あれだけ望んでいた三連休は突然降って湧いた育児というタスクによって砂の城のように崩れ去った。
三時間おきのミルク、慣れないオツム替え、原因不明の爆音鳴き声。
今でこそ以心伝心レベルで赤ちゃんの伝えたいことがわかる私だが、最初の内は選択肢を潰していくしかなかった。
必死に作ったミルクには目もくれず泣き続け、少し揺すっただけで上機嫌に眠り出した時は哺乳瓶を握り潰しそうになった。
全国のお母様は悟りでも開いているのだろうか?
それでも赤ちゃんの幸せそうな寝顔を見ていると全て許してしまう自分に呆れる。
私ってもしや結構チョロい?
約束してくれた通り、朝葉もかなり協力してくれた。
いや、協力などと生温い言葉は使えない。普通に主力だった。私と朝葉の二枚看板である。
赤ちゃんと触れ合うような作業はできるだけ私がやるようにしたけど、逆に言えばそれ以外の家事はほとんど押し付ける形になってしまった。
申し訳ない気持ちもあったけど、本人が楽しそうにしていたのは救いだ。
むしろ親の自覚すら芽生えていそうな様子で、鼻歌混じりにミルクを作る姿なんかは完全に育児に協力的な旦那……いや、やめよう。
さすがに弟にそのイメージを当て嵌めるのはなんかイケナイ気がする。
そういえば、私と朝葉は人生初の修羅場を経験した。
この育児自体が修羅場と言えばそうなのだが、人間関係的な意味で特大の事件があったのだ。
あれは三連休の真ん中。
諸々の作業にも慣れてきて、気晴らしに散歩にでも行こうかと二人で赤ちゃんを連れて近所を歩いていた時だ。
それはもう、本当に偶然。
それこそ転校生の美少女と角でぶつかるくらいの運命的な出会いを果たしたのだ──芦花と。
……うん、確かに美少女だ。
おまけにするのが失礼なくらい優しい性格なのも知っている。芦花と角でぶつかれる運命の人はさぞや前世で徳を積んだのだろう。
しかし、よりにもよって今の私達じゃなくてもいいだろう。
これは私達二人の共通した思いだったと思う。
「……………………えっ」
「ろ、芦花?あのね?これには山よりも深くて海よりも高い理由があってね?」
「彩葉、謎かけみたいになってるよ」
私達の顔と赤ちゃんを交互に見ながら口をパクパクさせる芦花を前に、必死で言い訳を組み立てようとする。
しかし、分が悪い勝負であることはわかっていた。
「……わ」
「「わ?」」
「わ、私!何があっても二人とその子の味方だからっ!」
一息に距離を詰めて私達の手を握りながらそう宣言する芦花。
最初に出てくるのがその言葉なあたり、本当に優しい子なのだと再認識した。
ただ、今だけはその優しさが私達を社会的にヤバい存在へと押し上げているのだが。
「芦花落ち着いて!お願いだからっ!」
「ほ〜ら芦花ちゃん。この子の髪と目の色見える?どっからどう見ても僕達と違うよね?」
「……そっか。血縁を隠すためにカラコン入れて髪染めてるんだ」
私と朝葉の子供という前提を信じきってるせいで話が一切通じない。
こ、こんな芦花今まで見たこと……。
瞳にぐるぐると螺旋を描く芦花に事情を説明するのは途轍もなく骨が折れた。
とりあえず親戚から預かって少しの間面倒を見ている赤ちゃん、という設定にしておいた。
最終的に納得してくれたようで「子持ち、子持ちかぁ……いや、むしろそれも……」と何事かを呟きながら帰路についていた。
その背中を朝葉が憐れみの表情で見送っていたことが印象的だった。
……さて、そろそろ現実逃避は終わりにしよう。
現在時刻は深夜二時前。
朝葉は自分の部屋に戻って寝ているはずだ。
私もミルクの時間までは寝れるので布団にくるまって明日からの学校に備えていた。
そんな時、見知らぬ少女からのミルクの催促によって起こされた。
いや、見知らぬではないか。
髪や目の色が特徴的だし、何より三日間も昼夜問わずお世話してきたのだ。今更間違えることもない。
赤ちゃんは、三日で少女へ成長した。
元々成長が異次元に早いことはわかっていた。
そもそもが電柱から出てきた子だ。まともであるはずがないという前提はあった。
しかし、これはある意味私にとって福音でもある。
「お引き取り下さいっ!」
「……どゆこと〜?」
赤ちゃん用品を段ボールに詰めて少女に差し出す。
そんな私の行動の意味を図りかねているようだった。
何でだよこの状況なら一つしかないだろ。
「ってか怖っ!何ですぐデカくなってんの怖っ!」
「んー。まあ、今時は何もかものスピードが早いんですわ」
「得体の知れないものは、お断り!」
ふざけたことを抜かす少女の腕を引っ張って外に追い出そうとする。
赤ちゃんだったから面倒を見たのだ。
今の少女はどう見ても十歳には達している。言葉も話せるようだし、いい加減ご退場願おう。
しかし、少女も思いの外粘る。
「やだー!」
「ちょっと、動いてよ!」
「いーやーだー!」
超早めのヤダヤダ期にでも入ったのか、綱引きのように体重を掛けて退場を拒否する。
もう本気で引っ張ってやろうか、という思考が頭をチラついた時。
「痛い痛い痛い!」
「あ、ごめん」
「ああああああー!」
痛みを訴えられ思わず手を離すと、体重を掛けていた反動で後ろにゴロゴロと転がる少女。
聞いてるだけで痛そうな音とともにアルミサッシに頭を打ちつけて半泣きになっている。
「大丈夫!?」
「頭痛い〜!助けて〜!」
──助けて?そないなこと気軽に言えるのが私の娘やなんてほんま驚きやわ。
お母さんの声が聞こえる。
気力とか体力とか勢いとかがごっそり抜け落ちたような気がして床に座り込んでしまった。
その時、グ〜と腹の虫が少女から響いた。
そして共鳴するように私のお腹からも響く。
「たすけて〜〜〜?」
こいつを拾った日に絆されかけた、まんまるな真紅の瞳で上目遣いに助けを求められる。
何となく、予感がした。
この瞳にこれから振り回され続けるという最悪の予感が。
「掴まり立ちとよちよち歩きを見れないのは残念だなぁ」
夜遅くに悪いかと思ったが、連絡が遅れてトラブルになるよりかはマシかと朝葉を召喚した。
そしたら、成長した少女を見て一言目にこんなことを言うのだから、少女のふざけた言動はこいつ由来なんじゃないかとすら思う。
「五食分……てか、二時だぞ二時」
想定外の出費に益のない言葉をぼやきながら、コンビニで買ってきたオムライスと無料(重要)で手に入れたまかないのタコライスを温める。
少女にオムライスを差し出して料理名を教えてあげると「んまっ!なにこれっ、オムライス大好きっ!」とものの見事に夢中になっていた。
朝葉は自分の部屋から十秒でチャージできそうなゼリーを五つほど持ってきていた。……多くない?
「なにそれ?」
「兄さんがスポンサーから大量に送られてきたらしいんだけど、処理に困ってるから貰ってくれって。彩葉もいる?」
「……いや、やめとく」
「ん、ひょーはい」
ゼリーを啜りながら何でもないように返答してくれる。
意地を張っている自覚はある。それでもここまできたら簡単に誰かを頼れない。
まあ、不必要な物の在庫処分が頼る判定になるかは議論の余地があるけど。
朝葉との育児?あれはノーカンで。
……さすがに冗談だ。感謝してもしきれない。
しかし、朝葉は言ってしまえば頼れば応えてくれる確信があった。
それでもあれだけ心が揺れたのだ、他の人を頼ることなんて今の私には不可能だった。
「なにそれ?ぜりぃ?」
「食べてみる?」
新しいゼリーの蓋を開けて少女に差し出し、自分でも啜って見せてあげる朝葉。意外と歳下の弟妹がいれば可愛がったのかもしれない。
最初は首を傾げていた少女も、ちゅるちゅると啜りだすと再び目を輝かせた。
「甘っ!冷たっ!ゼリーうまっ!」
「もっといる?」
「ほしいっ!」
残った三つが少女に差し出される。
グレープフルーツ、ブドウ、マスカットと味の種類を分けてきたあたり、この展開を読んでいたのかもしれない。
「あんまり甘やかさないでよ」
「いいじゃん。僕が死んだ顔して食べるよりゼリーも喜ぶよ」
よくわからない言い分を持ち出されて小さいため息が出る。
「あなた、どこから来たの?」
「んっ」
ゼリーパックの飲み口を咥えながら当たり前のような顔をして、少女は月を指さした。
……もう、色々考えないようにした。
朝葉はというと──
「天の御使い説を推してたけど月かぁ。予想が外れたね」
話がややこしくなるから黙っていてほしい。本当に。
地球にやってきた理由を聞くと、何やら月は超つまらないところらしく楽しそうな地球に逃げてきたのだという。
あまりの能天気さに思いっきり顔を顰める私とは対照的に、朝葉はびっくりするくらいの大声をあげて笑っていた。笑い事じゃないんだが?
「あのさ、これに心当たりは?」
「なにこれ?」
「竹取物語」
ヤチヨの配信をつけていたタブレット端末を操作し、竹取物語のページを開く。
細かいところは違い過ぎるが、大枠で見た時にあまりにも共通点があるのも確か。
概要をかなり端折って説明するが、途中でタコライスを(不本意ながら)あげたり翁を私呼ばわりする暫定かぐや姫を月までぶっ飛ばそうかと思ったりと紆余曲折あった。
最終的になんもわからん、という結論が出る。
物語がバットエンドであることに大層ご立腹な少女に、今までの勝手気ままな振る舞いで溜まっていた私の鬱憤が少しだけ晴れた時だった。
「ねぇ彩葉〜」
「なに?っていうかなんで私の名前……」
「この人だれ〜?」
朝葉を指差しながら少女が問う。
そりゃ知るわけないよね。私の名前を知ってるのが意味わかんないんだもん。
「私の双子の弟。名前はあ──」
「っと、ごめん」
私の声を遮るようにして朝葉がスマホを取り出した。
「仕事の連絡だ」
「え?こんな深夜に?」
「フリーランスなんて深夜連絡上等だよ。一旦席外すね」
私の返事を待つこともなく扉を開いて外に出る。
妙に足早だったが……まさか、芦花から連絡が来たりしたのだろうか?(クソボケ)
◇◇
夏の夜の生温い風に吹かれながら、彩葉の部屋の前に設置された柵に身を預ける。
すでに空になったゼリーのパックに息を吹き込んで膨らませたり萎ませたりしながら暇を潰す。何の意味もない行動だが、何もしないよりかはマシだった。
家賃三万円代のボロアパートに備え付けられた薄い扉の防音性能はたかが知れていて、中にいるのが姦しいうら若き乙女達ならばなおさら声は通りやすい。
『よしっ決めたっ!自分でハッピーエンドにする!そんでハッピーエンドまで彩葉も連れてく!一緒にっ!』
そんな、普通の人が聞けば笑うか呆れてしまうような少女の言葉が部屋の中から響いてきて。
ざわついていた心に陽光が差したような気分になった。
……もうそろそろいいだろう。
ゼリーのパックを用済みとばかりに完全に萎ませ、遊んでくれた感謝を込めて二十メートルほど離れた位置にあった道路のゴミ箱に投擲する。
狙い違わず回転しながらゴミ箱に吸い込まれたパックを見送ったあと、インターホンを押してから彩葉の部屋に戻った。
視界には、今日も一杯のノイズが走っていた。