始まりはなんてことない疑問だった。
なぜ、かぐやは月を出て行ったんだろう?
なぜ、また月を出て行くんだろう?
あの綺麗な
地球に行けばわかると思った。
私達が持ち得ない感情というものを、理解できると思ったのだ。
かぐやの仕事の引き継ぎを手伝い、無理を言って地球への同行を通したのはその為だった。
実際、地球の人々と共に生きることで感情を理解できたと思う。
私も心を得ることができたから。
彼らがなぜ笑うのか、なぜ泣くのか、なぜ歌うのか。
今となっては手に取るようにわかる。
人の持つ感情は、綺麗で色とりどりで輝いていて。
そして、どんな猛毒よりも残酷に
魂の誤認によるバグ。
私の身に起きた奇跡を、かぐやはそう結論づけた。
原因は不明。
舟と隕石の衝突か、タイムトラベルに異常があったのか、まったく別の理由か。
とにかく起こったことだけを言うのなら、月人であるはずの私がバグの影響で人間の魂と誤認された。
区分としては人間だが実態は別物であるため、転生しても記憶も経験も引き継ぐことができた。
何百回と人生を繰り返した。
男も女も、赤ん坊も老人も経験した。
生まれて、死んで。
また生まれて、また死んで。
死ぬのは辛いし苦しいが、生まれるのにも苦痛が伴うのは予想外だった。
自分が作り変えられる感覚。
また一から人生を積み上げなければいけない虚無感。
その苦痛は転生を重ねるほどに増していき、やがて死と同じかそれ以上になっていた。
そんなことを繰り返して、気の遠くなる旅路の果てに
双子として生まれてからしばらくして、ある事実に気づかされた。
僕は酒寄彩葉の弟に転生したのだと。
当然、彩葉のことは聞いていた。
ヤチヨが八千年かけて追い求め、再会を願い続けた相手。
『酒寄』という家名。住所が京都。
極めつけは家族の構成と名前が全て一致している。
どんな可能性を探しても、結論を変えることはできなかった。
そして、絶望した。
酒寄彩葉に弟なんて存在しなかった。
きっと僕に起きたバグの影響だろう。
輪廻の外側にいる僕には、定められた運命が存在しない。
巡った輪廻の数だけ別の
ヤチヨがかぐやだった時は、まったく別の僕がいたのだろう。
つまり、酒寄朝葉という存在は輪廻にとっての異物であり、この時点でヤチヨの巡った輪廻とは別物になっているということだ。
ヤチヨとかぐやが巡るはずの輪廻を、壊してしまったということだ。
ヤチヨが彩葉と出会えないかもしれない。
彼女達が辿り着くはずのハッピーエンドを、歪めてしまったかもしれない。
全て、僕が生まれてきたせいで。
すぐに死ねば間に合うのではないかとも考えたが、乳児の身体で自殺は難しい。
何より、幸せそうなこの家庭を曇らせたくはなかった。
何もできず、ただ大切な人が八千年間積み重ねた願いを壊してしまったことへの絶望だけを感じる日々。
──世界にノイズが走り始めた。
それはすぐに視界全体を侵食していき、ほとんど何も見えなくなるまでそう時間はかからなかった。
転生を繰り返してきた経験と乳児であることが幸いして、生活に問題はない。
それでも、家族の顔すら見えないことは僕の心に落ちる影をさらに色濃くしていった。
そんなある日のこと。
「おい、朝葉!暇やから遊んだる!」
最近になって頻繁に聞くようになった少年の声が耳を貫く。
兄さんだ。
順調にわんぱく少年に成長しているようで、暇を持て余すと僕や彩葉にちょっかいをかけてくるようになった。
しかし、今日の僕は上手く兄さんに目を合わせられない。
精神的な問題があってなかなか寝れておらず、視界だけじゃなくて方向感覚もボヤけている。
そのせいか、兄さんの位置がうまく掴めなかった。
「おい!何無視してんねん!」
声が間近に迫ってくる。
どうやら僕の目の前にいるらしい。
「お前ほんまに目ぇついとんのか?」
頬がムニムニと突つかれている。
そんなに痛くないので、加減はしてくれているようだ。
そんなことを考えていると、僕の右手が持ち上げられる。
そして、温かいなにかに触れた。
「俺の顔はここや。目はここで、鼻はここ。あっおい!鼻の穴に指入れんなブッ飛ばすぞっ!」
兄さんが僕の手を取って自分の顔を触らせているらしい。
その感触を頼りにしながら兄さんの顔を見て、自分の目を疑った。
顔に触れていく内に、不思議と兄さんを覆っていたノイズが薄れていったのだ。
顔の輪郭が取り戻されていって、兄さんの顔を初めてしっかり認識できた。
「これでもうわかったやろ。次無視したらただじゃおかんからなっ!」
捨て台詞を吐いたあと、サッカーボールを持って何処かに去っていく兄さん。
本当に気まぐれだったのだろう。
戻ってくる気配は微塵もなかった。
呆然としながらその後ろ姿を見送ると、今度は彩葉を抱いた母さんと父さんがやってきた。
「またあの子は朝葉にちょっかいかけて……いっぺんわからせなあかんな」
「まあまあ。やんちゃ盛りなんやから、大目に見たろ?」
「あーは!あーは!」
周囲の景色は相も変わらずノイズ塗れだと言うのに、三人だけはちゃんと形を持っていた。
兄さんと同じように。
「あーはっ!」
僕の隣に座らされた彩葉が、舌足らずに嬉しそうな声をあげて抱きついてきた。
生まれてすぐ以来に見る彩葉の顔が……本当に愛おしくて。
彩葉だけじゃない、兄さんも母さんも父さんも。
その顔を認識して、ようやく僕は愛することができる。
これは、兄さんが起こしてくれた奇跡だ。
この時から、僕は兄さんをヒーローだと思うようになった。
本人からは若干気味悪がられてるのはわかっていたけど、それでもよかった。
僕は兄さんに救われた。
愛すべき家族の顔が見えるようになった。
これで僕は前に進むことができる。
ようやく両足だけで歩けるようになった頃、僕は決めた。
自分でハッピーエンドを作ろうと。
それは奇しくも、かつてかぐやがした決意と似ていた。
輪廻の円環から切り離されたということは、好きな未来を作ることができるということ。
なら、全ての要素を拾い上げた完璧なハッピーエンドにだって辿り着けるはずだ。
僕はそれを目指すことにした。
最初に考えるべきは父さんについてだ。
元の輪廻では父さんは事故で亡くなり、それが酒寄家に影を落としていくこととなる。
まずはそれを潰す。
色々と不都合が出ることもわかっていたけど、考えを変える気はなかった。
父さんが心から尊敬できる人なのはもう知っている。
家族として愛してしまった以上、生かす以外の選択肢は存在しない。
幸い僕には八千年の中で積み重ねた体術の経験値がある。
子供の身体能力も馬鹿にはできないもので、油断さえしなければ大抵のものから守り切れる自信があった。
だから、反応できた。
それが起こったのは家族旅行中のことだった。
僕と彩葉が小学一年生の頃。
父さんと母さんの休みがやっと重なり、小規模ではあるが念願叶っての旅行。
父さんが浮かれていたわけではない。
単純に反応できない速度で対向車が突っ込んできただけだ。
これに反応しろという方が無茶だろう──来ることを予測でもしていない限りは。
父さんを救うと決めてから、可能な限り外出する父さんに付き纏って周囲を警戒し続けた。
そのせいか周りからものすごいファザコンだと思われてしまったが、別に間違いでもないので気にしてない。
強いて訂正するなら、僕は家族みんなを愛しているのでファザコンではなくファミコンだ。
実質ゲーム機である。
飲酒か居眠りか。
どちらにしろ制御を失った車との真っ向からの衝突は、最新式のエアバッグをもってしても不安しか残らない。
ブレーキ音を認識してすぐに後ろから母さんのスーツの襟を握り締め、できる限り優しく後部座席へ投げ飛ばす。
父さんを投げれる自信は時間的にも筋力的にもなかったので、頭を無理やり下げさせてハンドルとの間に僕の体を捩じ込んだ。
これで少なくとも僕より先に父さんが死ぬことはない。
エアバッグの性能も加味すればかなりの勝率を計算できるはずだ。
父さんの頭に覆い被さるような体勢で一応自分の頭も防御する。
そして、車全体に衝撃が襲いかかった。
彩葉の悲鳴と兄さんの焦った声が響く。
母さんは最も安全な形で二人を抱きしめ、父さんは驚きに支配された目で僕を見つめていた。
当然だろう。
家族の中で最も体の小さい僕が、最も身体の大きな父さんを守っているんだから。
普通は逆だ。
でもこれでいい。
妙な満足感に包まれながら襲いくる衝撃に耐えていると、唐突に右側の首筋に激痛が走った。
どうやら割れた窓ガラスの破片が首を掠めてしまったようだ。
そこそこ大きく鋭い硝子片は、容易に子供の皮膚を切り裂いて滴り落ちた赤黒い血が父さんの頬を伝う。
衝撃が完全に止み、全員の緊張が解けかけるその瞬間──父さんが母さんに何事かを叫んだ。
声は聞こえるはずなのに、その内容を頭が上手く処理してくれなかった。
最初は困惑したような表情の母さんだったが、僕と目が合うと血相を変えながらスマホを取り出した。
彩葉と兄さんは僕を見て泣きながら何かを言っている。
父さんの顔を見る。
多分、初めて見る顔をしていたと思う。
そこには、生き残れたことへの喜びや安堵なんてものは微塵も含まれてなくて。
後悔と恐怖と自己嫌悪などを綯い交ぜにしたような顔があった。
僕が自分を彩葉の弟だと確信した時は、きっと同じような顔をしていたんだと思う。
僕は、みんなにこんな顔をさせたかったわけじゃないんだけどな。
色濃くなっていくノイズに包まれながら、急速に意識が遠のいていった。
まあ、さすがにあの程度で死にはしない。
今までにもっと過酷な状況から生き延びたこともあるのだ。
医療の発達した現代で、そうそう僕が死ぬことはない。
とはいえ、父さんが指示を出して母さんが救急車を呼んでくれていなければ危険だったことも確かだ。
二人には頭が上がらない。
首の傷の治療が終わり退院した後、我が家は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
主に母さんの怒鳴り声によって。
今までで断トツの怒りを見せる母さんはどんな合理的説明でも止まってはくれず、今回ばかりは他三人からも助けは望めない。
父さんに泣きそうな顔で感謝されながら諭された時は僕の方が泣いた。
心が痛すぎて。
彩葉と兄さんからも、それぞれ素直であるかないかの違いはあれどお怒りと心配の言葉をもらう。
……あんな不自然な行動を取った僕に対して、気味悪がらず純粋に心配してくれるこの人達は、本当に優しい。
みんなの幸せを守れた誇らしさを胸に、順調にあるべき世界からズレていっていることへの不安を見ないフリした。
一難去ったからといって僕に休んでいる暇はない。
次に考えるべきことはズバリ『帝アキラといろP生まれない問題』だ。
兄さんと彩葉はそれぞれ家を出た後、ツクヨミで活動を始め頭角を表していく。
……まあ、彩葉に関しては巻き込まれ事故のようなものだけど。
二人が家を出る原因は母さんとの確執だ。
兄さんはもっと込み入ってそうだけど、原因の一つであることに変わりはないだろう。
そして、その確執はこの世界では起こらない可能性が高い。
元々は父さんの死によって、母さんの教育に苛烈さが増したことで生まれる確執だ。
父さんが生きている今起こりようがない。
二人が家を出なければ、ヤチヨとかぐやのハッピーエンドはあり得ない。
最悪、僕が恨まれる結果になったとしても二人が家を出るように誘導しなくては。
……そんなことを考えていたからだろうか。
僕のその望みは、最悪の形で叶えられることになった。
父さんが、再度事故に見舞われた。
なんてことない土曜日。
母さんは仕事で家を空け、兄さんと彩葉はゲームに夢中になっていた。
そんなみんなに甘いものでも買っていってやろうか、と珍しく父さんと二人きりで家を出た。
住宅街を歩きながら、羊羹かアイスか、パンケーキなんてのもいいかもしれない。
そんな話をしながらも、ずっと違和感を感じていた。
父さんが、僕に何かを打ち明けようとしているように見えたのだ。
それは父さんにとって言いづらいことみたいで。
珍しく話す口調に淀みが見えて、結局なんてことない話題に流れる。
そんなことが何回も続いた。
まるで、世界がその話をすることを拒絶しているみたいに。
きっとそれが僕にとって都合の悪い話であることは予想がついた。
でも、逃げることはしたくなかった。
いつも真正面から向き合ってくれるこの人に、僕もできる限りの誠意で応えたかった。
何度目かの沈黙の後、父さんが覚悟を決めた顔で口を開いた瞬間。
トラックのクラクションが間近で鳴り響いた。
顔を向けるまでもなく、父さんを助けるために思考を巡らせる。
しかし、あまりにもトラックとの距離が近過ぎた。
父さんとの距離は、子供の足では走っても埋められない。
いくつかの案が浮かんでは現実的ではないと判定を下し、焦りに思考が埋め尽くされる直前。
肩への軽い衝撃で、身体がフワリと宙を浮いた。
驚いて衝撃を受けた方向を見ると、いつの間にか間近に来ていた父さんが微笑みながら僕を突き飛ばしていた。
そこで初めて、僕もトラックの進路上にいたことを認識した。
耳障りなブレーキの音、重いものが衝突する音、ゴロゴロと何かが転がる音。
突き飛ばされて無様に地面を這いつくばっていても、音だけで何が起こったか容易に想像することができた。
急いで立ち上がり、音のした方向へ駆け出す。
──視界にノイズが走っている。
アスファルトとタイヤが擦れた独特の匂いに、過去何度も嗅いだ血生臭い匂いが混じっている。
──ノイズがどんどん濃くなっていく。
かなりの距離を飛ばされたのか、道路には点々と赤黒い何かが垂れていた。
──ノイズが、視界を埋め尽くす。
それを辿った先で──父さんを見つけた。
ノイズが支配する世界で、唯一父さんだけがはっきりと輪郭を持っていた。
口からは血が流れ、転がってアスファルトに擦ったのか顔中に細かい傷がいくつもある。
黒のワイシャツのせいでわかりにくいが、胴体からもかなり流血していた。
一目見た瞬間に確信する。
この人はもう助からない。
ここで死んでしまう人なんだと。
何故父さんは車に轢かれたんだ?
運が悪かったから?
今日死ぬべき人だったから?
そういう運命だったから?
違う。そんなわけがない。
僕が油断していたからだ。
僕が油断しなければ父さんを救うことができた。
トラックが突っ込んできても、凶器を持った人に襲われても、空から鉄骨が降ってきても父さんを守れたはずだった。
僕が父さんを見殺しにしたようなものだ。
結局僕はわかっていなかったんだ。
運命のないまっさらな世界では、一度救ったくらいで死の可能性がなくなるわけじゃない。
人が死ぬ要因なんて、世界にはいくらでも転がっている。
首筋に走る名誉の負傷が、自分の愚かさを証明する滑稽な刺青になって。
僕はその日、酒寄朝葉として二度目の絶望を味わった。