廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第57話 扉の前の距離

アルカノア総合事務所に、朝の光が差し込んだ。

 

港から少し離れた場所に建つその建物は、もとは仮連絡所だった。正式着任の前に急ごしらえで拡張されたものだが、一か月半が経った今では、もう「仮」の雰囲気を感じさせない。棚の位置は動かされ、机の上には使われた跡があり、窓のそばには小さな木箱がひとつ置かれている。

 

メソピテクスが封筒を届けるための箱だ。

 

誰が置いたのかは記録されていない。ただ、ある日の朝に気づいたら、そこにあった。事務所では、そういう小さな変化が、少しずつ増えていた。

 

クラウス・レイナーが業務確認を始めたのは、定刻より七分早いことだった。

 

彼の机は、事務所の中で唯一、定規で揃えたように整っている。書類の角は合わせてあり、インク瓶の位置も毎朝同じ場所に戻されている。それが癖なのか信条なのかは、同僚たちも聞いたことがない。ただ、朝に来るといつもそうなっているので、そういうものだと思うようになっていた。

 

「本日の確認事項です」

 

クラウスが書類を広げた。手書きの文字は細かく、均一だった。

 

「王国側回答案作成済みが三件、アルカノア側確認待ちが五件、即時拒否候補が二件、保留が七件」

 

そこで、わずかに間が空いた。

 

「……前例なしが、四件です」

 

ボルグ・ハイネが、棚の補強具合を確認する手を止めずに言った。

 

「増えてねえか、それ」

 

「増えています」

 

クラウスが真顔で答えた。

 

誰も笑わなかった。しかし、部屋の空気が少しだけ軽くなった。

 

エルネスタ・フォルンは、「公開可」「要確認」「非公開」の三種類の分類札を自分の棚に貼っていた。一見すると単純な色分けだが、実際には案件の性質によって細かい運用基準が定められており、それを整理したのも彼女自身だった。

 

ティナ・ベルクの受付机には、予備のインクと封筒が補充されている。補充の判断は彼女が自分でしており、もう誰かに確認するようなことはない。

 

マルセル・ギードは朝のうちに一度、外の立入禁止区域の確認に出る。昨日も確認したが、風が出ていたので念のためだ、と彼は言うだろう。実際、風が出ると一部の札が倒れやすいことをすでに把握していた。

 

そしてリィナの席には、三週間前と比べて書類が少ない。

 

正確に言えば、同じ量の書類が処理されている。ただ、彼女の机の上に積まれる前に、五人の誰かがすでに仕分けているのだ。

 

「局長、本日の昼食時間は確保済みです」

 

午前の早い時間に、クラウスが予定表を開きながら言った。

 

リィナ・エルシアは、手元の書類から顔を上げた。

 

「確保済み、とは」

 

「予定表に入れました」

 

「……仕事の予定扱いなのですね」

 

「放っておくと抜かれますので」

 

リィナは少し困ったような顔をしたが、何も言わなかった。反論しなかったのは、実際にそうだと知っているからだろう。着任初日から一か月半が経った今、クラウスはリィナの仕事の癖をある程度把握していた。その中には、食事の時間を後回しにする傾向も含まれている。

 

ティナがお茶を運んできた。盆の上に湯気の立つ椀がふたつある。

 

「局長の分と、クラウスさんの分です」

 

「ありがとう、ティナさん」

 

自分に向けられた礼に、ティナは少し照れたように「いえ」と答えた。

 

着任初日、彼女は何を運ぶにも一度確認を取っていた。今は違う。何が必要かを自分で判断し、動いている。変わったのは彼女だけではないが、その変化は着任初日を知る者には分かりやすかった。

 

ライラがアルカノア総合事務所の入口に現れたのは、午前の中ほどだった。

 

扉は開いていた。港からの風が入る時間帯には、事務所の扉は開けておくことが多い。ライラはその扉の前で、少し止まった。

 

右手に、封筒を持っていた。

 

「リィナ」

 

中に向けて声をかける。

 

リィナが顔を上げた。

 

「ライラさん」

 

「これ」

 

封筒を差し出した。軽い動作だった。ただ、体は扉の外側にある。完全には入らない。

 

「ありがとうございます。どこにありました?」

 

「メソピが、違う箱に入れてた」

 

リィナが小さく頷いた。窓のそばに置かれた木箱と、受付の正規の受け取り箱は、似たような高さに置かれている。メソピテクスがまだ迷うことがあるのは、本人の問題ではなく配置の問題かもしれない、とリィナは思った。

 

そのとき、受付のほうで立ち上がった気配があった。

 

ティナが、少し離れた場所で待っていた。封筒を受け取ろうとしているのだが、近づきすぎない。入口から三歩ほどの距離を保ったまま、静かに立っている。

 

ライラがそれを見た。

 

「……来ないんだ」

 

ティナが一瞬固まった。

 

「え、あ、はい。受け取っていいですか?」

 

「うん」

 

ティナが歩み寄った。封筒を両手で受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

頭を下げた。短く、でも丁寧に。

 

ライラは少しだけティナを見てから、視線を外した。何も言わなかったが、扉の縁に手をついた体勢は、わずかに緩んだように見えた。

 

「ライラさん、よろしければ」

 

リィナが声をかけたのは、ティナが封筒を処理し始めてからしばらく後のことだった。

 

「この封筒を、青い札の箱に入れていただけますか」

 

ライラが分類棚を見た。

 

棚には大小様々な木箱が並んでいる。それぞれに札が差してある。「王国側回答可」「アルカノア確認」「保留」「拒否候補」「危険案件」「前例なし」。文字の色も違う。

 

ライラは棚の前で止まった。

 

「青……どれ」

 

「そちらです」

 

「これ?」

 

「それは保留です」

 

「……むずかしい」

 

本当に困っている顔だった。格好つけているわけでも、照れているわけでもない。ただ、分からない、という顔だ。

 

クラウスが書類から顔を上げて、真面目な声で言った。

 

「分類札の色を増やしすぎたかもしれません」

 

ボルグが棚を眺めながら、小声で言った。

 

「今さらか」

 

「後から変えると現場が混乱します」

 

「……変えたほうが混乱しないんじゃないか」

 

「どちらも一理あります」

 

リィナが小さく笑った。ライラはその笑い声に気づいたが、顔は棚の方を向いたままだった。

 

正しい箱を教えてもらい、封筒を入れた。

 

棚の中で封筒が他の書類の上に乗る、小さな音がした。

 

午後の早い時間に、案件が一つ上がった。

 

クラウスが整理した要約をリィナに渡す。リィナが確認し、ライラを呼ぶ。

 

ライラはまだ入口付近にいた。完全に中に入るほどではないが、扉を離れてもいる。境界線に近い場所で、椅子の背もたれに軽く寄りかかっていた。誰かが持ち込んだ古い椅子で、正規の家具ではないが、そこに置いてある。

 

「王国港湾部から申請が来ています」

 

リィナが言った。

 

「近海の警告線を分かりやすくするため、外側に浮標を追加したいそうです。島には近づきません」

 

「うちの子に邪魔じゃない?」

 

ライラの声は穏やかだった。しかし、その一言には明確な確認があった。何が理由であれ、ファミリアの生活圏に干渉するものは通さない。その線は動かない。

 

「海棲組の移動線にはかからない位置です」

 

マルセルが報告書の一部を指して言った。事前に確認済みだということが、その淡々とした声から分かった。

 

「設置物も小さい。邪魔になったら撤去できます」

 

ボルグが補足した。

 

ライラは少しの間、考えた。考えているときに視線がわずかに上を向く癖がある。

 

「じゃあ、いい」

 

それだけだった。

 

クラウスがすでにペンを持っていた。

 

「承認。条件付き。海棲ファミリアの移動を妨げないこと、異常時は即時撤去可。以上を記録します」

 

書く音だけが、しばらく続いた。

 

ライラが少し驚いた顔でクラウスを見た。

 

「そんなふうに書くんだ」

 

「そのように書けば、後で揉めません」

 

「……便利」

 

本心から言っているようだった。

 

「前例なし」の箱が、午後になってから一件増えた。

 

クラウスが箱を見て、少しだけ間を置いてから、新しい書類を入れた。

 

「また前例なしですか」

 

エルネスタが問うでもなく言った。

 

「アルカノアでは前例のない案件が多すぎます」

 

クラウスが答えた。

 

「いずれ専用の仕分けが必要になるかもしれません」

 

「全部そこに入れりゃいいだろ」

 

ボルグが棚から目を離さずに言った。

 

「それでは分類の意味がありません」

 

「意味があってもなくても、『前例なし』は前例なしだろ」

 

「それが同じ箱にあれば、どれが優先事項か判断がつきません」

 

「……じゃあ『要確認・前例なし』と『保留・前例なし』で分けるか」

 

「あなたが提案するとは思いませんでした」

 

「うるさい」

 

ライラが扉の方から見ていた。

 

「前例なし、って箱、いる?」

 

全員が少し振り向いた。

 

「必要です」

 

クラウスが即座に答えた。

 

「ここで起きることのほとんどに、王国側の前例がありません。どれが新しい問題かを把握しておかなければ、同じ案件が別の形で来たとき、また最初から考え直すことになります」

 

ライラは少しだけ考えた。

 

「そっか」

 

それだけだった。しかし、それだけで充分だった。

 

エルネスタが、ファミリアの行動記録に関してリィナと話し合っているのを、ライラは離れたところから聞いた。

 

「この記録、ファミリアの行動習性に触れています。外部公開は避けるべきです」

 

エルネスタの声は低く、事務的だった。

 

「理由は?」

 

「利用されます」

 

短い言葉だった。説明は続かなかった。その一言で充分だ、という確信がそこにあった。

 

「同意します」

 

リィナが答えた。

 

それだけで決まった。エルネスタが「非公開」の札を出し、書類の端に貼った。

 

ライラは何も言わなかった。

 

ただ、この人は、外に出してはいけないものを出さない、という事実が、ライラの中で静かに確認された。

 

外から音がした。

 

ボルグが何かの荷を動かしていた。大型のファミリアがいる。ギガントピテクスだった。港の近くに来ることがあるファミリアで、今日はたまたま通りかかって、重い木箱を運ぶのを手伝っていた。

 

ライラが外を見た。

 

ボルグは最初、少しだけ後ずさった。それは誰でも分かるくらいに一瞬だったが、確かにそうだった。それでも、荷物の受け渡しを断らなかった。受け取り、礼を言った。

 

「助かった。ありがとな」

 

ギガントピテクスが首を曲げて、それからどこかへ去っていった。

 

ライラが扉のそばで見ていた。

 

「……ありがとうって言った」

 

リィナが隣に来ていた。

 

「はい」

 

「怖いのに?」

 

「怖くても、礼は言える方です」

 

ライラは外を見たまま、少し考えた。

 

「そういう人なんだ」

 

問いではなかった。確認でもなかった。

 

ただ、小さく声に出した。それだけのことだった。

 

昼食の少し前に、マルセルが外から戻ってきた。

 

立入禁止区域の札を点検してきたのだという。手に一本、予備の杭を持っていた。

 

「昨日の風で倒れかけていた箇所があります。補強しました」

 

言い方は短く、報告の形だった。

 

「ありがとうございます」

 

リィナが答えた。

 

ライラがマルセルを見た。

 

「止めるの、ちゃんとするんだ」

 

マルセルが振り向いた。

 

「職務です」

 

「倒れてたら、意味ないもんね」

 

「見えなければ、規則として機能しません」

 

それだけだった。

 

マルセルは馴れ馴れしくしない。ライラに近づこうとしない。しかし、止める仕事はきちんとする。その事実が、ライラの中に積み重なっていった。

 

昼食の時間になった。

 

リィナが席を立った。予定表に入れられた昼食の時間は、本人が拒否しない限り守られることになっていた。それはすでに事務所内の暗黙の決まりとして機能し始めていた。

 

五人の緊張が、少しだけ解けた。

 

業務が終わったわけではないが、休憩の空気が入ってきた。

 

「この椅子、長時間座るには硬すぎるな」

 

ボルグが椅子の背もたれを叩きながら言った。

 

「姿勢を崩す前提で座るからです」

 

「人間はずっと直角じゃいられねえんだよ。お前もだろ」

 

「私は問題ありません」

 

「……嘘つけ」

 

ティナが窓の外を眺めながら、小声で言った。

 

「竜って、毎日あそこにいるんですね」

 

港の方角、岸壁の上に、シルヴィアがいた。天気のいい日には大抵あそこにいる。

 

「観察上、ライラ様の滞在地点に連動する傾向があります」

 

エルネスタが手元の書類を見ながら言った。

 

「エルネスタさん」

 

リィナの声に、エルネスタが顔を上げた。

 

「業務記録です」

 

「まだ何も言っていません」

 

エルネスタが少し間を置いた。

 

「……いずれ言うと思いました」

 

リィナが笑った。声に出して、ではなく、小さく、口元だけで。それでも笑っていた。

 

ライラは入口付近から、その笑い声を聞いた。

 

声が聞こえるような笑い方ではなかった。けれど、遠くからでも分かる笑い方だった。

 

午後の業務が落ち着き始めた頃、ライラがリィナの近くに来た。事務所の中ではあまり動かなかったが、この時間はリィナが一人でいることが多いと分かっていた。

 

「リィナ、ちゃんと休めてる?」

 

リィナが手元の書類を整えながら答えた。

 

「はい。皆さんが手伝ってくださっていますから」

 

「……そっか」

 

ライラは事務所の中を見た。

 

クラウスが書類を束ねている。エルネスタが「非公開」の札を引き出しに戻している。ボルグが棚の脚の傾きを手で確かめている。マルセルが外の方向を確認している。ティナが受付の封筒を種類別に並べている。

 

誰もライラを見ていなかった。

 

それが、今は普通のことに見えた。

 

着任初日、五人はライラを見すぎていた。どう対応するかを、全員が同時に考えていた。今は違う。それぞれが自分の仕事をしている。ライラがそこにいても、仕事の手が止まらない。

 

それは、ライラを軽んじているのとは違う。

 

ライラがそこにいることに慣れた、ということだ。

 

慣れた、というのは、怖くなくなった、という意味ではない。慣れながらも、線は守っている。近づかず、馴れ馴れしくせず、それでも普通に仕事をしている。

 

王国の人たちが、事務所の人たちになっていく。

 

その変化は、静かで、気づきにくい。

 

けれど確かにそこにある、と、ライラは思った。思った、というより、感じた、というほうが正確だった。

 

夕方が近づく前に、ライラは一度外に出た。

 

シルヴィアが岸壁から降りてきて、ライラの横に来た。ライラは片手でシルヴィアの側頭部に触れながら、事務所の方向を少しだけ見た。

 

扉の前に、小さな盆が置いてある。

 

お茶の盆だった。

 

ライラが今日の昼に持ってきたものだ。リィナへの差し入れのつもりだったが、ティナが受け取り、中へ運んでいった。盆だけが戻ってきていた。

 

ライラがその盆を見た。

 

「……また、持ってくる」

 

独り言のような声だった。シルヴィアが首をわずかに傾けた。

 

「お茶を、ですか?」

 

リィナが、いつの間にか扉のそばに来ていた。

 

「それくらいなら、できる」

 

ライラが言った。書類は読めない。分類札は間違える。敬語の裏を読むのは苦手だ。「照会」と「申請」と「通達」の違いも、今日初めて教えてもらった。

 

けれど、お茶を持ってくることはできる。

 

それがアルカノアの主人にふさわしい仕事かどうかは、別の問題だ。

 

その日、アルカノアの主は、事務局の末席で青い札と赤い札を間違えた。

 

誰もそれを笑わなかった。代わりに、正しい箱を教え、受け取った茶に礼を言った。

 

扉の前に置かれた小さな盆は、夕方になっても元の場所にあった。

 

翌日もお茶が来るかどうかは、誰も口にしなかった。ただ、ティナが盆の置き場所を少しだけ整え、受け取りやすい位置に変えた。

 

それだけのことだった。

 

それだけのことが、扉の前の境界線を、少しずつ変えていく。

 

ライラが外の人間との距離を測り直す場所は、まだ扉の前だ。

 

けれどそこは、もう、ただの境界線ではなくなり始めていた。

 

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