聖アステリア女学院の契約令嬢   作:Zuzuiikb

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第6話 悔しいままでいい

 

 訓練場を出たあとも、手首の感触が残っていた。

 

 傷はもう、ほとんど消えている。

 

 赤くなっていた場所も、膝の擦れた熱も、背中に残っていた鈍さも、歩いているうちに少しずつ薄くなっていた。いつものことだ。私は治りが早い。昔からそうだったし、昨日の測定でも再生系だと言われた。

 

 だから、医務室へ行く必要はない。

 

 必要がない。

 

 そのはずなのに、私は訓練棟を出てすぐ寮へ戻ることもできず、渡り廊下の途中で足を止めてしまった。

 

 白い柱の影に、細い風が通る。

 

 訓練服の袖を少しだけめくる。

 

 手首には、もうほとんど跡がない。

 

 リーナさんに押さえられた場所。

 

 床に縫い止められたみたいに、少しも動かなかった場所。

 

 私はそこを指でなぞった。

 

 痛みはない。

 

 けれど、覚えている。

 

 あの時の床の硬さ。

 

 上からかかる重さ。

 

 腰を浮かせても戻されたこと。

 

 膝を動かそうとして、少しも上がらなかったこと。

 

 腕も、脚も、私のものなのに。

 

 私の身体なのに。

 

 言うことを聞かなかった。

 

「……嫌だった」

 

 口に出してから、私は少しだけ目を伏せた。

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 けれど、言ってしまったら、胸の奥に残っていたものが少し形を持った。

 

 嫌だった。

 

 痛かったからではない。

 

 クラスの前で倒されたからでもない。

 

 リーナさんを責めたいわけでもない。

 

 ただ、あんなふうに動けなくなる自分を、私は知らなかった。

 

 私は、もっとできると思っていた。

 

 もっと、何か。

 

 少なくとも、腕を抜くくらいは。

 

 膝を立てるくらいは。

 

 体を捻って、少しでも形を変えるくらいは。

 

 できると思っていた。

 

 でも、できなかった。

 

 何も。

 

 ほとんど何も。

 

「ソフィアさん」

 

 声がして、私は手首から指を離した。

 

 エマさんが、少し離れたところに立っていた。訓練服のまま、髪が少し乱れている。彼女もかなり転んでいたはずなのに、いつも通り軽い顔をしようとして、うまくいっていない。

 

「ここにいたんですね。寮に戻ったのかと思いました」

 

「戻るつもりだったのですが、少し……風に当たっていました」

 

「その言い方、だいぶ綺麗ですね」

 

「そうですか」

 

「はい。今のソフィアさん、たぶん“風に当たっていた”って顔じゃないです」

 

 私は返事に詰まった。

 

 エマさんは隣まで来ると、柱にもたれた。いつもなら何か冗談を足すところなのに、今は少しだけ間を置いた。

 

「身体、大丈夫ですか」

 

「はい。もうほとんど」

 

「ですよね。さっきも赤み、引くの早かったですし」

 

 そこでエマさんは、少し声を落とした。

 

「じゃあ、残ってるのは、そっちじゃない方ですね」

 

 そっちじゃない方。

 

 その言い方がエマさんらしくて、少しだけ笑いそうになった。

 

 でも、笑えなかった。

 

「……はい」

 

「私、見てました。リーナさんに押さえられてたところ」

 

「そう、ですよね」

 

「見ない方がよかったですか」

 

「いえ。授業ですから」

 

「それも、綺麗な答えですね」

 

 エマさんの声は軽くなかった。

 

 責めているのではなく、そっと触れるみたいな言い方だった。

 

 私は手首を袖で隠した。

 

「見られたくなかったかもしれません」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 

 思ったより、素直な言葉だった。

 

 エマさんも少し目を丸くした。

 

 でも、すぐに頷いた。

 

「うん。たぶん、そうだと思いました」

 

「……あんなふうに、なると思っていませんでした」

 

 言葉が、少しずつ出てくる。

 

 整えきれないまま。

 

「押さえられて、腕が動かなくて。脚も、腰も、全部分かっていたのに。ここを動かせばいいって、途中で思ったのに、全然……」

 

 喉が詰まった。

 

 私は息を吸った。

 

「全然、動かなかった」

 

 悔しい。

 

 言葉にしようとした瞬間、胸が熱くなった。

 

 目の奥が、きゅっと痛む。

 

 私は瞬きをした。

 

 けれど、間に合わなかった。

 

 涙が1つ、落ちた。

 

 頬を伝うより先に、訓練服の膝に小さく染みる。

 

 私はその染みを見て、少し遅れて気づいた。

 

 泣いている。

 

 泣くつもりなんてなかった。

 

 声を上げるほどではない。息が乱れるほどでもない。ただ、目から勝手に落ちてきただけだった。

 

「……すみません」

 

 反射で謝っていた。

 

 エマさんが少し慌てる。

 

「いや、謝るところじゃないです。むしろ、こっちがどうしたらいいか分かってないだけで」

 

「泣くほどのことでは、ないんです」

 

「それ、ソフィアさんが決めることじゃないと思います」

 

「私のことなのに?」

 

「はい。涙って、本人の許可取らないで出る時ありますし」

 

 エマさんはそう言ってから、少し困ったように笑った。

 

「私も今日、転びすぎてちょっと泣きそうでした。主に床との関係が悪くて」

 

「それは……」

 

「笑っていいですよ」

 

「今は、少し難しいです」

 

「ですよね。失敗しました」

 

 そのやりとりで、少しだけ息が抜けた。

 

 でも、涙は止まらなかった。

 

 ぽろ、ともう1つ落ちる。

 

 私は手の甲で拭こうとして、途中でやめた。拭いたら、余計に泣いていることを認めるみたいな気がした。

 

 もう認めているのに。

 

「悔しい」

 

 小さく言った。

 

 敬語にする余裕がなかった。

 

「本当に、悔しい」

 

 エマさんは何も言わなかった。

 

 ただ、隣にいた。

 

 それがありがたかった。

 

「私、もっとできると思ってた。いえ、違います。できると思っていたというより……あそこまで何もできないと思っていませんでした」

 

「うん」

 

「動けなかった。抜けられなかった。リーナさんは、悪くありません。授業です。分かっています。でも……嫌だった」

 

「うん」

 

「床の上で、手も足も動かなくて。声も変になって。髪も崩れて。あんなふうに負けたくなかった」

 

 言い終わったあと、私は唇を噛んだ。

 

 恥ずかしかった。

 

 みっともないことを言っている気がした。

 

 けれど、言わないと、もっと胸の奥で固まってしまいそうだった。

 

「ソフィアさん」

 

 別の声がした。

 

 柔らかくて、少しだけ急いだ声。

 

 振り向くと、シャルロッテ様が渡り廊下の入口に立っていた。

 

 訓練服ではない。おそらく別の講義の後なのだろう。けれど、いつもの整った表情に、少しだけ心配が混ざっている。

 

「シャルロッテ様」

 

 私は慌てて涙を拭こうとした。

 

 今度は間に合わなかった。

 

 シャルロッテ様は、それを見た。

 

 見て、少しだけ足を止めた。

 

 けれど、騒がなかった。

 

 駆け寄って大丈夫かと何度も聞くこともしなかった。

 

 ゆっくり近づいて、私たちの前で立ち止まる。

 

「お邪魔でしたか」

 

 その聞き方が優しかった。

 

 私は首を横に振った。

 

「いいえ。……見苦しいところを」

 

「見苦しくはありません」

 

 すぐに返ってきた。

 

 強い声ではない。

 

 でも、迷いのない声だった。

 

 シャルロッテ様は私の顔を見たまま、少しだけ息を吸う。

 

「痛みますか」

 

「もう、痛くはありません」

 

「では、痛くないところが残っているのですね」

 

 私は、少しだけ笑いそうになった。

 

 エマさんと似たことを言う。

 

 けれど、響きが違う。

 

 エマさんは横に座ってくれる言い方。

 

 シャルロッテ様は、正面からそっと見つける言い方だった。

 

「はい」

 

 私は頷いた。

 

「そちらの方が、嫌です」

 

 シャルロッテ様は、何も否定しなかった。

 

 私の隣に立つと、同じように柱の影へ目を向けた。

 

「4組の戦闘授業が厳しかったと聞きました」

 

「誰からですか」

 

「廊下で、何人かが話していました。ユリアナ先生は初回から容赦がない、と」

 

「その通りでした」

 

 エマさんが小さく手を上げる。

 

「私も容赦なく床に運ばれました」

 

「エマさんも、お怪我は?」

 

「自尊心以外は無事です」

 

「それは、治りにくいですね」

 

「王女殿下、たまにさらっと刺しますね」

 

「あ……すみません」

 

「いえ、今のは好きです」

 

 エマさんが少し笑った。

 

 シャルロッテ様も、ほんの少しだけ表情を緩める。

 

 その空気に救われた。

 

 重すぎない。

 

 でも、なかったことにもされない。

 

 私は涙を指で拭った。

 

 それでも、目の奥はまだ熱い。

 

「シャルロッテ様」

 

「はい」

 

「私、身体で負けました」

 

 言った瞬間、また胸が痛んだ。

 

「頭では、分かっていたんです。身体強化も、近接戦闘も、得意ではないと。測定でも出ましたし、自分でも分かっていました。ですが……分かっていませんでした」

 

「何を、ですか」

 

「動けないことが、あんなに悔しいことだと」

 

 風が通った。

 

 訓練服の袖が小さく揺れる。

 

「腕も、脚も、私のものなのに。動かしたいのに、全然言うことを聞かなくて。押さえられて、見られて、声も乱れて……」

 

 言葉が途中で止まる。

 

 また涙が落ちた。

 

 今度は拭かなかった。

 

「悔しい。……すごく」

 

 敬語が抜けた。

 

 でも、直せなかった。

 

 直したくもなかった。

 

 エマさんは、少しだけ息を止めていた。

 

 シャルロッテ様も、黙っていた。

 

 その沈黙の中で、2人が何かを思ったことが分かった。

 

 同情ではない。

 

 慰めでもない。

 

 もっと、言いにくいもの。

 

 エマさんは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。

 

 エマは、自分で自分を叱った。

 

 今、そういうことを思う場面じゃない。

 

 そう分かっているのに、思ってしまった。

 

 綺麗だ、と。

 

 ソフィアさんは泣き崩れているわけではない。大声を出すわけでもない。背筋を完全には失わず、言葉を選ぼうとして、でも悔しさがこぼれている。

 

 その涙は、誰かに見せるためのものではなかった。

 

 勝手に落ちてしまった悔しさだった。

 

 だから、目を逸らしにくかった。

 

 シャルロッテ様も、同じように私を見ていた。

 

 王宮で見てきた涙とは違う。

 

 助けを求めるための涙でも、相手を動かすための涙でもない。

 

 ただ、負けたことが悔しくて、誇りが傷ついて、それでも前を向く場所を探している涙。

 

 場違いだと分かっていても、彼女は思ってしまった。

 

 綺麗だと。

 

 泣いているからではない。

 

 傷ついても、みっともなさを隠しきれなくても、それでも自分の言葉で悔しいと言おうとする姿が、どうしようもなく目を引いた。

 

「ソフィアさん」

 

 シャルロッテ様が、静かに呼んだ。

 

「悔しいままでいいと思います」

 

 私は彼女を見る。

 

「今それを、なかったことにしない方がいいと思います。痛みが消えたから、もう平気ですと言ってしまったら、きっと同じところでまた傷つきます」

 

「……はい」

 

「でも、今日の悔しさで立てなくなる必要もありません」

 

 その声は優しかった。

 

 でも、甘くはなかった。

 

「ソフィアさんは、今日負けました。それは消えません。けれど、今日で終わりではありません」

 

 私は涙を拭った。

 

 今度は、ちゃんと拭えた。

 

「終わりにしたくありません」

 

 小さく言う。

 

 エマさんが、少しだけ明るい声に戻した。

 

「じゃあ、対策会議ですね」

 

「対策会議、ですか」

 

「はい。議題は、ソフィアさんが次に床と仲良くなりすぎない方法です」

 

「その言い方だと、私が床と親しくなりたがっているように聞こえます」

 

「違いました?」

 

「違います」

 

「よかったです。床側の片思いでした」

 

 思わず、少し笑ってしまった。

 

 涙が残ったまま笑ったから、声が少し変になった。

 

 エマさんはそれを見て、安心したように肩を落とす。

 

「まず、腕を抜こうとしすぎたんですよね」

 

 エマさんが言う。

 

「ユリアナ先生にも言われました。先に腰をずらすべきだと」

 

「腰ですか。私、魔術式ならずらせるんですけど、身体はどうも」

 

「エマさんも一緒に練習しますか」

 

「え」

 

 エマさんの顔が固まる。

 

「今の流れ、私も巻き込まれるんですか」

 

「一緒にやりましょう」

 

「その言い方、断りにくいです」

 

「断っても構いません」

 

「それはそれで罪悪感が出る言い方です」

 

 シャルロッテ様が、小さく笑った。

 

「私も参加してよろしいですか」

 

「シャルロッテ様も?」

 

「はい。私も身体強化は得意ではありませんし、床に遠慮している場合ではないようですから」

 

「王女殿下まで床側に……」

 

 エマさんが遠い目をした。

 

「では、3人で基礎練習ですね」

 

 シャルロッテ様が言う。

 

「最初から勝とうとするのではなく、まずは崩された後にどう動くか。ソフィアさんが今日、一番嫌だったところから」

 

 一番嫌だったところ。

 

 仰向けに押さえられた時。

 

 腕が抜けなかった時。

 

 膝が動かなかった時。

 

 思い出すだけで、胸の奥がざわつく。

 

 でも、私は頷いた。

 

「はい。そこからやります」

 

 声はまだ少し震えていた。

 

 けれど、先ほどよりは落ち着いていた。

 

「次は、同じ形では崩れません」

 

 言い切ってから、少しだけ迷う。

 

「……いえ。崩れるかもしれません。でも、同じままでは終わりません」

 

 その方が、本当だった。

 

 シャルロッテ様が頷く。

 

「その方が、ソフィアさんらしいです」

 

「そうでしょうか」

 

「はい。綺麗に強がるより、ずっと」

 

 私は少しだけ目を伏せた。

 

 また泣きそうになった。

 

 でも今度は、涙は落ちなかった。

 

 エマさんが、わざとらしく手を叩く。

 

「では、明日の放課後ですね。私は参加しますけど、床と友好条約を結ぶところからでお願いします」

 

「条約ではなく、練習です」

 

「厳しい」

 

「エマさんが逃げようとするので」

 

「ばれてる」

 

 シャルロッテ様が笑う。

 

 私も、少し笑った。

 

 胸の奥の悔しさは消えていない。

 

 手首の傷は消えた。

 

 膝の熱も、背中の痛みも、もうほとんどない。

 

 けれど、リーナさんに押さえ込まれた感触は残っている。

 

 あの時、自分の身体が動かなかったことも。

 

 クラスの前で、上品さも何もなく、必死に抵抗して、それでも抜けられなかったことも。

 

 全部、残っている。

 

 でも、今日はそれでいいと思った。

 

 消えないものがあるなら、持っていけばいい。

 

 悔しいままでいい。

 

 その悔しさが、明日の私を少しだけ動かすなら。

 

 私は袖口を整えた。

 

 涙で少し濡れた頬を、もう一度拭う。

 

 そして、エマさんとシャルロッテ様の方を見た。

 

「明日、お願いします」

 

 2人が、それぞれ違う顔で頷いた。

 

 エマさんは少し困ったように。

 

 シャルロッテ様は、柔らかく。

 

 私はまだ、強くない。

 

 でも、1人で壁の前に立っているわけではない。

 

 そう思えたことが、今は少しだけ、嬉しかった。

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