廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第54話 アルカノア

聖都は、滅びなかった。

 

白い大門は残されていた。翻る祈りの小旗も、巨大な大聖堂も、民の家々も、炎に包まれることはなかった。

 

黒い牙の王は去り、白銀の髪の少女も去り、港外を封じていた海の巨影達も、音もなく法国の海岸から離れていった。

 

――それでも、聖座は何一つ、元には戻らなかった。

 

大階段には、凍りついたような沈黙が未だにこびりついていた。

 

カイザーの咆哮が直接砕いたのは、大聖堂の窓硝子と、階段の下で割れた一枚の記録板にすぎなかった。けれど、彼らが掲げてきた誇り高き言葉の塔は、その土台から崩れていた。

 

昨日までなら、聖戦という言葉で民を熱狂させられた。

 

魔王という言葉で恐怖を煽り、殉教という言葉で若者達の死を美化できた。禁忌という言葉を盾にして、海の向こうの平穏な島を討つべき邪悪に仕立て上げることができた。

 

だが、今は違う。

 

歪んだ正義の歴史の上に、たった一枚の文書が重く横たわっていた。

 

――聖座・アルカノア間における、停戦確認および相互承認文書。

 

聖座は、この戦いが誤った判断に基づくものであったと認める。

 

リィナ・エルシアに対する魔女認定を取り下げる。

 

全戦死者に対して、なすべき義務を果たす。

 

禁忌の島、旧称アポカリプスを、以後アルカノアと称し、その自治権を認める。

 

まだ乾ききらないインクの重い匂いと共に、その約束は、大理石の床を割るほどの質量となって聖座へ押し付けられていた。

 

グレゴール・マルセイン枢機卿は、大階段の端に立ち尽くしていた。

 

白い法衣は乱れておらず、貼り付けた微笑すらも、辛うじてまだその形を保っていた。

 

だが、彼をこれまで守ってきた強固な盾は、もうどこにも存在しなかった。聖座の名も、正式な手続きも、信徒達の熱狂的な祈りも、殉教者という都合の良い物語も。それらを自らの保身に利用することを、教皇自身が許さなかったのだ。

 

マティアス・ヴェルナー枢機卿は、すでに冷静な実務の顔に戻っていた。

 

敗北の恐怖に身を震わせ、座り込んでいる時間など、彼には一秒もなかった。今、聖座がすべきなのは、無意味に怯えることではなく、あの少女に突きつけられた条件を一つ残らず履行することだった。

 

クラリス・ベルティア大司教は、震える指で胸元の聖印をきつく握りしめていた。

 

リィナの名を、これ以上泥の中に置いておくわけにはいかない。その強い決意が、一人の聖女を救えなかった深い罪悪感と共に、彼女の胸を締め付けていた。

 

アレクシオ・レーヴェン枢機卿は、大階段の下の虚無を見つめていた。

 

そこにはもう死者はいない。けれど彼の目には、あの霧深き島に置いてこざるを得なかった、数万の兵達の亡霊が、確かに見えていた。

 

彼らの死を、次の戦へ送るための薪にしてはならない。それこそが、一万人を連れて這いずり戻ってきた最高指揮官として、彼が背負うべき唯一の証言だった。

 

教皇は、手元の文書の写しを見つめ、静かに命じた。

 

「直ちに写しを作りなさい。――王国へ。各国の関連支部へ。そして、我が法国のすべての教区へ」

 

教皇の声は老いていたが、抗いがたい大石のように静かに落ちていった。

 

「リィナ・エルシアに対する魔女認定は、本日をもって即時取り下げる。王国支部へ訂正通達を送りなさい。追捕命令、処分扱い、これに関連するすべての異端指定を、本日付で無効化する」

 

クラリス大司教が一歩、前へ出た。

 

「通達文の確認は、私が責任を持って行います」

 

教皇は静かに頷き、マティアスを振り返った。

 

「再聖戦に関するすべての準備を停止。聖水倉庫と聖具管理局を直ちに封鎖しなさい。財務、巡礼、寄付金、聖具流通に関するすべての記録を監査下に置く。通信記録も、金の流れも、すべてだ」

 

階段の上に、乾いたさざ波のようなざわめきが広がったが、すぐに押し潰されるようにして消えた。

 

「第一陣の全戦死者の名簿を早急に作成し、遺族への公式な通知を始めなさい。弔意と補償の準備もだ。……死者を、次の戦の火種にしてはならない」

 

アレクシオが、深く頭を下げた。

 

「私が、すべての証言をいたします。あの島で何が起きたのか。何を誤り、何を突きつけられたのかを、過不足なく」

 

教皇は、その言葉を重く受け止めるように目を伏せた。そして最後に、グレゴールを見つめた。

 

「グレゴール・マルセイン」

 

グレゴールは、かろうじて顎を持ち上げた。

 

「聖下。私はただ、聖座の繁栄と職務を――」

 

「聖座の名を、これ以上そなたの個人的な盾にするな」

 

その一言で、グレゴールの言葉は完全にせき止められた。冷たい大理石の沈黙が、彼の周りだけを切り離すようにして満ちていった。

 

「そなたを、財務、巡礼、聖具、聖水に関わるすべての職務から即時更迭する。そなた自身を聖座内の監視下に置き、書簡、寄付記録、物資の承認記録のすべてを押収、監査せよ」

 

グレゴールの白い指先が、わずかに震えた。

 

処刑ではない。公の裁判でもない。

 

だが、彼がこれまで言葉の玩具として操ってきた文書と記録そのものが、今度は彼自身をがんじがらめにする冷たい鎖となったのだ。それこそが、彼にとって最も屈辱的な、言葉の敗北であった。

 

 

その日、聖座の白い廊下の奥では、おびただしい数の書記官達が震える手で同じ文言を繰り返し羊皮紙に書き写していた。

 

王国支部へ急送される、汚名返上の公式文書。

 

財務と聖水管理局へ向けた、冷たい封鎖命令。

 

寄付金の流れを根こそぎ暴くための押収監査令。

 

そして――。

 

聖座は、禁忌の島・アポカリプスを、以後アルカノアと公式に呼称する。

 

同地は独立した自治権を有する領域として扱い、いかなる軍事接近、討伐、聖戦認定の対象としない。

 

リィナ・エルシアに対する魔女認定は、これを取り下げる。

 

書かれた文字はまだ乾いておらず、かすかなインクの匂いを漂わせていた。

 

けれど、世界は、そのたった数行の記述に合わせて、静かに、劇的に形を変え始めていた。

 

 

ライラが島へ帰還したのは、それから数日後のことだった。

 

海が、先に主人の帰りを知らせた。

 

沖合の水面が朝の穏やかな光を浴びて大きく盛り上がり、巨大な黒い背が次々と海面を割った。モササウルス艦隊が、ゆっくりと、けれど確かに島の海へと戻ってきたのだ。

 

浜に控えていた海棲ファミリア達が、歓喜するように低い重低音で応えた。

 

遠くの崖からはワイバーン達が一斉に翼を広げ、小型のファミリア達が浜へ向かって無邪気に走り出そうとした。

 

「待って。まだ、近づきすぎないで」

 

リィナは彼らを静かに制止しながらも、自らの視線を沖合から逸らすことができなかった。

 

戻ってきた。

 

その事実が脳裏をよぎった瞬間、胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきた。けれど、すぐに冷たい不安がそれを覆い隠した。

 

ライラは無事なのか。傷を負ってはいないか。

 

モササウルス達が浅瀬へと巨体を滑り込ませた。平台の上から、ギガノトサウルス達が一体ずつ、重々しい足音を立てて砂浜へと降りていった。

 

行きと同じように、彼らを繋ぐ鎖はどこにもなかった。ただ、役目を終えた家族達が、静かに我が家へと戻ってきたのだ。

 

最後に、カイザーが地面を踏み締めた。

 

その背の上に、彼女はいた。

 

リィナは、思わず息を呑んだ。

 

ライラは無事だった。血に濡れているわけでも、白い服が破れているわけでもない。

 

けれど、その小さな顔には、勝利の驕りなど微塵もなかった。

 

目の焦点が、少しだけ虚ろに揺れていた。姿勢は乱れていないのに、どこか中身だけが空っぽになってしまっているかのように見えた。

 

激しい怒りでも、復讐の興奮でもない。ただ、極限の疲労だけが、彼女を包み込んでいた。

 

長い航路。聖都への無言の進軍。聖座前での決死の対話。文書。そして、帰り道。

 

すべてを一人で引き受け、やり遂げて帰ってきた者の顔だった。

 

小型のファミリア達が不安そうに鼻先を寄せ、シルヴィアが崖の上から静かに降りてきかけ、途中で翼を畳んで待機した。

 

ライラはカイザーの背から降りると、足元にすり寄ってきたディロフォサウルスの頭を、そっと撫でた。

 

「ただいま」

 

声はカサカサに掠れていた。別の子が寄ってきた。ライラはそちらにも手を伸ばした。

 

「ただいま」

 

一体ずつ抱きしめる力は残っていなかったけれど、触れられる子には、すべて触れた。

 

カイザーが静かに身を低くした。ライラはその頑強な鼻先に手を置いた。

 

「ありがと」

 

カイザーは、深く、低く、喉を鳴らした。

 

 

浜から少し上がった高台に、リィナは立っていた。

 

その傍らには、三人の人間が並んでいた。

 

一人は、お馴染みとなった王国軍の将官。一人は、眼鏡を直す学術院の教授。そして、ライラにとっては見慣れない、けれど明らかに周囲とは違う静かな重みをまとった男。王国の国王その人だった。

 

リィナはライラの無事な姿を確認すると、思わず一歩踏み出した。

 

「ライラさん!」

 

駆け寄ろうとして、彼女は傍らに立つ国王の存在に一瞬だけ躊躇した。けれど、国王は彼女の迷いを見抜いたように、静かに半歩、身を引いた。

 

――行け。

 

そう背中を押された気がして、リィナは礼儀も忘れ、砂を蹴ってライラのもとへと駆け寄った。

 

「ライラさん、お怪我はありませんか。本当に……無事なんですね」

 

「ない。……ただ、疲れた」

 

ライラの声はひどく掠れていて、リィナはもうそれ以上、質問を重ねることはできなかった。

 

ライラは、腰に吊るしていた小さな革の筒を外し、リィナへと差し出した。

 

「これ」

 

「これは……?」

 

「書いてもらった。条件、全部入ってる。……リィナのも」

 

リィナは、震える手でその筒を受け取った。

 

木製の蓋を開け、中の羊皮紙を慎重に取り出し、広げた。

 

最初に目に飛び込んできたのは、聖座の厳かな紋章印だった。

 

次いで、教皇の署名。マティアス、クラリス、アレクシオの副署。そして王国記録官の立会印。

 

リィナは、狂おしいほどに文字を追った。

 

聖座が先の戦いを誤りであったと認めたこと、戦死者への義務を果たすこと、そして――。

 

リィナ・エルシアに対する魔女認定を、正式に取り下げる。

 

喉が、激しく詰まった。

 

胸の奥底で、長い間張り詰めていた何かが、一音を立てて瓦解していった。それは安堵であったのか、それとも痛みであったのか、自分でも分からなかった。

 

魔女。

 

あの不条理な言葉は、ただの汚名ではなかった。リィナがこれまで必死に積み重ねてきた神聖術の研究を、人々を救い続けてきた日々を、すべて邪悪な嘘へと塗り替えようとする暴力だったのだ。

 

それが今、聖座自身の文書の上で、正式に取り下げられていた。

 

リィナは泣き叫びはしなかった。ただ、羊皮紙を握る指先が、小刻みに、激しく震えていた。

 

それでも、彼女は目を擦りながら読み進めた。そして、一つの記述に目が止まった。

 

「……アルカノア?」

 

そこに、見たことのない響きがあった。

 

禁忌の島、アポカリプス、魔王の棲家。外界が勝手に押し付けてきた恐怖の名前の代わりに、その美しく澄んだ名が刻まれていた。

 

「ライラさん……この名前は」

 

ライラは、ゆっくりと瞬きをした。

 

「名前。もう、禁忌の島じゃない。……うちの島。アルカノア」

 

ライラが、自分の大切な家に与えた名前。

 

リィナは、文書の上のその文字を、指先でそっと撫でた。

 

「……とても、いい名前です。アルカノア」

 

ライラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「うん。……寝る」

 

「ライラさん、せめてお水を少しだけでも」

 

「あとで」

 

「傷の有無だけでも、私が診ますから」

 

「ない」

 

「でも――」

 

「疲れた」

 

その掠れた声には、すでに一歩も動けないほどの限界が滲んでいた。

 

王国将官が声をかけようとし、教授がそれを止めようとした。その前に、国王が静かに一歩前へ出た。

 

将官が慌てて紹介しようとした。

 

「ライラ殿、こちらにおわすは我が王国の――」

 

ライラは、ぼんやりと国王の顔を見上げ、呟いた。

 

「……王様?」

 

一瞬、周囲の空気が硬直したが、国王は怒るどころか、静かに目を細めて微笑んだ。

 

「そうだ。私が王だ」

 

ライラは、小さく頷いた。

 

「そう。……寝る」

 

国王は、その小さな少女の、泥のように疲れ切った横顔をじっと見つめていた。

 

礼儀を弁えぬと咎めることも、不敬であると怒ることもできた。けれど、目の前の華奢な少女は、たった今、あの強大な法国の聖座へと直接乗り込み、海の牙と共にこの完璧な歴史の書き換えをもぎ取ってきたのだ。

 

国王は、静かに将官達へ手を上げた。

 

「起こすな。今は、彼女を休ませるべきだ」

 

ライラは、その配慮を聞いていたのかどうかも曖昧なまま、重い足取りで屋敷の奥へと歩いていった。シルヴィアが心配そうにその後をゆっくりと追いかけ、カイザーは、自らの定位置である正門の傍らへと静かに戻り、伏せた。

 

戦うためではなく、大切な家族の、平穏な眠りを守るために。

 

 

ライラが自室で深い眠りについた後、屋敷の一室で、改めて文書の確認が行われた。

 

大きなテーブルの上に広げられた、羊皮紙。国王、将官、教授、そしてリィナが、その前に厳かに立っていた。

 

教授が、感嘆の息を漏らした。

 

「アルカノア……。ライラ殿が自ら名付けたのですな。アポカリプスという外部の恐怖の呼称を退け、当人が示した名で記録させる。これは、認識の歴史において非常に大きな意味を持ちます」

 

国王も、その美しき名を見下ろした。

 

「ならば、我が王国も、その名で歴史に記録しよう。禁忌の島ではなく、アルカノアとして」

 

将官が、その軍事的な実務を冷静に整理した。

 

「これで、法国は公式に正面からの再侵攻の手段を失いました。聖座自身が自治権を認め、討伐対象から外したのですから。王国が曖昧な態度を続ける理由もありません」

 

「当然だ。我が国もまた、アルカノアを一つの独立した自治領域として扱う。接近禁止海域を設定し、王国の軍船であっても無断接近を厳に禁じる。研究目的であっても、許可なき接触は一切認めない」

 

教授が、少しだけ苦笑した。

 

「学術院の学者どもは、目の色を変えて反発するでしょうな。あそこには手付かずの禁忌の生態系があるのですから」

 

「だからこそ、厳格な法が必要なのだ」

 

将官の声は極めて冷静だった。

 

「無断上陸は侵略とみなし、軍事接近も、研究も、すべてはアルカノア側の許可制とする。踏み越えないための、強固な線が必要です」

 

国王は深く頷き、そして、静かに視線をリィナへと向けた。

 

「リィナ・エルシア」

 

その呼び名は、臣下を呼びつける冷たい響きではなかった。

 

リィナは、王国支部の聖女として、これまで何度も彼に報告書を上げてきた過去を思い出した。現場の監査結果、施術の改善手順。国王は彼女の報告をいつも真摯に聞き、予算を動かしてきた。彼にとって、リィナは信頼すべき王国の聖女だったのだ。

 

「そなたに、確認しておきたい。……王国へ戻る意思はあるか」

 

それは命令ではなかった。本人の心からの意思を問う、温かい声音だった。

 

リィナは、少しだけ目を伏せた。

 

「王国に戻る意思が、ないわけではありません。私は王国で学び、働き、陛下にも何度も報告の機会をいただきました。その忠誠と、救護の務めを捨てたつもりは決してありません」

 

リィナは顔を上げ、自らの細い指先を見つめた。

 

「ですが、私はまだ、ここを離れるわけにはいかないのです」

 

彼女は、かつて仕えた王の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「この島には、まだ聖水の残滓が深く染み込んでいます。浄化の終わらない土があり、傷ついたファミリア達がいます。そして何より、ライラさんも、まだ自らの傷を癒やしきれていません。……この島と、外の世界を繋ぐ、人間の確かな窓口が、今こそ必要なのです」

 

国王は、彼女の揺るぎない覚悟を静かに受け止め、深く頷いた。

 

「分かった。ならば、王国はそなたを無理に連れ戻すような真似はせぬ。ただし――王国支部所属の聖女としてのそなたの身分と名誉は、我が国が永久に保証する。法国の醜い誤認によって傷つけられたそなたの名を、そのままにはさせぬ」

 

教授も、優しく微笑んだ。

 

「リィナ殿の救護手順には、学術院も救われましたからな。今でも施療院の基本教本です」

 

将官も言った。

 

「王国は、そなたを罪人として扱う理由を、何一つ持たない」

 

自分の名前が、自分の人生が、ようやく自分の手元に戻ってきた。

 

その確かな感覚に、リィナの胸の奥が震えた。

 

けれど、リィナには、どうしてもこの王に確かめなければならないことがあった。

 

彼女は、国王を真っ直ぐに見据えた。

 

「陛下。……一つだけ、お伺いさせてください」

 

「何だ」

 

「王国は、今後、ライラさんを利用しますか」

 

部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。将官は表情を消し、教授は静かに目を伏せた。

 

国王だけが、リィナの鋭い問いを正面から受け止めた。

 

あれほどの強大な力、モササウルスやギガノトサウルスの軍勢を見れば、軍事的に、外交的に、あるいは研究対象として利用したいと願う者が、王国内部からも必ず現れる。それをリィナは懸念していた。

 

国王は、誤魔化さなかった。

 

「利用したいと願う愚者は、必ず現れるだろう。あれほどの力だ。欲しがらぬ国家など、世界に存在しない」

 

リィナは、視線を逸らさずに彼の次の言葉を待った。

 

「だが、少なくとも、この私が生きている限り、それを絶対に許さぬ」

 

国王は、羊皮紙の文書を静かに指し示した。

 

「我が国が、アルカノアと結ぶべきは、支配でも、甘い利用でもない。境界だ。互いに不可侵であることを誓い、踏み越えぬための、強固な線だ」

 

将官が、その言葉を補強するように頷いた。

 

「接近禁止海域を設定し、無断接近する王国の船は我が軍が身をもって制止します」

 

完全に無害な人間など、この世界には存在しない。リィナはそれを、法国の欺瞞のなかで嫌というほど学んできた。

 

だからこそ、甘い約束ではなく、踏み越えないための冷静な法を提示してくれた国王の誠実さに、リィナは心から救われるのを感じていた。

 

 

机の上に広げられた、たった一枚の羊皮紙。

 

かつて外の世界が勝手に押し付けてきた、不条理なアポカリプスという恐怖の記述は、今やその後ろへと退いていた。

 

代わりに、そこに刻まれた、一つの確かな名前。

 

――アルカノア。

 

島はまだ、深く傷ついている。浄化の作業は終わっておらず、ファミリア達の痛みも、ライラの胸の奥の悔恨も、すぐには消えない。

 

けれど、終わらせた平穏を守るための本当の仕事は、ここから始まるのだ。

 

リィナは、その愛おしい我が家の名を見つめながら、静かに微笑んだ。

 

「始めましょう」

 

国王が頷き、将官が記録を整え、教授が眼鏡の奥の目を光らせた。

 

ここはもう、禁忌の島ではない。

 

アルカノア。

 

その名が、ついに世界の文書に、確かに刻まれた。




これにて第二部完です
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