いて、ようやくリィナの方へ視線を戻した。その琥珀色の瞳は、驚くほど静かに澄んでいた。
「リィナは、ここにいて」
「……分かっています」
「お家、お願いね」
リィナは、きつく唇を結んだ。
本当は、同行したかった。
ライラを一人で、あの何万もの正義の言葉が渦巻く法国の聖座へ向かわせたくはなかった。
あの戦いを利用したかもしれない、狡猾な誰かの前へ、彼女を一人で立たせたくはなかった。
けれど、ここにはまだ傷跡が残っている。
浄化の終わらない聖水の土壌があり、包帯を巻いたファミリア達がいる。
神聖術の残滓を見分け、彼らの命を繋ぎ止められるのは、この島でリィナしかいないのだ。
リィナは置いていかれるのではない。
この大切な家を託されているのだ。
リィナは、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「ここは、私が責任を持って見ます。あなたの大切な家族の場所ですから」
ライラは、ほんの少しだけ口元を緩め、頷いた。
「うん」
「必ず、戻ってください。……約束です」
ライラは少しだけ間を置き、リィナの目を真っ直ぐに見据えた。
「約束。必ず戻る」
その言葉だけで、リィナの胸の奥は、張り裂けそうなほど熱く、苦しく引き締められた。
◆
海を渡るための船は、どこにもなかった。
代わりに、海そのものが彼女達に背を貸していた。
モササウルスの背に固定された平台の上へ、一体、また一体と、地上を支配する巨大な牙の獣達が乗り込んでいく。
ギガノトサウルス達。
その圧倒的な質量が足を踏み出すたびに、モササウルスの巨体が重く沈み、押しのけられた波が激しく浜辺へ押し寄せて、リィナ達の足元を濡らした。
それでも、海の王者達は揺らがなかった。
ただライラの指示を静かに待つように、じっと水面へ身を伏せている。
牙の獣達の身体には、鎖も、檻も、拘束具も一切なかった。
ただ、ライラが「行くよ」と告げたから、そこにいた。
平台の上で、恐るべき牙の獣達が整然と並び立つ。吠えず、牙を鳴らさず、お互いに争うこともない。
その絶対的な統率こそが、何よりも恐ろしい光景だった。
先頭を進むモササウルスの平台には、カイザーがいた。
他のギガノトサウルス達よりもひときわ巨大な黒い体を低く伏せ、海の向こうをじっと見据えている。その目は、まだ暗い水平線の先にある、見えない陸地を正確に捉えていた。
カイザーは吠えなかった。
ただ、嵐の前の静けさのように待っていた。
ライラが、先頭の平台へと飛び乗った。カイザーがゆっくりと巨大な頭部を下げ、彼女を迎える。
ライラはその頑強な鼻先にそっと手を置いた。
「行くよ」
カイザーの喉の奥から、ずずず、と地鳴りのような重低音が響いた。
それが、行軍の合図だった。
モサ艦隊が、ゆっくりと浅瀬を離れて海へと滑り出す。
波が不気味に盛り上がり、海面下の巨影が完璧な一列を成して進み始める。その背の上には、平台と、そこに静座する牙の獣達。
遠くから見れば、それは黒い岩山の列が海を渡っているようだった。
けれど、その岩山は呼吸をしており、静かな目を開け、凶暴な牙を持っていた。
浜辺には、リィナと、残るファミリア達が残された。
小型組が不安そうに鳴き、シルヴィアが崖の上から翼を畳んだまま、じっと主の背中を見送っている。
ライラは、一度だけ振り返った。
リィナ達のいる浜が見え、黒い森が見え、赤枝の木が見えた。浄化途中の白い印の杭も見えた。
ここにいたい。
まだ傷の癒えない子達のそばにいたい。
あの日常を少しずつ取り戻していきたい。
そう思わなかったわけではない。
けれど、ここで待っていれば、またあの白い帆が水平線を埋めるかもしれない。
またこの冷たい砂の上に、聖水が、聖印が運ばれるかもしれない。
それなら、行くしかなかった。
ライラは前を向いた。
霧の向こうへ、島が少しずつ遠ざかり、やがて視界から消えていった。
◆
一日目。
アポカリプス海域は、相変わらず侵入者を拒む死地だった。
けれど、モサ艦隊にとっては、いつもの海でもあった。
潮は川のように激しく流れ、白い渦が突然海面に口を開く。隠れた岩礁が波の下に牙のように潜み、濃い霧が視界を遮る。
水面の下には野生の飢えた海棲魔獣の影もあったが、彼らはモサ艦隊を避けるようにして音もなく去っていった。
先頭のモササウルスが複雑な海流を読み、後続がそれに正確に続く。
危険な渦の前では自然に列をずらし、岩礁の多い浅瀬では、別の海棲ファミリア達が先に安全な航路を確かめる。
海の上の平台では、ギガノトサウルス達が低く身を伏せたまま、不気味なほど沈黙していた。
ライラは、カイザーの傍らに静かに腰を下ろしていた。白銀の髪が強い潮風に揺れる。
目の前には、果ての見えない暗い海が広がっていた。
この海は、かつて侵略者達の艦隊を砕いた。
同じ海が、生還した一万人を静かに外へ出した。
そして今、ライラ自身を乗せて、法国へと進んでいる。
◆
二日目。
アポカリプスの境界を抜け、穏やかな外海へと出たが、移動の速度は落ちなかった。
普通の帆船なら何日もかかる距離を、モサ艦隊は眠らない巨大な質量となって進んでいく。
ライラは、ほとんど眠らなかった。
カイザーの体温を背に感じながら、短く目を閉じることはあっても、その心は張り詰めたままだった。
怒りはあった。
けれど、海を進むうちに、それは熱く燃える復讐心ではなく、冷たく研ぎ澄まされた刃のような決意へと変わっていった。
リィナから聞いた、物資と寄付と言葉の流れ。
誰かが集める。誰かが送る。誰かが言葉で人を動かす。
その仕組みが残っている限り、また白い帆が来る。
またうちの子達が死に、人間達も死ぬ。
ならば、その仕組みを、送る前に止める。
ライラの決意は、どこまでも単純で、だからこそ一歩も退かない強さを持っていた。
「来てから止めるのは、もう嫌」
海風に向けて呟いた言葉は、すぐに波音の中に消えていった。
カイザーが、低く喉を鳴らす。
ライラは、その横顔に手を置いた。
「終わらせる」
その声もまた、海風に溶けた。
◆
その頃、ルミナリア法国の沿岸部では、不穏な噂がまだ噂のまま、人々の間で漂っていた。
漁村の酒場で、港町の荷揚げ場で、沿岸砦の兵舎で。
人々は、生還した一万人の兵達が持ち帰った話を、怯えながら小声で語り合っていた。
海が動いた。
船より巨大な影が船底を砕いた。
空から無数の竜が降った。
無人の鋼の塔が火を吹いた。
最後には山のような獣が並び、その背に白銀の髪の少女が立っていた。
「敗戦の恐怖が見せた、哀れな悪夢だろう」
「十万の軍勢が敗れたとなれば、王国にそう言い訳もしたくなるさ」
「魔王を大きく見せるための、ただの虚飾だ」
人々はそう言って笑い合おうとしたが、その声はどこか強張っていた。
帰ってきた兵の、あの光を失った虚無の瞳を見た者は、まともに笑うことなどできなかった。夜になると、負傷者の収容所から「海が動く」「鋼の塔が火を吹く音が聞こえる」と悲鳴を上げる声が、不気味に響いていた。
それでも、彼らはどこかで信じていた。
そんな怪物が、現実の海を渡って、自分達の目の前に現れるはずがない、と。
◆
三日目の朝。
法国沿岸の空は、白く深い霧に覆われていた。
灯台の見張りは、最初、それを沖合に浮かぶ奇妙な岩礁の群れだと思った。
水面の上に、黒い突き出た影がいくつも並んでいる。
「……岩礁か? いや、あんな場所に岩など――」
彼は望遠鏡を覗き込み、次の瞬間、全身の血の気が一気に引いた。
岩礁が、進んでいた。
それも、水面の下を音もなく滑るように動く、巨大な影の背に乗って。
「沖合に、正体不明の影多数!」
見張りの金切声のような絶叫が、灯台から響き渡った。
「船ではありません! 海の上に……平台を載せた巨大な影が接近しています!」
沿岸砦の兵達が慌てて見張り台へ駆け上がる。
彼らは一様に、言葉を失って立ち尽くした。
海面を悠然と滑る平台。
そしてその上に直立する、朝日に照らされた凄まじい質量。
それは、見間違いようのない、山のような牙の獣達の軍列だった。
「帰還兵達の報告と……一致する……!」
その絶望の呟きと共に、沿岸砦の鐘が、悲鳴のように激しく鳴り響いた。
◆
法国の沿岸が見えた時、ライラは先頭を進むカイザーの平台の上に、真っ直ぐに立っていた。
遠くに見える、白い石壁の港町。
翻る聖印の旗。
沿岸の砦。
見張り台。
激しく鳴り響く警鐘の音。
カイザーは、ライラの背後でゆっくりと巨躯をもたげ、ギガノトサウルス達も平台の上で静かに身を起こした。
ライラは、自らの牙達に短く命じた。
「先に攻撃しない。逃げる船は追わない。港は壊さない。民には近づかない。でも、武器を向けたら――止めて」
海の上の平台で、地上の王達は静かに主の声を聞いていた。
「沈めるのは、最後」
それは侵略のための命令ではなかった。
けれど、あまりにも完璧な、沈黙の包囲だった。
沿岸から慌てて逃げ出そうとする漁船を、海のファミリア達は決して追わなかった。ただ、港外の広い海域を囲むようにして、ゆっくりと航路を塞いでいく。
その事実だけで、法国側は本能的に理解させられていた。
あれは、ただ壊しに来たのではない。
明確な目的を持って、こちらの喉元に刃を突き立てているのだ、と。
◆
急報は、沿岸砦から聖都へと一気に駆け抜けた。
伝令馬が石畳を激しく叩き、聖都の門前では兵達が慌ただしく民を内側へ避難させ、聖騎士達が顔を青ざめさせながら命令を待っていた。
その最悪の知らせは、聖座の白い広間へも届いた。
「沿岸に、巨大海棲魔獣群および地上獣群、多数襲来!」
伝令の声は、恐怖で完全に裏返っていた。
「海の上に平台を載せ、その上に巨大な牙の獣が数十頭、整然と並んで上陸を開始しております!」
十二枢機卿会の円卓の空気が、一瞬で凍りついた。
アレクシオ・レーヴェン枢機卿は、激しい目まいに襲われ、机を掴んだ。
「……本当に、来たか」
その声は掠れていたが、予感していた通りの戦慄があった。
敗者の悪夢ではない。
本物の災厄が、自らの正義を問うために目の前に現れたのだ。
マティアス枢機卿が、即座に立ち上がって厳命を下した。
「沿岸砦に厳命せよ! 絶対にこちらから撃つな! 神聖術も、砲撃も一切禁じる! 民をすぐに後方へ下げろ!」
「しかし、マティアス枢機卿! 奴らをこのまま上陸させるというのですか!?」
「撃てば、沿岸の港が一瞬で消え去るぞ」
マティアスの一言に、誰も反論できなかった。
グレゴール・マルセイン枢機卿は、いつもの柔和な微笑をなんとか保とうとしていた。
けれど、机の下で強く組まれた指先には、白くなるほどの力が入っていた。
敗北の数字は言葉で飾れる。
死者は殉教者という美名にすり替えられる。
けれど、海を渡って、自分達の喉元に直接乗り込んできた本物の牙は、いかなる聖句をもってしても、消し去ることなどできなかった。
◆
モサ艦隊は、港湾の防波堤近くでぴたりと動きを止めた。
先頭を進むモササウルスが浅瀬へと巨体を滑り込ませると、平台がわずかに傾き、そこにいたギガノトサウルスがゆっくりと身を起こした。
最初の巨獣が、平台から法国の砂浜へと、静かに足を下ろす。
重い足音が響くたび、砂浜の法国兵達の心臓が跳ね上がった。
巨体が陸へと降り、地面が重く震える。
次の一体。
また次の一体。
おびただしい数のギガノトサウルス達が、不気味なほどの沈黙を保ったまま、法国の石畳と砂浜へ次々と上がってくる。
吠えず、走らず、ただ整然と歩を進める。
その統率された規律こそが、兵達の精神を削り取っていった。
最後に、先頭の平台から、カイザーがその地を踏んだ。
平台の鉄骨が軋み、海が押し下げられる。
カイザーは一度だけ、法国の白い砦を静かに見下ろした。
威嚇の咆哮すらしない。
ただゆっくりと、主の歩みに合わせてその巨大な脚を踏み下ろす。
その圧倒的な地響きに、見張り台の兵がよろめき、その場に膝をついた。
腰を抜かしたのではない。
あまりの質量に、ただ立っていられなかったのだ。
ライラは、カイザーの傍らに静かに立ち、海風を浴びていた。
白銀の髪が揺れるその表情に、勝利の驕りも、復讐の激情もなかった。
あるのは、冷たく固まった、ただ家を守るための決意だけだった。
ひと月前、生還した兵達は「海が動き、最後には山のような獣が並んでいた」と語った。
人々はそれを、敗者の悪夢が膨らませた幻だと笑った。
だが今、ルミナリア法国の沿岸には、本物の黒い山が立ち並んでいる。
海と、牙が、一緒に来た。
それは噂ではなかった。
敗者の悪夢でもなかった。
海の上を進む黒い山々は、いま確かに法国の岸へ立っている。
最後に上陸したカイザーが、静かに前を向く。
吠えない。
威嚇もしない。
ただ、一歩を踏み出した。
その沈黙だけで十分だった。
アポカリプスは、ついに法国の岸へ足をかけた。