聖アステリア女学院の契約令嬢   作:Zuzuiikb

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第3話 最初の順位

 

 朝、鏡の前で髪を結びながら、私は昨日の掲示塔を思い出していた。

 

 エリシア・ヴァレンシュタイン。

 

 学園序列2位。

 

 まだ会ってもいない人の名前が、妙に胸に残っている。赤い点のように。触れてはいけないもののように。

 

 けれど、今日の私が向き合うのは、その人ではない。

 

 初期測定。

 

 聖アステリアで最初に与えられる数字。

 

 セレーナ先輩は言っていた。

 

 最初の数字は、だいたい心に残る。良くても悪くても。

 

「……良くても、悪くても」

 

 小さく繰り返して、私はリボンを整えた。

 

 ルミエールでは、測定の日に怖いと思ったことはほとんどなかった。緊張はした。失敗したくないとも思った。けれど、私はずっと上にいた。先生たちも、同級生たちも、私が良い結果を出すことを疑っていなかった。

 

 ここでは違う。

 

 私はまだ、何者でもない。

 

 それが怖い。

 

 でも、怖いだけではなかった。

 

 胸の奥に、少しだけ熱がある。

 

 私は鏡の中の自分を見た。

 

 乱れのない髪。白い制服。少し硬い顔。

 

「大丈夫」

 

 自分に言った。

 

 大丈夫、ではないかもしれない。

 

 それでも、言う。

 

「悔しがる準備は、できています」

 

 そう言うと、少しだけおかしくなった。

 

 朝から何を言っているのだろう。

 

 でも、声にしたら少し楽になった。

 

 私は鞄を持ち、部屋を出た。

 

 

 測定棟は、登録棟よりも静かだった。

 

 白い廊下に、番号札を持った新入生たちが並んでいる。緊張している子もいるが、騒がしい子はいない。誰もが、これから自分が測られることを分かっている顔をしていた。

 

 私は受付で測定札を受け取った。

 

 番号は、A-173。

 

 札に触れると、薄く魔力が返ってくる。本人確認も兼ねているのだろう。

 

「昨日のルミエールの人」

 

 横から声がした。

 

 振り向くと、昨日の列で認証術式を直していた少女がいた。薄茶色の髪を肩のあたりで揃え、測定札を指先でくるくる回している。姿勢は綺麗というより、動きやすそうだった。

 

「その呼び方、少し雑ではありませんか」

 

「あ、ごめんなさい。じゃあ、礼法と魔術が綺麗なルミエールの人」

 

「長くなりましたね」

 

「短くすると怒られそうだったので」

 

 悪びれない言い方だった。

 

 私は思わず、少し笑った。

 

「ソフィア・アステールです」

 

「エマ・リュネットです。昨日、術式を見てましたよね。目が合った時、怒られるかと思いました」

 

「怒る理由がありません。あの処理はすごかったですから」

 

「え、そこ褒めるんですか。私、先生にはだいたい“発想は悪くないけど雑”って言われるんですけど」

 

「雑かどうかは、まだ分かりません。ただ、私には出なかった考えです」

 

 そう言うと、エマさんは測定札を回す手を止めた。

 

 私の顔を見て、それから少しだけ照れたように視線を逸らす。

 

「ソフィアさんって、ちゃんと褒めるんですね」

 

「ちゃんと、とは?」

 

「もっとこう、“完璧ですけど何か?”みたいな人かと思ってました。顔がそういう顔なので」

 

「顔で性格を決めないでください」

 

「すみません。綺麗な人って、だいたい怖いか面倒くさいかのどっちかだったので」

 

「それは経験に偏りがあります」

 

「はい。たぶんあります」

 

 エマさんは軽く笑った。

 

 彼女の話し方は、ルミエールにはあまりいなかった種類だ。悪意がない。けれど遠慮も少ない。言葉がまっすぐ出てくる。

 

 私は少しだけ、話しやすいと思った。

 

「エマさんは、魔術理論が得意なのですか」

 

「理論と処理だけです。他は見ないでください。特に剣術。あれはもう私ではなく棒を持った事故です」

 

「事故」

 

「はい。人間が剣を持っているのではなく、剣が人間に迷惑をかけている状態です」

 

 思わず笑ってしまった。

 

 エマさんが、少し得意そうな顔をする。

 

「笑いましたね」

 

「今のは、少しずるいです」

 

「よかった。測定前に1回笑っておくと、たぶん少し楽です」

 

「それは経験則ですか?」

 

「願望です」

 

 この人は、強いのか軽いのか分からない。

 

 でも、少なくとも退屈ではない。

 

「A列、魔術理論測定を開始します」

 

 職員の声が響いた。

 

 廊下の空気が変わる。

 

 エマさんは測定札を握り直した。

 

「じゃあ、行きますか」

 

「はい」

 

 私は頷いた。

 

 ここから、数字になる。

 

 

 魔術理論の測定は、思っていたより静かだった。

 

 机ごとに結界が張られ、目の前の記録板に問題が表示される。術式の穴埋め、構造解析、誤差修正、複数系統の干渉予測。

 

 難しい。

 

 でも、読める。

 

 私は息を整え、1問ずつ解いていった。

 

 ルミエールで学んだものは、ここでも通じる。すべてが通じないわけではない。積み上げてきたものは、ちゃんと私の中にある。

 

 そう感じた時、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 隣の席から、記録板を叩く軽い音が聞こえる。

 

 エマさんだ。

 

 速い。

 

 彼女は考えていないわけではない。むしろ、考える場所が私と違う。式の全体を綺麗に見てから解くのではなく、詰まりそうな場所を先に切り分けている。不要な節を捨て、残す場所を選び、最短で答えへ届く。

 

 私は解ける。

 

 けれど、彼女は早い。

 

 その違いが、はっきり分かった。

 

 最後の問題で、私は1度手を止めた。

 

 第4節の干渉を残すか、切るか。

 

 残せば綺麗だ。切れば速い。でも切った後の補正が読みにくい。

 

 私は残す方を選んだ。

 

 解答を終えた時、エマさんはもう席を立っていた。記録板を返しながら、職員に何か言われている。

 

「第4節、切りましたね」

 

「はい。残すと綺麗ですけど、今回は時間が足りないので」

 

「補正は?」

 

「第2節の余りで押しました。たぶん少し汚いです」

 

「正解です」

 

「よかった。怒られるかと思いました」

 

 怒られてはいない。

 

 むしろ、職員の声には少し感心があった。

 

 私は記録板を返しながら、その会話を聞いていた。

 

 第2節の余り。

 

 その発想はなかった。

 

 悔しい。

 

 答えを間違えたわけではない。私の処理も、おそらく悪くない。

 

 でも、届く道が1つではないと分かっていたのに、その道を選べなかった。

 

 測定室を出ると、エマさんが廊下で待っていた。

 

「ソフィアさん、最後の問題、どうしました?」

 

「第4節を残しました」

 

「あ、綺麗な方ですね。私、あれ苦手なんですよ。残すと全部整えたくなって、時間が溶けるので」

 

「私は逆です。切る発想が出ませんでした」

 

「いや、普通は残すと思います。たぶん私が雑なんです」

 

「それでも、私には出なかった考えです。悔しいですけど、すごいと思います」

 

 そう言うと、エマさんは固まった。

 

「……本当にちゃんと褒めるんですね」

 

「だから、ちゃんととは何ですか」

 

「いえ。なんか、嬉しかっただけです」

 

 エマさんは測定札で口元を隠した。

 

「私、総合だとたぶんそんなに高くないです。礼法も身体強化も剣術もひどいので。でも、今のところを褒められるのは、ちょっと嬉しいです」

 

「得意なものがはっきりあるのは、強みだと思います」

 

「ソフィアさんは、全部できそうですけど」

 

「全部を、そこそこ高くできるよう努力してきただけです。飛び抜けたものがあるわけではありません」

 

「それ、言える人も十分強いですよ」

 

 エマさんは少しだけ真面目な顔で言った。

 

「私、全部は無理です。得意なところで点を取って、苦手なところで落として、最終的に“まあ、エマだし”って顔をされる予定です」

 

「予定にしないでください」

 

「だって剣術がありますから。剣術は人を裏切ります」

 

「剣術のせいにしないでください」

 

「剣術が私を嫌ってるんです」

 

 また笑ってしまった。

 

 測定はまだ続く。

 

 でも、少しだけ息がしやすくなった。

 

 

 魔術制御では、私は悪くなかった。

 

 細い光の線を作り、指定された軌道を通す。3種類の魔力を混ぜ、分離し、再構成する。ルミエールで何度も繰り返した訓練だった。

 

「安定しています」

 

 測定官が記録板に目を落とす。

 

「出力は突出していませんが、乱れが少ない。制御型としては良い評価になります」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、上位層はこの安定性を保ったまま、出力を倍以上にします。そこは今後の課題ですね」

 

「はい」

 

 褒められている。

 

 でも、すぐに上を見せられる。

 

 それが聖アステリアなのだと、少しずつ分かってきた。

 

 身体強化では、はっきり差が出た。

 

 私は基礎通りに強化をかけ、指定された跳躍、反応、短距離移動をこなした。動けないわけではない。ルミエールなら十分に高い評価を受けただろう。

 

 けれど、隣の新入生が床を蹴った瞬間、空気が鳴った。

 

 速い。

 

 身体が消えたように見えた。

 

 着地した少女は、息も乱さず首を傾げる。

 

「今の、加点になりますか?」

 

 測定官が淡々と答える。

 

「速度は加点。着地の乱れは減点」

 

「え、あれで減点なんですか」

 

「床に傷を入れました」

 

「あ、本当だ。すみません」

 

 私は床の細い亀裂を見た。

 

 床を壊すほどの踏み込み。

 

 それが、新入生の測定で普通に起きる。

 

 私は自分の足を見る。

 

 弱い。

 

 そう思った。

 

 動けないわけではない。

 

 でも、弱い。

 

 剣術でも同じだった。

 

 私は型を崩さず、相手役の木剣を受けた。距離を取り、足を入れ替え、無理に打ち込まず、隙を待つ。

 

 悪くはない。

 

 でも、決定力がない。

 

 測定官は記録板を見ながら言った。

 

「基礎はあります。護身としては十分。ただ、聖アステリアの剣術評価では弱めですね。戦闘で上位を狙うなら、身体強化と合わせてかなり鍛える必要があります」

 

「承知しました」

 

 喉の奥が少し熱くなる。

 

 弱め。

 

 その言葉は、思ったより刺さった。

 

 ルミエールでは、剣も褒められた。父が教えてくれた握り方を、先生も悪くないと言ってくれた。

 

 でも、ここでは弱い。

 

 私は木剣を返し、礼をした。

 

 悔しい。

 

 何度も思う。

 

 今日は悔しいことが多すぎる。

 

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

 見えないまま負けるより、どこが足りないのかを知らされる方がずっといい。

 

 

 礼法測定では、空気が少し変わった。

 

 部屋に入った時点で、測定官の目が私の姿勢を見ているのが分かった。歩幅、目線、礼の角度、椅子への座り方、相手の言葉を待つ間の手の置き方。

 

 これは、慣れている。

 

 母に何度も直された。

 

 ルミエールでも、何度も見られた。

 

「ソフィア・アステールさん」

 

「はい」

 

「来賓応対を想定します。相手はあなたより高位。ただし、明らかに不適切な要求を含みます。断る場合、相手の面子を潰さず、しかし自分の立場も崩さないこと」

 

「承知しました」

 

 相手役の職員が、少し笑った。

 

「では、あなたの家の推薦枠について、こちらで少し手を入れさせていただきたい。代わりに、聖アステリアでの最初の評価に口添えしましょう」

 

 私は1拍置いた。

 

 断る。

 

 でも、刺す必要はない。

 

「お心遣いには感謝いたします。ですが、推薦枠は学院と家の信用で成り立つものです。私の最初の評価をお気にかけてくださるのでしたら、なおさら、その信用を曇らせる形は避けたく存じます」

 

「断るのですね」

 

「はい。ですが、ご助言そのものはありがたく受け取ります。評価は、私自身の結果でいただけるよう努めます」

 

 相手役の職員は、少し目を細めた。

 

 測定官が記録板に何かを書き込む。

 

「次です。相手はあなたより低位。失礼な発言をしました。場を荒らさず、しかし言葉を流さないこと」

 

 職員が口調を変えた。

 

「地方の小貴族にしては、ずいぶん綺麗に立つのですね。身につけるものより、顔に恵まれた方が得だと教わりましたか」

 

 見ていた別の測定官が、少しだけこちらを見た。

 

 私は息を吸った。

 

 顔の話。

 

 慣れている。

 

 でも、好きではない。

 

「顔立ちについての評価は、ご自由にどうぞ。ですが、家への言及は控えていただけますか。私自身への言葉なら受け止めます。家族への無礼まで、笑って流すつもりはありません」

 

 相手役の職員が黙る。

 

「……失礼しました」

 

「分かっていただけたなら十分です」

 

 測定官の筆が止まった。

 

「結構です」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、声は少し柔らかかった。

 

「礼法評価、高。対人判断も加点します」

 

「ありがとうございます」

 

 部屋を出た瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 

 ここなら、私にも戦える場所がある。

 

 そう思えた。

 

 

 昼の休憩時間、私は測定棟の中庭へ出た。

 

 白い石のベンチ。中央には小さな噴水。新入生たちが、緊張の抜けた顔で座っている。泣いている子はいないが、遠い目をしている子はいた。

 

 エマさんは、ベンチの端でパンをかじっていた。

 

了解。

途中の「ソフィアさん、生きて」から自然につながる形で、最後まで書くね。繰り返し表現は抑えて、同じネタは言い換えてる。

 

「ソフィアさん、生きてます?」

 

「今のところは」

 

「私は、さっき剣に敗北してきました」

 

「剣に、ですか」

 

「はい。相手役の子じゃなくて、まず剣そのものと仲良くなれませんでした。持った瞬間に、あ、これは向こうも私のこと嫌いだなって」

 

「剣にも意思があるような言い方ですね」

 

「たぶんあります。少なくとも、私の手の中では反抗期でした」

 

 思わず笑ってしまった。

 

 エマさんは少し得意そうにパンをかじる。軽い口調だけれど、目元には疲れがあった。笑いにしているだけで、本人なりに悔しくないわけではないのだと思う。

 

「魔術理論は、かなり良かったのでは?」

 

「そこは良かったです。処理も。測定官に“他もこのくらいなら”って顔をされました」

 

「顔で分かったのですか」

 

「分かりますよ。先生とか測定官って、できる子を見る時と、できるところだけはできる子を見る時で、目が違うんです」

 

「……それは、少し分かります」

 

「あ、分かっちゃいます?」

 

「はい」

 

 私はベンチの隣に座った。

 

 測定棟の中庭には、休憩中の新入生たちが散らばっている。誰も大声では話していない。けれど、空気は朝より少し柔らかかった。数字になる前の緊張と、もう何かを突きつけられた後の疲れが混じっている。

 

 エマさんが、ちらりと私を見る。

 

「ソフィアさんは、なんか大丈夫そうですね」

 

「大丈夫そうに見えますか?」

 

「見えます。姿勢が崩れてないので」

 

「姿勢だけです」

 

「姿勢だけ残せるのも、結構すごいと思いますけど」

 

 その言い方は軽かった。

 

 けれど、茶化してはいなかった。

 

 私は少しだけ目を伏せる。

 

「身体強化と剣術は、はっきり課題でした」

 

「意外です。ソフィアさん、何でもできそうなのに」

 

「何でもできるように努力はしてきました。ですが、聖アステリアでは、それだけでは足りないようです」

 

「うわ、今のちょっと格好いいですね」

 

「そういうつもりではありません」

 

「じゃあ、勝手に格好いいと思っておきます」

 

 エマさんはそう言って、パンの包み紙を畳んだ。

 

 その時、近くにいた新入生たちの視線が、ふっと同じ方向へ動いた。

 

 私も顔を上げる。

 

 金色の髪の少女が、中庭に入ってきた。

 

 淡い金ではなく、陽の光を含んだような柔らかい金色。制服の着こなしは派手ではないのに、襟元や袖口まで静かに整っている。歩き方は穏やかで、周りを押しのけるような強さはない。

 

 それでも、周囲が自然に道を空けた。

 

 誰かが小さく言う。

 

「シャルロッテ殿下……」

 

 王女。

 

 シャルロッテ・ヴェルミリア。

 

 その名前は、私でも知っていた。

 

 ヴェルミリア王国の王女。聖アステリアに入学した新入生の中でも、特に注目されている1人。

 

 私は立ち上がろうとした。

 

 けれど、シャルロッテ様はそれに気づいたように、少し慌てて手を振った。

 

「そのままで大丈夫です。休憩中ですから」

 

「ですが……」

 

「本当に。私も、座れる場所を探していただけです」

 

 柔らかい声だった。

 

 命じているのではない。気を遣わせないようにしている声。

 

 私は迷った末に、軽く頭を下げた。

 

「失礼いたします」

 

「はい。失礼されてください」

 

 少し変な言い方だった。

 

 エマさんが横で小さく吹き出しかける。

 

 シャルロッテ様はそれに気づき、困ったように笑った。

 

「今の言い方、少しおかしかったですね」

 

「いえ、王女殿下らしくてよろしいかと」

 

 エマさんが妙に真面目な顔で言う。

 

 シャルロッテ様は首を傾げた。

 

「本当にそう思っていますか?」

 

「半分くらいは」

 

「残り半分が怖いです」

 

「親しみやすい、です」

 

「それならよかったです」

 

 シャルロッテ様は、私たちの隣に腰を下ろした。

 

 動きが静かだった。王女だからというより、人を驚かせないようにしている人の動きだと思った。

 

「お2人は、測定はいかがでしたか」

 

 シャルロッテ様が聞いた。

 

 エマさんが先に口を開く。

 

「魔術は大丈夫でした。体を動かす方は、できれば記録から消したいです」

 

「消したいほどですか」

 

「はい。剣を持った瞬間、測定官の目が優しくなりました。あの優しさは傷つきます」

 

 シャルロッテ様は、真面目に少し考え込んだ。

 

「優しさで傷つくこと、ありますね」

 

「そこで共感されると思いませんでした」

 

「私も身体強化はあまり得意ではありませんから。床を蹴る前に、床に申し訳ない気がしてしまって」

 

 エマさんが目を丸くした。

 

「王女殿下、床に謝るんですか」

 

「心の中で、少し」

 

「優しいですね。私は床に謝られる側です」

 

「床に?」

 

「はい。たぶん床が“この人に踏まれても何も起きないな”って思っています」

 

 今度はシャルロッテ様が口元を押さえた。

 

 控えめな笑い方だった。

 

 王女でも、こんなふうに笑う。

 

 当たり前のことなのに、少しだけ新鮮だった。

 

「ソフィアさんは?」

 

 シャルロッテ様が、私を見る。

 

 名前を呼ばれて、少し驚いた。

 

「私の名前を、ご存じなのですか」

 

「昨日、登録棟で少し見かけました。綺麗に立っていらしたので、覚えてしまって」

 

 綺麗に立つ。

 

 顔ではなく、立ち方を見られた。

 

 それが少しだけ嬉しかった。

 

「ありがとうございます。測定は、全体としては悪くありません。ただ、身体強化と剣術は課題です」

 

「私もです。測定官の方に、基礎はあります、と言われました」

 

「私も同じことを言われました」

 

 シャルロッテ様は、少しだけ肩を落とした。

 

「基礎はあります、という言葉は、褒め言葉なのでしょうけれど……その先に、でも、が聞こえますね」

 

「はい。かなりはっきり聞こえました」

 

 そう返すと、シャルロッテ様は目を細めて笑った。

 

「ソフィアさんは、思ったよりはっきりおっしゃるのですね」

 

「思ったより、と言われることが今日は多いです」

 

「では、訂正します。お顔より、言葉がまっすぐです」

 

 私は一瞬返事に困った。

 

 エマさんが横から小さく言う。

 

「それ、たぶん褒めてますよ」

 

「分かっています。分かっているから困っています」

 

 シャルロッテ様が少しだけ目を丸くした。

 

 それから、今度ははっきり笑った。

 

 中庭の空気が、少し柔らかくなる。

 

 私はその笑顔を見て、王女という肩書きの奥にいる同じ新入生を初めて見た気がした。

 

 

 午後の測定が終わる頃には、身体より頭が疲れていた。

 

 判断力測定では、複数の状況を同時に処理させられた。怪我人、契約違反、決闘の中断、証言の食い違い。何を先に見るか。誰を止めるか。どの情報を保留するか。

 

 私はそこで、高い評価をもらった。

 

 嬉しかった。

 

 けれど、同時に怖かった。

 

 判断力が高いということは、判断しなければならない場所へ置かれるということでもある。

 

 固有能力の補助評価は、普通だった。

 

 再生系。

 

 珍しいが、現時点では補助扱い。修復深度は後日の詳細測定待ち。戦闘評価にも研究評価にも、大きく加点はされない。

 

 その結果に、私は少し安心した。

 

 まだ、私の体は誰かに大きく見つかってはいない。

 

 変な言い方かもしれない。

 

 でも、本当にそう思った。

 

 夕方、測定棟の大掲示室に新入生たちが集められた。

 

 空気が張っている。

 

 エマさんは隣で測定札を両手で持っていた。

 

「どうしました?」

 

「そろそろ現実が来ます」

 

「来てほしくないのですか」

 

「来てほしいです。でも、ゆっくり来てほしいです。できればお茶を飲んでから来てほしいです」

 

「現実は、あまり待ってくれなさそうですね」

 

「ですよね。知ってました」

 

 反対側には、シャルロッテ様がいた。

 

 彼女は落ち着いて見える。けれど、指先が測定札の端を軽くなぞっていた。

 

 王女でも、緊張する。

 

 そのことに、少し安心した。

 

 掲示板に光が走る。

 

 新入生暫定順位。

 

 全校暫定順位。

 

 名前が、次々と表示された。

 

 私は息を止めた。

 

 まず、上位10人。

 

 知らない名前が並ぶ。どの名前にも、周囲から小さな声が上がった。既に有名な家の子。推薦時点で噂になっていた子。固有能力が強い子。

 

 10位までが、1年の冠位候補。

 

 シャルロッテ様の名前は、そこにはなかった。

 

 彼女は少しだけ目を伏せた。

 

 それから、すぐに顔を上げる。

 

 13位。

 

 シャルロッテ・ヴェルミリア。

 

 全校暫定順位、681位。

 

 周囲がざわめいた。

 

「王女殿下、13位……」

 

「高い。でも冠位には届かなかったんだ」

 

「全校681位なら十分すごいだろ」

 

 十分すごい。

 

 確かにそうだ。

 

 けれど、王女であっても冠位には届かない。

 

 シャルロッテ様は、掲示板を見たまま静かに息を吐いた。

 

「……13位でした」

 

「高い順位です」

 

 私は言った。

 

 シャルロッテ様は私を見て、少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます。そう言っていただけると、少し楽になります」

 

「楽に、ですか」

 

「はい。悔しいと言うには、少し贅沢な順位ですから」

 

 その言葉で、胸が少し痛んだ。

 

 分かる。

 

 高い。

 

 だから、悔しいと言いにくい。

 

 でも、届かなかった事実は残る。

 

 次に、私の名前が表示された。

 

 18位。

 

 ソフィア・アステール。

 

 全校暫定順位、742位。

 

 見た瞬間、喉の奥が止まった。

 

 18位。

 

 1年500人の中で18位。

 

 高い。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに。

 

 全校742位。

 

 742。

 

 ルミエールでは見たことのない数字だった。

 

 私の前に、741人いる。

 

 その事実が、胸に落ちた。

 

「ソフィアさん、18位じゃないですか」

 

 エマさんが声を上げた。

 

「普通に高いですよ。いや、普通にって言うのも変ですけど、高いです。私なら3日はその数字を額に入れて飾ります」

 

「飾るのですか」

 

「飾ります。家に送ります。ついでに苦手項目は小さく印刷します」

 

 少しだけ笑いそうになった。

 

 でも、うまく笑えなかった。

 

「……はい」

 

 声が少し遅れた。

 

 シャルロッテ様が、こちらを見る。

 

 視線が優しかった。

 

 だから、余計に誤魔化せなかった。

 

「分かっています。高い順位だと、分かっています」

 

 私は掲示板を見たまま言った。

 

「ですが、私はずっと1番でした。こうして、自分の前に何百人も名前があるのを見たことがなかったんです」

 

 口にすると、恥ずかしかった。

 

 贅沢な悔しさだ。

 

 でも、本当だった。

 

 エマさんは、笑わなかった。

 

「それ、言えるのすごいですね」

 

「すごい、ですか」

 

「はい。私なら“別に気にしてませんけど”って言ってから、部屋で枕を殴ります」

 

「枕がかわいそうです」

 

「大丈夫です。たぶん枕も慣れてます」

 

 シャルロッテ様が、少しだけ笑った。

 

「私は、今日の夜には少し落ち込むと思います」

 

「シャルロッテ様も?」

 

「はい。13位は十分に高いです。でも、10位以内には届きませんでしたから」

 

 王女が、そう言った。

 

 その声は柔らかいのに、ちゃんと悔しさがあった。

 

 私は少しだけ、彼女を近く感じた。

 

 エマさんが掲示板を指差す。

 

「あ、私出ました」

 

 50位。

 

 エマ・リュネット。

 

 全校暫定順位、1196位。

 

「うわ。思ったより上で、思ったより下です。これ、感情をどこに置けばいいんですか」

 

「50位も高いです」

 

 私が言うと、エマさんは少しだけ目を丸くした。

 

「ソフィアさん、今それ言います?」

 

「言います。魔術理論と処理では、私はエマさんに負けていますから」

 

「総合順位はソフィアさんの方がずっと上ですよ」

 

「総合では、です。でも、私より先に見えているものがある人に、低いとは言いたくありません」

 

 エマさんは黙った。

 

 少しだけ、頬が赤くなる。

 

「……そういうこと、普通に言うんですね」

 

「変でしたか」

 

「変ではないです。ちょっと、心臓に悪いだけです」

 

「心臓に?」

 

「褒められ慣れてない場所を、正面から褒められたので」

 

 エマさんは掲示板を見た。

 

「1196位かあ。うん。得意科目で引っ張り上げて、苦手科目に足首掴まれてる感じですね」

 

「それでも、戻ってきています」

 

「はい。なんとか地上にはいます」

 

 シャルロッテ様がまた笑った。

 

 その笑い方は、控えめで、でも本当に楽しそうだった。

 

 

 掲示室を出ると、外は夕方になっていた。

 

 白い校舎が、淡い金色に染まっている。

 

 私は測定結果の写しを手に持っていた。

 

 魔術理論、高。

 

 魔術制御、高。

 

 身体強化、低。

 

 剣術、低。

 

 判断力、高。

 

 礼法、最高評価に近い高。

 

 固有能力補助評価、普通。

 

 総合。

 

 1年内順位、18位。

 

 全校暫定順位、742位。

 

 悪くない。

 

 むしろ、良い。

 

 それでも悔しい。

 

「ソフィアさん」

 

 シャルロッテ様の声がした。

 

 振り向くと、彼女が少し後ろに立っていた。エマさんは先に寮の案内へ向かったらしい。遠くで、誰かに自分の順位を見せながら、苦手科目への文句を言っている声が聞こえた。

 

「少し、歩きませんか」

 

「私でよろしければ」

 

「はい。ソフィアさんがいいです」

 

 まっすぐ言われて、少しだけ返事が遅れた。

 

 シャルロッテ様は気づいたように、小さく微笑む。

 

「すみません。言い方が少し近すぎましたか」

 

「いえ。驚いただけです」

 

「では、よかったです」

 

 2人で白い道を歩いた。

 

 しばらく、どちらも話さなかった。

 

 沈黙は重くなかった。

 

 やがて、シャルロッテ様が口を開く。

 

「私、王女なのに13位でした」

 

 その言い方が少しだけ子どもっぽくて、私は思わず彼女を見た。

 

 シャルロッテ様は前を向いたまま続ける。

 

「もちろん、王女だから順位が上がるわけではありません。分かっています。むしろ、ここでは血筋だけで上がれないことを良いことだと思っています。でも、どこかで思っていたんです。私はきっと、もう少し上に行けるのだと」

 

「……私も、思っていました」

 

 私の声は、思ったより素直に出た。

 

「ルミエールで1番でした。努力してきた自負もありました。だから、聖アステリアでも通用すると思っていました」

 

「通用していますよ」

 

「はい。通用はしています」

 

 私は結果の紙を見た。

 

「でも、通用することと、上に立つことは違いました」

 

 シャルロッテ様は、少しだけ息を呑んだ。

 

 それから、静かに頷いた。

 

「はい。違いました」

 

 その言葉だけで、少し救われた。

 

 慰めではない。

 

 同じ場所で、同じように悔しがっている人の声だった。

 

「ソフィアさんは、悔しいですか」

 

「悔しいです」

 

 今度はすぐに言えた。

 

「とても。ですが、順位を隠したいとは思いません」

 

「なぜですか」

 

「これが、私が聖アステリアで最初にもらった場所だからです」

 

 白い道の上で、私は立ち止まった。

 

 夕陽が少し眩しい。

 

「ここから始めます。742位から。18位から。悔しいですが、悪い場所ではありません。上があると分かったのなら、上がればいい」

 

 言い切った後で、少し恥ずかしくなった。

 

 強がりに聞こえただろうか。

 

 けれど、シャルロッテ様は笑わなかった。

 

 私の顔を、少し長く見ていた。

 

 その視線が、また言葉を遅らせる種類のものだと分かる。

 

 見続けてはいけないのに、見てしまったような目。

 

 でも、そこに嫌な欲はなかった。

 

 ただ、何かを見つけたような目だった。

 

「……ソフィアさんは、綺麗ですね」

 

 静かな声だった。

その言い方に、胸が少しだけ鳴った。

 

「令嬢としての佇まい。悔しいのに、ちゃんと前を見るところ。私は、少し羨ましいです」

 

「シャルロッテ様も、前を見ていらっしゃいます」

 

「そう見えますか」

 

「はい」

 

「では、そう見えるように頑張ります」

 

 シャルロッテ様は、少しだけ笑った。

 

 王女としての笑みではなく、同じ新入生としての笑みに見えた。

 

「ソフィアさん」

 

「はい」

 

「よければ、またお話ししてもいいですか。順位の話でも、測定の話でも、エマさんの剣と相性が悪かった話でも」

 

「最後の話題は、エマさんの許可が必要かもしれませんね」

 

「確かに」

 

「ですが、私でよければ。私も、シャルロッテ様とお話ししたいです」

 

 シャルロッテ様の表情が、少しだけ明るくなった。

 

「ありがとうございます」

 

「こちらこそ」

 

 夕方の鐘が鳴った。

 

 聖アステリアでの最初の順位は、私に敗北を教えた。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 エマさんのように、私より先に見えるものを持つ人がいる。

 

 シャルロッテ様のように、高い場所にいながら、それでも届かない場所を見ている人がいる。

 

 そして、掲示塔の上には、まだ遠すぎる名前がある。

 

 エリシア・ヴァレンシュタイン。

 

 私はまだ、その人を知らない。

 

 知らないまま、742位の紙を握った。

 

 悔しさは、消えなかった。

 

 でも、消えなくていいと思った。

 

 これは、私がここで前へ進むための最初の熱だ。

 

 ルミエールでの1番は、もう私を守ってくれない。

 

 だから私は、聖アステリアの742位として、1歩目を踏み出す。

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