ルミエール中等女学院で、ソフィア・アステールの名前を知らない生徒はいなかった。
朝の鐘が鳴る少し前、白い石畳の道を歩くだけで、廊下の声が一つずつ柔らかくなる。下級生たちは慌てて姿勢を正し、同級生たちは軽く手を上げ、教師は遠くからでも目元を和らげた。
それは、ソフィアが怖がられているからではない。
成績首席。生徒会長。礼法、魔術理論、実技、剣術、交渉実習、そのどれも首位。加えて、誰かが困っていれば足を止める。面倒な役目でも、必要なら引き受ける。自分が目立つことに慣れていながら、それを人に押しつけない。
だから皆、ソフィアの姿を見ると少しだけ背筋を伸ばしたくなる。
そういう人だった。
「ソフィア様、おはようございます!」
温室棟へ向かう渡り廊下で、二年生の少女がぱっと顔を上げた。胸元のリボンが少し曲がっていて、本人はそれに気づいていない。
「おはようございます、ミーナさん。今日は卒業式の準備でしょう? リボン、少しだけ直してもいいですか」
「えっ、あ、はい……!」
ミーナは緊張で固まったまま、顎を引いた。
ソフィアは笑って、指先でリボンの端を整えた。強く引かず、布の流れだけを直す。指が触れた一瞬、ミーナの頬が分かりやすく赤くなった。
「これで大丈夫です。せっかくの式ですから、綺麗にしておきましょう」
「ありがとうございます……あの、ソフィア様」
「はい?」
「聖アステリア高等女学院に行っても、たまにお手紙、いただけますか」
その言葉に、周りで準備をしていた下級生たちの手が止まった。皆、聞いていないふりをしている。けれど、耳だけはこちらを向いているのが分かった。
ソフィアは少しだけ困って、でも誤魔化さずに頷いた。
「必ず返せるとは言えません。ですが、いただいた手紙はちゃんと読みます。私も、ルミエールのことを忘れたくありませんから」
ミーナの顔が、泣きそうに歪む。
「……はい」
「泣くのは、式の後にしてくださいね。今泣いてしまうと、せっかく直したリボンが濡れてしまいます」
「ソフィア様、そういう言い方、ずるいです……」
周りから小さな笑いが漏れた。
その輪の中を抜けて、ソフィアは生徒会室へ向かった。今日で、この部屋を使うのも最後になる。
扉を開けると、机の上には卒業式の進行表、来賓名簿、在校生代表の挨拶文、教師から預かった確認書類が並んでいた。すべて昨日のうちに整理しておいたものだ。
それなのに、一番上の挨拶文だけが、少しずれている。
ソフィアは机の前で足を止めた。
「……誰か、触りました?」
部屋にいた副会長のラウラが顔を上げる。淡い茶色の髪を一つに結んだ、しっかり者の同級生だった。
「私は触ってないわ。朝一番に来た時には、そのままだったと思うけど」
「そうですか」
ソフィアは紙を持ち上げた。端に、薄くインクが滲んでいる。読めないほどではない。けれど、式で使う紙としてはよくない。
ラウラの眉が寄った。
「誰かの嫌がらせ?」
「まだ決めつけません。ですが、このままでは使えませんね。予備は?」
「昨日、あなたが封筒に入れて棚の二段目に置いたわ」
「さすがです。では予備を使いましょう」
ソフィアが棚へ手を伸ばした時、扉の外で小さな物音がした。
ラウラが先に動こうとした。けれどソフィアは首を振り、扉を開けた。
廊下に立っていたのは、同じ三年生のエレーヌだった。成績は常に上位。家柄もよく、礼法の授業ではソフィアと並ぶこともあった少女だ。
ただ、今日は顔色が悪い。
「エレーヌさん」
ソフィアは名前を呼んだ。
エレーヌは口元だけで笑う。
「卒業式の朝から大変ね、ソフィア。生徒会長は最後まで忙しそう」
「ええ。ですが、やることがあるのはありがたいことです」
「余裕ね。聖アステリアに行く人は違うわ」
声は綺麗だった。
綺麗な分だけ、棘がはっきりしている。
ラウラが一歩前に出た。
「エレーヌ、あなた――」
「ラウラさん」
ソフィアは静かに止めた。
エレーヌの視線が、机の上の滲んだ紙へ流れた。その一瞬で、ソフィアには大体のことが分かった。
分かったけれど、すぐには言わない。
「エレーヌさん。今朝、誰かが挨拶文に触れたようです。あなたは何か知っていますか」
「私が知るわけないでしょう」
「そうですか」
「疑っているの?」
「確認しています」
エレーヌの表情が強張った。
「同じことじゃない」
「違います。疑うなら、私はもう少し厳しい聞き方をします」
ラウラが横で小さく息を呑んだ。
エレーヌも、何かを言い返そうとして止まる。ソフィアは、机の上から滲んだ紙を取って、彼女に見えるように向けた。
「このインク、式典用の黒ではありません。礼法室の署名練習に使う藍墨です。今朝、礼法室を使った三年生は、あなたと私だけでした」
「それだけで私だと?」
「いいえ。ですが、あなたの袖口に同じ色がついています」
エレーヌは反射的に袖を隠した。
その動きで、廊下の空気が固まる。
ソフィアは声を荒げなかった。ただ、少しだけ低くした。
「卒業式の挨拶文を汚すことが、誰かへの抗議になると思ったのなら、それは間違っています。私に腹が立っているなら、私に言ってください。後輩たちや先生方の前に出る式を巻き込むことではありません」
エレーヌの唇が震えた。
「……あなたには分からないわよ」
「ええ。言ってくれなければ、分かりません」
「何をしてもあなたが一番だった。先生も後輩も、皆あなたを見る。聖アステリアの推薦だって、結局あなた。私だって、ずっと努力してきたのに」
エレーヌの声が、最後だけ少し崩れた。
ラウラは黙っていた。廊下の向こうでも、数人の生徒が立ち止まっている。
ソフィアは滲んだ紙を机に置いた。
「努力してきたことを、こんな形で汚さないでください」
エレーヌが顔を上げる。
その目には怒りも、悔しさも、泣きそうな弱さもあった。
「私は、あなたの努力を軽く見たことはありません。ですが、悔しかったからといって、誰かの大切な場を壊していい理由にはなりません。そんなことをして、人として恥ずかしくないんですか」
静かな廊下に、言葉が落ちた。
エレーヌの顔が赤くなる。怒りではなく、恥の色だった。
「……あなたに、そんなふうに言われたくない」
「でしょうね。ですが、言います」
ソフィアは少しだけ近づいた。
「あなたが私を嫌いでも構いません。悔しいと思うのも、腹が立つのも、仕方のないことです。ですが、あなたは本当はこんなことをする人ではありません。少なくとも、私はそう思っていました」
その一言で、エレーヌの目が大きく揺れた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがてエレーヌは、目を伏せたまま小さく言った。
「……ごめんなさい」
「私にだけではありません」
「分かってるわ」
エレーヌは唇を噛んで、深く頭を下げた。
「卒業式の準備を汚してしまい、申し訳ありませんでした」
廊下にいた下級生たちが、どうしていいか分からない顔をする。
ソフィアは頷いた。
「予備があります。式は問題なく進めます。エレーヌさん、あなたも出席してください」
エレーヌが驚いたように顔を上げた。
「……いいの?」
「式に出る資格を、私が取り上げる権利はありません。ただ、後で先生には一緒に説明に行きます」
「あなたも?」
「ええ。私が気づいて、ここで話しましたから」
「ソフィア、そこまでしなくても」
ラウラが思わず口を挟んだ。
ソフィアは振り返った。
「私は彼女の代わりに謝るわけではありません。ですが、見つけた以上、途中で投げたくありません」
ラウラは何か言いたそうにしたが、結局肩をすくめた。
「ほんと、そういうところよね」
「どのようなところですか」
「嫌なことをされたのに、先に相手の逃げ道を残すところ。見てるこっちが悔しくなるわ」
ソフィアは少しだけ目を伏せた。
「逃げ道ではありません。やり直す場所です」
「言い方が綺麗すぎるのよ」
「綺麗で済むなら、その方がいいでしょう?」
ラウラは呆れたように笑った。
「そう返せるから、皆あなたを好きになるのよ」
その言葉に、ソフィアは答えなかった。
好きになる。
慕われる。
憧れられる。
それらがどれだけありがたいものか、ソフィアは知っていた。けれど同時に、それが時々、人の中に小さな影を落とすことも知っている。
エレーヌの袖口についた藍墨が、まだ薄く残っていた。
ソフィアはそれを見て、ふと自分の指に目を落とした。さっき棚から予備封筒を取る時、紙の端で切ったらしい。細い傷が一本、指先にあった。
血はもう止まっている。
傷口も、ほとんど閉じかけていた。
ラウラが気づいて眉を寄せる。
「また? あなた、相変わらず治るの早いわね」
「そうでしょうか」
「そうよ。普通、今切った指がそんなにすぐ戻らないわ」
「昔から少し治りやすいだけです。大げさにしないでください」
「大げさじゃないと思うけど」
ラウラはまだ何か言いたそうだったが、鐘が鳴った。
卒業式の準備開始を告げる鐘だった。
ソフィアは書類を整え、滲んだ紙を封筒にしまった。使わない紙だけれど、捨てる気にはなれなかった。今日のことは、なかったことにはしない。
「行きましょう。遅れると先生に叱られます」
「あなたが叱られるところ、一度くらい見たかったわ」
「残念ですが、今日は難しそうですね」
そう言って歩き出すと、廊下にいた下級生たちが慌てて道を空けた。
ソフィアは、その一人ひとりに軽く頷きながら進んだ。
*
卒業式は、穏やかに進んだ。
礼拝堂の高い天井から光が降り、白い制服の列が整って並ぶ。来賓席には地方都市の議員や支援者、保護者たちが座り、教師たちは皆、いつもより少しだけ表情を柔らかくしていた。
首席答辞のために名前を呼ばれた時、礼拝堂の空気がわずかに変わった。
「卒業生代表、ソフィア・アステール」
「はい」
ソフィアは立ち上がった。
視線が集まる。
いつものことだった。
可愛らしい、という視線ではない。守ってあげたいと柔らかく笑われるのとも違う。ソフィアは、立つだけで人の目を奪う。整った顔立ち、まっすぐな背筋、制服の上からでも分かる令嬢らしい柔らかな線、静かに前を見る目。その姿は、誰かの心に「隣に置きたい」「こちらだけを見てほしい」という感情を起こさせる。
けれどソフィア自身は、その視線に酔わなかった。
人前に立つなら、見られるのは当然。
見られる以上、乱れないように整えるのも当然。
それが、アステール家の娘として教えられてきたことだった。
壇上に上がり、礼をする。
深すぎず、浅すぎず。
顔を上げた時、ソフィアは礼拝堂の奥にいる後輩たちを見た。泣きそうな顔がいくつもある。ラウラも、エレーヌも、同級生たちも見ている。
ソフィアは答辞を開いた。
「本日、私たちはルミエール中等女学院を卒業いたします」
声は、よく通った。
緊張はある。けれど、それを隠す必要はない。緊張していても、言葉は届けられる。
「この学び舎で、私たちは多くのことを教わりました。魔術式の組み方、剣の持ち方、礼の形、言葉の選び方。ですが、それ以上に、ここで学んだのは、人と向き合うことだったと思います」
教師たちの顔が見える。
後輩たちの顔が見える。
「正しいことを言うのは、簡単ではありません。優しくすることも、時には難しいです。自分が傷ついた時、相手のことまで考える余裕などない日もあります。それでも、私たちはここで、逃げずに向き合うことを教わりました」
エレーヌが少しだけ目を伏せた。
ソフィアは、彼女だけを見ないようにした。
これは誰か一人に向けた言葉ではない。
「ルミエールで過ごした日々は、私にとって誇りです。ここで出会った皆さんを、私は忘れません」
式場の奥で、ミーナがとうとう泣いた。
隣の生徒が慌ててハンカチを渡す。
ソフィアはほんの少しだけ笑った。
「そして、これから先、私たちが別々の場所へ進むとしても、この場所で学んだものは、きっと私たちの背中を支えてくれます。皆さん、本当にありがとうございました」
答辞を終え、礼をする。
拍手が起きた。
温かくて、まっすぐな拍手だった。
その拍手の中で、ソフィアは自分がここで愛されていたことを知った。
それは、健やかな愛だった。憧れ、尊敬、親しみ、少しの嫉妬、少しの寂しさ。どれも人の中にあって当然のものだ。
けれど、その時のソフィアはまだ知らなかった。
聖アステリアにある愛は、もっと深く、もっと重く、時に息ができないほど濁っていることを。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
式の後、学院長室に呼ばれた。
机の上には、白い封筒が置かれていた。深い青の封蝋。聖アステリア女学院の紋章。
それだけで、部屋の空気が変わる。
学院長は老婦人だった。厳しいが、理不尽ではない。ソフィアが一年生の頃から、失敗にも成功にも同じ目で向き合ってくれた人だ。
「ソフィア・アステール」
「はい」
「正式な通知です。聖アステリア女学院高等部、入学試験合格。ならびに入学許可」
分かっていたはずなのに、胸が鳴った。
推薦を受け、試験も受けた。合格の内示もあった。それでも、正式な封筒を目の前にすると、重さが違った。
「おめでとうございます」
学院長が、少しだけ微笑んだ。
「ルミエールから聖アステリアへ進む生徒は、数十年ぶりです。あなたが勝ち取ったものですよ」
「ありがとうございます」
「誇りに思いなさい。ですが、驕ってはいけません」
「はい」
「聖アステリアは、ここではありません」
その言葉は、静かだった。
ソフィアは顔を上げる。
「あなたはルミエールでは特別でした。努力も才能も、人を見る目も、十分にありました。ですが、聖アステリアでは、あなたのような生徒が珍しくありません」
言葉が、胸に落ちる。
怖くはなかった。
ただ、少しだけ空気が冷たくなる。
「承知しています」
「いい返事です。けれど、分かっていることと、そこで立つことは別です」
学院長は封筒を差し出した。
ソフィアは両手で受け取る。
「ソフィア。あなたは人を助ける子です。それは美徳です。けれど、自分を差し出すことを、人助けと間違えてはいけません」
母と似たことを言われた気がした。
ソフィアは少しだけ息を止める。
「……気をつけます」
「気をつけるだけでは足りない日も来ます」
学院長の目は優しかった。
だからこそ、誤魔化せなかった。
「その時は、思い出しなさい。あなたは誰かを救うために生まれた道具ではありません。あなた自身も、守られるべき一人の人間です」
ソフィアは、封筒を胸元に寄せた。
「はい。覚えておきます」
「ええ。行ってらっしゃい、ソフィア・アステール。ルミエールは、あなたを誇りに思います」
その言葉で、目の奥が少し熱くなった。
泣くつもりはなかった。
泣かなかった。
けれど、礼をする時、少しだけ時間がかかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アステール家は、ルミエールのある地方都市の端にあった。
大貴族の屋敷のような広さはない。庭も広すぎず、使用人も多くない。けれど、古い石壁は手入れされ、窓辺には母の育てた花が並んでいる。豊かではないが、荒れてもいない。アステール家らしい、慎ましく整った家だった。
帰ると、玄関先で父が待っていた。
「ソフィア!」
「お父様。ただいま戻りました」
ソフィアが言い終える前に、父はもう泣いていた。
「卒業おめでとう……! それに、聖アステリアだなんて……うちの娘は本当に……本当に……!」
「お父様、まだ玄関です。ご近所の方に見られます」
「見られてもいい! 自慢の娘なんだから!」
父は明るくて、まっすぐで、感情がすぐ顔に出る人だった。ソフィアが幼い頃、転んで膝を擦りむけば本人以上に慌て、試験で一番を取れば本人以上に喜び、叱られた時は、困った顔をしながら最後には味方になってくれた。
理想の父、と言ってしまえば少し照れくさい。
でも、ソフィアにとって父はそういう人だった。
奥から母が出てくる。父とは違って、落ち着いた足取りだった。
「おかえりなさい、ソフィア。卒業おめでとう」
「ありがとうございます、お母様」
母はソフィアをそっと抱きしめた。
強く抱きしめるのではなく、背中に手を添えるような抱擁。幼い頃から、母はそうだった。優しいけれど、甘やかすだけではない。間違えれば叱る。泣けば受け止める。人を助けることの意味を、何度も教えてくれた。
「よく頑張りましたね」
「……はい」
「聖アステリアでも、あなたらしくいなさい。ですが、ひとつだけ約束して」
母が少しだけ身体を離し、ソフィアの目を見る。
「人を助けることと、自分を差し出すことは同じではありません。あなたは優しい子だから、そこを間違えることがあります」
ソフィアは何も言えなかった。
学院長にも似たことを言われたばかりだった。
「私は、そんなに危なっかしく見えますか」
「見えます」
母は即答した。
父もうんうんと泣きながら頷いている。
ソフィアは少しだけ唇を尖らせた。
「そこは少しくらい迷ってください」
「迷うところではありませんもの」
母が微笑む。
「あなたは怒る時は怒れる子です。間違っています、と言える子です。けれど、大切だと思った相手を嫌いになるのが下手です。ひどいことをされても、先に相手の痛みを見てしまう」
胸の奥に、エレーヌの顔が浮かんだ。
何も言わなくても、母には分かっているようだった。
「それは悪いことではありません。ですが、誰かを嫌いになれないことと、誰かに傷つけられ続けていいことは違います」
「……はい」
「覚えておいて」
「覚えます」
その時、階段の上から声がした。
「お姉様、話長い」
妹のリリアだった。
年下のくせに、腕を組んで偉そうに立っている。髪は母に似て柔らかく、目元は父に似て感情が出やすい。本人は大人っぽく振る舞っているつもりだろうが、寂しい時ほど口調がきつくなることを、ソフィアは知っていた。
「リリア。ただいま」
「おかえりなさい。卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「それと、聖アステリアも。……まあ、お姉様なら当然ですけど」
父がまた泣きそうになる。
「リリアも素直じゃないなあ」
「お父様はすぐ泣きすぎです」
リリアは階段を降りてきて、ソフィアの前で止まった。少しだけ視線を逸らし、スカートの端を握る。
「寮なんですよね」
「ええ」
「毎日は帰れないんですよね」
「そうですね」
「……別に、寂しくはありませんけど」
「はい」
「たまには帰ってきてもいいです。お母様もお父様も、きっと騒ぐので」
ソフィアはこらえきれずに笑った。
「リリアは?」
「私は別に」
「そうですか」
「……帰ってきてください」
小さな声だった。
ソフィアはリリアの頭を撫でようとして、途中で止めた。もう子ども扱いされるのを嫌がる年頃だ。
けれどリリアは、その手をちらりと見た。
「……今だけなら、別にいいです」
「では、今だけ」
ソフィアはそっと妹の頭を撫でた。
リリアは不満そうな顔をしたまま、逃げなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜、荷物をまとめ終えた部屋で、ソフィアは聖アステリアの入学許可書を机の上に置いた。
封蝋はもう開かれている。
白い紙には、整った文字で名前が書かれていた。
ソフィア・アステール。
聖アステリア女学院高等部、入学許可。
その文字を見ていると、胸の奥が静かに震えた。
怖いわけではない。
不安がないわけでもない。
ルミエールでは、私は確かに評価された。皆が見てくれた。信じてくれた。好きだと言ってくれた。
ですが、聖アステリアは違う。
国中から選ばれた少女たちが集まる場所。一般生徒でさえ、他校なら首席を争うような生徒ばかり。冠位と呼ばれる上位者は、さらにその上にいる。
私は、そこでどれだけ立てるのだろう。
指先に、小さな痛みが残っている気がした。
朝に切った傷は、もう完全に消えている。跡もない。
昔からそうだった。
転んでも、切っても、痣になっても、私は人より早く治った。便利だと思ったこともある。けれど、母はそのたびに少しだけ心配そうな顔をした。
今なら分かる。
人と違うものは、時に祝福ではなく、誰かの欲を呼ぶ。
ソフィアは入学許可書を封筒に戻した。
窓の外には、ルミエールの街灯が見える。優しい光だった。
明日、この街を出る。
ルミエールでは、私は特別だった。
聖アステリアでも、そうでいられるかは分からない。
けれど、ソフィアは背筋を伸ばした。鏡に映る自分を見る。自分の顔に酔うつもりはない。けれど、人前に立つなら、見られる自分を整えるのは礼儀だ。
それに、私はアステール家の娘だ。
誰かが困っているなら、手を伸ばす。
間違っているものを見たら、間違っていますと言う。
怖いから黙るような人間にはならない。
それだけは、どこへ行っても変えたくなかった。
机の上の小さな花瓶に、リリアが摘んできた花が挿してある。母の庭に咲いていた白い花だ。
ソフィアはその花に触れず、ただ少しだけ笑った。
「行ってきます」
誰にともなく、そう言った。
その声は、静かな部屋にまっすぐ落ちた。
まだ、聖アステリアの怪物たちを知らない声だった。