家から一歩外に出れば、身を締めつけるような冷たい風が吹き抜ける。
こんな寒さの中でも乙女の意地で肩もお腹も出した服を着た甲斐あって、朝葉から一通りの褒め言葉をもらうことができた。
まあ、何着てても褒めてはくれるんだろうけど。
ついでに「それ、ほんとに寒くないの?お腹にカイロ貼る?」というお年寄りみたいな心配の仕方に若干呆れながら始まった朝葉とのデート。
しかし、予想通りと言えば予想通りのことが起きた。
「か、かぐや?手を繋ぐのはいいけど、腕を組むのはやめよう……?」
「ん?やだ♡」
「お願い……」
「や〜だっ♡」
顔を青くしながら生まれたての子鹿のように小刻みに震える朝葉からの懇願をバッサリと切り捨てた。
その勢いのまま更に強く腕を絡めて、反射的に距離を取ろうとする朝葉の手首を逃げないように捕まえる。
「さっきはいいよって言ってくれたよね?『男に二言はない』んでしょ〜?」
「今から女の子に生まれ変わることとかってできませんかね……?」
「朝葉が女の子だったら一緒にお風呂入れるね!」
「男に生まれて本当によかった……」
そんなやり取りを何度か繰り返す内に朝葉は何も言わなくなり、虚な瞳でアスファルトの小石の数を数え始めた。
そんなに恐いもんかな……?
しばらくして、ようやく最低限の慣らしができてからデートを本格的に再開したわけだけど。
「今日は目の調子どう?日差しも強いし、気分が悪くなったらすぐに教えてね!」
「大丈夫だよ、ありがとう」
「うわ、今の車危なっ!朝葉はこっちいて、私が車道側歩くから!」
「あっ、はい」
「……なんか、さっきから女の子にチラチラ見られること多くない?絶対朝葉のこと見てるよ!誘われてもついてっちゃダメだからね?」
「……ウン」
何故かデートが進むにつれて朝葉がしおしおになっていく。
ずっとくっついてることによる精神的ダメージもあるだろうけど、それにしたって消耗が早いように感じる。
珍しくしっかりオシャレしてくれた朝葉は、暗い色合いのシャツとズボンが細身な身体のシルエットを際立たせており、いつもと全然雰囲気が違う。
朝葉曰く『もらったはいいが怖くて値段を調べられないお下がりのコート』の質の良さも相まって、童顔の朝葉でもかなり大人っぽく見えた。
本人は「兄さんに比べて背が低すぎる……」って嘆いてたけど、言うまでもなく似合ってるしすれ違う女の子からも頻繁に視線を受けている。
それなのに、本人の自覚があまりにもないもんだからそりゃあ心配になってしまう。
どうしてこう危なっかしいところばっかり彩葉に似てるんだろう。
前に学校では全然モテてないとか言ってたけど、朝葉と彩葉のそういう感性は信用しちゃいけない。
実際、芦花と真実に聞いてみたら苦笑いしてたし。
目的地のカフェに着いてからも朝葉が回復することはなく、むしろ余計萎びているように見えた。
どうしたんだろう?ただこのあたりで一番カップルに人気なお店を選んだだけなんだけど。
「あの、エスコートしてくれるのはすごく嬉しいんだけどね?ちょっと日本男児としての威厳とかプライドとかが絶滅の危機に瀕しちゃってるといいますか……」
席に着いて一息ついたタイミングで、疲れたようにそんなことを言い出した。
「彩葉に何回も喰べられてるのに威厳なんてあるの?」
「語弊がすっごいなぁ……」
「いやまあ事実なんだけどね……?」と煤けた笑みを浮かべながら遠くを見つめる朝葉に首を傾げる。
よくわからないけど、とにかく元気がないらしい。
お昼時だし、きっとお腹が空いているせいに違いない!
「すいませ〜ん!注文お願いします!」
元気のいい返事と共にオシャレなエプロンを着た可愛らしい店員さんがやって来る。
相談せずにいきなり呼んだからか、朝葉は急いでメニュー表を手に取った。
「えーと……」
そしてメニュー表を広げてから少し目を走らせて、困ったように何ともいえない顔をしている。
『本音を言えば味も分からないしもったいないから食べなくてもいいけど、デートで来た以上何かしら注文しないとな……』の顔だ。
多分この後一番安いメニューを頼む。
最近の朝葉は本当に表情がわかりやすくなった。
それだけ心を開いてくれてるんだと勝手に解釈してるから悪い気はしないけど、どうせなら形だけでも楽しんでほしい。
「これ!この大盛りクリームパスタとクソデカカツサンドで!」
「か、かぐや?」
「あと食後にデラックスパフェ持って来てください!」
「かぐやさん?」
目についた美味しそうな物を適当に注文して、笑顔でお辞儀する店員さんを見送った。
それから程なくして注文していた料理が届いた……けど。
「デッッッ……!」
「いや、ほんと大きいね。なんでデートスポットでこんな大食いチャレンジみたいなの出てくるんだ……」
「これはパフェも覚悟しといた方がいいかも」と呟いて、この惨状を生み出した私にチラリと視線が向けられる。
なんだその目は!
私が悪いとでも言うのか!
その通りですごめんなさい!
「朝葉ってさ……男の子だよね?」
「昨今その手の発言は気をつけた方がいいよ。あと、主食がゼリーだった奴に過度な期待はしないでね」
「ぴえん」
「……まあ、できるだけ頑張るよ」
心なしか冷ための朝葉に泣き真似を一つ挟めば、仕方なさそうにカツサンドが載った皿を自分に寄せた。
姉弟揃ってクソチョロすぎない?
……さて。
実は、このカップルに人気なお店を選んだのには理由がある。
コズミックプリンセスかぐやには狙いがあった。
クリームパスタをフォークで一口分程度に巻き取ってから、それを朝葉に向けて差し出す。
そして、こういう状況のお決まりを口にした。
「はい、あ〜ん!」
「え゛……」
分厚すぎるカツサンドとの死闘を始めようとしていた朝葉は完全に予想外だったのか、動きが一瞬固まった。
そして助けを求めるように周囲に目線を向けるけど、残念ながら店内は似たような雰囲気の男女が大多数を占めている。
朝葉に逃げ場は存在しない。
「ほ〜ら、冷めちゃうよ?」
「……いただきます」
少しの間を空けてから、覚悟を決めたように小さく息を吐いて私のフォークを口に含んだ。
おお……なんか餌付けしてる気分になる、可愛い。
地球に来たばかりの頃は私が朝葉に餌付けされていたから、逆の立場になってて何だか感慨深い。
朝葉は普段何気なく差し出したものは躊躇いなく食べるけど、こうして意識させてから食べさせようとすると抵抗されてしまう。
恥ずかしがってるというより、道理?とか倫理?とかを色々気遣ってのことだというのは何となくわかる。
でも、今日はどうしても朝葉にあ〜んしたい気分だったからあらかじめ計画を立てておいた。
だからこういうカップルに人気なお店を選ぶ必要があったんですね。
ここならこれくらいで目立つことはないし、むしろ下手に躊躇した方が生暖かい視線を向けられてしまう。
朝葉もそれをわかってるからこそ素直に食べてくれたんだろう。
口元に手をやって小さく咀嚼するお上品な食べ方を披露した後、何度か小さく頷いてからパスタを飲み込んだ。
「お味はどう?」
「うん、クリーミーだけどしつこくないし塩気もちょうど良くて食べやすいね。美味しいよ」
「へぇ……実際は?」
「なんかこう、すごく食感の良い白滝」
「全然味わかってないじゃんっ!」
味覚はそう簡単に治るものじゃないらしい。
何度か彩葉に引き摺られて病院に行く姿も見たけど、根気強く付き合っていくしかないみたいだ。
「……やっぱり、こういうところに僕と来ても楽しくないんじゃない?」
「え?死ぬほど楽しいけど?」
急に何言い出してるんだろうこのあんぽんたんは。
「でも、味の感想とか共有できないし……」
「そんなの関係ないよ」
こういうところで変に弱気になるところは、少しだけヤチヨに似ているかもしれない。
「味覚がどうとかじゃなくてさ、朝葉と一緒にご飯を食べれるのが楽しいし嬉しいの!朝葉は退屈だった?」
「そんなわけないでしょ?かぐやといて退屈だったことなんて、一瞬だってなかったよ」
「え、えっへへ〜!まあ、かぐやちゃん天才ですから?退屈なんてさせるわけないよね〜!」
タチカワテンネンヒトタラシによる思わぬ一撃で一瞬体勢を崩しかけてしまった。
しかし、そこは経験豊富なつよつよかぐやちゃん。きっちり立て直して見せましたとも。
……まあ、そんなことより先に気にするべきことがあるんだけどね。
「じゃあ、これも半分食べてくれる?」
「とりあえず、お腹を壊さない程度には頑張ってみようね」
「ぴえん……」
結果から言うと、パスタとの死闘には勝利した。
そのかわり、数時間に渡ってぽっこりとしたお腹を晒したことで乙女としての尊厳は失った。
朝葉のお腹は別に普通だったのに……四次元ポケットでも持ってるのかもしれない。
「いや〜!遊んだ遊んだ!」
「……若いって羨ましいなぁ」
楽しい時間というのはあっという間で、日も完全に落ちたことで寒さに更なる上方修正が入る。
そして、徒歩で行ける範囲で遊びまわってお腹も落ち着いてきた頃、心なしか草臥れた様子の朝葉が歳に似合わないような言葉を溢した。
「朝葉も十七歳でしょ?」
「いやいや、僕はとっくの昔に年老いたおじいちゃんだよ」
「本物のおじいちゃんはあんな化け物みたいなカツサンドを完食してからパフェまで食べきれないよ」
「若い身体ってすごいよねぇ……」
シレッとさっきとは真逆のことを言う朝葉がおかしくて、思わず吹き出しそうになる。
そんな私を穏やかな顔で眺めながら、朝葉は静かに口を開いた。
「……ねえ、かぐや」
「ん?なに?」
何となく、雰囲気が変わった。
口調にも態度にも変化はないのに、雰囲気だけがさっきまでとは少しだけ違かった。
「前に言ったことがあったよね?『僕はまともな人間じゃなかった』って」
「……うん、そんなこともあったね」
忘れるはずもない。
卒業ライブの終盤、朝葉が突然現れて放ったいくつもの衝撃発言の内の一つ。
あの時は意味がよくわからなかったけど、今思えばあの発言はあやふやな存在である自分への朝葉なりの自虐だったのかもしれない。
あんな場面で言われてる側がわからない自虐をするのはやめてほしい。
「かぐやから見て、今の僕って……
「う〜ん……」
どっちだと思うか、か。
具体的な単語はなくても、何を指した言葉なのかはすぐにわかった。
月人か人間か、あるいはそれ以外の何かなのか。
見た目だけで言えば人間だし、感情を持っているという点でも人間だと思った。
けど、わざわざこんな質問をしてくるってことはきっと朝葉はそう思っていない。
まあ、確かに朝葉は月人にしては人間に近すぎるし、人間にしては欠けてるものが多い。
そういう意味ではどっちでもないのかもしれない。
でも、そんなこと私にはどうでもよかった。
「朝葉は朝葉じゃない?」
結局、それ以外の答えを私は持っていない。
朝葉が何者であろうと、私は私が見てきた酒寄朝葉という人しか知らないのだから。
「人間とか月人とか関係ないっしょ?初めて会った時から、朝葉はずっと朝葉だったよ」
「……そっか」
私の言葉に驚いた様子もなく、ただ噛み締めるように頷いてからいつも通り笑顔を浮かべて頭を撫でてくれた。
「ごめんね、変なこと聞いて」
「全然いいよ!」
撫でてくれていた手を取って、その温度を確かめるようにさわさわと輪郭をなぞってから指を絡める。
「彩葉とかヤチヨだけじゃなくてさ、かぐやのこともたくさん頼って?」
「……かぐやには、もう何回も救われてるよ」
繋いだ手が、痛みを感じない程度に強く握られた。
今日一日ほぼずっと繋ぎっぱなしだった朝葉の手は、もう震えていない。
不意打ちで抱きついてみてもあんまり硬直しなくなったし、これは作戦成功ということにして良いかもしれない。
「さて!質問に答えてもらったお礼しなくちゃね。何か欲しいものとかある?」
「え!いいの!?」
パッと顔を明るくした朝葉に乗っかるように声を弾ませる。
これは嬉しい誤算だ。
今日一番の目的が達成できてなかったから、朝葉の方からその機会をくれたのはこれ以上なく都合が良い。
「実は前からほしかったものがあるんだよね〜!」
「へぇ〜、なんだろう。上納金とか?」
「違うよ〜!とにかく、一旦こっち来て?」
「ん?うん」
御誂え向きに人気のない小さな公園を発見したので、朝葉の腕を引いて柵を跨ぐ。
本当に小さな公園で、殆ど人が来ないのか小ぶりなブランコには砂埃が溜まっていた。
ポツリと淡い光を放つ街灯だけが頼りの薄暗いその場所で、朝葉と向かい合う。
しばらくあたりを見渡していた朝葉が、困惑したような目線を私に向けた。
「それで、かぐやの欲しいものって?」
「うん、私はね──」
私のほしいもの。
というより、それを
「私は、朝葉のファーストキスがほしい」
私の言葉を最後に、その場を静寂が支配する。
朝葉は少し俯いていて、公園の薄暗さもあってその表情はわからない。
さて、どんな反応をするかな。
顔を真っ赤にして照れるのか、それとも驚いて慌てふためくのか。
抑えきれずに口の端をニマニマさせながら様子を伺うと、朝葉が見せたのはそのどちらとも違う反応をだった。
相変わらず表情はわからないけど、半歩分だけ私と距離を取ってからゆっくりと腰を下げる。
そして地面に両膝をついた朝葉は、深々と私に頭を下げながらゆっくりと左手を差し出した。
「指一本で、勘弁してもらえないでしょうかっ!!」
「いらないよそんなの」
「そんな、姐御……!」
「誰が姐御じゃい」
朝葉渾身の懇願を、私はまたしてもバッサリと切り捨てた。
いや、流石にいらないは言いすぎたけど、わざわざ切り離してまで欲しくはない。
繋がってた方があったかくて好きだし。
というか、キスするよりも指なくなる方がいいってかなり失礼では?
もしかして、私は今乙女として朝葉にとんでもない侮辱を受けている……?
「僕のファーストキスとか、八千年熟成させててカビ生え散らかしてるからやめとこ?」
「いいね!腐りかけが一番美味しいって言うし!」
「腐りかけとかじゃ済まないよ?」
そんな言い合いをしながら、ふと思う。
……朝葉って、八千年の中で一回もキスしたことないんだ。
私はあくまで『朝葉』のファーストキスをもらおうと思ってたけど、まさか八千年全部でのファーストキスになるとは。
……余計ほしくなったな。
朝葉はどうにかして私の気を変えようとしてるみたいだけど、先にほしいものを聞いてきたのは朝葉の方だし、私が折れる気はない。
それに、これが今日一番の目的でもあったから。
久しぶりに二人きりでお出かけもしたかったし、自然と離されてしまう距離を縮めたかったのも本当。
あ〜んだってしてみたかったし、のんびり話しながら歩くのだって楽しかった。
でも、突然こんな荒療治に踏み切る決断をしたのは別の理由。
朝葉に『私』を特別だと思ってほしかった。
彩葉は私を大切のすごく深い場所に置いてくれてる。
ヤチヨは多分私とこの世で最も繋がりが深い相手。ほぼ同一人物だし。
じゃあ、朝葉は?
朝葉にとっての『私』はなに?
彩葉は双子。
ヤチヨは八千年も一緒にいた。
黒鬼は最推し。
芦花や真実とだって友達としての繋がりがある。
けど、私には何もない。
積み重ねた時間も、血の繋がりも、何もない。
だから、私もほしかった。
朝葉にとっての特別になれるような何かが。
「ね?お願いだから、朝葉のファーストキス頂戴?」
「いけません!そういうのは恋愛的な意味で本当に好きな人にしてもらいなさい!」
「え〜?ドラマでは家族でも普通にしてたよ?」
「……ん?」
私は自分の右頬を指で軽く突ついてから朝葉に笑いかけた。
「ここだよ♡」
「……あ〜、そういう感じね」
心底安心したように大きく息を吐いた朝葉は、それから気を取り直すように咳払いして私に向き直った。
「いや、それでも彩葉より先にそんなことするわけには……」
「彩葉にはもうしてもらったよ?」
「あら、そうなの……え?待って聞いてない」
「そりゃ言ってないもん」
「そっか……彩葉、がんばったんだね……」と薄く涙を浮かべる朝葉にジト目を向ける。
別に演技してるわけではないんだろうけど、この流れでさっきまでの話をなかったことにしようという魂胆が見え見えだ。
そんな簡単に逃げられると思わないでほしい。
「ねえちゅ〜してよ〜!ほっぺで妥協してあげるから〜!」
「ほっぺ以上があるみたいな言い方しないで?ないから、家族にほっぺ以上はないから……いや、ほっぺもまずいよぉ……」
こうなれば、ここから先は根比べだ。
そして、根比べにおいて私に勝てる人間は存在しない。
私は本気でほしいものの為なら八千年耐えられるとヤチヨが証明しているのだから。
「ふ〜ん?朝葉は私のこと大事じゃないんだ〜?悲しいな〜?『家族』なのに、スキンシップの一つもしてくれないんだ〜?」
「くっ……かぐやは、家族……ヤチヨの教えは……でも、姉さんへの不義理が…………グ、ギギッ」
「あ、壊れた」
まるで正反対のプログラムを同時にぶち込まれた機械のように、異音を発しながら頭から煙を噴き出してしまった。
そして、そこから数秒ほどかけて復帰してから両手で軽く自分の頬を叩いて。
最後には、やっぱり諦めたように笑ってくれた。
「き……キス、すれば満足してくれる?」
「うん。それで、朝葉の特別になれるから」
「……かぐやも最初から特別なんだけどなぁ」
朝葉は「下手でも文句言わないでね……?」と前置きをしてからゆっくりと歩いてきて、私たちの距離はほとんどなくなった。
目の前に朝葉の顔がある。
本当に、彩葉そっくりだ。
身長も彩葉より少し高いくらいだし髪の色も一緒。
……羨ましいな。
どっちが、という話じゃない。
生まれた時から持っている二人の繋がりが。誰が見ても分かる家族の証明が羨ましいと思った。
私も少しは見た目を変えられるけど、それは生まれ持った繋がりとは違う気がしたから。
二人は、きっとお互いを特別に想い合ってる。
それを、私も欲してしまった。
大好きな二人の特別になりたいと願ってしまった。
朝葉が私の肩に手を置きながら少しだけ身を屈めて、更に顔が近くなる。
男の子の顔がこんなに近くにあるのは初めてだけど、思っていたより全然怖くなかった。
だって、朝葉だし。
むしろ朝葉の方がこの状況を怖がってそうで、笑いを堪えるのが難しいくらいだ。
目を閉じる。
あとは、朝葉に委ねようと思ったから。
肩に置かれた手がピクリと小さく動いて、それから覚悟を決めたように少しだけ力が込められる。
これから来るであろう頬への感触に集中しようとして──ふと、手が置かれた方とは逆の肩に何かが触れた。
とても軽くて柔らかい何か。
その正体が分からなくて、一度目を開く。
私の目に映ったのは、軽く一掴み分の私の髪を手に持って、そこに優しく唇を落とす朝葉の姿だった。
「……とりあえず、これで許して」
持っていた髪をゆっくりと戻してからへなへなと近くの街灯にもたれかかる朝葉は、心底疲れたようにそう言った。
「……これって、朝葉のファーストキス?」
「少なくとも、こんなことしたのは初めてデス……」
「八千年で?」
「ハイ……」
遺言のようにそう呟いてから、朝葉は口から魂を吐き出した。
完全に体重を掛けられた古い街灯が、ギィと小さく音を鳴らす。
「そっか……えへへっ」
朝葉からもらった初めて。
そして、彩葉にもらった初めて。
二人がこれからどんな人生を歩もうと変わることのない、私だけの特別。
私だけの。
「んっふふ〜!ねえ、今日は一緒に寝よ?」
「勘弁してください……」
「え〜?いいじゃ〜んちゅーもしたんだし〜!」
「その言い方、他の人の前では絶っっっ対にしないでね?」
「万が一彩葉にバレたらラグナロクが起こる……」と胃が痛そうな顔をする朝葉に、わざと拗ねたような態度で腕を絡める。
「ブ〜!……じゃあ、帰ってからもくっついてていい?」
「まあ、そのくらいなら」
「やったー!」
くくく、掛かったな(黒幕)
超天才かぐやちゃんのドア・イン・ザ・フェイスによってまんまと要求を通したクソチョロ朝葉は、そうとは知らず安心したように微笑んでいる。
そもそも、一緒に寝るのなんて勝手にベッドに潜り込めば良いだけなのだから許可なんて必要ない。
だったら堂々とくっつける大義名分を手に入れる方が都合が良いというものだ。
朝葉はそんな思惑があるとは露とも知らずに、一先ず今日を乗り切ったことに安堵している。
その束の間の平穏を精々楽しむがいいさ(魔王)
それから朝葉は、家に帰って彩葉の顔を見るなり無言で土下座して彩葉を困惑させていた。
そしてその数日後、こっそり朝葉のベッドに忍び込んだら、まるで怪異にでも襲われたかのような悲鳴をあげられてしまった。
今度はこっちも慣らしていかないとかもしれない。