朝の中央掲示塔は、昨日よりも人が多かった。
順位発表の時ほど張り詰めてはいない。けれど、誰もが少しだけ落ち着かない顔をしている。掲示塔の下には、昨日までなかった新しい項目が浮かんでいた。
1年生クラス編成。
私はその文字を見上げて、少しだけ息を整えた。
聖アステリアの授業は、すべてを同じクラスで受けるわけではない。魔術理論、政治学、礼法、契約基礎、歴史、研究演習。そういった座学や一般講義は、成績帯や選択分野ごとに分かれる。
けれど、クラスというまとまりがないわけでもない。
戦闘実技。
身体強化。
集団演習。
クラス対抗戦。
緊急時の点呼や、生活管理。
そういう時には、50人ごとのクラス単位で動く。
1年は500人。
10クラス。
私は、自分の名前を探した。
1年4組。
その欄に、ソフィア・アステールの文字があった。
「ソフィアさん」
横から声がした。
振り向くと、エマさんが掲示を見上げながら手を振っていた。
「同じですね。1年4組」
「はい。よろしくお願いします、エマさん」
「こちらこそ。これで私が身体強化で沈んでも、知り合いが見届けてくれます」
「沈む前提で話さないでください」
「浮く未来が見えないんです」
エマさんは自分の名前を指で示した。
エマ・リュネット。
同じ4組。
少し安心した。
その隣ではなかった。
私は、別の欄を見た。
1年2組。
そこに、シャルロッテ・ヴェルミリアの名前がある。
少しだけ、胸の奥が軽く沈んだ。
ずっと一緒にいるわけではないと分かっていた。むしろ、一般講義では会えるだろうし、昼休みや放課後に話すこともできる。それでも、同じクラスではないのだと思うと、思っていたより寂しかった。
「シャルロッテ様は2組ですね」
「王女殿下なら、どこの組でも目立ちそうですけどね。あ、でも2組って上位が多いって噂ありますよ」
「順位順ではないと聞きましたが」
「順位だけじゃないらしいです。能力の系統とか、家格とか、派閥との距離とか、問題起こしそうかとか。なんかいろいろ見て、爆発しないように混ぜるって」
「爆発」
「私の言い方です。学園はもっと綺麗な言い方をしていると思います」
たしかに、掲示の下に説明が出ていた。
クラス編成は、順位・専攻傾向・固有能力系統・家格・所属予定派閥・安全管理上の要素を総合し、各組の均衡を目的として行う。
均衡。
綺麗な言葉だった。
でも、つまりは危ないものを1か所に寄せすぎないということだろう。
「4組にも、かなり目立つ名前がありますね」
エマさんが小声で言った。
私も見た。
アデライン・フォルス。
1年10位。
昨日、掲示で見た上位10人の1人。
4組の欄にその名前があった。
周囲の生徒も、そこを見て少しざわついている。
「上位10人と同じ組ですか」
「そうみたいです。私、今から胃が重いです」
「エマさんは、戦闘授業前だからでは?」
「両方です。私の胃は多方面から攻撃されています」
エマさんは肩を落とした。
その下に、別の名前が見えた。
リーナ・ベルティエ。
ノエル・アルマ。
ノエルさんの名前を見つけて、少しだけ安心した。昨日、契約評価局の前まで一緒に行った子だ。まだ深く話したわけではないけれど、同じ組にいると思うと、気にかけやすい。
リーナという名前には、まだ覚えがなかった。
ただ、掲示の前で明るい声がした。
「あ、4組だ。やった、近いじゃん」
その声の主が、リーナさんだったのだと、後で知ることになる。
⸻
4組の集合場所は、訓練棟前だった。
初回から戦闘実技。
それが聖アステリアらしいのか、単に4組の割り当てがそうだったのかは分からない。
ただ、集まった50人の顔を見ると、皆それなりに覚悟していた。
訓練服に着替え、手袋と腕輪を確認する。座学の時より、家柄や礼法の差は少し薄くなる。髪を結び、袖を留め、靴紐を締めると、全員が同じ場所に立たされる。
そこでは、綺麗な言葉だけでは何も守ってくれない。
「ソフィアさん、今日って本当に戦闘なんですよね」
「はい」
「私、魔術処理だけ遠隔で参加できませんか」
「できないと思います」
「ですよね」
エマさんは言いながら、手袋を何度もつけ直していた。
少し離れたところにアデラインさんがいる。淡い灰色の髪を短く整え、訓練服の襟元まで乱れがない。彼女は誰かと話すでもなく、腕輪の状態を確認していた。
その横を、明るい茶髪の少女が通りかかる。
少し赤みのある髪を高い位置で結び、目元がはっきりしている。笑うと、周りの空気まで少し軽くなるような子だった。
「あ、ねえ。ソフィアちゃんだよね?」
いきなり名前を呼ばれて、私は少し驚いた。
「はい。ソフィア・アステールです」
「リーナ・ベルティエ。よろしくね。同じ4組だったし、さっき掲示で見た」
「よろしくお願いします、リーナさん」
「かたいー。まあいいや、最初だもんね」
リーナさんは笑った。
距離が近い。
でも、嫌な近さではない。
「ソフィアちゃん、昨日18位だったよね。すごいじゃん」
「ありがとうございます。ですが、まだ足りないところばかりです」
「そういうこと言えるのがすごいんだって。私だったら、18位だったら1週間くらい調子乗る」
「1週間で終わるのですか」
「たぶん2週間」
エマさんが横から小さく言う。
「素直でいいですね」
「でしょ。エマちゃんは50位だった子だよね。魔術すごいやつ」
「魔術だけです。身体は別売りです」
「別売りなんだ」
「まだ入荷してません」
リーナさんは声を出して笑った。
明るい。
少し軽い。
けれど、彼女がその場で軽く足を動かした瞬間、床を踏む音が違うことに気づいた。
重い。
体重ではない。
力の乗せ方が違う。
私がそれを見るより先に、アデラインさんがこちらへ視線を向けた。
「通路を塞いでいます」
短い声。
リーナさんがぱっと横へ避ける。
「あ、ごめん」
「謝る前に動いています。なら結構です」
「アデラインちゃん、朝からきっちりだね」
「その呼び方を許可した覚えはありません」
「じゃあ、アデラインさん」
「それで構いません」
リーナさんは、あまり気にしていない顔で笑った。
アデラインさんは不快そうに見えたが、強く追い払うわけではない。むしろ、リーナさんの靴紐が片方緩んでいるのを見て、目線だけで示した。
「結び直した方がいいです。踏み込みで緩みます」
「あ、ほんとだ。ありがと」
「別に」
その「別に」が、少し早かった。
エマさんが小声で言う。
「アデラインさん、分かりやすいですね」
「ええ」
「たぶん今の、親切ですよ」
「私もそう思いました」
「言ったら怒りそうですけど」
「言わないでおきます」
その時、訓練場の扉が開いた。
4組のざわめきが止まる。
中に、女性教師が立っていた。
背は高い。短い灰色の髪。白い教員服の袖を肘までまくり、腕には古い傷がいくつも残っている。
彼女が私たちを見た瞬間、空気が変わった。
「入室」
たった一言だった。
それだけで、50人が動いた。
⸻
訓練場は広かった。
4組50人だけで使うには、十分すぎるほどに。
床には衝撃を吸う術式が敷かれている。壁も天井も白く、ところどころに修復用の魔術線が走っていた。ここでは何度も転び、何度も打たれ、何度も壊れかけたのだと分かる。
教師は私たちの前に立った。
「ユリアナ・ヴァイスです。戦闘基礎を担当します」
声は低い。
怒鳴ってはいない。
けれど、背中に手を置かれるような圧があった。
「最初に言っておきます。ここでは、倒れ方の美しさは評価しません。丁寧に負ける生徒、綺麗に床へ転がる生徒、負けた理由を整った言葉で説明する生徒。そういうものは、外で褒めてもらいなさい」
私は、思わず背筋を正した。
「聖アステリアの戦闘授業で必要なのは、勝つために何を変えられるかです。勝てないなら、次に何を捨て、何を拾うか。倒されたなら、なぜ倒れたか。痛いなら、どこまでなら動けるか。泣きたいなら、泣きながらでも立てるか」
誰も声を出さなかった。
「今日の目的は勝つことではありません。まず、自分がどれだけ簡単に倒れるかを知りなさい」
簡単に倒れる。
その言葉が、胸に残る。
「2人1組。親しい相手とは組まない。安心できる相手と組むのは、授業ではなく休憩です」
エマさんが少しだけ私を見る。
私は小さく首を横に振った。
先生はすでに名簿を見ていた。
「リーナさん。ソフィアさんと組みなさい」
「はーい」
明るい返事。
リーナさんがこちらへ来る。
「よろしくね、ソフィアちゃん」
「よろしくお願いします」
「大丈夫。痛かったら言ってね」
その言葉は優しかった。
でも、構えた瞬間に分かった。
この子は強い。
明るさも、軽さも、そのまま戦闘へ持ち込んでくる。けれど、足は軽くない。床を踏んだ時、重心が沈む。肩の力は抜けている。腕を上げる動きに無駄がない。
私は手袋の内側で指を握った。
怖い。
少しだけ。
でも、引けない。
「まずは反応測定です。攻撃側は接触制圧まで。打撃は浅く。防御側は回避、受け、離脱。固有能力は使用禁止」
ユリアナ先生の声が響く。
「始め」
その瞬間、リーナさんが消えた。
消えたように見えた。
違う。動いたのだ。
でも、私の目はその動きに追いつかなかった。
肩に衝撃。
遅れて、身体が横へ飛ぶ。
「っ……!」
受け身。
そう思った時には、床が近かった。
背中が落ちる。
息が潰れた。
視界が白く跳ねる。
「止め」
ユリアナ先生の声が、遠く聞こえた。
私は天井を見ていた。
訓練場の白い天井。
その前に、さっきまでリーナさんが立っていたはずの空間。
「ソフィアさん。今、何が見えましたか」
先生が聞く。
私は息を吸おうとして、少し咳き込んだ。
「踏み込み、までは……」
「違います」
すぐに切られた。
「あなたは見えていません。見えた気がしただけです。認識した時には、もう肩を取られていました」
言い返せなかった。
その通りだった。
私はリーナさんの動きを見たのではない。肩に衝撃が来てから、踏み込まれたのだと分かっただけだ。
「立ちなさい」
「はい」
身体を起こす。
肩が痛い。
背中も痛い。
でも、立つ。
リーナさんが申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、速かった?」
「いえ。授業ですから」
「うん。でも痛かったら言ってね」
「はい」
痛い。
でも、言わない。
まだ立てる。
2回目。
今度は足を見るのをやめた。
肩を見る。
踏み込む前に、肩か腰が動くはずだ。
「始め」
リーナさんの肩が揺れた。
今度は、動いたのが分かった。
私は横へ避けようとした。
避けた、と思った。
でも、リーナさんは途中で角度を変えた。
速い。
腕が伸びる。
私は防ごうとした。手首で受ける。外へ流す。
けれど、受けた腕ごと押し込まれた。
力が違う。
肩から崩れる。
足を戻そうとした瞬間、膝の外側を軽く払われた。
強く蹴られたわけではない。
ただ、支えの位置を外された。
それだけで、私の身体は傾いた。
床が迫る。
今度は手をついた。
けれど、手をついた瞬間に腕が痺れ、重心が逃げた。
膝をつく。
そのまま、横へ倒れた。
「止め」
先生の声。
「ソフィアさん。見ようとしたのは良い。ですが、見てから動くには遅すぎる。あなたの身体は、あなたの判断に追いついていません」
「……はい」
「リーナさん。速度を2段落としなさい」
「え、でも」
「このままでは練習になりません。あなたの勝利確認だけで授業時間を使うつもりですか」
「はい、落とします」
リーナさんが少し肩をすくめた。
私は立ち上がった。
手のひらが赤い。
膝も熱い。
聖アステリアでは、私は1年18位だ。
でも、身体戦闘では下の方。
その言葉が、評価欄ではなく、痛みとして入ってくる。
3回目。
リーナさんは、本当に速度を落としていた。
だからこそ、余計に怖かった。
今度は見える。
見えるのに、止められるとは限らない。
リーナさんが踏み込む。
私は半歩下がった。
手を出す。距離を作る。腕を差し込ませない。
今度は肩を取られなかった。
でも、次の瞬間、リーナさんの手が私の手首の内側に滑り込んだ。
掬われる。
反射で引こうとした。
引いた先に、リーナさんの身体が入っていた。
近い。
息が触れるほどではない。
でも、間合いがもう私のものではない。
リーナさんの膝が、私の足の外側に触れた。
軽い。
ほんの少し。
それだけで、私の足は床を失った。
背中から落ちる。
「っ、ぁ……!」
息が潰れた。
すぐに起きなければ。
肩を起こそうとした瞬間、リーナさんが上から入ってきた。
速い。
重い。
右手首が床に押さえられる。
左腕は肘の上を取られ、胸の横で動かない。リーナさんの膝が私の太腿を押さえ、もう片方の脚が私の膝の外側を封じている。
仰向け。
床。
天井。
リーナさんの顔。
それらが、息苦しいほど近い順番で並んだ。
「……っ」
私は右腕を引いた。
抜けない。
手首が床に縫い止められているみたいだった。
左腕を動かそうとする。
肘の少し上を押さえられていて、力が逃げる。肩を捻って隙間を作ろうとしたが、リーナさんの体重がすぐに上から戻ってきた。
膝を立てる。
太腿を押さえられて、半分も上がらない。
足先で床を探る。
靴底が滑る。
腰を浮かせる。
背中がほんの少し床から離れた瞬間、リーナさんの膝が位置を変えた。太腿の付け根に重さが戻る。腰がまた床に落ちる。
「く、ぅ……っ」
息が漏れた。
嫌だった。
こんな声を、クラスの前で出したくなかった。
私は首を横に振り、乱れた髪を視界から払おうとした。けれど、手は使えない。髪は頬にかかったまま、呼吸のたびに揺れた。
さっきまで、私は立っていた。
先生に返事をして、リーナさんに礼をして、姿勢を保っていた。
今は違う。
床の上で、腕を抜こうとしている。
膝を動かしている。
腰を浮かせようとしている。
息を乱して、それでも少しも抜け出せない。
「ソフィアちゃん、力抜いた方がいいよ」
リーナさんの声は、まだ明るかった。
「抜け、ません……っ」
「だよね。抜いたら終わっちゃうもんね」
もう終わっている。
そう言われているみたいだった。
それでも、私は動いた。
右手首を内側へ捻る。
痛い。
抜けない。
左肩を上げようとする。
押し返される。
膝を外へ開こうとする。
リーナさんの脚が、その動きを簡単に潰す。
力の差が、いちいち分かる。
私が全身で動かそうとしているものを、リーナさんは位置を少し変えるだけで止めてしまう。
悔しい。
怖い。
恥ずかしい。
でも、それよりも、どうしようもなかった。
⸻
4組の生徒たちは、ソフィア・アステールという少女を、まだほとんど知らなかった。
ルミエールという地方の名門から来たこと。
礼法と判断力の評価が高いこと。
それくらいは、掲示や噂で知っている者もいた。
けれど、それ以上に分かりやすかったのは、彼女の立ち方だった。
ソフィアは、朝から姿勢を崩さなかった。
掲示塔の前でも、訓練棟へ向かう途中でも、教師に返事をする時でも、彼女の背筋は自然に伸びていた。訓練服に着替えても、手袋をはめる仕草まで丁寧だった。誰かの話を聞く時は目を逸らさず、言葉を返す時は強すぎず、弱すぎず、声の置き方を知っているように見えた。
お嬢様。
そう呼ぶのは簡単だった。
でも、ただ飾られているだけの令嬢ではない。
4組の多くは、そういうふうに彼女を見ていた。
その子が、今、床の上にいた。
背中を床につけられ、右手首を押さえられ、左腕を封じられ、脚までリーナの膝で止められている。
最初、何人かはすぐに終わると思った。
ソフィアは負けを認めるだろう。
無理な抵抗はせず、綺麗に降参するだろう。
そう思った。
けれど、違った。
ソフィアは抵抗した。
本気で。
右腕が動こうとする。けれど手首は床から離れない。
左肩が上がる。けれど肘の上を押さえられ、すぐに落ちる。
膝が持ち上がろうとする。けれどリーナの脚がそれを上から封じる。
腰が浮く。
一瞬だけ、背中と床の間に隙間ができる。
けれど、リーナが体重を乗せ直すと、その隙間は潰れた。
ソフィアの息が乱れる。
髪が頬にかかる。
訓練服の肩が少しずれ、手袋の指先が床を掻くように動く。
彼女は言葉を選ぶ余裕を失っていた。
礼をする余裕もない。
姿勢を整える余裕もない。
ただ必死に抜け出そうとしている。
抜け出そうとして、抜け出せない。
その様子は、綺麗な敗北ではなかった。
模範的な負け方でもなかった。
ソフィア・アステールは、無様に抗っていた。
腕を引き、肩を捻り、膝を動かし、腰を浮かせ、息を詰まらせ、それでもリーナの力に戻される。
何人かは、気まずそうに目を逸らした。
何人かは、じっと見ていた。
エマは、手袋を握ったまま小さく息を止めていた。
アデラインは、表情を変えずに見ていた。けれど、その目はソフィアの手首ではなく、彼女がまだ諦めていない足の動きを追っていた。
リーナは強い。
ソフィアは、今は弱い。
その事実は、誰の目にも明らかだった。
そして、それでもソフィアが抵抗をやめないことも、同じくらい明らかだった。
⸻
リーナは、自分の手の下でソフィアの腕が震えるのを感じていた。
細い。
けれど、ただ細いだけではない。
力が入っている。
逃げようとしている。
本気で。
さっきまで背筋を伸ばして、誰より綺麗に返事をしていた子が、今は床の上で息を乱している。肩を捻り、膝を動かし、腰を浮かせようとして、それでも少しも抜け出せない。
リーナの胸の奥が、変に跳ねた。
勝っている。
それは分かる。
でも、それだけではなかった。
自分が押さえている。
自分の力で、この子を動けなくしている。
さっきまで簡単に触れられなさそうだった子を、今は自分が床に留めている。
その事実が、少し怖いくらい気持ちよかった。
ソフィアの膝が、また動こうとした。
リーナは無意識に力を乗せる。
止まる。
その瞬間、ぞくりとした。
「……やば」
小さく漏れた声に、自分で驚いた。
何がやばいのか分からなかった。
ソフィアが弱いことではない。
自分が強いことでもない。
この子が必死に抵抗しているのに、自分の力だけで止められること。
それを、気持ちいいと思ってしまったこと。
リーナは少し慌てた。
指に力が入りすぎている。
緩めようとした。
けれど、完全には離せなかった。
離したら、ソフィアはまた立とうとする。
そう思った瞬間、ほんの少しだけ、まだ押さえていたいと思ってしまった。
「リーナさん」
ユリアナ先生の声が飛んだ。
鋭い。
リーナははっとする。
「はいっ」
「制圧は成立しています。そこから余計な力を重ねない。勝った後に雑になる生徒は、戦場で味方も壊します」
「はい、すみません!」
リーナは慌てて手を離した。
⸻
私はようやく身体を起こした。
呼吸が乱れている。
右手首が痛い。
肩も、背中も、太腿も熱い。
頬にかかった髪を、やっと手で払った。
「ご、ごめん。痛かった?」
リーナさんが覗き込んでくる。
さっきまでの軽さとは少し違う声だった。
「……痛かったです」
正直に言った。
リーナさんが目を丸くする。
「言うんだ」
「痛いものは、痛いです」
「そっか。うん、ごめん。でも……授業だから、止めない方がいいかなって」
「...痛かったですが。初めて何もできずに敗北する経験を得られました。ありがとうございます。」
私は立ち上がろうとした。
膝に力が入らない。
少しだけ、足が震えた。
それでも立つ。
立たないと、次が始まらない。
ユリアナ先生がこちらを見ていた。
「ソフィアさん」
「はい」
「今の制圧で、あなたができたことを言いなさい」
できたこと。
負けた理由ではなく。
私は息を整えた。
「2回目より、接近には反応できました。最初の崩しには耐えられませんでしたが、倒れる前に一度だけ体勢を戻そうとしました。制圧後は……抜けられませんでした」
「抜けられなかった理由は?」
「力が足りません。押さえられた後の動き方も知りませんでした。腕だけで逃げようとして、腰と脚を使えていません」
「その通りです」
ユリアナ先生は頷いた。
「あなたは弱い。少なくとも、この授業ではかなり下です。動きは遅い。力も足りない。崩された後の選択肢も少ない」
言葉が刺さる。
でも、目を逸らさなかった。
「はい」
「ですが、負けた後に自分を飾ろうとはしませんでした。そこは残しなさい。弱いなら弱いなりに、次の材料を拾うことです」
「はい」
「リーナさん」
「はい」
「あなたは力で勝てます。だからこそ、勝った後の手に気をつけなさい。制圧と破壊は違います」
「はい……」
「今のあなたは勝ちました。ですが、最後の数秒は余分です。相手を止める手と、自分の気持ちよさに流される手は別物です」
リーナさんの顔が一瞬で赤くなった。
「はい」
今の言葉は、私にも少し刺さった。
リーナさんの手が離れるのが遅れた理由。
それを、先生は見ていたのだ。
私は自分の手首を見た。
押さえられていた場所が赤い。
指の跡までは残っていない。けれど、熱がある。
じっと見ているうちに、その赤みが少しずつ薄れていくのが分かった。
早い。
戦闘で身体が熱くなっているからかもしれない。
でも、いつもより早い。
私は手袋の位置を直すふりをして、手首を隠した。
リーナさんがそれに気づいた。
「あれ、さっき結構赤くなってたよね?」
「治りが早いんです」
「へえ。いいなあ」
軽い声だった。
それ以上は聞かれなかった。
少しだけ、ほっとした。
けれど、別の視線を感じた。
アデラインさんだった。
彼女は少し離れたところで、こちらを見ていた。
顔は変わらない。
何も言わない。
ただ、私の手首を見て、それから私の目を見た。
その視線は冷たいというより、見逃さないという静けさを持っていた。
⸻
授業はそれで終わらなかった。
むしろ、そこからが始まりだった。
受け身。
間合い。
拘束からの脱出。
崩された後の立て直し。
私は何度も倒された。
腕を取られた後の動きを教わり、腰を逃がす練習をした。最初は何度やっても遅かった。頭では分かっている。けれど、身体が動く前に相手の力が来る。
エマさんは、転ぶたびに床へ謝っていた。
「今のは私が悪いです。床は悪くありません」
ユリアナ先生に、
「床へ謝る前に、足を出しなさい」
と言われていた。
リーナさんは何度も相手を倒していたが、そのたびに最後の手を少し早く離すようになった。私と目が合うと、少し気まずそうに笑った。
アデラインさんは、やはり上手かった。
身体能力そのものが飛び抜けて高いわけではない。
それでも、勝つ。
彼女は動く前に、短く呟くことがあった。
「3歩」
その直後、踏み込みが鋭くなる。
「右手のみ」
そう言った時は、左手を完全に使わず、相手の手首だけを正確に取った。
自分に条件を課している。
誓約。
それが固有能力に関わっているのだと、私はすぐに分かった。
けれど、分かったからといって真似できるものではなかった。
アデラインさんは、自分が何を捨てれば何を得られるのかを知っている。
その判断が速い。
怖いくらいに。
「アデラインさん」
ユリアナ先生が言う。
「条件を重くしすぎです」
「はい」
「勝てる相手に重い誓約を使う必要はありません。誓約は飾りではない」
「承知しました」
短いやりとり。
それだけで、上位10人の重さが見えた。
授業の終わり頃、ユリアナ先生は全員を集めた。
「最後です。今日最も失敗した動きを1つ再現しなさい」
ざわめきが起きる。
「成功した動きではありません。失敗です。自分がどこで崩れたのか、身体で覚えて帰りなさい」
私は、リーナさんに仰向けで押さえ込まれた時の形を思い出した。
嫌だった。
もう一度、あれを自分で作るのは。
右手首を取られた。
左腕を封じられた。
脚が動かなくなった。
腰を浮かせても戻された。
何もできなかった。
でも、逃げる方が嫌だった。
リーナさんに頼みもう一度押さえつけてもらった。
ユリアナ先生が歩いてくる。
「そこです」
先生の手が、私の肩に触れた。
「この角度で固定されたら、腕力で抜くのは無理です。あなたがやるべきだったのは、腕を引くことではなく、先に腰をずらすこと。肩だけで逃げようとしたから、全部止められました」
「はい」
「もう1度」
私は同じ姿勢から、腰をずらした。
遅い。
けれど、さっきよりは動けた。
「ましです。勝てませんが」
「はい」
「勝てないことに慣れないように」
その言葉が、一番刺さった。
勝てないことに慣れない。
私は顔を上げた。
「はい」
声が少し掠れていた。
でも、返事だけははっきり出した。
⸻
授業が終わると、訓練場の空気が一気に緩んだ。
座り込む生徒。
水を飲む生徒。
その場で反省を始める生徒。
笑っている子もいるが、朝より声が小さい。
1年4組、50人。
その全員が、何かしら自分の弱さを持ち帰る顔をしていた。
私は壁際に移動し、ゆっくり座った。
膝が痛い。
肩が重い。
手首の赤みはもうほとんど薄れている。けれど、押さえ込まれた感覚は消えなかった。
リーナさんの力。
床の硬さ。
抜けようとしても動かなかった腕。
膝を上げようとしても、少しも上がらなかった脚。
あの時の息苦しさ。
私は、自分の手を見た。
指先が少し震えている。
怖かったのだと思う。
痛いことよりも、どうしようもないことが怖かった。
頭では分かっていた。
身体戦闘は弱い。
測定でも言われた。
でも、今日初めて本当に分かった。
弱い、というのは評価欄の文字ではない。
床に倒されることだ。
手首を押さえられても抜けないことだ。
脚を動かそうとして、相手の膝1つで止められることだ。
声が乱れて、髪が崩れて、それでも何も変えられないことだ。
私は、頭で負けたのではない。
身体で負けた。
それが、こんなにも悔しい。
「ソフィアちゃん」
声をかけられて顔を上げると、リーナさんが水筒を持って立っていた。
「水、いる?」
「ありがとうございます」
受け取ると、リーナさんは少し落ち着かない顔をした。
「さっき、ほんとごめん。力、入れすぎた」
「大丈夫です。本当の争いで相手に情けをかけるものはいません。それはそうとしてちょっと痛かったですが」
「うん。あれは、反省してる」
リーナさんは自分の手を見た。
いつもの明るさが少し薄い。
「ソフィアちゃん、めちゃくちゃ抵抗するんだね」
「負けたくはありませんから」
「そっか」
リーナさんは、少しだけ笑った。
「なんか、綺麗に負けるタイプかと思ってた。違った」
「綺麗に負けても、勝ちにはなりません」
「うん。そうだよね」
リーナさんは、なぜか少し嬉しそうだった。
「次も組むことあったら、よろしくね」
「はい。次は、もう少し抵抗します」
「え、そこは勝つって言わないの?」
「今言うと、少し嘘になりますから」
「あは。正直」
リーナさんは笑った。
でもその目は、私の手首を一瞬だけ見ていた。
さっき押さえていた場所。
もう赤みはほとんどない。
リーナさんは何か言いたそうにしたが、結局言わなかった。
「じゃ、またね」
「はい」
彼女が去った後、私は水を飲んだ。
喉が乾いていた。
水が身体の奥へ落ちていく。
それでも、胸の重さは消えない。
「ソフィアさん」
今度は別の声だった。
アデラインさんが立っていた。
近くで見ると、彼女も少し汗をかいている。けれど、息は乱れていない。
「はい」
「弱いですね」
遠慮のない言葉だった。
でも、不思議と怒りは湧かなかった。
「はい。今は」
アデラインさんの眉が、少しだけ動く。
「今は、ですか」
「はい」
「……そうですか」
それだけ言って、アデラインさんは少し黙った。
そして、視線を私の膝へ落とす。
「立てますか」
「立てます」
私は立とうとした。
膝に力が入らず、少しだけふらつく。
アデラインさんが手を伸ばしかけて、途中で止めた。
私はそれに気づいた。
「ありがとうございます」
「まだ何もしていません」
「しようとしてくれました」
「違います。倒れられると通路の邪魔です」
「そうですか」
「そうです」
言い切る声が少しだけ早い。
私は少し笑いそうになった。
でも、笑ったら怒られそうなので堪えた。
アデラインさんは私の手首を見た。
「治りが早いのですね」
「体質です」
「体質で済むものは、聖アステリアではあまり多くありません」
低い声だった。
けれど、探るような嫌な響きではなかった。
ただ、見逃さないというだけ。
「詳細測定で分かると思います」
「でしょうね」
アデラインさんは、少しだけ視線を逸らした。
「痛むなら、医務室へ行ってください」
「心配してくださるのですか」
「違います。明日も授業があります。使い物にならない状態で来られると迷惑です」
「分かりました」
「本当に分かっていますか」
「はい。医務室へ行きます」
「ならいいです」
アデラインさんはそれだけ言って歩き出した。
数歩進んでから、立ち止まる。
「それと」
「はい」
「次にリーナさんと組むなら、最初に腕を守ろうとしない方がいいです。彼女は腕を取ってからが速いので」
私は目を瞬かせた。
「見ていたのですか」
「見えてしまっただけです」
「ありがとうございます」
「助言ではありません。感想です」
「では、感想をありがとうございます」
アデラインさんは少しだけ口を結んだ。
それから今度こそ歩いていった。
エマさんが、いつの間にか後ろにいた。
「アデラインさん、分かりやすいですね」
「そうでしょうか」
「え、今の見て分からないんですか。あれ、かなり優しいですよ」
「本人に言ったら怒りそうですね」
「絶対怒ります。だから今度、ソフィアさんが言ってください」
「なぜ私が」
「ソフィアさんなら、怒られてもなんか平気そうなので」
「平気ではありません」
そう返しながら、少しだけ笑った。
笑えるくらいには、息が戻っていた。
けれど、壁は消えない。
むしろ、はっきりした。
聖アステリアの戦闘授業。
そこでは、私の礼法も、言葉も、床に倒された瞬間に意味を失う。
私は弱い。
身体で争えば、押し負ける。
見えない速度がある。
抜け出せない力がある。
その事実が、身体のあちこちに残っていた。
私は手袋を外し、赤みの消えた手首を見る。
傷は戻る。
痣も、きっとすぐに消える。
でも、押さえ込まれた時の感覚は消えなかった。
これが、今の私の壁だ。
分かっただけでは、越えたことにはならない。
私はゆっくり息を吸った。
悔しい。
怖い。
それでも、見えてよかったと思った。
見えない壁には、ぶつかることしかできない。
見えた壁なら、登り方を探せる。
まずは、医務室へ行こう。
それから、明日も立つ。
綺麗に倒れるためではなく。
次は、もう少し長く立つために。