廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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波の下の返事

門の外へ踏み出した瞬間、風の匂いががらりと変わった。

 

 

拠点の中にも風は吹き込んでいたし、草や土、潮の気配はあった。けれど、門を越えた先の空気は、むせ返るほどに濃密だった。

 

 

湿った土の匂い。朝露を含んだ草の青さ。遠くから響く波の音。

 

名前も知らない鳥か、あるいはそれに似た何かの鳴き声。

 

 

足元には、踏み固められた拠点の床ではなく、柔らかな草と湿った地面がある。靴底がわずかに沈み、草の葉が足首をくすぐった。

 

 

外だ。見知らぬ土地。

 

いや、家の外だ。

 

 

一度だけ振り返る。

 

正門の横にはカイザーが伏せている。黒い巨体は動かず、ただ静かにこちらを見送っていた。高所にはワイバーン達の気配がある。奥の方には小型組や生活組のいる区画があり、工房の前ではヘルメット姿の主任が片手を上げている。

 

 

みんな、こちらを見ていた。

 

私は小さく手を振った。

 

 

「行ってくる」

 

 

声は風に流された。けれど、確かに届いた気がした。

 

 

シルヴィアが私の隣で翼を広げる。

 

朝の光を受けた紫がかった鱗がきらりと光り、身体の内側を流れる青白い光がゆっくりと脈打つ。翼を広げる姿だけを見れば、空を支配する竜そのものだった。

 

 

それなのに、私をちらりと見る顔は、どこか得意げだ。

 

『どうだ、格好いいだろう』。そう言っているようにしか見えない。

 

 

「うん、格好いいよ」

 

 

そう言うと、シルヴィアはさらに誇らしげに胸を張った。

 

……たぶん、本当に褒められるのを待っていたのだろう。

 

威厳はある。あるはずなのに、すぐ消える。

 

 

私はふっと笑って、シルヴィアの首元に手を添えた。

 

 

「まず、近くを見よう。いきなり遠くには行かないよ」

 

 

シルヴィアは短く喉を鳴らした。分かっているのか、分かっていないのか。

 

でも、私が歩き出すとシルヴィアも隣を歩き始める。あんなに巨大な身体なのに、私に合わせて歩幅を調整してくれているのが分かった。

 

 

門から外へ続く道は、思っていたより広かった。

 

正確には、道というより、何度も何かが通ったことで草が押し潰され、地面が固まった場所だ。大型の子が通るなら、もう少し整えた方がいい。小型組だけなら大丈夫そうだが、草むらが深い場所は少し不安だった。

 

 

周囲を見回しながら、頭の中で印をつけていく。

 

 

門のすぐ近くは見通しがいい。

 

小型の子達を少し日向に出すなら、このあたりが候補になるかもしれない。ただ、草の中に何がいるか分からない。昨日見た小動物くらいならいいが、毒のある虫や、噛みつく生き物がいないとも限らない。

 

 

右手側には、少し低い岩場が続いている。大型組が踏み込んでも崩れるような場所ではなさそうだが、小さい子が足を挟むかもしれない。

 

 

左側は草地が広い。

 

ただし、奥の方は森に近い。木々が太く、葉が重なり、朝の光を受けても内側は暗かった。

 

 

「あの辺りは、まだ駄目かな」

 

 

小さく呟く。

 

シルヴィアが私の視線を追って森を見た。

 

深い緑の奥で、何かが動いた気配がした。枝が大きく揺れる。遠くから、低い鳴き声が一度だけ響いた。

 

 

普通の人間なら、その時点で引き返しただろう。

 

私も警戒はした。けれど、恐怖で足がすくむほどではなかった。

 

 

この島は危険だ。それは分かる。

 

でも、少なくとも拠点の近くは、すぐに大型組がどうにもならないほどの場所ではなさそうだった。

 

 

小型組はまだ駄目。大型組は、場所を選べば大丈夫かもしれない。採取組を出すなら、森へ行く道を整える必要がある。ワイバーン達が降りるには、あの木が少し邪魔かもしれない。主任に見てもらえば、簡単な柵や目印くらいは置けるだろうか。

 

 

考えながら進んでいると、ふいに潮の匂いが濃くなった。

 

波の音が近づいている。私は足を止め、海の方を見た。

 

 

最初に確認しなければならない場所は決めていた。

 

海岸線。

 

 

理由は、食料資源がありそうだから。それもある。

 

でも、本当はそれだけではない。

 

 

陸上の子達は、拠点内で無事を確認した。

 

シルヴィアもいた。カイザーもいた。小型組も、採取組も、主任もいた。

 

けれど、まだちゃんと見に行けていない子達がいる。

 

 

水の中の子達。海棲組だ。

 

 

あの子達がどこにいるのか。無事なのか。食べられているのではないか。怪我をしていないか。

 

それが、ずっと気にかかっていた。

 

 

食料問題は大事だ。でも、その前に。

 

海の子達が、ちゃんといるか確認したい。

 

 

「シルヴィア、海に行こう」

 

 

シルヴィアは一瞬だけ海の方を見た。そして、少しだけ首を引いた。

 

……もしかして、海はあまり好きではないのだろうか。

 

 

空の子だから、当然といえば当然かもしれない。シルヴィアの絶対領域は空であって、水の中ではない。私だって、目の前であんなに広い海がうねっていたら怖い。

 

 

「大丈夫。入らないから。海岸から見るだけ」

 

 

そう言うと、シルヴィアは少し不満そうに鼻を鳴らした。

 

けれど、すぐに私の前へ出る。案内役のつもりらしい。

 

数歩進んでは振り返る。ちゃんとついてきているか確認している。さらに進んで、また振り返る。

 

 

「見てるよ。ちゃんと見てる」

 

 

私がそう言うと、シルヴィアは満足そうに喉を鳴らした。

 

やっぱり、褒められたいだけではないだろうか。

 

 

海へ向かう道は、最初は草地だった。

 

足元には背の低い草が広がり、ところどころに白い花が咲いている。少し歩くと地面が固くなり、黒い石が増えた。さらに進むと、砂混じりの土に変わっていく。

 

 

潮の匂いが強くなる。波の音が大きくなる。

 

森の匂いが遠ざかり、かわりに塩と湿った岩の匂いが鼻をついた。

 

 

途中、砂地に巨大な骨のようなものが半分埋まっていた。

 

何の骨かは分からない。普通の魚や獣のものではない。長く、太く、表面が波で滑らかに磨かれていた。

 

私は少しだけ立ち止まり、それを見る。

 

 

「後で確認かな」

 

 

今は違う。今は海の子達だ。

 

 

海岸線に出ると、視界が一気に開けた。

 

 

海だった。

 

黒に近い深い青の水面が、朝の光を受けてぎらぎらと揺れている。波は思っていたより強く、岩にぶつかるたびに激しい飛沫を上げていた。

 

 

砂浜はある。けれど、穏やかな海岸ではない。

 

黒い岩場が点々と突き出し、その間を白い泡が走る。少し沖には岩礁があり、海流が複雑に渦を巻いているように見えた。

 

 

海鳥のような鳴き声が空から聞こえる。

 

けれど、見上げても普通の海鳥はいなかった。遠くを飛ぶ影は大きく、羽ばたきの形も違う。

 

私はそれを深く考えないことにした。

 

 

今は海だ。

 

目の前の水面を見つめる。

 

 

広い。怖い。

 

けれど、同時に少しだけ安心もあった。

 

 

海がある。ここには食べ物があるかもしれない。

 

魚も、海藻のようなものも、貝も、何かしらの資源があるかもしれない。

 

 

でも、それより先に胸を占めたのは、別の不安だった。

 

 

海の子達は、いるだろうか。

 

怪我をしていないだろうか。お腹を空かせていないだろうか。

 

知らない海で、困っていないだろうか。

 

 

砂浜の端まで歩き、波が届くぎりぎりの場所に立った。

 

シルヴィアが少し後ろで足を止める。海に近づきすぎたくないらしい。

 

 

「大丈夫。無理に近づかなくていいよ」

 

 

そう言うと、シルヴィアは少しだけ安心したように鼻を鳴らした。

 

 

私は水面を見つめる。

 

波が寄せては返る。岩にぶつかり、白く砕ける。

 

水面の下は暗い。深い場所ほど、何も見えない。

 

 

「……いる?」

 

 

声をかける。

 

波の音にすぐかき消された。届いたかどうかは分からない。

 

私はもう一度、少し大きめに声を出した。

 

 

「みんな、いる?」

 

 

返事はない。波が砕ける音だけが返ってくる。

 

胸が、じわりと冷えた。

 

 

陸上の子達は、名前を呼べば何かしら返してくれた。姿も見えた。鳴き声も聞こえた。

 

けれど、海の中は違う。

 

 

水面の下にいれば見えない。遠くにいれば声も届かない。深く潜っていれば、そこにいるのかすら分からない。

 

もし、いなかったら。どこか遠くへ行ってしまっていたら。この海に何か危険なものがいて、傷ついていたら。

 

 

嫌な想像が頭をよぎる。手を固く握りしめた。

 

もう一度呼ぼうとした、その時だった。

 

 

沖の水面が、不自然に盛り上がった。

 

波ではない。海そのものが、下から押し上げられたように膨らんだのだ。

 

 

次の瞬間、黒い影が水面の下を横切る。

 

大きい。影だけで、馬鹿みたいに大きい。

 

私は息を止めた。

 

 

さらに別の影が動く。

 

岩場の近くを、細長い影が旋回した。背びれのようなものが一瞬だけ水面を切り、すぐに沈む。

 

 

その奥で、もっと規格外の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。

 

水が盛り上がり、白い飛沫が弾ける。

 

巨大な頭が、海面を割って現れた。

 

 

モササウルス。

 

 

その名が、自然に頭に浮かぶ。

 

海の中から現れた巨体は、こちらを見ていた。

 

濡れた鱗が朝日に光り、顎の間から海水が滝のように落ちている。目は陸の生き物とは違う冷たさを持っているのに、その視線に敵意はなかった。

 

 

「あ……」

 

 

声が漏れた。

 

いた。ちゃんといた。

 

 

モサの巨体がゆっくりと近づくたび、波が押し寄せる。私の足元まで飛沫が届き、靴を濡らした。

 

シルヴィアが後ろで不満そうに鼻を鳴らす。水しぶきが嫌なのだろう。

 

でも、私はそれどころではなかった。

 

 

水面の下に、さらに影が増えている。

 

 

メガロドンらしき鋭い輪郭が岩場近くを回っている。

 

プレシオサウルスの長い首が、少し離れた場所で水面を割る。

 

重そうな鎧のような姿、ダンクルオステウスの影が、さらに下をゆっくり進んでいる。

 

そして、沖の暗い水の中から、太い触腕が一本、二本と浮かび上がった。

 

 

トゥソテウティス。

 

 

長大な触腕が水面近くでゆっくりとうねり、海水を押しのける。

 

何も知らない人 がこの光景を見たら、たぶん足から崩れ落ちるだろう。海が、怪物で満ちているように見えるはずだ。

 

 

けれど、私の胸に最初に来たのは恐怖ではなかった。

 

安堵だった。

 

 

「いた……」

 

 

呟いた声が震えた。

 

 

「よかった。ちゃんと、いた」

 

 

モサが低く鳴いた。

 

それは水の中で響くような音だった。耳だけではなく、足元の砂や、胸の奥にまで振動として伝わってくる。

 

 

返事だ。

 

波の下からの返事。

 

 

私は濡れるのも構わず、一歩前へ出た。

 

 

「怪我してない? ちゃんと食べられてる?」

 

 

言ってから、少しおかしな質問だと思った。

 

けれど、次の瞬間、その答えは水面の方から返ってきた。

 

 

沖の方で、海が大きく跳ねた。

 

何か巨大な魚影が、水面近くを逃げるように走る。

 

その後ろから、メガロドンの影が二つ、三つ。

 

さらに横からトゥソテウティスの触腕が伸び、逃げる影を容赦なく絡め取った。

 

 

海が激しく揺れる。水面が一瞬、赤黒く滲んだ。

 

 

モササウルスの一体が、何か大きなものをくわえて浮上する。獲物の形はよく分からなかった。それが魚なのか、それとも別の海棲生物なのか。

 

 

分からない。

 

でも、分かったことがひとつある。

 

 

食べている。

 

自分達で、ちゃんと狩りをして、食べている。

 

 

「……食べられてるんだ」

 

 

膝から力が抜けそうになった。

 

備蓄だけに頼っていない。

 

この子達は、この海で自力で狩りをしている。食べられるものを見つけている。自分達の力で生きている。

 

 

もちろん、それで全部安心というわけではない。

 

この海の生き物に毒がないとは限らない。変なものを食べて体調を崩さないとも限らない。狩りすぎれば、周辺の生態系を荒らしすぎるかもしれない。

 

 

でも、少なくとも今、目の前の子達は元気そうだった。

 

 

泳いでいる。狩っている。返事をしている。生きている。

 

その事実だけで、重圧で凝り固まっていた胸の奥がほどけた。

 

 

「よかった……」

 

 

今度こそ、はっきり声が震えた。

 

陸上の点呼とは違った。

 

海の子達はすぐには見えない。声をかけても、すぐに返事が返ってくるとは限らない。水面の下に沈んでいるだけかもしれないし、遠くにいるだけかもしれない。

 

そう分かっていても、自分の目で確認するまではひどく怖かった。

 

 

でも、今。波の下から返事があった。

 

水面を割って顔を出し、尾で波を叩き、巨大な影で海を動かして、ちゃんとここにいると教えてくれた。

 

 

私は膝に力を入れて、もう一度立ち直る。

 

 

「みんな、聞こえる?」

 

 

水面に、いくつもの影が集まってくる。

 

近すぎる。少し近すぎる。

 

波がどんどん押し寄せ、私の靴どころか、足首の辺りまで濡らしてくる。

 

 

シルヴィアが後ろで翼を少し広げ、不満そうに鳴いた。

 

 

「ごめん、シルヴィア。もうちょっとだけ」

 

 

シルヴィアは露骨に顔を背ける。水しぶきが本当に嫌らしい。

 

けれど、私のすぐ後ろから離れようとはしなかった。

 

 

海棲組の影は、砂浜の近くまで近づいてきた。

 

モサが一体、ゆっくりと頭を下げる。

 

私はその鼻先に触れられるほど近づくことはできない。波が強くて危ないし、相手が大きすぎる。

 

それでも、手を伸ばした。

 

 

届かない。けれど、モサはそれを見て、低く鳴いた。

 

 

「うん。いるね」

 

 

私は笑った。

 

プレシオサウルスが少し離れた場所で首を持ち上げる。メガロドン達が岩場近くを回る。深いところでは、トゥソテウティスの触腕がゆっくりとうねっている。バシロサウルスらしき穏やかな影が、少し沖で水面近くに浮かんでいた。

 

 

全部を一体ずつ確認することはできない。

 

でも、気配はある。群れがいる。

 

海の下に、うちの子達がいる。

 

 

「怪我してる子はいない? 変なもの食べてない? お腹は……大丈夫そうだね」

 

 

沖でまた何かが跳ねた。水しぶきが高く上がる。

 

その豪快な捕食の気配に、私は少しだけ頬を引きつらせた。

 

 

「うん。大丈夫そう」

 

 

大丈夫そう、というか、かなり元気そうだ。むしろ、この海の方が大丈夫か少し心配になってくる。

 

でも、今はその逞しさがありがたかった。

 

 

私は息を吸い、海に向かって話しかける。

 

 

「聞いて。しばらく、このあたりなら自由でいいよ」

 

 

水面が揺れた。いくつかの影が、こちらを見るように動く。

 

 

「海の中は、みんなの方がずっと分かると思う。食べられるものも見つけられてるみたいだし、泳ぐ場所もある。だから、無理に中へ戻らなくていい」

 

 

言いながら、少し不思議な気持ちになった。

 

昨日まで、私はみんなを『拠点の中』で確認していた。自分の区画にいてくれたことに安心した。

 

でも、この子達にとっては、海こそが自然な場所なのだ。

 

狭い水場や拠点内の区画にずっと留めるより、この広い海にいる方がいい。少なくとも、今はそう思えた。

 

 

「でも、遠くへ行きすぎないで」

 

 

私は指を一本立てた。

 

海の子達に人間の言葉が伝わるのかは分からない。でも、話さずにはいられなかった。

 

 

「怪我をしたら戻ってくること。変なものを見つけたら、食べる前に知らせること。知らない大きなものとか、変な匂いのするものとか、見たことないものは、すぐ食べない」

 

 

トゥソテウティスの触腕が、ゆっくりと水面を叩いた。

 

返事なのか、偶然なのか。私は返事として受け取る。

 

 

「必要以上に狩りすぎない。小さい子や弱い子をいじめない。海岸の近くに危ないものが来たら知らせる」

 

 

メガロドンらしき影が岩場近くで旋回する。モサが低く鳴いた。

 

波が、どん、と砂浜に押し寄せる。シルヴィアがまた嫌そうに顔を背けた。

 

 

「あと、変なものを見つけたら、本当に食べる前に教えてね。お願いだから」

 

 

そこは強めに言った。

 

何が流れ着くか分からない。何が海にいるか分からない。食べていいものと悪いものの区別が、今の私にはまだつかない。海棲組にとっては平気でも、後で面倒なことになる可能性だってある。

 

だから、そこだけは約束してほしかった。

 

 

水面の下から、低い振動が返ってきた。

 

ひとつではない。複数の影が尾を動かし、波の下で身体をひねる。

 

言葉ではない。でも、確かな返事だった。

 

 

波の下の返事。

 

 

私は大きく息を吐いた。

 

 

「ありがとう」

 

 

そう言うと、モサがゆっくりと沖へ向きを変えた。

 

メガロドン達が岩場の方へ散っていく。プレシオサウルスの長い首が水面下へ沈む。トゥソテウティスの触腕が、深い水の方へ消えていく。バシロサウルスの影が、穏やかに沖へ向かった。

 

 

海が大きく動く。波が重なる。

 

巨大な影が、それぞれの場所へ戻っていく。

 

 

しばらく近海で自由。

 

ただし、遠くへ行きすぎない。変なものは食べる前に知らせる。怪我をしたら戻る。

 

今は、それでいい。

 

 

私は濡れた靴を見下ろし、それから海を見た。

 

 

食料問題の答えが、ひとつだけ見つかった。

 

全部ではない。陸上の子達の分は、まだ何も解決していない。小型組の安全な草地も、肉食組の狩場も、採取組が動ける場所も、まだ調べなければならない。

 

 

でも、海の子達は大丈夫そうだ。

 

ちゃんと生きている。ちゃんと食べている。

 

それが、何より嬉しかった。

 

 

シルヴィアが私の肩の近くに鼻先を寄せてくる。少し不満そうだった。

 

 

「濡れたの嫌だった?」

 

 

シルヴィアは短く鼻を鳴らした。

 

 

「でも、待っててくれてありがとう」

 

 

そう言って首元を撫でると、彼女はすぐに機嫌を直した。本当に分かりやすい。

 

 

海の覇者達が水面下へ戻ったあと、私は少しだけ海岸線を歩いた。

 

これは環境確認だ。海棲組の無事を見られた今、ようやく周囲を見る余裕が少し出てきた。

 

 

岩場の隙間には潮溜まりがある。

 

小さな魚のようなものが泳いでいる場所もあった。貝に似たものもある。海藻のような植物が岩に絡みついている場所もある。

 

 

食べられるかどうかは分からない。毒がないとも限らない。海棲組が平気でも、小型組や生活組にとって安全とは限らない。

 

だから、すぐには使えない。いくつか持ち帰って確認する必要がある。

 

 

波の強い場所も多い。

 

岩場は滑りそうだし、潮の流れも複雑だ。小型組を出すには危ない。大型組でも、海に慣れていない子は近づけない方がいいかもしれない。

 

 

海岸線は、候補地にはなる。

 

けれど、陸上組をすぐ自由にするにはまだ早い。

 

 

「海の子達は、このあたりなら自由。陸の子達は、まだ駄目」

 

 

私はそう整理した。

 

シルヴィアが横で首を傾げる。

 

 

「あなたは海岸より空ね」

 

 

そう言うと、シルヴィアは当然だと言うように翼を広げた。

 

空なら負けない。そう言っているみたいだった。

 

 

「はいはい。頼りにしてる」

 

 

そう言うと、また得意げになる。

 

海棲組の迫力に少し張り合っているのかもしれない。可愛いと思った。ただ、本人に言うとまた調子に乗りそうなので、心の中だけにしておく。

 

 

海岸線の確認を終えた私は、シルヴィアの背に乗った。

 

現実の鱗は硬く、温かい。翼の付け根からは、微かな雷の匂いがする。

 

 

「少し上から見るよ。高すぎなくていいから」

 

 

シルヴィアは低く鳴く。

 

そして、翼を広げた。

 

 

海風が一気に強くなる。

 

砂が舞い、草が倒れ、私の髪が後ろへ流れる。

 

次の瞬間、身体がふわりと浮いた。

 

 

地面が離れる。海岸線が下へ落ちていく。水面の影が、小さくなる。

 

さっきまであれほど大きく見えたモサ達の影も、上から見ると海の模様のように見えた。

 

もちろん、よく見れば十分大きい。十分、ありえない。でも、空から見ると、海そのものがもっと大きかった。

 

 

シルヴィアはゆっくり高度を上げる。

 

私は鱗にしがみつきながら、周囲を見渡した。

 

 

海岸線が弧を描いている。

 

草地があり、森があり、岩場があり、その奥に山がある。山の中腹には霧のようなものがかかっている。森は深く、場所によっては朝なのに影が濃い。

 

 

川のような筋も見えた。

 

水場はある。草地もある。岩場もある。採取できそうな場所はいくつかありそうだった。

 

ただし、どこが安全かはまだ分からない。

 

 

さらに視線を遠くへ向ける。

 

海。その向こうも、海。右も、左も、海岸線が続き、やがて大きく曲がっている。

 

 

しばらく見て、私はようやく呟いた。

 

 

「……島、だ」

 

 

たぶん、島だ。

 

少なくとも、見える範囲では海に囲まれている。

 

 

それが分かった瞬間、不安が少しだけ増えた。

 

逃げ場がない、という意味ではない。いや、それもある。

 

でもそれ以上に、『ここで生活基盤を作らなければならない』という感覚が強くなった。

 

どこかへ歩いて町を探す。そういう場所ではないのかもしれない。

 

 

私はさらに周囲を見る。

 

煙は見えない。畑のようなものもない。道も見当たらない。港もない。人が作った壁や建物らしきものも、少なくとも今見える範囲にはなかった。

 

 

「……見える範囲では、人の気配なし」

 

 

私は小さく呟き、主任が用意してくれた板に簡単な印をつけた。

 

 

『島らしい』

 

『海岸線あり』

 

『森あり』

 

『山あり』

 

『川らしきものあり』

 

『文明跡、今のところなし』

 

 

書きながら、少しだけ変な気分になった。

 

普通なら、もっと大きく動揺するべきなのかもしれない。

 

でも、今の私の胸の中心にあるのは、やっぱり別のことだった。

 

 

海の子達がいた。ちゃんと食べていた。

 

それに比べると、島かどうかや文明があるかどうかは、重要だけれど少し遠い。

 

もちろん、後でちゃんと考えなければならない。でも今は、暮らすための情報のひとつとして受け止めるのが精一杯だった。

 

 

「戻ろう。今日は、これくらいでいい」

 

 

シルヴィアが短く鳴く。少し名残惜しそうだった。

 

空を飛ぶのが楽しいのか、私を乗せているのが嬉しいのか。たぶん、両方だ。

 

 

「また来るよ。まだ見ないといけない場所、いっぱいあるし」

 

 

そう言うと、シルヴィアは満足そうに翼を傾けた。

 

 

拠点へ戻る。

 

上空から見ると、まだ名前のない家は、改めて妙な形をしていた。

 

城のような外壁。増築された居住区。高所の足場。巨大な門。

 

その中心に、温かい生活の気配がある。

 

 

近づくにつれ、正門のカイザーが見えた。

 

黒い巨体が、門の横で静かに伏せている。

 

高所ではワイバーン達がこちらを見上げていた。

 

工房の前には主任がいる。

 

小型区画の方には、小さな影がいくつか集まっている。

 

 

帰ってくる場所だ。そう思った。

 

 

シルヴィアは正門近くに降り立った。

 

着地の風で草が大きく揺れる。私は背から降り、首元を撫でた。

 

 

「ありがとう。助かったよ」

 

 

シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。褒められると、本当に分かりやすい。

 

 

私は中央広場へ戻り、簡単に今日見たことを整理することにした。

 

報告相手は、人間ではない。でも、聞いてくれる子達はいる。

 

 

シルヴィアは隣にいる。カイザーは正門で片目を開けている。高所のワイバーン達も、こちらを見ている気配がある。小型組の何体かは、広場の端で丸くなっていた。

 

主任はいつの間にか、木片のようなものを用意していた。

 

 

私はそれを見て、少しだけ笑う。

 

 

「主任、ありがとう」

 

 

主任は片手を上げた。

 

私は木片の上に、簡単な印をつけながら話す。

 

 

「海の子達は無事。ちゃんといた。もう自分達で食べてた」

 

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥がまた少し熱くなる。

 

今日一番大事だったこと。それは、そこだ。

 

 

「海には食べ物がありそう。海の子達は、近くなら自由で大丈夫そう。ただし、遠くに行きすぎないこと。変なものは食べる前に知らせること。怪我をしたら戻ること。これは伝えた」

 

 

シルヴィアが横で鼻を鳴らす。自分も一緒にいた、と言いたげだ。

 

 

「うん。シルヴィアも一緒にいたね。偉かった」

 

 

シルヴィアは満足そうに首を上げた。

 

私は続ける。

 

 

「海岸は、食べ物や資源がありそう。でも波が強いし、岩場も多い。小さい子達や陸の子達をすぐ出すにはまだ危ない。持ち帰って確認した方がいいものもある」

 

 

小型区画の方から、小さな鳴き声がした。

 

 

「だから、まだ待ってて」

 

 

私はそちらへ視線を向けて、優しく言った。

 

それから、板に次の印をつける。

 

 

「上から見た感じ、ここは島みたい。森と草地と山と川らしきものがある。見える範囲では、町とか道とか港とか、煙とか畑とかは見えなかった」

 

 

言ってから、少しだけ息を吐く。

 

 

「つまり、少なくとも今は、私達で何とかするしかない」

 

 

その言葉は重い。でも、怖いだけではなかった。

 

海の子達がいた。海には食料があった。

 

ひとつは進んだ。

 

 

「次は、陸を見る。草食の子達が食べられるもの。肉食の子達の狩場。採取組が動ける場所。小さい子達が日向ぼっこできる範囲。森や草地に危ないものがないか」

 

 

言いながら、私は海の方を思い出していた。

 

波の下から、返事があった。巨大な影が水面を動かし、尾が波を叩き、低い振動が足元まで届いた。

 

あの子達はいた。ちゃんと食べていた。

 

 

それだけで、今日の調査には大きな意味があった。

 

 

私は広場から海の方角を見た。

 

ここから海は見えない。けれど、風に少しだけ潮の匂いが混じっていた。

 

 

海には、怖いものだけではなく、暮らしていくための答えがあった。

 

でも、陸の答えはまだ見つかっていない。

 

だから次は、地面の上を見なければならない。

 

 

「次は、陸の食べ物を探そう」

 

 

そう呟くと、シルヴィアが短く鳴いた。行く気満々の声だった。

 

私はその鼻先を撫でて、小さく笑う。

 

 

波の下には、返事があった。

 

ならきっと、この知らない島のどこかにも、私達がここで生きていくための答えがある。

 

それを探すのが、次に私がやることだった。

 

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