門の外へ踏み出した瞬間、風の匂いががらりと変わった。
拠点の中にも風は吹き込んでいたし、草や土、潮の気配はあった。けれど、門を越えた先の空気は、むせ返るほどに濃密だった。
湿った土の匂い。朝露を含んだ草の青さ。遠くから響く波の音。
名前も知らない鳥か、あるいはそれに似た何かの鳴き声。
足元には、踏み固められた拠点の床ではなく、柔らかな草と湿った地面がある。靴底がわずかに沈み、草の葉が足首をくすぐった。
外だ。見知らぬ土地。
いや、家の外だ。
一度だけ振り返る。
正門の横にはカイザーが伏せている。黒い巨体は動かず、ただ静かにこちらを見送っていた。高所にはワイバーン達の気配がある。奥の方には小型組や生活組のいる区画があり、工房の前ではヘルメット姿の主任が片手を上げている。
みんな、こちらを見ていた。
私は小さく手を振った。
「行ってくる」
声は風に流された。けれど、確かに届いた気がした。
シルヴィアが私の隣で翼を広げる。
朝の光を受けた紫がかった鱗がきらりと光り、身体の内側を流れる青白い光がゆっくりと脈打つ。翼を広げる姿だけを見れば、空を支配する竜そのものだった。
それなのに、私をちらりと見る顔は、どこか得意げだ。
『どうだ、格好いいだろう』。そう言っているようにしか見えない。
「うん、格好いいよ」
そう言うと、シルヴィアはさらに誇らしげに胸を張った。
……たぶん、本当に褒められるのを待っていたのだろう。
威厳はある。あるはずなのに、すぐ消える。
私はふっと笑って、シルヴィアの首元に手を添えた。
「まず、近くを見よう。いきなり遠くには行かないよ」
シルヴィアは短く喉を鳴らした。分かっているのか、分かっていないのか。
でも、私が歩き出すとシルヴィアも隣を歩き始める。あんなに巨大な身体なのに、私に合わせて歩幅を調整してくれているのが分かった。
門から外へ続く道は、思っていたより広かった。
正確には、道というより、何度も何かが通ったことで草が押し潰され、地面が固まった場所だ。大型の子が通るなら、もう少し整えた方がいい。小型組だけなら大丈夫そうだが、草むらが深い場所は少し不安だった。
周囲を見回しながら、頭の中で印をつけていく。
門のすぐ近くは見通しがいい。
小型の子達を少し日向に出すなら、このあたりが候補になるかもしれない。ただ、草の中に何がいるか分からない。昨日見た小動物くらいならいいが、毒のある虫や、噛みつく生き物がいないとも限らない。
右手側には、少し低い岩場が続いている。大型組が踏み込んでも崩れるような場所ではなさそうだが、小さい子が足を挟むかもしれない。
左側は草地が広い。
ただし、奥の方は森に近い。木々が太く、葉が重なり、朝の光を受けても内側は暗かった。
「あの辺りは、まだ駄目かな」
小さく呟く。
シルヴィアが私の視線を追って森を見た。
深い緑の奥で、何かが動いた気配がした。枝が大きく揺れる。遠くから、低い鳴き声が一度だけ響いた。
普通の人間なら、その時点で引き返しただろう。
私も警戒はした。けれど、恐怖で足がすくむほどではなかった。
この島は危険だ。それは分かる。
でも、少なくとも拠点の近くは、すぐに大型組がどうにもならないほどの場所ではなさそうだった。
小型組はまだ駄目。大型組は、場所を選べば大丈夫かもしれない。採取組を出すなら、森へ行く道を整える必要がある。ワイバーン達が降りるには、あの木が少し邪魔かもしれない。主任に見てもらえば、簡単な柵や目印くらいは置けるだろうか。
考えながら進んでいると、ふいに潮の匂いが濃くなった。
波の音が近づいている。私は足を止め、海の方を見た。
最初に確認しなければならない場所は決めていた。
海岸線。
理由は、食料資源がありそうだから。それもある。
でも、本当はそれだけではない。
陸上の子達は、拠点内で無事を確認した。
シルヴィアもいた。カイザーもいた。小型組も、採取組も、主任もいた。
けれど、まだちゃんと見に行けていない子達がいる。
水の中の子達。海棲組だ。
あの子達がどこにいるのか。無事なのか。食べられているのではないか。怪我をしていないか。
それが、ずっと気にかかっていた。
食料問題は大事だ。でも、その前に。
海の子達が、ちゃんといるか確認したい。
「シルヴィア、海に行こう」
シルヴィアは一瞬だけ海の方を見た。そして、少しだけ首を引いた。
……もしかして、海はあまり好きではないのだろうか。
空の子だから、当然といえば当然かもしれない。シルヴィアの絶対領域は空であって、水の中ではない。私だって、目の前であんなに広い海がうねっていたら怖い。
「大丈夫。入らないから。海岸から見るだけ」
そう言うと、シルヴィアは少し不満そうに鼻を鳴らした。
けれど、すぐに私の前へ出る。案内役のつもりらしい。
数歩進んでは振り返る。ちゃんとついてきているか確認している。さらに進んで、また振り返る。
「見てるよ。ちゃんと見てる」
私がそう言うと、シルヴィアは満足そうに喉を鳴らした。
やっぱり、褒められたいだけではないだろうか。
海へ向かう道は、最初は草地だった。
足元には背の低い草が広がり、ところどころに白い花が咲いている。少し歩くと地面が固くなり、黒い石が増えた。さらに進むと、砂混じりの土に変わっていく。
潮の匂いが強くなる。波の音が大きくなる。
森の匂いが遠ざかり、かわりに塩と湿った岩の匂いが鼻をついた。
途中、砂地に巨大な骨のようなものが半分埋まっていた。
何の骨かは分からない。普通の魚や獣のものではない。長く、太く、表面が波で滑らかに磨かれていた。
私は少しだけ立ち止まり、それを見る。
「後で確認かな」
今は違う。今は海の子達だ。
海岸線に出ると、視界が一気に開けた。
海だった。
黒に近い深い青の水面が、朝の光を受けてぎらぎらと揺れている。波は思っていたより強く、岩にぶつかるたびに激しい飛沫を上げていた。
砂浜はある。けれど、穏やかな海岸ではない。
黒い岩場が点々と突き出し、その間を白い泡が走る。少し沖には岩礁があり、海流が複雑に渦を巻いているように見えた。
海鳥のような鳴き声が空から聞こえる。
けれど、見上げても普通の海鳥はいなかった。遠くを飛ぶ影は大きく、羽ばたきの形も違う。
私はそれを深く考えないことにした。
今は海だ。
目の前の水面を見つめる。
広い。怖い。
けれど、同時に少しだけ安心もあった。
海がある。ここには食べ物があるかもしれない。
魚も、海藻のようなものも、貝も、何かしらの資源があるかもしれない。
でも、それより先に胸を占めたのは、別の不安だった。
海の子達は、いるだろうか。
怪我をしていないだろうか。お腹を空かせていないだろうか。
知らない海で、困っていないだろうか。
砂浜の端まで歩き、波が届くぎりぎりの場所に立った。
シルヴィアが少し後ろで足を止める。海に近づきすぎたくないらしい。
「大丈夫。無理に近づかなくていいよ」
そう言うと、シルヴィアは少しだけ安心したように鼻を鳴らした。
私は水面を見つめる。
波が寄せては返る。岩にぶつかり、白く砕ける。
水面の下は暗い。深い場所ほど、何も見えない。
「……いる?」
声をかける。
波の音にすぐかき消された。届いたかどうかは分からない。
私はもう一度、少し大きめに声を出した。
「みんな、いる?」
返事はない。波が砕ける音だけが返ってくる。
胸が、じわりと冷えた。
陸上の子達は、名前を呼べば何かしら返してくれた。姿も見えた。鳴き声も聞こえた。
けれど、海の中は違う。
水面の下にいれば見えない。遠くにいれば声も届かない。深く潜っていれば、そこにいるのかすら分からない。
もし、いなかったら。どこか遠くへ行ってしまっていたら。この海に何か危険なものがいて、傷ついていたら。
嫌な想像が頭をよぎる。手を固く握りしめた。
もう一度呼ぼうとした、その時だった。
沖の水面が、不自然に盛り上がった。
波ではない。海そのものが、下から押し上げられたように膨らんだのだ。
次の瞬間、黒い影が水面の下を横切る。
大きい。影だけで、馬鹿みたいに大きい。
私は息を止めた。
さらに別の影が動く。
岩場の近くを、細長い影が旋回した。背びれのようなものが一瞬だけ水面を切り、すぐに沈む。
その奥で、もっと規格外の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。
水が盛り上がり、白い飛沫が弾ける。
巨大な頭が、海面を割って現れた。
モササウルス。
その名が、自然に頭に浮かぶ。
海の中から現れた巨体は、こちらを見ていた。
濡れた鱗が朝日に光り、顎の間から海水が滝のように落ちている。目は陸の生き物とは違う冷たさを持っているのに、その視線に敵意はなかった。
「あ……」
声が漏れた。
いた。ちゃんといた。
モサの巨体がゆっくりと近づくたび、波が押し寄せる。私の足元まで飛沫が届き、靴を濡らした。
シルヴィアが後ろで不満そうに鼻を鳴らす。水しぶきが嫌なのだろう。
でも、私はそれどころではなかった。
水面の下に、さらに影が増えている。
メガロドンらしき鋭い輪郭が岩場近くを回っている。
プレシオサウルスの長い首が、少し離れた場所で水面を割る。
重そうな鎧のような姿、ダンクルオステウスの影が、さらに下をゆっくり進んでいる。
そして、沖の暗い水の中から、太い触腕が一本、二本と浮かび上がった。
トゥソテウティス。
長大な触腕が水面近くでゆっくりとうねり、海水を押しのける。
何も知らない人 がこの光景を見たら、たぶん足から崩れ落ちるだろう。海が、怪物で満ちているように見えるはずだ。
けれど、私の胸に最初に来たのは恐怖ではなかった。
安堵だった。
「いた……」
呟いた声が震えた。
「よかった。ちゃんと、いた」
モサが低く鳴いた。
それは水の中で響くような音だった。耳だけではなく、足元の砂や、胸の奥にまで振動として伝わってくる。
返事だ。
波の下からの返事。
私は濡れるのも構わず、一歩前へ出た。
「怪我してない? ちゃんと食べられてる?」
言ってから、少しおかしな質問だと思った。
けれど、次の瞬間、その答えは水面の方から返ってきた。
沖の方で、海が大きく跳ねた。
何か巨大な魚影が、水面近くを逃げるように走る。
その後ろから、メガロドンの影が二つ、三つ。
さらに横からトゥソテウティスの触腕が伸び、逃げる影を容赦なく絡め取った。
海が激しく揺れる。水面が一瞬、赤黒く滲んだ。
モササウルスの一体が、何か大きなものをくわえて浮上する。獲物の形はよく分からなかった。それが魚なのか、それとも別の海棲生物なのか。
分からない。
でも、分かったことがひとつある。
食べている。
自分達で、ちゃんと狩りをして、食べている。
「……食べられてるんだ」
膝から力が抜けそうになった。
備蓄だけに頼っていない。
この子達は、この海で自力で狩りをしている。食べられるものを見つけている。自分達の力で生きている。
もちろん、それで全部安心というわけではない。
この海の生き物に毒がないとは限らない。変なものを食べて体調を崩さないとも限らない。狩りすぎれば、周辺の生態系を荒らしすぎるかもしれない。
でも、少なくとも今、目の前の子達は元気そうだった。
泳いでいる。狩っている。返事をしている。生きている。
その事実だけで、重圧で凝り固まっていた胸の奥がほどけた。
「よかった……」
今度こそ、はっきり声が震えた。
陸上の点呼とは違った。
海の子達はすぐには見えない。声をかけても、すぐに返事が返ってくるとは限らない。水面の下に沈んでいるだけかもしれないし、遠くにいるだけかもしれない。
そう分かっていても、自分の目で確認するまではひどく怖かった。
でも、今。波の下から返事があった。
水面を割って顔を出し、尾で波を叩き、巨大な影で海を動かして、ちゃんとここにいると教えてくれた。
私は膝に力を入れて、もう一度立ち直る。
「みんな、聞こえる?」
水面に、いくつもの影が集まってくる。
近すぎる。少し近すぎる。
波がどんどん押し寄せ、私の靴どころか、足首の辺りまで濡らしてくる。
シルヴィアが後ろで翼を少し広げ、不満そうに鳴いた。
「ごめん、シルヴィア。もうちょっとだけ」
シルヴィアは露骨に顔を背ける。水しぶきが本当に嫌らしい。
けれど、私のすぐ後ろから離れようとはしなかった。
海棲組の影は、砂浜の近くまで近づいてきた。
モサが一体、ゆっくりと頭を下げる。
私はその鼻先に触れられるほど近づくことはできない。波が強くて危ないし、相手が大きすぎる。
それでも、手を伸ばした。
届かない。けれど、モサはそれを見て、低く鳴いた。
「うん。いるね」
私は笑った。
プレシオサウルスが少し離れた場所で首を持ち上げる。メガロドン達が岩場近くを回る。深いところでは、トゥソテウティスの触腕がゆっくりとうねっている。バシロサウルスらしき穏やかな影が、少し沖で水面近くに浮かんでいた。
全部を一体ずつ確認することはできない。
でも、気配はある。群れがいる。
海の下に、うちの子達がいる。
「怪我してる子はいない? 変なもの食べてない? お腹は……大丈夫そうだね」
沖でまた何かが跳ねた。水しぶきが高く上がる。
その豪快な捕食の気配に、私は少しだけ頬を引きつらせた。
「うん。大丈夫そう」
大丈夫そう、というか、かなり元気そうだ。むしろ、この海の方が大丈夫か少し心配になってくる。
でも、今はその逞しさがありがたかった。
私は息を吸い、海に向かって話しかける。
「聞いて。しばらく、このあたりなら自由でいいよ」
水面が揺れた。いくつかの影が、こちらを見るように動く。
「海の中は、みんなの方がずっと分かると思う。食べられるものも見つけられてるみたいだし、泳ぐ場所もある。だから、無理に中へ戻らなくていい」
言いながら、少し不思議な気持ちになった。
昨日まで、私はみんなを『拠点の中』で確認していた。自分の区画にいてくれたことに安心した。
でも、この子達にとっては、海こそが自然な場所なのだ。
狭い水場や拠点内の区画にずっと留めるより、この広い海にいる方がいい。少なくとも、今はそう思えた。
「でも、遠くへ行きすぎないで」
私は指を一本立てた。
海の子達に人間の言葉が伝わるのかは分からない。でも、話さずにはいられなかった。
「怪我をしたら戻ってくること。変なものを見つけたら、食べる前に知らせること。知らない大きなものとか、変な匂いのするものとか、見たことないものは、すぐ食べない」
トゥソテウティスの触腕が、ゆっくりと水面を叩いた。
返事なのか、偶然なのか。私は返事として受け取る。
「必要以上に狩りすぎない。小さい子や弱い子をいじめない。海岸の近くに危ないものが来たら知らせる」
メガロドンらしき影が岩場近くで旋回する。モサが低く鳴いた。
波が、どん、と砂浜に押し寄せる。シルヴィアがまた嫌そうに顔を背けた。
「あと、変なものを見つけたら、本当に食べる前に教えてね。お願いだから」
そこは強めに言った。
何が流れ着くか分からない。何が海にいるか分からない。食べていいものと悪いものの区別が、今の私にはまだつかない。海棲組にとっては平気でも、後で面倒なことになる可能性だってある。
だから、そこだけは約束してほしかった。
水面の下から、低い振動が返ってきた。
ひとつではない。複数の影が尾を動かし、波の下で身体をひねる。
言葉ではない。でも、確かな返事だった。
波の下の返事。
私は大きく息を吐いた。
「ありがとう」
そう言うと、モサがゆっくりと沖へ向きを変えた。
メガロドン達が岩場の方へ散っていく。プレシオサウルスの長い首が水面下へ沈む。トゥソテウティスの触腕が、深い水の方へ消えていく。バシロサウルスの影が、穏やかに沖へ向かった。
海が大きく動く。波が重なる。
巨大な影が、それぞれの場所へ戻っていく。
しばらく近海で自由。
ただし、遠くへ行きすぎない。変なものは食べる前に知らせる。怪我をしたら戻る。
今は、それでいい。
私は濡れた靴を見下ろし、それから海を見た。
食料問題の答えが、ひとつだけ見つかった。
全部ではない。陸上の子達の分は、まだ何も解決していない。小型組の安全な草地も、肉食組の狩場も、採取組が動ける場所も、まだ調べなければならない。
でも、海の子達は大丈夫そうだ。
ちゃんと生きている。ちゃんと食べている。
それが、何より嬉しかった。
シルヴィアが私の肩の近くに鼻先を寄せてくる。少し不満そうだった。
「濡れたの嫌だった?」
シルヴィアは短く鼻を鳴らした。
「でも、待っててくれてありがとう」
そう言って首元を撫でると、彼女はすぐに機嫌を直した。本当に分かりやすい。
海の覇者達が水面下へ戻ったあと、私は少しだけ海岸線を歩いた。
これは環境確認だ。海棲組の無事を見られた今、ようやく周囲を見る余裕が少し出てきた。
岩場の隙間には潮溜まりがある。
小さな魚のようなものが泳いでいる場所もあった。貝に似たものもある。海藻のような植物が岩に絡みついている場所もある。
食べられるかどうかは分からない。毒がないとも限らない。海棲組が平気でも、小型組や生活組にとって安全とは限らない。
だから、すぐには使えない。いくつか持ち帰って確認する必要がある。
波の強い場所も多い。
岩場は滑りそうだし、潮の流れも複雑だ。小型組を出すには危ない。大型組でも、海に慣れていない子は近づけない方がいいかもしれない。
海岸線は、候補地にはなる。
けれど、陸上組をすぐ自由にするにはまだ早い。
「海の子達は、このあたりなら自由。陸の子達は、まだ駄目」
私はそう整理した。
シルヴィアが横で首を傾げる。
「あなたは海岸より空ね」
そう言うと、シルヴィアは当然だと言うように翼を広げた。
空なら負けない。そう言っているみたいだった。
「はいはい。頼りにしてる」
そう言うと、また得意げになる。
海棲組の迫力に少し張り合っているのかもしれない。可愛いと思った。ただ、本人に言うとまた調子に乗りそうなので、心の中だけにしておく。
海岸線の確認を終えた私は、シルヴィアの背に乗った。
現実の鱗は硬く、温かい。翼の付け根からは、微かな雷の匂いがする。
「少し上から見るよ。高すぎなくていいから」
シルヴィアは低く鳴く。
そして、翼を広げた。
海風が一気に強くなる。
砂が舞い、草が倒れ、私の髪が後ろへ流れる。
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
地面が離れる。海岸線が下へ落ちていく。水面の影が、小さくなる。
さっきまであれほど大きく見えたモサ達の影も、上から見ると海の模様のように見えた。
もちろん、よく見れば十分大きい。十分、ありえない。でも、空から見ると、海そのものがもっと大きかった。
シルヴィアはゆっくり高度を上げる。
私は鱗にしがみつきながら、周囲を見渡した。
海岸線が弧を描いている。
草地があり、森があり、岩場があり、その奥に山がある。山の中腹には霧のようなものがかかっている。森は深く、場所によっては朝なのに影が濃い。
川のような筋も見えた。
水場はある。草地もある。岩場もある。採取できそうな場所はいくつかありそうだった。
ただし、どこが安全かはまだ分からない。
さらに視線を遠くへ向ける。
海。その向こうも、海。右も、左も、海岸線が続き、やがて大きく曲がっている。
しばらく見て、私はようやく呟いた。
「……島、だ」
たぶん、島だ。
少なくとも、見える範囲では海に囲まれている。
それが分かった瞬間、不安が少しだけ増えた。
逃げ場がない、という意味ではない。いや、それもある。
でもそれ以上に、『ここで生活基盤を作らなければならない』という感覚が強くなった。
どこかへ歩いて町を探す。そういう場所ではないのかもしれない。
私はさらに周囲を見る。
煙は見えない。畑のようなものもない。道も見当たらない。港もない。人が作った壁や建物らしきものも、少なくとも今見える範囲にはなかった。
「……見える範囲では、人の気配なし」
私は小さく呟き、主任が用意してくれた板に簡単な印をつけた。
『島らしい』
『海岸線あり』
『森あり』
『山あり』
『川らしきものあり』
『文明跡、今のところなし』
書きながら、少しだけ変な気分になった。
普通なら、もっと大きく動揺するべきなのかもしれない。
でも、今の私の胸の中心にあるのは、やっぱり別のことだった。
海の子達がいた。ちゃんと食べていた。
それに比べると、島かどうかや文明があるかどうかは、重要だけれど少し遠い。
もちろん、後でちゃんと考えなければならない。でも今は、暮らすための情報のひとつとして受け止めるのが精一杯だった。
「戻ろう。今日は、これくらいでいい」
シルヴィアが短く鳴く。少し名残惜しそうだった。
空を飛ぶのが楽しいのか、私を乗せているのが嬉しいのか。たぶん、両方だ。
「また来るよ。まだ見ないといけない場所、いっぱいあるし」
そう言うと、シルヴィアは満足そうに翼を傾けた。
拠点へ戻る。
上空から見ると、まだ名前のない家は、改めて妙な形をしていた。
城のような外壁。増築された居住区。高所の足場。巨大な門。
その中心に、温かい生活の気配がある。
近づくにつれ、正門のカイザーが見えた。
黒い巨体が、門の横で静かに伏せている。
高所ではワイバーン達がこちらを見上げていた。
工房の前には主任がいる。
小型区画の方には、小さな影がいくつか集まっている。
帰ってくる場所だ。そう思った。
シルヴィアは正門近くに降り立った。
着地の風で草が大きく揺れる。私は背から降り、首元を撫でた。
「ありがとう。助かったよ」
シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。褒められると、本当に分かりやすい。
私は中央広場へ戻り、簡単に今日見たことを整理することにした。
報告相手は、人間ではない。でも、聞いてくれる子達はいる。
シルヴィアは隣にいる。カイザーは正門で片目を開けている。高所のワイバーン達も、こちらを見ている気配がある。小型組の何体かは、広場の端で丸くなっていた。
主任はいつの間にか、木片のようなものを用意していた。
私はそれを見て、少しだけ笑う。
「主任、ありがとう」
主任は片手を上げた。
私は木片の上に、簡単な印をつけながら話す。
「海の子達は無事。ちゃんといた。もう自分達で食べてた」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がまた少し熱くなる。
今日一番大事だったこと。それは、そこだ。
「海には食べ物がありそう。海の子達は、近くなら自由で大丈夫そう。ただし、遠くに行きすぎないこと。変なものは食べる前に知らせること。怪我をしたら戻ること。これは伝えた」
シルヴィアが横で鼻を鳴らす。自分も一緒にいた、と言いたげだ。
「うん。シルヴィアも一緒にいたね。偉かった」
シルヴィアは満足そうに首を上げた。
私は続ける。
「海岸は、食べ物や資源がありそう。でも波が強いし、岩場も多い。小さい子達や陸の子達をすぐ出すにはまだ危ない。持ち帰って確認した方がいいものもある」
小型区画の方から、小さな鳴き声がした。
「だから、まだ待ってて」
私はそちらへ視線を向けて、優しく言った。
それから、板に次の印をつける。
「上から見た感じ、ここは島みたい。森と草地と山と川らしきものがある。見える範囲では、町とか道とか港とか、煙とか畑とかは見えなかった」
言ってから、少しだけ息を吐く。
「つまり、少なくとも今は、私達で何とかするしかない」
その言葉は重い。でも、怖いだけではなかった。
海の子達がいた。海には食料があった。
ひとつは進んだ。
「次は、陸を見る。草食の子達が食べられるもの。肉食の子達の狩場。採取組が動ける場所。小さい子達が日向ぼっこできる範囲。森や草地に危ないものがないか」
言いながら、私は海の方を思い出していた。
波の下から、返事があった。巨大な影が水面を動かし、尾が波を叩き、低い振動が足元まで届いた。
あの子達はいた。ちゃんと食べていた。
それだけで、今日の調査には大きな意味があった。
私は広場から海の方角を見た。
ここから海は見えない。けれど、風に少しだけ潮の匂いが混じっていた。
海には、怖いものだけではなく、暮らしていくための答えがあった。
でも、陸の答えはまだ見つかっていない。
だから次は、地面の上を見なければならない。
「次は、陸の食べ物を探そう」
そう呟くと、シルヴィアが短く鳴いた。行く気満々の声だった。
私はその鼻先を撫でて、小さく笑う。
波の下には、返事があった。
ならきっと、この知らない島のどこかにも、私達がここで生きていくための答えがある。
それを探すのが、次に私がやることだった。