廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第6話 門を開ける前に

ここを「家」だと思ったからこそ、翌朝になって最初に浮かんだのは、安心ではなく責任だった。

 

眠れたのか、眠れなかったのかはよく分からない。ベッドに横になった記憶はある。 窓の外でシルヴィアが時折身じろぎする音も、正門の方から響いたカイザーの低い呼吸も、小型区画から聞こえた小さな寝言のような鳴き声も、すべて耳に残っている。 けれど、目を閉じている間も、頭の中ではずっと同じ景色が回り続けていた。

 

高い外壁、増築だらけの通路、広すぎる居住区、奥にしまわれたあの青白く光る冷たい設備、柔らかな寝床、低い餌場、水場、工房。 昨日、この場所を家だと思った。まだ名前はないし、胸を張ってそう呼ぶには少しだけ怖い。けれど、拠点でも城でも工場でもない、もっと近くて、もっと温かい何かだと感じたのだ。

 

だからこそ、朝になって冷静さを取り戻した時、最初に考えなければならない現実が見えた。

 

「……暮らすって、食べるってことだよね」

 

ぽつりとこぼした声に、窓の外でシルヴィアが顔を上げた。精悍な竜の顔が 、窓枠の向こうからじっとこちらを覗き込んでくる。目覚めたばかりの頃なら、その圧倒的な姿を見るだけで胸がいっぱいになっていたかもしれない。 でも、今は違う。

 

嬉しい、安心する、可愛い、大切だ――その感情のすべての奥に、別の重い現実がのしかかっている。 シルヴィアも食べる。カイザーも食べる。ギガノトたちも、ティラノたちも、カルカロたちも、ワイバーンたちも、小型組も、拠点で暮らすだけの子たちも、採取組も。 まだちゃんと見に行けていない、水の中の子たちだって、いるなら当然食べる。食べるなら、膨大な食料がいる。 大切な子たちを飢えさせるわけにはいかない。ベッドから降り、足が床に触れた瞬間、昨日よりも少しだけ、この部屋が自分のものに近づいた気がした。

 

「確認しなきゃ」

 

まずは、餌場と倉庫。そして、その後は外だ。この家の中だけを見ていても、きっと答えは出ない。みんなとここで生きていくなら、家の外側の世界を知らなければならない。

 

 

廊下に出ると、拠点の朝は静かだった。 もちろん、普通の家の朝とはまるで違う。遠くで大型の子が寝返りを打つたびに床がかすかに震え、高所ではワイバーンの翼が空気を押す重い音がする。小型区画の方からは、餌場の周りを歩く小さな足音がいくつも聞こえていた。

 

それでも、昨日のような圧倒されるだけの恐怖はなかった。ここにいるのは怪物ではない。私のうちの子たちだ。そう思えるようになっただけで、同じ音が少し違って聞こえた。

 

広場へ出ると、シルヴィアが待っていた。部屋から出てくるのを当然のように見張っていたらしい。本当に距離感が近い。 「おはよう、シルヴィア」 声をかけると、嬉しそうに喉を鳴らした。

 

「これから倉庫を見るから。ちょっと待ってて」 シルヴィアは首を傾げた。ついてくる気満々の顔をしている。 「そこ、あなたが入るには狭いから」 そう言うと、分かりやすく不満そうに、フンスと鼻を鳴らした。

 

朝日を受けた紫の鱗も、身体の内側を走る青白い光も、本当に綺麗で迫力がある。なのに、この絶妙な反応のせいで、どうしても威厳が長続きしない。私は少し笑って、その鼻先を撫でた。 「すぐ戻るから。カイザーのところで待ってて」

 

納得しきれていない顔をしたまま、それでもシルヴィアは正門の方へ視線を向けた。 そこにはカイザーがいる。黒い巨体は昨日と同じように、正門近くで静かに伏せていた。視線を向けると片目がゆっくりと開く。

 

「カイザーも、おはよう」 声をかけると、低い音が返ってきた。地面の下で石が動いたような、重く落ち着いた地鳴り。それだけで、正門の周りの空気がぴりっと引き締まる。本当に頼もしい。でも、今日はその頼もしさに甘えるだけでは駄目だった。

 

 

作業場と倉庫が集まる工業区画へ向かう。一歩入ると、ひんやりとした涼しい空気が肌に触れた。 巨大な箱が整然と並ぶ棚、素材ごとに区分けされた置き場、肉やベリー、乾いた保存食がまとめられたストレージ。

 

一つずつ中を確認していく。肉はある。ベリーもある。保存できそうな食料もある。貯水槽にはまだ十分な量が残っているし、薬も最低限は揃っていた。 最初は、少しだけ安心した。 「……ちゃんとしてる」

 

肉の保管場所にはまだかなりの量があったし、小型組用の餌もある。これなら、すぐにどうこうなるわけではない。 そう思った。けれど、その安心は長くは続かなかった。

 

肉の置かれた場所を見つめながら、ゆっくりと拠点の奥を振り返る。カイザー、ギガノト軍団、カルカロたち、ティラノたち、ワイバーンたち、そして小さな子たち――。 みんな、生きている。それは絶対の当たり前なのに、その事実が、急に恐ろしくなった。

 

「……これ、減るんだ」

 

声に出した瞬間、背筋が冷たくなった。 減る。本当に減るのだ。ただ数字としてそこにあるデータではない。この子たちは、本当に食べる。本当に腹を空かせる。補充しなければ、いつか必ず尽きる。

 

ある。たくさんある。けれど、たくさん食べる子たちが、それ以上にもっとたくさんいる。その事実に、口の中がからからに乾いた。 今すぐ飢えるわけではない。十分な備蓄はある。でも、それは永遠ではない。ただの猶予だ。

 

ここで生きていくなら、食料を安定して得る仕組みが必要だった。肉を確保し、食べられる植物を見つけ、水場の安全を確認しなければならない。 草食の子たちが食べられる広大な草地が必要だし、肉食の子たちの狩場も考えなければならない。木材、石材、繊維、薬草。補修に使うもの、怪我をした時に必要なもの。全部、いつか減る。

 

外を知らなければならない。

 

 

倉庫を出ると、外から入ってくる風の匂いがした。草、土、海。まだ何も知らない、むき出しの自然の匂い。

 

その匂いを吸い込みながら、もう一度、うちの子たちの居住区を見て回った。自分なりに、できる限り快適にしたつもりだった。そのはずだった。けれど、食料や外のことを考え始めた後に見ると、少しだけ息苦しく感じられた。

 

狭いわけではない。人間から見れば十分すぎるほど広い。でも――空が足りない。風が足りない。のびのびとした水辺が足りない。 ワイバーンたちの高所では、一体が外の空をじっと見つめていた。正門近くでは、カイザーが外から入ってくる風に鼻を鳴らした。小型組の何体かは、日差しが差し込む場所へ集まっている。

 

シルヴィアは、私の方を見てから、外へ続く門をちらりと見て、また私を見る。

 

「……外、行きたい?」

 

言葉は返ってこない。けれど、シルヴィアは翼を少しだけ広げた。それだけで十分だった。

 

この場所は家だ。でも、家は閉じ込める場所ではない。帰ってくる場所だ。 その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。出ていける場所でなければ、帰ってくる場所にはならない。朝になれば外へ出て、空を飛び、地面を歩き、必要なものを食べて、疲れたら戻ってくる。そんなふうに過ごせるなら、きっとその方がいい。

 

門を開けたい、と思った。この子たちが自由に出入りできるように。 けれど、そう思った直後、首を横に振った。

 

駄目だ。今すぐ開けるのは、絶対に違う。 外には何がいるか分からない。昨夜聞こえた正体不明の咆哮、草原に残っていた巨大な足跡、空を飛んでいた翼竜、深い森、荒れた海。 それに、危険は外から来るだけではない。逆もある。肉食組が狩りすぎれば近くの獲物がいなくなるし、大型組が歩くだけで地形が変わる。

 

自由にしたい。でも、自由にした結果、誰かが傷ついたら何の意味もない。 シルヴィアの鼻先にそっと手を置いた。

 

「まず、私が見る」

 

大きな瞳が私を見る。

 

「すぐに全部開けるわけじゃないよ。食べ物がどこにあるか、水が安全か、どこまで行っても大丈夫か。それを先に調べる」

 

シルヴィアは少し不満そうに喉を鳴らした。自分なら飛べる、自分ならすぐ見てこられる、そんなふうに聞こえた。

 

「うん。だから、シルヴィアには一緒に来てほしい」

 

そう言った瞬間、シルヴィアの目が分かりやすく変わった。得意げ。本当に、これ以上ないほど得意げだった。胸を張るように首を上げたその姿に、私は小さく笑ってから、正門の方を見た。

 

「カイザーは留守番ね。カイザーを連れて行くと、周りへの影響が大きすぎると思う。それに、ここを守っていてほしい」 カイザーはしばらく私を見ていたが、やがて確かな了承のように、低く喉を鳴らした。 「お願いね」 もう一度そう言うと、静かに目を細めた。それだけで、正門の安心感が跳ね上がる。

 

 

次に、主任のいる工房へ向かった。主任はヘルメットを被ったまま、作業場の前に座っていた。昨日と同じように静かで、でもどこか落ち着いている。 その周りには水袋、保存食、採取用の袋、布、包帯、それから簡単な道具類 が、妙に的確に並べられていた。まるで、外へ出るなら必要になるものを、分かっていたみたいに。

 

「主任って、そういうことできたっけ」

 

思わず呟く。主任は答えない。ヘルメットの下で、じっとこちらを見ているだけだ。 昔はふざけて背中に乗って遊んでいた子だったのに、今は少しだけ頼もしく見える。

 

「ありがとう。借りるね」

 

主任はまた、ゆるく片手を上げた。

 

過剰な装備は持たない。奥の方に、青白い光を宿すもっと強力な装備があるのは分かっているけれど、 今は違う。家の周りを見に行くのに、あれを持ち出したいとは思わなかった。あの冷たい光は、まだこの場所の朝に合わない。 それに、シルヴィアがいる。最初の調査なら、それで十分だ。

 

 

荷物をまとめ、中央広場へ戻った。シルヴィアが待ち、カイザーが正門で静かに控え、高所のワイバーンたちがこちらを見ている。工房の前には、ヘルメット姿の主任が立っている。

 

「……少し、外を見てくる」

 

声は大きくなかったけれど、拠点の中は静かだったから、ちゃんと全員に届いた気がした。 「食べ物がどこにあるか、水が安全か、危ない場所がないかを見てくる。シルヴィアと一緒に行く。空から見た方が分かることもあると思うから」

 

ワイバーンの翼が小さく動き、小型区画から短い鳴き声が返る。カイザーが低く息を吐くと、それだけで正門付近の空気がびりびりと震えた。

 

「大丈夫だって分かったら、みんなで外に出られるようにしたい。ちゃんと帰ってこられるようにして。だから、もう少しだけ待ってて」

 

言い終えると、拠点の中にいくつもの音が重なった。低い唸り、短い鳴き声、翼が動く音、爪が床を擦る音。言葉ではない、確かな返事だった。

 

「ちゃんと帰ってくるから」

 

シルヴィアが、ぐい、と鼻先を寄せてくる。いつも通り近い。

 

「うん。あなたも一緒に帰ってくるんだからね」

 

正門の方へ歩いた。分厚く、重く、拠点を守るための大門。昨日までの私にとって、門は危険を入れないためのものだった。でも、今は少し違って見える。この門は、開くためのものでもあるのだ。外に出るために。そして、帰ってくるために。

 

「行ってくるね」 門の前で立ち止まると、カイザーは低く鳴いた。主任が少し離れた場所で片手を上げる。

 

ゆっくりと仕掛けを動かす。がこん、と重い音がして門のロックが外れ、重い扉が少しずつ開いていく。 流れ込んできたのは草、土、海、まだ知らない生き物の気配――。

 

シルヴィアが私の横に立ち、翼を大きく広げた。朝の光を受けて紫がかった鱗が美しく輝き、青白い光が身体の内側をゆっくりと流れる。見た目だけなら本当に空の王みたいだった。でも、私を見る顔はどこか得意げで、やっぱり少し威厳がない。

 

「行こうか」

 

シルヴィアが低く鳴く。私は門の外へ一歩踏み出した。柔らかい草と、湿った土。 一度だけ振り返ると、みんながこちらを見ていた。私は小さく手を振り、「行ってくる」と告げて、シルヴィアの背に据えられたサドルに視線を向けた。

 

手をかけるための突起、身体を固定するための革紐。何度も見て、何度も使ったはずのもの。けれど、今目の前にあるそれは、現実のシルヴィアの背に乗るためのものだ。 その当たり前のような行動が、今さらになって怖くなった。

 

画面の中では何度も飛んだ。けれど、これは現実だ。落ちれば痛いでは済まない。風に煽られれば息もできないかもしれない。シルヴィアが少し身体を傾けただけで、私は振り落とされるかもしれない。 怖い。正直に言えば、ものすごく怖い。

 

それでも、シルヴィアはじっと待っている。まるで、私が乗ることを最初から疑っていないみたいに。

 

私は息を吸った。現実の鱗は硬くて、温かい。翼の付け根からは、微かな雷の匂いがした。

 

「……お願いね」

 

小さく呟いて、シルヴィアの背に足をかけ、一気に身体を引き上げる。 サドルに深く腰を落ち着けた瞬間、シルヴィアが誇らしげに首を上げ、大気を激しく叩いた。

 

猛烈な風が起き、草原の草がなぎ倒され、私の髪が大きく後ろへ弾け飛ぶ。 まだ、家の外側を私は何も知らない。何が食べられて、何が危険なのかも。 だから、まず私が見に行く。門を本当の意味で開けるために。みんなが、いつかのびのびと外へ出られるように。

 

私はシルヴィアの首元に身を寄せ、鞍の突起を強く握りしめた。そして、まだ知らない朝の向こうへ、力強く飛び立った。

 

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