ディストピア・フォークロア 作:森出Rela
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺腑を焼くような荒い呼吸のたびに、鉄錆に似た生々しい血の匂いがツンと鼻をつく。
右手の五指は、すでに感覚を失いかけていた。握りしめているのは、宝剣でも名刀でもない。どこにでもある、戦場の手垢と血脂に塗れて錆びついた、一本の泥臭い刀だ。
すでに視力を失い、分厚い血に塗れて完全に閉じた右目。その奥に燻る激痛を意識の彼方へねじ伏せながら、男は残された左目だけで、淡々と目の前の絶望を睨み据えていた。
ざあざあと、世界を白く塗りつぶすような激しい雨の音が耳を打つ。
視線をわずかにずらせば、泥濘の中で泥をすすりながら、なおも牙を剥いて戦い続ける仲間の咆哮が聞こえる。
ならば──ここで、俺が倒れるわけにはいかない。
もともと、何も持たない自分だった。親も、家も、名さえも、本当はなかった。
そんな空っぽの自分に、命を懸けて並び立つ理由をくれた者がいる。せめて、この身に余る恩情だけは、命を賭してでも返さなければならない。
黒、赤、青、黄、緑。
視界を埋め尽くすのは、おぞましい五色の巨躯。
完全に囲まれていた。退路などどこにもない。だが、今更そんなことを気にする必要はどこにもなかった。もとより、質でも量でも、こちらが圧倒的に劣っていることなど百も承知だ。
そんな絶望的な戦況の中で、なおもこちらが勝っている点があるとすれば──根拠などどこにもない無謀な自信と、決して尽きることのない泥泥の根性、それだけだった。
「人々を脅かし、貪り喰らうお前たちを……俺たちが、ここで絶対に成敗する」
かすれた声で紡いだ決意の言葉を、五色の闇が嘲笑う。
「弱者と強者の線引きも知らねぇガキが……よくもまぁ、ここまで這いつくばってやったもんだ」
ああ、だが、不思議と恐怖はなかった。
俺は恐らく、この極限の瞬間のためだけに生まれてきたのかもしれない。そう確信できるほどに、胸の奥の鼓動は五月蝿いほど激しく鳴り響き、冷え切った身体とは裏腹に、気持ちはどこまでも高く昂っていた。
「いざ──参る……っ!」
地を蹴り、刃を振るった瞬間。
激しかった鼓動は唐突に鳴り止み、ただ、世界には冷たい雨の音だけが虚しく響き続けていた。
昔話。
その多くは、何百年、何千年の時を超えて現代へと語り継がれてきた。しかし、今の世を生きる人々にとって、それらはすべて子供を寝かしつけるための嘘っぱちなのだと認知されている。
まぁ、それも実際、仕方のないことなのかもしれない。
常識的な現代科学では説明のつかないような、摩訶不思議なモノが多すぎるのだ。人を喰らう鬼の存在であったり、人間の言葉を解してお喋りをする都合の良い動物であったり。
誰もが幼少期に一度は触れたであろう、お馴染みのお話の例を挙げるならば……
不老不死の呪いとも言える秘薬を地上に置き去り、月へと帰っていった麗しのお姫様。
大人になることを拒み、終わりなきネバーランドで残酷なまでに無邪気に遊ぶ少年。
凍えるような悲惨な現実から逃避するように、小さなマッチの火を灯し続けて息絶えた少女。
生きるために魔女を騙し、狭い竈の中に突き落として焼き殺した二人の子供。
嘘をつくたびに醜く鼻が伸びる、魂を吹き込まれた不気味な木人形。
欲深い人間の浅ましさを嘲笑い、正直者にだけ都合よく微笑む湖の女神様。
これでもまだ、世界に転がる物語の、ほんの一部を紹介したに過ぎない。
ひとつの地域、ひとつの国だけではないのだ。東洋、西洋、あらゆる地域、あらゆる時代から、数え切れないほどの物語がこの地上に集まってきた。その数は、歴史に名を残した英雄たちの『英雄譚』と比敵するくらい膨大にあるだろう。いや、昔話の一部は、歴史の闇に葬られた凄惨な英雄譚そのものであると言っても差し支えないはずだ。
さぁ、そんな昔話であるが。
誰もが知るハッピーエンド、あるいは教訓めいたバッドエンド。その結末の多くは、美化された絵本の裏側で、意外にも凄惨で悪い方向に傾くものが多かった。
果たして、その残酷な結末を、当事者である彼ら自身は許容できているのだろうか。
美しく、あるいは都合よく改ざんされた物語の果てで、彼らは何を思うのか。
それは──語り部の人間ではなく、当事者である彼らだけが知ることである。
そしてこれは、それをただ眺めるためだけの物語だ。
「皆のもの!! 出陣の時じゃあ!!!!」
地響きのような、悍ましいまでの咆哮。
味方の士気を極限まで引き上げるための、世界のすべてを塗りつぶすような怒号。その大声は空気を震わせ、地面を伝い、深く暗い底に沈んでいた俺の元へと響いてきた。
「……暗い。それに、酷く臭うな」
重い瞼を押し上げるが、右目の視界は漆黒に染まったままだ。身体が鉛のように重く、思うように動かない。今がいつなのか、あの戦いからどのくらい先の未来なのかは知る由もないが、この満足に動かない鈍った体調では、再び戦場に赴いたところで満足に戦うことは難しそうだ。
「……剣は、もう駄目だな。これじゃあ、何も斬れない」
腰の鞘から引き抜いた刀は、かつての切れ味を完全に失い、ボロボロに赤錆びていた。
「服も……これでは、着ているだけで精神が擦り減りそうだ」
身に纏った陣羽織は、すっかり色褪せ、ボロ布のように綻んでいる。
……ふと、胸元にある重みに気づき、薄汚い男は震える手で汚れた巾着袋を開いた。
中を覗き込むが、かつて旅立ちの日に手渡されたあの品は影も形もない。ただ、灰色に変色した塵の山だけが、虚しく底に溜まっているだけだった。
「……くそ。団子が腐れて……いや、それどころじゃないな。もう、原型すら残っていない」
絶望が、じわじわと胸を締め付ける。
……常に共に在り、背中を預け合ってきたあの三人の気配が、どこを探しても見当たらないのだ。かつてこの手で結んだはずの、強固な絆の気触れすら感じられない。
ここには、俺しかいない。ただ一人の人間しか、残されていないのだ。
「あと一息じゃあ!! 押し切れぇぇ!!!」
先ほどから、鼓膜を震わせる怒号が鳴り止まない。
声の主を探そうと、痛む身体を鼓舞して辺りを見渡すが……視界の届く範囲に、そのような武者の姿は見当たらなかった。
その代わり、と言ってはなんだが、これまで生きてきた中で見たこともないような、異形極まる現代の建造物が視界に飛び込んできた。
空を突き刺すように高くそびえ立つ、ガラスと鉄で出来た巨大な塔。地を這い、不気味に光る二つの目を持った、鉄の獣たちの群れ。
「……なんだ、これは。面妖な……だが、妖とはまた違うな。獣の類でもないのか」
男は泥の匂いと腐臭、そして嗅ぎ慣れない油の臭いが混ざり合う暗がりから、這い出した。
そこは、夜の帳が下りた街の、薄暗い路地裏だった。
目の前を、見たこともない鉄の塊が、アスファルトを削るような爆音を立てて走り去っていく。見上げれば、夜空の星々を遮るように光り輝く、異様な巨塔の群れ。
未知の恐怖と困惑に包まれる中、何よりも彼の目を釘付けにしたのは、路地裏のコンクリート壁に貼られた、一枚の鮮やかなポスターであった。そこには、周辺の地図と共に、何やら文字と絵が記されている。
ポスターの中心に描かれていたのは、大きな桃の意匠を背負った、丸々と肥って丸みを帯びた可愛らしい男児の絵だった。その左右には、おぞましいほどに緊張感のない、デフォルメされた犬、猿、キジが並び、全員がこれ以上ないほどの笑顔で間抜けたポーズを決めている。
そこには、見覚えのある、だが致命的に歪められた文字で、こう書かれていた──『桃太郎』、と。
「……はは、なんだこれは」
右目の視界はない。右手の刀は錆びている。
共に血の雨を潜り抜け、互いの誇りをかけて戦い抜いた、あの苛烈で気高き三人の面影すら、その絵の中には微塵も存在していなかった。
「随分とまぁ……平和な世の中になったものだな……」
誰もいない路地裏に、乾いた、自嘲気味な笑いが漏れる。
だが、そんな平和な世の光景を見せつけられてなお、胸の奥の激しい鼓動は、まだ止まってくれない。戦いを求める本能が、肉体を突き動かそうとしている。
どうやらここは、自分が知る凄惨な地獄よりも、遥かに狂った未来のようだった。
──昔話。その多くは語り継がれてきたものの、嘘っぱちなのだと認知されている。
否。人間の都合によって、嘘っぱちに『されてしまった』のだ。
ならば、真実の地獄を生き抜いた彼らは、この歪んだ世界でどう振る舞うのか。
これは──それを、ただ眺めるだけの物語である。
「これは、まずい。……非常にまずい、ぞ……っ!」
防衛省の地下深く、冷たい電子音だけが響く作戦本部の大型モニター。
そこから映し出されるとある地域のリアルタイム映像を、液晶の光に照らされながら、国の重鎮たちは声を失い、ただ食い入るように見つめていた。老人の顔には、おびただしい量の冷や汗が伝っている。
画面の向こう側。夜霧が立ち込める山道から這い出てきたのは、異様な衣服を纏った一団だった。
彼らは一様に、青々とした瑞々しい竹槍をその手に握りしめている。
近代兵器に比べれば、あまりにも原始的で、あまりにもお粗末な突撃兵。本来であれば、そんな剥き出しの木切れで傷を負うような防衛部隊は、現代のこちらには一人として存在しないはずだった。
対峙する自衛隊員たちは、最先端の科学の結晶である、あらゆる銃弾や爆発の衝撃にすら耐えうる最高性能の装甲装備を身に付けているのだから。
だというのに──画面の中で起きているこの惨劇は、一体なんだというのだ。
「がはっ……!? あ、ありえ……っ」
銃撃の雨を物ともせず、ただ淡々と突き出された竹槍。それは、最新の防弾繊維も、硬化チタンのプレートも存在しないかのように、それが当然の物理法則だとでも言いたげな滑らかさで、隊員たちの強固な肉体を容易く貫通していく。
銃弾を弾くはずの防具が、まるで濡れた紙切れのように無残に裂け、鮮血が夜の地面を赤く染めていく。
おかしい。明らかに異常だ。世界の方程式が根底から狂っている。
現代の兵器が、科学が、戦術が──たった一本の、どこにでもある竹の棒の前に、文字通り赤子のように蹂躙されていく。
モニターを見つめる重鎮たちの絶望を余所に、画面の向こうの竹槍兵たちは、ただ感情の消えた瞳で、さらなる獲物を求めて冷酷に進軍を続けていた。
その口は小さく動く。
「我らが姫。麗しの姫に捧ぐ」
しかし、誰もそれに気づくことはなかった。