聖アステリア女学院の契約令嬢   作:Zuzuiikb

5 / 6
第5話 弱い足

 

 

 朝の中央掲示塔は、昨日よりも人が多かった。

 

 順位発表の時ほど張り詰めてはいない。けれど、誰もが少しだけ落ち着かない顔をしている。掲示塔の下には、昨日までなかった新しい項目が浮かんでいた。

 

 1年生クラス編成。

 

 私はその文字を見上げて、少しだけ息を整えた。

 

 聖アステリアの授業は、すべてを同じクラスで受けるわけではない。魔術理論、政治学、礼法、契約基礎、歴史、研究演習。そういった座学や一般講義は、成績帯や選択分野ごとに分かれる。

 

 けれど、クラスというまとまりがないわけでもない。

 

 戦闘実技。

 

 身体強化。

 

 集団演習。

 

 クラス対抗戦。

 

 緊急時の点呼や、生活管理。

 

 そういう時には、50人ごとのクラス単位で動く。

 

 1年は500人。

 

 10クラス。

 

 私は、自分の名前を探した。

 

 1年4組。

 

 その欄に、ソフィア・アステールの文字があった。

 

「ソフィアさん」

 

 横から声がした。

 

 振り向くと、エマさんが掲示を見上げながら手を振っていた。

 

「同じですね。1年4組」

 

「はい。よろしくお願いします、エマさん」

 

「こちらこそ。これで私が身体強化で沈んでも、知り合いが見届けてくれます」

 

「沈む前提で話さないでください」

 

「浮く未来が見えないんです」

 

 エマさんは自分の名前を指で示した。

 

 エマ・リュネット。

 

 同じ4組。

 

 少し安心した。

 

 その隣ではなかった。

 

 私は、別の欄を見た。

 

 1年2組。

 

 そこに、シャルロッテ・ヴェルミリアの名前がある。

 

 少しだけ、胸の奥が軽く沈んだ。

 

 ずっと一緒にいるわけではないと分かっていた。むしろ、一般講義では会えるだろうし、昼休みや放課後に話すこともできる。それでも、同じクラスではないのだと思うと、思っていたより寂しかった。

 

「シャルロッテ様は2組ですね」

 

「王女殿下なら、どこの組でも目立ちそうですけどね。あ、でも2組って上位が多いって噂ありますよ」

 

「順位順ではないと聞きましたが」

 

「順位だけじゃないらしいです。能力の系統とか、家格とか、派閥との距離とか、問題起こしそうかとか。なんかいろいろ見て、爆発しないように混ぜるって」

 

「爆発」

 

「私の言い方です。学園はもっと綺麗な言い方をしていると思います」

 

 たしかに、掲示の下に説明が出ていた。

 

 クラス編成は、順位・専攻傾向・固有能力系統・家格・所属予定派閥・安全管理上の要素を総合し、各組の均衡を目的として行う。

 

 均衡。

 

 綺麗な言葉だった。

 

 でも、つまりは危ないものを1か所に寄せすぎないということだろう。

 

「4組にも、かなり目立つ名前がありますね」

 

 エマさんが小声で言った。

 

 私も見た。

 

 アデライン・フォルス。

 

 1年10位。

 

 昨日、掲示で見た上位10人の1人。

 

 4組の欄にその名前があった。

 

 周囲の生徒も、そこを見て少しざわついている。

 

「上位10人と同じ組ですか」

 

「そうみたいです。私、今から胃が重いです」

 

「エマさんは、戦闘授業前だからでは?」

 

「両方です。私の胃は多方面から攻撃されています」

 

 エマさんは肩を落とした。

 

 その下に、別の名前が見えた。

 

 リーナ・ベルティエ。

 

 ノエル・アルマ。

 

 ノエルさんの名前を見つけて、少しだけ安心した。昨日、契約評価局の前まで一緒に行った子だ。まだ深く話したわけではないけれど、同じ組にいると思うと、気にかけやすい。

 

 リーナという名前には、まだ覚えがなかった。

 

 ただ、掲示の前で明るい声がした。

 

「あ、4組だ。やった、近いじゃん」

 

 その声の主が、リーナさんだったのだと、後で知ることになる。

 

 

 4組の集合場所は、訓練棟前だった。

 

 初回から戦闘実技。

 

 それが聖アステリアらしいのか、単に4組の割り当てがそうだったのかは分からない。

 

 ただ、集まった50人の顔を見ると、皆それなりに覚悟していた。

 

 訓練服に着替え、手袋と腕輪を確認する。座学の時より、家柄や礼法の差は少し薄くなる。髪を結び、袖を留め、靴紐を締めると、全員が同じ場所に立たされる。

 

 そこでは、綺麗な言葉だけでは何も守ってくれない。

 

「ソフィアさん、今日って本当に戦闘なんですよね」

 

「はい」

 

「私、魔術処理だけ遠隔で参加できませんか」

 

「できないと思います」

 

「ですよね」

 

 エマさんは言いながら、手袋を何度もつけ直していた。

 

 少し離れたところにアデラインさんがいる。淡い灰色の髪を短く整え、訓練服の襟元まで乱れがない。彼女は誰かと話すでもなく、腕輪の状態を確認していた。

 

 その横を、明るい茶髪の少女が通りかかる。

 

 少し赤みのある髪を高い位置で結び、目元がはっきりしている。笑うと、周りの空気まで少し軽くなるような子だった。

 

「あ、ねえ。ソフィアちゃんだよね?」

 

 いきなり名前を呼ばれて、私は少し驚いた。

 

「はい。ソフィア・アステールです」

 

「リーナ・ベルティエ。よろしくね。同じ4組だったし、さっき掲示で見た」

 

「よろしくお願いします、リーナさん」

 

「かたいー。まあいいや、最初だもんね」

 

 リーナさんは笑った。

 

 距離が近い。

 

 でも、嫌な近さではない。

 

「ソフィアちゃん、昨日18位だったよね。すごいじゃん」

 

「ありがとうございます。ですが、まだ足りないところばかりです」

 

「そういうこと言えるのがすごいんだって。私だったら、18位だったら1週間くらい調子乗る」

 

「1週間で終わるのですか」

 

「たぶん2週間」

 

 エマさんが横から小さく言う。

 

「素直でいいですね」

 

「でしょ。エマちゃんは50位だった子だよね。魔術すごいやつ」

 

「魔術だけです。身体は別売りです」

 

「別売りなんだ」

 

「まだ入荷してません」

 

 リーナさんは声を出して笑った。

 

 明るい。

 

 少し軽い。

 

 けれど、彼女がその場で軽く足を動かした瞬間、床を踏む音が違うことに気づいた。

 

 重い。

 

 体重ではない。

 

 力の乗せ方が違う。

 

 私がそれを見るより先に、アデラインさんがこちらへ視線を向けた。

 

「通路を塞いでいます」

 

 短い声。

 

 リーナさんがぱっと横へ避ける。

 

「あ、ごめん」

 

「謝る前に動いています。なら結構です」

 

「アデラインちゃん、朝からきっちりだね」

 

「その呼び方を許可した覚えはありません」

 

「じゃあ、アデラインさん」

 

「それで構いません」

 

 リーナさんは、あまり気にしていない顔で笑った。

 

 アデラインさんは不快そうに見えたが、強く追い払うわけではない。むしろ、リーナさんの靴紐が片方緩んでいるのを見て、目線だけで示した。

 

「結び直した方がいいです。踏み込みで緩みます」

 

「あ、ほんとだ。ありがと」

 

「別に」

 

 その「別に」が、少し早かった。

 

 エマさんが小声で言う。

 

「アデラインさん、分かりやすいですね」

 

「ええ」

 

「たぶん今の、親切ですよ」

 

「私もそう思いました」

 

「言ったら怒りそうですけど」

 

「言わないでおきます」

 

 その時、訓練場の扉が開いた。

 

 4組のざわめきが止まる。

 

 中に、女性教師が立っていた。

 

 背は高い。短い灰色の髪。白い教員服の袖を肘までまくり、腕には古い傷がいくつも残っている。

 

 彼女が私たちを見た瞬間、空気が変わった。

 

「入室」

 

 たった一言だった。

 

 それだけで、50人が動いた。

 

 

 訓練場は広かった。

 

 4組50人だけで使うには、十分すぎるほどに。

 

 床には衝撃を吸う術式が敷かれている。壁も天井も白く、ところどころに修復用の魔術線が走っていた。ここでは何度も転び、何度も打たれ、何度も壊れかけたのだと分かる。

 

 教師は私たちの前に立った。

 

「ユリアナ・ヴァイスです。戦闘基礎を担当します」

 

 声は低い。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 けれど、背中に手を置かれるような圧があった。

 

「最初に言っておきます。ここでは、倒れ方の美しさは評価しません。丁寧に負ける生徒、綺麗に床へ転がる生徒、負けた理由を整った言葉で説明する生徒。そういうものは、外で褒めてもらいなさい」

 

 私は、思わず背筋を正した。

 

「聖アステリアの戦闘授業で必要なのは、勝つために何を変えられるかです。勝てないなら、次に何を捨て、何を拾うか。倒されたなら、なぜ倒れたか。痛いなら、どこまでなら動けるか。泣きたいなら、泣きながらでも立てるか」

 

 誰も声を出さなかった。

 

「今日の目的は勝つことではありません。まず、自分がどれだけ簡単に倒れるかを知りなさい」

 

 簡単に倒れる。

 

 その言葉が、胸に残る。

 

「2人1組。親しい相手とは組まない。安心できる相手と組むのは、授業ではなく休憩です」

 

 エマさんが少しだけ私を見る。

 

 私は小さく首を横に振った。

 

 先生はすでに名簿を見ていた。

 

「リーナさん。ソフィアさんと組みなさい」

 

「はーい」

 

 明るい返事。

 

 リーナさんがこちらへ来る。

 

「よろしくね、ソフィアちゃん」

 

「よろしくお願いします」

 

「大丈夫。痛かったら言ってね」

 

 その言葉は優しかった。

 

 でも、構えた瞬間に分かった。

 

 この子は強い。

 

 明るさも、軽さも、そのまま戦闘へ持ち込んでくる。けれど、足は軽くない。床を踏んだ時、重心が沈む。肩の力は抜けている。腕を上げる動きに無駄がない。

 

 私は手袋の内側で指を握った。

 

 怖い。

 

 少しだけ。

 

 でも、引けない。

 

「まずは反応測定です。攻撃側は接触制圧まで。打撃は浅く。防御側は回避、受け、離脱。固有能力は使用禁止」

 

 ユリアナ先生の声が響く。

 

「始め」

 

 その瞬間、リーナさんが消えた。

 

 消えたように見えた。

 

 違う。動いたのだ。

 

 でも、私の目はその動きに追いつかなかった。

 

 肩に衝撃。

 

 遅れて、身体が横へ飛ぶ。

 

「っ……!」

 

 受け身。

 

 そう思った時には、床が近かった。

 

 背中が落ちる。

 

 息が潰れた。

 

 視界が白く跳ねる。

 

「止め」

 

 ユリアナ先生の声が、遠く聞こえた。

 

 私は天井を見ていた。

 

 訓練場の白い天井。

 

 その前に、さっきまでリーナさんが立っていたはずの空間。

 

「ソフィアさん。今、何が見えましたか」

 

 先生が聞く。

 

 私は息を吸おうとして、少し咳き込んだ。

 

「踏み込み、までは……」

 

「違います」

 

 すぐに切られた。

 

「あなたは見えていません。見えた気がしただけです。認識した時には、もう肩を取られていました」

 

 言い返せなかった。

 

 その通りだった。

 

 私はリーナさんの動きを見たのではない。肩に衝撃が来てから、踏み込まれたのだと分かっただけだ。

 

「立ちなさい」

 

「はい」

 

 身体を起こす。

 

 肩が痛い。

 

 背中も痛い。

 

 でも、立つ。

 

 リーナさんが申し訳なさそうに笑った。

 

「ごめん、速かった?」

 

「いえ。授業ですから」

 

「うん。でも痛かったら言ってね」

 

「はい」

 

 痛い。

 

 でも、言わない。

 

 まだ立てる。

 

 2回目。

 

 今度は足を見るのをやめた。

 

 肩を見る。

 

 踏み込む前に、肩か腰が動くはずだ。

 

「始め」

 

 リーナさんの肩が揺れた。

 

 今度は、動いたのが分かった。

 

 私は横へ避けようとした。

 

 避けた、と思った。

 

 でも、リーナさんは途中で角度を変えた。

 

 速い。

 

 腕が伸びる。

 

 私は防ごうとした。手首で受ける。外へ流す。

 

 けれど、受けた腕ごと押し込まれた。

 

 力が違う。

 

 肩から崩れる。

 

 足を戻そうとした瞬間、膝の外側を軽く払われた。

 

 強く蹴られたわけではない。

 

 ただ、支えの位置を外された。

 

 それだけで、私の身体は傾いた。

 

 床が迫る。

 

 今度は手をついた。

 

 けれど、手をついた瞬間に腕が痺れ、重心が逃げた。

 

 膝をつく。

 

 そのまま、横へ倒れた。

 

「止め」

 

 先生の声。

 

「ソフィアさん。見ようとしたのは良い。ですが、見てから動くには遅すぎる。あなたの身体は、あなたの判断に追いついていません」

 

「……はい」

 

「リーナさん。速度を2段落としなさい」

 

「え、でも」

 

「このままでは練習になりません。あなたの勝利確認だけで授業時間を使うつもりですか」

 

「はい、落とします」

 

 リーナさんが少し肩をすくめた。

 

 私は立ち上がった。

 

 手のひらが赤い。

 

 膝も熱い。

 

 聖アステリアでは、私は1年18位だ。

 

 でも、身体戦闘では下の方。

 

 その言葉が、評価欄ではなく、痛みとして入ってくる。

 

 3回目。

 

 リーナさんは、本当に速度を落としていた。

 

 だからこそ、余計に怖かった。

 

 今度は見える。

 

 見えるのに、止められるとは限らない。

 

 リーナさんが踏み込む。

 

 私は半歩下がった。

 

 手を出す。距離を作る。腕を差し込ませない。

 

 今度は肩を取られなかった。

 

 でも、次の瞬間、リーナさんの手が私の手首の内側に滑り込んだ。

 

 掬われる。

 

 反射で引こうとした。

 

 引いた先に、リーナさんの身体が入っていた。

 

 近い。

 

 息が触れるほどではない。

 

 でも、間合いがもう私のものではない。

 

 リーナさんの膝が、私の足の外側に触れた。

 

 軽い。

 

 ほんの少し。

 

 それだけで、私の足は床を失った。

 

 背中から落ちる。

 

「っ、ぁ……!」

 

 息が潰れた。

 

 すぐに起きなければ。

 

 肩を起こそうとした瞬間、リーナさんが上から入ってきた。

 

 速い。

 

 重い。

 

 右手首が床に押さえられる。

 

 左腕は肘の上を取られ、胸の横で動かない。リーナさんの膝が私の太腿を押さえ、もう片方の脚が私の膝の外側を封じている。

 

 仰向け。

 

 床。

 

 天井。

 

 リーナさんの顔。

 

 それらが、息苦しいほど近い順番で並んだ。

 

「……っ」

 

 私は右腕を引いた。

 

 抜けない。

 

 手首が床に縫い止められているみたいだった。

 

 左腕を動かそうとする。

 

 肘の少し上を押さえられていて、力が逃げる。肩を捻って隙間を作ろうとしたが、リーナさんの体重がすぐに上から戻ってきた。

 

 膝を立てる。

 

 太腿を押さえられて、半分も上がらない。

 

 足先で床を探る。

 

 靴底が滑る。

 

 腰を浮かせる。

 

 背中がほんの少し床から離れた瞬間、リーナさんの膝が位置を変えた。太腿の付け根に重さが戻る。腰がまた床に落ちる。

 

「く、ぅ……っ」

 

 息が漏れた。

 

 嫌だった。

 

 こんな声を、クラスの前で出したくなかった。

 

 私は首を横に振り、乱れた髪を視界から払おうとした。けれど、手は使えない。髪は頬にかかったまま、呼吸のたびに揺れた。

 

 さっきまで、私は立っていた。

 

 先生に返事をして、リーナさんに礼をして、姿勢を保っていた。

 

 今は違う。

 

 床の上で、腕を抜こうとしている。

 

 膝を動かしている。

 

 腰を浮かせようとしている。

 

 息を乱して、それでも少しも抜け出せない。

 

「ソフィアちゃん、力抜いた方がいいよ」

 

 リーナさんの声は、まだ明るかった。

 

「抜け、ません……っ」

 

「だよね。抜いたら終わっちゃうもんね」

 

 もう終わっている。

 

 そう言われているみたいだった。

 

 それでも、私は動いた。

 

 右手首を内側へ捻る。

 

 痛い。

 

 抜けない。

 

 左肩を上げようとする。

 

 押し返される。

 

 膝を外へ開こうとする。

 

 リーナさんの脚が、その動きを簡単に潰す。

 

 力の差が、いちいち分かる。

 

 私が全身で動かそうとしているものを、リーナさんは位置を少し変えるだけで止めてしまう。

 

 悔しい。

 

 怖い。

 

 恥ずかしい。

 

 でも、それよりも、どうしようもなかった。

 

 

 4組の生徒たちは、ソフィア・アステールという少女を、まだほとんど知らなかった。

 

 ルミエールという地方の名門から来たこと。

 

 礼法と判断力の評価が高いこと。

 

 それくらいは、掲示や噂で知っている者もいた。

 

 けれど、それ以上に分かりやすかったのは、彼女の立ち方だった。

 

 ソフィアは、朝から姿勢を崩さなかった。

 

 掲示塔の前でも、訓練棟へ向かう途中でも、教師に返事をする時でも、彼女の背筋は自然に伸びていた。訓練服に着替えても、手袋をはめる仕草まで丁寧だった。誰かの話を聞く時は目を逸らさず、言葉を返す時は強すぎず、弱すぎず、声の置き方を知っているように見えた。

 

 お嬢様。

 

 そう呼ぶのは簡単だった。

 

 でも、ただ飾られているだけの令嬢ではない。

 

 4組の多くは、そういうふうに彼女を見ていた。

 

 その子が、今、床の上にいた。

 

 背中を床につけられ、右手首を押さえられ、左腕を封じられ、脚までリーナの膝で止められている。

 

 最初、何人かはすぐに終わると思った。

 

 ソフィアは負けを認めるだろう。

 

 無理な抵抗はせず、綺麗に降参するだろう。

 

 そう思った。

 

 けれど、違った。

 

 ソフィアは抵抗した。

 

 本気で。

 

 右腕が動こうとする。けれど手首は床から離れない。

 

 左肩が上がる。けれど肘の上を押さえられ、すぐに落ちる。

 

 膝が持ち上がろうとする。けれどリーナの脚がそれを上から封じる。

 

 腰が浮く。

 

 一瞬だけ、背中と床の間に隙間ができる。

 

 けれど、リーナが体重を乗せ直すと、その隙間は潰れた。

 

 ソフィアの息が乱れる。

 

 髪が頬にかかる。

 

 訓練服の肩が少しずれ、手袋の指先が床を掻くように動く。

 

 彼女は言葉を選ぶ余裕を失っていた。

 

 礼をする余裕もない。

 

 姿勢を整える余裕もない。

 

 ただ必死に抜け出そうとしている。

 

 抜け出そうとして、抜け出せない。

 

 その様子は、綺麗な敗北ではなかった。

 

 模範的な負け方でもなかった。

 

 ソフィア・アステールは、無様に抗っていた。

 

 腕を引き、肩を捻り、膝を動かし、腰を浮かせ、息を詰まらせ、それでもリーナの力に戻される。

 

 何人かは、気まずそうに目を逸らした。

 

 何人かは、じっと見ていた。

 

 エマは、手袋を握ったまま小さく息を止めていた。

 

 アデラインは、表情を変えずに見ていた。けれど、その目はソフィアの手首ではなく、彼女がまだ諦めていない足の動きを追っていた。

 

 リーナは強い。

 

 ソフィアは、今は弱い。

 

 その事実は、誰の目にも明らかだった。

 

 そして、それでもソフィアが抵抗をやめないことも、同じくらい明らかだった。

 

 

 リーナは、自分の手の下でソフィアの腕が震えるのを感じていた。

 

 細い。

 

 けれど、ただ細いだけではない。

 

 力が入っている。

 

 逃げようとしている。

 

 本気で。

 

 さっきまで背筋を伸ばして、誰より綺麗に返事をしていた子が、今は床の上で息を乱している。肩を捻り、膝を動かし、腰を浮かせようとして、それでも少しも抜け出せない。

 

 リーナの胸の奥が、変に跳ねた。

 

 勝っている。

 

 それは分かる。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 自分が押さえている。

 

 自分の力で、この子を動けなくしている。

 

 さっきまで簡単に触れられなさそうだった子を、今は自分が床に留めている。

 

 その事実が、少し怖いくらい気持ちよかった。

 

 ソフィアの膝が、また動こうとした。

 

 リーナは無意識に力を乗せる。

 

 止まる。

 

 その瞬間、ぞくりとした。

 

「……やば」

 

 小さく漏れた声に、自分で驚いた。

 

 何がやばいのか分からなかった。

 

 ソフィアが弱いことではない。

 

 自分が強いことでもない。

 

 この子が必死に抵抗しているのに、自分の力だけで止められること。

 

 それを、気持ちいいと思ってしまったこと。

 

 リーナは少し慌てた。

 

 指に力が入りすぎている。

 

 緩めようとした。

 

 けれど、完全には離せなかった。

 

 離したら、ソフィアはまた立とうとする。

 

 そう思った瞬間、ほんの少しだけ、まだ押さえていたいと思ってしまった。

 

「リーナさん」

 

 ユリアナ先生の声が飛んだ。

 

 鋭い。

 

 リーナははっとする。

 

「はいっ」

 

「制圧は成立しています。そこから余計な力を重ねない。勝った後に雑になる生徒は、戦場で味方も壊します」

 

「はい、すみません!」

 

 リーナは慌てて手を離した。

 

 

 私はようやく身体を起こした。

 

 呼吸が乱れている。

 

 右手首が痛い。

 

 肩も、背中も、太腿も熱い。

 

 頬にかかった髪を、やっと手で払った。

 

「ご、ごめん。痛かった?」

 

 リーナさんが覗き込んでくる。

 

 さっきまでの軽さとは少し違う声だった。

 

「……痛かったです」

 

 正直に言った。

 

 リーナさんが目を丸くする。

 

「言うんだ」

 

「痛いものは、痛いです」

 

「そっか。うん、ごめん。でも……授業だから、止めない方がいいかなって」

 

「...痛かったですが。初めて何もできずに敗北する経験を得られました。ありがとうございます。」

 

 私は立ち上がろうとした。

 

 膝に力が入らない。

 

 少しだけ、足が震えた。

 

 それでも立つ。

 

 立たないと、次が始まらない。

 

 ユリアナ先生がこちらを見ていた。

 

「ソフィアさん」

 

「はい」

 

「今の制圧で、あなたができたことを言いなさい」

 

 できたこと。

 

 負けた理由ではなく。

 

 私は息を整えた。

 

「2回目より、接近には反応できました。最初の崩しには耐えられませんでしたが、倒れる前に一度だけ体勢を戻そうとしました。制圧後は……抜けられませんでした」

 

「抜けられなかった理由は?」

 

「力が足りません。押さえられた後の動き方も知りませんでした。腕だけで逃げようとして、腰と脚を使えていません」

 

「その通りです」

 

 ユリアナ先生は頷いた。

 

「あなたは弱い。少なくとも、この授業ではかなり下です。動きは遅い。力も足りない。崩された後の選択肢も少ない」

 

 言葉が刺さる。

 

 でも、目を逸らさなかった。

 

「はい」

 

「ですが、負けた後に自分を飾ろうとはしませんでした。そこは残しなさい。弱いなら弱いなりに、次の材料を拾うことです」

 

「はい」

 

「リーナさん」

 

「はい」

 

「あなたは力で勝てます。だからこそ、勝った後の手に気をつけなさい。制圧と破壊は違います」

 

「はい……」

 

「今のあなたは勝ちました。ですが、最後の数秒は余分です。相手を止める手と、自分の気持ちよさに流される手は別物です」

 

 リーナさんの顔が一瞬で赤くなった。

 

「はい」

 

 今の言葉は、私にも少し刺さった。

 

 リーナさんの手が離れるのが遅れた理由。

 

 それを、先生は見ていたのだ。

 

 私は自分の手首を見た。

 

 押さえられていた場所が赤い。

 

 指の跡までは残っていない。けれど、熱がある。

 

 じっと見ているうちに、その赤みが少しずつ薄れていくのが分かった。

 

 早い。

 

 戦闘で身体が熱くなっているからかもしれない。

 

 でも、いつもより早い。

 

 私は手袋の位置を直すふりをして、手首を隠した。

 

 リーナさんがそれに気づいた。

 

「あれ、さっき結構赤くなってたよね?」

 

「治りが早いんです」

 

「へえ。いいなあ」

 

 軽い声だった。

 

 それ以上は聞かれなかった。

 

 少しだけ、ほっとした。

 

 けれど、別の視線を感じた。

 

 アデラインさんだった。

 

 彼女は少し離れたところで、こちらを見ていた。

 

 顔は変わらない。

 

 何も言わない。

 

 ただ、私の手首を見て、それから私の目を見た。

 

 その視線は冷たいというより、見逃さないという静けさを持っていた。

 

 

 授業はそれで終わらなかった。

 

 むしろ、そこからが始まりだった。

 

 受け身。

 

 間合い。

 

 拘束からの脱出。

 

 崩された後の立て直し。

 

 私は何度も倒された。

 

 腕を取られた後の動きを教わり、腰を逃がす練習をした。最初は何度やっても遅かった。頭では分かっている。けれど、身体が動く前に相手の力が来る。

 

 エマさんは、転ぶたびに床へ謝っていた。

 

「今のは私が悪いです。床は悪くありません」

 

 ユリアナ先生に、

 

「床へ謝る前に、足を出しなさい」

 

 と言われていた。

 

 リーナさんは何度も相手を倒していたが、そのたびに最後の手を少し早く離すようになった。私と目が合うと、少し気まずそうに笑った。

 

 アデラインさんは、やはり上手かった。

 

 身体能力そのものが飛び抜けて高いわけではない。

 

 それでも、勝つ。

 

 彼女は動く前に、短く呟くことがあった。

 

「3歩」

 

 その直後、踏み込みが鋭くなる。

 

「右手のみ」

 

 そう言った時は、左手を完全に使わず、相手の手首だけを正確に取った。

 

 自分に条件を課している。

 

 誓約。

 

 それが固有能力に関わっているのだと、私はすぐに分かった。

 

 けれど、分かったからといって真似できるものではなかった。

 

 アデラインさんは、自分が何を捨てれば何を得られるのかを知っている。

 

 その判断が速い。

 

 怖いくらいに。

 

「アデラインさん」

 

 ユリアナ先生が言う。

 

「条件を重くしすぎです」

 

「はい」

 

「勝てる相手に重い誓約を使う必要はありません。誓約は飾りではない」

 

「承知しました」

 

 短いやりとり。

 

 それだけで、上位10人の重さが見えた。

 

 授業の終わり頃、ユリアナ先生は全員を集めた。

 

「最後です。今日最も失敗した動きを1つ再現しなさい」

 

 ざわめきが起きる。

 

「成功した動きではありません。失敗です。自分がどこで崩れたのか、身体で覚えて帰りなさい」

 

 私は、リーナさんに仰向けで押さえ込まれた時の形を思い出した。

 

 嫌だった。

 

 もう一度、あれを自分で作るのは。

 

 右手首を取られた。

 

 左腕を封じられた。

 

 脚が動かなくなった。

 

 腰を浮かせても戻された。

 

 何もできなかった。

 

 でも、逃げる方が嫌だった。

 

リーナさんに頼みもう一度押さえつけてもらった。

 

 ユリアナ先生が歩いてくる。

 

「そこです」

 

 先生の手が、私の肩に触れた。

 

「この角度で固定されたら、腕力で抜くのは無理です。あなたがやるべきだったのは、腕を引くことではなく、先に腰をずらすこと。肩だけで逃げようとしたから、全部止められました」

 

「はい」

 

「もう1度」

 

 私は同じ姿勢から、腰をずらした。

 

 遅い。

 

 けれど、さっきよりは動けた。

 

「ましです。勝てませんが」

 

「はい」

 

「勝てないことに慣れないように」

 

 その言葉が、一番刺さった。

 

 勝てないことに慣れない。

 

 私は顔を上げた。

 

「はい」

 

 声が少し掠れていた。

 

 でも、返事だけははっきり出した。

 

 

 授業が終わると、訓練場の空気が一気に緩んだ。

 

 座り込む生徒。

 

 水を飲む生徒。

 

 その場で反省を始める生徒。

 

 笑っている子もいるが、朝より声が小さい。

 

 1年4組、50人。

 

 その全員が、何かしら自分の弱さを持ち帰る顔をしていた。

 

 私は壁際に移動し、ゆっくり座った。

 

 膝が痛い。

 

 肩が重い。

 

 手首の赤みはもうほとんど薄れている。けれど、押さえ込まれた感覚は消えなかった。

 

 リーナさんの力。

 

 床の硬さ。

 

 抜けようとしても動かなかった腕。

 

 膝を上げようとしても、少しも上がらなかった脚。

 

 あの時の息苦しさ。

 

 私は、自分の手を見た。

 

 指先が少し震えている。

 

 怖かったのだと思う。

 

 痛いことよりも、どうしようもないことが怖かった。

 

 頭では分かっていた。

 

 身体戦闘は弱い。

 

 測定でも言われた。

 

 でも、今日初めて本当に分かった。

 

 弱い、というのは評価欄の文字ではない。

 

 床に倒されることだ。

 

 手首を押さえられても抜けないことだ。

 

 脚を動かそうとして、相手の膝1つで止められることだ。

 

 声が乱れて、髪が崩れて、それでも何も変えられないことだ。

 

 私は、頭で負けたのではない。

 

 身体で負けた。

 

 それが、こんなにも悔しい。

 

「ソフィアちゃん」

 

 声をかけられて顔を上げると、リーナさんが水筒を持って立っていた。

 

「水、いる?」

 

「ありがとうございます」

 

 受け取ると、リーナさんは少し落ち着かない顔をした。

 

「さっき、ほんとごめん。力、入れすぎた」

 

「大丈夫です。本当の争いで相手に情けをかけるものはいません。それはそうとしてちょっと痛かったですが」

 

「うん。あれは、反省してる」

 

 リーナさんは自分の手を見た。

 

 いつもの明るさが少し薄い。

 

「ソフィアちゃん、めちゃくちゃ抵抗するんだね」

 

「負けたくはありませんから」

 

「そっか」

 

 リーナさんは、少しだけ笑った。

 

「なんか、綺麗に負けるタイプかと思ってた。違った」

 

「綺麗に負けても、勝ちにはなりません」

 

「うん。そうだよね」

 

 リーナさんは、なぜか少し嬉しそうだった。

 

「次も組むことあったら、よろしくね」

 

「はい。次は、もう少し抵抗します」

 

「え、そこは勝つって言わないの?」

 

「今言うと、少し嘘になりますから」

 

「あは。正直」

 

 リーナさんは笑った。

 

 でもその目は、私の手首を一瞬だけ見ていた。

 

 さっき押さえていた場所。

 

 もう赤みはほとんどない。

 

 リーナさんは何か言いたそうにしたが、結局言わなかった。

 

「じゃ、またね」

 

「はい」

 

 彼女が去った後、私は水を飲んだ。

 

 喉が乾いていた。

 

 水が身体の奥へ落ちていく。

 

 それでも、胸の重さは消えない。

 

「ソフィアさん」

 

 今度は別の声だった。

 

 アデラインさんが立っていた。

 

 近くで見ると、彼女も少し汗をかいている。けれど、息は乱れていない。

 

「はい」

 

「弱いですね」

 

 遠慮のない言葉だった。

 

 でも、不思議と怒りは湧かなかった。

 

「はい。今は」

 

 アデラインさんの眉が、少しだけ動く。

 

「今は、ですか」

 

「はい」

 

「……そうですか」

 

 それだけ言って、アデラインさんは少し黙った。

 

 そして、視線を私の膝へ落とす。

 

「立てますか」

 

「立てます」

 

 私は立とうとした。

 

 膝に力が入らず、少しだけふらつく。

 

 アデラインさんが手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 

 私はそれに気づいた。

 

「ありがとうございます」

 

「まだ何もしていません」

 

「しようとしてくれました」

 

「違います。倒れられると通路の邪魔です」

 

「そうですか」

 

「そうです」

 

 言い切る声が少しだけ早い。

 

 私は少し笑いそうになった。

 

 でも、笑ったら怒られそうなので堪えた。

 

 アデラインさんは私の手首を見た。

 

「治りが早いのですね」

 

「体質です」

 

「体質で済むものは、聖アステリアではあまり多くありません」

 

 低い声だった。

 

 けれど、探るような嫌な響きではなかった。

 

 ただ、見逃さないというだけ。

 

「詳細測定で分かると思います」

 

「でしょうね」

 

 アデラインさんは、少しだけ視線を逸らした。

 

「痛むなら、医務室へ行ってください」

 

「心配してくださるのですか」

 

「違います。明日も授業があります。使い物にならない状態で来られると迷惑です」

 

「分かりました」

 

「本当に分かっていますか」

 

「はい。医務室へ行きます」

 

「ならいいです」

 

 アデラインさんはそれだけ言って歩き出した。

 

 数歩進んでから、立ち止まる。

 

「それと」

 

「はい」

 

「次にリーナさんと組むなら、最初に腕を守ろうとしない方がいいです。彼女は腕を取ってからが速いので」

 

 私は目を瞬かせた。

 

「見ていたのですか」

 

「見えてしまっただけです」

 

「ありがとうございます」

 

「助言ではありません。感想です」

 

「では、感想をありがとうございます」

 

 アデラインさんは少しだけ口を結んだ。

 

 それから今度こそ歩いていった。

 

 エマさんが、いつの間にか後ろにいた。

 

「アデラインさん、分かりやすいですね」

 

「そうでしょうか」

 

「え、今の見て分からないんですか。あれ、かなり優しいですよ」

 

「本人に言ったら怒りそうですね」

 

「絶対怒ります。だから今度、ソフィアさんが言ってください」

 

「なぜ私が」

 

「ソフィアさんなら、怒られてもなんか平気そうなので」

 

「平気ではありません」

 

 そう返しながら、少しだけ笑った。

 

 笑えるくらいには、息が戻っていた。

 

 けれど、壁は消えない。

 

 むしろ、はっきりした。

 

 聖アステリアの戦闘授業。

 

 そこでは、私の礼法も、言葉も、床に倒された瞬間に意味を失う。

 

 私は弱い。

 

 身体で争えば、押し負ける。

 

 見えない速度がある。

 

 抜け出せない力がある。

 

 その事実が、身体のあちこちに残っていた。

 

 私は手袋を外し、赤みの消えた手首を見る。

 

 傷は戻る。

 

 痣も、きっとすぐに消える。

 

 でも、押さえ込まれた時の感覚は消えなかった。

 

 これが、今の私の壁だ。

 

 分かっただけでは、越えたことにはならない。

 

 私はゆっくり息を吸った。

 

 悔しい。

 

 怖い。

 

 それでも、見えてよかったと思った。

 

 見えない壁には、ぶつかることしかできない。

 

 見えた壁なら、登り方を探せる。

 

 まずは、医務室へ行こう。

 

 それから、明日も立つ。

 

 綺麗に倒れるためではなく。

 

 次は、もう少し長く立つために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。