赤ん坊の泣き声が聞こえる。
目を開こうとするが上手くいかず、何なら体も動かしにくい。
手足を動かしても空振りばかりで、唯一分かったことと言えば柔らかいベッドか何かで寝かされているということくらいだ。
そこで、ふと気づいた。
赤ん坊の泣き声が自分の口から出ているのだ。
不自由な体の感覚に加えて自分の口から出る泣き声。
得られた情報から答えを導くのは難しい事じゃなかった。
僕は赤ん坊になっている。
思考が回り出し周囲を気にする余裕が出てきたことで、更に気づいたことがあった。
赤ん坊の声が二重に聞こえるのだ。
泣き声の方向に辛うじて開いた目を向けると、予想通りの相手と目が合った。
濃紺に紫が少々混じった髪が頭部を彩り、翡翠をそのまま嵌め込んだような瞳がキラキラと輝いてこちらを見つめている。
赤らんだほっぺはふっくらとしていて身体は質のいいベビー服に包まれていた。きっと僕も似たようなものを着せてもらっているのだろう。
紛れもない赤ん坊。それも将来見目麗しく育つのが確定していると思えるほど可愛らしい目鼻立ちだ。
この状況について考えられる可能性はいくつかあるが、直感的に一つの答えをそれと確信した。
どうやら、僕は転生したらしい。
それも今世は双子として生を受けたようだ。
◇◇
スマホから発される規則正しい電子音に支配された部屋で目を覚ます。
「んぐっ。……ぐぅ〜っ!」
自分の部屋であるのをいいことに少々人に聞かせられない声で伸びをしてしまった。まあこのくらいはご愛嬌だろう。
目を向けることもなくスマホをスワイプしてアラームを止め、習慣となって久しい身支度に向けて立ち上がる。
カーテンを開け布団を畳み顔を洗って歯を磨く。
その間タブレットから流れ続けているヤチヨの配信をつけることはもはや習慣ですらない。生きるということに紐付けられた行為だ。
推しの澄んだ声に耳を傾けながらカレンダーを確認する。今日は木曜日、学校もバイトある。つまりいつも通りの平日だ。
しかし明後日からは三連休が始まる。そうすれば多少は余裕が生まれるというものだ。
ほんのり気分が良くなる現金な自分に呆れつつ、身だしなみを確認し前髪を少しだけ調整する。
うわ、また隈が濃くなってる。化粧で隠し切れるか、これ?
そんな調子で四苦八苦しながらも身支度を終えた。
よしっ、今日も完璧。少なくとも人からはそう見えるはずだ。
金銭的な問題で冷房をつけられない私にとって、誇張でも何でもなく生命線の扇風機のスイッチを切り玄関に向かう。……おっと、一番大事なことを忘れてた。
神棚に飾ってあるヤチヨのアクスタに合掌し日々の感謝の祈りを捧げる。
AIライバー『
十分な祈りを捧げてから「行ってきます、ヤチヨ」と呟いて、私──酒寄彩葉は家を出た。
扉を開くと灼熱の日差しに体を焼かれる。
気温自体は部屋の中と大差ないはずだが、日差しの有無だけでこうも変わるものかと辟易とした気持ちになる。
気合いを入れ直してからアパートの階段を降りてそのまま学校へ……は行かずUターンする。
アパートの一階、丁度私の部屋の真下に位置する場所のインターホンを躊躇いなく押した。
部屋の主が出てくるまで手持ち無沙汰で目線を彷徨わせていると『酒寄(朝)』と書かれた表札が目に入る。
何だこの表札。野球選手かポ○モンでしか見たことない字面だぞ。
しかし出てこない、かれこれ一分は待っているのに物音一つしない。
このままでは遅刻してしまうと焦ってドアノブに触ると呆気ないほど簡単に回った。
念の為に再度インターホンを押し強めのノックをしても反応がないことを確認して扉を開いた。
「ふへへぇ。ヤッチョはかぁいいですねぇ」
「……」
すぐに扉を閉めたくなった。
私の部屋とほぼ同じ内装の薄暗い部屋。その中で怪しく笑う少年に何とも言えない気持ちになる。
……私も周りからはああ見えてるのかな。これからはちょっと気をつけよう、できるかは怪しいけど。
少年は写真に撮ってネットにあげればすぐにでもミーム化しそうな狂気を覗かせる表情でタブレットにペンを走らせている。
艶のある紫紺の髪は癖っ毛ではあるが整えられており、灰と紺の入り混じった瞳は今でこそ血走っているが普段は穏やかさを帯びている。
特徴的なのは首筋に伸びる裂傷だろう。これのせいで初対面の相手からは避けられやすいと愚痴を溢していた。
顔立ちは私と似て……いや、垂れ目であること以外はほぼ同じだ。
当然だろう。だって私達は双子なのだから。
「
「えっ、もうそんな時間やった?ごめん、待たせてもうた」
家族の前なのでとっくに慣れた標準語も一時的にお役御免だ。
少年──朝葉は狂気の表情をすぐに収めると、私が部屋に入っていることに驚くでもなく素直に謝罪する。
……我が弟ながら、こういうところが不思議というかズレているというか。
「鍵くらい掛けなよ。盗みに入られても知らんよ?」
「こんなボロアパートに?」
「……変質者とか来るかもよ」
「や〜ん彩葉さんのエッチ〜」
「三十秒で支度するか床のシミになるか選ばせてあげる」
「誠にごめんなさい」
ニッコリと笑う私に光の速さで頭を下げる朝葉。
謝るくらいなら最初からふざけたことを言わないで欲しいものだ。
私が部屋を出て本当に三十秒ほどで着替えと準備を済ませた朝葉と通学路を歩く。
いやおかしい。いくら男子でももうちょっと時間掛かるだろうてか掛けろ。三十分以上掛けて身支度した私が馬鹿みたいじゃないか。
「いやぁ、ちょっと依頼が立て込んでてさ。ありがたいことよねホント!」
私から向けられる棘のある視線の理由をインターホンに気づかなかったからだと勘違いしたのか、曖昧に笑って露骨に目を逸らしている。
右手は首筋の傷跡に添えられていた。バツが悪い時に出る癖のようなものだ。
そういう意味で視線を送ったわけじゃないんだけど、そんな反応をされると逆に腹が立ってくるな……。
「イラストの仕事、忙しいん?」
「さっきのでひと段落したよ。個人様からの依頼やから修正があってもそんなに時間は掛からへんと思う」
朝葉はイラストレーターとして活動している。
本人曰く駆け出しで一枚ごとの単価は低いが、ヤチヨという人気コンテンツを扱っているおかげで依頼自体はそこそこあるらしい。
さっき描いていたのもヤチヨを可愛らしくデフォルメしたようなイラストだった。……キーホルダーとかにして欲しいな、あれ。
そんなことをぼんやりと考えていた私の顔をいつの間にか朝葉が覗き込んでいた。
間近に迫った灰色の瞳に浮かぶ感情はイマイチ読み取れなくて、ただ綺麗なそれを何となく見つめる。
「今日もえらい別嬪さんやな」
「……はいはいありがと」
何だ、ただのいつものか。
こいつはとにかく唐突に人を褒める。毎日褒める。仲の良い相手であれば尚更で、男子でも女子でも逆に失礼なほど褒める。
理由は知らない。そういう生態なのだと思っている。
今日は出るの早かったな。
「……あんま寝れてへんみたいやね」
「うぐっ」
などと油断していた私に鋭い指摘が突き刺さる。
やっぱり化粧で隠すのにも限界があるか……。
「やっぱり隠せてない?」
「隠せてるよ。ただ近くで見ると違和感あるから、あの二人には気づかれてまうかもね」
「やっぱりそうかあ……」
親友達に心配を掛けてしまうことに「憂鬱や……」と項垂れる私を見てカラカラと笑う朝葉。
何だお前その赤ちゃんみたいに綺麗なほっぺ引っ張るぞ。
「酒寄先輩!おはようございますっ!」
「おはよう!」
「酒寄さん今日もビジュいいね〜」
「あははっ、ありがと!」
「酒寄さん、おはよう。昨日は手伝ってもらってありがとね」
「いえいえっ! また何かあれば仰って下さい!」
学校に着くとすぐに様々な人から声を掛けられる。
後輩の男子に同級生の女子、何かと手伝うことの多い先生も挨拶をしてくれた。
そのどれもが好意的で、しかし一歩引いたようなものだった。
原因はわかってる。私のせいだ。
私は完璧な女子高生だ。驕りではなく客観的に見てそうだし、そうでなければいけない。
品行方正、成績優秀、文武両道。それが私が私に求める姿。
だから周りの人からすれば、敬意にしろ気後れにしろ私に気軽に声を掛けることには抵抗があるのだろう。
少し距離があっても関わろうとしてくれる人がいることを喜ぶべきだ。
悪感情を含むものに晒されていないのは我ながら運が良いとしか言えないのだから。
一方、隣を歩く朝葉も多くの人から声を掛けられているがその内容は私とは大きく違っていた。
「朝葉、昨日送った動画見た?」
「見た見た!たしか……猿蟹合戦で猿側が勝つ話だっけ?人の心とかなかったよね!」
「朝葉おはよ〜。どう?新しいネイル良くない?」
「うわっ、メッチャすごいね!?首でも掻き切れそうだな……登校中に何キルした?」
「朝葉!昼休みキャッチボールやんね?」
「いいね、じゃあご飯食べたら校庭集合で!今日はスリーポイントシュート決めるわ!」
朝葉は四方八方から飛んでくる声全てに答えていく。
それら一つ一つは雑というか意味不明な返答で本当にそれでいいのかと思うようなものもあるが、朝葉に話しかけた人はみんな笑顔になって去っていく。
私とは違うな、と思った。
私と話した人も笑顔になってくれるが、その人が話したのは私であって私じゃない。
私は朝葉のように何も考えず本心で人と話すことはできない。
きっとそれは完璧な私じゃないから。
「彩葉。朝葉君も、おはよ〜。」
「彩葉と朝葉おは〜。いや〜二人とも人気者ですなぁ」
暗い思考に沈みかけた時、馴染みのある二つの声に呼び止められる。
綾紬芦花と諫山真実。
私の親友であり、本心に限りなく近い言葉を吐き出せる数少ない相手だ。
「芦花、真実、おはよう。そんなことないけどね」
「芦花ちゃん真実ちゃん、おはよう。二人こそ今日も花も恥じらうご尊顔だね。ここだけ静岡と山梨の県境あたりにある山の頂上くらい空気が澄んでる気がするよ」
真実の揶揄いを受け流すと、朝葉がまたふざけたことを抜かし始めた。
……まあ、二人がいると空気が綺麗に感じるのだけは同意だ。二人の容姿は都会の若者が集う我が校においても抜きん出ている。
芦花と真実は「あはは、ありがと〜」「酸素薄いってこと?遠回しにデブって言ってる?」と各々リアクションを返していた。
あと真実の目からハイライトが消えていた。
入学したての頃こそ、朝葉の軟派でよくわからない言い回しと首の傷跡に少し警戒していた二人だが『こいつ警戒が必要なほど頭使ってないな』とわかってからはそういうキャラとして受け入れてくれている。
……それはそれとして、親友を口説かれてムカついたので手頃な位置にあった朝葉の耳を軽く引っ張る。
すると思ったよりも大袈裟に反応するので思わず小さな笑みが溢れてしまった。そんな私に釣られて芦花と真実も笑っていた。
うん、いつも通りの朝だ。
授業は恙無く進み、あっという間に昼休み。
芦花と真実と三人で教室の一角に陣取り昼食を摂りながら談笑する。
「彩葉は今日もバイト?」
「そうです〜。今日は木曜だし混むだろうなぁ」
私のバイト先であるBAMBOOcafeは何故か木曜日が一番混むのだ。
本当に何でだろう。人生の中でも有数の謎である。
「うわぁ、大変だぁ」
「ちゃんと休まなきゃダメだよ?」
瞳に心配の色を浮かべる芦花に至極真っ当なご意見を頂戴してしまった。バイトの光景を想像したのか顔を青くしている真美も同意するように頷いている。
「明後日からは三連休だし、今日明日を乗り越えれば休めるよ」
「……そっか、休めるならしっかり休んでね」
「うん。……ありがと、芦花」
言葉を飲み込んでくれる芦花に心からの感謝を伝える。
真実もそうだが、二人とももっと言いたいことがあるだろうに私の意思を尊重してくれる。
こんなに優しく寄り添ってくれる友達は今後できないかもしれない。改めて二人を大切にしなくてはと思った。
「……それでね、もう一つ聞いてもいい?」
「いいよ。何?」
「あの……朝葉君って、今日バイトあるのかな?」
ん?空気変わったな?
少しの恥じらいを見せながら聞いてくる芦花に脳がとんちきな方向に稼働しそうになるのを必死に止める。
朝葉も私と同じくBAMBOOcafeでバイトをしている。
とはいえイラストレーターとしても活動しているので入れているシフトは私よりも少ないが。
昨日見たシフト表を思い出しながら口を開く。
「えーっと、たしか……」
「僕なら今日シフト入ってないよ。完璧暇人」
私が答える前に後ろから本人が登場する。どっから湧いて出たんだ。
朝葉の言葉を聞いた芦花は何故か私の顔をチラリと見たあと顔の赤みが増していき、俯き気味に呟いた。
「あ、あのね、放課後なんだけど。また、
「もちろんいいよ。いつもの場所でいい?」
「あ、ありがとう。……ごめんね?何回も時間取らせちゃって」
「ぜーんぜん!芦花ちゃんみたいな可愛い子とお話しできるならいつでも大歓迎だよ!」
何だコレ。
私は何を見せられているのだろうか。
真実に目を向けると、二人と私を見ながら酷く呆れたような顔をしていた。
何故私まで……?
例の相談というのは、イラスト関係の相談事のようだ。
芦花と真実は仮想空間ツクヨミで活動するインフルエンサーであり、その中でも芦花は美容系のジャンルに絞った活動を行っている。
配信で化粧品などを紹介する際、著作権で実物の画像が出せない場合にイラストで補足をするために描けるようになりたい……ということらしい。
うん、怪しい。
これ以上なく怪しい。
いや、相談内容自体を疑っているわけではないのだ。
実際にこの相談会が始まった頃から芦花は絵を描くのが上手くなったし、配信をたまに見に行ってもその技術はちゃんと使われている。
おかしいのは二人の態度だ。
朝葉に詳しい内容を聞こうとしてもはぐらかされるし芦花にその話を振ると何故か顔を赤らめて挙動不審になる。
その他にも二人きりで電話をしたりすることも増えた気がする。
これは……確定だろうか?(クソボケ)
まあ、朝葉になら芦花を任せられるし、逆もまた然りなので何も心配はしていないのだが。(タチカワオオクソボケ)。
……それはそれとして。大切な親友と弟が遠いところに行ってしまったような気がして、置いていかれたような気持ちは少し、ほんのり、そこはかとなくあったりなかったりするわけだ。(タチカワスパダリオオクソボケ)
「あ〜っと、そういえばさ?彼氏が朝葉にお礼言ってたよ、オススメしてもらった小説面白かったって」
どこか気まずい空気を打ち切るように真実が切り出した。
「それは良かった!……でも、何で直接言ってくれないんだろ?」
「なんか直接は恥ずかしいとか言ってたよ」
「もうっ!照れ屋さんなんだからっ!でもそういうとこもちゅきっ!」
「あはは、彼女の前でそういうこと言っちゃうんだぁ。……喧嘩なら買うよ?」
再びハイライトを消した真実に泣きながら昼食のあんぱんを差し出す朝葉。
そんな二人のお決まりのコントを見ていたら、下らないことでモヤモヤしていたことが馬鹿らしくなって芦花と呆れながら笑い合う。
この時間が好きだ。こんな私にも、落ち着ける居場所があることを思い出させてくれるから。
午後の授業を心地の良い風と例えるなら、今日のバイトは大嵐だろう。いや、天変地異かもしれん。
「彩葉、お疲れ」
疲労しきった体に鞭を打って帰路に着こうとすると、背後から声が掛けられた。
見なくてもわかる。十七年聞き続けてきた声だ。
「朝葉?何でこんなところにおるん?」
「芦花ちゃんとのお話がさっき終わってね。ついでに夜遅いから彩葉と帰ろう思て」
既に空には夜の闇がどっぷりと落ちており、月の輝きが鮮明に見える。
こんな時間まで会話を?やはり確定か!(クソボケ)
「……随分仲良いんやね?」
「いやいや、彩葉や真実ちゃんには負けるよ」
ホントか?私はこんな時間まで芦花と二人きりで話したことなんてないぞ?
帰り道を歩きながらそんな意志を込めて睨んでみる。
「そんな気軽に女の子とつるんどったら彼女できへんよ?」
「つるんどる方ができるもんやない普通?いや、実際にできてへんし案外そうなんか?」
途端に真剣な顔になってブツブツと呟き始める朝葉。
この弟は顔も性格も良く、女子との関わりも多いのに何故かモテない。いや、理由は明白か。普段の様子がおかしすぎる。
「……そういう彩葉は、恋人作らんの?」
「そんな予定もないし相手もいませ〜ん。勉強とバイトで精一杯で〜す」
「いやいやわからんやん? こう、空から顔良し家事スキル良しの美少女とかが降ってきて自分に惚れてくれるかもしれへんし」
「どんな怪奇現象だよ……」
そんなふた昔くらい前のラブコメ漫画じゃあるまいし。
「ていうか、私の恋人って話ならそこは男の子なんやない?」
「いや、彩葉の恋人は女の子やろ。女誑しやし」
「デコピンとしっぺ、どっちがご所望?」
「お仕置きのラインナップが小学生」
軽快な音と共に朝葉の額へ指を叩き込む。いいところに入ったのか少し涙目になっていた。
別に同性愛に偏見はないが、何食わぬ顔で女誑しと言われたことは心外以外の何ものでもない。
「……そもそもそんな都合の良い話、仮にあり得たとしても受け入れられへんよ」
──都合の良い話は毒や。一番食ってかからなあかん。
母の言葉が脳内で再生される。
またか……。同じ教育を受けたはずの朝葉は自由気ままに生きているのに、私はお母さんに縛られたままだ。
……まあそれでいい。私は私のやり方で前に進むしかないのだから。
そうやって、自分で完結させようとしたのに──
「
思わず朝葉の方に顔を向けて視線が交差する。
双子だからか朝葉は基本的に私を「彩葉」と名前で呼ぶ。しかし、真剣な時は「姉さん」と呼ぶのだ。恐らく無意識で。
今までも何度かあったが、珍しくはある。
真面目くさった顔で見つめられ、なんだか少しバツが悪く感じてしまう。
「幸せの間口は広く持っといた方がええ。そうすれば入ってくる幸せの量は倍増や」
「……それで、悪意とか危険なものまで入ってきたら?」
──そういう油断がいけないんや。隙を見せたらいつでも背中から撃たれる世界なんやから。
あんたも同じことを言われたはずなのに。
なんで、そんな能天気でいられるの?
「そん時は、既に入ってきた幸せを使うたらええ」
「既に入ってきた、幸せ?」
「姉さんの場合、とっても頼れるお友達とか最高にかっこいいお兄様とか……あとは目の前にいる弟とかを頼ればええんよ」
そう言って朝葉は柔らかく微笑んだ。
……それが私にとってどれだけ難しいか、あんたはわかってくれてるでしょ?
「簡単に言うてくれるね……」
「せやね。姉さんには難しいことかもしれん。けどね」
一度言葉を切ると、空に──月に目を向けた。
月を瞳に収める朝葉の顔が、あまりにも綺麗で。
その表情は、一体どんな感情の時に作られるのだろう。
「今まで頑張ってきた分、姉さんには幸せになる権利がある。姉さんの未来にはあり得ないほどの幸せが待っとるよ。それだけは保証できる」
その言葉を聞いて、ふと思った。
私は朝葉の幸せの中に入れているのだろうか。
朝葉の幸せの間口を広げる一助に、なれているんだろうか。
「……宝くじでも当たるん?」
「さすがに買ってすらないものは当たらへんよ」
わざとふざけて返せば朝葉もそれに乗ってきてくれる。
それからはお互い肩の力を抜いて笑い合った。
さっきまでの会話を頭の中で反芻する。
あり得ないほどの幸せ。それはどんなものだろう。
芦花がいて、真実がいて、朝葉がいて。そこにできればお兄ちゃんや……お母さんがいて。
そしてみんなが私を見て笑ってくれる。
そんな、本当にあり得ないほど幸せな未来が待っているのならば。
それがハッピーエンドというやつなのかもしれない。
疲労のせいか、そんな柄にもないことを考えてしまった。