彩葉の弟は様子がおかしい   作:真球猫

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第二話

 

 

 

 陽光が薄く照らし楽しげな声が響く昼休みの教室。

 いつもの三人で昼食を摂っていたところに通りかかった朝葉を捕まえ、強引に席に座らせたところまでは良かった。

 

「二人にお兄さんがいるなんてねぇ」

「想像できない……どんな人なの?」

 

 しかし、そのあと朝葉が「今日の放課後は兄さんの家に遊びに行くんだ〜」などと口を滑らせたせいで芦花と真実の興味はすっかりそっちに向いてしまった。

 いやまあ、別に口止めをしていたわけではないんだけど。

 

「そうだなぁ。かっこよくて優しくて、ヒーローみたいな人だよ。ねっ、彩葉」

「あの人はそんな高尚な存在じゃないでしょ。二人とも真に受けないでよね」

 

 いつものように能天気な朝葉にため息を吐きながらツッコミを入れる。

 

 朝葉は昔からとにかくお兄ちゃんに懐いている。

 一緒にいる時間こそ私の方が長いが、仲の良さで言ったらお兄ちゃんの方が上かもしれない。……いかん、自分で考えてて腹が立ってきた。

 

 確かにお兄ちゃんはすごい。

 まだ実家にいた頃に何度も助けてもらったのを忘れたことはない。

 若いのに自分の道を見つけて大勢から認められるだけの成果を上げているし、そういうところは素直に尊敬している。

 

 一方で、幼い頃に子供っぽい意地悪を受けてきた身からするとそこまで手放しに褒めちぎれる相手ではないことも確かなのだ。

 ……同じ仕打ちを受けてきた朝葉は何でこんなにお兄ちゃんに懐いてるんだ?まさかドM……いや、考えないでおこう。姉弟にも秘密は必要だ。

 

「仲が良いんだね〜」

「二人に似てさぞやイケメンなんでしょうなぁ」

「そりゃあもう!僕とは比べ物にならない男前だよ」

 

 なんであんたがそんなに鼻高々なんだ。

 ……っていうか。

 

「別に朝葉だって負けてないでしょ?人によってはあんたの方が好みの人もいるって」

「え〜?兄さんのがかっこよくない?」

「あんたはもっと自分に自信を持つ!」

 

 朝葉はこういうところがある。

 容姿だけではなく、成績や能力。果ては性格まで。

 自己評価が低い、というよりナチュラルに人を自分の上に置く癖があるのだ。

 

「大丈夫だよ。確かに僕と彩葉は顔が似てるけど、彩葉も兄さんと同じくらい美人だから。いよっ、日本一の美少女!」

「あれれ〜私達は彩葉の下か〜い?」

「おやおや、この世界線は日本一が三人もいるみたいだ。不思議なこともあるもんだね!」

 

 またなんか厄介な勘違いをしてるな……。

 真実の揶揄うような笑みにおどけて返す朝葉。

 本当にこいつは、人前で恥ずかしげもなくとんでもないことを宣いおってからに。

 腹いせに脇腹を軽く小突いて変な声を出す姿を見て溜飲を下げた。

 

 お兄ちゃんの家に一緒に来るかと誘われたが、今日もバイトがあるからと言って断った。

 

 ……お兄ちゃんは、私達を置いて出て行ってしまった。

 私は今でも見捨てられたんじゃないかと思っている。

 朝葉のように図太くはなかなかなれないのだ。

 

 

 

 

「へへへ……三連休がついにやってまいりやした。超久しぶりに一日六時間は寝れる」

 

 さながら竹を取る翁のように老いた自分の姿を幻視する。

 今日のバイトも疲れた……。昨日よりはマシとはいえ、疲労のピークに達する金曜日は日頃の無理のツケが回ってきやすいのだ。

 

 さすがに家に帰るまでの気力を確保しなければとスマホを取り出し、ミュージックアプリを開いて視聴履歴を表示する。

 そして、一番上に出てきた曲を迷わずタップした。

 

 再生されたのはヤチヨのデビュー曲。

 私を何度も救ってくれた、大好きな曲。

 

 朝葉にも聴かせて感想を聞いたことがあったが、べた褒めした上で『この曲は彩葉に一番似合うね』と言われた。

 なんだその感想はと思ったが、その時の表情がとても優しくて結局何も言えなかった。

 

 そんなことを思い出しながらも、良すぎる曲と超ムリ限界ギリな身体が災いして涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた時だ。

 

 空を一筋の光が流れていった。

 

 すぐに近くの人が「流れ星っ!」と言ったことでその正体を把握する。

 周りの数人が祈り始めたのを見て私も釣られるように両手を合わせる。

 

「か、金……」

 

 マジか私。

 本当に女子高生なのか自分でも怪しくなってきたぞ。

 

 ──神頼みするやつは阿呆や。

 

 頭の中に母の声が響く。

 仕方がないじゃないか。お金が欲しいのだ、ヤチヨのグッズが買いたいのだ。

 そんなこと、実物のお母さんに言えるわけもないけど。

 

 なんだか疲労が増したような気がしてすぐに両手を元に戻す。

 今日は帰って軽く復習をしたら寝よう。私には三連休が待っているのだ。

 勉強、推し活、ゲーム、そして睡眠。

 やりたいことは山ほどある。

 

 なんか流れ星が私のアパートの方向に向かっている気がするが、三連休の方が今は大事だ。

 

 

 

 

 やっとの思いでアパートに辿り着く。

 

 いつもは当たり前のように往復する道がとんでもなく長く感じた。

 まずはシャワーか、いや腹ごなしが先かな。私の節約パンケーキが火を吹く時が来たか。

 

 ……うん。わかってる。現実を見なければいけないのはわかっているのだ。

 今まで何度も空想の世界に逃げようとしたことはあった。しかし、現実に空想が侵略してくることは初めてだ。

 

 アパートの前に聳え立つ七色に輝く電柱。

 さしずめゲーミング電柱といったところか。

 

 いや、怪奇現象に名前をつけている場合ではない。

 さすがにこんなものが自分の家の前にあるのはあまりにも不気味だ。

 できればノーマル電柱に戻ってほしいところだが、この際電飾レベルなら光っていても構わない。

 

 そんなことを考えていてもゲーミング電柱は変わらずそこに佇んでいる。

 ……諦めて近づくしかないか。

 

 覚悟を決めて電柱の正面に立つ。

 何やら竹のような見た目の取っ手が付いているが、ここで『なんで竹?』などと言ってはいけない。

 ここまできたら細かいことを気にした方が負けだ。

 

 だからたとえ電柱から独特な効果音とともに煙が噴き出しても、真ん中から両開きに開き出しても気にしては──

 

「いや、さすがにアカンやろ」

 

 竹の取っ手を鷲掴みにして強引に閉じる。

 光ってるだけならまだしも開くのは聞いていない。

 思わず素の京都弁が出てしまったではないか。

 

 またしても囃子のようなメロディとともに開こうとする電柱を押さえつける。

 しかし、最終的には人間の力では抑えきれない馬力でもって電柱は開かれてしまった。

 何だ電柱が開くって。

 

「力づくかい……」

 

 思わず出てしまったツッコミが空中を揺蕩う。

 そうして開かれたゲーミング電柱の中には……玉のような赤ちゃんがスヤスヤと寝息を立てていた。

 

「ん???」

 

 受け攻めいくつか予想していたが、それは予想外だろゲーミング電柱。

 いや本当に予想していなかった。これならまだテレビか動画投稿者のドッキリの方がいい。

 

 赤ちゃんは依然としてふっくらとしたお腹を見せながら熟睡中……あ、目覚ました。

 真紅の宝玉のような瞳と目が合った。

 まるで私を見つけたことを喜ぶようにその目が細められる。

 

 ……いやっ、待て待て!なに絆されそうになってるんだ!?

 

「すまんっ!しかし、私手一杯ですので、失礼いたします!」

 

 実際私の生活は本当にギリギリだ。

 朝葉が私の意思を尊重しつつフォローしてくれていることでやっと僅かな余裕を保てている。芦花と真実の気遣いも大きい。

 

 どれだけ頭でそろばんを弾いても見知らぬ赤の他赤ちゃんに使えるお金も時間もない。

 こんな赤ちゃんの世話すら私にはできない。とりあえず私はそこそこの謝意を見せて帰宅するぜ。

 

「うぁ〜う」

 

 まるで私を呼び止めるようにして、赤ちゃんが声を上げた。

 その瞬間。

 

「もうどうなってもいいんだぁ〜!だぁっはっはっ!」

「ヴ〜ッ、ワンワンッ!」

「ギャー!ギャーッ!」

 

 酔っ払いの叫び声、野犬の鳴き声、カラスの囀り。

 急に治安が神○町くらい悪くなったな。……さすがに盛ってしまった、蒼○堀くらいだ。

 

「さすがに、ここに放置はまずいか?」

 

「どう持つんだ、これ」などと言いながらも、何とか赤ちゃんを抱き上げる。

 するとゲーミング電柱は、まるで自分の役目は終わったとでも言うように『ほな、さいなら笑』と消えていった。

 

「すみません!お忘れ物ですよっ!」

 

 電柱をリズミカルに叩いてみてもゲーミングな光が戻ってくることはなく、私と赤ちゃんだけが夜の住宅街にぽっかりと浮いていた。

 

「この状況じゃ、私が攫ったみたいでは?」

 

 真夏だというのに背筋に寒気を感じる。

『よくわからない赤ちゃんを拾った』よりも『誘拐犯の冤罪を着せられた』の方が人間恐ろしく感じるものだ。

 

 どうすればいいのかわからなくて、赤ちゃんに視線を向ける。

 無邪気に笑いながら甘えるように私の鳩尾に柔らかいほっぺを押しつける赤ちゃん。

 

「たい♡」

「無理無理無理無理無理!」

「ふええええええええええ!」

 

 私の拒絶の意思を感じ取ったのか赤ちゃんは突然大声で泣き始めた。

 夜の住宅街、女子高生と赤ちゃん、爆音泣き声、何も起きないはずもなく。(ご近所トラブル)

 

「ああ、もう!」

 

 私には一刻も早く部屋に駆け込むしか選択肢がなかった。

 

 

 

 

「よーしよーし。あ〜どうしよどうしよ……」

 

 何とか部屋に入り、電気をつけて部屋の中を三周ほど歩いたところで気づいた。

 これ、別に部屋に入っても何も解決しなくない?

 

 ドンッ!

 

「っ!? びっくりしたぁ。……壁ドン、初めてされた」

「ふえええええ!」

「あ〜怖くない怖くないよ〜?ベロベロベロ〜!」

「ふええええええええん!」

 

 ドンドンッ!

 

 どうやら私のべろべろば〜は泣き声の燃料にしかならないらしい。その勉強料としてお隣さんからの誠意で壁ドンのおかわりを頂戴してしまった。

 どうしよう。色んな意味で惨めで泣きそうだ。

 

 その時天啓を得る。

 困った時に現代の叡智の結晶、インターネットを使わないのは愚の骨頂だ。

 予想通り既に私の一歩も二歩も先を歩いている全国のお母様方から大変有益な情報を拾うことができた。

 

「えー、子守唄子守唄……記憶に御座いませんな」

 

 子供を寝かすといえば子守唄。

 そんな安直な発想も出ないほど追い詰められていたのだろう。

 しかし、母からの愛情を久しく感じてない私からすれば、当然子守唄なんてものも管轄外だ。

 

 どうしたもんかと困り果てて、自然と神棚に飾られたヤチヨのアクスタと目が合った。

 

「〜〜〜♪」

 

 何度も聞いて頭に刻み込まれた歌詞を、できるだけ綺麗にゆったりと歌う。

 歌を聴かせながら赤ちゃんを揺らすと自然に瞼が閉じていき、そのうち小さな寝息を立て始めた。

 

「…………よかったぁ」

 

 布団に寝かせてから頭の中でスリーカウントを行う。

 どうやら赤ちゃんは立ち上がることもファイティングポーズを取ることもないようで、この瞬間私のKO勝利が確定した。

 あまりの安堵感に崩れ落ちるように寝転がる。

 

 目先の問題が解決したからといって気を抜ける状況でないことは変わらない。

 明らかに私一人では手に余るこの赤ちゃんをどうするか?当然、誰かを頼らざるを得ないだろう。

 

 頼る、という単語が頭を過ぎったその瞬間。お母さんの言葉が薄らと浮かんできて慌てて頭を振る。

 個人に頼るよりかはマシだろうと警察に連絡しようとするが、どう説明すればいいかわからない。

 

 流れ星、赤ちゃん、ゲーミング電柱。

 手札事故を起こしたTCGプレイヤーのような気分になる。

 どれか一つでも怪しいお薬を疑われる厄ネタなのに三つも揃えば役満だ。懲役という点棒を大量に受け取ることになるだろう。

 

 警察は頼れない、特定の個人なんてもってのほか。

 そう考えた時、昨日の夜に朝葉と話したことを思い出した。

 

 スマホのメッセージアプリから、通話機能を選ぶ。

 一番上に表示された相手をタップする。そこには『酒寄朝葉』と名前が書かれていた。

 

 もし頼って、朝葉に拒絶されてしまったら。

 身体がひとりでに震え出す。私を構成する何かが根本から揺らいだような感覚に陥る。

 

 ──そん時は、既に入ってきた幸せを使うたらええ。

 

 ……そう言ったのは、朝葉だもんね?私が頼っても文句とか、言わないよね?

 

 あるはずのない妄想を否定するように理屈を捏ねくり回す。 

 人生で初めてかける警察への電話よりも、何度もしている朝葉との電話の方が緊張する。

 意を決してボタンをタップする。緊張感を更に煽るコール音が三度目の途中で途切れた。

 

『もしもし、彩葉?』

 

 穏やかな声色。

 少し驚きの要素を含んではいるものの、電話をかけてすぐ迷惑だなどと言われることがなくて安心する。……普通に考えればそんなことあるはずないんだけど。

 

「朝葉!」

『彩葉から電話かけてくるなんて、明日は宇宙船でも──』

「赤ちゃんがっ!」

『……赤ちゃん?』

 

 朝葉のおちゃらけた声を遮るようにして核心を伝える。

 マナーは悪いが、こちらも余裕がないのだ。

 

「流れ星が降ってきて!ゲーミング電柱の中に赤ちゃんがおって!私が誘拐犯になるかもしれんくてっ!」

『オーケー彩葉、ちょっと深呼吸しよか』

 

 「はい吸って〜」という掛け声とともにスマホの奥からゆったりとした呼吸音が聞こえる。

 咄嗟に反論しそうになったが、冷静ではない自覚はあったので言われた通りにする。

 たっぷり十数秒ほどその時間が続いた後、やっとスマホから聞こえていた呼吸音が止まった。

 

『落ち着いた?』

「……うん。ごめん、ちょっと気が動転してて」

 

 私が謝ると何てことないようにカラカラと笑う声が響く。

 

『無理もないよ。とりあえず、あと三十分しないで帰るからその間に話したいことまとめておける?』

「わ、わかった」

『よしよし。ご飯は買って帰るから、ゆっくり休んでて大丈夫よ。じゃあ、また後で』

「えっあ、ちょっ……切れてる」

 

 耳に当てていたスマホ画面を見ると、通話は終了していた。

 何だか最後の方にお節介を焼かれたような気もするが、ひとまず危惧していた結果にはならなくて安心した。

 

 何も問題は解決していないはずなのに、電話をかける前よりも心はずっと穏やかになっていて。

 それが不思議と、とても心地よかった。

 

 

 

 

「とりあえず、一つ聞かせてもらうわ」

 

 肩で息をしながら私の部屋に訪れた朝葉。

 電話が終了してから時間にして十分ほどでの帰宅。予定より二十分も短縮したのだから疲労するのも当然だろう。

 

 薄い布団に寝かされすやすやと可愛らしい寝息を立てる赤ちゃんを一目見て何やら目を数秒瞑ったあと朝葉は口を開いた。

 

「いつの間に産んだん?」

「学校で私と会ってるよね?お腹膨れてましたか?」

「そこはこう、超人的なパワーでポンッと」

「あたしゃ神話の女神か何かかな〜?違うよ〜?」

 

 とんちきな上に失礼なことを言う朝葉に圧を込めて笑みを浮かべる。

 さすがにこれ以上はまずいと思ったのか顔を真剣なものに変えていた。最初からやってくれ、ホントに。

 

「それで?流れ星の着地点がこのアパートの前の電柱で、虹色に光っとるそのゲーミング電柱?が開いたら中にはこの赤ん坊がおって、部屋に連れ帰ったはいいものの正直に警察に話したりすれば誘拐を疑われるかもしれない、と。ここまで合ってる?」

「合ってるけど……よくあの電話でわかったね?」

「噛み砕かれ過ぎてるだけで、要点はまとまっとったからね。さすがは現代文百点の女」

「どっちかっていうと読解力の話な気が……まあええわ」

 

 無駄話をしている時間も体力もないのだ。

 これからのことに目を向けなければならない。

 

「それで、この子どうしたらええんやろ……」

「う〜ん、そうやね〜」

 

 間延びした返答の後、朝葉は私の目をジッと見つめた。

 

「彩葉はどうしたい?」

「……私?」

「そう。この子拾ったんは彩葉なんやから、彩葉の意見を一番大事にしなきゃやろ?」

 

 そう言いながらもどこか見定めるような視線に居心地の悪さを感じる。

 何だ?朝葉は私に何を求めているんだ?

 考えたところでわかるはずもないので素直に答えることにした。

 

「……今更見捨てるとかは、したくない。少なくともこんな状態では放っておけへん。でも、私も色々ギリギリやし、それでこの子に負担かけるんは違うんやないかって思う」

 

 あの状況で放置することはあり得ない。

 動物や酔っ払いに害されてしまう可能性を見過ごせるほど私は馬鹿でも薄情でもないつもりだ。

 それでも、私なんかよりもっと豊かな人に拾ってもらえていればと思うのも事実だ。

 

 これで満足か?と顔を窺えば、目を細めて嬉しそうに笑う朝葉に頭を撫でられた。

 

「やっぱり、彩葉は優しいんやねぇ」

 

 何か引っ掛かる言い回しだと思った。

 でも、そんなことよりも重要なことがあった。

 

「姉の頭を撫でるなっ!生意気やぞっ!」

「素直に褒めただけや。顔がよくて優しいとか、ほんまに女神なんやない?鬱屈とした現代日本に降臨したスーパー女神、彩葉様やね」

「やめて。それはヤチヨにこそふさわしい文句や」

「あ、ツッコミ入れるとこそこなんや」

 

「これは重症やな」などとブツブツ呟いている朝葉。

 昨日の朝見た光景を私は忘れてないぞ?

 

「まあ、彩葉の考えはよくわかったわ。とりあえずその方向で進めよか」

「えっと、どうするん?結局なんも言ってないようなもんやったけど」

「そんなことないよ。つまり、色々ギリギリじゃなければええんやろ?」

 

 軽い調子で笑う朝葉に、今日だけでかなりの回数味わった嫌な予感が頭を過ぎる。

 いや、それよりまず。

 

「……触れんようにしてきたけど、それ何なん?」

 

 朝葉の足元に置かれているビニール袋。

 それが、四つ。

 一つは電話で言っていた私達のご飯だとしても、あとの三つは一体なんなのか。

 

「大きいスーパーって便利やね。オムツや粉ミルクだけやなくて哺乳瓶まで売ってたわ。とりあえず必要そうな物調べてあらかた買うてきた。さすがにベビー服とかはなかったから、明日買いに行かなあかんね」

「そ、それ、いくらしたん?」

 

 あまりの恐ろしさに声が勝手に震える。

 赤ちゃん用品の相場など知らない私でも、これだけの量の物品は相当に値が張ることは容易に想像できた。

 具体的に言えば、私の食費換算で三ヶ月は余裕で保ちそうなほどだ。

 

「知らん。僕黒ヤギさんやからレシート食べてしもた」

「腹パンするから今すぐ出して」

「物騒過ぎやろ。それよりも、僕も彩葉に──」

「は?」

 

 それよりも?今こいつお金の話をそれ呼ばわりして他の話を上に置こうとしやがったか?

 私がお金の為にどれだけの苦労をしているか知ってるのか?……それは知ってるな、多分他の誰よりも。

 

 ふざけたことしか抜かさない朝葉に拳を握りしめる。

 それでも頑なな態度を崩さないので、金額が分かり次第教えるように約束させた。……どうせ払わせてはくれないんだろうけど。

 

 

 

 

「実は、僕からも言わなあかんことがあるんや」

「なに?急に改まって」

 

 赤ちゃん用品の支払いについての相談(彩葉基準)がひと段落つき、今は遅めの晩御飯中だ。

 ビニール袋から出したスーパーのお弁当を食べながら、神妙な顔をする朝葉に目をやる。

 

「その赤ん坊のお世話は、できれば彩葉がメインでやって欲しいんや」

「……え?」

 

 間の抜けた声が出てしまう。

 思わず落としそうになった割り箸を必要以上に強く握りしめる。

 

 確かに赤ちゃんを拾ったのは私だ。ここまで色々してくれただけで朝葉には感謝しかない。

 それでもいきなり告げられた言葉に梯子を外されたような気持ちになった。

 

 そんな私を見た朝葉はワタワタと手を振りながら口を開いた。

 

「もちろん僕もできる限り手伝うよ!人手的にも金銭的にも協力は厭わへん、それは約束する。……ただね」

 

 逸らされた視線を追うと、赤ちゃんが私の服の裾を掴んでいるのが見えた。

 起きたわけではないようだが、本当に小さな手で離すまいとしっかり握っているのがわかる。

 

「この子は彩葉に懐いとる。きっと自分を見つけてくれた彩葉のことが好きで仕方ないんやね」

 

 愛おしそうに微笑みながら赤ちゃんを撫でようとして、少しの逡巡のあと手を引っ込めた。

 その行動に違和感を感じるまでもなく続きを話し始める。

 

「僕もこの子は見捨てられん。それに、できるだけこの子の望むように育ててやりたいんや。せやから、姉さん」

 

「頼む、この通りや」そう言って頭を下げる朝葉を見て、全身から一気に力が抜けていくのを感じる。

 

 私が見捨てられたわけじゃなかったんだ……。

 

「……わかった。元々拾ったんは私やし、できる限りやってみる」

「そっか、ありがとう。……本当に、ありがとう」

 

 赤ちゃんの話をしていたはずなのに、何故か朝葉に過剰なほど感謝されてしまった。

 

 ……今日の朝葉は、何だか少し変だ。

 特に赤ちゃんを見てからは、言葉の節々に違和感を感じる。

 

 それでも、そこに踏み込むような真似はしない。

 私も朝葉に隠していることはある。学校でも同じようなことを思ったが、姉弟にも秘密は必要なのだ。

 

 

 

 

 ◇◇

 ──視界にノイズが走っている。

 

 まるで古いブラウン管テレビのように泡立つ視界の中で、疲れて寝てしまった彩葉と腕の中の赤ん坊だけが確かな輪郭を持っていた。

 

 両腕に感じるのは、重みと暖かさ。

 その感覚に思わず涙が溢れそうになって、必死に歯を食い縛った。

 それでも漏れ出てしまった一滴が赤ん坊の頬に落ちる。

 それがこの子を汚してしまったように感じて、すぐに優しく拭き取った。

 

「……君、なんだね。本当に」

 

 思わず確認するような言葉が口をついて出た。

 もう一度似たような言葉が出そうになって、慌ててそれを抑え込む。

 

 それでも、溢れ出した想いは止まらなかった。

 

「ここに来てくれて、ありがとう」

 

 心からの感謝だ。

 君のお陰で、僕は前に進むことができる。

 

「もう大丈夫だから。必ず、僕が守るから」

 

 この子の体温に、吐息に、存在を証明する全てに誓う。

 絶対に君を守ると。

 

 そして最後に、誰も聞き届ける者のいない誓いをもう一つだけ立てた。

 

「もう、二度と失敗しないから」

 

 

 

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