聖アステリア女学院の契約令嬢   作:Zuzuiikb

1 / 7
1話 ルミエールの白百合

 

 ルミエール中等女学院で、ソフィア・アステールの名前を知らない生徒はいなかった。

 

 朝の鐘が鳴る少し前、白い石畳の道を歩くだけで、廊下の声が一つずつ柔らかくなる。下級生たちは慌てて姿勢を正し、同級生たちは軽く手を上げ、教師は遠くからでも目元を和らげた。

 

 それは、ソフィアが怖がられているからではない。

 

 成績首席。生徒会長。礼法、魔術理論、実技、剣術、交渉実習、そのどれも首位。加えて、誰かが困っていれば足を止める。面倒な役目でも、必要なら引き受ける。自分が目立つことに慣れていながら、それを人に押しつけない。

 

 だから皆、ソフィアの姿を見ると少しだけ背筋を伸ばしたくなる。

 

 そういう人だった。

 

「ソフィア様、おはようございます!」

 

 温室棟へ向かう渡り廊下で、二年生の少女がぱっと顔を上げた。胸元のリボンが少し曲がっていて、本人はそれに気づいていない。

 

「おはようございます、ミーナさん。今日は卒業式の準備でしょう? リボン、少しだけ直してもいいですか」

 

「えっ、あ、はい……!」

 

 ミーナは緊張で固まったまま、顎を引いた。

 

 ソフィアは笑って、指先でリボンの端を整えた。強く引かず、布の流れだけを直す。指が触れた一瞬、ミーナの頬が分かりやすく赤くなった。

 

「これで大丈夫です。せっかくの式ですから、綺麗にしておきましょう」

 

「ありがとうございます……あの、ソフィア様」

 

「はい?」

 

「聖アステリア高等女学院に行っても、たまにお手紙、いただけますか」

 

 その言葉に、周りで準備をしていた下級生たちの手が止まった。皆、聞いていないふりをしている。けれど、耳だけはこちらを向いているのが分かった。

 

 ソフィアは少しだけ困って、でも誤魔化さずに頷いた。

 

「必ず返せるとは言えません。ですが、いただいた手紙はちゃんと読みます。私も、ルミエールのことを忘れたくありませんから」

 

 ミーナの顔が、泣きそうに歪む。

 

「……はい」

 

「泣くのは、式の後にしてくださいね。今泣いてしまうと、せっかく直したリボンが濡れてしまいます」

 

「ソフィア様、そういう言い方、ずるいです……」

 

 周りから小さな笑いが漏れた。

 

 その輪の中を抜けて、ソフィアは生徒会室へ向かった。今日で、この部屋を使うのも最後になる。

 

 扉を開けると、机の上には卒業式の進行表、来賓名簿、在校生代表の挨拶文、教師から預かった確認書類が並んでいた。すべて昨日のうちに整理しておいたものだ。

 

 それなのに、一番上の挨拶文だけが、少しずれている。

 

 ソフィアは机の前で足を止めた。

 

「……誰か、触りました?」

 

 部屋にいた副会長のラウラが顔を上げる。淡い茶色の髪を一つに結んだ、しっかり者の同級生だった。

 

「私は触ってないわ。朝一番に来た時には、そのままだったと思うけど」

 

「そうですか」

 

 ソフィアは紙を持ち上げた。端に、薄くインクが滲んでいる。読めないほどではない。けれど、式で使う紙としてはよくない。

 

 ラウラの眉が寄った。

 

「誰かの嫌がらせ?」

 

「まだ決めつけません。ですが、このままでは使えませんね。予備は?」

 

「昨日、あなたが封筒に入れて棚の二段目に置いたわ」

 

「さすがです。では予備を使いましょう」

 

 ソフィアが棚へ手を伸ばした時、扉の外で小さな物音がした。

 

 ラウラが先に動こうとした。けれどソフィアは首を振り、扉を開けた。

 

 廊下に立っていたのは、同じ三年生のエレーヌだった。成績は常に上位。家柄もよく、礼法の授業ではソフィアと並ぶこともあった少女だ。

 

 ただ、今日は顔色が悪い。

 

「エレーヌさん」

 

 ソフィアは名前を呼んだ。

 

 エレーヌは口元だけで笑う。

 

「卒業式の朝から大変ね、ソフィア。生徒会長は最後まで忙しそう」

 

「ええ。ですが、やることがあるのはありがたいことです」

 

「余裕ね。聖アステリアに行く人は違うわ」

 

 声は綺麗だった。

 

 綺麗な分だけ、棘がはっきりしている。

 

 ラウラが一歩前に出た。

 

「エレーヌ、あなた――」

 

「ラウラさん」

 

 ソフィアは静かに止めた。

 

 エレーヌの視線が、机の上の滲んだ紙へ流れた。その一瞬で、ソフィアには大体のことが分かった。

 

 分かったけれど、すぐには言わない。

 

「エレーヌさん。今朝、誰かが挨拶文に触れたようです。あなたは何か知っていますか」

 

「私が知るわけないでしょう」

 

「そうですか」

 

「疑っているの?」

 

「確認しています」

 

 エレーヌの表情が強張った。

 

「同じことじゃない」

 

「違います。疑うなら、私はもう少し厳しい聞き方をします」

 

 ラウラが横で小さく息を呑んだ。

 

 エレーヌも、何かを言い返そうとして止まる。ソフィアは、机の上から滲んだ紙を取って、彼女に見えるように向けた。

 

「このインク、式典用の黒ではありません。礼法室の署名練習に使う藍墨です。今朝、礼法室を使った三年生は、あなたと私だけでした」

 

「それだけで私だと?」

 

「いいえ。ですが、あなたの袖口に同じ色がついています」

 

 エレーヌは反射的に袖を隠した。

 

 その動きで、廊下の空気が固まる。

 

 ソフィアは声を荒げなかった。ただ、少しだけ低くした。

 

「卒業式の挨拶文を汚すことが、誰かへの抗議になると思ったのなら、それは間違っています。私に腹が立っているなら、私に言ってください。後輩たちや先生方の前に出る式を巻き込むことではありません」

 

 エレーヌの唇が震えた。

 

「……あなたには分からないわよ」

 

「ええ。言ってくれなければ、分かりません」

 

「何をしてもあなたが一番だった。先生も後輩も、皆あなたを見る。聖アステリアの推薦だって、結局あなた。私だって、ずっと努力してきたのに」

 

 エレーヌの声が、最後だけ少し崩れた。

 

 ラウラは黙っていた。廊下の向こうでも、数人の生徒が立ち止まっている。

 

 ソフィアは滲んだ紙を机に置いた。

 

「努力してきたことを、こんな形で汚さないでください」

 

 エレーヌが顔を上げる。

 

 その目には怒りも、悔しさも、泣きそうな弱さもあった。

 

「私は、あなたの努力を軽く見たことはありません。ですが、悔しかったからといって、誰かの大切な場を壊していい理由にはなりません。そんなことをして、人として恥ずかしくないんですか」

 

 静かな廊下に、言葉が落ちた。

 

 エレーヌの顔が赤くなる。怒りではなく、恥の色だった。

 

「……あなたに、そんなふうに言われたくない」

 

「でしょうね。ですが、言います」

 

 ソフィアは少しだけ近づいた。

 

「あなたが私を嫌いでも構いません。悔しいと思うのも、腹が立つのも、仕方のないことです。ですが、あなたは本当はこんなことをする人ではありません。少なくとも、私はそう思っていました」

 

 その一言で、エレーヌの目が大きく揺れた。

 

 しばらく、誰も話さなかった。

 

 やがてエレーヌは、目を伏せたまま小さく言った。

 

「……ごめんなさい」

 

「私にだけではありません」

 

「分かってるわ」

 

 エレーヌは唇を噛んで、深く頭を下げた。

 

「卒業式の準備を汚してしまい、申し訳ありませんでした」

 

 廊下にいた下級生たちが、どうしていいか分からない顔をする。

 

 ソフィアは頷いた。

 

「予備があります。式は問題なく進めます。エレーヌさん、あなたも出席してください」

 

 エレーヌが驚いたように顔を上げた。

 

「……いいの?」

 

「式に出る資格を、私が取り上げる権利はありません。ただ、後で先生には一緒に説明に行きます」

 

「あなたも?」

 

「ええ。私が気づいて、ここで話しましたから」

 

「ソフィア、そこまでしなくても」

 

 ラウラが思わず口を挟んだ。

 

 ソフィアは振り返った。

 

「私は彼女の代わりに謝るわけではありません。ですが、見つけた以上、途中で投げたくありません」

 

 ラウラは何か言いたそうにしたが、結局肩をすくめた。

 

「ほんと、そういうところよね」

 

「どのようなところですか」

 

「嫌なことをされたのに、先に相手の逃げ道を残すところ。見てるこっちが悔しくなるわ」

 

 ソフィアは少しだけ目を伏せた。

 

「逃げ道ではありません。やり直す場所です」

 

「言い方が綺麗すぎるのよ」

 

「綺麗で済むなら、その方がいいでしょう?」

 

 ラウラは呆れたように笑った。

 

「そう返せるから、皆あなたを好きになるのよ」

 

 その言葉に、ソフィアは答えなかった。

 

 好きになる。

 

 慕われる。

 

 憧れられる。

 

 それらがどれだけありがたいものか、ソフィアは知っていた。けれど同時に、それが時々、人の中に小さな影を落とすことも知っている。

 

 エレーヌの袖口についた藍墨が、まだ薄く残っていた。

 

 

 

 ソフィアはそれを見て、ふと自分の指に目を落とした。さっき棚から予備封筒を取る時、紙の端で切ったらしい。細い傷が一本、指先にあった。

 

 血はもう止まっている。

 

 傷口も、ほとんど閉じかけていた。

 

 ラウラが気づいて眉を寄せる。

 

「また? あなた、相変わらず治るの早いわね」

 

「そうでしょうか」

 

「そうよ。普通、今切った指がそんなにすぐ戻らないわ」

 

「昔から少し治りやすいだけです。大げさにしないでください」

 

「大げさじゃないと思うけど」

 

 ラウラはまだ何か言いたそうだったが、鐘が鳴った。

 

 卒業式の準備開始を告げる鐘だった。

 

 ソフィアは書類を整え、滲んだ紙を封筒にしまった。使わない紙だけれど、捨てる気にはなれなかった。今日のことは、なかったことにはしない。

 

「行きましょう。遅れると先生に叱られます」

 

「あなたが叱られるところ、一度くらい見たかったわ」

 

「残念ですが、今日は難しそうですね」

 

 そう言って歩き出すと、廊下にいた下級生たちが慌てて道を空けた。

 

 ソフィアは、その一人ひとりに軽く頷きながら進んだ。

 

     *

 

 卒業式は、穏やかに進んだ。

 

 礼拝堂の高い天井から光が降り、白い制服の列が整って並ぶ。来賓席には地方都市の議員や支援者、保護者たちが座り、教師たちは皆、いつもより少しだけ表情を柔らかくしていた。

 

 首席答辞のために名前を呼ばれた時、礼拝堂の空気がわずかに変わった。

 

「卒業生代表、ソフィア・アステール」

 

「はい」

 

 ソフィアは立ち上がった。

 

 視線が集まる。

 

 いつものことだった。

 

 可愛らしい、という視線ではない。守ってあげたいと柔らかく笑われるのとも違う。ソフィアは、立つだけで人の目を奪う。整った顔立ち、まっすぐな背筋、制服の上からでも分かる令嬢らしい柔らかな線、静かに前を見る目。その姿は、誰かの心に「隣に置きたい」「こちらだけを見てほしい」という感情を起こさせる。

 

 けれどソフィア自身は、その視線に酔わなかった。

 

 人前に立つなら、見られるのは当然。

 見られる以上、乱れないように整えるのも当然。

 

 それが、アステール家の娘として教えられてきたことだった。

 

 壇上に上がり、礼をする。

 

 深すぎず、浅すぎず。

 

 顔を上げた時、ソフィアは礼拝堂の奥にいる後輩たちを見た。泣きそうな顔がいくつもある。ラウラも、エレーヌも、同級生たちも見ている。

 

 ソフィアは答辞を開いた。

 

「本日、私たちはルミエール中等女学院を卒業いたします」

 

 声は、よく通った。

 

 緊張はある。けれど、それを隠す必要はない。緊張していても、言葉は届けられる。

 

「この学び舎で、私たちは多くのことを教わりました。魔術式の組み方、剣の持ち方、礼の形、言葉の選び方。ですが、それ以上に、ここで学んだのは、人と向き合うことだったと思います」

 

 教師たちの顔が見える。

 

 後輩たちの顔が見える。

 

「正しいことを言うのは、簡単ではありません。優しくすることも、時には難しいです。自分が傷ついた時、相手のことまで考える余裕などない日もあります。それでも、私たちはここで、逃げずに向き合うことを教わりました」

 

 エレーヌが少しだけ目を伏せた。

 

 ソフィアは、彼女だけを見ないようにした。

 

 これは誰か一人に向けた言葉ではない。

 

「ルミエールで過ごした日々は、私にとって誇りです。ここで出会った皆さんを、私は忘れません」

 

 式場の奥で、ミーナがとうとう泣いた。

 

 隣の生徒が慌ててハンカチを渡す。

 

 ソフィアはほんの少しだけ笑った。

 

「そして、これから先、私たちが別々の場所へ進むとしても、この場所で学んだものは、きっと私たちの背中を支えてくれます。皆さん、本当にありがとうございました」

 

 答辞を終え、礼をする。

 

 拍手が起きた。

 

 温かくて、まっすぐな拍手だった。

 

 その拍手の中で、ソフィアは自分がここで愛されていたことを知った。

 

 それは、健やかな愛だった。憧れ、尊敬、親しみ、少しの嫉妬、少しの寂しさ。どれも人の中にあって当然のものだ。

 

 けれど、その時のソフィアはまだ知らなかった。

 

 聖アステリアにある愛は、もっと深く、もっと重く、時に息ができないほど濁っていることを。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 式の後、学院長室に呼ばれた。

 

 机の上には、白い封筒が置かれていた。深い青の封蝋。聖アステリア女学院の紋章。

 

 それだけで、部屋の空気が変わる。

 

 学院長は老婦人だった。厳しいが、理不尽ではない。ソフィアが一年生の頃から、失敗にも成功にも同じ目で向き合ってくれた人だ。

 

「ソフィア・アステール」

 

「はい」

 

「正式な通知です。聖アステリア女学院高等部、入学試験合格。ならびに入学許可」

 

 分かっていたはずなのに、胸が鳴った。

 

 推薦を受け、試験も受けた。合格の内示もあった。それでも、正式な封筒を目の前にすると、重さが違った。

 

「おめでとうございます」

 

 学院長が、少しだけ微笑んだ。

 

「ルミエールから聖アステリアへ進む生徒は、数十年ぶりです。あなたが勝ち取ったものですよ」

 

「ありがとうございます」

 

「誇りに思いなさい。ですが、驕ってはいけません」

 

「はい」

 

「聖アステリアは、ここではありません」

 

 その言葉は、静かだった。

 

 ソフィアは顔を上げる。

 

「あなたはルミエールでは特別でした。努力も才能も、人を見る目も、十分にありました。ですが、聖アステリアでは、あなたのような生徒が珍しくありません」

 

 言葉が、胸に落ちる。

 

 怖くはなかった。

 

 ただ、少しだけ空気が冷たくなる。

 

「承知しています」

 

「いい返事です。けれど、分かっていることと、そこで立つことは別です」

 

 学院長は封筒を差し出した。

 

 ソフィアは両手で受け取る。

 

「ソフィア。あなたは人を助ける子です。それは美徳です。けれど、自分を差し出すことを、人助けと間違えてはいけません」

 

 母と似たことを言われた気がした。

 

 ソフィアは少しだけ息を止める。

 

「……気をつけます」

 

「気をつけるだけでは足りない日も来ます」

 

 学院長の目は優しかった。

 

 だからこそ、誤魔化せなかった。

 

「その時は、思い出しなさい。あなたは誰かを救うために生まれた道具ではありません。あなた自身も、守られるべき一人の人間です」

 

 ソフィアは、封筒を胸元に寄せた。

 

「はい。覚えておきます」

 

「ええ。行ってらっしゃい、ソフィア・アステール。ルミエールは、あなたを誇りに思います」

 

 その言葉で、目の奥が少し熱くなった。

 

 泣くつもりはなかった。

 

 泣かなかった。

 

 けれど、礼をする時、少しだけ時間がかかった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 アステール家は、ルミエールのある地方都市の端にあった。

 

 大貴族の屋敷のような広さはない。庭も広すぎず、使用人も多くない。けれど、古い石壁は手入れされ、窓辺には母の育てた花が並んでいる。豊かではないが、荒れてもいない。アステール家らしい、慎ましく整った家だった。

 

 帰ると、玄関先で父が待っていた。

 

「ソフィア!」

 

「お父様。ただいま戻りました」

 

 ソフィアが言い終える前に、父はもう泣いていた。

 

「卒業おめでとう……! それに、聖アステリアだなんて……うちの娘は本当に……本当に……!」

 

「お父様、まだ玄関です。ご近所の方に見られます」

 

「見られてもいい! 自慢の娘なんだから!」

 

 父は明るくて、まっすぐで、感情がすぐ顔に出る人だった。ソフィアが幼い頃、転んで膝を擦りむけば本人以上に慌て、試験で一番を取れば本人以上に喜び、叱られた時は、困った顔をしながら最後には味方になってくれた。

 

 理想の父、と言ってしまえば少し照れくさい。

 

 でも、ソフィアにとって父はそういう人だった。

 

 奥から母が出てくる。父とは違って、落ち着いた足取りだった。

 

「おかえりなさい、ソフィア。卒業おめでとう」

 

「ありがとうございます、お母様」

 

 母はソフィアをそっと抱きしめた。

 

 強く抱きしめるのではなく、背中に手を添えるような抱擁。幼い頃から、母はそうだった。優しいけれど、甘やかすだけではない。間違えれば叱る。泣けば受け止める。人を助けることの意味を、何度も教えてくれた。

 

「よく頑張りましたね」

 

「……はい」

 

「聖アステリアでも、あなたらしくいなさい。ですが、ひとつだけ約束して」

 

 母が少しだけ身体を離し、ソフィアの目を見る。

 

「人を助けることと、自分を差し出すことは同じではありません。あなたは優しい子だから、そこを間違えることがあります」

 

 ソフィアは何も言えなかった。

 

 学院長にも似たことを言われたばかりだった。

 

「私は、そんなに危なっかしく見えますか」

 

「見えます」

 

 母は即答した。

 

 父もうんうんと泣きながら頷いている。

 

 ソフィアは少しだけ唇を尖らせた。

 

「そこは少しくらい迷ってください」

 

「迷うところではありませんもの」

 

 母が微笑む。

 

「あなたは怒る時は怒れる子です。間違っています、と言える子です。けれど、大切だと思った相手を嫌いになるのが下手です。ひどいことをされても、先に相手の痛みを見てしまう」

 

 胸の奥に、エレーヌの顔が浮かんだ。

 

 何も言わなくても、母には分かっているようだった。

 

「それは悪いことではありません。ですが、誰かを嫌いになれないことと、誰かに傷つけられ続けていいことは違います」

 

「……はい」

 

「覚えておいて」

 

「覚えます」

 

 その時、階段の上から声がした。

 

「お姉様、話長い」

 

 妹のリリアだった。

 

 年下のくせに、腕を組んで偉そうに立っている。髪は母に似て柔らかく、目元は父に似て感情が出やすい。本人は大人っぽく振る舞っているつもりだろうが、寂しい時ほど口調がきつくなることを、ソフィアは知っていた。

 

「リリア。ただいま」

 

「おかえりなさい。卒業、おめでとうございます」

 

「ありがとうございます」

 

「それと、聖アステリアも。……まあ、お姉様なら当然ですけど」

 

 父がまた泣きそうになる。

 

「リリアも素直じゃないなあ」

 

「お父様はすぐ泣きすぎです」

 

 リリアは階段を降りてきて、ソフィアの前で止まった。少しだけ視線を逸らし、スカートの端を握る。

 

「寮なんですよね」

 

「ええ」

 

「毎日は帰れないんですよね」

 

「そうですね」

 

「……別に、寂しくはありませんけど」

 

「はい」

 

「たまには帰ってきてもいいです。お母様もお父様も、きっと騒ぐので」

 

 ソフィアはこらえきれずに笑った。

 

「リリアは?」

 

「私は別に」

 

「そうですか」

 

「……帰ってきてください」

 

 小さな声だった。

 

 ソフィアはリリアの頭を撫でようとして、途中で止めた。もう子ども扱いされるのを嫌がる年頃だ。

 

 けれどリリアは、その手をちらりと見た。

 

「……今だけなら、別にいいです」

 

「では、今だけ」

 

 ソフィアはそっと妹の頭を撫でた。

 

 リリアは不満そうな顔をしたまま、逃げなかった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 夜、荷物をまとめ終えた部屋で、ソフィアは聖アステリアの入学許可書を机の上に置いた。

 

 封蝋はもう開かれている。

 

 白い紙には、整った文字で名前が書かれていた。

 

 ソフィア・アステール。

 

 聖アステリア女学院高等部、入学許可。

 

 その文字を見ていると、胸の奥が静かに震えた。

 

 怖いわけではない。

 

 不安がないわけでもない。

 

 ルミエールでは、私は確かに評価された。皆が見てくれた。信じてくれた。好きだと言ってくれた。

 

 ですが、聖アステリアは違う。

 

 国中から選ばれた少女たちが集まる場所。一般生徒でさえ、他校なら首席を争うような生徒ばかり。冠位と呼ばれる上位者は、さらにその上にいる。

 

 私は、そこでどれだけ立てるのだろう。

 

 指先に、小さな痛みが残っている気がした。

 

 朝に切った傷は、もう完全に消えている。跡もない。

 

 昔からそうだった。

 

 転んでも、切っても、痣になっても、私は人より早く治った。便利だと思ったこともある。けれど、母はそのたびに少しだけ心配そうな顔をした。

 

 今なら分かる。

 

 人と違うものは、時に祝福ではなく、誰かの欲を呼ぶ。

 

 ソフィアは入学許可書を封筒に戻した。

 

 窓の外には、ルミエールの街灯が見える。優しい光だった。

 

 明日、この街を出る。

 

 ルミエールでは、私は特別だった。

 

 聖アステリアでも、そうでいられるかは分からない。

 

 けれど、ソフィアは背筋を伸ばした。鏡に映る自分を見る。自分の顔に酔うつもりはない。けれど、人前に立つなら、見られる自分を整えるのは礼儀だ。

 

 それに、私はアステール家の娘だ。

 

 誰かが困っているなら、手を伸ばす。

 

 間違っているものを見たら、間違っていますと言う。

 

 怖いから黙るような人間にはならない。

 

 それだけは、どこへ行っても変えたくなかった。

 

 机の上の小さな花瓶に、リリアが摘んできた花が挿してある。母の庭に咲いていた白い花だ。

 

 ソフィアはその花に触れず、ただ少しだけ笑った。

 

「行ってきます」

 

 誰にともなく、そう言った。

 

 その声は、静かな部屋にまっすぐ落ちた。

 

 まだ、聖アステリアの怪物たちを知らない声だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。