廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第56話 防波堤の初日

朝の凪は、今日も静かだった。

 

王国の定期連絡船が、いつもの速度でアルカノアの港へと近づいてくる。けれど、桟橋に立つリィナは、今日だけはわずかに違う緊張を感じていた。

 

今日の船には、書類だけではない。

 

王国派遣職員五名――この事務所に正式着任する者達が、乗っている。

 

港のすぐ脇には、改装されたばかりの建物が朝日を浴びていた。元は仮連絡所だった木造の小屋を、ひと月かけて拡張したものだ。新しい木材の匂いがまだ薄く漂う室内には、机が増え、書類棚が並び、簡素な受付机と小さな応接室、簡易宿泊室までが備わっていた。

 

港から拠点中心部へ向かう道には、低い柵と立札が連なっている。

 

『指定区域外立入禁止』

『ファミリアへの無許可接触禁止』

 

その立札の隣には、もう一つ、控えめな木の看板が立っていた。

 

――アルカノア総合事務所。

 

王国の紋章は、どこにも大きく掲げられていない。代わりに目立つ位置にあるのは、アルカノア側が定めた規則の文言だった。

 

これは王国の出張所ではない。アルカノアの玄関前に、外の世界と向き合うために置かれた、一つの机だった。

 

 

船が桟橋に着き、最初に降りてきたのは、背筋をピンと伸ばした男だった。

 

「クラウス・レイナーです。改めて、よろしくお願いいたします」

 

きっちりとした礼。調査団のときから、誰よりも真面目に記録を取っていた文官だと、リィナはすぐに思い出した。彼の視線が、ふと港の奥――遠くに見えるシルヴィアの影に向かい、一瞬だけ止まる。だが、すぐに姿勢を正し、視線をまっすぐリィナへ戻した。

 

怖くないわけではない。だが、職務への責任が恐怖を上回っていた。

 

続いて、落ち着いた佇まいの女性が、小さな記録帳を抱えて歩いてくる。

 

「エルネスタ・フォルンです」

 

短く名乗ると、彼女の視線は素早く周囲を巡った。港、事務所、ファミリアの痕跡らしき爪痕、床の沈み込み。記録帳を抱える手は静かで、許可なくそれを開こうとはしなかった。

 

三人目は、大きな木箱を軽々と担いだ大柄な男だった。

 

「ボルグ・ハイネ。物資と搬入品の管理だ。荷物、食料、備品、持ち込み品の確認は任せてくれ」

 

遠くにうずくまる大型ファミリアの影に一瞬だけ足が止まったが、決して引き返そうとはしなかった。

 

その後ろから、無駄のない足取りの男が続く。安全管理担当のマルセル・ギード。彼は周囲の地形と柵の強度、そして「人間がどこで馬鹿な真似をしそうか」を冷徹に測る目をしていた。

 

最後に降りてきたのは、一番若い少女、ティナ・ベルクだった。

 

港の屋根の端に、小さな影が動く。メソピテクスだ。少女は一瞬、悲鳴を呑み込むように喉を詰まらせたが、それでも必死に踏みとどまった。震える手で書類をきつく抱きしめ、深く頭を下げる。

 

「よろしく、お願いいたします……!」

 

五人が揃った。

 

「お久しぶりです、皆さん」

 

リィナが声をかけると、クラウスがわずかに表情を緩めた。

 

「局長、とお呼びするべきでしょうか」

 

「……まだ、その響きには慣れません」

 

「では、業務中は局長。休憩中はリィナ様で」

 

「そこを明確に分けるのですか」

 

「メリハリです」

 

クラウスは大真面目にそう言った。エルネスタが小さく口元を緩め、ボルグが「相変わらず堅いな」と笑う。

 

そのわずかな気安さに、リィナは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。

 

 

事務所の中へ案内すると、五人はそれぞれ、新しい職場を一通り見渡した。壁の一角には、アルカノア側が定めた規則が、丁寧な文字で掲げられている。

 

リィナは、改めて向き直って口を開いた。

 

「すでに共有されていると思いますが、ライラさんは外部の人間との接触に強い負担を感じています。許可のない接近、ファミリア達への接触、拠点奥への立ち入りは絶対に避けてください」

 

「承知しております」

 

マルセルが、間を置かずに答えた。

 

「我々の役割は、ライラ様に外部の人間を会わせることではなく、まず近づけないことだと理解しています」

 

その言葉に、リィナは静かに頷いた。

 

この五人は、ライラに会いに来た人間ではない。ライラに近づこうとする理不尽な外部を、線の手前で止めるために来た人間なのだ。

 

リィナは、机の上に一枚の白い紙を広げた。

 

「これが、アルカノア側の正式な規則です。署名をお願いします」

 

許可なくファミリアに触れないこと。指定区域外へ入らないこと。ライラへ直接接触しようとしないこと。無許可の測定・記録・採取の禁止。違反時の即時退去。

 

クラウスが一文字ずつ確かめるように全文を読み、五人が次々と名前を記していく。

 

署名を終えたとき、彼らはもう単なる王国の人間という以上に、アルカノアの規則に従う最初の一人ひとりになっていた。

 

 

その様子を、ライラは少し離れた高台から見ていた。

 

シルヴィアが傍らに伏せ、遠くにはカイザーの影がある。ライラは事務所には近づかず、ただ静かに、職員達の動きをじっと見つめていた。

 

人間が増える――それだけで、彼女の中には静かな警戒の霧が広がっていた。

 

職員達も、やがてその視線に気づいた。

 

けれど、誰も近づかなかった。

 

クラウスは、その場できっちりと深く一礼した。

エルネスタは、記録帳を閉じて静かに頭を下げた。

ボルグは、担いでいた荷を下ろし、そっと頭を下げた。

マルセルは、視線を合わせすぎないよう、ただ背筋を伸ばした。

ティナは、慌てたように何度も頭を下げた。

 

それだけだった。誰も、一歩も足を進めなかった。

 

ライラは、しばらくその様子を見つめてから、ぽつりと言った。

 

「……近づいてこない」

 

「約束しましたから」

 

隣に立つリィナが答える。

 

ライラは、まだ彼らを完全に信用したわけではなかった。けれど、少しだけ確かめるように、もう一度呟いた。

 

「約束、守るんだ」

 

定められた距離を守ること。それが、この島で最初に示せる、最大の礼儀だった。

 

 

午後、事務所が本格的に動き始めた。

 

最初の仕事は、王国から届いた膨大な文書の分類だ。

 

「まず、王国側で回答可能なもの、アルカノア側の確認が必要なもの、即時拒否、保留、そして危険案件に仕分けましょう」

 

クラウスの声に応じ、職員達が一斉に動き出す。

 

エルネスタが、学術都市セントリアからの書類をめくる。

 

「セントリアからの問い合わせは、要約すれば『見たい、知りたい、調べたい』です。ですが、この一通、表面上は観察希望ですが、添付資料の端に標本採取の示唆があります」

 

「保留ではなく、拒否ですね」

 

リィナが言うと、エルネスタは静かに頷いた。

 

ボルグは、商会からの一通を手に取り、眉を寄せた。

 

「この商会、贈答品の数が妙に多いな。中身を全部開けて確認するまで、島には入れねえ方がいい。裏がありそうだ」

 

マルセルは、貴族からの面会希望文を読み、すぐに表情を引き締めた。

 

「この貴族の一行、随行員が多すぎる。護衛名目で武装者を紛れ込ませるつもりでしょう。港から先へ進ませないための、厳格な人数制限の規則が要ります」

 

ティナは、緊張しながらも丁寧に写しを作り、分類札を貼っていく。

 

そのとき、窓の外から小さな影が覗いた。メソピテクスだ。ティナは思わず体を固まらせたが、逃げはしなかった。メソピテクスは、ちょこんと小さな手紙を窓辺に置いていく。

 

ティナは震える手でそれを拾い、リィナへ差し出した。

 

「……局長宛、です」

 

その小さな一歩を、リィナは愛おしそうに見つめた。

 

 

書類が次々と分類されていくのを見ながら、リィナはふと気づいた。

 

自分が、すべてを読まなくてもいい。

自分が、すべてを一人で判断しなくてもいい。

 

危険な文言を、誰かが先に拾ってくれる。記録が、誰かの手できちんと作られていく。

 

リィナは、静かに深い息を吐き出した。

 

それに気づいたクラウスが、すぐに声をかけた。

 

「局長、お疲れでしたら少し休憩を」

 

「大丈夫です」

 

反射的にそう答えかけて、リィナは口を閉ざした。五人が、もう自分の仕事を始めている。誰も、リィナの判断を棒立ちで待ってはいないのだ。

 

「……では、少しだけ、お言葉に甘えます」

 

その言葉に、クラウスはわずかに目を細めた。

 

「以前もそう言って、三日分の議事録を一晩で整理されましたからね」

 

「……まだ覚えていたんですか」

 

「忘れられるわけがありません」

 

その軽いやり取りに、リィナは本当に久しぶりに、小さく笑った。肩に乗っていた重さが、少しだけ和らいでいた。

 

 

夕方近く、リィナはまとめた要点を持って、事務所の外のベンチに腰を下ろしているライラのもとへ向かった。

 

「近海への無断接近を禁じる警告文です。これは出してもよろしいですか」

 

「いい。近づかないでって、強めに書いて」

 

「商会から、交易の打診が来ています」

 

「今はいらない」

 

「学術調査の希望です。島内への立ち入りを伴うものです」

 

「駄目」

 

「島に入らない情報照会のみなら、保留でよろしいですか」

 

ライラは少し考え、それから言った。

 

「……見るだけなら、リィナが見て決めて」

 

その判断は、政治でも外交でもなかった。ただ、家の主人としての、率直な意思だった。

 

 

もちろん、事務所の中では、小さな日常のズレも起きていた。

 

クラウスが業務開始前の確認を始めようとした瞬間、窓の外にシルヴィアの巨大な顔が現れ、言葉を失って石のように固まった。

 

ボルグが重い書類棚を動かそうと苦戦していると、通りかかったギガントピテクスがひょいと棚を片手で持ち上げて手伝ってしまい、彼はしばらく呆然と立ち尽くした。

 

ティナが小声で「竜が、こちらをじっと見ています……」と呟くと、マルセルが短く返した。

 

「見るな。見返すな。落ち着いて書類を書け」

 

それでも、初日の緊張感の方が、まだ勝っていた。

 

 

夕暮れ、港のそばの事務所に温かい灯りがともった。

 

机には、分類済みの書類が整然と積まれている。棚には、王国への返答予定。鍵付きの箱には、危険案件として隔離されたもの。壁には、アルカノア側の規則が静かに掲げられている。

 

五人は疲れていた。リィナも疲れていた。

 

けれど、昨日までとは違う。紙の山は、もうただの山ではない。分類され、止められ、返される「防波堤のパーツ」に変わっていた。

 

ライラは、少し離れた場所から、その灯りを見ていた。

 

事務所に入り浸る気はまだなかったし、五人を完全に信じたわけでもない。

 

それでも――。

 

「あの人達、止める側なんだ」

 

その一言で、十分だった。

 

その日、仮連絡所は、正式な事務所になった。

 

けれど、それは外の世界を招き入れるための場所ではない。

 

扉の前に座り、通してよいものと、通してはならないものを厳格に分ける場所。アルカノアの静かな暮らしを、外の世界の言葉の暴力から守るための場所。

 

小さな机の上で、世界との距離が、少しずつ正しく測られ始めていた。

 

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