門の外へ踏み出した瞬間、風の匂いががらりと変わった。 拠点の中にも風は吹き込んでいたし、草や土、潮の気配はあった。けれど、門を越えた先の空気は、むせ返るほどに濃密だった。
湿った土の匂い、朝露を含んだ草の青さ、遠くから響く波の音。名前も知らない鳥か、あるいはそれに似た何かの甲高い鳴き声が降ってくる。 足元には、踏み固められた拠点の床ではなく、柔らかな草と湿った地面があった。靴底がわずかに沈み、青々とした草の葉が足首をくすぐる。
外だ。見知らぬ土地。いや――私たちの「家」の外だ。
一度だけ振り返る。 正門の横にはカイザーが黒い巨体を横たえ、ただ静かにこちらを見送っていた。高所にはワイバーンたちの気配があり、奥の区画からは小型組の小さな鳴き声が聞こえ、 工房の前ではヘルメット姿の主任がゆるく片手を上げていた。みんな、こちらを見ていた。「行ってくる」と小さく振った手と言葉はすぐに風に流されたけれど、確かに届いた気がした。
シルヴィアが隣で翼を広げる。朝の光を受けた紫がかった鱗がきらりと光り、身体の内側を流れる青白い光がゆっくりと脈打つ。その姿だけを見れば、空を支配する孤高の竜そのものだった。 それなのに、こちらをちらりと見る顔はどこか得意げで、「どうだ、格好いいだろう」と言いたげだった。
「うん、格好いいよ」
そう言うと、シルヴィアはさらに誇らしげに胸を張った。本当に分かりやすい。威厳はあるはずなのに、私の前ではすぐに霧散してしまう。ふっと笑って、そのしなやかな首元に手を添えた。
「まず、近くを見よう。いきなり遠くには行かないよ」
シルヴィアは短く喉を鳴らした。歩き出すと、あんなに巨大な身体なのに、私の歩調に合わせて歩幅を器用に調整して並んでくれる。その不器用な優しさが嬉しかった。
◆
門から外へ続く道は、道というより、何度も何かが通ったことで草が押し潰され、地面が自然と固まった場所だった。大型の子が通るならもう少し整えた方がいいし、草むらが深い場所は小型組を出すには少し不安だった。
周囲を見回しながら、頭の中で生活圏の候補を組み立てていく。 門のすぐ近くは見通しがいいから、小型の子たちの日向ぼっこにいいかもしれない。ただ、草の中に何がいるか分からない。昨日見た小動物くらいならいいが、毒虫や噛みつく生き物がいないとも限らない。 右手側には低い岩場が続いている。大型組が踏み込んでも崩れはしないが、小さい子が足を挟む危険がある。左側は草地が広大だが、奥の方は森に近い。木々が太く葉が重なり、朝の光を受けても内側は暗いままだった。
「あの辺りは、まだ駄目かな」
小さく呟くと、シルヴィアが視線を追って森を見た。深い緑の奥で、枝が大きく揺れる。風もないのに、重い何かが動いた気配がした。遠くから、低い鳴き声が一度だけ響く。 たぶん、昨日の私ならその時点で足がすくんでいた。けれど、今は警戒こそすれ、引き返そうとまでは思わなかった。
小型組はまだ駄目。大型組は場所を選べば大丈夫。採取組を出すなら森へ行く道を整える必要がある。主任に見てもらえば、簡単な柵や目印くらいは置けるだろうか――。
◆
考えながら進んでいると、ふいに潮の匂いが濃くなり、波の音が近づいてきた。 足を止め、海の方を見る。最初に確認しなければならない場所は決めていた。海岸線だ。
食料資源がありそうだから、というのもある。けれど本当は、まだちゃんと見に行けていない子たちがいるからだ。 水の中の子たち――海棲組。 あの子たちがどこにいるのか、無事なのか、知らない海で困っていないか。それがずっと気にかかっていた。陸の子たちの無事を見届けたからこそ、その焦りは強くなっていた。
「シルヴィア、海に行こう」
シルヴィアは一瞬だけ海の方を見て、少しだけ首を引いた。もしかして、海はあまり好きではないのだろうか。空の子だから、当然といえば当然かもしれない。
「大丈夫。無理に入らないから。海岸から見るだけ」
そう言うと、少し不満そうに鼻を鳴らしながらも、すぐに私の前へ出て案内役を買って出た。数歩進んでは振り返り、ちゃんとついてきているか確認し、私が頷くと満足そうに喉を鳴らす。
足元が背の低い草地から、黒い石の混ざる地面へ、そして砂混じりの土へと変わっていく。 森の匂いが遠ざかり、代わりに塩と湿った岩の匂いが鼻をついた。途中、砂地に巨大な骨のようなものが半分埋まっていた。長く、太く、表面が波で滑らかに磨かれたそれは、普通の魚や獣のものではなかった。
海岸線に出ると、視界が一気に開けた。 海だった。黒に近い深い青の水面が、朝の光を受けてぎらぎらと揺れている。波は思っていたより強く、岩にぶつかるたびに激しい飛沫を上げていた。 黒い岩場が点々と突き出し、その間を白い泡が走る。少し沖には岩礁があり、海流が複雑に渦を巻いていた。見上げれば、普通の海鳥とは明らかに違う、長大な翼を持った影が空を滑空している。
砂浜の端まで歩き、波が届くぎりぎりの場所に立った。シルヴィアが少し後ろで足を止める。 「大丈夫。そこにいていいよ」
◆
水面を見つめる。波が寄せては返し、白く砕ける。水面の下は暗く、深い場所ほど何も見えない。
「……いる?」
声をかけるが、波の音にすぐかき消された。もう一度、少し大きめに声を出した。
「みんな、いる?」
返事はない。ただ波の音だけが返ってくる。胸が、じわりと冷たくなった。 陸上の子たちと違って、水面の下は見えない。遠くにいれば声も届かない。もし、いなかったら。どこか遠くへ行ってしまっていたら。この海に何か危険なものがいて、傷ついていたら――。
嫌な想像が頭をよぎり、手を固く握りしめた。その時だった。
沖の水面が、不自然に盛り上がった。波ではない。海そのものが、下から押し上げられたように巨大に膨らんだのだ。 息が止まる。直後、黒い大影が水面の下を横切った。影だけで、冗談みたいに大きい。さらに別の影が動く。鋭い背びれのようなものが一瞬だけ水面を切り、すぐに沈む。
その奥で、もっと規格外の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。 大量の海水が盛り上がり、白い飛沫が爆発するように弾ける。巨大な頭が、海面を割って現れた。
モササウルス――。
海の底から現れたような巨体は、じっとこちらを見ていた。濡れた鱗が朝日にぎらりと光り、顎の間から海水が滝のように落ちている。その視線に敵意はなかった。
「あ……」 声が漏れた。いた。ちゃんと、そこにいた。 モサの巨体がゆっくりと近づくたび、重い波が押し寄せて足元を濡らす。シルヴィアが後ろで水しぶきを嫌がって不満そうに鳴いたが、私はそれどころではなかった。
水面の下に、さらに影が増えていく。メガロドンらしき鋭い輪郭が岩場近くを回遊し、プレシオサウルスの長い首が水面を割る。重厚な鎧を纏ったダンクルオステウスの影が、さらに下層をゆっくりと進んでいた。 そして、沖の暗い水の中から、太い触腕が一本、二本と浮かび上がった。トゥソテウティスだ。長大な触腕がゆっくりとうねり、海水を大きく押しのける。
何も知らずに見たら、海の怪物たちに包囲された絶望の光景だろう。けれど、胸に満ちたのは圧倒的な安堵だった。
「いた……よかった。ちゃんと、いた」
モササウルスが低く鳴いた。それは水の中で響くような重低音だった。耳で聞くというより、足元の砂や、胸の奥にまで心地よい振動として伝わってくる。波の下からの、確かな返事だった。
◆
濡れるのも構わず、一歩前へ出た。
「怪我してない? ちゃんと食べられてる?」
言ってから、少しおかしな質問だと思った。けれど次の瞬間、その答えは水面の方から直接返ってきた。 沖の方で、海が大きく跳ねた。巨大な魚影が必死に逃げる後ろから、メガロドンの影が追いすがる。さらに横からトゥソテウティスの触腕が伸び、逃げる影を容赦なく絡め取った。 海が激しく揺れ、水面が一瞬、赤黒く滲む。モササウルスの一体が、何か大きなものをくわえて浮上してきた。
彼らは、この海で自力で狩りをして、食べている。
「……食べられてるんだ」
膝から力が抜けそうになった。備蓄だけに頼っていない。この子たちは、自分たちの力で逞しく生きている。 もちろん、この海の生き物に毒がないとは限らないし、狩りすぎによる生態系への影響も考えなければならない。でも、少なくとも今、目の前の子たちはひどく元気そうだった。泳ぎ、狩り、返事をして、生きている。その事実だけで、重圧で凝り固まっていた胸の奥が綺麗にほどけた。
「よかった……」 今度こそ、はっきりと涙がにじんだ。自分の目で確認するまでは、本当に怖かったのだ。
◆
「みんな、聞こえる?」
水面にいくつもの影が集まってくる。少し近すぎて、波が足首の辺りまで濡らしてきた。シルヴィアが後ろで翼を広げて不満そうに鳴く。
「ごめん、シルヴィア。もうちょっとだけ」
モササウルスが一体、砂浜の近くまで寄ってきて、ゆっくりと頭を下げる。鼻先に触れられるほど近くはないけれど、私がそっと手を伸ばすと、それを見てまた低く、優しく鳴いた。 プレシオサウルスが首を持ち上げ、メガロドンたちが回る。少し沖では、バシロサウルスらしき穏やかな影が水面近くに浮かんでいた。全員を一体ずつ確認することはできなくても、確かな群れの気配がそこにあった。
息を吸い、海に向かって語りかける。 「聞いて。しばらく、このあたりなら自由にしていていいよ。海の中は、みんなの方がずっと分かると思うから」
この子たちにとっては、この広い海こそが自然な居場所なのだ。
「でも、遠くへ行きすぎないで。怪我をしたら戻ってくること。それから――変なものを見つけたら、食べる前に知らせること。お願いだからね」
何が流れ着くか分からない世界だ。食べていいものと悪いものの区別がつかない以上、そこだけは約束してほしかった。 水面の下から、低い振動が返ってきた。複数の影が尾を動かし、波の下で身体をひねる。言葉ではない。 でも、私には確かな返事のように思えた。
「ありがとう」 そう言うと、モササウルスがゆっくりと沖へ向きを変えた。メガロドンたちが散っていき、プレシオサウルスの長い首が沈み、巨大な影たちがそれぞれの定位置へと戻っていく。
◆
濡れた靴を見下ろし、それから海を見た。 食料問題の答えが、ひとつだけ見つかった。陸上の子たちの分はまだ何も解決していないけれど、海の子たちは大丈夫そうだ。
シルヴィアが不満そうに肩の近くに鼻先を寄せてくる。
「濡れたの嫌だった? でも、待っててくれてありがとう」
首元を撫でると、すぐに機嫌を直して得意げになる。本当に分かりやすい。
海の覇者たちが水面下へ戻ったあと、少しだけ海岸線を歩いた。岩場の隙間にある潮溜まりには小さな魚が泳ぎ、貝や海藻に似た植物もあったが、すぐには使えず、いくつか持ち帰って確認する必要があった。
「海の子たちはこのあたりなら自由。陸の子たちは、まだ駄目」 頭の中でそう整理すると、シルヴィアが横で当然だと言うように翼を広げた。「空なら負けない」とアピールしているみたいだった。
◆
海岸線の確認を終え、シルヴィアの背に乗った。現実の鱗は硬く、温かい。
「少し上から見るよ。高すぎなくていいから」
低く鳴くと、シルヴィアは大きく翼を広げた。海風が一気に強くなり、砂が舞い、身体がふわりと浮いた。 地面が離れる。思わずサドルの突起を握る手に力が入った。胃が一瞬だけ置いていかれるような浮遊感。海岸線が下へ落ちていき、水面の影が小さくなる。
シルヴィアはゆっくり高度を上げる。私は鱗にしがみつきながら、周囲を見渡した。 美しい弧を描く海岸線。草地、森、岩場、その奥にそびえる山。川のような筋も見えた。水場もあり、採取できそうな場所もありそうだ。 さらに視線を遠くへ向ける。海、その向こうも、どこまでも海。
「……島、だ」
少なくとも、見える範囲では完全に海に囲まれていた。逃げ場がないという意味以上に、ここで生活基盤を作らなければならないという責任感が強くなる。 煙も見えないし、道もない。人が作った建造物は、今見える範囲には何一つなかった。
「……見える範囲では、人の気配なし」
小さく呟き、主任が用意してくれたメモに簡単な印をつけていく。少なくとも見える範囲では海に囲まれていること 、森、山、川の存在。 普通ならもっと激しく動揺するべき状況なのかもしれない。けれど、今の私の胸の中心にあるのは、海の子たちが無事だったという圧倒的な喜びだった。
「戻ろう。今日は、これくらいでいい」 シルヴィアが少し名残惜しそうに短く鳴く。 「また来るよ。まだ見ないといけない場所、いっぱいあるしね」 そう言うと、満足そうに翼を傾けて拠点を緩やかに目指した。
◆
上空から見ると、まだ名前のない家は、改めて妙な形をしていた。城のような外壁、増築された居住区、巨大な門。その中心に、温かい生活の気配がある。
シルヴィアが正門近くに降り立ち、着地の風が草を大きく揺らした。私は背から降り、首元を撫でて「ありがとう。助かったよ」と伝えると、最高に得意げに喉を鳴らした。
中央広場へ戻ると、主任がいつの間にか次の作業のための木片を用意してくれていた。
「主任、ありがとう」
主任はゆるく片手を上げた。私はその木片に、今日分かったことを整理して書き込んでいく。
海棲組は無事。近海での行動を許可。ただし遠出は禁止、異物は食べる前に報告すること。海岸は資源がありそうだが、陸上組を出すにはまだ危険。そして、ここは人の文明のない少なくとも見える範囲では海に囲まれていること ――。
「次は、陸を見る。草食の子たちが食べられるもの、肉食の子たちの狩場、採取組が動ける場所。森や草地に危ないものがないか」
言いながら、海の方を思い出していた。波の下から、確かな返事があった。あの子たちは生きていた。それだけで、今日の調査には大きな意味があった。
広場から海の方角を見やる。ここから海は見えないけれど、風に少しだけ潮の匂いが混じっていた。
「次は、陸の食べ物を探そう」
そう呟くと、シルヴィアが「行く気満々」とばかりに短く鳴いた。その鼻先を撫でて、小さく笑う。 波の下には、確かな返事があった。ならきっと、この知らない島のどこかにも、私たちがここで生きていくための答えがある。それを探すのが、次に私がやることだった。