珍しく仕事が一日完全にオフの日。
それでもやるべきことは山ほどあるけど、今日ばっかりはその時間を別のことに割かなあかん。
久しぶりに愚息が返ってくる日やから。
玄関の鍵が開かれる音で反射的に背筋が伸びる。
あの子は昔から本当に物音を立てへんから、勝手に警戒する癖がついてしもうた。
近くにいるのに気づかず、驚いた姿を何度見られたことか。
苦々しい思い出に顔を歪めていると、玄関の扉が開く音が響く。
そのまま廊下に静かな足音が伝って、リビングまで辿り着いた。
灰色の瞳と目が合う。
相も変わらず、人の心を掻き乱す目や。
「母さん!ただいま!」
「どの面下げて帰ってきたん?」
「おお!お決まりのヤツやね!」
「実家のような安心感……いや、実家やったわ」などと抜かしながらヘラヘラと笑う息子に呆れてため息が溢れる。
顔を合わせて十数秒だというのに部屋が一気に騒がしくなった。
……こんなんがずっと側にいることだけは、唯一彩葉に同情できる点や。
「阿呆なこと抜かしとらんで、とっとと荷物下ろして吐くこと吐き」
「あれ?今日って取り調べやったっけ?」
「似たようなもんやろ」
聞きたいことを聞くだけという意味ではそう変わらん。
朝葉は持っていた質の良い紙袋をテーブルに置くと、中からいくつかの包みを取り出した。
「ほら!母さんの好きな甘さ控えめの羊羹、お土産に買うてきたから!いくつかあるし仕事先の人とも食べて」
「……やっと最低限の礼儀は学んだみたいやね」
「おっ、母さんに褒められた!明日は京都全域を雷雨が襲うやろね〜」
失礼な物言いに手が出かけたが、礼儀を尽くしているのは向こうなのでここは引き下がる。
それに、下手に手を上げても勘のいい朝葉には簡単に避けられてまう。
足音を消して不意打ちを避けるとか、うちの子は忍びかなんかなん?
「……まあええわ。で?彩葉はどうしてるん?」
「お母様ったら、目の前にいる息子より娘の心配!?やっぱり兄弟で唯一の娘が可愛くて仕方がないのねっ!そういうところギャップ萌えだわ〜ん」
「あんたの心配なんかせんよ、殺しても死なへんやろし。それと、そのふざけた態度続けるんやったら二度と家の敷居は跨がせんから」
「冗談ですや〜ん!あ、お茶淹れますね〜」
勝手知ったる我が家のキッチンに入り、手際良くお茶を淹れていく。
この子は自分が客やのにすぐ人を持て成そうとする。
そういう気遣いの安売りはつけ込まれる隙になるから直せ言うたのに。
すぐに部屋の中を仄かな茶葉の香りが染めていく。
……そういえば、昔お茶の淹れ方教えたんは私やったな。
「はいどうぞ。えーと、彩葉の話やったっけ?まあ、少なくとも毎日ご飯は食べてるかな。勉強も頑張っとるよ」
「そのために出てったんやから当たり前やろ。いつ音を上げるかまだわからんしな。あの子は甘ちゃんやから」
「んで、この出来の悪い息子にも家を出る許可をくれた母さんも甘ちゃんの系譜と」
「朝葉、右の頬を差し出したあと左の頬も差し出すんや」
「それ頬を打つ側が言ったらただの暴力予告なんよ」
軽く腕を上げて脅すと素早く距離を取られる。
……次は死角からいかなアカンな。
大体、タダで上京する許可を出したわけやあらへん。
私の出す条件を達成できなければ、家を出す気はなかった。
条件の内容は、当時の定期テストで全教科満点を取ること。
お義父さんとお義母さんに一人暮らしの許可をもらうこと。
そして、もし仮に達成したのなら彩葉の様子を定期的に伝えること。
これが、私が朝葉に出した一人暮らしの条件やった。
今まで成績のパッとしなかった子やから、どうせ無理やと甘く見とったのは事実や。
けど、それを理由に手心を加えたつもりはない。
それでも、この子はやり遂げた。
朝葉は『かなり頑張って運も味方したわ。同じことやれって言われても無理やねぇ』なんてほざいてたけど、運で達成できる条件を出したわけやない。
この子は何かを隠しとる。
どうせ言わんやろうから聞いてへんけど、これは私の中では確定しとることやった。
孫に甘いお義父さん達はテストをクリアした時点で許可を出しとった。
まあ、こっちは元から難易度に関与させることは考えてない。
世の中義理を通すことも大切や。
そうして、朝葉も私の下から去っていった。
「ほんなら、あんたの方の調子はどうなん?」
「ん?成績表は送っとるよね?」
確かに成績表は毎回送られて来とる。
トップは彩葉やからまだしも、二位や三位すら取れてへん科目があったのを見て、この子はホンマにどうしてくれようかと頭が痛くなった。
中学の頃に見せた本気はもう出す気はないらしい。
本来なら引っ叩いてでも出させるところやけど、この子にそれは効かへんことはわかっとるからやらん。
無駄な体力の消耗を抑えるのも必要なスキルや。
「私生活の話や。どうせ甘えた生活しとんのやろ?」
「さすがに彩葉と比べたらストイックさには欠けるね。ぼちぼちってとこかな」
「そないなことでどうするん?勉強でもそれ以外でも、彩葉を喰ったる気持ちでいかな負け犬のまんまや」
「彩葉を……喰う」
何やら難しい顔をする朝葉に、疑問符が浮かぶ。
この程度のこと今まで散々言うてきた。
今更何か響くことがあるとも思えへん。
「あ、あのね、母さん。僕と彩葉は姉弟やし、喰べるとかそういうんはちょっと……」
「次から家に入れへんから帰ってこなくてええよ」
「待って待って冗談やから!」
今年に入ってから間違いなく一番の軽蔑を眼差しに込めて朝葉に送る。
あんたは一分に一回私を怒らせな死ぬ病気にでもかかっとるんか?
「大丈夫よ。ちゃんと友達もおるし、持ちつ持たれつでやっとるから」
「話にならへん。人様の助けなしじゃ生きられんような甘ったれた人間に育てた覚えはない。それに、何度も教えたはずや。隙を見せたらいつでも背中から──」
「ええよ。別に撃たれても」
部屋の温度が、一段下がったような気がした。
別に朝葉の声色が変わったわけやない。
いつものように馬鹿みたいに明るい声。
でも、その声で紡がれる言葉が今は何より不気味に感じた。
「撃たれて困るような価値のある背中でもないし。……それとも、母さんが撃ってくれるん?」
朝葉の目が、どこか遠くを見つめるように細められる。
目は合ってるはずやのに、私を見ていないことだけはすぐに確信した。
朝葉はある時期からこういう目をするようになった。
あの人と同じ瞳で、まるで真逆の闇を孕んだ目。
私と同じ、人の醜さを知っとるその目が……堪らなく嫌いやった。
こんな目をさせんようにするために、私は子供達を強く育ててきたはずやのに。
人の醜さを知っとるくせに、この子は容易に他人を懐に入れる。
能天気な甘ちゃんならまだええ。
想像力と危機感が足りていないだけやから。
私が叩き込んでやればそれで解決する。
でも、そうやないなら話は変わってくる。
自分が害される可能性を考慮しながら、他人にわざと隙を晒す。
それは何かしらの打算があるか、自分が害されることを望んどるかしかあり得へん。
私から見た朝葉は、間違いなく後者やった。
「な〜んてねっ!」
朝葉が表情を戻して声色とのズレがなくなった。
「いやぁ、お母様からのご忠告痛み入りますわ!叱ってくれる人がいるのはやっぱええことやねぇ。熱い愛情を感じるぅ〜っ!」
自分の身を抱きならがらクネクネと気持ちの悪い動きをしとる。
今更そんな低レベルなお芝居で誤魔化せると思てるん?
あんたを腹に詰めて産んだんが誰か、忘れたわけやないやろね?
「……ふざけたことしか抜かせんなら、口閉じて帰り。無駄話に付き合う時間はない」
「も〜いけずなこと言わんといて!ほらっ、羊羹開けたからご査収してや」
包みの一つが開封されて、艶のある羊羹がいつの間にか用意されていた皿にのせられていく。
私の正面に座って、羊羹を頬張る朝葉を見つめる。
そこには、さっきまでの不気味な雰囲気は微塵も感じられんかった。
けどそれは消えたわけやなくて、ただ隠しただけや。
朝葉は小さい頃から強かった。
身体だけやなくて、精神的にも
何があっても折れへんし挫けへん。
私の教えたことを受け止めるでも受け流すでもなく、ただ受け容れる。
まるで、既に知っていた常識を再確認するみたいに。
受け容れた後で、ホンマに自分に必要なものだけを取捨選択しとった。
それは、私が子供達に求める理想そのものやった。
自分で未来を選択できる強さ。
他人に良いように利用されへん強さ。
朝葉は子供達の中で、それを一番持っとった。
せやから、
きっと、朝葉なら自分で前に進めると思ったから。
でも、本当はどこかで気づいとった。
この子は折れないんやない。
もう、ずっと最初から──
「母さん?」
気がつくと朝葉が隣に来ていて、私の顔を覗き込んできてた。
心配そうな表情に嘘偽りは見受けられへんくて、純粋なその感情に心が乱される。
あんたは彩葉みたいな甘ちゃんやないのに、なんで他人ばっかり気にかけてしまうん?
「体調悪いん?今日はもう休む?」
「……あんたに人を心配する余裕なんてあるん?そんなんやから彩葉にすら負けんねん」
「彩葉に負けるなら本望やし、それと母さんを心配することは無関係や」
躊躇いなく私の額に掌が当てられた。
思わず跳ね除けそうになるけど、変に真面目くさった顔を見ていたらそんな気も失せてしもうた。
「熱は……ないみたいやね。心が疲れてる?」
「馬鹿なこと言わんといて」
そんな言い訳がましい理由で、貴重な動ける時間を無駄にするなんて阿呆のすることや。
そもそも、体調管理が人間の基本やとこの子たちに教えたんは私や。
自分でそれを疎かにすることなんてあり得へん。
「母さんは普段から頑張っとるんやから。たくさん休んで健康に長生きして欲しいんやけど……」
「ほんなら、安心して見てられるだけの結果をとっとと出してもらいたいもんやね」
「それで安心できるなら、いくらでも」
「……口では何とでも言えるわ」
憎まれ口を叩いて突き放すと、朝葉は苦笑いして席を立った。
きっと、あの人のところに行くんやろうな。
「母さん」
リビングの外から、朝葉がこちらに身体を向けた。
「長生きして、たくさん幸せになってね」
朝葉の瞳は自然と穏やかな慈愛の色を宿していて。
それが、記憶の中のあの人と重なって見えた。
朝葉。
あんたのその優しい目は、本当にあんた自身のものなんか?
それとも、あの人を真似て誰かの理想を演じてるんか?
私はあんたの全部を、ちゃんと見てあげられてるんか?