聖アステリア女学院の契約令嬢   作:Zuzuiikb

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第4話 王女の声

 

 初講義の朝、私は少し早く教室に着いた。

 

 教室と言っても、ルミエールの講義室とは広さが違う。半円状に並んだ机が段差をつけて広がり、正面には黒板ではなく、薄い白銀の記録壁があった。壁そのものが魔術具になっているらしく、まだ何も書かれていないのに、表面には細かな光が水のように流れている。

 

 座席は自由ではなかった。

 

 入口で受け取った札には、私の席が記されている。

 

 前から3列目。

 

 中央寄り。

 

 悪くない位置だ。

 

 けれど、最前列ではない。

 

 最前列には、昨日の1年上位10人が座っていた。名前まではまだ覚えていない。けれど、周囲の空気で分かる。あそこにいる子たちは、昨日の時点でこの学年の前に置かれた子たちだ。

 

 私は席に座り、鞄を置いた。

 

 18位。

 

 高い。

 

 でも、前に17人いる。

 

 それを、座席の位置が静かに教えてくる。

 

「ソフィアさん、前ですね」

 

 声に振り向くと、エマさんが少し後ろの列から手を振っていた。

 

「エマさんも、十分前方ではありませんか」

 

「いや、私はここでちょうどいいです。あまり前だと、先生の目が近いので。目が合った瞬間、苦手分野がばれる気がします」

 

「目が合うだけで?」

 

「先生って、そういう生き物じゃないですか。こっちが隠したいものを、だいたい見つけてくるんです」

 

 エマさんは肩をすくめて、自分の席に座った。

 

 その少し前、私の斜め右にシャルロッテ様がいた。目が合うと、彼女は小さく会釈する。

 

「おはようございます、ソフィアさん」

 

「おはようございます、シャルロッテ様」

 

「昨日は、少し眠れましたか」

 

「はい。思ったよりは」

 

「私は、少しだけ順位を思い出してしまいました」

 

 柔らかい声だったが、冗談だけではないのが分かった。

 

「私もです」

 

「では、おそろいですね」

 

 そう言って、シャルロッテ様は小さく笑った。

 

 王女らしい静かな笑み。

 

 でも昨日より、少し近い。

 

 そのことが、少し嬉しかった。

 

 講義開始の鐘が鳴る。

 

 教室のざわめきが、すっと薄くなった。

 

 正面の扉が開き、教師が入ってきた。

 

 長い黒髪を後ろで束ねた女性だった。年齢はまだ若く見える。けれど、歩き方に迷いがない。白い教員服の袖口には、魔術式を刻んだ銀の留め具が光っていた。

 

「クラリス・レーヴェンです。初回講義を担当します」

 

 声は高くない。

 

 よく通る。

 

「最初に言っておきます。昨日の順位に満足している人も、不満がある人も、どちらでも構いません。聖アステリアでは、不満は結果で訂正してください」

 

 記録壁に、今日の講義名が浮かぶ。

 

 実戦基礎術式・判断演習。

 

「今日扱うのは基礎です。ただし、あなた方が外の学院で基礎と呼んでいたものとは、少し違います」

 

 何人かが姿勢を正した。

 

 私も、手元の記録板に指を置く。

 

 クラリス先生は、記録壁に1つの術式を表示した。

 

 小型防護術式。

 

 見覚えはある。

 

 基本的な防護結界だ。

 

 攻撃を受け止めるための、小さな盾のような式。

 

「目的は単純です。正面から来る攻撃を防ぐ。ですが、このままでは遅い。重い。反動が術者に戻る。味方の移動も邪魔します」

 

 先生が指を動かすと、術式の周囲に条件が表示された。

 

 展開、1秒以内。

 

 味方の移動を妨げない。

 

 術者への反動を残さない。

 

 使用魔力は基準値の7割以下。

 

「この条件で、実戦用に直しなさい。答えは1つではありません。記録板に書いてください。5分後にいくつか拾います」

 

 教室の空気が変わった。

 

 全員が記録板に向かう。

 

 私も、目の前の式を見た。

 

 防護面を薄くすれば速くなる。けれど、強度が落ちる。反動を外へ流すなら、流路が必要になる。味方の移動を妨げないためには、固定面にしない方がいい。けれど、浮かせすぎると制御が難しい。

 

 私はまず、退避方向を空ける形を考えた。

 

 防ぐだけではなく、動ける場所を残す。

 

 味方を守るなら、盾を作るだけでは足りない。

 

 記録板に、線を入れる。

 

 固定面ではなく、斜めに流す。

 

 衝撃を受けた時に、結界面そのものが少しずれるようにする。受け止めるというより、そらす形。

 

 悪くない。

 

 けれど、展開時間が気になる。

 

 私が迷っている間にも、周囲から記録板を打つ音が聞こえた。

 

 5分は短かった。

 

「そこまで」

 

 クラリス先生の声で、全員の記録板が止まった。

 

「まず、最前列。レオナさん」

 

 指名された少女が立ち上がった。

 

 赤みのある黒髪の子だった。1年上位10人の1人だろう。

 

「外殻を厚くして、衝撃を正面で止めます。展開速度は身体強化で補います」

 

 記録壁に、レオナさんの案が映る。

 

 正面から受ける形だ。

 

 強い。

 

 かなり強い。

 

 けれど、先生は首を横へ少し傾けた。

 

「あなたは受けられるでしょう。隣の味方は、衝撃で後ろに転がります」

 

「結界内に入れます」

 

「味方があなたの速度についてこられれば、です」

 

「……なるほど」

 

「出力で押す答えは嫌いではありません。ですが、今回の条件は“味方の移動を妨げない”です。自分が強いことと、味方が無事なことを混同しないように」

 

 レオナさんは素直に座った。

 

 次に、別の生徒が当てられる。

 

「フィオナさん」

 

「はい。反動を床下の脈流へ落とします。地脈の位相に合わせれば、術者への返りはほとんど消せます」

 

「屋内演習場では?」

 

「床材によります」

 

「床材に祈る術式は、実戦では使いにくいですね」

 

 教室に少しだけ笑いが漏れた。

 

 フィオナさんは苦笑する。

 

「ですよね」

 

「発想は良いです。場所に依存しない補助線を用意できれば、評価は上がります」

 

 次。

 

 数人の答えが続く。

 

 ある子は光を拡散させる案を出したが、視界を潰すと言われた。

 

 ある子は攻撃者側の魔力を逆読みする案を出したが、初見の相手には遅いと指摘された。

 

 別の子は結界ではなく短距離転移を提案して、先生に「それは防護術式ではありません」と切られていた。

 

 教室全体が動いている。

 

 私たちだけが特別に見られているわけではない。

 

 ここにいる全員が、測られている。

 

「エマさん」

 

 名前を呼ばれて、エマさんが小さく肩を跳ねさせた。

 

「はい」

 

「あなたの案は、結界面を立てていませんね」

 

「立てると重いので。攻撃の接触点だけを先に拾って、そこに一瞬だけ硬化を走らせます。面で受けるより、点で軌道をずらした方が軽いと思いました」

 

 記録壁に、エマさんの案が映る。

 

 ぱっと見ただけでは、普通の防護術式には見えなかった。

 

 防ぐ面がない。

 

 代わりに、攻撃が触れた瞬間だけ、極小の硬化点が連続して走る構造になっている。受け止めるのではなく、触れた場所を順番にずらしていく。

 

 何を言っているかは分かる。

 

 でも、最初からそれを選べるかと聞かれたら、私は選べない。

 

「接触点の読み違いは?」

 

 先生が聞く。

 

「抜かれます」

 

「言い切りましたね」

 

「そこを誤魔化すと、もっと危ないので」

 

「良い判断です。欠点を隠していない。ですが、この案は術者の反応速度と読みの精度に依存しすぎます。あなたが使うなら成立する可能性がありますが、汎用性は低い」

 

「はい。たぶん、人に渡すと怒られます」

 

「怒られるだけで済めばいいですね」

 

「……そこまでですか」

 

「そこまでです」

 

 エマさんが少し沈んだ顔で座る。

 

 けれど、評価は悪くなかったらしい。

 

 先生の声には、少しだけ面白がる響きがあった。

 

「ソフィアさん」

 

 次に、私の名前が呼ばれた。

 

 私は立ち上がる。

 

「はい」

 

「あなたの案は、防護面の角度をずらしていますね」

 

「はい。正面から止めるのではなく、衝撃を斜めに流します。味方の退避方向を空け、防護術式そのものが進路を塞がないようにしました」

 

 記録壁に、私の案が映る。

 

 エマさんの案に比べれば、ずっと素直だ。

 

 堅実。

 

 そう見える。

 

 クラリス先生はしばらく眺めてから、頷いた。

 

「良い判断です。防護術式を盾としてだけ見ていない。味方の次の動きを残している点は評価できます」

 

 胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、退避方向を読むのが遅れれば、この術式はただの穴になります。あなたは判断が遅いわけではありませんが、今の構成だと術式の起動後に考える余地が多い。実戦では、その余地が危険です」

 

 温かくなったところに、冷たいものが落ちる。

 

 でも、納得できた。

 

「はい。速度が課題です」

 

「自分で言えるなら結構です。座ってください」

 

 私は座った。

 

 悔しい。

 

 けれど、悪くない。

 

 私の答えは、確かに私の答えだった。

 

 先生は記録壁の表示を消した。

 

「ここまでの答えで分かると思いますが、防護術式に正解は1つではありません。力で受ける者。場所へ逃がす者。接触点をずらす者。味方の動線を残す者。どれも状況によって正解になり、状況によって失敗になります」

 

 先生の指が、記録壁を叩く。

 

 次の課題が表示された。

 

 状況判断演習。

 

「では、次です。防護術式を誰に使うか」

 

 教室が、少し静かになった。

 

「負傷者が2人。1人は高位貴族の娘。もう1人は契約違反疑いのある生徒。周囲には、それぞれの派閥関係者がいます。あなたの防護術式は1人分しか間に合わない。どう判断しますか」

 

 記録板に、場面が表示される。

 

 血の量、距離、周囲の位置、証言の食い違い。

 

 ただの魔術ではない。

 

 判断だ。

 

「ミリアさん」

 

 指名された生徒が立つ。

 

「契約違反の有無を確認します。違反が事実なら、貴族側を優先します」

 

「確認中に、片方が死にます」

 

「……では、近い方を」

 

「近い方が軽傷なら?」

 

「重傷の方です」

 

「その判断に、契約違反の疑いは関係しますか」

 

「……しません」

 

「では、最初の答えは不要でしたね」

 

 ミリアさんは唇を噛んで座った。

 

 次の生徒が当てられる。

 

「派閥の責任者に許可を取ります」

 

「許可が出ない場合は?」

 

「その場合は……」

 

「現場判断ができないなら、あなたの術式は飾りです」

 

 教室の空気が重くなる。

 

 先生は淡々としていた。

 

 責めているというより、現実を置いているだけだった。

 

「ソフィアさん」

 

 また、私の名前が呼ばれた。

 

 私は立ち上がる。

 

 今度は、迷わなかった。

 

「怪我の程度を優先します。身分や疑いで、防護の順番は変えません」

 

「貴族側の派閥が抗議したら?」

 

「抗議は後で受けます。生死に関わる判断を、抗議の可能性で遅らせるべきではありません」

 

「契約違反の疑いが事実だった場合は?」

 

「処分は、生きている相手に行うものです。守らなかった理由にはなりません」

 

 言ってから、少しだけ教室の空気が変わったのが分かった。

 

 近くの生徒が、記録板から目を上げる。

 

 誰かが小さく息を吸う。

 

 私は座らなかった。

 

 先生が、じっと私を見る。

 

「綺麗な答えです」

 

「……はい」

 

「そして、現場では面倒な答えです」

 

「それでも、私はそう判断します」

 

 自分でも、声が少し強くなったのが分かった。

 

 先生はわずかに目を細めた。

 

「結構です。座りなさい」

 

 私は座った。

 

 指先が少し熱い。

 

 正しいことを言ったと思う。

 

 でも、ここでは正しいことを言うだけでは足りない。

 

 そのことも、もう少しずつ分かってきていた。

 

「シャルロッテさん」

 

 先生が呼ぶ。

 

 シャルロッテ様が立ち上がった。

 

「あなたならどうしますか」

 

「防護は、命に関わる方へ使います。そこはソフィアさんと同じです」

 

 声は柔らかい。

 

 けれど、次の言葉で少し温度が変わった。

 

「同時に、周囲の発言者と責任者の名前を記録します。治癒判断の根拠、負傷の程度、現場にいた代表者、最初に異議を唱えた者。すべて残します」

 

「記録を嫌がられたら?」

 

「嫌がった事実も残します」

 

 教室が静かになる。

 

 シャルロッテ様は続けた。

 

「後から判断を感情論に変えられない形にします。誰が何を見て、何を言い、誰が止めようとしたのか。そこを曖昧にしたままでは、救った相手も、救えなかった相手も、次の争いの道具になりますから」

 

 柔らかい声だった。

 

 なのに、内容は冷たいほど整っていた。

 

 私は、シャルロッテ様を見た。

 

 昨日、一緒に順位を悔しがっていた人。

 

 床に遠慮してしまうと言って笑った人。

 

 でも今の彼女は、違う。

 

 人が後からどう言い換えるか。

 

 誰が責任を投げるか。

 

 どこを記録すれば、相手の言葉を縛れるか。

 

 それを知っている人の答えだった。

 

「王女らしい答えですね」

 

 クラリス先生が言った。

 

 シャルロッテ様は、少しだけ笑った。

 

「あまり好きな答えではありません」

 

「でしょうね。好きでその答えを出す人は、もう少し顔に出ます」

 

「では、まだ顔に出ていないようで安心しました」

 

「出ていますよ。嫌そうです」

 

 教室に、小さく笑いが広がった。

 

 シャルロッテ様も、ほんの少しだけ困ったように笑って座った。

 

 私は、その横顔から目を離すのが少し遅れた。

 

 優しいだけではない。

 

 シャルロッテ様は、優しいまま、怖いことを考えられる人なのだ。

 

 

 講義が終わると、教室はすぐにざわめき始めた。

 

 上位10人は上位10人で集まり、別の生徒たちは今日の課題について話している。エマさんは後ろの席から鞄を持ってやってきた。

 

「いやあ、初回から重かったですね」

 

「そうですね」

 

「防護術式だけならまだしも、最後の判断問題で一気に胃に来ました。私、魔術だけやって帰りたいです」

 

「聖アステリアでは、帰してもらえなさそうですね」

 

「ですよね。知ってました」

 

 エマさんは肩を落とした。

 

 シャルロッテ様もこちらに来る。

 

「お疲れさまでした」

 

「シャルロッテ様も」

 

「最後の問題、少し嫌な答え方をしてしまいました」

 

「嫌な答えだとは思いませんでした。ですが、驚きました」

 

 私がそう言うと、シャルロッテ様は少しだけ目を伏せた。

 

「王宮では、後から言葉が変わることが多いんです。言っていない、知らなかった、命じていない、そんなつもりではなかった。そういう言葉で、誰かが急に孤立するところを何度も見ました」

 

 声は静かだった。

 

 説明しすぎてはいない。

 

 けれど、その奥にあるものが少しだけ見えた。

 

「だから、記録を?」

 

「はい。あまり綺麗な考え方ではありませんけれど」

 

「私は、必要な考え方だと思います」

 

 シャルロッテ様が私を見る。

 

 私は続けた。

 

「私だけなら、たぶん守って終わりにしていました。その後まで、考えが足りなかったと思います」

 

「ソフィアさんの答えも、必要です」

 

「そうでしょうか」

 

「はい。誰を守るかを最初に間違えたら、その後の記録はただの言い訳になりますから」

 

 言葉が、まっすぐ胸に落ちた。

 

 シャルロッテ様は柔らかく笑う。

 

「ですから、私たち、足したらちょうどいいかもしれませんね」

 

 その言い方が自然で、私は少し返事に迷った。

 

「足す、ですか」

 

「はい。ソフィアさんが先に立って、私が後ろで書類を固めるんです」

 

 エマさんが横から言った。

 

「そこに私が術式処理で横槍を入れます」

 

「エマさんも入るのですか」

 

「入ります。私だけ除外されたら寂しいじゃないですか」

 

「では、エマさんは何を担当されますか」

 

「相手の術式を変な方向に曲げます」

 

「頼もしいような、不安なような」

 

「だいたいその評価で合ってます」

 

 思わず笑った。

 

 その時だった。

 

 廊下の向こうで、小さなざわめきが起きた。

 

 講義室を出ていた生徒たちが、途中で足を止めている。

 

 声は大きくない。

 

 けれど、空気が少し刺さっていた。

 

「何でしょう」

 

 シャルロッテ様が先に気づく。

 

 私たちは廊下へ出た。

 

 白い廊下の端で、1人の少女が書類を抱えて立っていた。新入生だと思う。制服のリボンが少し曲がっている。顔色が悪い。

 

 その前に、赤い飾り紐をつけた生徒が2人いた。

 

 赤。

 

 ヴァレンシュタイン派。

 

 昨日、掲示塔で見た色。

 

 エリシア・ヴァレンシュタイン本人ではない。ただの派閥所属、あるいは派閥に入りたい生徒かもしれない。

 

 それでも、赤い色があるだけで、廊下の空気が少し変わっていた。

 

「契約評価局から呼び出し?」

 

 赤い飾り紐の1人が、少女の書類を覗き込むように言った。

 

「入学早々、大変ね。何をしたのかしら」

 

「何も……まだ、確認だけです」

 

 少女の声は小さい。

 

「確認だけでそんな顔になるの?」

 

「家の契約のことで……」

 

「ふうん。家の契約。便利な言葉ね」

 

 周囲の生徒たちは、見ているだけだった。

 

 止めるほどではない。

 

 そう思っているのだろう。

 

 たしかに、手を出されているわけではない。怒鳴られているわけでもない。廊下の端で、少し嫌な言葉をかけられているだけ。

 

 それでも、私は足を止めた。

 

 少女の指が、書類を強く握っていた。

 

 紙の端が折れている。

 

「ソフィアさん」

 

 シャルロッテ様が小さく呼ぶ。

 

 止める声ではなかった。

 

 確認する声だった。

 

 私は息を吸った。

 

「行きます」

 

「はい」

 

 シャルロッテ様は、短く頷いた。

 

 エマさんが小声で言う。

 

「私、こういう空気、得意じゃないですけど」

 

「私も得意ではありません」

 

「ですよね。でも行くんですよね」

 

「はい」

 

「ですよね」

 

 エマさんは諦めたように息を吐いて、ついてきた。

 

 私たちが近づくと、赤い飾り紐の生徒がこちらを見た。

 

 最初にシャルロッテ様を見て、表情を整える。

 

 次に私を見た。

 

 少しだけ、視線が止まる。

 

 でも、名前を知っている様子ではなかった。

 

 それでいい。

 

 私はまだ、誰もが覚えるような存在ではない。

 

「何かご用ですか」

 

 赤い飾り紐の生徒が言った。

 

 丁寧だが、歓迎する声ではない。

 

 私は、書類を抱えた少女を見た。

 

「その方が困っているように見えました」

 

「困っている? 私たちは確認していただけです。契約評価局に呼ばれているなら、同級生として心配するのは自然でしょう」

 

「心配の形には、あまり見えませんでした」

 

 声が少し硬くなった。

 

 赤い飾り紐の生徒の目が細くなる。

 

「あなた、新入生ですね」

 

「はい」

 

「昨日、王女殿下のお近くにいた方かしら」

 

「それが何か」

 

「いいえ。ただ、聖アステリアでは、お優しい言葉だけでは契約は軽くなりませんよ、と申し上げたかっただけです」

 

「契約が軽くならないことと、人を廊下で追い詰めることは別です」

 

「追い詰める?」

 

 赤い飾り紐の生徒は、わざとらしく首を傾げた。

 

「大げさですね。私たちは何もしていません。触れてもいない。命じてもいない。ただ、話していただけです」

 

 その言い方が、嫌だった。

 

 何もしていない。

 

 そう言える範囲で、人を削る言葉。

 

 私は口を開こうとした。

 

 その前に、シャルロッテ様が1歩前へ出た。

 

「その書類は、本人のものですか」

 

 柔らかい声だった。

 

 赤い飾り紐の生徒が、すぐに姿勢を直す。

 

「はい、殿下。契約評価局からの呼び出し状のようでしたので、少し心配になりまして」

 

「そうですか」

 

 シャルロッテ様は、書類を抱えた少女を見る。

 

「あなたは、その内容をこの場で話したいですか」

 

 少女は首を振った。

 

「いいえ……」

 

「分かりました」

 

 次の瞬間、シャルロッテ様の声が変わった。

 

「下がりなさい」

 

 短い命令だった。

 

 廊下の空気が止まる。

 

 怒鳴っていない。

 

 けれど、今の声は先ほどまでのシャルロッテ様ではなかった。

 

 王女の声だった。

 

 赤い飾り紐の生徒が、わずかに固まる。

 

「殿下、私たちは――」

 

「下がりなさいと言いました」

 

 2度目は、さらに静かだった。

 

 反論の入る隙間がない。

 

 廊下にいた生徒たちが、自然に背筋を正した。

 

 シャルロッテ様は続けた。

 

「この場でその方の契約内容を口にした者の名前を、私が控えます。必要があれば契約評価局へ照会し、守秘義務と名誉侵害の両面から確認を求めます。続けたい方は、前へ出なさい」

 

 誰も動かなかった。

 

 赤い飾り紐の生徒の唇が、少しだけ強張る。

 

「……失礼いたしました」

 

「謝罪は私ではなく、その方へ」

 

 命令ではない。

 

 でも、命令より重かった。

 

 赤い飾り紐の生徒たちは、書類を抱えた少女へ向き直る。

 

「不快にさせたなら、失礼しました」

 

 言葉はまだ少し硬い。

 

 けれど、もう笑ってはいなかった。

 

 少女は小さく頷いた。

 

 シャルロッテ様は、それ以上追わなかった。

 

「行きましょう」

 

 そのひと言で、赤い飾り紐の2人は廊下の奥へ下がっていった。

 

 周囲の生徒たちも、少しずつ動き出す。

 

 けれど、誰もすぐには声を出さなかった。

 

 私は、シャルロッテ様の横顔を見た。

 

 優しい。

 

 でも、優しいだけではない。

 

 今の彼女は、相手の言葉がどこまでなら許され、どこから記録に変わるのかを分かっていた。

 

 書類を抱えた少女が、震える声で言った。

 

「あの、ありがとうございました……」

 

 シャルロッテ様の声は、すぐに柔らかく戻った。

 

「いいえ。怖かったですね」

 

 その変化が、少しだけ不思議だった。

 

 王女の声から、同じ年の少女の声へ。

 

 どちらも、本物なのだと思った。

 

「契約評価局には、1人で行くのですか」

 

 私が聞くと、少女は小さく頷いた。

 

「はい。家の保証契約の確認で……まだ、処分ではないんです。ただ、呼び出しが来ただけで、少し怖くて」

 

「それなら、入口まで一緒に行きます」

 

「え……でも」

 

「私たちも場所を覚えたいので。ね、エマさん」

 

 急に振られたエマさんが目を瞬かせる。

 

「え、私もですか」

 

「嫌でしたか」

 

「嫌じゃないですけど、私、契約評価局って聞くだけで背筋が伸びるんですよね」

 

「では、伸ばしたまま行きましょう」

 

「ソフィアさん、たまに強いですよね」

 

「たまにですか」

 

「今は結構」

 

 少女が、少しだけ笑った。

 

 その笑いを見て、私は胸の奥が軽くなる。

 

 シャルロッテ様も、小さく頷いた。

 

「私もご一緒します。確認だけでも、1人よりは落ち着くでしょうから」

 

 少女は何度も頭を下げた。

 

 私たちは4人で、契約評価局へ向かうことになった。

 

 

 契約評価局の前まで来ると、少女は少しだけ落ち着いていた。

 

 入口には、大人の職員と生徒補助員がいる。呼び出し状を見せると、すぐに中へ案内された。どうやら本当に確認だけだったらしい。

 

 扉の向こうへ消える前、少女はもう1度こちらを振り返る。

 

「ありがとうございました。あの……名前を聞いてもいいですか」

 

「ソフィア・アステールです」

 

「エマ・リュネットです。付き添いの付き添いです」

 

「シャルロッテ・ヴェルミリアです」

 

 少女はシャルロッテ様の名前にまた慌てたが、すぐに小さく頭を下げた。

 

「私、ノエル・アルマです。本当に、ありがとうございました」

 

 ノエルさん。

 

 その名前を、私は心の中で繰り返した。

 

 彼女が中へ入ると、扉が静かに閉じる。

 

 しばらく、誰も話さなかった。

 

 最初に口を開いたのは、エマさんだった。

 

「……聖アステリア、初日から濃くないですか」

 

「今日は2日目です」

 

「余計に濃いです」

 

 それには、私も少し同意したかった。

 

 シャルロッテ様は、契約評価局の扉を見ていた。

 

 その横顔は、少しだけ遠い。

 

「シャルロッテ様」

 

 私が呼ぶと、彼女はすぐにこちらを向いた。

 

「驚かせましたか」

 

「少しだけ」

 

「すみません」

 

「謝らないでください。助かりました」

 

 シャルロッテ様は、困ったように笑った。

 

「私は、優しく止められる人でいたかったんです。でも、優しく言うだけでは止まらない場面もあります」

 

「先ほどの言葉は、怖かったです」

 

 私が正直に言うと、シャルロッテ様は静かに目を伏せた。

 

「はい。怖く言いました」

 

 その答えに、私は少し息を止めた。

 

 偶然ではない。

 

 彼女は、怖くなることを選んだ。

 

「王宮では、柔らかい言葉だけで人を守れないことがありました。相手が言い換えられない形にする。先に証人を作る。責任の所在を曖昧にさせない。そういうことばかり、覚えたくないのに覚えてしまって」

 

 シャルロッテ様の声は、悲しそうではなかった。

 

 ただ、少し疲れていた。

 

「優しくないでしょう」

 

「いいえ」

 

 私はすぐに言った。

 

 シャルロッテ様が、少し驚いたように私を見る。

 

「怖く言ったのは、本当だと思います。ですが、ノエルさんを守るためでした」

 

「そう言ってくださるのですね」

 

「はい。私はそう思いました」

 

「……ソフィアさんは、まっすぐですね」

 

「それしかできないだけです」

 

「それができるのは、強いことです」

 

 シャルロッテ様は、少しだけ笑った。

 

 けれど、その笑みは昨日よりも薄かった。

 

 王女としての顔が、まだ少し残っている。

 

 エマさんが、空気を見て小さく手を上げた。

 

「あの、私も感想言っていいですか」

 

「はい」

 

「シャルロッテ様、さっき普通に怖かったです。でも、私、ああいう怖さは嫌いじゃないです。ちゃんと相手の方を向いてましたし」

 

 シャルロッテ様が目を瞬かせる。

 

「ありがとうございます……で、いいのでしょうか」

 

「たぶん。私も言いながら、どこに着地するのか分からなかったです」

 

 その言葉に、私もシャルロッテ様も少し笑った。

 

 張っていた空気が、ようやく少し緩む。

 

 契約評価局の白い壁に、夕陽が差している。

 

 その端に、赤い飾り紐をつけた生徒たちの後ろ姿が小さく見えた。先ほどの2人だ。こちらを振り返ることはない。

 

 赤。

 

 ヴァレンシュタイン派の色。

 

 エリシア・ヴァレンシュタイン本人を、私はまだ知らない。

 

 けれど、その色だけで廊下の空気が変わることを、今日知った。

 

 そして、王女の声が人を黙らせるところも。

 

 聖アステリアは、授業の中だけにあるのではない。

 

 教室で出された問題は、廊下ですぐ現実になる。

 

 私はそのことを、2日目の夕方に知った。

 

 胸の奥に、また悔しさとは違う熱が残っている。

 

 怖い。

 

 でも、見なかったことにはしたくない。

 

 私は、契約評価局の扉をもう1度見た。

 

 ノエルさんが無事に出てくるまで、ここにいようと思った。

 

 シャルロッテ様も、エマさんも、何も言わずに隣に立っていた。

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