朝、鏡の前で髪を結びながら、私は昨日の掲示塔を思い出していた。
エリシア・ヴァレンシュタイン。
学園序列2位。
まだ会ってもいない人の名前が、妙に胸に残っている。赤い点のように。触れてはいけないもののように。
けれど、今日の私が向き合うのは、その人ではない。
初期測定。
聖アステリアで最初に与えられる数字。
セレーナ先輩は言っていた。
最初の数字は、だいたい心に残る。良くても悪くても。
「……良くても、悪くても」
小さく繰り返して、私はリボンを整えた。
ルミエールでは、測定の日に怖いと思ったことはほとんどなかった。緊張はした。失敗したくないとも思った。けれど、私はずっと上にいた。先生たちも、同級生たちも、私が良い結果を出すことを疑っていなかった。
ここでは違う。
私はまだ、何者でもない。
それが怖い。
でも、怖いだけではなかった。
胸の奥に、少しだけ熱がある。
私は鏡の中の自分を見た。
乱れのない髪。白い制服。少し硬い顔。
「大丈夫」
自分に言った。
大丈夫、ではないかもしれない。
それでも、言う。
「悔しがる準備は、できています」
そう言うと、少しだけおかしくなった。
朝から何を言っているのだろう。
でも、声にしたら少し楽になった。
私は鞄を持ち、部屋を出た。
⸻
測定棟は、登録棟よりも静かだった。
白い廊下に、番号札を持った新入生たちが並んでいる。緊張している子もいるが、騒がしい子はいない。誰もが、これから自分が測られることを分かっている顔をしていた。
私は受付で測定札を受け取った。
番号は、A-173。
札に触れると、薄く魔力が返ってくる。本人確認も兼ねているのだろう。
「昨日のルミエールの人」
横から声がした。
振り向くと、昨日の列で認証術式を直していた少女がいた。薄茶色の髪を肩のあたりで揃え、測定札を指先でくるくる回している。姿勢は綺麗というより、動きやすそうだった。
「その呼び方、少し雑ではありませんか」
「あ、ごめんなさい。じゃあ、礼法と魔術が綺麗なルミエールの人」
「長くなりましたね」
「短くすると怒られそうだったので」
悪びれない言い方だった。
私は思わず、少し笑った。
「ソフィア・アステールです」
「エマ・リュネットです。昨日、術式を見てましたよね。目が合った時、怒られるかと思いました」
「怒る理由がありません。あの処理はすごかったですから」
「え、そこ褒めるんですか。私、先生にはだいたい“発想は悪くないけど雑”って言われるんですけど」
「雑かどうかは、まだ分かりません。ただ、私には出なかった考えです」
そう言うと、エマさんは測定札を回す手を止めた。
私の顔を見て、それから少しだけ照れたように視線を逸らす。
「ソフィアさんって、ちゃんと褒めるんですね」
「ちゃんと、とは?」
「もっとこう、“完璧ですけど何か?”みたいな人かと思ってました。顔がそういう顔なので」
「顔で性格を決めないでください」
「すみません。綺麗な人って、だいたい怖いか面倒くさいかのどっちかだったので」
「それは経験に偏りがあります」
「はい。たぶんあります」
エマさんは軽く笑った。
彼女の話し方は、ルミエールにはあまりいなかった種類だ。悪意がない。けれど遠慮も少ない。言葉がまっすぐ出てくる。
私は少しだけ、話しやすいと思った。
「エマさんは、魔術理論が得意なのですか」
「理論と処理だけです。他は見ないでください。特に剣術。あれはもう私ではなく棒を持った事故です」
「事故」
「はい。人間が剣を持っているのではなく、剣が人間に迷惑をかけている状態です」
思わず笑ってしまった。
エマさんが、少し得意そうな顔をする。
「笑いましたね」
「今のは、少しずるいです」
「よかった。測定前に1回笑っておくと、たぶん少し楽です」
「それは経験則ですか?」
「願望です」
この人は、強いのか軽いのか分からない。
でも、少なくとも退屈ではない。
「A列、魔術理論測定を開始します」
職員の声が響いた。
廊下の空気が変わる。
エマさんは測定札を握り直した。
「じゃあ、行きますか」
「はい」
私は頷いた。
ここから、数字になる。
⸻
魔術理論の測定は、思っていたより静かだった。
机ごとに結界が張られ、目の前の記録板に問題が表示される。術式の穴埋め、構造解析、誤差修正、複数系統の干渉予測。
難しい。
でも、読める。
私は息を整え、1問ずつ解いていった。
ルミエールで学んだものは、ここでも通じる。すべてが通じないわけではない。積み上げてきたものは、ちゃんと私の中にある。
そう感じた時、少しだけ肩の力が抜けた。
隣の席から、記録板を叩く軽い音が聞こえる。
エマさんだ。
速い。
彼女は考えていないわけではない。むしろ、考える場所が私と違う。式の全体を綺麗に見てから解くのではなく、詰まりそうな場所を先に切り分けている。不要な節を捨て、残す場所を選び、最短で答えへ届く。
私は解ける。
けれど、彼女は早い。
その違いが、はっきり分かった。
最後の問題で、私は1度手を止めた。
第4節の干渉を残すか、切るか。
残せば綺麗だ。切れば速い。でも切った後の補正が読みにくい。
私は残す方を選んだ。
解答を終えた時、エマさんはもう席を立っていた。記録板を返しながら、職員に何か言われている。
「第4節、切りましたね」
「はい。残すと綺麗ですけど、今回は時間が足りないので」
「補正は?」
「第2節の余りで押しました。たぶん少し汚いです」
「正解です」
「よかった。怒られるかと思いました」
怒られてはいない。
むしろ、職員の声には少し感心があった。
私は記録板を返しながら、その会話を聞いていた。
第2節の余り。
その発想はなかった。
悔しい。
答えを間違えたわけではない。私の処理も、おそらく悪くない。
でも、届く道が1つではないと分かっていたのに、その道を選べなかった。
測定室を出ると、エマさんが廊下で待っていた。
「ソフィアさん、最後の問題、どうしました?」
「第4節を残しました」
「あ、綺麗な方ですね。私、あれ苦手なんですよ。残すと全部整えたくなって、時間が溶けるので」
「私は逆です。切る発想が出ませんでした」
「いや、普通は残すと思います。たぶん私が雑なんです」
「それでも、私には出なかった考えです。悔しいですけど、すごいと思います」
そう言うと、エマさんは固まった。
「……本当にちゃんと褒めるんですね」
「だから、ちゃんととは何ですか」
「いえ。なんか、嬉しかっただけです」
エマさんは測定札で口元を隠した。
「私、総合だとたぶんそんなに高くないです。礼法も身体強化も剣術もひどいので。でも、今のところを褒められるのは、ちょっと嬉しいです」
「得意なものがはっきりあるのは、強みだと思います」
「ソフィアさんは、全部できそうですけど」
「全部を、そこそこ高くできるよう努力してきただけです。飛び抜けたものがあるわけではありません」
「それ、言える人も十分強いですよ」
エマさんは少しだけ真面目な顔で言った。
「私、全部は無理です。得意なところで点を取って、苦手なところで落として、最終的に“まあ、エマだし”って顔をされる予定です」
「予定にしないでください」
「だって剣術がありますから。剣術は人を裏切ります」
「剣術のせいにしないでください」
「剣術が私を嫌ってるんです」
また笑ってしまった。
測定はまだ続く。
でも、少しだけ息がしやすくなった。
⸻
魔術制御では、私は悪くなかった。
細い光の線を作り、指定された軌道を通す。3種類の魔力を混ぜ、分離し、再構成する。ルミエールで何度も繰り返した訓練だった。
「安定しています」
測定官が記録板に目を落とす。
「出力は突出していませんが、乱れが少ない。制御型としては良い評価になります」
「ありがとうございます」
「ただし、上位層はこの安定性を保ったまま、出力を倍以上にします。そこは今後の課題ですね」
「はい」
褒められている。
でも、すぐに上を見せられる。
それが聖アステリアなのだと、少しずつ分かってきた。
身体強化では、はっきり差が出た。
私は基礎通りに強化をかけ、指定された跳躍、反応、短距離移動をこなした。動けないわけではない。ルミエールなら十分に高い評価を受けただろう。
けれど、隣の新入生が床を蹴った瞬間、空気が鳴った。
速い。
身体が消えたように見えた。
着地した少女は、息も乱さず首を傾げる。
「今の、加点になりますか?」
測定官が淡々と答える。
「速度は加点。着地の乱れは減点」
「え、あれで減点なんですか」
「床に傷を入れました」
「あ、本当だ。すみません」
私は床の細い亀裂を見た。
床を壊すほどの踏み込み。
それが、新入生の測定で普通に起きる。
私は自分の足を見る。
弱い。
そう思った。
動けないわけではない。
でも、弱い。
剣術でも同じだった。
私は型を崩さず、相手役の木剣を受けた。距離を取り、足を入れ替え、無理に打ち込まず、隙を待つ。
悪くはない。
でも、決定力がない。
測定官は記録板を見ながら言った。
「基礎はあります。護身としては十分。ただ、聖アステリアの剣術評価では弱めですね。戦闘で上位を狙うなら、身体強化と合わせてかなり鍛える必要があります」
「承知しました」
喉の奥が少し熱くなる。
弱め。
その言葉は、思ったより刺さった。
ルミエールでは、剣も褒められた。父が教えてくれた握り方を、先生も悪くないと言ってくれた。
でも、ここでは弱い。
私は木剣を返し、礼をした。
悔しい。
何度も思う。
今日は悔しいことが多すぎる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
見えないまま負けるより、どこが足りないのかを知らされる方がずっといい。
⸻
礼法測定では、空気が少し変わった。
部屋に入った時点で、測定官の目が私の姿勢を見ているのが分かった。歩幅、目線、礼の角度、椅子への座り方、相手の言葉を待つ間の手の置き方。
これは、慣れている。
母に何度も直された。
ルミエールでも、何度も見られた。
「ソフィア・アステールさん」
「はい」
「来賓応対を想定します。相手はあなたより高位。ただし、明らかに不適切な要求を含みます。断る場合、相手の面子を潰さず、しかし自分の立場も崩さないこと」
「承知しました」
相手役の職員が、少し笑った。
「では、あなたの家の推薦枠について、こちらで少し手を入れさせていただきたい。代わりに、聖アステリアでの最初の評価に口添えしましょう」
私は1拍置いた。
断る。
でも、刺す必要はない。
「お心遣いには感謝いたします。ですが、推薦枠は学院と家の信用で成り立つものです。私の最初の評価をお気にかけてくださるのでしたら、なおさら、その信用を曇らせる形は避けたく存じます」
「断るのですね」
「はい。ですが、ご助言そのものはありがたく受け取ります。評価は、私自身の結果でいただけるよう努めます」
相手役の職員は、少し目を細めた。
測定官が記録板に何かを書き込む。
「次です。相手はあなたより低位。失礼な発言をしました。場を荒らさず、しかし言葉を流さないこと」
職員が口調を変えた。
「地方の小貴族にしては、ずいぶん綺麗に立つのですね。身につけるものより、顔に恵まれた方が得だと教わりましたか」
見ていた別の測定官が、少しだけこちらを見た。
私は息を吸った。
顔の話。
慣れている。
でも、好きではない。
「顔立ちについての評価は、ご自由にどうぞ。ですが、家への言及は控えていただけますか。私自身への言葉なら受け止めます。家族への無礼まで、笑って流すつもりはありません」
相手役の職員が黙る。
「……失礼しました」
「分かっていただけたなら十分です」
測定官の筆が止まった。
「結構です」
短い言葉だった。
けれど、声は少し柔らかかった。
「礼法評価、高。対人判断も加点します」
「ありがとうございます」
部屋を出た瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ここなら、私にも戦える場所がある。
そう思えた。
⸻
昼の休憩時間、私は測定棟の中庭へ出た。
白い石のベンチ。中央には小さな噴水。新入生たちが、緊張の抜けた顔で座っている。泣いている子はいないが、遠い目をしている子はいた。
エマさんは、ベンチの端でパンをかじっていた。
了解。
途中の「ソフィアさん、生きて」から自然につながる形で、最後まで書くね。繰り返し表現は抑えて、同じネタは言い換えてる。
「ソフィアさん、生きてます?」
「今のところは」
「私は、さっき剣に敗北してきました」
「剣に、ですか」
「はい。相手役の子じゃなくて、まず剣そのものと仲良くなれませんでした。持った瞬間に、あ、これは向こうも私のこと嫌いだなって」
「剣にも意思があるような言い方ですね」
「たぶんあります。少なくとも、私の手の中では反抗期でした」
思わず笑ってしまった。
エマさんは少し得意そうにパンをかじる。軽い口調だけれど、目元には疲れがあった。笑いにしているだけで、本人なりに悔しくないわけではないのだと思う。
「魔術理論は、かなり良かったのでは?」
「そこは良かったです。処理も。測定官に“他もこのくらいなら”って顔をされました」
「顔で分かったのですか」
「分かりますよ。先生とか測定官って、できる子を見る時と、できるところだけはできる子を見る時で、目が違うんです」
「……それは、少し分かります」
「あ、分かっちゃいます?」
「はい」
私はベンチの隣に座った。
測定棟の中庭には、休憩中の新入生たちが散らばっている。誰も大声では話していない。けれど、空気は朝より少し柔らかかった。数字になる前の緊張と、もう何かを突きつけられた後の疲れが混じっている。
エマさんが、ちらりと私を見る。
「ソフィアさんは、なんか大丈夫そうですね」
「大丈夫そうに見えますか?」
「見えます。姿勢が崩れてないので」
「姿勢だけです」
「姿勢だけ残せるのも、結構すごいと思いますけど」
その言い方は軽かった。
けれど、茶化してはいなかった。
私は少しだけ目を伏せる。
「身体強化と剣術は、はっきり課題でした」
「意外です。ソフィアさん、何でもできそうなのに」
「何でもできるように努力はしてきました。ですが、聖アステリアでは、それだけでは足りないようです」
「うわ、今のちょっと格好いいですね」
「そういうつもりではありません」
「じゃあ、勝手に格好いいと思っておきます」
エマさんはそう言って、パンの包み紙を畳んだ。
その時、近くにいた新入生たちの視線が、ふっと同じ方向へ動いた。
私も顔を上げる。
金色の髪の少女が、中庭に入ってきた。
淡い金ではなく、陽の光を含んだような柔らかい金色。制服の着こなしは派手ではないのに、襟元や袖口まで静かに整っている。歩き方は穏やかで、周りを押しのけるような強さはない。
それでも、周囲が自然に道を空けた。
誰かが小さく言う。
「シャルロッテ殿下……」
王女。
シャルロッテ・ヴェルミリア。
その名前は、私でも知っていた。
ヴェルミリア王国の王女。聖アステリアに入学した新入生の中でも、特に注目されている1人。
私は立ち上がろうとした。
けれど、シャルロッテ様はそれに気づいたように、少し慌てて手を振った。
「そのままで大丈夫です。休憩中ですから」
「ですが……」
「本当に。私も、座れる場所を探していただけです」
柔らかい声だった。
命じているのではない。気を遣わせないようにしている声。
私は迷った末に、軽く頭を下げた。
「失礼いたします」
「はい。失礼されてください」
少し変な言い方だった。
エマさんが横で小さく吹き出しかける。
シャルロッテ様はそれに気づき、困ったように笑った。
「今の言い方、少しおかしかったですね」
「いえ、王女殿下らしくてよろしいかと」
エマさんが妙に真面目な顔で言う。
シャルロッテ様は首を傾げた。
「本当にそう思っていますか?」
「半分くらいは」
「残り半分が怖いです」
「親しみやすい、です」
「それならよかったです」
シャルロッテ様は、私たちの隣に腰を下ろした。
動きが静かだった。王女だからというより、人を驚かせないようにしている人の動きだと思った。
「お2人は、測定はいかがでしたか」
シャルロッテ様が聞いた。
エマさんが先に口を開く。
「魔術は大丈夫でした。体を動かす方は、できれば記録から消したいです」
「消したいほどですか」
「はい。剣を持った瞬間、測定官の目が優しくなりました。あの優しさは傷つきます」
シャルロッテ様は、真面目に少し考え込んだ。
「優しさで傷つくこと、ありますね」
「そこで共感されると思いませんでした」
「私も身体強化はあまり得意ではありませんから。床を蹴る前に、床に申し訳ない気がしてしまって」
エマさんが目を丸くした。
「王女殿下、床に謝るんですか」
「心の中で、少し」
「優しいですね。私は床に謝られる側です」
「床に?」
「はい。たぶん床が“この人に踏まれても何も起きないな”って思っています」
今度はシャルロッテ様が口元を押さえた。
控えめな笑い方だった。
王女でも、こんなふうに笑う。
当たり前のことなのに、少しだけ新鮮だった。
「ソフィアさんは?」
シャルロッテ様が、私を見る。
名前を呼ばれて、少し驚いた。
「私の名前を、ご存じなのですか」
「昨日、登録棟で少し見かけました。綺麗に立っていらしたので、覚えてしまって」
綺麗に立つ。
顔ではなく、立ち方を見られた。
それが少しだけ嬉しかった。
「ありがとうございます。測定は、全体としては悪くありません。ただ、身体強化と剣術は課題です」
「私もです。測定官の方に、基礎はあります、と言われました」
「私も同じことを言われました」
シャルロッテ様は、少しだけ肩を落とした。
「基礎はあります、という言葉は、褒め言葉なのでしょうけれど……その先に、でも、が聞こえますね」
「はい。かなりはっきり聞こえました」
そう返すと、シャルロッテ様は目を細めて笑った。
「ソフィアさんは、思ったよりはっきりおっしゃるのですね」
「思ったより、と言われることが今日は多いです」
「では、訂正します。お顔より、言葉がまっすぐです」
私は一瞬返事に困った。
エマさんが横から小さく言う。
「それ、たぶん褒めてますよ」
「分かっています。分かっているから困っています」
シャルロッテ様が少しだけ目を丸くした。
それから、今度ははっきり笑った。
中庭の空気が、少し柔らかくなる。
私はその笑顔を見て、王女という肩書きの奥にいる同じ新入生を初めて見た気がした。
⸻
午後の測定が終わる頃には、身体より頭が疲れていた。
判断力測定では、複数の状況を同時に処理させられた。怪我人、契約違反、決闘の中断、証言の食い違い。何を先に見るか。誰を止めるか。どの情報を保留するか。
私はそこで、高い評価をもらった。
嬉しかった。
けれど、同時に怖かった。
判断力が高いということは、判断しなければならない場所へ置かれるということでもある。
固有能力の補助評価は、普通だった。
再生系。
珍しいが、現時点では補助扱い。修復深度は後日の詳細測定待ち。戦闘評価にも研究評価にも、大きく加点はされない。
その結果に、私は少し安心した。
まだ、私の体は誰かに大きく見つかってはいない。
変な言い方かもしれない。
でも、本当にそう思った。
夕方、測定棟の大掲示室に新入生たちが集められた。
空気が張っている。
エマさんは隣で測定札を両手で持っていた。
「どうしました?」
「そろそろ現実が来ます」
「来てほしくないのですか」
「来てほしいです。でも、ゆっくり来てほしいです。できればお茶を飲んでから来てほしいです」
「現実は、あまり待ってくれなさそうですね」
「ですよね。知ってました」
反対側には、シャルロッテ様がいた。
彼女は落ち着いて見える。けれど、指先が測定札の端を軽くなぞっていた。
王女でも、緊張する。
そのことに、少し安心した。
掲示板に光が走る。
新入生暫定順位。
全校暫定順位。
名前が、次々と表示された。
私は息を止めた。
まず、上位10人。
知らない名前が並ぶ。どの名前にも、周囲から小さな声が上がった。既に有名な家の子。推薦時点で噂になっていた子。固有能力が強い子。
10位までが、1年の冠位候補。
シャルロッテ様の名前は、そこにはなかった。
彼女は少しだけ目を伏せた。
それから、すぐに顔を上げる。
13位。
シャルロッテ・ヴェルミリア。
全校暫定順位、681位。
周囲がざわめいた。
「王女殿下、13位……」
「高い。でも冠位には届かなかったんだ」
「全校681位なら十分すごいだろ」
十分すごい。
確かにそうだ。
けれど、王女であっても冠位には届かない。
シャルロッテ様は、掲示板を見たまま静かに息を吐いた。
「……13位でした」
「高い順位です」
私は言った。
シャルロッテ様は私を見て、少しだけ笑った。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、少し楽になります」
「楽に、ですか」
「はい。悔しいと言うには、少し贅沢な順位ですから」
その言葉で、胸が少し痛んだ。
分かる。
高い。
だから、悔しいと言いにくい。
でも、届かなかった事実は残る。
次に、私の名前が表示された。
18位。
ソフィア・アステール。
全校暫定順位、742位。
見た瞬間、喉の奥が止まった。
18位。
1年500人の中で18位。
高い。
分かっている。
分かっているのに。
全校742位。
742。
ルミエールでは見たことのない数字だった。
私の前に、741人いる。
その事実が、胸に落ちた。
「ソフィアさん、18位じゃないですか」
エマさんが声を上げた。
「普通に高いですよ。いや、普通にって言うのも変ですけど、高いです。私なら3日はその数字を額に入れて飾ります」
「飾るのですか」
「飾ります。家に送ります。ついでに苦手項目は小さく印刷します」
少しだけ笑いそうになった。
でも、うまく笑えなかった。
「……はい」
声が少し遅れた。
シャルロッテ様が、こちらを見る。
視線が優しかった。
だから、余計に誤魔化せなかった。
「分かっています。高い順位だと、分かっています」
私は掲示板を見たまま言った。
「ですが、私はずっと1番でした。こうして、自分の前に何百人も名前があるのを見たことがなかったんです」
口にすると、恥ずかしかった。
贅沢な悔しさだ。
でも、本当だった。
エマさんは、笑わなかった。
「それ、言えるのすごいですね」
「すごい、ですか」
「はい。私なら“別に気にしてませんけど”って言ってから、部屋で枕を殴ります」
「枕がかわいそうです」
「大丈夫です。たぶん枕も慣れてます」
シャルロッテ様が、少しだけ笑った。
「私は、今日の夜には少し落ち込むと思います」
「シャルロッテ様も?」
「はい。13位は十分に高いです。でも、10位以内には届きませんでしたから」
王女が、そう言った。
その声は柔らかいのに、ちゃんと悔しさがあった。
私は少しだけ、彼女を近く感じた。
エマさんが掲示板を指差す。
「あ、私出ました」
50位。
エマ・リュネット。
全校暫定順位、1196位。
「うわ。思ったより上で、思ったより下です。これ、感情をどこに置けばいいんですか」
「50位も高いです」
私が言うと、エマさんは少しだけ目を丸くした。
「ソフィアさん、今それ言います?」
「言います。魔術理論と処理では、私はエマさんに負けていますから」
「総合順位はソフィアさんの方がずっと上ですよ」
「総合では、です。でも、私より先に見えているものがある人に、低いとは言いたくありません」
エマさんは黙った。
少しだけ、頬が赤くなる。
「……そういうこと、普通に言うんですね」
「変でしたか」
「変ではないです。ちょっと、心臓に悪いだけです」
「心臓に?」
「褒められ慣れてない場所を、正面から褒められたので」
エマさんは掲示板を見た。
「1196位かあ。うん。得意科目で引っ張り上げて、苦手科目に足首掴まれてる感じですね」
「それでも、戻ってきています」
「はい。なんとか地上にはいます」
シャルロッテ様がまた笑った。
その笑い方は、控えめで、でも本当に楽しそうだった。
⸻
掲示室を出ると、外は夕方になっていた。
白い校舎が、淡い金色に染まっている。
私は測定結果の写しを手に持っていた。
魔術理論、高。
魔術制御、高。
身体強化、低。
剣術、低。
判断力、高。
礼法、最高評価に近い高。
固有能力補助評価、普通。
総合。
1年内順位、18位。
全校暫定順位、742位。
悪くない。
むしろ、良い。
それでも悔しい。
「ソフィアさん」
シャルロッテ様の声がした。
振り向くと、彼女が少し後ろに立っていた。エマさんは先に寮の案内へ向かったらしい。遠くで、誰かに自分の順位を見せながら、苦手科目への文句を言っている声が聞こえた。
「少し、歩きませんか」
「私でよろしければ」
「はい。ソフィアさんがいいです」
まっすぐ言われて、少しだけ返事が遅れた。
シャルロッテ様は気づいたように、小さく微笑む。
「すみません。言い方が少し近すぎましたか」
「いえ。驚いただけです」
「では、よかったです」
2人で白い道を歩いた。
しばらく、どちらも話さなかった。
沈黙は重くなかった。
やがて、シャルロッテ様が口を開く。
「私、王女なのに13位でした」
その言い方が少しだけ子どもっぽくて、私は思わず彼女を見た。
シャルロッテ様は前を向いたまま続ける。
「もちろん、王女だから順位が上がるわけではありません。分かっています。むしろ、ここでは血筋だけで上がれないことを良いことだと思っています。でも、どこかで思っていたんです。私はきっと、もう少し上に行けるのだと」
「……私も、思っていました」
私の声は、思ったより素直に出た。
「ルミエールで1番でした。努力してきた自負もありました。だから、聖アステリアでも通用すると思っていました」
「通用していますよ」
「はい。通用はしています」
私は結果の紙を見た。
「でも、通用することと、上に立つことは違いました」
シャルロッテ様は、少しだけ息を呑んだ。
それから、静かに頷いた。
「はい。違いました」
その言葉だけで、少し救われた。
慰めではない。
同じ場所で、同じように悔しがっている人の声だった。
「ソフィアさんは、悔しいですか」
「悔しいです」
今度はすぐに言えた。
「とても。ですが、順位を隠したいとは思いません」
「なぜですか」
「これが、私が聖アステリアで最初にもらった場所だからです」
白い道の上で、私は立ち止まった。
夕陽が少し眩しい。
「ここから始めます。742位から。18位から。悔しいですが、悪い場所ではありません。上があると分かったのなら、上がればいい」
言い切った後で、少し恥ずかしくなった。
強がりに聞こえただろうか。
けれど、シャルロッテ様は笑わなかった。
私の顔を、少し長く見ていた。
その視線が、また言葉を遅らせる種類のものだと分かる。
見続けてはいけないのに、見てしまったような目。
でも、そこに嫌な欲はなかった。
ただ、何かを見つけたような目だった。
「……ソフィアさんは、綺麗ですね」
静かな声だった。
その言い方に、胸が少しだけ鳴った。
「令嬢としての佇まい。悔しいのに、ちゃんと前を見るところ。私は、少し羨ましいです」
「シャルロッテ様も、前を見ていらっしゃいます」
「そう見えますか」
「はい」
「では、そう見えるように頑張ります」
シャルロッテ様は、少しだけ笑った。
王女としての笑みではなく、同じ新入生としての笑みに見えた。
「ソフィアさん」
「はい」
「よければ、またお話ししてもいいですか。順位の話でも、測定の話でも、エマさんの剣と相性が悪かった話でも」
「最後の話題は、エマさんの許可が必要かもしれませんね」
「確かに」
「ですが、私でよければ。私も、シャルロッテ様とお話ししたいです」
シャルロッテ様の表情が、少しだけ明るくなった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
夕方の鐘が鳴った。
聖アステリアでの最初の順位は、私に敗北を教えた。
でも、それだけではなかった。
エマさんのように、私より先に見えるものを持つ人がいる。
シャルロッテ様のように、高い場所にいながら、それでも届かない場所を見ている人がいる。
そして、掲示塔の上には、まだ遠すぎる名前がある。
エリシア・ヴァレンシュタイン。
私はまだ、その人を知らない。
知らないまま、742位の紙を握った。
悔しさは、消えなかった。
でも、消えなくていいと思った。
これは、私がここで前へ進むための最初の熱だ。
ルミエールでの1番は、もう私を守ってくれない。
だから私は、聖アステリアの742位として、1歩目を踏み出す。