ルミナリア法国の海岸に、牙の軍勢が並んでいた。
港は壊されなかった。船も沈められなかった。逃げ惑う民衆も、決して追われなかった。
モササウルス艦隊は、港外の深い海域に留まっていた。
水面の下で、おびただしい数の巨大な影がゆっくりと輪を描いて回る。港から外海へと続く航路を、海の王者たちが完璧に塞いでいた。
けれど、彼らが防波堤を砕くことはなく、港内へ突っ込むこともない。恐怖に駆られて逃げ出そうとする小さな漁船に、その巨大な牙が向けられることは、ただの一度もなかった。
ただ、そこに、眠らない黒い岩山のように存在していた。
砂浜には、陸に上がったギガノトサウルス達が整然と並び立っていた。
平台から下ろされた牙の獣達は、砂浜と白い石畳の境界線に、静かに身を伏せている。重い四肢が砂を沈め、太い尾が潮風に低く揺れ、巨大な鼻先が、未知の土地の匂いを静かに嗅ぎ取っていた。
人間から見れば、彼らは一頭だけで街を灰にできる怪物そのものだった。
けれど、彼らは白い市街へ突っ込もうとはしなかった。武器を落としてへたり込む沿岸兵を踏み潰すことも、逃げ惑う人々を捕食することもしなかった。
そして――先頭のカイザーは、咆えなかった。
牙の王の黒い巨体は、朝の光をすべて吸い込むようにして重々しく直立していた。岩のように強固な頭部は、沿岸砦の見張り台よりもなお大きく、重い。
彼が一歩踏み出すたびに、砂浜全体が重低音を立てて震える。けれど、その恐るべき顎は固く閉じられたままだった。
その徹底された沈黙こそが、法国兵達の肺から酸素を冷酷に奪い去っていた。
彼らは、牙を剥いた無慈悲な襲撃を覚悟していた。次の瞬間には港が裂け、炎が街を焼き、無数の魔獣たちが民衆を蹂躙し尽くすのだと信じて疑わなかった。
けれど、何も起きない。何も壊さず、何も奪わず、威嚇の咆哮すら上げない。
それなのに、誰一人として、彼らの前進を止める術を持たなかった。
この怪物達は、暴れに来たのではない。
冷徹な目的を持って、ここへ来たのだ。
その事実こそが、無差別に襲われる恐怖とは根本的に異なる、心臓を直接凍らせるような恐怖となって、法国の人々の胸に静かに、深く落ちていった。
◆
ライラは、冷たい潮風の吹く浜辺に真っ直ぐに立っていた。
背後には、カイザーの圧倒的な影。その後ろには、海から這い上がってきた牙の山々。さらに沖合には、海を完全に封鎖したモササウルス艦隊の巨影。
丘の上では、砦の兵たちが青ざめた手で槍を構え、聖騎士たちが盾を震わせていた。見張り台の弓兵は冷たい汗に濡れた指で弦を引き絞り、神官たちは口の中で呪文のような祈祷句を必死に繰り返している。
それでも、誰一人として、最初の矢を放つ勇気を持てなかった。
ライラは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、短く、鋭く口笛を吹いた。
ピィ――。
その音は、聖都のどの警鐘よりも小さかった。神官たちの祈りの詠唱よりも細く、砦の指揮官の号令よりもずっと頼りなく聞こえた。
けれど、その一音だけで、海が、陸が、完璧に静止した。
港外を囲んでいた巨大な影が、一斉に速度を落とし、ただ穏やかな波紋だけを立てて水面下に留まる。浜辺に並んだギガノトサウルスたちも、ぴたりと動きを止めた。
前へ踏み出しかけていた一体が、静かに巨大な頭部を下げて待機姿勢に戻る。尾を不快そうに揺らしていた別の一体も、彫像のように硬直した。
誰も鎖で繋いでいない。鞭で打ったわけでもない。
ただ、少女が小さな口笛を吹いた。それだけで、十万の軍を一万にまで削った島の最後の門番たちが、当然のように応じてみせたのだ。
ライラは、静かに言葉を足した。
「ここで待って」
牙の獣たちが、無言で耳を伏せる。
「逃げる人は、追わない。私が呼ぶまで、動かないで」
カイザーだけが、ライラのすぐ後ろで静かに頭部を下げた。
「撃たれたら――殺さないで、止めて」
その「止めて」という言葉の本当の恐ろしさを、法国側は正確には理解できなかった。けれど、目の前で起きた現象の意味は、あまりにも明白だった。
暴れられる力があるのに、暴れない。
すべてを壊せる爪があるのに、壊さない。
その圧倒的な暴力を、一人の少女が完璧に抑えている。
聖騎士たちは、大盾の隙間からその姿を呆然と見つめていた。
災厄が、命令を聞いている。
その静寂の支配こそが、ルミナリア法国に対する、これ以上ない無言の宣言だった。
私たちは壊しに来たわけではない。――だが、いつでもすべてを壊せるのだ、と。
◆
ライラは、カイザーの足元へとゆっくり歩み寄った。
カイザーは吠えなかった。威嚇の地鳴りすら立てない。ただ、小さな主人が近づいてくるのを、静かに見つめていた。
そして、当然のように巨躯を低く伏せた。
それは、アルカノアの拠点では毎日のように繰り返されてきた、ありふれた暮らしの動作だった。ライラが背に乗る際、カイザーはいつもこうして、革の鞍が施された窪みを地面に近づけるのだ。
ライラは迷いのない手つきで足場を掴み、いつも通りの軽い動きでその背の上へと上がった。
見守る法国の兵たちには、その光景こそが、古い神話の禁忌の再現のように見えた。
山のような絶対的強者が、一人の少女のために膝を折る。少女は、その凶暴な玉座へ当然のように腰を下ろす。
カイザーが、ゆっくりと、重々しく立ち上がった。
空気の圧力が一層跳ね上がる。石畳が重い質量に耐えかねて低く軋み、周囲のギガノトサウルスたちはその歩みを静かに見守るように道を譲った。
モササウルス艦隊は、境界線を守ったまま動かない。
ルミナリア法国の石畳を踏みしめて進むのは、ライラと、彼女の駆るカイザーだけだった。
市街の通りを守るべき聖騎士の一人が、思わず数歩後ずさった。槍の穂先が激しく揺れ、金属の鳴る音が不気味に響く。
ライラは、そちらを見向きもしなかった。カイザーもまた、その喉を鳴らすことすらせず、ただゆっくりと、聖都の中心部へと向かって巨大な足を進めた。
◆
カイザーは走らなかった。
急がず、突進せず、街並みを破壊し尽くすこともなく、ただ一歩一歩、確実な地響きだけを立てて歩いた。
そのゆっくりとした速度こそが、何よりも恐ろしかった。
逃げる時間は、いくらでもあった。避難し、防衛の命令を出し、聖都の頑丈な城門を完全に閉ざす時間すら、十二分に残されていた。
それなのに、誰も彼らを止める方法を持たなかった。
ズシン。ズシン。
一歩ごとに、ルミナリア法国の歴史ある石畳が低く軋んだ。ところどころに細い亀裂が走り、重みに耐えかねた石片が乾いた音を立てる。
それでもカイザーは、建物にも人にも触れず、大通りの中央だけを進んでいた。
白い聖堂の街並みに、見たこともないほど巨大な影がゆっくりと伸びていく。
通り沿いの商店が、引きつった手つきで大急ぎで扉のボルトを締め、白地に金の聖印を染め抜いた祈り旗が風に激しく揺れ、逃げ遅れた民衆たちが通りにへばりつくように壁際へ下がっていく。
母親が、我が子の口を必死に塞ぐようにして胸に抱きしめていた。泣き声を出せば、あの通りの向こうの怪物がこちらを振り向くのだと、本能的に理解しているのだ。
老人が、小さな聖印を胸元で握りしめたままガタガタと震え、修道服の女が、祈りの言葉を唱えようとして、そのまま喉を詰まらせて声を失っていた。
カイザーは、誰も踏まなかった。
ただ、大通りの真ん中だけを悠然と進む。民衆が壁際に下がれば、それ以上の興味を示すことなく通り過ぎ、転んで泥に塗れた兵士がいれば、その巨体をかすかにずらして避けて通った。
その徹底された無関心が、人々の精神を余計に狂わせた。
魔王の獣なら、街を焼き払い、民を踏み潰し、その肉を喰らうはずだった。法国の教義が語ってきた「悪しき魔物」なら、何よりもまず血と破壊を求めるはずだった。
だが、何も起きない。白い聖印の旗は、傷一つなくただ海風に揺れている。
十字路の一角で、一人の若い聖騎士が、震える手で槍を真っ直ぐに構え直した。唇は真っ青になり、目は血走っている。それでも、彼は信仰と使命感だけで、その巨大な質量に向かって一歩踏み出そうとした。
「……槍を、向けるな」
掠れた、必死の制止の声が響いた。
声を上げたのは上官ではない。片腕に痛々しい白い包帯を巻いた、第一陣の生還兵だった。彼は通りの影から、全身を震わせて叫んでいた。
「構えるな……! 頼む、槍を下げてくれ……!」
若い聖騎士が驚愕して振り返る。
「だが、あれは魔王の――」
「向けたら、死ぬのは俺たちだけじゃない。この街が、一瞬で消えるんだ」
生還兵の虚ろな瞳は、もうカイザーを見ていなかった。彼の脳裏に焼き付いているのは、海を割った牙、空を埋めた翼、そして平原で中隊を塵にした無慈悲な鉄の光だった。
「戦いじゃなかった。あれは……向こうにとっては、ただの『片付け』だったんだ……」
若い聖騎士の槍の穂先が、ゆっくりと、力なく下がっていった。
カイザーは、彼らの横をただ無言で通り過ぎた。一瞥すら与えない。
その背の上のライラも、ただ前を見つめたまま、一言も発しなかった。
聖都の鐘が、悲鳴のように鳴り響き続けている。けれどそれは、神の勝利を称える凱旋の響きではなかった。
ただ、逃げ場のない破滅の到来を告げる、絶望の鐘の音だった。
◆
白い大理石の聖座の内側でも、慌ただしい足音が絶え間なく反響していた。
神官たちが重要書類を抱えたまま廊下で立ち尽くし、聖騎士たちが鎧の留め具を締め直しながら、狼狽した表情で命令を待ち受けている。
マティアス・ヴェルナー枢機卿の、冷徹な一喝が響き渡った。
「絶対に、撃つな」
廊下に、冷たい沈黙が走る。
「こちらからいかなる神聖術も放ってはならん。民を直ちに聖座の後方へ避難させよ。防衛線は敷くが、先に手を出すことは、この私が一切を禁じる」
「しかし、マティアス枢機卿猊下! あの魔獣はすでに市街へ侵入し、聖座へと向かっております! このまま無抵抗で通すというのですか!?」
「構えれば、その瞬間に聖都が戦場になり、この白い石壁はすべて灰になるぞ」
マティアスの氷点下の声音に、それ以上の反論は出なかった。
そのすぐ近くで、アレクシオ・レーヴェン枢機卿が、大理石の柱を掴んだまま真っ青な顔で立ち尽くしていた。
彼は知っている。あの島で、彼女たちが何をしたかを。
「攻撃しては、なりません……」
アレクシオは、喉の奥から絞り出すように言った。
「あれは……まだ、誰も殺していない。こちらが先に正義を叫んで刃を向ければ、次の一瞬で、すべてが本当に終わる」
クラリス・ベルティア大司教は、高い格子窓から市街の様子をじっと見つめていた。
白い街路をゆっくりと滑るように進む、絶対的な影。壁際に身を寄せ、震えながらそれを見送る民衆。
クラリスは、きつく唇を噛みしめ、その一つの「違和感」を見逃さなかった。
「……民を、襲っていないわ」
その呟きは、あまりにも静かだった。
「家も焼いていない。倒れた兵も、ただ避けて通っている。魔王なら……なぜそんなことをするの?」
誰も答えられなかった。
グレゴール・マルセイン枢機卿は、白い廊下の奥で静かに佇んでいた。
その柔和な顔には、貼り付けたような微笑がまだ辛うじて残っている。けれど、机の下で強く組まれたその白い指先は、小刻みに、激しく震えていた。
彼にとって、最悪のシナリオは「ライラが無差別に街を焼き払い、民を虐殺すること」ではなかった。
もし彼女が暴れ狂う魔王を演じてくれたなら、いくらでも言葉を整えることができたはずだ。「それ見ろ、やはり魔王は邪悪だ」「我々の聖戦は正しかった」「死んだ十万は、大義のための気高い殉教者だったのだ」と、人々の憎悪を煽り、再び仕組みを回す燃料にできた。
だが、ライラは何も壊さない。
民を殺さず、逃げる者を傷つけず、ただ真っ直ぐに、この聖座へ向かって歩いている。
明確な「意志」を持って。
ある特定の「目的」を、誰かを探し出すために。
その「誰か」が、自分自身であるという不気味な確信を、グレゴールは静かに感じ始めていた。
◆
ついに、白い石で築かれた聖座の巨大な大正門が見えた。
ルミナリア法国の信仰の中心。天を衝くようにそびえ立つ尖塔。白銀に輝く巨大な聖印。大階段の上で風に激しく揺れる、白地に金の聖印を掲げた祈り旗。
鐘の音は、いつしかその勢いを失い、途切れ途切れの虚しい余韻だけを残して静まり返っていった。
カイザーは、白い大階段の手前でぴたりと足を止めた。
門は壊さない。聖印を引き裂くこともない。ただ、巨大な壁のように、その前に佇んでいる。
それだけで、聖座の側は、外へ出ざるを得なくなった。
階段の上には、重武装の聖騎士たちが二重三重に列を成していた。盾を構え、槍を突き出し、必死に聖句を詠唱して祈りの防壁を張ろうとしている。
だが、誰一人として、大階段を駆け下りる勇気を持つ者はいなかった。
カイザーの頭上には、白銀の髪の少女が静かに座っていた。
まだ十代半ばにしか見えない、華奢な身体。泥にも血にも汚れていない、不気味なほど静かな姿。
けれど、その華奢な足元には、白い大階段を一歩で粉砕し得る「地上絶対の牙」が伏せている。
ライラは、何も言わなかった。ただ、じっと階段のてっぺんを見据えて待った。
その張り詰めた沈黙に耐えかねたように、重い大扉がゆっくりと開き、法国の最高指導者たちが姿を現した。
◆
大階段の最上段に、枢機卿たちと高位聖職者が並んだ。
先頭に立つのは、マティアス・ヴェルナー枢機卿。秩序の守護者は、顔色を青ざめさせながらも、最高実務者としての威厳を辛うじて保ち、大階段の上からライラを見据えていた。
その少し後ろには、クラリス・ベルティア大司教。
そして、敗北の責任をすべて背負い、欠けた聖印を胸に吊るしたアレクシオ。
そして――グレゴール・マルセイン枢機卿。
男は、いつもの柔和な微笑を顔に貼り付け、深く指を組んでいた。
教皇の姿は、そこにはなかった。聖座の奥深く、白い帳の向こうで、その絶対的な存在感だけを潜めている。
ライラは、カイザーの上から、彼らをただ冷徹に見下ろしていた。挨拶も、名乗りもしない。
マティアスが、口を開きかけた。
しかし、その実務の言葉が紡がれるより早く、グレゴールが滑るように一歩前へ出た。
彼は「言葉」で世界を支配してきた男だ。
どんな敗北も試練と言い換え、死を殉教と飾り、民衆の恐怖を巡礼と寄付の燃料に変える。どのような事態であっても、自分の言葉の仕組みの中へ引きずり込み、煙に巻くことができるという、確固たる傲慢さがあった。
だからこそ、彼は誰よりも早く、交渉という名の「言葉」を取りに動いたのだ。
グレゴールは、深く丁寧な一礼を施し、底の知れない柔らかな笑みを浮かべた。
「これはこれは、禁忌の島――いえ、アルカノアの主であらせられる――」
その先は、紡がれなかった。
ライラの指先が、ほんのわずかにカイザーの首筋で強張った。
それだけだった。
だが、カイザーには十分だった。
次の瞬間、牙の王が吠えた。
――グオォォォォォォォッ!!!
それは、獣の咆哮というより、大気が爆ぜ、地面そのものが軋む音に近かった。
聖座前の石畳が激しく震え、白い大聖堂の窓硝子が一斉に悲鳴を上げる。割れる寸前まで震えた透明な硝子の表面に、細かな霜のような亀裂が浮かんでは消えた。
大階段に並んでいた重武装の聖騎士たちの膝が同時に折れ、大盾を持ったまま地面へ崩れ落ちる。
祈りの詠唱は吹き飛ばされ、鐘の余韻は跡形もなく砕け、書記官の持っていた記録板が床に落ちて割れた。
咆哮は、誰も殺さなかった。
聖座の白い門も崩さなかった。
ただ――グレゴールのすべての「言葉」を、物理的に、完膚なきまでに吹き飛ばしたのだ。
グレゴールの微笑が、完全に消え失せていた。
口を不格好に開けたまま、その顔を引きつらせ、次の言葉を完全に失って立ち尽くしている。
ライラは、何も言わずにカイザーの首筋を優しく撫でた。
それだけで、牙の王はすっと息を整え、再び静まり返った。
聖座前に、再び、底知れぬ静寂が落ちる。
けれど、先ほどまでの静寂とは全く違っていた。今度の沈黙には、すべての正義の言葉を無化する、圧倒的な「暴力の予感」が満ちていた。
誰も動けない。誰も話せない。
その、人間の言葉が完全に剥ぎ取られた大階段の上で、ライラが初めて口を開いた。
大層な演説でも、降伏勧告でも、条件提示でもなかった。
ただ、これ以上自分の家に人を送らせないために、探している名前を確認する声だった。
「ねえ」
その声は、驚くほど小さかった。
けれど、聖座前の、誰もがそれを確かに聞き取った。
「グレゴールって、だれ?」
誰も答えなかった。
けれど、沈黙は平等ではなかった。
いくつもの視線が、ほんの一瞬だけ、グレゴール・マルセイン枢機卿へと向いた。