訓練場を出たあとも、手首の感触が残っていた。
傷はもう、ほとんど消えている。
赤くなっていた場所も、膝の擦れた熱も、背中に残っていた鈍さも、歩いているうちに少しずつ薄くなっていた。いつものことだ。私は治りが早い。昔からそうだったし、昨日の測定でも再生系だと言われた。
だから、医務室へ行く必要はない。
必要がない。
そのはずなのに、私は訓練棟を出てすぐ寮へ戻ることもできず、渡り廊下の途中で足を止めてしまった。
白い柱の影に、細い風が通る。
訓練服の袖を少しだけめくる。
手首には、もうほとんど跡がない。
リーナさんに押さえられた場所。
床に縫い止められたみたいに、少しも動かなかった場所。
私はそこを指でなぞった。
痛みはない。
けれど、覚えている。
あの時の床の硬さ。
上からかかる重さ。
腰を浮かせても戻されたこと。
膝を動かそうとして、少しも上がらなかったこと。
腕も、脚も、私のものなのに。
私の身体なのに。
言うことを聞かなかった。
「……嫌だった」
口に出してから、私は少しだけ目を伏せた。
誰に向けた言葉でもない。
けれど、言ってしまったら、胸の奥に残っていたものが少し形を持った。
嫌だった。
痛かったからではない。
クラスの前で倒されたからでもない。
リーナさんを責めたいわけでもない。
ただ、あんなふうに動けなくなる自分を、私は知らなかった。
私は、もっとできると思っていた。
もっと、何か。
少なくとも、腕を抜くくらいは。
膝を立てるくらいは。
体を捻って、少しでも形を変えるくらいは。
できると思っていた。
でも、できなかった。
何も。
ほとんど何も。
「ソフィアさん」
声がして、私は手首から指を離した。
エマさんが、少し離れたところに立っていた。訓練服のまま、髪が少し乱れている。彼女もかなり転んでいたはずなのに、いつも通り軽い顔をしようとして、うまくいっていない。
「ここにいたんですね。寮に戻ったのかと思いました」
「戻るつもりだったのですが、少し……風に当たっていました」
「その言い方、だいぶ綺麗ですね」
「そうですか」
「はい。今のソフィアさん、たぶん“風に当たっていた”って顔じゃないです」
私は返事に詰まった。
エマさんは隣まで来ると、柱にもたれた。いつもなら何か冗談を足すところなのに、今は少しだけ間を置いた。
「身体、大丈夫ですか」
「はい。もうほとんど」
「ですよね。さっきも赤み、引くの早かったですし」
そこでエマさんは、少し声を落とした。
「じゃあ、残ってるのは、そっちじゃない方ですね」
そっちじゃない方。
その言い方がエマさんらしくて、少しだけ笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
「……はい」
「私、見てました。リーナさんに押さえられてたところ」
「そう、ですよね」
「見ない方がよかったですか」
「いえ。授業ですから」
「それも、綺麗な答えですね」
エマさんの声は軽くなかった。
責めているのではなく、そっと触れるみたいな言い方だった。
私は手首を袖で隠した。
「見られたくなかったかもしれません」
言ってから、自分で少し驚いた。
思ったより、素直な言葉だった。
エマさんも少し目を丸くした。
でも、すぐに頷いた。
「うん。たぶん、そうだと思いました」
「……あんなふうに、なると思っていませんでした」
言葉が、少しずつ出てくる。
整えきれないまま。
「押さえられて、腕が動かなくて。脚も、腰も、全部分かっていたのに。ここを動かせばいいって、途中で思ったのに、全然……」
喉が詰まった。
私は息を吸った。
「全然、動かなかった」
悔しい。
言葉にしようとした瞬間、胸が熱くなった。
目の奥が、きゅっと痛む。
私は瞬きをした。
けれど、間に合わなかった。
涙が1つ、落ちた。
頬を伝うより先に、訓練服の膝に小さく染みる。
私はその染みを見て、少し遅れて気づいた。
泣いている。
泣くつもりなんてなかった。
声を上げるほどではない。息が乱れるほどでもない。ただ、目から勝手に落ちてきただけだった。
「……すみません」
反射で謝っていた。
エマさんが少し慌てる。
「いや、謝るところじゃないです。むしろ、こっちがどうしたらいいか分かってないだけで」
「泣くほどのことでは、ないんです」
「それ、ソフィアさんが決めることじゃないと思います」
「私のことなのに?」
「はい。涙って、本人の許可取らないで出る時ありますし」
エマさんはそう言ってから、少し困ったように笑った。
「私も今日、転びすぎてちょっと泣きそうでした。主に床との関係が悪くて」
「それは……」
「笑っていいですよ」
「今は、少し難しいです」
「ですよね。失敗しました」
そのやりとりで、少しだけ息が抜けた。
でも、涙は止まらなかった。
ぽろ、ともう1つ落ちる。
私は手の甲で拭こうとして、途中でやめた。拭いたら、余計に泣いていることを認めるみたいな気がした。
もう認めているのに。
「悔しい」
小さく言った。
敬語にする余裕がなかった。
「本当に、悔しい」
エマさんは何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
それがありがたかった。
「私、もっとできると思ってた。いえ、違います。できると思っていたというより……あそこまで何もできないと思っていませんでした」
「うん」
「動けなかった。抜けられなかった。リーナさんは、悪くありません。授業です。分かっています。でも……嫌だった」
「うん」
「床の上で、手も足も動かなくて。声も変になって。髪も崩れて。あんなふうに負けたくなかった」
言い終わったあと、私は唇を噛んだ。
恥ずかしかった。
みっともないことを言っている気がした。
けれど、言わないと、もっと胸の奥で固まってしまいそうだった。
「ソフィアさん」
別の声がした。
柔らかくて、少しだけ急いだ声。
振り向くと、シャルロッテ様が渡り廊下の入口に立っていた。
訓練服ではない。おそらく別の講義の後なのだろう。けれど、いつもの整った表情に、少しだけ心配が混ざっている。
「シャルロッテ様」
私は慌てて涙を拭こうとした。
今度は間に合わなかった。
シャルロッテ様は、それを見た。
見て、少しだけ足を止めた。
けれど、騒がなかった。
駆け寄って大丈夫かと何度も聞くこともしなかった。
ゆっくり近づいて、私たちの前で立ち止まる。
「お邪魔でしたか」
その聞き方が優しかった。
私は首を横に振った。
「いいえ。……見苦しいところを」
「見苦しくはありません」
すぐに返ってきた。
強い声ではない。
でも、迷いのない声だった。
シャルロッテ様は私の顔を見たまま、少しだけ息を吸う。
「痛みますか」
「もう、痛くはありません」
「では、痛くないところが残っているのですね」
私は、少しだけ笑いそうになった。
エマさんと似たことを言う。
けれど、響きが違う。
エマさんは横に座ってくれる言い方。
シャルロッテ様は、正面からそっと見つける言い方だった。
「はい」
私は頷いた。
「そちらの方が、嫌です」
シャルロッテ様は、何も否定しなかった。
私の隣に立つと、同じように柱の影へ目を向けた。
「4組の戦闘授業が厳しかったと聞きました」
「誰からですか」
「廊下で、何人かが話していました。ユリアナ先生は初回から容赦がない、と」
「その通りでした」
エマさんが小さく手を上げる。
「私も容赦なく床に運ばれました」
「エマさんも、お怪我は?」
「自尊心以外は無事です」
「それは、治りにくいですね」
「王女殿下、たまにさらっと刺しますね」
「あ……すみません」
「いえ、今のは好きです」
エマさんが少し笑った。
シャルロッテ様も、ほんの少しだけ表情を緩める。
その空気に救われた。
重すぎない。
でも、なかったことにもされない。
私は涙を指で拭った。
それでも、目の奥はまだ熱い。
「シャルロッテ様」
「はい」
「私、身体で負けました」
言った瞬間、また胸が痛んだ。
「頭では、分かっていたんです。身体強化も、近接戦闘も、得意ではないと。測定でも出ましたし、自分でも分かっていました。ですが……分かっていませんでした」
「何を、ですか」
「動けないことが、あんなに悔しいことだと」
風が通った。
訓練服の袖が小さく揺れる。
「腕も、脚も、私のものなのに。動かしたいのに、全然言うことを聞かなくて。押さえられて、見られて、声も乱れて……」
言葉が途中で止まる。
また涙が落ちた。
今度は拭かなかった。
「悔しい。……すごく」
敬語が抜けた。
でも、直せなかった。
直したくもなかった。
エマさんは、少しだけ息を止めていた。
シャルロッテ様も、黙っていた。
その沈黙の中で、2人が何かを思ったことが分かった。
同情ではない。
慰めでもない。
もっと、言いにくいもの。
エマさんは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
エマは、自分で自分を叱った。
今、そういうことを思う場面じゃない。
そう分かっているのに、思ってしまった。
綺麗だ、と。
ソフィアさんは泣き崩れているわけではない。大声を出すわけでもない。背筋を完全には失わず、言葉を選ぼうとして、でも悔しさがこぼれている。
その涙は、誰かに見せるためのものではなかった。
勝手に落ちてしまった悔しさだった。
だから、目を逸らしにくかった。
シャルロッテ様も、同じように私を見ていた。
王宮で見てきた涙とは違う。
助けを求めるための涙でも、相手を動かすための涙でもない。
ただ、負けたことが悔しくて、誇りが傷ついて、それでも前を向く場所を探している涙。
場違いだと分かっていても、彼女は思ってしまった。
綺麗だと。
泣いているからではない。
傷ついても、みっともなさを隠しきれなくても、それでも自分の言葉で悔しいと言おうとする姿が、どうしようもなく目を引いた。
「ソフィアさん」
シャルロッテ様が、静かに呼んだ。
「悔しいままでいいと思います」
私は彼女を見る。
「今それを、なかったことにしない方がいいと思います。痛みが消えたから、もう平気ですと言ってしまったら、きっと同じところでまた傷つきます」
「……はい」
「でも、今日の悔しさで立てなくなる必要もありません」
その声は優しかった。
でも、甘くはなかった。
「ソフィアさんは、今日負けました。それは消えません。けれど、今日で終わりではありません」
私は涙を拭った。
今度は、ちゃんと拭えた。
「終わりにしたくありません」
小さく言う。
エマさんが、少しだけ明るい声に戻した。
「じゃあ、対策会議ですね」
「対策会議、ですか」
「はい。議題は、ソフィアさんが次に床と仲良くなりすぎない方法です」
「その言い方だと、私が床と親しくなりたがっているように聞こえます」
「違いました?」
「違います」
「よかったです。床側の片思いでした」
思わず、少し笑ってしまった。
涙が残ったまま笑ったから、声が少し変になった。
エマさんはそれを見て、安心したように肩を落とす。
「まず、腕を抜こうとしすぎたんですよね」
エマさんが言う。
「ユリアナ先生にも言われました。先に腰をずらすべきだと」
「腰ですか。私、魔術式ならずらせるんですけど、身体はどうも」
「エマさんも一緒に練習しますか」
「え」
エマさんの顔が固まる。
「今の流れ、私も巻き込まれるんですか」
「一緒にやりましょう」
「その言い方、断りにくいです」
「断っても構いません」
「それはそれで罪悪感が出る言い方です」
シャルロッテ様が、小さく笑った。
「私も参加してよろしいですか」
「シャルロッテ様も?」
「はい。私も身体強化は得意ではありませんし、床に遠慮している場合ではないようですから」
「王女殿下まで床側に……」
エマさんが遠い目をした。
「では、3人で基礎練習ですね」
シャルロッテ様が言う。
「最初から勝とうとするのではなく、まずは崩された後にどう動くか。ソフィアさんが今日、一番嫌だったところから」
一番嫌だったところ。
仰向けに押さえられた時。
腕が抜けなかった時。
膝が動かなかった時。
思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
でも、私は頷いた。
「はい。そこからやります」
声はまだ少し震えていた。
けれど、先ほどよりは落ち着いていた。
「次は、同じ形では崩れません」
言い切ってから、少しだけ迷う。
「……いえ。崩れるかもしれません。でも、同じままでは終わりません」
その方が、本当だった。
シャルロッテ様が頷く。
「その方が、ソフィアさんらしいです」
「そうでしょうか」
「はい。綺麗に強がるより、ずっと」
私は少しだけ目を伏せた。
また泣きそうになった。
でも今度は、涙は落ちなかった。
エマさんが、わざとらしく手を叩く。
「では、明日の放課後ですね。私は参加しますけど、床と友好条約を結ぶところからでお願いします」
「条約ではなく、練習です」
「厳しい」
「エマさんが逃げようとするので」
「ばれてる」
シャルロッテ様が笑う。
私も、少し笑った。
胸の奥の悔しさは消えていない。
手首の傷は消えた。
膝の熱も、背中の痛みも、もうほとんどない。
けれど、リーナさんに押さえ込まれた感触は残っている。
あの時、自分の身体が動かなかったことも。
クラスの前で、上品さも何もなく、必死に抵抗して、それでも抜けられなかったことも。
全部、残っている。
でも、今日はそれでいいと思った。
消えないものがあるなら、持っていけばいい。
悔しいままでいい。
その悔しさが、明日の私を少しだけ動かすなら。
私は袖口を整えた。
涙で少し濡れた頬を、もう一度拭う。
そして、エマさんとシャルロッテ様の方を見た。
「明日、お願いします」
2人が、それぞれ違う顔で頷いた。
エマさんは少し困ったように。
シャルロッテ様は、柔らかく。
私はまだ、強くない。
でも、1人で壁の前に立っているわけではない。
そう思えたことが、今は少しだけ、嬉しかった。