「法国第一陣より、紙の山の方がしぶといな」
アルヴァリア王国軍の将官は、机の上に積み上がった書類を見下ろし、低くそう呟いた。
軍幕舎の中には、紙とインク、そして封蝋の匂いが濃く満ちている。 紋章の刻まれた書簡、聖座通達の写し、アルカノア承認文書、王国軍の報告書、学術院からの覚書、商人筋が集めた情報紙、各国使節からの照会文――。
王国内部の貴族や商会からの接触希望にいたるまで、ありとあらゆる書類が山をなしていた。
戦争は終わった。少なくとも、剣と槍と聖水を持った十万の遠征軍は、もう二度と同じ形では動けない。 だが、終わったはずの戦争は、今度は「紙」の形をとって王国へ押し寄せていた。
向かいに座っていた学術院教授は、積まれた書簡の山を興味深そうに眺めながら、眼鏡の縁を直した。
「紙は撃っても減りませんからな」
「燃やすか」
「後世の史料が泣きますぞ」
「後世より先に、私の胃が泣いている」
「それはお気の毒に」
教授はそう言いながらも、その目は妙に楽しそうだった。将官はそれを横目で睨み、深くため息をつく。
「楽しんでいるな」
「まさか」
「目が笑っている」
「歴史の転換点に立ち会っているのです。学者として、目が死んでいたらそれこそ失礼でしょう」
「その目で不用意に島を見るなよ」
「見たいとは思います」
「思うな」
「思うだけなら、許されるはずです」
「お前達は、思ったことをすぐ計画書にする」
教授は否定しなかった。将官は、その貪欲な性質が一番気に入らなかった。
彼らは、あの島を見ている。 調査団として禁忌の海を越え、実際にあの地へ踏み入れた。シルヴィアの翼を、カイザーの影を、そしてライラという少女を見た。
あの島がただの魔物の巣ではなく、彼女とファミリア達の「家」であることを知っている。 だからこそ、机の上に積まれている書簡のいくつかが、どれほど破滅的な危うさを孕んでいるかも理解できた。
知らない者は、言葉だけで考える。 禁忌の島。旧称アポカリプス。巨大生物群。聖戦軍壊滅。自治権承認。未知素材。
そのどれもが、紙の上では扱いやすい記号に見えるのだろう。 だが、実物は違う。踏み込めば、返事が来る。それも人間の都合の良い言葉ではなく、牙と翼と海の深淵による、容赦のない返事が。
◆
将官は、最も上に置かれた聖座通達の写しを手に取った。白い羊皮紙には、厳かな聖印と共に、冷徹な文面が並んでいる。
――先の聖戦は誤った判断に基づくものであったこと。 ――リィナ・エルシアへの魔女認定を取り下げること。 ――禁忌の島アポカリプスを、以後『アルカノア』と呼称すること。 ――同地の自治権を認め、無断の軍事接近、討伐行動、聖戦認定の対象としないこと。
再聖戦準備の停止。戦死者名簿の作成、遺族への通知、弔慰と補償、責任調査。 聖水や聖具、財務の監査。 そして――戦死者を次の聖戦扇動に利用する説教の禁止。
将官は、文字を目で追いながら言った。
「再侵攻は、少なくとも表向きは不可能になった」
「表向き、ですか」
教授が問い返す。将官は通達を机に置いた。
「聖戦と名乗れぬだけで、愚か者が消えるわけではない。強硬派の残党は納得しないだろうし、地方教区も混乱している。第一陣の遺族は怒りと悲しみのどん底だ。そこへ、リィナ殿の魔女認定撤回だからな」
「聖座は、自分達が間違えたと公的に認めたわけです」
教授の声が、少しだけ低くなる。
「宗教国家にとって、敗北より重いのは、己の判断を『誤り』と記録することかもしれませんな」
「だからこそ、内側は荒れる」
将官は、別の報告紙を指で弾いた。
「施療院や地方教会から、聖水や聖具を引き上げた件も表に出始めている。補給に関わった部署への監査も始まった。グレゴール周辺の金香系人脈は、相当焦っているらしい」
「紙で人を動かしてきた者達が、今度は紙で縛られ始めたわけですか」
「皮肉を楽しんでいる場合ではない。王国がその証人になっているんだ。第一陣の生還者を受け入れ、記録した。聖座前で作成された文書にも、王国の記録官が立ち会っている。聖座だけの問題では終わらない」
「そのせいで、こちらへ紙が来る、と」
「そうだ」
将官は、うんざりしたように積み上がった書簡を見つめた。
「次の戦場は、この机の上かもしれん」
◆
教授は、アルカノア承認文書の写しを手に取った。目を細め、何度目か分からないほどその名をなぞる。
「アルカノア」
声に出すと、将官が視線だけを向けた。「気に入ったか」
「名というものは、ただの飾りではありませんからな」
教授は、文書の一文を指先で辿った。
「『禁忌の島』と書けば、人は恐れて遠ざけるか、討つべきものと見る。『アポカリプス』と書けば、滅びの象徴になる。ですが、『アルカノア』と書けば、そこには主がいて、境界があり、意思があることになる。地図に記す名が変わるだけで、人の認識は変わるのです」
将官は腕を組んだ。
「なら、地図屋には最初に叩き込ませねばならんな。そこは空白ではない。獲物でもない。踏み込めば返事が来る場所だ、と」
教授は、少しだけ笑った。「軍人らしい注釈ですな」
「学者向けに柔らかく言い換えるか?」
「いえ。むしろ、そのままの方が効くかもしれません」
王国の立場は、極めて微妙だった。 アルヴァリア王国は、島の実在を最初に公的に確認した国であり、法国聖戦軍の証言を記録した外部証人でもある。そして今、アルカノアと外界をつなぐ数少ない窓口になりつつあった。
だが、それは支配を意味しない。 王国は、あの島を動かせない。ライラに命じることも、ファミリア達を戦力として借りることもできない。将官は、それを誰よりも現実的に理解していた。
「我々は、あの島を動かせるわけではない」
「では、王国にできることは?」
「余計な者を近づけないことだ」
即答だった。
「無断上陸禁止。軍事接近禁止。研究目的でも許可制。国内の貴族や商人が勝手に接触することも抑える。王国が支配していると誤解されないよう、各国へ明確に説明する。仲介者、記録者、連絡窓口――それ以上になれば、踏み越える。踏み越えれば、次に踏み潰されるのは王国側だ」
◆
次に将官が手に取ったのは、帝国から届いた書簡だった。 封蝋は分厚く、文面はどこまでも礼儀正しい。だが、その隙間から、軍事大国特有の冷たい計算がにじみ出ていた。
法国第一陣の壊滅的敗北の事実確認。アルカノアの戦力規模についての照会。王国とアルカノアの関係性への確認。海域警戒情報の共有要請。
教授が、将官の顔を覗き込む。「帝国は動きますかな」
「動くな。攻めてはこない。攻められないと確認するために、全力で調べる」
「つまり、研究者と軍人が同じ顔をするわけですな」
「やめろ。否定できん」
教授は軽く笑い、将官は真顔のまま続けた。
「帝国は馬鹿ではない。法国第一陣の壊滅を見て、正面から同じことを繰り返すとは思わん。彼らがやるのは戦力評価、距離の確認、対抗策の研究だ。法国の失墜を外交的好機と見る動きもあるだろう。敵ではないが、完全な友でもない。国とはそういうものだ」
「法国のように信仰で突っ込んでくる相手より、計算する相手の方がましですか」
「計算の結果、欲を出さないならな。だからこそ情報を出す。隠しすぎれば勝手に覗きに来るし、出しすぎれば利用を考える。加減を間違えると、また死人が出る」
「紙の戦争、ですな」
「お前は本当に嫌な言い方をする」
「事実です」
◆
商業都市連盟からの書簡は、帝国のものとはまったく違う匂いがした。 送り主は一つではない。商会、航路組合、保険組合、素材取引連盟、港湾評議会――。
内容も、実に商業都市らしかった。 航路の再設定、航行保険料の算出、未知素材に関する取引の可能性。そして――まだ誰も許していないのに、すでに値付けされ始めているファミリアの鱗、牙、羽、卵に関する噂。
将官は、露骨に嫌な顔をした。
「商人は、軍より早く危険に近づくことがある」
「利益が見えるからですな」
「利益しか見えていないからだ」
教授は、少しだけ首を傾げた。
「未知の素材、未知の生態。値をつけたくなる気持ちは分からなくもありません。学者ですので」
「だから学者も同類だと言っている」
「心外ですな。学者はまず分類します」
「その次に採取するんだろう」
「否定しきれませんな」
将官は、商会からの一通を机の端へ押しやった。
「許可制度を作る前に、勝手に近づく船が出る。商人筋には、最初に明確に通達する。アルカノア近海への無断接近は、王国港湾令に基づく処罰対象にする。保険料以前に、出航許可を出させん。弱ければ、沈むのは商船だ。そして沈んだ後、遺族が文句を言う先は王国になる」
「なるほど。紙の山が増える、と」
「そこか」
「いえ、人命も大切です」
教授は真顔で言ったが、将官は疑わしそうな目で睨み返した。
◆
次に教授が手に取ったのは、学術都市セントリアからの照会文だった。見た瞬間、将官は顔をしかめる。「厚いな」
「量だけなら法国より厄介です。全員、丁寧な言葉で『見たい』と書いてあります」
「却下だ」
「まだ読んでおりませんが」
「読まなくても分かる」
教授は、実に残念そうに書簡をめくった。 巨大生物の生態、空竜の飛行構造、海棲巨大生物群の行動圏、既存魔法体系では説明しきれない技術痕跡。
読み進めるほど、教授の目が少しずつ輝いていくのを、将官は見逃さなかった。
「目」
「何か?」
「輝いている」
「学者ですからな」
「だから信用ならん」
教授は、苦笑しながら書簡を置いた。
「もちろん、私も見たいですとも。見たいに決まっています。あの島は、あらゆる分野において前代未聞の対象です」
「却下」
「最後まで聞いてください。ただし――」
「ほら見ろ」
「ただし、見たいという理由だけで踏み込んでよい場所ではない。それは理解しております。実物を見ましたからな。許可制、正式な手続き、アルカノア側の負担にならぬ人数と期間。リィナ殿や王国側窓口の同席。採取禁止、接触禁止区域の設定。最低でも、それらが必要です」
「その理性が残っている学者だけを相手にしたいものだ」
「残っていない学者を止めるのも、我々の仕事になるでしょうな」
「勘弁してくれ」
将官は額を押さえた。 戦いの終わりと、これから始まるものの気配は、すでにこの書簡の山の中にあった。外交、研究、接触希望、利権、許可申請。 剣ではなく、紙で押し寄せる波だった。
◆
ルミナリア教各国支部からの反応は、最も複雑だった。教授は、王国支部から届いた写しを慎重に開く。
リィナ・エルシアの魔女認定撤回。聖座判断の誤り。アルカノア自治権承認。戦死者を次の聖戦扇動に利用する説教の禁止。聖水、聖具流通の監査。
将官は腕を組んだ。「信徒は荒れるか」
「信仰そのものが揺れるというより、聖座の権威が揺れたのです。現場の信仰は、人を治し、祈り、弔うためにあります。少なくとも、多くの地方教会や施療院ではそうです。ですが、権威が誤った時、現場がそれにどう向き合うかが問われる」
「リィナ殿に、また書類が集中するな」
「でしょうな」
教授はため息をついた。 「彼女ほど、信仰と現場とアルカノアを同時に語れる者は少ない」
「だからこそ、王国側にも窓口が必要だ。全部を聖女一人に背負わせれば、また別の形で壊れる」
その言葉に、教授は小さく頷いた。 リィナは法国所属ではない。ルミナリア教アルヴァリア王国支部所属の聖女である。魔女認定が取り下げられた今、彼女の名誉は戻り始めている。だが、名前が戻ったからといって、負担が消えるわけではない。むしろ、今後は彼女にしか届かない問いが増える。
アルカノアとは何か。ライラとは誰か。ファミリアとは魔物なのか。信仰は、権威の誤りとどう向き合うのか。それをすべてリィナ一人に背負わせれば、王国もまた別の過ちを犯す。
「人が必要だ。書類を受け、仕分け、断り、通す。アルカノア側に何を渡すべきかを考える場所がいる」
「総合的な事務局、ですかな」
「名前は何でもいい」
「いえ、名前は大事ですぞ」
「今は中身の話をしている」
教授は少し笑った。だが、その目は真剣だった。
◆
小国や辺境国からの書簡には、野心よりも恐怖が滲んでいた。法国第一陣が壊滅寸前まで追い込まれたという事実は、あまりにも巨大すぎた。
自国からアルカノアまでの距離。海路上の危険性。自国船が誤って近づいた場合の対応。 王国はアルカノアを制御できるのか。王国があの島を支配しているのか。もしそうなら、王国の軍事力はどう変化するのか。
将官は、ある小国の使節文を読んで、短く言った。
「制御などできん」
「そう返すのですか?」
「返す。嘘をつくよりましだ」
「では、どう説明を?」
「踏み込まなければ、向こうから来る理由はない。今のところはな」
教授は、その言葉をしばらく考えた。「正確ですな」
「正確すぎて不安になるかもしれん」
「曖昧に安心させるよりはよろしいでしょう」
「それはそうだ」
王国は、アルカノアの支配者ではない。だが、連絡が取れる数少ない国として見られ始めている。その立場は、利点でもあり、危険でもあった。各国は王国へ聞き、王国は答える。その答え方一つで、アルカノアへの認識が変わる。 だから、言葉を選ばなければならない。だが、選びすぎて嘘になってもいけない。
将官は、書簡を机に置いた。
「難儀だな」
「戦場よりは静かです」
「静かすぎる戦場もある」
「名言ですかな」
「ただの愚痴だ」
◆
王国内部からの書簡は、ある意味で外より厄介だった。 現実派の貴族は、国王方針への支持を示している。
一方で、アルカノアを外交カードにしたがる者もいた。ファミリアの力を軍事利用できないかと考える者。研究利権を求める者。交易利権を狙う商会。王国がアルカノアを保護していると宣伝したがる者。
将官は、一通を読んで眉間に皺を寄せた。
「外より先に、内を止める必要があるかもしれん」
「王国にも欲はありますからな」
「海の向こうより、王都の机の上の方が厄介なこともある」
「それはまた、嫌な現実ですな」
「あれを使えると思う者は、実物を見ていない者だ。見れば諦める、まともならな。まともでない者は――書類で止める。駄目なら兵で止める。それでも駄目なら、島に近づく前に首根っこを掴む」
教授は、少しだけ肩をすくめた。「軍人らしい」
「学者が勝手に近づいても同じだ。お前個人ではなく、お前達全体への釘だ」
「太い釘ですな」
「必要なら杭にする」
教授は、そこでようやく黙った。将官の冗談は、半分ほど本気だった。
◆
ふと、教授が窓の外へ視線を向けた。
「世界史の転換点を作った本人が、今頃寝ているわけですな」
「寝かせておけ」
将官は、即座に言った。「起こした者から、私が止める」
「将官閣下が一番過保護では?」
「あの方を起こしてまで聞くべき話など、今の書類の山には一つもない」
教授は、少しだけ表情を和らげた。
ライラは、世界征服など望んでいない。国を動かそうともしていない。ただ、自分の家を守った。その家へ十万の軍勢が押し寄せたから止めた。そして、もう来ないように線を引かせた。それだけのことだった。
だが、その結果として世界は激しく揺れている。
「魔王でも、救世主でも、外交兵器でもない。ただ、自分の家を守った少女ですか」
「その少女の家に、十万が押し寄せた。次は書類が押し寄せている」
「どちらも、放っておけばろくなことになりませんな」
「だから大人がやる」
「紙相手に?」
「紙相手に」
将官は、羽ペンを取った。「戦争の次は、書類か」
「歴史とは、だいたい血と紙でできておりますからな」
「嫌な言い方をする」
「事実です」
「なら、せめて次は血を減らせ」
教授は、机の上の白い羊皮紙を見た。「そのための紙、というわけですな」
将官は、わずかに頷いた。 やることは山ほどある。アルカノアを正式名称として記録する。旧称アポカリプスを注記する。無断上陸、軍事接近禁止を明文化する。研究目的の接触も許可制にする。王国が支配者ではなく仲介者であると各国へ説明する。
リィナ一人に負担を集中させない。王国内部の利権狙いも止める。各国からの問い合わせに返答する窓口を作る。アルカノア側の負担にならない接触手順を整える。 剣を振るより、よほど面倒で、果てしのない仕事だった。だが、これを怠れば、また誰かが海を越える。今度は調査許可証や商船旗を掲げて。それでも、踏み越えることに変わりはない。
◆
教授は、書類の上に記された名を見つめた。
「アポカリプスではなく、アルカノアか」
将官は、窓の外を見た。遠く、まだ見えない海の先に、その島がある。今は静かに眠る少女と、彼女のファミリア達の家がある。
「名前が変われば、世界の見方も変わる」
教授が言う。将官は、少しだけ間を置いて答えた。
「ならば、我々の仕事は一つだ」
「記録することですかな」
「違う」
将官は、窓の外から机の上の書類へ静かに視線を戻した。
「踏み越えないことだ」
教授は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと頷く。
机の上では、各国から届いた書簡がまだ山を作っていた。 戦争は終わった 。だが、終わった戦争の後に引くべき線は、まだどこにも書かれていない。
その線を引くために、王国の夜はもうしばらく明けそうになかった。
質問、リクエスト、アドバイスなどがあれば、いつでも受け付けています。
設定について気になること、見てみたい番外編、もっと掘り下げてほしいキャラクターやファミリア、分かりにくかった部分などがあれば、気軽に教えていただけると嬉しいです。