第55話 机ひとつの境界線
定期連絡船は、いつも通り、朝の凪を選んでアルカノアの港へと着いた。
王国の旗を掲げたその小さな船は、かつて押し寄せた聖戦の白い大船団とは似ても似つかない、ただの事務船にすぎない。それでも、桟橋に立つリィナの胸には、毎回わずかな緊張が走った。今日、あの船がどんな「紙の山」を運んでくるのか分からないからだ。
連絡係の男は、慣れた様子で革鞄を抱えて桟橋を渡ってきた。何度も顔を合わせたことのある、実直な王国文官だ。彼はリィナの前で一礼した。
その後、二人は漁具の物置小屋を改装した簡易応接室へと移った。机と椅子が二つあるだけの、狭い部屋だ。
「お時間をいただき、ありがとうございます、リィナ様」
「いいえ。今日は、どのような件でしょうか」
文官は、革鞄から数枚の書類を取り出し、木机の上に並べた。
「まず、現状のご報告から。現在、アルカノア近海に到達している外部船は、我が王国の定期連絡船のみです。他国船、および民間の私有船は、出航前、あるいは航路警告線の手前で、すべて軍が足止めしております」
「……今のところは、ということですね」
「はい。正直に申し上げます。止め続けるのは、もはや簡単ではありません」
文官は、書類の束を指先で重々しくなぞった。
「各国からの問い合わせは、日を追うごとに増え続けています。聖座通達の確認、こちらの自治権の扱い、航路や交易の可否、学術調査の希望、貴族からの接触希望――それらすべてを一元的に処理するため、王宮内に『アルカノア総合事務準備室』が新設されました」
「準備室、ですか」
「はい。各部署がばらばらに対応すれば、必ず齟齬が出ます。それを避けるための窓口です」
リィナは、机の上の書類に目を落とした。各国の印章が押された照会文の写し。一通一通は丁寧な言葉で綴られているのだろう。けれど、その丁寧さの裏に、無数の好奇心と思惑が渦巻いている。
「ですが」と、文官はわずかに声を落とした。
「王国だけで、すべてを判断するわけにはまいりません。何を許し、何を拒むか。最終的な線引きは、アルカノア側でなければ決められないことです。王国が勝手に決めれば、それは『支配』になってしまいます。我々が望んでいるのは、そういうことではありません」
その言葉に、リィナは小さく頷いた。
誠実な男だ、と思う。少なくともこの連絡係は、自国の都合だけで言葉を曲げようとはしていない。
「具体的には、どうされるおつもりですか」
「アルカノア側にも、外から来る文書や接触希望を受け止めるための窓口が必要です。可能であれば――王国側からも、数名の人員を派遣させていただきたいのです」
「人員を……ですか?」
「候補は、先の調査団の経験者を中心に選定しております。この島の危険性を実際に知り、軽んじることも、過度に恐れることもない者達です。もし許可をいただければ、次回以降の定期連絡船で、お送りすることができます」
しばらく沈黙した。
理屈は分かる。窓口が必要なことも、王国が独断で決めるべきではないことも、すべて正しい。けれど、これはリィナ一人の判断で決められることではなかった。
「……承知しました。お話は理解しました」
静かに立ち上がった。
「ですが、これは私一人で決めることではありません。ライラさんに、確認します」
文官は、深く頭を下げた。
「お願いいたします」
◆
拠点の奥、温かい体温が満ちる餌場の近くで、ライラはしゃがみ込んでいた。
傷を負っていたディロフォサウルスの脇腹に、そっと細い指を走らせている。聖印の残滓を浄化してからしばらく経つその傷跡は、もうほとんど塞がっていたが、まだ薄く引きつれた皮膚が残っていた。
「うん、もう痛くないね」
ライラの声は、どこまでも柔らかかった。ディロフォサウルスが嬉しそうに喉を鳴らし、その小さな鼻先をライラの手元に押しつける。
少し離れた場所では、シルヴィアが巨体を横たえたまま、自分の鞍を直すライラの手つきをじっと見つめていた。革紐がほつれかけていた部分を、ライラは手際よく編み直していく。カイザーはいつものように、さらに少し離れた場所から、その光景を静かに見守っていた。
足元では、小型のファミリア達が数匹集まり、もらった果実を競うように頬張っている。
しばらくその穏やかな日常を見つめてから、静かに声をかけた。
「ライラさん」
「ん」
ライラは振り返らず、シルヴィアの鞍に視線を落としたまま答えた。
「王国から、新しい知らせが来ました」
「また書類?」
「はい」
「また、人が来たいって?」
その声には、特に驚きも怒りもなかった。ただ、もう何度も繰り返された不快な問いを、もう一度なぞっているだけの、平坦な響きだった。
「まだ、王国の船以外は来ていません」
注意深く、丁寧に言葉を選ぶ。
「ですが、来ようとしている方々は引きも切りません。各国、商会、学術機関、貴族。それらの膨大な問い合わせが、王国に集中しています」
「来てないだけでしょ」
ライラは、編み終えた革紐をきゅっと結んだ。
「来たいだけで、まだ来てない。それって、もう来てるのと、同じくらい嫌」
ライラは、ディロフォサウルスの傷跡を優しく撫でた。
「人が来ると、うちの子達が怪我する」
その言葉に、小さく息を呑んだ。
ライラは多くの人間と実際に会ったわけではない。けれど、あの戦争で見た光景――海を埋めた白い帆、森を踏みにじった足音、家族を焼いた聖水――それらの記憶が、「知らない人間が島へ近づく」という気配そのものに、深い拒絶として刻みつけられていた。
「王国に、アルカノア総合事務準備室、というものができました」
静かに言葉を続けた。
「各国からの問い合わせを、一つにまとめて止める場所です。けれど――」
「リィナ」
ライラが、ようやくこちらを振り向いた。
「それって、交流の入り口、みたいな話?」
首を横に振った。
「いいえ。違います」
「じゃあ、何」
「勝手に来させないための『防波堤』です」
はっきりと言い切った。
「ライラさんが、知らない人間と直接会わずに済むようにする場所。私一人にすべての対応が集中しないように、重荷を分かち合う場所。ファミリア達の生活圏に、外の人間が勝手に近づかないようにする場所です。そして――王国だけにすべてを判断させず、アルカノア側で、許可と拒否を決めるための場所です」
ライラは、しばらく黙っていた。
シルヴィアの鞍を、もう一度だけ確かめるように愛おしそうに撫でた。
「……知らない人と、会わなくていい?」
「はい。窓口を通せば、ライラさんが直接対応する必要はありません」
「リィナが、全部一人でやらなくていい?」
「はい。分担できます」
「うちの子のところに、勝手に近づかない?」
「許可のない接触は、こちらで完全に遮断します」
「王国が、勝手に決めない?」
「最終的な判断は、すべてアルカノア側に委ねられます」
ライラは、一つずつ確かめるように小さく頷いた。それぞれの問いにリィナがはっきりと答えるたび、少女の細い肩から、ほんの少しずつ強張りが抜けていくのが分かった。
「……人は」と、ライラがぽつりと言った。
「誰が、来るの」
「派遣職員の候補は、以前この島を訪れた王国調査団の関係者が中心です」
「前に来た人?」
「はい」
ライラは、わずかに目を細めた。
「カイザー、見た?」
「おそらく、皆さん見ています。あの調査の時、カイザーは正門近くにいましたから」
少しだけ考えるような顔をした。
「……じゃあ、知らない人よりはいい」
それは、歓迎の言葉ではなかった。けれど、明確な拒絶でもなかった。
ライラにとって重要なのは、相手の肩書きでも、王国の信頼性でもない。一度この島を見て、ファミリア達を見て、それでもなお来る意思がある者。完全な初対面ではない者。それだけが、ライラの中に、許容するための小さな余地を作っていた。
◆
ライラは、のっそりと立ち上がった。
ディロフォサウルスの頭を最後にもう一度撫で、シルヴィアの鼻先にそっと手を置く。
「いいよ」
その声は、どこか気怠げだった。
「よくはないけど」
何も言わずに、次の言葉を待った。
「人が来るのは、嫌。知らない人と話すのも、嫌。でも――リィナが一人でやるのは、もっと嫌。王国が勝手に決めるのも、嫌。うちの子のところに、勝手に来られるのは……一番、嫌」
小さく、息を吐き出した。
「だから、止める場所がいるなら――作って」
それは、明るい承認ではなかった。前向きな歓迎でもない。けれど、確かな、深い信頼に基づく承認だった。
「ありがとうございます」
リィナがそう言うと、ライラはすぐに言葉を重ねた。
「条件は」
「うちの子に、勝手に触らない」
「はい」
「奥に、勝手に入らない」
「はい」
「リィナを、困らせない」
「……はい」
「私に、知らない人を、いきなり会わせない」
「分かりました」
「変なことしたら、すぐに帰ってもらう」
「意に沿わぬ者は、即座に退去させます」
「王国の人でも――駄目なものは、駄目」
ライラは、最後にそう言って、まっすぐにリィナを見つめた。
「それでも、いい?」
「はい。すべて、厳格な規則として整理します」
それは政治的な条約ではなかった。法律でも、高慢な外交儀礼でもない。ただの「家のルール」だ。
けれど、その重みがよく分かっていた。これは、ライラがもう一度、自分の手で、この愛おしい家の境界線を引き直そうとしている言葉なのだ。
◆
簡易応接室に戻ると、文官は姿勢を正したまま、静かに待っていた。
「お待たせしました」
「いえ。……いかがでしょうか」
「受け入れます」
はっきりと、告げた。
「ただし、アルカノア側の規則にすべて従っていただきます。それを絶対の前提として、派遣職員の受け入れを承認します」
文官の張り詰めていた表情に、安堵がよぎった。けれど、すぐにそれを引き締め、深く頭を下げた。
「承知いたしました。規則の内容を、追って文書にてお送りいただけますでしょうか。準備室にて、職員の最終選定と派遣準備を急ぎます」
「お願いします」
「次回の定期連絡船にて、お送りできるかと存じます」
小さく頷いた。
文官が革鞄に書類をしまい、桟橋へと戻っていく後ろ姿を、静かに見送った。
◆
夕暮れの浜で、波の音を聞いていた。
アルカノアは、外の世界へ扉を開いたわけではない。ただ、扉の前に、一つの小さな机を置くことを決めただけだった。
その机に座る者が、誰を通し、誰を止めるのか。それを決めるのは、もう王国でも、聖座でもない。この島の主人――ライラ自身だ。
次の定期連絡船で、その机に座る者達がやって来る。かつてこの島を見て、それでもなお、もう一度ここへ来ることを選んだ者達が。
遠くの水平線を見つめた。
戦争は終わった。けれど、平穏はまだ、完成していない。
その小さな机の上で、これからどれだけの言葉の応酬が交わされるのか、今はまだ分からなかった。
今回のライラは少しやさぐれていますが、体調が悪いわけではありません。戦争後の疲労自体はある程度回復しています。
ただ、アルカノア防衛戦で大勢の人間が島へ攻め込み、ファミリア達を傷つけたことで、知らない人間が島へ近づくこと自体に強い警戒心が残っています。