聖アステリア女学院の契約令嬢   作:Zuzuiikb

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第7話 最初の相談

 

 

 翌朝、私は少しだけ早く目を覚ました。

 

 窓の外はまだ白い。聖アステリアの朝は、ルミエールよりも少し冷たい。山の上にあるせいか、空気が澄みすぎていて、寝起きの胸の中まで冷やされるような気がする。

 

 体は、もう痛くなかった。

 

 手首にも、膝にも、背中にも、昨日の痕は残っていない。鏡の前で袖を上げても、肌は何事もなかったように戻っている。再生系。珍しいが、今のところ補助扱い。そう言われた能力は、今日も私の傷だけを綺麗に消していた。

 

 でも、床の硬さは覚えている。

 

 あの時、腰が上がらなかったことも。

 

 膝が押し戻されたことも。

 

 リーナさんの手の重さも。

 

 私は手首を見つめたまま、少しだけ息を吐いた。

 

 悔しさは、昨日ほど熱くない。

 

 けれど、消えてはいない。

 

 だから、それでいい。

 

「次は、同じままでは終わりません」

 

 小さく言ってから、私は袖を下ろした。

 

 独り言にしては少し強かった。

 

 でも、誰も聞いていないのだから構わない。

 

 髪を整え、制服に着替え、鞄を持つ。今日は午前に契約基礎の一般講義、午後に魔術制御の演習。クラス単位ではなく、成績帯と選択講義で分かれる日だ。

 

 部屋を出る前に、もう一度だけ鏡を見る。

 

 昨日泣いた目は、もう赤くない。

 

 なら、大丈夫。

 

 泣いたことまで、なかったことにはしない。

 

 でも、泣いた顔を引きずって歩くつもりもなかった。

 

 私は扉を開けた。

 

――

 

 一般講義棟の前で、エマさんはすでに待っていた。

 

 ただし、待っていたというより、壁にもたれて半分眠っているように見えた。

 

「おはようございます、エマさん」

 

「おはようございます。朝から契約基礎って、なかなか強いですよね」

 

「強い、ですか」

 

「はい。朝食の後に契約違反とか保証責任とか聞くと、消化に悪そうじゃないですか」

 

「聞く前から負けないでください」

 

「昨日、床に負けたばかりなので、今日は法律に負ける予定です」

 

「予定を立てないでください」

 

 エマさんは小さく笑った。

 

 それから、私の顔をちらりと見る。

 

「昨日より、顔が戻ってますね」

 

「顔、ですか」

 

「あ、顔立ちの話じゃなくて。なんかこう、ちゃんと自分で立ってる感じの方です」

 

「それなら、少しは戻ったと思います」

 

「よかったです」

 

 エマさんは軽く言った。

 

 でも、その声は本当に安心しているように聞こえた。

 

 私が礼を言おうとした時、向こうの道からシャルロッテ様が歩いてきた。

 

 今日も姿勢が綺麗だ。けれど昨日、私の前で笑ってくれた時と同じ柔らかさもある。王女として遠い人なのに、こちらを見つけると、少しだけ歩く速度が上がった。

 

「おはようございます、ソフィアさん、エマさん」

 

「おはようございます、シャルロッテ様」

 

「おはようございます。王女殿下、朝から契約基礎です。逃げませんか」

 

「逃げ先で契約書を書かされるかもしれませんよ」

 

「うわ、怖い。授業より怖いです」

 

 エマさんが本気で嫌そうな顔をする。

 

 シャルロッテ様は小さく笑った。

 

「昨日の練習の約束、覚えていますか」

 

「覚えています」

 

「私は覚えてますけど、身体が忘れたがっています」

 

「エマさん」

 

「はい。やります。言うだけ言いました」

 

 そのやりとりが自然で、私は少しだけ肩の力が抜けた。

 

 昨日の悔しさはある。

 

 でも、それだけではない。

 

 昨日、2人が隣にいてくれたことも、ちゃんと残っている。

 

 私たちは3人で講義棟へ向かった。

 

――

 

 契約基礎の講義室は、昨日の実戦基礎術式の教室よりも広かった。

 

 一般講義だから、クラスは混ざっている。4組の生徒もいれば、2組の生徒もいる。前方には、見覚えのある上位層の生徒が何人か座っていた。後方では、まだ眠そうな生徒が筆記具を弄っている。

 

 私はエマさんと並んで座った。シャルロッテ様は少し前の席に案内されかけたが、本人がこちらへ戻ってきた。

 

「よろしいのですか」

 

「はい。席は指定ではありませんでしたから」

 

「王女殿下が後ろ寄りにいると、前の方がそわそわしてますよ」

 

 エマさんが小声で言う。

 

 たしかに、前の席の何人かがこちらを気にしていた。

 

 シャルロッテ様は困ったように笑う。

 

「では、今日だけ少しそわそわしていただきましょう」

 

「王女殿下、意外と強い」

 

「席を選んだだけです」

 

「そういうところです」

 

 エマさんがそう言うと、シャルロッテ様は少し首を傾げた。

 

 本人は分かっていないらしい。

 

 講義開始の鐘が鳴った。

 

 壇上に立ったのは、細身の男性教師だった。灰色の髪を後ろで束ね、片眼鏡をかけている。表情は穏やかだが、机に置いた書類の量がすでに穏やかではなかった。

 

「契約基礎を担当する、ラウル・ベルナールです。初回なので、まず安心してください。今日は誰にも契約書へ署名させません」

 

 講義室に小さな笑いが起きた。

 

 先生は表情を変えずに続ける。

 

「笑えた人は幸いです。笑えなかった人は、すでに何かを書かされた経験があるのでしょう。聖アステリアでは珍しくありません」

 

 笑いが少しだけ引いた。

 

「契約は便利です。信用を形にできる。約束を資産にできる。能力、労働、成果、土地、家名、将来性。あらゆるものを評価し、担保にし、移転できる」

 

 記録壁に、契約の分類が浮かぶ。

 

 売買契約。

 

 保証契約。

 

 奉仕契約。

 

 研究成果権。

 

 決闘賠償。

 

 学園貨貸借。

 

 身分拘束を伴う特別契約。

 

 最後の文字で、講義室の空気が少しだけ重くなった。

 

「そして便利なものは、たいてい人を傷つけることもできます。契約評価局が存在するのは、契約を自由にするためではありません。契約の自由という言葉で、何でも通す者を止めるためです」

 

 先生はそこで、一枚の書類を掲げた。

 

「では、最初の例題です。ある生徒が、家の保証契約を担保に学園貨を借り入れた。本人は未成年。保証人は家長。契約には、一定条件で本人の奉仕義務へ切り替わる条項がある。さて、この契約の危険な点はどこでしょう」

 

 講義室が、静かに動き出す。

 

 全員が記録板へ目を落とした。

 

「発言は自由です。間違えても構いません。間違えた答えの方が、契約では役に立つこともあります」

 

 前方の生徒が手を上げた。

 

「本人同意の範囲です。家長が保証していても、本人の奉仕義務へ切り替わるなら、本人の明確な承諾が必要です」

 

「良い答えです。ですが、この例題では本人も署名しています」

 

 別の生徒。

 

「切り替え条件が曖昧な場合ですか。一定条件、という書き方だと、どこで発動するか評価者次第になります」

 

「その通り。曖昧な条件は、強い側の味方になりやすい」

 

 エマさんが、小声で呟いた。

 

「うわ、嫌な書類」

 

「見ただけで分かるのですか」

 

「何となくですけど。式で言うと、後から変形できる余白が多い感じです」

 

「契約書も術式みたいに見るんですね」

 

「見たくないですけど、見えます」

 

 シャルロッテ様が少しだけ身を乗り出した。

 

 先生の話を聞いている顔が、いつもより静かに鋭い。

 

 次にシャルロッテ様が手を上げた。

 

 先生が頷く。

 

「シャルロッテさん」

 

「本人が署名していても、その時点で十分な説明を受けていたかが問題になると思います。特に、家長の保証から本人の奉仕義務へ切り替わる部分は、本人にとって不利益が大きい。契約評価局が説明記録を確認すべきです」

 

「王女らしい答えですね」

 

「王宮では、説明したことになっている書類をよく見ましたので」

 

 声は柔らかい。

 

 けれど、内容は少し苦い。

 

 先生は片眼鏡の奥で目を細めた。

 

「経験に基づく答えは強い。ですが、経験だけに頼ると自分が見た形の悪意しか見えなくなる。覚えておきなさい」

 

「はい」

 

 シャルロッテ様は静かに座った。

 

 私は記録板を見つめた。

 

 保証契約。

 

 奉仕義務。

 

 切り替え条件。

 

 昨日までなら、遠い制度の話に聞こえたかもしれない。

 

 でも、今は違った。

 

 ノエルさんのことを思い出す。

 

 契約評価局の前で、書類を抱えていた少女。

 

 不安そうな指。

 

 折れた紙の端。

 

 あれも、こういうものの近くにあったのだろうか。

 

 先生は講義の最後に言った。

 

「契約を怖がりすぎる必要はありません。怖がらずに使う必要があります。ただし、読めない契約には署名しないこと。読めたつもりの契約ほど、もう一度読むこと。そして、自分より弱い相手に契約を差し出す時は、自分の手が綺麗だと思わないこと」

 

 最後の言葉で、講義室はしばらく静かになった。

 

 鐘が鳴る。

 

 講義が終わると、生徒たちはそれぞれ席を立ち始めた。

 

「……朝から消化に悪いって言いましたけど」

 

 エマさんが鞄を持ちながら言った。

 

「思ったより、ちゃんと悪かったです」

 

「でも、必要な講義でした」

 

「それはそうなんですけどね。必要なものって、だいたい胃に重いんですよ」

 

 私が少し笑いかけた時だった。

 

 講義室の入口で、こちらを見ている生徒がいた。

 

 ノエルさんだった。

 

 1年4組。

 

 昨日のクラス発表で名前を見た子。

 

 契約評価局の前で、一度助けた子。

 

 彼女は私たちと目が合うと、すぐに視線を落とした。何かを言いたいのに、言っていいのか迷っている顔だった。

 

 私はエマさんとシャルロッテ様を見る。

 

 2人も気づいていた。

 

「ノエルさん」

 

 私が声をかけると、ノエルさんはびくっと肩を揺らした。

 

「は、はい」

 

「何かありましたか」

 

「あの……少しだけ、お話を聞いていただけませんか」

 

 彼女の手には、書類袋があった。

 

 厚みはそれほどない。

 

 けれど、彼女はそれを両手で抱えていた。落としたら、何か大切なものまで一緒に割れてしまうと思っているような持ち方だった。

 

 エマさんが小さく息を吐く。

 

「契約基礎の後に契約相談。学園、流れが上手すぎませんか」

 

「エマさん」

 

「ごめんなさい。茶化すところじゃなかったです」

 

 ノエルさんは少しだけ笑った。

 

 その笑いは弱かったけれど、完全に怯えているわけではなかった。

 

 シャルロッテ様が静かに言う。

 

「ここでは人が多いですね。場所を移しましょう」

 

――

 

 講義棟の中庭は、昼前の光で明るかった。

 

 噴水の近くには何人かの生徒がいるが、距離を取れば話は聞こえない。シャルロッテ様は人目を避けすぎず、それでいて声が届きにくい場所を選んだ。

 

 そこが少し、彼女らしかった。

 

 完全に隠れると、かえって怪しまれる。

 

 でも、晒しものにはしない。

 

 そういう距離。

 

 ノエルさんはベンチに座っても、書類袋を膝の上から離さなかった。

 

「この前は、本当にありがとうございました」

 

「それは以前も聞きました」

 

 エマさんが軽く言う。

 

「なので、今日は本題で大丈夫です。たぶん、ソフィアさんもその顔です」

 

「どんな顔ですか」

 

「話を聞く気しかない顔です」

 

 私は少し困った。

 

「そんなに分かりやすいでしょうか」

 

「分かりやすいです」

 

 エマさんとシャルロッテ様が、ほぼ同時に言った。

 

 少しだけ、場の空気が柔らかくなった。

 

 ノエルさんは書類袋を開けた。

 

「昨日、契約評価局で確認を受けました。処分ではありませんでした。ただ、家の保証契約について、追加確認が必要だと言われて……」

 

 彼女は書類を1枚出す。

 

「私の家、小さな商会を持っているんです。大きくはありません。地方で、薬草や布を扱っていて。去年、父が取引に失敗して、学園貨に換えるための外貨保証を組んだんです」

 

 ノエルさんの声は、途中で少し小さくなった。

 

「それ自体は、よくあることだと聞きました。聖アステリアに来るには、お金も必要ですし、最初の資産が少ない家は、将来の成果を担保にすることもあるって」

 

 シャルロッテ様が頷く。

 

「珍しい話ではありません。ですが、危険がないわけではありません」

 

「はい。それで……切り替え条項があると言われました」

 

 エマさんの目が細くなる。

 

「奉仕義務への?」

 

 ノエルさんが頷いた。

 

「でも、私はちゃんと説明を受けた記憶がなくて。父も、そこまで重いものではないと思っていたみたいで。契約評価局の方は、すぐにどうこうなるわけではないと言っていました。でも、条件の一部が……曖昧だって」

 

 書類が私たちの前に置かれる。

 

 私は文章を追った。

 

 正直、すべては分からない。

 

 法律用語と契約用語が多い。家名、保証人、評価対象、成果換算、遅延時の調整、代替履行。

 

 その中に、講義で聞いたばかりの言葉があった。

 

 一定条件。

 

 本人の奉仕義務。

 

 学園内評価に基づく切替。

 

 私は唇を結んだ。

 

「エマさん、読めますか」

 

「専門ではないですけど、変な形は分かります」

 

 エマさんは書類を受け取ると、目の動きが変わった。

 

 普段の軽さが消える。

 

「これ、数字そのものより、参照してる別紙が嫌ですね。ここ、成果換算表に飛ばしてます。でもその成果換算表が、契約時のものじゃなくて、契約評価局の年度更新表に連動してる」

 

「つまり?」

 

 私が聞くと、エマさんは少し顔をしかめた。

 

「たぶん、契約した時と今で、条件の重さが変わる可能性があります。術式で言うと、固定したつもりの値が、外部参照で勝手に変わる感じです」

 

「勝手に、ですか」

 

「合法かどうかは分かりません。でも、嫌です。私なら署名したくないです」

 

 ノエルさんの顔が少し青くなる。

 

 シャルロッテ様がすぐに言った。

 

「まだ決めつけなくて大丈夫です。まず確認するべき点が増えた、というだけです」

 

 その声で、ノエルさんが少し息を吸えたのが分かった。

 

 シャルロッテ様は書類を丁寧に見た。

 

「契約評価局は、追加確認と言ったのですね」

 

「はい」

 

「相手方の商会名はここにあります。保証契約を組んだ仲介者は……」

 

 シャルロッテ様の指が、書類の端で止まった。

 

 ほんの一瞬だけ、表情が変わる。

 

 けれど、すぐに戻った。

 

「この名前に、覚えがありますか」

 

「父は、信頼できる方だと言っていました。聖アステリアの卒業生の紹介だと」

 

「なるほど」

 

 シャルロッテ様は柔らかく微笑んだ。

 

 けれど、私はその笑みを知っている。

 

 昨日、廊下で王女の声を出した時とは違う。

 

 でも、同じ場所に繋がっている顔だった。

 

 優しいだけではない顔。

 

「どうしますか」

 

 私は尋ねた。

 

 シャルロッテ様は、少しだけ考えた。

 

「まず、ノエルさんが今すぐ何かに署名する必要があるかを確認します。次に、契約時の成果換算表を取り寄せます。現行表との差異を見て、条件が実質的に変わっていないかを確認しましょう」

 

「取り寄せられるのですか」

 

「本人の契約に関わる資料ですから、申請権はあります。ただ、1人で行くより、確認者をつけた方がいいですね」

 

 エマさんが手を上げる。

 

「確認者って、私たちですか」

 

「エマさんは、外部参照の部分を見られます。私は申請の形を整えられます。ソフィアさんは……」

 

 シャルロッテ様が私を見る。

 

「ノエルさんが、ここへ来られた理由です」

 

 私は少しだけ言葉を失った。

 

 ノエルさんも、顔を上げる。

 

「私……」

 

 彼女は書類を握りしめた。

 

「昨日、ソフィアさんが声をかけてくださったから。怖かったですけど、声をかけてもいいのかなって思えたんです。大派閥に頼ったら、たぶん助かるかもしれません。でも、その後が怖くて」

 

 大派閥。

 

 赤、白、金、黒。

 

 大きな色が、頭をよぎる。

 

「私たちで、必ず解決できるとは言えません」

 

 私は言った。

 

 ここで簡単に大丈夫とは言えなかった。

 

「契約のことも、私はまだ学び始めたばかりです。ですが、話を聞くことはできます。できることを探すことも」

 

 ノエルさんの目が少し揺れる。

 

「それで、十分です。今は……誰に聞けばいいのかも、分からなかったので」

 

 エマさんが書類を持ち上げた。

 

「じゃあ、まずはこれを写していいですか。原本はノエルさんが持ってた方がいいと思います」

 

「はい」

 

「あと、私が読んで変だと思うところは、専門家から見たら普通かもしれません。なので、エマが何か言ったから絶望、みたいなのはやめましょう」

 

「分かりました」

 

「いい返事です。私も自分の発言で人の人生を揺らすのは荷が重いので」

 

 エマさんらしい言い方だった。

 

 でも、手はもう動いている。写しの術式を組み、文字列を記録板へ移していく。魔術処理の時と同じだ。軽口を言いながら、やることは速い。

 

 シャルロッテ様はノエルさんに、いくつか短く質問した。

 

 父親の名。

 

 商会の場所。

 

 契約時期。

 

 仲介者と会った場所。

 

 説明を受けた時に、誰が同席していたか。

 

 問い方は穏やかだった。けれど、順番に無駄がない。

 

 ノエルさんが詰まると、すぐに待つ。

 

 急かさない。

 

 でも、曖昧なところはそのままにしない。

 

 私はその横で、ノエルさんの表情を見ていた。

 

 どこで声が小さくなるか。

 

 どこで怖がるか。

 

 どこで父親を庇おうとするか。

 

 契約書の細かいことは、私はまだ読めない。

 

 でも、人が傷つく場所なら、少しは見える。

 

「ノエルさん」

 

「はい」

 

「お父様を責めたいわけではないのですね」

 

 ノエルさんは、はっとした顔をした。

 

 それから、ゆっくり頷く。

 

「はい。父は、私を聖アステリアへ行かせたかっただけなんです。無理をしたんだと思います。だから、私がこんなことを相談したら、父が悪いみたいになってしまうのが……怖くて」

 

「では、その点も大事にしましょう」

 

 私が言うと、ノエルさんの目に少しだけ涙が浮かんだ。

 

「はい」

 

 シャルロッテ様が静かに私を見た。

 

 その目に、少しだけ何かが灯った。

 

 私が何か特別なことをしたわけではない。

 

 ただ、聞いただけだ。

 

 それでも、ノエルさんの肩が少し下りた。

 

 シャルロッテ様はその様子を見て、柔らかく言った。

 

「お父様を責めるためではなく、ノエルさんが不用意に縛られないために動きましょう。両方を守る方法があるか、探します」

 

 ノエルさんは、今度こそ少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます」

 

――

 

 相談が終わった頃には、昼休みが近づいていた。

 

 ノエルさんは原本を持って、もう一度契約評価局へ行くことになった。もちろん、今日すぐではない。必要な申請書と確認事項を整えてからだ。

 

 エマさんは記録板を見ながら、うんざりした顔をしている。

 

「これ、思ったより面倒です」

 

「やめますか」

 

「やめませんけど、面倒なものは面倒です」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言われると逃げにくくなるんですよね。ソフィアさん、そういうところありますよ」

 

「そういうところ?」

 

「まっすぐ頼むところです。断ると自分が悪者みたいになる」

 

「そんなつもりはありません」

 

「知ってます。だから困るんです」

 

 エマさんは記録板を鞄にしまった。

 

 シャルロッテ様は、噴水の水面を見ていた。

 

 しばらく黙っていたが、やがて口を開く。

 

「私たち、また個人で動いていますね」

 

「また、ですか」

 

「はい。昨日も、今日も」

 

 その言い方には、責める響きはなかった。

 

 ただ、何かを考えている声だった。

 

「誰かの相談を聞くことは、悪いことではありません。けれど、聞いた以上、少し責任が生まれます。私たちが友人として動いているだけなら、守れる範囲が曖昧になる」

 

 エマさんが嫌そうな顔をする。

 

「その言い方、何か始まりそうで怖いです」

 

「まだ始めません」

 

「まだ?」

 

「はい。まだ」

 

 シャルロッテ様は、少しだけ笑った。

 

 けれど、その笑みの奥には、昨日までよりはっきりした意思があった。

 

「でも、いつか形が必要になるかもしれません。誰かの相談を受けるなら、その人に“誰が責任を持つのか”を示せる形が」

 

「派閥、ですか」

 

 私は自然に言っていた。

 

 シャルロッテ様はすぐには答えなかった。

 

 エマさんが小さく息を吸う。

 

「うわ、本当に始まりそう」

 

「エマさんは嫌ですか」

 

「嫌というか、政治っぽいものは胃に悪いです」

 

「では、胃薬も必要ですね」

 

「王女殿下、冗談が静かに怖いです」

 

 シャルロッテ様は口元を押さえた。

 

 私は、2人のやりとりを聞きながら考えていた。

 

 派閥。

 

 赤、白、金、黒。

 

 大きな色が学園の中にある。

 

 そのどれにも頼れない子がいる。

 

 頼りたくない子がいる。

 

 頼れば助かるかもしれないけれど、別のものを差し出すことになる子がいる。

 

 なら。

 

 私たちにできることは、何だろう。

 

「シャルロッテ様」

 

「はい」

 

「もし、いつか形にするなら」

 

 私は少しだけ言葉を選んだ。

 

「それは、シャルロッテ様が作りたいから作るものにしてください。王女だから必要だとか、周りに求められたからではなく」

 

 シャルロッテ様の目が、わずかに揺れた。

 

 私は続ける。

 

「その時は、私も手伝います」

 

 エマさんがこちらを見る。

 

「ソフィアさん、今かなり自然に巻き込まれましたね」

 

「エマさんも、たぶん一緒です」

 

「ですよね。知ってました」

 

 シャルロッテ様は、しばらく何も言わなかった。

 

 噴水の水音だけが聞こえる。

 

 やがて、彼女は静かに頷いた。

 

「はい。もし作るなら、私が作りたいから作ります。誰かに使われるためではなく、私が選んだ人たちと、私が責任を持つ場所として」

 

 その声は柔らかかった。

 

 でも、王女の声でもあった。

 

 昨日のように誰かを下がらせるためではない。

 

 自分の足で立つための声。

 

「その時は、お願いします。ソフィアさん、エマさん」

 

「はい」

 

「はいはい。もう半分くらい逃げられない感じですね」

 

「半分で済んでいますか」

 

「……済んでないかもしれません」

 

 エマさんは諦めたように空を見た。

 

 私は少し笑った。

 

 まだ、何も始まってはいない。

 

 名前もない。

 

 色もない。

 

 ただ、ノエルさんの書類が1つあって、エマさんの写しが1つあって、シャルロッテ様の中に何かが生まれ始めている。

 

 それだけだった。

 

 けれど、聖アステリアの広い中庭で、私は初めて思った。

 

 私たちは、ただ偶然隣にいるだけではなくなるのかもしれない。

 

 誰かが相談に来られる場所。

 

 誰かが大きな色に飲まれる前に、少しだけ立ち止まれる場所。

 

 そんなものを、作れるのかもしれない。

 

 まだ遠い。

 

 まだ小さい。

 

 でも、確かに芽はあった。

 

 青い色になる前の、名前のない芽が。

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