年が改まってから、しばらく。
アルカノア総合事務所の朝に、誰かが慌てることは少なくなっていた。ティナ・ベルクはメソピテクス便の木箱を確認し、足跡の印の箱に入れられた封筒を手際よく仕分ける。エルネスタ・フォルンは照会文を読み、「回答可」「保留」「非公開」の札を迷いなく置いていく。ボルグ・ハイネはお茶置き場の台の足元を手の甲で叩き、傾きがないことを確かめてから、倉庫の方へ向かう。マルセル・ギードは壁の地図の前に立つ。人間の動線と、細い線で書き込まれたファミリアの通り道。その両方を、同じ丁寧さで見直している。
入口のお茶置き場には、今朝もすでに盆が置かれていた。
リィナとクラウスは、定期連絡船からの文書確認のため、朝のうちに港側の確認室へ出ていた。いつものことだ。午前のうちに戻る。
事務所は穏やかだった。
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「最近は、前例なしも前より大人しくなったな」
棚の蝶番を確かめながら、ボルグが言った。独り言のような言い方だったが、事務所は狭い。全員に聞こえた。
ティナが手を止めた。
「ボルグさん、それ……言わない方がいいやつでは」
「なんだ。縁起でもねえ」
「その手の発言の後には、大抵何かが起きるのはお約束です」
エルネスタが照会文から目を上げずに言った。
「記録するなよ、そんなもん」
「業務記録ではありません。私見です」
「じゃあ言うな」
「観察は止められません」
マルセルは地図から視線を外さなかったが、指先だけが地図の端へ動いた。ファミリアの通り道を示す細い線を、一本なぞる。特に意味はない。ただ、確認したくなっただけだった。
「おい、本気にするなよ」
ボルグが全員を見回した。
「警戒は、しておきます」
マルセルが静かに言った。
「俺のせいじゃねえからな」
誰も何も言わなかった。ティナが小さく笑った。それだけだった。
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そのあとしばらく、通常の業務が続いた。
ティナが照会文を一枚仕分ける。エルネスタが非公開の札を増やす。ボルグがお茶置き場の台を今度は指で叩く。マルセルが外の風向きを確かめに一度出る。
入口のお茶が、少し冷めた。
扉が開いたのは、その直後だった。
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リィナとクラウスが戻ってきた。
二人の様子は、いつもと違った。珍しいことに、二人ともすぐ話さなかった。リィナは言葉を選んでいた。クラウスは書類を整える手つきがいつも通りだったが、眉間の皺がいつもより深かった。
ティナが受付から立ち上がった。
「局長……?」
「何かあったのか」
ボルグが棚から手を離した。
リィナはすぐに答えなかった。代わりに、手にしていた封筒を机の上に置いた。
封筒は厚かった。王国準備室の受付番号が端に印字されている。封蝋は正式なものだ。添付書類があることを示す細い紐が、側面を一周している。そして、表には見慣れない紋章が押されていた。
クラウスが言った。
「前例なしです」
ボルグが固まった。それからゆっくりと、天井を仰いだ。
「……俺のせいじゃねえぞ、これは」
「今回は、いつもの前例なしとは少し違います」
クラウスが封筒を正面に向けた。
「中央国際学院より、アルカノア校外学習に関する正式申請書です」
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全員が、机の上の封筒を見た。
しばらく、誰も動かなかった。
エルネスタが最初に口を開いた。
「中を見てもよろしいですか」
「どうぞ」
クラウスが開封済みの封筒から書類を取り出した。束になっている。リィナとクラウスが港でざっと確認しただけでも、かなりの量だった。
「分担します」
それだけ言って、クラウスは書類を分けた。
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クラウスは、申請書本体と添付書類の一覧を手に取った。受付番号、学院側責任者名、引率担当者名、日程、滞在範囲。手続きの骨格にあたる部分だ。
読み進めるほど、眉間の皺が戻ってきた。
「王国準備室を通っています。受付番号も正式。添付書類も、全部揃っています」
少しの間を置いた。
「……手続き上の不備が、ありません」
「全部か」
ボルグが顔を上げた。
「全部です」
クラウスが不備を見つけられないのは、珍しいことだった。いつもなら、手続きのどこかに甘さがある。それを理由に差し戻すことができる。今回は、それができなかった。
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エルネスタは誓約書と制限項目の一覧を読んでいた。どこかに問題のある表現が紛れ込んでいないか、文字の裏を丁寧に探した。
「採取、標本、観察記録の提出要求はありません。教育目的に明示的に限定されています。外部公開を前提とした記録項目も、ありません」
また次のページ。
「ファミリアへの無許可接触禁止も明記されています。政治交渉目的ではないことも書かれています」
読み終えて、書類を机に戻した。
「……よく避けています」
それは感想ではなく、分析だった。引っかかるはずの言葉が、全部回避されている。これまでの事務局のやり取りから、何を書いてはいけないかを学んでいる。その丁寧さが、却って気になった。
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ボルグは持ち込み品一覧と補給計画を読んでいた。商会の贈答品対応のときに身についた目で見る。余分なもの、隠れた意図を匂わせるものがないかどうか。
「食料、救急品、筆記具、着替え。余計なものはない。荷物も多すぎない。補給は自前で、事務所への負担要求もなし」
書類を置いて、腕を組んだ。
「商会よりよっぽど話が早い」
それが褒め言葉かどうかは、ボルグ自身にも判断がついていなかった。
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マルセルは安全管理の項目を読んだ。班分けの方式、引率者の配置、緊急集合地点、退避経路。どれも、ある程度考えられている。
「退避経路は二本。緊急集合地点も明記されています。引率者の責任範囲も書かれています」
ただし、と続けた。
「問題は、生徒だということです」
全員がマルセルを見た。
「大人なら、規則の意味を考えます。しかし子供は、規則の向こうを見ます。珍しいものがあれば、手が出る前に足が出ます」
そこで一度、マルセルは名簿に視線を落とした。
「それに、中央国際学院の生徒は、ただの生徒ではありません」
事務所の空気が、少しだけ重くなった。
中央国際学院。大陸中央の学術都市に置かれた、世界屈指の名門校。各国の貴族の令息令嬢が集まり、王族やそれに限りなく近い家の子供が在籍することも珍しくない。ただの学校ではない。各国が、未来の要人を預ける場所だ。
「どれだけ整った申請書でも、生徒の好奇心は書いてありません。そして、彼らが怪我をした場合の重さも、紙面だけでは測れません」
マルセルは書類を置いた。誰も、すぐには反論しなかった。
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ティナは生徒名簿を受け取った。ページをめくって、人数を数えた。
途中で、指が止まった。
「……学生さん、こんなに来るんですか」
声が少し上ずった。名前の列が、思ったより長かった。受付で一人ずつ確認するとしたら、どのくらいかかるだろう。案内する人数分の説明をするとしたら。
そう考えて、もう一度名簿を見直す。
名前の並びは整然としている。その中には、ティナでも知っている家名がいくつかあった。王国の高位貴族。帝国の大貴族。法国の聖職貴族。商業都市連盟の大商家。学術都市の名家らしい姓もある。
中央国際学院が世界中の貴族の令息令嬢を集める名門校だということは、知識としては知っていた。けれど、それが一枚の名簿として机の上に乗ると、重さが変わった。
ただの学生名簿ではない。各国の家名が、整然と並んだ紙だった。
ティナは、自分でも気づかないうちに、名簿を持つ指に力を込めていた。
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五人が確認し終わった頃、事務所の空気は変わっていた。
危険な書類ではない。無礼な申請でもない。押しかけでも、抜け穴をついた申請でもない。それどころか、どこを見ても明確に断れる理由がない。ただし、軽い書類でもなかった。
「……これ、断る理由がないのか」
ボルグが、誰に言うともなく呟いた。
「手続き上は」
クラウスが答えた。
「内容上も、明確な拒否理由は見当たりません」
エルネスタが静かに続けた。
「安全上の条件は追加できます。ただし、申請そのものを退ける根拠にはなりません」
「断る場合も、相応の理由と形式が必要になります。相手は中央国際学院です。学院だけでなく、その背後にいる各国の家も無関係ではありません」
マルセルが補足した。
「面倒なのは、荷物じゃなくて中身か」
「生徒のことですか?」
ティナが小さく聞いた。
「箱なら壊れても詫びりゃ済む。だが、貴族の子供はそうはいかねえだろ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
ティナが、机の上の書類と全員を交互に見た。
「……受け入れる準備をする、ということですか」
リィナが、少し重く頷いた。
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ライラには、午後に話をした。
今日のお茶はすでに冷めていたが、盆は入口の定位置にある。ライラはお茶置き場のそばに立っていた。奥までは入らない。けれど、扉の外で立ち止まるわけでもない。最近のライラは、いつもそのあたりにいる。
「ライラさん、一つ報告があります」
リィナが言った。
「中央国際学院から、校外学習の申請が来ました」
ライラの視線が、机の上の書類へ向いた。
「校外学習……生徒を、まとめて島に入れるってこと?」
「はい。授業の一環として、アルカノアを訪れたいという正式な申請です」
ライラはすぐには答えなかった。
「何人?」
ティナが名簿を見て、人数を答えた。
ライラの眉が、わずかに動いた。
「多いね」
「はい。それと、中央国際学院は世界でも有数の名門校です。各国の貴族や、王族に近い家の子供達も多く通っています」
「つまり、怪我されたら面倒になる人達だよね?」
言い方は淡々としていた。けれど、意味は正確だった。
「はい。事故が起きれば、ただの校外学習の問題では済まない可能性があります」
「なら、余計に入れる場所は決めないと駄目」
ライラはそう言って、マルセルの方を見た。
「奥には入れないで」
「入らせません。指定区域外は立入禁止にします」
「うちの子に近づくのは?」
「無許可接触は禁止です。条件にも明記します」
「偉い家の子でも?」
「身分による例外は認めない、と明文化します」
クラウスの返答に、ライラは少しだけ頷いた。
「なら、そこは同じでいい」
事務所の中が、わずかに静かになった。
ライラは別に、貴族や王族を軽んじたわけではない。ただ、アルカノアでは別の線が引かれているだけだった。
「知らない人は、知らない人。偉くても、うちの子に勝手に近づいていい理由にはならない」
リィナが静かに頷いた。
「はい」
「リィナ、大変になる?」
「大変にならないよう、事務局で準備します。全部私が見るわけでもありません。皆さんと分担します」
ライラは事務所の中を見た。
クラウスが条件を書いている。エルネスタが資料を仕分けている。ボルグが地図を読んでいる。マルセルが動線を確認している。ティナが案内を作ろうとしている。
誰も、「できません」と言っていない。誰も、「どうしますか」とだけ言って、手を止めていない。ただ、ライラが選べるように、先に動いている。
ライラは扉の縁に手をついた。いつもの体勢だ。
「……みんなが見てくれるなら、話は聞く」
「受け入れる、ということでよろしいですか?」
「条件付き」
ライラは、机の上の書類を見た。
「条件を守るなら、入れてもいい。守らないなら、帰ってもらう。家名があっても同じ。王族でも、貴族でも、商人でも、知らない人は知らない人」
その声は穏やかだった。ただし、その穏やかさには揺れがなかった。
「うちの子に何かしたら、そこで終わり」
クラウスが、条件の一覧に新しい一行を書き加えた。
身分による例外は認めない。指定区域外への立ち入りは禁止。ファミリアへの無許可接触があった場合、即時退去。
短い条件だった。けれど、アルカノアにとってはそれで十分だった。
ライラはその文字を見て、もう一度だけ言った。
「条件付き」
「はい。条件付きで、受け入れます」
リィナが頷いた。クラウスのペンが、正式な記録欄に走った。
中央国際学院校外学習申請。条件付き承認。
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こうして、アルカノア総合事務局が初めて迎える大きな客人は、軍でも、聖職者でも、商人でもなく、学生達になった。
ただし、その学生達は、ただの学生ではない。各国の未来に関わる家の子供達。家名を背負い、期待を背負い、ときには国の顔すら背負う者達。
それでも、アルカノアで守るべき線は変わらない。
机の上に置かれた一通の文書には、条件が付けられ、記録が残され、承認の一行が添えられた。それが、多くの足音になって海の向こうからやって来るまでには、もう少し時間がかかる。
名簿の中に、後にアルカノアの静かな日常を大きく揺らす者達がいることを、この時の彼女達はまだ知らなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回で、アルカノア総合事務局設立編は一区切りです。
当初は第三部として考えていた部分ですが、内容としては第二部後の後始末と、次の大きな話への準備編に近いため、 第2.5部 に変更させてもらいました。
戦争の後、ライラがすぐに外の世界を受け入れられるわけではありません。
けれど、すべてを拒み続けるだけでもいられない。
そのために、外から来るものを線の手前で受け止める場所として、アルカノア総合事務局ができました。
短い章でしたが、ライラとアルカノアが次へ進むための準備期間になったと思います。
次からは本来の第三部、中央国際学院編です。
世界中から集まった学生達が、いよいよアルカノアへやって来ます。
次回からもよろしくお願いします。