聖アステリア女学院は、遠くから見えるほど大きかった。
馬車の窓から最初に見えたのは、山の斜面に沿って広がる白い街だった。尖塔、講義棟、温室、訓練場、礼拝堂、寮。それだけではない。商店街のような通りがあり、馬車が何台も出入りする広場があり、遠くには警備塔らしい細長い建物まで見えた。
ルミエールも、美しい学園だった。
ですが、ここは違う。
学園というより、1つの都市だ。
「お嬢様、着きました」
御者の声で、私は姿勢を正した。
「ありがとうございます」
馬車を降りると、高地の空気が頬に触れた。少し冷たい。けれど寒いというほどではない。胸の奥が冷えたのは、たぶん目の前の門があまりに大きかったからだ。
白い門の前には、すでに何人もの新入生が集まっていた。
皆、整っている。
服装だけではない。立ち方、荷物の持ち方、周囲を見る目、誰かに声をかける時の間合い。緊張している子はいる。けれど、ただ浮き足立っている子はいなかった。
ルミエールでは、私が人を見る側だった。
ここでは、私も見られる側の1人だ。
「新入生の方ですね」
門の内側から、青い腕章をつけた上級生が歩いてきた。背は私より少し高い。銀色に近い淡い金髪を後ろでまとめ、手には薄い書類板を持っている。
「はい。ソフィア・アステールです」
「入学書類を確認します。封筒のままで構いません」
「お願いします」
私は封筒を差し出した。
上級生はそれを受け取る前に、ほんの1瞬だけ私の顔を見た。
返事が遅れる。
すぐに視線は封筒へ落ちた。けれど、その短い間に、私はまた見られたのだと分かった。
ルミエールでも、こういうことはあった。
話しかけようとした下級生が、私の顔を見た途端、言うはずだった言葉を1つ忘れる。先生が少しだけ声を柔らかくする。同級生が、睨むつもりだったのに目を逸らす。
けれど、ここで向けられた視線には、少し違うものが混ざっていたような気がした。
憧れだけではない。
値踏みだけでもない。
もっと静かで、まだ形になる前の欲のようなもの。
「……失礼しました。ソフィア・アステール様ですね。受験番号、入学許可、身元保証、すべて確認できました」
上級生は顔を上げた。
「ようこそ、聖アステリア女学院へ。私は案内補助のセレーナ・クレインです。2年です。今日は登録棟までご案内します」
「よろしくお願いします、セレーナ先輩」
先輩、と呼ぶと、セレーナ先輩は少しだけ表情を和らげた。
「綺麗な呼び方をされますね。ここだと、最初から妙に馴れ馴れしい子もいれば、逆に緊張しすぎて石像みたいになる子もいますから」
「私は、石像には見えませんか?」
「石像にしては、目がよく動いていますね。ちゃんと見ようとしている顔です」
「見ないまま分かったふりをするのは、少し怖いので」
「いいですね。ですが、聖アステリアは全て見ようとすると情報が多すぎます。全部を1日で飲み込もうとしない方がいいですよ」
そう言われて、私は門の向こうへ目を向けた。
白い道が、まっすぐ奥へ伸びている。
その先に、聖アステリアがある。
私は1歩、門をくぐった。
⸻
門の向こうは、やはり学園ではなく街だった。
白い石畳の道を、制服姿の生徒たちが行き交っている。けれど、その手に持っているものは教科書だけではない。契約書らしい厚い紙束、魔術具の入った箱、剣袋、薬瓶、商店の帳簿。台車に大きな結晶を積んで運んでいる生徒もいた。
その横を、大人の職員が自然に歩いている。教師なのか、役人なのか、商人なのか、私にはまだ区別がつかない。
「ここは中央区です」
セレーナ先輩が歩きながら言った。
「入学登録、初期測定、寮割り当て、学園貨の口座開設は、この先の登録棟で行います。今日のうちは、まず“あなたが聖アステリアの生徒である”と街に登録する日だと思ってください」
「街に、ですか」
「ええ。学院に、ではなく街に。ここでは授業を受けるだけでは済みませんから」
セレーナ先輩は、道の脇に並ぶ小さな店を指した。
制服姿の生徒が店番をしている。瓶詰めの薬品、紙束、菓子、魔術具の部品。看板には、それぞれ商会名らしいものが書かれていた。
「生徒が店を?」
「珍しくありませんよ。流通、薬品、魔術具、情報、護衛、契約代行。商会を作って学園貨を稼ぐ生徒もいます。3年や4年になると、派閥に入るより自分で商会を持った方が動きやすい、という人もいますね」
「学生が、そこまでやるんですね」
「ソフィアさん、ここでは“学生なのに”という考え方は早めに捨てた方が楽です。聖アステリアの生徒は、学生である前に、将来どこかの組織や家や軍や商会の中枢に入る候補として見られます。だから、学園の中で小さな国みたいなことをさせられるんです」
セレーナ先輩の言い方は軽かった。
けれど、内容は軽くない。
「小さな国……」
「大げさに聞こえます?」
「いえ。今のところ、納得の方が強いです」
「なら順応は早そうですね」
「それを褒め言葉として受け取るかは、少し迷います」
「半分くらいは褒めています」
「残り半分は?」
「警告です」
セレーナ先輩は、そう言って少し笑った。
私は返す言葉を探しながら、歩く生徒たちを見た。誰もが忙しそうなのに、無秩序ではない。白い街の中を、能力と家柄と金と成績が同じ流れの中で動いている。
ルミエールでは、成績は成績だった。お金はお金だった。名誉は名誉だった。
ここでは、それらが同じ台の上に置かれている。
私は、それをまだうまく好きになれなかった。
⸻
道の右手に、大きな建物が見えた。
白い壁に、青銀の紋章。入口には警備服を着た生徒と、大人の職員が並んでいる。生徒の制服とは形が違う。動きやすそうで、腰には魔術具らしい細い器具が下がっていた。
「あちらは学園警備局です」
「生徒も所属しているのですか」
「います。職員の方もいますが、生徒の警備班も動きます。都市規模ですから、揉め事は多いですよ。決闘後の処理、違法契約、盗難、派閥間の衝突、外部者の侵入。全部を教師だけで見るのは無理です」
「ルミエールにも規律委員はありました。ですが、警備局となると……少し言葉の重さが違いますね」
「でしょうね。私も最初はそう思いました。制服を着た先輩が、平然と拘束具を持って歩いているのを見て、ここは思ったより優しくない場所なんだなって」
セレーナ先輩はさらりと言った。
けれど、私は足を止めかけた。
拘束具。
その言葉が、学園の案内の中に自然に出てくる。
それだけで、ここがルミエールではないと分かる。
「怖いですか?」
セレーナ先輩が振り返った。
「怖い、というより……大きすぎて、まだ掴めません」
「それでいいと思います。最初から平気な顔をしている子の方が、私は少し怖いです。聖アステリアに慣れているのか、慣れているふりが上手いのか、どちらにしても新入生らしくはありませんから」
「セレーナ先輩は、どちらでした?」
「私は、慣れているふりをしようとして、受付の階段で転びました」
予想外の答えだった。
私は思わず目を瞬かせる。
「……転んだのですか」
「はい。見事に。書類も落として、荷物も散らして、当時の案内役の先輩に笑われました。だから、ソフィアさんがいま少し固くなっているのを見ても、偉そうなことは言えません」
「では、今少し安心しました」
「転んだ話で安心されるのは、少し複雑ですね」
「すみません。ですが、助かりました」
そう返すと、セレーナ先輩は小さく笑った。
この人は、ただ案内をしているだけではない。緊張を解こうとしてくれている。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
⸻
登録棟に近づくにつれて、新入生の数が増えた。
広場に並ぶ生徒たちは、それぞれの家名や所属を示す小さな紋章をつけている。大貴族の娘らしい子。商家の出身らしい子。国境軍関係者の紋章を持つ子。身なりに差はあるが、立ち姿は皆どこか整っていた。
私は列の最後尾に並んだ。
前にいた少女が、片手で書類を支えながら、もう片方の手で空中に魔術式を描いている。入学案内書の認証術式に小さなズレがあったらしく、彼女は待ち時間の間にそれを直していた。
「そこ、第3節を先にずらすんですか?」
横から別の新入生が声をかける。
「ええ。このまま第1節だけ戻すと、最後の認証で噛みます。少し気持ち悪いですけど、先に第3節を逃がした方が早いです」
「なるほど。私なら全体を戻してから直します」
「その方が綺麗ですね。でも受付までに間に合わないので、今日は早い方にします」
「実用派ですね」
「雑なだけです」
少女たちは、笑いながら話していた。
会話の温度は、ただの雑談だった。
私は目を離せなかった。
あの術式は、ルミエールなら上級課程の実技試験に出る。私も扱える。扱えるけれど、あんなふうに片手間で直せるほどではない。
前の少女が、ふとこちらを見た。
「何か?」
「あ……いえ。綺麗な処理だと思いまして」
そう言うと、少女は少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます。あなたも見えるのですね」
「少しだけです」
「少しだけ、という顔ではありませんよ。見えている人の目をしています」
その言葉に、私は返事を探した。
謙遜しすぎるのも違う。けれど、ここで自分を大きく見せるのも違う。
「ルミエールでは、得意な方でした」
「ルミエール?」
少女は1瞬考えるように目を上げた。
「ああ、聞いたことがあります。地方の名門ですよね。礼法と魔術が綺麗なのが特徴だって、先生が言っていました」
聞いたことがあります。
その言葉は、失礼ではなかった。
むしろ好意的だったと思う。
けれど、胸の奥に小さく刺さった。
ルミエールでは、私の名前は当然のように通じた。ここでは、学園そのものが「聞いたことがある」場所になる。
「はい。そこで学んできました」
「なら、基礎はかなり強そうですね。聖アステリアの処理は最初、少し速く感じると思います。私も姉にそう言われました。慣れるまでは、綺麗にやろうとしすぎると置いていかれるって」
「……その助言、ありがたく覚えておきます」
「ええ。お互い頑張りましょう」
少女は、もう術式へ視線を戻した。
私は息を整えた。
悔しい。
まだ負けたわけではない。
比べられたわけでもない。
ですが、悔しい。
そう感じた自分に、少しだけ安心した。悔しいと思えるなら、まだ立てる。
私は、井の中の蛙だったのだろうか。
そう思いかけて、すぐに否定した。
違う。
ルミエールで積み上げたものまで、そんな言葉で片づけたくない。私は確かに努力した。学んだ。勝ち取った。皆が認めてくれたものも、私自身が重ねてきた時間も、嘘ではない。
ただ、ここにはその先がある。
それだけだ。
⸻
受付では、登録用の水晶に手を置くように言われた。
水晶に触れると、冷たい感触が掌から腕へ広がる。魔力の流れ、身体能力、固有能力の反応、身元情報。いくつもの確認が同時に走っているのが分かった。
分かる。
けれど、速い。
ルミエールで使っていた測定具とは、精度も密度も違う。
「ソフィア・アステール様。登録確認中です」
受付の職員が淡々と告げる。
水晶の奥で、淡い光が広がった。白に近い薄青の光。その中に、細い金色の線が混じる。
職員は表示を見て、少しだけ書類をめくった。
「固有能力反応、確認。分類候補は再生系です。詳細測定は後日行います」
「再生系……」
言葉にすると、少し不思議だった。
治りが早い体質だとは思っていた。昔から、切り傷も痣も人より早く消えた。けれど、それを能力としてはっきり分類されたのは初めてだった。
職員の反応は、落ち着いていた。
周囲の新入生も、ちらりと見る程度で騒がない。
「珍しい分類ではあります」
職員は慣れた声で続けた。
「ですが、評価は深度次第です。表皮修復が早い程度なら、戦闘・研究・政治評価にはあまり直結しません。痛みを消せるわけでもありませんし、攻撃手段にもなりにくい。初期測定では補助系として扱われる可能性が高いですね」
珍しい。
けれど、すごいとは言われなかった。
少しだけ、拍子抜けした。
同時に、どこか安心もした。
「つまり、外れ寄りということですか」
思わず聞くと、職員は初めて少しだけ目を上げた。
「言い方は選びますが、そう見る方もいます。もちろん、深度が高ければ話は変わります。ただ、再生系は本人に負担が寄りやすい能力です。治るからといって、痛くないわけではありませんから」
痛み。
その言葉に、私は自分の手を見た。
傷はない。
けれど、昔から痛みは普通にあった。転べば痛い。切れば痛い。熱いものに触れれば、当然熱かった。
治ることと、傷つかないことは違う。
「詳細測定では、修復速度、修復範囲、魔力消費、意識状態での発動可否などを確認します。今日は登録だけですので、気にしすぎなくて構いません」
「分かりました」
私は手を水晶から離した。
再生系。
珍しいけれど、特別強いわけではない能力。
その評価に、少しだけ複雑な気持ちになった。落胆というほどではない。むしろ、私らしいと思った。
何か1つで世界を変える天才ではない。
できることを重ねて、足りないところを補って、届かない場所に手を伸ばす。
私は、そうやってここまで来た。
「次に学園貨口座を開設します」
職員が淡々と次の書類を出す。
「初期付与額は全員共通。ただし、家からの外貨交換や成果加算は別手続きです。決闘による資産移転、契約履行、派閥給与、商業収益、奴隷売買の代金もこちらに紐づきます」
奴隷売買。
その言葉に、指先が止まった。
職員は変わらない顔で書類をめくっている。セレーナ先輩も、驚いた様子はない。
私だけが、その言葉に少し遅れた。
「……奴隷売買も、公的な手続きなのですか」
聞かずにはいられなかった。
職員が顔を上げる。
「はい。聖アステリア学園都市では、奴隷売買は契約評価局の査定を通したうえで認められています。違法取得や未登録取引は処罰対象です」
「奴隷は、生徒にもいるのですか」
「稀ですが、います。各学年に数名程度ですね」
各学年に数名。
少ない。
けれど、いる。
「授業は受けられるのですか」
「所有者次第です」
あまりにも簡単に返ってきた。
私は言葉を詰まらせた。
所有者次第。
学ぶことも、戦うことも、順位を保つことも、誰かの判断に預けられる。
「それは……随分と、重いですね」
「重いですよ」
セレーナ先輩が横から言った。
その声は、さっきより少し低かった。
「ですが、この街では契約したものを軽く扱う方が嫌われます。自由に契約できる。自由に挑める。自由に失敗できる。そういう場所です。聞こえはいいですけど、失敗した後に誰かが手を引いてくれるとは限りません」
「それを、自由と呼ぶのですね」
少しだけ、声が硬くなった。
セレーナ先輩は怒らなかった。
「呼びます。ここでは」
その答えに、私は何も言えなかった。
ルミエールなら、違うと言えたかもしれない。
それは間違っています、と言えたかもしれない。
でも、今の私は、聖アステリアの門をくぐったばかりの新入生だ。この街の仕組みも、ここで生きている人たちの事情も、まだ何も知らない。
知らないまま断じるのは、正しさではない。
けれど、胸の奥に残った違和感だけは、消さないでおこうと思った。
⸻
登録棟を出ると、セレーナ先輩は道の先を指さした。
「あちらが契約評価局です。奴隷の価格だけでなく、契約書、商業権、派閥間取引、決闘賠償の評価も行います」
白い建物の前には、静かな列ができていた。生徒だけではない。大人の職員もいる。重そうな書類を抱えた者、宝石箱を持つ者、何も持たずに硬い顔で待っている者。
その中に、首元に細い黒い紐をつけた少女がいた。
首輪ではない。
けれど、すぐに分かった。
あれは、誰かに所有されている印だ。
少女の隣には、同じ年頃の生徒が立っていた。主人なのだろう。2人は会話をしていない。少女はただ、書類を持って主人の半歩後ろに控えている。
私は目を逸らせなかった。
「珍しいでしょう」
セレーナ先輩が言う。
「はい」
「奴隷は、聖アステリアでも多くありません。だからこそ目立ちます。扱いは主人によりますね。授業に出て順位を上げる子もいますし、商会の補助として重宝される子もいます。逆に、ほとんど表に出なくなる子もいます」
「表に出なくなる……」
「殺害や重傷は禁じられています。学園警備局も動きます。そこは勘違いしないでください。無法ではありません。ただ、全部が明るい場所で起きるわけではない、というだけです」
セレーナ先輩の声は淡々としていた。
けれど、その目は少しだけ冷えている。
この人も、何かを見たことがあるのかもしれない。
「ソフィアさん?」
「……いえ。行きましょう」
「無理に平気な顔をしなくてもいいですよ」
「平気ではありません。ですが、ここで立ち止まっても、あの子に何かできるわけではないので」
セレーナ先輩が私を見た。
少し長い視線だった。
「本当に、顔に出ますね」
「それは褒めていますか」
「半分くらいは」
「また半分ですか」
「残り半分は、心配です。そういう顔をする子は、ここでは放っておかれにくいので」
私は少しだけ眉を寄せた。
「放っておかれにくい、というのは?」
「助けたい人も寄ってきます。利用したい人も寄ってきます。面倒ごとも寄ってきます」
セレーナ先輩は、そこで言いすぎたと思ったのか、少し肩をすくめた。
「脅すつもりはありません。ただ、聖アステリアでは目立つものに人が集まります。才能でも、家名でも、顔でも、弱みでも」
「私の顔も、その中に入りますか」
自分で言ってから、少しだけ大胆だったかもしれないと思った。
でも、分かっていることを知らないふりするのも違う。
セレーナ先輩は、少し意外そうにした後で、笑った。
「私の個人的な見解でいいのあれば入りますね。隠したいなら、もう少し俯いた方がいいです」
「それは嫌です」
「でしょうね。そんな顔をしていました」
「どんな顔ですか」
「見られることに慣れている顔です。けれど、見られる意味が変わることには、まだ慣れていない顔」
私は返事に困った。
ただ美しいと言われるより、こういう言い方の方が逃げ場がない。
「……そういう評価は、契約評価局に任せた方がいいのでは?」
少しだけ皮肉を混ぜると、セレーナ先輩は目を丸くした。
それから、初めて楽しそうに笑った。
「思ったより、言いますね」
「思ったより、というのは余計です」
「では訂正します。ソフィアさんは、見た目よりずっと言いますね」
「悪化しています」
「すみません。ですが、少し安心しました。綺麗に立っているだけの人かと思ったら、ちゃんと口も強い」
「私は置物ではありませんから」
「ええ。そこは覚えておきます」
そのやりとりで、少しだけ肩の力が抜けた。
全部が怖いわけではない。
全部が冷たいわけでもない。
けれど、ルミエールとは何もかも違う。
⸻
昼前、案内は中央広場へ移った。
広場の中央には、大きな掲示塔が立っている。現在の学園序列、冠位一覧、各種公告、決闘申請、派閥募集、商会広告、警備局からの注意喚起まで、ありとあらゆる情報が流れていた。
人だかりができている。
新入生だけではない。上級生もいる。皆、情報を見上げ、時々小さく言葉を交わしていた。
「ここが中央掲示塔です。聖アステリアでは、ほとんどの評価が数字になります」
「ほとんど、ですか」
「成績、成果、決闘成績、契約履行、研究貢献、派閥影響、警備協力、商業成果。全部が序列に関わります。もちろん、人間性まで点数になるわけではありません。ですが、ここにいると、点がつかないものを軽く見る人はどうしても出てきます」
「それは、少し嫌ですね」
「ええ。私も好きではありません。でも、便利なんです。数字は人を黙らせますから」
セレーナ先輩は掲示塔を見上げた。
◦ 「聖アステリアは4年制。1学年は500人ほどです。同じ年に生まれた子は100万人程度。その中から、家柄、能力、試験、推薦、実績、いろいろな道を通って500人が入ってきます」
「その500人の中で、また順位がつくんですね」
「はい。全校でおよそ2000人。その中で各学年上位10人、全校では40位までが冠位と呼ばれます。40位までと、それより下では権限がかなり違いますね。派閥、人員、研究費、決闘条件、契約への発言力。数字が1つ違うだけで、通る扉が変わります」
「……ルミエールでは、順位は努力の結果でした。ここでは、道具でもあるんですね」
「いい言い方をしますね。その通りです。ここでの順位は、褒められるための札ではありません。交渉の札です」
交渉の札。
私は掲示塔の数字を見た。
名前の横に順位がある。順位の横に所属と成果がある。人間が、見やすく並べられている。
嫌だと思った。
でも同時に、目を逸らせなかった。
ここでは、これが現実なのだ。
「派閥を持てる、というのも冠位の権限ですか」
「冠位でなくても集まりは作れます。ただ、冠位の名を掲げた派閥は別物ですね。人も金も、情報も集まります。分かりやすいところだと、ヴァレンシュタイン派、グランセリス派、ヴァロワ派、ヴォルフラム派。これらの派閥は紋章にそれぞれ色が入っています。このあたりは、新入生でも早めに覚えておいた方がいいです」
掲示塔の一部に、派閥関連の公告が流れる。
赤の紋章 ヴァレンシュタイン派。
白の紋章 グランセリス派。
金の紋章 ヴァロワ派。
黒の紋章 ヴォルフラム派。
名前だけで、周囲の空気が少し変わるのが分かった。ある生徒は目を伏せ、ある生徒は憧れるように見上げる。別の生徒は、関わりたくないという顔で早足に通り過ぎた。
「家名が、そのまま派閥名なのですね」
「覚えやすいでしょう?」
「ええ。とても」
「覚えやすい名前ほど怖いこともありますよ。名前を隠す必要がない、ということですから」
私は掲示塔を見上げた。
学園序列。
上から順に名前が並ぶ。
1位の名前は、表示されている。けれど、周囲の生徒たちはあまり騒いでいない。まるで、そこにあるのが当然の名前のように。
その下。
2位。
エリシア・ヴァレンシュタイン。
「ヴァレンシュタイン様は、2年生です」
セレーナ先輩が言った。
「2年生で、2位……」
「はい。私と同学年です。と言っても、同じ2年生という気はあまりしませんけど」
「それは、どれほど異常なのですか」
聞いてから、少し直接的だったと思った。
けれどセレーナ先輩は、むしろ分かりやすく頷いた。
「異常です。信じられないほどに」
短い。
でも、その短さで十分だった。
「1位の方は、学園防衛を担う特別な存在です。守る力と役割を含めて1位とされています。けれど、戦闘だけで言うなら……」
そこで、セレーナ先輩は言葉を切った。
周りに聞かせるべきではないのだと、私にも分かった。
その先は言わなくてもいい。
エリシア・ヴァレンシュタイン。
ここでは、まだただの名前。
けれど、その名前は、私の中に小さな赤い点のように残った。
「新入生の初期測定は明日です」
セレーナ先輩が話題を変えた。
「測定結果で、暫定順位が出ます。最初の順位はあくまで暫定ですが、寮や授業選択、派閥勧誘に影響します」
「暫定でも、数字は出るのですね」
「出ます。嫌でも出ます。しかも、最初の数字はだいたい心に残ります。良くても悪くても」
「セレーナ先輩も、覚えていますか」
「覚えていますよ。忘れたいくらいには」
「悪かったんですか」
「悪くはありませんでした。でも、思ったより良くもありませんでした。そういう数字が1番嫌なんです。泣くほどではない。でも、眠る前に思い出すくらいには悔しい」
その言い方が自然で、私は少しだけ笑いそうになった。
「分かる気がします」
「まだ測定前なのに?」
「はい。たぶん、明日の私はそうなります」
「随分と早いですね」
「悔しがる準備くらいはしておいた方が、慌てずに済みます」
セレーナ先輩は、少し驚いたように私を見た。
それから、声を柔らかくした。
「ソフィアさんは、面白いですね」
「まだ何もしていません」
「だからです。何もしていないのに、悔しがる準備をしている新入生はあまりいません」
「悔しいと思えるなら、まだ頑張れますから」
言ってから、自分でも少しだけおかしくなった。
ルミエールでは、こんなふうに自分を励ます必要はなかった。
私はいつも前にいた。
ここでは違う。
私はまだ、門をくぐったばかりだ。
掲示塔の上で、エリシア・ヴァレンシュタインの名前が静かに光っている。
その隣に並ぶ冠位たちの名も、まだ遠い。
私の名前は、明日初めてこの学園の数字に刻まれる。
怖い。
悔しい。
それでも、胸の奥が少しだけ熱かった。
聖アステリア。
ここには、私より上がいる。
それを知った時、私は初めて、ルミエールを出たのだと思った。