初講義の朝、私は少し早く教室に着いた。
教室と言っても、ルミエールの講義室とは広さが違う。半円状に並んだ机が段差をつけて広がり、正面には黒板ではなく、薄い白銀の記録壁があった。壁そのものが魔術具になっているらしく、まだ何も書かれていないのに、表面には細かな光が水のように流れている。
座席は自由ではなかった。
入口で受け取った札には、私の席が記されている。
前から3列目。
中央寄り。
悪くない位置だ。
けれど、最前列ではない。
最前列には、昨日の1年上位10人が座っていた。名前まではまだ覚えていない。けれど、周囲の空気で分かる。あそこにいる子たちは、昨日の時点でこの学年の前に置かれた子たちだ。
私は席に座り、鞄を置いた。
18位。
高い。
でも、前に17人いる。
それを、座席の位置が静かに教えてくる。
「ソフィアさん、前ですね」
声に振り向くと、エマさんが少し後ろの列から手を振っていた。
「エマさんも、十分前方ではありませんか」
「いや、私はここでちょうどいいです。あまり前だと、先生の目が近いので。目が合った瞬間、苦手分野がばれる気がします」
「目が合うだけで?」
「先生って、そういう生き物じゃないですか。こっちが隠したいものを、だいたい見つけてくるんです」
エマさんは肩をすくめて、自分の席に座った。
その少し前、私の斜め右にシャルロッテ様がいた。目が合うと、彼女は小さく会釈する。
「おはようございます、ソフィアさん」
「おはようございます、シャルロッテ様」
「昨日は、少し眠れましたか」
「はい。思ったよりは」
「私は、少しだけ順位を思い出してしまいました」
柔らかい声だったが、冗談だけではないのが分かった。
「私もです」
「では、おそろいですね」
そう言って、シャルロッテ様は小さく笑った。
王女らしい静かな笑み。
でも昨日より、少し近い。
そのことが、少し嬉しかった。
講義開始の鐘が鳴る。
教室のざわめきが、すっと薄くなった。
正面の扉が開き、教師が入ってきた。
長い黒髪を後ろで束ねた女性だった。年齢はまだ若く見える。けれど、歩き方に迷いがない。白い教員服の袖口には、魔術式を刻んだ銀の留め具が光っていた。
「クラリス・レーヴェンです。初回講義を担当します」
声は高くない。
よく通る。
「最初に言っておきます。昨日の順位に満足している人も、不満がある人も、どちらでも構いません。聖アステリアでは、不満は結果で訂正してください」
記録壁に、今日の講義名が浮かぶ。
実戦基礎術式・判断演習。
「今日扱うのは基礎です。ただし、あなた方が外の学院で基礎と呼んでいたものとは、少し違います」
何人かが姿勢を正した。
私も、手元の記録板に指を置く。
クラリス先生は、記録壁に1つの術式を表示した。
小型防護術式。
見覚えはある。
基本的な防護結界だ。
攻撃を受け止めるための、小さな盾のような式。
「目的は単純です。正面から来る攻撃を防ぐ。ですが、このままでは遅い。重い。反動が術者に戻る。味方の移動も邪魔します」
先生が指を動かすと、術式の周囲に条件が表示された。
展開、1秒以内。
味方の移動を妨げない。
術者への反動を残さない。
使用魔力は基準値の7割以下。
「この条件で、実戦用に直しなさい。答えは1つではありません。記録板に書いてください。5分後にいくつか拾います」
教室の空気が変わった。
全員が記録板に向かう。
私も、目の前の式を見た。
防護面を薄くすれば速くなる。けれど、強度が落ちる。反動を外へ流すなら、流路が必要になる。味方の移動を妨げないためには、固定面にしない方がいい。けれど、浮かせすぎると制御が難しい。
私はまず、退避方向を空ける形を考えた。
防ぐだけではなく、動ける場所を残す。
味方を守るなら、盾を作るだけでは足りない。
記録板に、線を入れる。
固定面ではなく、斜めに流す。
衝撃を受けた時に、結界面そのものが少しずれるようにする。受け止めるというより、そらす形。
悪くない。
けれど、展開時間が気になる。
私が迷っている間にも、周囲から記録板を打つ音が聞こえた。
5分は短かった。
「そこまで」
クラリス先生の声で、全員の記録板が止まった。
「まず、最前列。レオナさん」
指名された少女が立ち上がった。
赤みのある黒髪の子だった。1年上位10人の1人だろう。
「外殻を厚くして、衝撃を正面で止めます。展開速度は身体強化で補います」
記録壁に、レオナさんの案が映る。
正面から受ける形だ。
強い。
かなり強い。
けれど、先生は首を横へ少し傾けた。
「あなたは受けられるでしょう。隣の味方は、衝撃で後ろに転がります」
「結界内に入れます」
「味方があなたの速度についてこられれば、です」
「……なるほど」
「出力で押す答えは嫌いではありません。ですが、今回の条件は“味方の移動を妨げない”です。自分が強いことと、味方が無事なことを混同しないように」
レオナさんは素直に座った。
次に、別の生徒が当てられる。
「フィオナさん」
「はい。反動を床下の脈流へ落とします。地脈の位相に合わせれば、術者への返りはほとんど消せます」
「屋内演習場では?」
「床材によります」
「床材に祈る術式は、実戦では使いにくいですね」
教室に少しだけ笑いが漏れた。
フィオナさんは苦笑する。
「ですよね」
「発想は良いです。場所に依存しない補助線を用意できれば、評価は上がります」
次。
数人の答えが続く。
ある子は光を拡散させる案を出したが、視界を潰すと言われた。
ある子は攻撃者側の魔力を逆読みする案を出したが、初見の相手には遅いと指摘された。
別の子は結界ではなく短距離転移を提案して、先生に「それは防護術式ではありません」と切られていた。
教室全体が動いている。
私たちだけが特別に見られているわけではない。
ここにいる全員が、測られている。
「エマさん」
名前を呼ばれて、エマさんが小さく肩を跳ねさせた。
「はい」
「あなたの案は、結界面を立てていませんね」
「立てると重いので。攻撃の接触点だけを先に拾って、そこに一瞬だけ硬化を走らせます。面で受けるより、点で軌道をずらした方が軽いと思いました」
記録壁に、エマさんの案が映る。
ぱっと見ただけでは、普通の防護術式には見えなかった。
防ぐ面がない。
代わりに、攻撃が触れた瞬間だけ、極小の硬化点が連続して走る構造になっている。受け止めるのではなく、触れた場所を順番にずらしていく。
何を言っているかは分かる。
でも、最初からそれを選べるかと聞かれたら、私は選べない。
「接触点の読み違いは?」
先生が聞く。
「抜かれます」
「言い切りましたね」
「そこを誤魔化すと、もっと危ないので」
「良い判断です。欠点を隠していない。ですが、この案は術者の反応速度と読みの精度に依存しすぎます。あなたが使うなら成立する可能性がありますが、汎用性は低い」
「はい。たぶん、人に渡すと怒られます」
「怒られるだけで済めばいいですね」
「……そこまでですか」
「そこまでです」
エマさんが少し沈んだ顔で座る。
けれど、評価は悪くなかったらしい。
先生の声には、少しだけ面白がる響きがあった。
「ソフィアさん」
次に、私の名前が呼ばれた。
私は立ち上がる。
「はい」
「あなたの案は、防護面の角度をずらしていますね」
「はい。正面から止めるのではなく、衝撃を斜めに流します。味方の退避方向を空け、防護術式そのものが進路を塞がないようにしました」
記録壁に、私の案が映る。
エマさんの案に比べれば、ずっと素直だ。
堅実。
そう見える。
クラリス先生はしばらく眺めてから、頷いた。
「良い判断です。防護術式を盾としてだけ見ていない。味方の次の動きを残している点は評価できます」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、退避方向を読むのが遅れれば、この術式はただの穴になります。あなたは判断が遅いわけではありませんが、今の構成だと術式の起動後に考える余地が多い。実戦では、その余地が危険です」
温かくなったところに、冷たいものが落ちる。
でも、納得できた。
「はい。速度が課題です」
「自分で言えるなら結構です。座ってください」
私は座った。
悔しい。
けれど、悪くない。
私の答えは、確かに私の答えだった。
先生は記録壁の表示を消した。
「ここまでの答えで分かると思いますが、防護術式に正解は1つではありません。力で受ける者。場所へ逃がす者。接触点をずらす者。味方の動線を残す者。どれも状況によって正解になり、状況によって失敗になります」
先生の指が、記録壁を叩く。
次の課題が表示された。
状況判断演習。
「では、次です。防護術式を誰に使うか」
教室が、少し静かになった。
「負傷者が2人。1人は高位貴族の娘。もう1人は契約違反疑いのある生徒。周囲には、それぞれの派閥関係者がいます。あなたの防護術式は1人分しか間に合わない。どう判断しますか」
記録板に、場面が表示される。
血の量、距離、周囲の位置、証言の食い違い。
ただの魔術ではない。
判断だ。
「ミリアさん」
指名された生徒が立つ。
「契約違反の有無を確認します。違反が事実なら、貴族側を優先します」
「確認中に、片方が死にます」
「……では、近い方を」
「近い方が軽傷なら?」
「重傷の方です」
「その判断に、契約違反の疑いは関係しますか」
「……しません」
「では、最初の答えは不要でしたね」
ミリアさんは唇を噛んで座った。
次の生徒が当てられる。
「派閥の責任者に許可を取ります」
「許可が出ない場合は?」
「その場合は……」
「現場判断ができないなら、あなたの術式は飾りです」
教室の空気が重くなる。
先生は淡々としていた。
責めているというより、現実を置いているだけだった。
「ソフィアさん」
また、私の名前が呼ばれた。
私は立ち上がる。
今度は、迷わなかった。
「怪我の程度を優先します。身分や疑いで、防護の順番は変えません」
「貴族側の派閥が抗議したら?」
「抗議は後で受けます。生死に関わる判断を、抗議の可能性で遅らせるべきではありません」
「契約違反の疑いが事実だった場合は?」
「処分は、生きている相手に行うものです。守らなかった理由にはなりません」
言ってから、少しだけ教室の空気が変わったのが分かった。
近くの生徒が、記録板から目を上げる。
誰かが小さく息を吸う。
私は座らなかった。
先生が、じっと私を見る。
「綺麗な答えです」
「……はい」
「そして、現場では面倒な答えです」
「それでも、私はそう判断します」
自分でも、声が少し強くなったのが分かった。
先生はわずかに目を細めた。
「結構です。座りなさい」
私は座った。
指先が少し熱い。
正しいことを言ったと思う。
でも、ここでは正しいことを言うだけでは足りない。
そのことも、もう少しずつ分かってきていた。
「シャルロッテさん」
先生が呼ぶ。
シャルロッテ様が立ち上がった。
「あなたならどうしますか」
「防護は、命に関わる方へ使います。そこはソフィアさんと同じです」
声は柔らかい。
けれど、次の言葉で少し温度が変わった。
「同時に、周囲の発言者と責任者の名前を記録します。治癒判断の根拠、負傷の程度、現場にいた代表者、最初に異議を唱えた者。すべて残します」
「記録を嫌がられたら?」
「嫌がった事実も残します」
教室が静かになる。
シャルロッテ様は続けた。
「後から判断を感情論に変えられない形にします。誰が何を見て、何を言い、誰が止めようとしたのか。そこを曖昧にしたままでは、救った相手も、救えなかった相手も、次の争いの道具になりますから」
柔らかい声だった。
なのに、内容は冷たいほど整っていた。
私は、シャルロッテ様を見た。
昨日、一緒に順位を悔しがっていた人。
床に遠慮してしまうと言って笑った人。
でも今の彼女は、違う。
人が後からどう言い換えるか。
誰が責任を投げるか。
どこを記録すれば、相手の言葉を縛れるか。
それを知っている人の答えだった。
「王女らしい答えですね」
クラリス先生が言った。
シャルロッテ様は、少しだけ笑った。
「あまり好きな答えではありません」
「でしょうね。好きでその答えを出す人は、もう少し顔に出ます」
「では、まだ顔に出ていないようで安心しました」
「出ていますよ。嫌そうです」
教室に、小さく笑いが広がった。
シャルロッテ様も、ほんの少しだけ困ったように笑って座った。
私は、その横顔から目を離すのが少し遅れた。
優しいだけではない。
シャルロッテ様は、優しいまま、怖いことを考えられる人なのだ。
⸻
講義が終わると、教室はすぐにざわめき始めた。
上位10人は上位10人で集まり、別の生徒たちは今日の課題について話している。エマさんは後ろの席から鞄を持ってやってきた。
「いやあ、初回から重かったですね」
「そうですね」
「防護術式だけならまだしも、最後の判断問題で一気に胃に来ました。私、魔術だけやって帰りたいです」
「聖アステリアでは、帰してもらえなさそうですね」
「ですよね。知ってました」
エマさんは肩を落とした。
シャルロッテ様もこちらに来る。
「お疲れさまでした」
「シャルロッテ様も」
「最後の問題、少し嫌な答え方をしてしまいました」
「嫌な答えだとは思いませんでした。ですが、驚きました」
私がそう言うと、シャルロッテ様は少しだけ目を伏せた。
「王宮では、後から言葉が変わることが多いんです。言っていない、知らなかった、命じていない、そんなつもりではなかった。そういう言葉で、誰かが急に孤立するところを何度も見ました」
声は静かだった。
説明しすぎてはいない。
けれど、その奥にあるものが少しだけ見えた。
「だから、記録を?」
「はい。あまり綺麗な考え方ではありませんけれど」
「私は、必要な考え方だと思います」
シャルロッテ様が私を見る。
私は続けた。
「私だけなら、たぶん守って終わりにしていました。その後まで、考えが足りなかったと思います」
「ソフィアさんの答えも、必要です」
「そうでしょうか」
「はい。誰を守るかを最初に間違えたら、その後の記録はただの言い訳になりますから」
言葉が、まっすぐ胸に落ちた。
シャルロッテ様は柔らかく笑う。
「ですから、私たち、足したらちょうどいいかもしれませんね」
その言い方が自然で、私は少し返事に迷った。
「足す、ですか」
「はい。ソフィアさんが先に立って、私が後ろで書類を固めるんです」
エマさんが横から言った。
「そこに私が術式処理で横槍を入れます」
「エマさんも入るのですか」
「入ります。私だけ除外されたら寂しいじゃないですか」
「では、エマさんは何を担当されますか」
「相手の術式を変な方向に曲げます」
「頼もしいような、不安なような」
「だいたいその評価で合ってます」
思わず笑った。
その時だった。
廊下の向こうで、小さなざわめきが起きた。
講義室を出ていた生徒たちが、途中で足を止めている。
声は大きくない。
けれど、空気が少し刺さっていた。
「何でしょう」
シャルロッテ様が先に気づく。
私たちは廊下へ出た。
白い廊下の端で、1人の少女が書類を抱えて立っていた。新入生だと思う。制服のリボンが少し曲がっている。顔色が悪い。
その前に、赤い飾り紐をつけた生徒が2人いた。
赤。
ヴァレンシュタイン派。
昨日、掲示塔で見た色。
エリシア・ヴァレンシュタイン本人ではない。ただの派閥所属、あるいは派閥に入りたい生徒かもしれない。
それでも、赤い色があるだけで、廊下の空気が少し変わっていた。
「契約評価局から呼び出し?」
赤い飾り紐の1人が、少女の書類を覗き込むように言った。
「入学早々、大変ね。何をしたのかしら」
「何も……まだ、確認だけです」
少女の声は小さい。
「確認だけでそんな顔になるの?」
「家の契約のことで……」
「ふうん。家の契約。便利な言葉ね」
周囲の生徒たちは、見ているだけだった。
止めるほどではない。
そう思っているのだろう。
たしかに、手を出されているわけではない。怒鳴られているわけでもない。廊下の端で、少し嫌な言葉をかけられているだけ。
それでも、私は足を止めた。
少女の指が、書類を強く握っていた。
紙の端が折れている。
「ソフィアさん」
シャルロッテ様が小さく呼ぶ。
止める声ではなかった。
確認する声だった。
私は息を吸った。
「行きます」
「はい」
シャルロッテ様は、短く頷いた。
エマさんが小声で言う。
「私、こういう空気、得意じゃないですけど」
「私も得意ではありません」
「ですよね。でも行くんですよね」
「はい」
「ですよね」
エマさんは諦めたように息を吐いて、ついてきた。
私たちが近づくと、赤い飾り紐の生徒がこちらを見た。
最初にシャルロッテ様を見て、表情を整える。
次に私を見た。
少しだけ、視線が止まる。
でも、名前を知っている様子ではなかった。
それでいい。
私はまだ、誰もが覚えるような存在ではない。
「何かご用ですか」
赤い飾り紐の生徒が言った。
丁寧だが、歓迎する声ではない。
私は、書類を抱えた少女を見た。
「その方が困っているように見えました」
「困っている? 私たちは確認していただけです。契約評価局に呼ばれているなら、同級生として心配するのは自然でしょう」
「心配の形には、あまり見えませんでした」
声が少し硬くなった。
赤い飾り紐の生徒の目が細くなる。
「あなた、新入生ですね」
「はい」
「昨日、王女殿下のお近くにいた方かしら」
「それが何か」
「いいえ。ただ、聖アステリアでは、お優しい言葉だけでは契約は軽くなりませんよ、と申し上げたかっただけです」
「契約が軽くならないことと、人を廊下で追い詰めることは別です」
「追い詰める?」
赤い飾り紐の生徒は、わざとらしく首を傾げた。
「大げさですね。私たちは何もしていません。触れてもいない。命じてもいない。ただ、話していただけです」
その言い方が、嫌だった。
何もしていない。
そう言える範囲で、人を削る言葉。
私は口を開こうとした。
その前に、シャルロッテ様が1歩前へ出た。
「その書類は、本人のものですか」
柔らかい声だった。
赤い飾り紐の生徒が、すぐに姿勢を直す。
「はい、殿下。契約評価局からの呼び出し状のようでしたので、少し心配になりまして」
「そうですか」
シャルロッテ様は、書類を抱えた少女を見る。
「あなたは、その内容をこの場で話したいですか」
少女は首を振った。
「いいえ……」
「分かりました」
次の瞬間、シャルロッテ様の声が変わった。
「下がりなさい」
短い命令だった。
廊下の空気が止まる。
怒鳴っていない。
けれど、今の声は先ほどまでのシャルロッテ様ではなかった。
王女の声だった。
赤い飾り紐の生徒が、わずかに固まる。
「殿下、私たちは――」
「下がりなさいと言いました」
2度目は、さらに静かだった。
反論の入る隙間がない。
廊下にいた生徒たちが、自然に背筋を正した。
シャルロッテ様は続けた。
「この場でその方の契約内容を口にした者の名前を、私が控えます。必要があれば契約評価局へ照会し、守秘義務と名誉侵害の両面から確認を求めます。続けたい方は、前へ出なさい」
誰も動かなかった。
赤い飾り紐の生徒の唇が、少しだけ強張る。
「……失礼いたしました」
「謝罪は私ではなく、その方へ」
命令ではない。
でも、命令より重かった。
赤い飾り紐の生徒たちは、書類を抱えた少女へ向き直る。
「不快にさせたなら、失礼しました」
言葉はまだ少し硬い。
けれど、もう笑ってはいなかった。
少女は小さく頷いた。
シャルロッテ様は、それ以上追わなかった。
「行きましょう」
そのひと言で、赤い飾り紐の2人は廊下の奥へ下がっていった。
周囲の生徒たちも、少しずつ動き出す。
けれど、誰もすぐには声を出さなかった。
私は、シャルロッテ様の横顔を見た。
優しい。
でも、優しいだけではない。
今の彼女は、相手の言葉がどこまでなら許され、どこから記録に変わるのかを分かっていた。
書類を抱えた少女が、震える声で言った。
「あの、ありがとうございました……」
シャルロッテ様の声は、すぐに柔らかく戻った。
「いいえ。怖かったですね」
その変化が、少しだけ不思議だった。
王女の声から、同じ年の少女の声へ。
どちらも、本物なのだと思った。
「契約評価局には、1人で行くのですか」
私が聞くと、少女は小さく頷いた。
「はい。家の保証契約の確認で……まだ、処分ではないんです。ただ、呼び出しが来ただけで、少し怖くて」
「それなら、入口まで一緒に行きます」
「え……でも」
「私たちも場所を覚えたいので。ね、エマさん」
急に振られたエマさんが目を瞬かせる。
「え、私もですか」
「嫌でしたか」
「嫌じゃないですけど、私、契約評価局って聞くだけで背筋が伸びるんですよね」
「では、伸ばしたまま行きましょう」
「ソフィアさん、たまに強いですよね」
「たまにですか」
「今は結構」
少女が、少しだけ笑った。
その笑いを見て、私は胸の奥が軽くなる。
シャルロッテ様も、小さく頷いた。
「私もご一緒します。確認だけでも、1人よりは落ち着くでしょうから」
少女は何度も頭を下げた。
私たちは4人で、契約評価局へ向かうことになった。
⸻
契約評価局の前まで来ると、少女は少しだけ落ち着いていた。
入口には、大人の職員と生徒補助員がいる。呼び出し状を見せると、すぐに中へ案内された。どうやら本当に確認だけだったらしい。
扉の向こうへ消える前、少女はもう1度こちらを振り返る。
「ありがとうございました。あの……名前を聞いてもいいですか」
「ソフィア・アステールです」
「エマ・リュネットです。付き添いの付き添いです」
「シャルロッテ・ヴェルミリアです」
少女はシャルロッテ様の名前にまた慌てたが、すぐに小さく頭を下げた。
「私、ノエル・アルマです。本当に、ありがとうございました」
ノエルさん。
その名前を、私は心の中で繰り返した。
彼女が中へ入ると、扉が静かに閉じる。
しばらく、誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、エマさんだった。
「……聖アステリア、初日から濃くないですか」
「今日は2日目です」
「余計に濃いです」
それには、私も少し同意したかった。
シャルロッテ様は、契約評価局の扉を見ていた。
その横顔は、少しだけ遠い。
「シャルロッテ様」
私が呼ぶと、彼女はすぐにこちらを向いた。
「驚かせましたか」
「少しだけ」
「すみません」
「謝らないでください。助かりました」
シャルロッテ様は、困ったように笑った。
「私は、優しく止められる人でいたかったんです。でも、優しく言うだけでは止まらない場面もあります」
「先ほどの言葉は、怖かったです」
私が正直に言うと、シャルロッテ様は静かに目を伏せた。
「はい。怖く言いました」
その答えに、私は少し息を止めた。
偶然ではない。
彼女は、怖くなることを選んだ。
「王宮では、柔らかい言葉だけで人を守れないことがありました。相手が言い換えられない形にする。先に証人を作る。責任の所在を曖昧にさせない。そういうことばかり、覚えたくないのに覚えてしまって」
シャルロッテ様の声は、悲しそうではなかった。
ただ、少し疲れていた。
「優しくないでしょう」
「いいえ」
私はすぐに言った。
シャルロッテ様が、少し驚いたように私を見る。
「怖く言ったのは、本当だと思います。ですが、ノエルさんを守るためでした」
「そう言ってくださるのですね」
「はい。私はそう思いました」
「……ソフィアさんは、まっすぐですね」
「それしかできないだけです」
「それができるのは、強いことです」
シャルロッテ様は、少しだけ笑った。
けれど、その笑みは昨日よりも薄かった。
王女としての顔が、まだ少し残っている。
エマさんが、空気を見て小さく手を上げた。
「あの、私も感想言っていいですか」
「はい」
「シャルロッテ様、さっき普通に怖かったです。でも、私、ああいう怖さは嫌いじゃないです。ちゃんと相手の方を向いてましたし」
シャルロッテ様が目を瞬かせる。
「ありがとうございます……で、いいのでしょうか」
「たぶん。私も言いながら、どこに着地するのか分からなかったです」
その言葉に、私もシャルロッテ様も少し笑った。
張っていた空気が、ようやく少し緩む。
契約評価局の白い壁に、夕陽が差している。
その端に、赤い飾り紐をつけた生徒たちの後ろ姿が小さく見えた。先ほどの2人だ。こちらを振り返ることはない。
赤。
ヴァレンシュタイン派の色。
エリシア・ヴァレンシュタイン本人を、私はまだ知らない。
けれど、その色だけで廊下の空気が変わることを、今日知った。
そして、王女の声が人を黙らせるところも。
聖アステリアは、授業の中だけにあるのではない。
教室で出された問題は、廊下ですぐ現実になる。
私はそのことを、2日目の夕方に知った。
胸の奥に、また悔しさとは違う熱が残っている。
怖い。
でも、見なかったことにはしたくない。
私は、契約評価局の扉をもう1度見た。
ノエルさんが無事に出てくるまで、ここにいようと思った。
シャルロッテ様も、エマさんも、何も言わずに隣に立っていた。