廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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短編3 王宮印と白い余白

軍幕舎で仕分けられた紙の山は、夜が明ける頃には王宮へ運び込まれていた。

 

封蝋付きの書簡。聖座通達の写し。アルカノア承認文書の写し。各国使節からの正式照会。商業都市連盟からの航路と保険に関する問い合わせ。学術都市セントリアからの学術照会。ルミナリア教各国支部からの確認文。王国内貴族からの接触希望。商会からの交易打診。港町からの海域管理報告。軍からの警戒線設定案――。

 

紙は、積み直されても紙だった。

 

昨日、軍幕舎でそれを見下ろした将官は、今日も同じように長机の端に立っていた。顔には疲れが残っている。だが、その目は眠っていない。 隣に立つ学術院教授もまた、同じ紙束を見つめていた。

 

ただし、昨日とは違う。今日は雑談では終わらない。 ここは王宮会議室であり、集まっているのは王国の意思を形にする者達だった。

 

外務文官、軍務文官、王宮記録官、学術院の代表。港湾管理を担う部署の者に、ルミナリア教王国支部の担当者。

 

そして、長机の正面には、アルヴァリア王国の国王が座っている。

 

国王は、積み上がった書類を静かに見つめていた。その表情は、怒りでも、恐怖でもない。ただ、現実を見ている者の顔だった。

 

「昨日の報告は読んだ」

 

国王が言う。

 

「聖座は動いている。各国も動き始めている。商人も、学者も、国内の貴族もだ。戦争は終わった。だが、終わった戦争の後に何をするかは、まだ決まっていない」

 

国王は、長机に置かれた一枚の文書へ視線を落とした。そこには、まだ新しい名が記されている。

 

――『アルカノア』。

 

旧称、禁忌の島アポカリプスではなく、アルカノア。 ライラが聖座に認めさせた名であり、聖座の公文書に刻まれた名。そして今、王国の行政文書にも刻まれようとしている名だった。

 

「今日は、決める。王国が、アルカノアに関して何をし、何をしないのかを」

 

その一言で、会議は始まった。

 

 

最初に立ち上がったのは、外務文官だった。彼は、昨夜のうちにまとめられた照会一覧を開く。

 

「現在、各国からの問い合わせは、通常の外交窓口だけでは処理しきれない量に達しております」

 

淡々とした声だった。しかし、その疲れは隠しきれていない。

 

「内容は大きく分けて四種です。第一に、聖座通達の内容確認。第二に、アルカノアの公的な扱いに関する確認。第三に、航路・海域管理に関する問い合わせ。第四に、接触、調査、交易の希望です。帝国は軍事的な評価を求めています。商業都市連盟は航路と保険、交易の可能性を探っています。学術都市セントリアは調査希望を大量に送ってきています。ルミナリア教各国支部は、リィナ・エルシア殿の魔女認定撤回と、聖座判断の誤りについて確認を求めております」

 

軍務文官が続ける。

 

「港町からも報告が上がっています。禁忌海域周辺へ向かおうとする私有船の動きが見られます。現時点では出航前に止めていますが、今後、商人筋が独自に動く可能性は高いかと」

 

「商人は、軍より早く危険に近づくことがある」

 

将官が低く言った。軍務文官が頷く。

 

「はい。利益が絡めば、なおさらです」

 

教授が、軽く眼鏡を押し上げた。

 

「学術都市も同様でしょうな。文面は礼儀正しい。しかし、要約すれば、見たい、知りたい、調べたい、です」

 

「却下だ」

 

将官が即答した。

 

「まだ個別の文面は読んでおりませんぞ」

 

「読まなくても分かる」

 

「その判断は乱暴ですな」

 

「島に勝手に足を踏み入れる方が乱暴だ」

 

「それは否定できません」

 

教授は、そこであっさり引いた。 国王は、そのやり取りを止めなかった。彼ら二人は、実際にアルカノアを見ている。見た者だからこそ、紙の向こうにある危険を知っていた。

 

国王は、静かに言った。

 

「つまり、戦は終わったが、今度は人の欲と好奇心が島へ向かい始めたということか」

 

会議室の誰も、その言葉を否定しなかった。

 

聖戦旗は降ろされた。だが、今度は別の旗が立ち始めている。商会の旗、学術調査の名札、貴族の推薦状、教会の照会文、国家の正式書簡。 剣や槍より柔らかく見えるそれらも、踏み越えれば同じことだった。

 

 

「この問い合わせを、そのままアルカノアへ送ることはできるか」

 

国王の問いに、会議室は一瞬沈黙した。外務文官が答えるより早く、将官が口を開いた。

 

「できません」

 

短い返答だった。国王は、将官を見る。

 

「理由は」

 

「まず、あの方に各国書簡の返答を求めるつもりですか」

 

会議室の空気がわずかに固くなる。 あの方――その言葉が誰を指すのか、この場にいる者は全員分かっていた。アルカノアの主。聖座に四条件を認めさせた少女。巨大な眷属達と共に、あの島で暮らす存在。

 

だが、将官の声に畏怖はあっても、政治的な期待はなかった。

 

「無理です。そもそも、させるべきではありません。あの方は、国を動かすためにアルカノアという名を出したわけではない。自分の家を守るために、必要な線を引いた。それだけです」

 

教授が頷く。

 

「ライラ殿は、外交官ではありませんからな。国際文書に返答するために聖座へ行ったわけではない。彼女にとって重要だったのは、あの場所が禁忌でも滅びでもなく、自分の家であると認めさせることだったのでしょう」

 

外務文官が、慎重に口を挟む。

 

「ですが、アルカノア側の意思確認は必要です。特に接触許可や、問い合わせの内容によっては――」

 

「必要な確認と、押しつけてよい負担は違う」

 

将官の声が少し硬くなった。

 

「直接接触を増やせば、必ず誰かが言葉を誤る。質問のつもりで踏み込み、確認のつもりで傷つける。そして、ライラ殿の一言を、各国が勝手に外交的意味へ変換する」

 

教授が苦い顔をした。

 

「一言が条約にされ、一沈黙が拒絶にされ、一ため息が威嚇にされるわけですな」

 

「笑えん」

 

「笑っておりません」

 

次に、ルミナリア教王国支部の担当者が立ち上がった。

 

「リィナ様にも、すでに負担が集中しています。彼女は現在、アルカノアにて土地の浄化、負傷した眷属達の治療補助、聖座通達への確認、王国支部との連絡を担っています。彼女は王国支部所属の聖女であり、現場と信仰、そしてアルカノアを同時に語れる貴重な人物です」

 

担当者は、そこで少しだけ表情を曇らせた。

 

「ですが、だからこそ、これ以上各国からの問い合わせまで背負わせるべきではありません」

 

国王は、静かに目を伏せた。 リィナは橋になれる。だが、橋は無限の重さに耐えられるわけではない。

 

ライラに背負わせるべきではない。リィナに集中させるべきでもない。ならば、その重さを受ける場所を、王国側に作らなければならない。

 

「ならば、王国側で受けるしかあるまい」

 

国王が言う。外務文官達が視線を交わした。 その結論は、予想されていた。だが、国王の言葉として発せられた瞬間、それは確固たる王国の方針になった。

 

 

「我が国は、アルカノアの主ではない」

 

国王は、はっきりと言った。その言葉は、会議室の中央へ置かれた。

 

「だが、あの地と最初に言葉を交わし、法国の敗北を記録し、聖座文書の立会人となった国でもある」

 

教授が頷いた。「各国は、王国がアルカノアを制御していると誤解するかもしれません」

 

「制御などできん」

 

将官が即座に言った。「できると書いた瞬間、その文書は嘘になる」

 

国王は、その言葉を受けて頷く。

 

「ならば、そう記す。王国はアルカノアを支配しない。だが――無断で近づく者を止める」

 

外務文官が、素早く筆を走らせた。

 

「支配ではなく仲介。利用ではなく線引き。命令ではなく連絡。調査ではなく許可制」

 

教授が続ける。

 

「情報独占ではなく、危険防止ですな」

 

「その通りだ」と国王は言った。

 

「これはアルカノアのためだけではない。外側の人命を守るためでもある」

 

将官が低く同意する。

 

「無断上陸を許せば、死ぬのは近づいた側です。相手が商人でも、学者でも、貴族の私兵でも、結果は変わらない」

 

「そして、その死が新しい憎悪になる」と教授が言った。「無断で踏み込んだ者が死に、その死を理由にまた誰かが怒る。それでは、あの聖戦の繰り返しです」

 

国王は、長机の上の書類を見つめた。

 

「ならば、線を引く。踏み込むな、と最初に明記する。見たい、知りたい、得たい、そのすべてを、線の手前で止める」

 

それは、王国がアルカノアを囲い込むという意味ではない。むしろ逆だった。 外の世界が勝手に踏み込まないよう、王国自身がまず自らの手を縛る。そして、同じ線を他国にも示す。

 

支配ではない。踏み越えないための、厳格な境界だった。

 

 

外務文官の一人が、新しい紙束を前へ出した。

 

「陛下。王宮、軍、学術院、ルミナリア教王国支部がそれぞれ個別に対応していては、いずれ齟齬が出ます」

 

教授も頷く。「記録の表記も統一すべきですな。禁忌の島、アポカリプス、アルカノア。旧称と正式名称が混ざれば、それだけで混乱します」

 

軍務文官が続ける。「軍への通達も一本化が必要です。港町ごとに判断が違えば、抜け道が生まれます」

 

「馬鹿な船が抜ける」

 

将官が言うと、軍務文官は少しだけ言葉に詰まった。

 

「……その可能性があります」

 

「遠慮するな。馬鹿な船だ」

 

教授が小さく咳払いをした。

 

「記録に残す表現としては、無許可航行船としておきましょう」

 

「中身は同じだ」

 

「そこは格式の問題です」

 

外務文官は、二人のやり取りを一度待ってから続けた。 「アルカノア関連の問い合わせを一元管理する準備室を置くべきかと」

 

国王が視線を向ける。「名称は」

 

文官は、用意していた紙を読み上げた。「仮称、『アルカノア総合事務準備室』」

 

会議室に、短い沈黙が落ちる。教授は、名を反芻するように呟いた。

 

「総合事務準備室……少々硬いですが、今は仮称として妥当でしょうな」

 

「名前は何でもいい。中身が働けばな」と将官が言う。

 

「名称が雑だと中身も雑になりますぞ」

 

「だから仮称だ」

 

国王は、軽く手を上げて二人を止めた。「準備室の役割は」

 

外務文官は、すぐに答える。

 

「各国からの書簡受理。問い合わせの分類。アルカノア関連情報の表記統一。王国側記録の管理。無断接近禁止の通達。航路警告線の管理。商業接触希望と学術調査希望の一次審査。ルミナリア教関係照会の整理」

 

別の文官が続ける。

 

「加えて、リィナ様への問い合わせ集中の緩和。ライラ殿本人への直接接触の遮断。アルカノア側へ渡すべき情報の選別。将来的に派遣する職員の選定と調整」

 

将官は腕を組んだ。

 

「この準備室は、アルカノアのためだけではありません。こちら側の馬鹿を止めるためでもあります」

 

教授が苦笑する。「実に軍人らしい言い方ですな」

 

「事実だ」

 

「否定はしません」

 

国王は、しばらく考え込んだ。 ただ窓口を置けばいいわけではない。そこに置かれる者が、アルカノアを誤れば何の意味もない。恐れすぎてもいけないし、軽んじてもいけない。利用しようとしてもいけないし、善意だけで踏み込んでもいけない。

 

必要なのは、線の意味を正しく理解する者達だった。

 

 

「職員の選定は」

 

国王の問いに、将官が答えた。「実物を見ていない者は避けるべきです」

 

文官の一人が眉をひそめる。「なぜです」

 

「恐れすぎる者か、甘く見る者になる。どちらも向かん。あの島を資料上の危険地帯としてしか知らない者は、紙の上の数字で判断します。十万が敗れた、なら恐怖する。未知素材がある、なら欲を出す。巨大生物がいる、なら戦力として見る。どれも危険です」

 

教授が頷く。

 

「先の調査団に参加した者を中心に構成するべきでしょうな。少なくとも、あの地をただの魔物の巣としては見ない」

 

「選定条件を整理せよ」

 

国王の言葉に、文官が筆を走らせる。

 

――調査団経験者を中心にすること。 ――アルカノアを実際に見た者。 ――戦力を過小評価しない者。 ――恐怖で動けなくならない者。 ――ライラを魔王扱いしない者。 ――眷属達を素材や兵器として見ない者。 少なくとも、ライラ殿が家族として扱う存在だと理解できる者。 ――口が堅い者。書類仕事ができる者。各部署との調整ができる者。 ――王国のためだけでなく、アルカノア側の負担も考えられる者。

 

条件が増えるほど、文官達の顔は渋くなっていった。

 

「随分と難しい人材ですな」と教授が言うと、将官は当然のように返した。

 

「簡単な人材なら、そこに置く意味がない」

 

国王は頷いた。

 

「調査団経験者から人を選べ。軍、文官、学術院、王国支部。それぞれから候補を出せ」

 

それは、後に正式な事務局へ繋がる最初の指示だった。まだ小さな準備室にすぎない。だが、その小さな部屋が、やがてアルカノアと外界の間に積み上がる膨大な文書の入り口となる。

 

 

次に議題となったのは、情報公開の範囲だった。教授が最初に口を開く。

 

「完全に伏せれば、勝手に噂が育ちます」

 

「出しすぎれば、攻略法を探す馬鹿が出る」と将官が即座に返した。

 

「どちらも避けねばならん」

 

国王は言った。

 

「名は正しく伝える。線も明確に伝える。だが――内側は明かさぬ」

 

文官が確認するように読み上げる。

 

「公開情報。旧称、禁忌の島アポカリプス。正式呼称、アルカノア。自治権を持つ領域として扱うこと。無断上陸、軍事接近、無許可調査の禁止。島には主と眷属が存在すること。聖座は先の聖戦を誤りと認めたこと。王国は仲介窓口を設けること」

 

教授が頷く。

 

「最低限としては妥当でしょう」

 

「伏せるものは」

 

将官が言った。

 

「外部資料では、主の個人名、年齢、外見。眷属の個体名、戦力詳細。拠点内部。捕虜処理の詳細。リィナ様との細かな関係。その他、外部が利用可能な情報すべて」

 

教授が少し目を細める。

 

「ファミリアという呼称も伏せますかな」

 

「学院向け資料や各国概要では伏せるべきだ」と将官は答えた。

 

「こちらが親しみを込めて使っている言葉でも、外がどう受け取るか分からん。資料上は、島の主と眷属でよい」

 

教授は少し考え、頷いた。

 

「確かに。名付けすぎれば、分かった気になる。分かった気にさせるには、まだ早い」

 

「早いというより、危ない」と将官は言った。

 

情報を伏せるのは、王国が独占して利用するためではない。不用意に広げれば、人が死ぬからだ。 誰かが名前を知る。特徴を知る。配置を知る。弱点を探す。近づく。そして、帰らない。 その最悪の繰り返しを止めるために、王国は「書かないこと」を選ばなければならなかった。

 

 

「セントリアと中央国際学院への通達はどうする」

 

国王の問いに、教授が顔を上げた。

 

「学術都市には必ず噂が届きます。学院には各国の王族、貴族、有力家の子弟が集まっておりますからな。各国で話題になれば、学院内でも必ず広がるでしょう」

 

「若い者達は、噂を好むからな」と将官が言う。

 

「若くなくても好みますよ」

 

「否定はしない」

 

国王は静かに言った。

 

「ならば、最初に与える言葉を誤るな」

 

文官が新しい紙を用意する。学院向け資料――仮題は、『アルカノアに関する王国暫定概要』。 記載内容は、極限まで絞られた。

 

旧称、禁忌の島アポカリプス。正式呼称、アルカノア。扱い、自治権を持つ領域。接触、王国窓口を通じた許可制。無断接近、禁止。住人、島の主および眷属。注意、詳細は非公開。噂による判断を禁ずる。

 

「これで足りるか」と国王が問う。教授は文面を見て、少しだけ苦笑した。

 

「足りませんな」

 

将官が睨む。「何が」

 

「知りたい者にとっては、何もかも足りません」

 

「なら十分だ」

 

「ええ。公開資料としては、それでよいでしょう」

 

教授は、紙の余白を見つめた。

 

「重要なのは、書かれていることより、書かれていないことに気づく者がいるかどうかです」

 

「気づいてどうする」

 

「さあ。それは、その者次第ですな」

 

将官は、嫌そうに顔をしかめた

 

。「学者の言い方だ」

 

「褒め言葉として受け取ります」

 

「褒めていない」

 

国王は、二人のやり取りを聞きながら、最終文面に目を通した。

 

「学院には最低限の概要だけを渡す。深い機密は出さぬ」

 

「承知しました」

 

文官が頭を下げた。それは、小さな一枚の紙だった。 だが、その紙が後に幾人かの若者達の好奇心と警戒心に火を灯すことになる。その紙が、後に学院で小さな波紋を生むことを、この場の誰もまだ知らない。

 

 

長い会議の末、国王は立ち上がった。室内の全員が姿勢を正す。

 

「決定する」

 

国王の声が、会議室に静かに響いた。

 

「王国記録上、正式呼称をアルカノアとする。旧称として禁忌の島、アポカリプスを注記せよ。アルカノアを自治権を持つ領域として扱う。無断上陸、軍事接近、無許可調査を禁止する。航路警告線を設定せよ。各国問い合わせを一元管理する、アルカノア総合事務準備室を設営せよ。調査団経験者を中心に、派遣職員候補を選定する。ライラ本人への直接接触は遮断する。リィナ・エルシアへの負担集中を避ける。学院向けには最低限の概要だけを共有する」

 

王国支部の担当者が、安堵したように息を吐いた。国王は、最後に長机の上の文書を見つめた。

 

「戦争は終わった。だが、終わった戦争の後に引くべき線は、まだどこにも書かれていない。ならば、王国がまず書く」

 

それは、支配の宣言ではなかった。 「支配のためではない」と国王は静かに続ける。「踏み越えないためだ」

 

その言葉が、会議室の中央に落ちる。将官は、黙って深く頭を下げた。教授も、眼鏡の奥で静かに目を伏せる。文官達は、今しがた決まったばかりの新しい仕事を、次々に書き留めていった。

 

正式な事務局が動き出すのは、まだ少し先のことだった。だが、その入り口となる机は、この日、確かに王宮の中に用意された。

 

 

会議が終わった後、王宮の廊下には夕方の光が差し込んでいた。 赤みを帯びた光が白い石床に長く伸び、文官達の忙しない足音が遠ざかっていく。

 

その廊下の一角で、学院制服姿の少年が足を止めた。 レオニス・アルベルト。 アルヴァリア王国王家分家の公子であり、中央国際学院の生徒会長でもある彼は、学院の休暇に合わせて王国へ帰省していた。

 

そして今日、学院へ戻るために、王宮で同行者達と合流することになっていた。

 

「レオニス様」

 

声をかけたのは、王宮文官だった。 レオニスが振り返ると、少し離れた場所から、一人の少女が小さな記録帳を抱えて歩いてくるところだった。

 

アイリス・レイフォード。 王国貴族の末席に連なる少女で、外の世界の縮図とも呼べる学院では、生徒会の記録補佐を任されることも多い。 彼女もまた、同じ時期に王国へ帰省していた学院生だった。

 

学院へ戻る前の集合場所として王宮に呼ばれていたため、偶然この場で合流する形になったのだ。

 

「アイリスも来たか」

 

「はい。お待たせしました、レオニス様」

 

アイリスは軽く頭を下げ、それから文官の手元にある薄い資料へ目を向けた。 表紙には、重々しい王宮印が押されている。

 

「王宮印……重要案件か」

 

レオニスが問うと、文官は慎重に頷いた。

 

「概要のみです。学院へ戻られる前に、お二人にも最低限共有するようにとのことです。学院内で噂が先行した場合、最低限の訂正ができるように、とのことですが……深い内容は記されておりません」

 

レオニスは、文官から資料を受け取った。 アイリスは一歩後ろに控えながらも、自然と視線をその紙面へ向けていた。

 

表題には、こうあった。 ――『アルカノアに関する王国暫定概要』。

 

「……アルカノア?」

 

アイリスが小さく呟いた。レオニスは、資料の冒頭を静かに目で追う。

 

「禁忌の島の、新しい名だそうだ」

 

紙面には、必要なことだけが整然と記されていた。

 

旧称、禁忌の島アポカリプス。正式呼称、アルカノア。自治権を持つ領域。島の主と眷属が存在。無断接近禁止。接触は王国窓口を通じた許可制。詳細は非公開。噂による判断を禁ずる。

 

確かに、重要な事実は書かれている。 けれど、アイリスの目は、文章の間にある広大な「空白」へ向いていた。

 

島の主とは何者なのか。眷属とは何か。なぜ聖座は敗れたのか。王国は何を見たのか。なぜ、ここまで詳細が伏せられているのか。なぜ、無断接近がこれほど厳しく禁じられているのか――。

 

書かれている。だが、本当に知りたいことは何も書かれていない。

 

「書かれていることより、書かれていないことの方が多いですね」

 

アイリスが言うと、レオニスは少しだけ黙り込んだ。それから、王宮印の押された表紙を見つめる。

 

「だから、王宮印が押されているんだろう」

 

「書いていないことを、勝手に埋めるなという意味ですか」

 

「おそらくな」

 

アイリスは、自分の記録帳を開いた。そして、手元で短く書き込んでいく。

 

アルカノア。旧称、禁忌の島アポカリプス。島の主と眷属。無断接近禁止。詳細、非公開。

 

そこまで書いて、彼女の手は止まった。下には、まだ広い余白が白く残っている。

 

書くべきことは少ない。けれど、書かれていないことは多すぎた。

 

アルカノア。まだ見たことのない島。まだ会ったことのない主。まだ名を知らない眷属達。 その名の下に残された大きな余白を、アイリスはしばらくじっと見つめていた。

 

隣で、レオニスが王宮印の押された資料を静かに閉じる。 その空白が、いつか彼ら自身の目で埋められることになるのは、まだ少し先の話である。

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